物語ものがたり

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物語ものがたり
監督かんとく 中島なかじま貞夫さだお
脚本きゃくほん 中島なかじま貞夫さだお
出演しゅつえんしゃ 萩原はぎはら健一けんいち
藤田ふじた弓子ゆみこ
河野こうのよし地子じし
早乙女さおとめあい
永島ながしま暎子えいこ
岡本おかもとうらら
ひかりせきけん
殿山とのやま泰司やすじ
内藤ないとう剛志たけし
音楽おんがく 速水はやみ清司せいじ
井上いのうえ堯之
撮影さつえい みなみぶんけん
編集へんしゅう 玉木たまき濬夫
製作せいさく会社かいしゃ 東映とうえい京都きょうと撮影さつえいしょ
配給はいきゅう 東映とうえい
公開こうかい 1985ねん5月11にち
上映じょうえい時間じかん 125ふん
製作せいさくこく 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
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物語ものがたり』(せぶりものがたり)は、1985ねん日本にっぽん映画えいが萩原はぎはら健一けんいち主演しゅえん中島なかじま貞夫さだお監督かんとく東映とうえい京都きょうと撮影さつえいしょ製作せいさく東映とうえい配給はいきゅう[1]内容ないよう原始げんしてき自然しぜんかこまれた「サンカのあいせい」といった内容ないようで、中島なかじま貞夫さだおのたいへんな力作りきさくだったが、興行こうぎょう成績せいせきるわなかった。

概要がいよう[編集へんしゅう]

かつてづくり、なおおも生業せいぎょうとして山野さんや漂泊ひょうはくし、川辺かわべ天幕てんまくり、また漂泊ひょうはくたびつづけた一般いっぱん社会しゃかいとは隔絶かくぜつしてつづける山窩さんかやまみん)、かれ独自どくじおきてしたがい、自然しぜん共存きょうぞんねがい、ひたすら自然しぜんかれらのきざまを、四季しき折々おりおり山野さんや背景はいけい愛憎あいぞうのドラマとしてえが[2][3][4]。「り」とは、かれらが先々さきざき川原かわらった天幕てんまくのことである[2]やまみんえが映画えいがのため、原生げんせいりんのこ人里ひとざとはなれた山奥やまおくで、スタッフ・キャスト全員ぜんいん四国しこく山中さんちゅう長期間ちょうきかんこもり、みずからがやまみんとなりつい体験たいけんしながら映画えいが製作せいさくおこなうという方式ほうしきがとられた[5][6][7]藤田ふじた弓子ゆみこ河野こうのよし地子じし早乙女さおとめあい永島ながしま暎子えいこの4にん女優じょゆうヌードになるなど体当たいあたりの演技えんぎせた。

あらすじ[編集へんしゅう]

キャスト[編集へんしゅう]

スタッフ[編集へんしゅう]

製作せいさく[編集へんしゅう]

企画きかく[編集へんしゅう]

頓挫とんざ(1964ねん)

企画きかく中島なかじま貞夫さだお[8]中島なかじまが1995ねんまでに自身じしん企画きかくした5ほんのうちの1ほん[8][ちゅう 1]中島なかじま1964ねんに『くノいち忍法にんぽう』で監督かんとくデビューし、同年どうねんほんの『くノいち化粧けしょう』をったのち岡田おかだしげるプロデューサー(のち、東映とうえい社長しゃちょう)が、中島なかじま本意ほんいでない作品さくひんでデビューさせたことをにして「なに一本いっぽんだけやりたいものをらせてやる」というので、ほん企画きかく提出ていしゅつした[9][10][11]中島なかじま千葉ちば実家じっか醸造じょうぞう関係かんけい仕事しごといとなんでおり、戦前せんぜん子供こどものころ、毎年まいとしふゆになるとなおをするおな山窩さんかいえていたのをおぼえていて、戦後せんご三角みすみひろし小説しょうせつ山窩さんか興味きょうみっていた[9]。1964ねん当時とうじ高度こうど経済けいざい成長せいちょうでもあり、各地かくち自然しぜん破壊はかい問題もんだいとなっていた時期じきで、そうした時代じだい背景はいけいから、人間にんげん自然しぜん関係かんけいいまいちつめなおしてみたいというテーマがあった[10]。このころ三角さんかくがまだ健在けんざい三角さんかくなんはなし、三角さんかく山窩さんかったフィルムをせてもらったりした[5]。しかし三角さんかく小説しょうせつてくるような猟奇りょうきてき部分ぶぶん映画えいがでやるにはむずかしいとかんがえ、そこはうすめて倉本くらもとさとし共同きょうどう脚本きゃくほんき、少年しょうねん少女しょうじょあわこいはなし中心ちゅうしんに、なぜサンカがいなくなったのかといった内容ないようでシナリオをき「りの魔女まじょ」(後年こうねんキネマ旬報きねまじゅんぽう』でシナリオのみ掲載けいさいされたときは『サンカ』というタイトルに改題かいだい)というタイトルで岡田おかだ提出ていしゅつ了承りょうしょうされた[5][11][12]。 

