田中たなかたかどう

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田中たなかたかどう

田中たなか たかどう(たなか たかみち、1848ねん12月13にちよしみひさし元年がんねん11月18にち) - 1924ねん大正たいしょう13ねん4がつ24にち)は、日本にっぽん警察けいさつ官僚かんりょう官選かんせん県知事けんちじ

経歴けいれき[編集へんしゅう]

豊前ぶぜんこくくわだてすくいぐん金田かねだまちげん福岡ふくおかけん北九州きたきゅうしゅう)に小倉おぐら藩士はんし田中たなかたかのぼり(たかのぶ)の長男ちょうなんとしてまれる。1874ねん3月、明治めいじ政府せいふ出仕しゅっし小倉こくらけんじゅうとう出仕しゅっしとなる。史生ふみおとう警部けいぶじゅうさんとう出仕しゅっしなどを歴任れきにん

1876ねん7がつ豊岡とよおかけんじゅうよんとう出仕しゅっしてんじ、同年どうねん9がつ京都きょうとろくとう警部けいぶとなる。1881ねん5月、下京しもぎょう警察けいさつしょちょう就任しゅうにん1883ねん3月、会津小鉄あいづこてつ検挙けんきょした。以後いご京都きょうと典獄てんごく現在げんざい刑務所けいむしょちょう)、内務ないむぞく内務省ないむしょう警保きょく警務けいむ課長かちょう奈良なら県警けんけい部長ぶちょう栃木とちぎ県警けんけい部長ぶちょう福島ふくしま県警けんけい部長ぶちょうなどを歴任れきにん1894ねん9月、京都きょうと府警ふけい部長ぶちょうとなる。1895ねんには、だい4かい内国ないこく勧業かんぎょう博覧はくらんかい平安へいあん遷都せんとせんひゃくねん紀年きねんさい開催かいさいされ、さらに同年どうねん4がつから5がつまで京都きょうと大本営だいほんえいうつされるなど、警備けいびじょう重責じゅうせきになった。

1896ねん12月、滋賀しがけん書記官しょきかん就任しゅうにん1897ねん4がつ石川いしかわけん書記官しょきかんてんじ、1898ねん9月に非職ひしょく依願いがん免官めんかんとなる。1899ねん4がつ静岡しずおかけん書記官しょきかんとして復帰ふっき同年どうねん8がつ警視庁けいしちょうてん警視けいし警視総監けいしそうかん官房かんぼう主事しゅじとなる。1900ねん3月、岐阜ぎふけん知事ちじ発令はつれいされ、同年どうねん10がつ内務省ないむしょう警保局長きょくちょう登用とうようされた。北海道ほっかいどう警察けいさつ巡査じゅんさ看守かんしゅ俸給ほうきゅうれい改正かいせいなどにみ、社会しゃかい民主党みんしゅとう結社けっしゃ禁止きんしなどに対応たいおうした。1901ねん6がつ退任たいにん

1902ねん2がつ山形やまがたけん知事ちじとして復帰ふっき1906ねん7がつ山形やまがた県知事けんちじ休職きゅうしょく1908ねん7がつ27にち休職きゅうしょく満期まんきとなり退官たいかんした[1]郷里きょうり小倉こくらもどり、同地どうち死去しきょした。

栄典えいてん[編集へんしゅう]

位階いかい
勲章くんしょうとう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 官報かんぽうだい7528ごう明治めいじ41ねん7がつ30にち
  2. ^ 官報かんぽうだい4636ごう叙任じょにん及辞れい」1898ねん12月12にち
  3. ^ 官報かんぽうだい5098ごう叙任じょにん及辞れい」1900ねん7がつ2にち
  4. ^ 官報かんぽう号外ごうがい叙任じょにん及辞れい」1907ねん3がつ31にち
  5. ^ 官報かんぽうだい7606ごう付録ふろく辞令じれい」1908ねん10がつ31にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 高橋たかはしつよし田中たなかたかどう」『明治めいじ警察けいさつ研究けんきゅうだい4かん後編こうへん高橋たかはしつよし豺、れいぶんしゃ、1972ねん
  • 歴代れきだい知事ちじ編纂へんさんかいへん新編しんぺん日本にっぽん歴代れきだい知事ちじ歴代れきだい知事ちじ編纂へんさんかい、1991ねん