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小崎おざきとしじゅん

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小崎おざきとしじゅん

小崎おざき としじゅん(こさき としなり[1] / おざき りじゅん[2]1838ねん2がつ12にち天保てんぽう9ねん1がつ18にち)- 1923ねん大正たいしょう12ねん)1がつ31にち[3])は、幕末ばくまつ伊勢いせ亀山かめやま藩士はんし明治めいじ内務ないむ官僚かんりょう官選かんせん岐阜ぎふけん知事ちじ錦鶏きんけいあいだ祗候しこう旧名きゅうめい公平こうへい[2]

経歴けいれき

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伊勢いせこく鈴鹿すずかぐん亀山かめやまこうしつげん三重みえけん亀山かめやま[4]で、亀山かめやま藩士はんしいえまれ、藩校はんこう学問がくもんおさめた[5]

慶応けいおう4ねん7がつ2にち1868ねん8がつ19にち笠松かさまつけん判事はんじ就任しゅうにん明治めいじ2ねん9月25にち1869ねん10月29にちどうしょう参事さんじ明治めいじ3ねん4がつ5にち1870ねん5月5にちどうだい参事さんじて、明治めいじ4ねん11月22にち1872ねん1がつ2にち笠松かさまつけん廃止はいしされ岐阜ぎふけんけん参事さんじ就任しゅうにん[2][5]1873ねん12月28にち村田むらた寿ことぶきけんれい転任てんにんともな参事さんじ昇進しょうしん岐阜ぎふ県庁けんちょう責任せきにんしゃとなる[6]1875ねん7がつ19にちけんれい1878ねん7がつ25にち県令けんれい昇進しょうしん[6]1886ねん7がつ19にち地方ちほうかん官制かんせい改正かいせいともな岐阜ぎふ県知事けんちじとなる[6]

1879ねんけんかい開設かいせつされると、飛騨ひだ選出せんしゅつ議員ぎいん山岳さんがく美濃みの選出せんしゅつ議員ぎいんみずじょう対立たいりつはげしくなった[5]山岳さんがく道路どうろ橋梁きょうりょう増額ぞうがく主張しゅちょうし、みずじょう治水ちすい堤防ていぼう増額ぞうがく主張しゅちょうした[5]1880ねん地方ちほうぜい規則きそく改正かいせいにより堤防ていぼう官費かんぴから地方ちほうぜい支出ししゅつ変更へんこうされ、飛騨ひだ地方ちほうぜい美濃みの治水ちすい支出ししゅつされることにたいして山岳さんがく不満ふまんたかまった[2][5]小崎おざきは、飛騨ひだがわ請願せいがん総代そうだい関係かんけい方面ほうめんへの陳情ちんじょう便宜べんぎはか[5]治水ちすい道路どうろ橋梁きょうりょう均衡きんこうたもつなどの政策せいさくおこなった[2][5]

板垣いたがき退助たいすけ岐阜ぎふ遭難そうなん事件じけん

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明治めいじ15ねん1882ねん)4がつ6にち板垣いたがき退助たいすけ岐阜ぎふ神道しんとう布教ふきょうしょ前庭ぜんていで、テロリストされる事件じけん板垣いたがき退助たいすけ岐阜ぎふ遭難そうなん事件じけん)が発生はっせいしたさいは、国会こっかい開設かいせつ活動かつどう反対はんたい立場たちばから、板垣いたがき医師いし派遣はけんすることを妨害ぼうがいした。しかし、明治天皇めいじてんのう勅使ちょくし西にし四辻よつつじおおやけぎょうがお見舞みまきん医師いしれて参向さんこうあらせらることいて、態度たいど豹変ひょうへん小崎おざきみずからが板垣いたがき見舞みまうも、その豹変ひょうへんぶりにあきれられ門前払もんぜんばらいをらった[7]

西別院にしべついん事件じけん

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1891ねん10月、地震じしんによりおおきな被害ひがいがもたらされ、よく11がつ臨時りんじけんかい開催かいさいされた。その開会かいかいちゅう同月どうげつ24にち震災しんさい救済きゅうさい同盟どうめい岐阜ぎふ西別院にしべついん小崎おざき知事ちじ批判ひはん集会しゅうかいひらき、その鎮圧ちんあつのため警官けいかんたい抜刀ばっとうしたことにより多数たすう負傷ふしょうしゃ発生はっせいした(西別院にしべついん事件じけん)。

震災しんさい復旧ふっきゅう工事こうじ疑獄ぎごく事件じけん

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1892ねんけんかいけん被災ひさいしゃ救助きゅうじょ支出ししゅつ不正ふせいがあったとして決算けっさん不承認ふしょうにんとなり、1893ねん震災しんさい復旧ふっきゅう工事こうじ疑獄ぎごく事件じけん発生はっせいした[5]。このため、1893ねん3がつ22にち知事ちじ依願いがんめん本官ほんかんとなり退官たいかんした[8]