主演しゅえん春川はるかわますみ西村にしむらあきら予定よていし、神奈川かながわけん相模さがみロケめ、プレハブてるための整地せいち作業さぎょうすすめ、ロケ期間きかん50にちということも決定けっていしていたが[9]滅多めった脚本きゃくほんまない大川おおかわひろし東映とうえい社長しゃちょうがたまたま脚本きゃくほんみ「わけのわからない脚本きゃくほんだ」とクランクイン寸前すんぜん製作せいさく中止ちゅうしさせた[9][11]中島なかじま落胆らくたんはげしく2、3ヶ月かげつふてした状態じょうたいであった。なにとかなおり、ふて状態じょうたいでやることがないからボチボチ京都きょうと市内しない取材しゅざいしながらいたのが中島なかじま出世しゅっせさくとなった1966ねんの『893愚連隊ぐれんたい[9]。その旺盛おうせい映画えいがづくりをつづけ、やまみんはなししん片隅かたすみのこってはいたが、もうこの企画きかく実現じつげんできることはないとおもっていた[9]

読売新聞よみうりしんぶん』1965ねん11月3にち夕刊ゆうかんに「時代じだいげき斜陽しゃようのおりからはしぞうにさえ、不良ふりょう殿様とのさまや、軟派なんぱ不良ふりょう坊主ぼうずをやらせることをかんがえているという岡田おかだしげる東映とうえい京都きょうと撮影さつえいしょ所長しょちょうだが、『やくざ映画えいが来年らいねんいっぱい、わるくても来年らいねんなつごろまではこの調子ちょうしけるおもう。しかし内容ないようがこのままではきられるので、たとえば鶴田つるた浩二こうじには、さんか(山窩さんか)を主人公しゅじんこうにしたアクションもの昭和しょうわじゅうよんねん背景はいけい憲兵けんぺい曹長そうちょう主人公しゅじんこうにしたスパイものなどの構想こうそうっている』といい、鶴田つるた高倉たかくら錦之助きんのすけくわえたみっつのウズをつくることが理想りそうだという」という記述きじゅつがあることから、岡田おかだ当時とうじ、"山窩さんかアクション"というおもった路線ろせんかんがえていたとられる[13]

復活ふっかつ(1983ねん)

それからやく20ねんち、中島なかじまは1967ねんにフリーになったが[14][15][16]、そのあいだ東映とうえい社長しゃちょうになった岡田おかだ時折ときおりべつ企画きかく提出ていしゅつしていた[5]1983ねん蘇我馬子そがのうまこ題材だいざいとする古代こだい企画きかく提出ていしゅつしたさい岡田おかだから「それはよその会社かいしゃにおねがいしてこい。そんなのやるならまえにボツになった山窩さんかモノをやらないか、やまちゅうこもってやってみるか?」とわれ「ぜひやらせてください!」とこたえ、20ねんぶりに中島なかじま念願ねんがん企画きかくることになった[5][9][11]岡田おかだがボツ企画きかく復活ふっかつさせた理由りゆうは、このとし今村いまむら昌平しょうへい監督かんとくの『楢山節考ならやまぶしこう』がカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいパルム・ドール受賞じゅしょうしヒットしたからである[5][9][17]

脚本きゃくほん[編集へんしゅう]

