おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい

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おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい
著者ちょしゃ 宮尾みやお登美子とみこ
発行はっこう 1980ねん1がつ
発行はっこうもと 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしゃ
ジャンル 長編ちょうへん小説しょうせつ
くに 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
形態けいたい うえ製本せいほん
ページすう 252
公式こうしきサイト [1]
コード NCID BN06092062
ウィキポータル 文学ぶんがく
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おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』(きりゅういんはなこのしょうがい)は、宮尾みやお登美子とみこあらわした長編ちょうへん小説しょうせつである。『別冊べっさつ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』145ごうから149ごう連載れんさいされた。大正たいしょう昭和しょうわ高知こうち舞台ぶたいに、侠客きょうかくおにりゅういん政五郎まさごろう通称つうしょうおにせい)とそのむすめ花子はなこ波乱万丈はらんばんじょう生涯しょうがいを、12さいおにせいのもとへ養女ようじょされ、やく50ねんにわたりその興亡こうぼう見守みまもった松恵まつえ目線めせんからえがいた作品さくひん[1]

概要がいよう[編集へんしゅう]

宮尾みやお土佐とさ花街はなまち舞台ぶたいにした小説しょうせつは、置屋おきや紹介しょうかいじんだった宮尾みやおちちのこした14さつ日記にっき営業えいぎょう日記にっき住所じゅうしょろくおも参考さんこうとして取材しゅざい創作そうさくされている[2]おにりゅう院政いんせいろうちち日記にっきにあったちちにおかねりに親分おやぶんはなしで、モデルになった人物じんぶつ当時とうじまだ存命ぞんめい取材しゅざい協力きょうりょくしてくれ、はなしいたそのままの実話じつわだという[1][2]

あらすじ[編集へんしゅう]

土佐とさ熱血ねっけつ志士ししてもおとこ稼業かぎょう侠客きょうかくそだたぬ」とわれた高知こうちで、大正たいしょう4ねんはるおにせいことおにりゅういん政五郎まさごろう九反田くたんだ上市場かみいちば納屋なやほりおとこ稼業かぎょう看板かんばんかかげた。大正たいしょう7ねんはるだくさんの白井しろいまれたかぞどし12さい松恵まつえは、おとうとたく(ひらく)とおにせいいえにもらわれるが、たく翌日よくじつし、松恵まつえだけが養女ようじょとなる。松恵まつえ子分こぶんたちのいる主家しゅかかいで、正妻せいさいうたわらわふとしわらいわかつるらすことになった。

翌年よくねん、18さいのつるが妊娠にんしんし、長女ちょうじょ花子はなこ出産しゅっさんおにせいはじめてのよろこぶが、〆ふとしわらいわかいえる。学業がくぎょう優秀ゆうしゅう松恵まつえは、学費がくひ工面くめん苦労くろうしながら女学校じょがっこう進学しんがくするが、うたちょうチフスで死去しきょおにせい労働ろうどう運動うんどう安芸あき もり(あき さかん)をむかえて高知こうちけんはつ労働ろうどうしゃ組織そしき発足ほっそくさせたが、高知こうち刑務所けいむしょから出所しゅっしょした安芸あき松恵まつえ結婚けっこんしたいとくと激怒げきどし、安芸あき小指こゆびめて決別けつべつする。松恵まつえおにせいからだもとめられてし、絶望ぜつぼうするが、昭和しょうわ2ねん念願ねんがん小学校しょうがっこう教員きょういんとなり、自活じかつする。

おにせい高知こうちのやくざ荒磯あらいそ相撲すもう興行こうぎょうけんめぐって対立たいりつする。花子はなこおにせい家事かじ苦手にがてなつるにあまやかされ、わがままにそだつ。松恵まつえおにせいあね下宿げしゅくじん京大きょうだい進学しんがくした田辺たなべ恭介きょうすけ文通ぶんつうはじめ、卒業そつぎょう結婚けっこん約束やくそくする。荒磯あらいそおにせいいえをダイナマイトで爆破ばくはおにせい子分こぶんたちが報復ほうふくかうも荒磯あらいそてないまま、おにせいともども逮捕たいほされる。松恵まつえ自主じしゅ退職たいしょく余儀よぎなくされる。