晩年ばんねん

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1894ねん東京とうきょううつ国民こくみん協会きょうかい入会にゅうかいした[5]1897ねん12月28にち錦鶏きんけいあいだ祗候しこうおおけられる[9]。1923ねん旅行りょこうちゅう神戸こうべ死去しきょした[5]

親族しんぞく

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長女ちょうじょ滋子しげこ佐藤さとう三吉さんきちつま[10]三女さんじょ英子えいこ菅川すがかわきよし横浜よこはま貿易ぼうえきしょう菅川すがかわ商会しょうかい社長しゃちょう)のつま[11]よんじょ秀子ひでこ沢山さわやまきよし八郎はちろう長男ちょうなん喜多きたつま[12]むすめ仲子なかご長田ながたあきつまとなった[13]文才ぶんさいめぐまれ、『文芸ぶんげい倶楽部くらぶ』に小説しょうせつ掲載けいさいされたほか、あき濤の『みなみろく』の口述こうじゅつ代筆だいひつおこなった[13]

栄典えいてん授章じゅしょう授賞じゅしょう

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位階いかい
勲章くんしょうとう

逸話いつわ

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1875ねん東京とうきょう神田かんだ古書こしょてん美濃みの俳書はいしょ見出みいだしたことをきっかけに、その復興ふっこうつとめたことから、小崎おざき知事ちじ退任たいにん俳壇はいだん各社かくしゃ送別そうべつ句会くかいひらいている[5]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 明治めいじ時代じだいだい辞典じてん だいいちかん』979ぺーじ
  2. ^ a b c d e 新編しんぺん日本にっぽん歴代れきだい知事ちじ』537ぺーじ
  3. ^ 官報かんぽうだい3149ごう大正たいしょう12ねん2がつ1にち
  4. ^ 地方ちほう長官ちょうかん人物じんぶつひょう』79-82ぺーじ
  5. ^ a b c d e f g h i j k 人物じんぶつ 復刻ふっこくばん』184-186ぺーじ
  6. ^ a b c 日本にっぽん官僚かんりょうせい総合そうごう事典じてん:1868 - 2000』99ぺーじ
  7. ^ 板垣いたがき精神せいしん一般社団法人板垣退助先生顕彰会編纂へんさん、2019
  8. ^ 官報かんぽうだい2916ごう明治めいじ26ねん3がつ23にち
  9. ^ 官報かんぽうだい4350ごう明治めいじ31ねん1がつ4にち
  10. ^ 佐藤さとう三吉さんきち人事じんじ興信録こうしんろくだい8はん [昭和しょうわ3(1928)ねん7がつ]
  11. ^ 菅川すがかわきよし人事じんじ興信録こうしんろくだい8はん [昭和しょうわ3(1928)ねん7がつ]
  12. ^ 澤山さわやま喜多きた人事じんじ興信録こうしんろくだい8はん [昭和しょうわ3(1928)ねん7がつ]
  13. ^ a b 学苑がくえん昭和女子大学しょうわじょしだいがく近代きんだい文化ぶんか研究所けんきゅうじょ, 1960、布施ふせ明子あきこ長田ながたあき濤評でん
  14. ^ 官報かんぽうだい1003ごう叙任じょにん及辞れい」1886ねん11月1にち
  15. ^ 官報かんぽうだい354ごう叙任じょにん及辞れい」1884ねん9がつ1にち
  16. ^ 官報かんぽうだい2207ごう叙任じょにん及辞れい」1890ねん11月6にち
  17. ^ 官報かんぽうだい544ごうしょうくん叙任じょにん」1885ねん4がつ28にち
  18. ^ 官報かんぽうだい1219ごう彙報いほう」1887ねん7がつ22にち
  19. ^ 官報かんぽうだい1929ごう叙任じょにん及辞れい」1889ねん12月2にち

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 歴代れきだい知事ちじ編纂へんさんかいへん新編しんぺん日本にっぽん歴代れきだい知事ちじ歴代れきだい知事ちじ編纂へんさんかい、1991ねん
  • はたいくへん日本にっぽん官僚かんりょうせい総合そうごう事典じてん:1868 - 2000』東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2001ねん
  • 岐阜ぎふけん歴史れきし教育きょういく研究けんきゅうかいへん人物じんぶつ 復刻ふっこくばん人物じんぶつ刊行かんこうかい、1985ねん
  • 歴史れきしかたかい監修かんしゅう執筆しっぴつ歴史れきし人物じんぶつ岐阜新聞社ぎふしんぶんしゃ、2009ねん
  • 宮地みやじ正人まさと佐藤さとうのうまる櫻井さくらい良樹よしきへん明治めいじ時代じだいだい辞典じてん だいいちかん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2011ねん
  • 大岡おおおかつとむ地方ちほう長官ちょうかん人物じんぶつひょう長島ながしま為一ためいちろう、1892ねん