ふたた倉本くらもとさとしともさくたのんだが、倉本くらもとから「その情熱じょうねつはもうない。おまえ一人ひとりでやったほうがいいよ」とわれ、今度こんど中島なかじま単独たんどく脚本きゃくほんいた[5]。20ねんまえ三角さんかくせてもらった山窩さんかったフィルムをもう一度いちどたいとくしてさがしたがつからず。三角さんかくすでくなり、池袋いけぶくろ文芸ぶんげいすわ支配人しはいにんだった三角さんかくむすめ何処どこったかからないとっていたという[5]。1964ねん原型げんけいからはおおきく改変かいへんし、時代じだい背景はいけい山窩さんか消滅しょうめつへとみちびいたとされる国家こっか総動員そうどういんほう施行しこうされた1938ねんえた[6]中島なかじまには権力けんりょく一番いちばんきらうのがさすらいであるというかんがえがあった[9]四季しき画面がめんとらえるべく、いちねんつうじてのはなし変更へんこう登場とうじょう人物じんぶつをより人間にんげんはらぞうちかづけるように、すべて、だい自然しぜんい、だい自然しぜんなかきる人間にんげんぞう鮮明せんめいにするようにこころみた[10]

キャスティング[編集へんしゅう]

東映とうえい1982ねんおにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』(しゃ英雄えいゆう監督かんとく)のだいヒット以降いこう女性じょせいきゃく意識いしきした映画えいがづくりをはじめて[18][19]中島なかじまほんさく並行へいこうして『じょまい』を手掛てがけていたが、そうしたながれとはまった傾向けいこうちがほんさくでも女優じょゆう重要じゅうようしたキャスティングがおこなわれた[9]おきてしたがって我慢強がまんづよきるはたらもの母親ははおや藤田ふじた弓子ゆみこ、そのよめ早乙女さおとめあい[7]おきてやぶむら若者わかものひかりせきけん)をあいしてしまうむすめ河野こうのよし地子じしと、いずれのおんなたちも過激かげきにひたむきに、自分じぶんあいせいぱしるドラマを中心ちゅうしん進行しんこうする。河野こうのは、1983ねんだいいちかいミス映画えいがむらえらばれたさい中島なかじま審査しんさ委員いいんちょうだったことからの抜擢ばってき[9]藤田ふじたやくは20ねんまえ脚本きゃくほんではちいさなやくだったが、あたらしい脚本きゃくほんではむらおんな永島ながしま暎子えいこ)と対立たいりつするやまみん代表だいひょうということで、いままでこういうやくをしていない女優じょゆうという観点かんてんから藤田ふじたえらばれた[9]藤田ふじたは、ほんわかしたり、えなかったりのおかあさんやくおおかったが[20]ほんさく萩原はぎはらたきまえみずしぶきをびながらはげしいセックスシーンをえん観客かんきゃくおどろかせた[20]永島ながしま暎子えいこ殿山とのやま泰司やすじは、中島なかじま出演しゅつえん依頼いらいしたが、うわさきつけるやけつけて室田むろた日出男ひでおはじ自薦じせんおおかった[5][9]四国しこく山中さんちゅうでの長期ちょうきおよ撮影さつえいで、まわりのみちいち間違まちがえればたにそこちるようなところ一人ひとりあるきは絶対ぜったい禁止きんしよるはプレハブでさけむぐらいしかたのしみがないような場所ばしょだったから、参加さんかする役者やくしゃ覚悟かくご必要ひつようだった。中島なかじま萩原はぎはら健一けんいちには「あまりおどらないほう役者やくしゃとしていいせんる。それなしでいっぺんやってみよう」と口説くどき、萩原はぎはらだいいち稿こう脚本きゃくほんんで感激かんげき出演しゅつえん承諾しょうだくした[9]萩原はぎはら室田むろた野口のぐち貴史たかしなかく、おおきなトラブルはなかったという[5]大自然だいしぜんをバックにればしょう芝居しばいつうじないという中島なかじま演出えんしゅつ意図いとから、萩原はぎはらふく役者やくしゃにはこまかい芝居しばいはできるだけしないでくれとたのんだ[9]

撮影さつえい[編集へんしゅう]

じょまい』のさんぶんいち程度ていど製作せいさくおさえられ、前回ぜんかい整地せいちまでした相模さがみはすっかり様変さまがわりして使つかえず。ロケハン各地かくち情報じょうほうあつなが期間きかんようしたが、中島なかじま東映とうえい同期どうき入社にゅうしゃしたひと前回ぜんかいけん東映とうえい退社たいしゃし、当時とうじ四国しこく建設けんせつ会社かいしゃ転身てんしんしていてこのひとから熱心ねっしんさそいをけ、愛媛えひめけん高知こうちけん県境けんきょうちかくのすべりゆか渓谷けいこくを、最終さいしゅうてきロケめた[21]。この場所ばしょやまみんがいたということではない。スタッフ・キャストの寝泊ねとまりするプレハブは、美術びじゅつスタッフの製作せいさくではなく、その土建どけんさんにつくってもらった[5]国立こくりつ公園こうえんうちだが、駐車ちゅうしゃじょうつくるために予定よていされていた場所ばしょがあり都合つごうがよかった。現地げんちほうもとても協力きょうりょくてきで、まち役場やくばせんもんかかりけてくれたり、水道すいどう谷川たにがわからいてくれたり、営林署えいりんしょ国立こくりつ公園こうえんないでの映画えいが撮影さつえい現場げんばえないかぎりOKという条件じょうけん許可きょかしてくれた[9]。プレハブない部屋へやは6じょうに3にん寝泊ねとまりした。食費しょくひ出来できるだけ現地げんち自炊じすい周辺しゅうへんひとたちからかわぎょ山菜さんさいれがたくさんあった[21]撮影さつえいは1983ねんあきから1984ねんれまでいちねん以上いじょうようした[9]。そのあいだ往復おうふくしながら中島なかじまで180にち、スタッフが120にちくらいロケ滞在たいざい俳優はいゆう大半たいはん東京とうきょうからの往復おうふくとなるが、天気てんきわるいと撮影さつえいできないため、中島なかじま毎朝まいあさ6きて、愛媛えひめ高知こうち宮崎みやざき測候所そっこうじょ電話でんわれて天気てんきたしかめ、そののスケジュールをんだが、ロケ愛媛えひめ高知こうち県境けんきょうで、どこの天気てんき予報よほうもあまりたらず苦労くろうした。秋冬あきふゆかく10にち程度ていど撮影さつえいで、大半たいはん撮影さつえいなつで、この時期じき撮影さつえい長期ちょうきおよんだ。谷川たにがわ撮影さつえいかげがどんどんわり難航なんこうした。また足場あしばわるいところがおおく、東映とうえいのキャメラマンではやまなか撮影さつえいむずかしく、キャメラのみなみぶんけん独立どくりつプロけいのキャメラマンである。

トラブル[編集へんしゅう]

1964ねん脚本きゃくほんだいいち稿こうでは、須佐すさおとこてきにもっと荒々あらあらしいことをやるところまで全体ぜんたいんでいたが、やまはいすべての準備じゅんびととのったところで部落ぶらく解放かいほう同盟どうめいからクレームをけた[9]。『月刊げっかんシナリオ』1985ねん6がつごう掲載けいさい決定けってい稿こうちが部分ぶぶんがあるのは、解放かいほう同盟どうめいとの議論ぎろん後退こうたいした箇所かしょである[5]岡田おかだから「おまえ責任せきにんでクリア出来できるな」とねんしされ、中島なかじま大阪おおさか四国しこくを4、5かい往復おうふく。「山窩さんかはなしになぜ解放かいほう同盟どうめいかかわってくるのかからない」と中島なかじまはなしている[5]解放かいほう同盟どうめいは「テレビなんかぱっとったらもうやめるのに、東映とうえいはひつこい」とっていたという[5]。このけんもあって自然しぜんりたいとか、やまなからしをたのしむとかエネルギーのだい部分ぶぶんがそっちへいったと中島なかじまはなしている。東映とうえい1976ねんに『夜明よあけのはた 松本まつもと治一郎じいちろうでん』を製作せいさくしたさいも、部落ぶらく解放かいほう同盟どうめいめており、今回こんかい最終さいしゅうてきにオールラッシュに上杉うえすぎ佐一郎さいちろうんでせて了解りょうかい[5]岡田おかだ封切ふうきりタイトルを『山窩さんか物語ものがたり』とつけたが[17]、「この題名だいめい使つかえず、いたかった」とはなしている[17]。1984ねん4がつごろまでは『山窩さんか物語ものがたり』というタイトルでマスメディアに報道ほうどうされていた[22]

ロケ[編集へんしゅう]

足摺あしずり宇和海うわかい国立こくりつ公園こうえんぞくする愛媛えひめけん北宇和きたうわぐん松野まつのまち大字だいじ目黒めぐろ四万十川しまんとがわ支流しりゅう目黒川めぐろがわ沿すべりゆか渓谷けいこくかいて80つぼのプレハブをて、そこをベースキャンプに、その周辺しゅうへんいちねんかけてオールロケを敢行かんこうした[22]すべりゆか渓谷けいこく近辺きんぺん以外いがいでは、佐田さたみさきのあるきゅう三崎みさきまちげん伊方いかたまち)や石鎚山脈いしづちさんみゃく瓶ヶ森かめがもりでもロケがおこなわれた[23]

作品さくひん評価ひょうか[編集へんしゅう]

興行こうぎょう成績せいせき[編集へんしゅう]

話題わだいげかけるため、岡田おかだ社長しゃちょうベルリン国際こくさい映画えいがさいほんさくってった[17]藤田ふじた弓子ゆみこ河野こうのよし地子じし現地げんちりし、東映とうえい主催しゅさいのパーティでは和服わふく姿すがた披露ひろうし、藤田ふじた各国かっこく映画えいがじん流暢りゅうちょう英語えいごめいホステスぶりを発揮はっきした[20]。しかし中島なかじま岡田おかだ社長しゃちょう以外いがいは、営業えいぎょうだれらなかったからか、興行こうぎょうるわなかった[5][17]よん週間しゅうかん興行こうぎょう予定よてい週間しゅうかんられ[24]、あとは自由じゆう番組ばんぐみになった[24]中島なかじまは「惨敗ざんぱい惨敗ざんぱいもいいところです。きなことをやらせていただきましたので、謹慎きんしんいたします」と宣言せんげんした[5][25]

作品さくひんひょう[編集へんしゅう]

作品さくひん評価ひょうかもあまりかんばしくなく、儀式ぎしきおきてなどは入念にゅうねんられているが、肝心かんじんのドラマが通俗つうぞくてきぎる[26]山窩さんか存在そんざいした背景はいけいや、その消滅しょうめつ経過けいかなどはかたられない[6][27]、「むかし山窩さんか漂泊ひょうはく非人ひにんといわれたが、漂盗のいちしゅでもあった。彼等かれら移動いどうするときにぬすみをはたらくのであるが、その犯罪はんざい行為こうい先天的せんてんてきあり、遺伝いでんてきでもある— 非人ひにんあいだではカブリのがったものとしてセブリとび、彼等かれら天幕てんまくもセブリとぶにいたったとおもわれる」といている百科ひゃっか事典じてんもある[6]監督かんとくがあまりにもその世界せかい没入ぼつにゅうした結果けっか山窩さんか美化びか理想りそうぎている[6]、などと批評ひひょうされた。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c ゆうげき 2004, p. 456.
  2. ^ a b スリット 1987, pp. 44–52.
  3. ^ ぴあシネマ 1998, p. 400.
  4. ^ 最後さいごのサンカにった」(毎日新聞まいにちしんぶん2001ねん6がつ22にち) - 池田いけだともたかしオフィシャルサイト
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q ゆうげき 2004, pp. 377–383.
  6. ^ a b c d e はちじゅう利雄としおはちじゅう利雄としおのシナリオ時評じひょう 中島なかじま貞夫さだお脚本きゃくほん物語ものがたり』」『月刊げっかんシナリオ』日本にっぽんシナリオ作家さっか協会きょうかい、1985ねん6がつ、21-23ぺーじ 
  7. ^ a b 早乙女さおとめあい巨匠きょしょう監督かんとくかえる“だつ清純せいじゅん演技えんぎ
  8. ^ a b c 中島なかじま貞夫さだお吉田よしだかおる映画えいがよん日間にちかん 中島なかじま貞夫さだお映画えいがゼミナール』醍醐だいご書房しょぼう、1999ねん、65-67ぺーじ 
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 高野たかの貴行たかゆき「『物語ものがたり』ロケ現場げんばたずねて 中島なかじま貞夫さだお監督かんとく初恋はつこい相手あいてにめぐりう」『キネマ旬報きねまじゅんぽう』、キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、1985ねん2がつ上旬じょうじゅんごう、80-84ぺーじ 特集とくしゅう1 物語ものがたり 自然しぜんへのラブコール ー中島なかじま貞夫さだおかたる」『キネマ旬報きねまじゅんぽう』、キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、1985ねん4がつ下旬げじゅんごう、58-61ぺーじ 
  10. ^ a b c 中島なかじま貞夫さだお「『物語ものがたり創作そうさくノート じゅうねんおおいなるねむり」『月刊げっかんシナリオ』日本にっぽんシナリオ作家さっか協会きょうかい、1985ねん6がつ、24ぺーじ 
  11. ^ a b c d 岡田おかだしげる追悼ついとう上映じょうえい『あゝ同期どうきさくら中島なかじま貞夫さだおトークショー(だい1かいぜん3かい岡田おかだしげる追悼ついとう上映じょうえい『あゝ同期どうきさくら中島なかじま貞夫さだおトークショー(だい2かいぜん3かい
  12. ^ Hotwax4 2006, pp. 48–59.
  13. ^ “〔娯楽ごらく正月しょうがつ作品さくひん製作せいさくきゅうピッチ 東映とうえい大映だいえい京都きょうと撮影さつえいしょ 錦之助きんのすけ主演しゅえんで『はなりゅう当分とうぶん任侠にんきょう路線ろせん東映とうえい 大映だいえいかち雷蔵らいぞう活躍かつやく”. 読売新聞よみうりしんぶん夕刊ゆうかん (読売新聞社よみうりしんぶんしゃ): p. 8. (1965ねん11月3にち) 
  14. ^ 十郎殉愛記 official キャスト・スタッフ
  15. ^ “【イベント】代官山だいかんやまシネマトークVOL.10 「時代じだいげきなず ちゃんばら美学びがくこう発売はつばい記念きねんスペシャルばん. 代官山だいかんやまT-SITE (カルチュア・コンビニエンス・クラブ). (2017ねん). オリジナルの2018ねん3がつ1にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180301155709/http://real.tsite.jp/daikanyama/event/2017/09/vol10-2.html 2020ねん2がつ19にち閲覧えつらん 
  16. ^ 活動かつどう人生じんせい 2012, p. 176.
  17. ^ a b c d e 活動かつどう人生じんせい 2012, p. 199.
  18. ^ 岡田おかだしげるいなきわが映画えいが人生じんせい 東映とうえいと、ともあゆんだ50ねん財界ざいかい研究所けんきゅうじょ、2001ねん、286-301ぺーじISBN 4-87932-016-1 
  19. ^ 人生じんせいおくりもの)脚本きゃくほん高田たかだ宏治こうじ:4 おんなたちの情念じょうねんかがやかせた啖呵たんか
  20. ^ a b c 今月こんげつのこのひと 藤田ふじた弓子ゆみこ」『映画えいが情報じょうほう』、国際こくさい情報じょうほうしゃ、1985ねん5がつごう、73ぺーじ 
  21. ^ a b スリット 1987, pp. 193–196.
  22. ^ a b 製作せいさくニュース『物語ものがたり』」『映画えいが時報じほう』1984ねん4がつごう映画えいが時報じほうしゃ、34ぺーじ 
  23. ^ 鈴木すずきすすむ特集とくしゅう4 『物語ものがたり』の撮影さつえい四季しき」『キネマ旬報きねまじゅんぽう』、キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、1985ねん4がつ下旬げじゅんごう、64-65ぺーじ 
  24. ^ a b 邦画ほうが配給はいきゅうかい東映とうえい」『映画えいが年鑑ねんかん 1986年版ねんばん(映画えいが産業さんぎょう団体だんたい連合れんごうかい協賛きょうさん)』1985ねん12月1にち発行はっこう時事じじ映画えいが通信つうしんしゃ、113ぺーじ 
  25. ^ スリット 1987, pp. 55–56.
  26. ^ ちゅう邑宗ゆう特集とくしゅう3 ライフワークゆえのおとあな....」『キネマ旬報きねまじゅんぽう』、キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、1985ねん4がつ下旬げじゅんごう、63ぺーじ 
  27. ^ 北川きたがわれい日本にっぽん映画えいが批評ひひょう物語ものがたり』」『キネマ旬報きねまじゅんぽう』、キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、1985ねん2がつ上旬じょうじゅんごう、160-161ぺーじ 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]