おにせい服役ふくえき地元じもと名士めいし須田すだ保次郎やすじろうからも絶縁ぜつえんされ、おにりゅういんおとろえていくが、花子はなこのわがままはあいかわらずだった。松恵まつえ大阪おおさか技芸ぎげい学校がっこう舎監しゃかん就職しゅうしょくし、田辺たなべ恭介きょうすけ結婚けっこんしようとするが、獄中ごくちゅうおにせい田辺たなべ両親りょうしんから反対はんたいされ、別居べっきょする。昭和しょうわ11ねん3がつ出所しゅっしょしたおにせい松恵まつえもどす。おにせいおとろえたおにりゅういんなおそうとするが、中風ちゅうぶたおれる。方々かたがた借金しゃっきんをしたあげく、昭和しょうわ15ねんがつふたたたおれ68さい他界たかいする。松恵まつえ高知こうちようとするが、神戸こうべ山口組やまぐちぐみ挨拶あいさつにいったつるが39さいわかさで急死きゅうしする。

つるを看取みとった山口組やまぐちぐみ権藤ごんどう哲夫てつお花子はなこ急遽きゅうきょ結婚けっこんし、おにりゅういん代替だいがわりする。松恵まつえふたたようとするが、神戸こうべ権藤ごんどうから留守るすたのまれる。8月、権藤ごんどう浅草あさくさこうそう事件じけんまれ死去しきょ遺骨いこつとどけに山口組やまぐちぐみつじはら喜八郎きはちろうはなし、二人ふたり結婚けっこんまる。9月、花子はなこ神戸こうべうつむ。松恵まつえ仕送しおくりをする条件じょうけん田辺たなべから結婚けっこんゆるされ、高知こうち念願ねんがん新居しんきょかまえる。昭和しょうわ18ねん1がつ花子はなこ長男ちょうなん出産しゅっさんするが、いわいにった松恵まつえらかり放題ほうだい屋敷やしきにあきれる。終戦しゅうせん田辺たなべ故郷こきょう徳島とくしま脳溢血のういっけつ急死きゅうし葬式そうしきけつけた松恵まつえは、田辺たなべ父親ちちおやから罵倒ばとうされるが、ひそかに分骨ぶんこつしたおっと遺骨いこつって高知こうちもどる。おにりゅういん瓦解がかいしていた。昭和しょうわ25ねん松恵まつえ地元じもと裁縫さいほう女学校じょがっこう教員きょういんとなる。翌年よくねん辻原つじはるてられた花子はなこ長男ちょうなんひろしかえってくる。素行そこうわるひろしをよそにあづけ、ようやく花子はなこはたらきだすが、仕事しごとつづかず、しょく転々てんてんとする。

昭和しょうわ39ねん、58さい松恵まつえふたた上京じょうきょうして学校がっこうまなぶことを決意けついする。準備じゅんびすすめていた3がつ16にち旅館りょかん女中じょちゅうとしてはたらはな心臓麻痺しんぞうまひで45さい死去しきょ上京じょうきょうする前日ぜんじつ松恵まつえ花子はなこ遺骨いこつ墓所はかしょほうむり、本名ほんみょう林田はやしだではなく、「おにりゅういん花子はなこ」といた卒塔婆そとうばてる。おにりゅういん盛衰せいすい見届みとどけた松恵まつえからはなへの手向たむけであった。

登場とうじょう人物じんぶつ[編集へんしゅう]

林田はやしだ白井しらい松恵まつえ
ほんさくかた。12さいときおにりゅう院政いんせいろう養女ようじょとなる。おにせい後援こうえんする労働ろうどう活動かつどう安芸あきもりとの縁談えんだんおにせい自身じしんによってかれ、また教師きょうし田辺たなべ恭介きょうすけとの恋愛れんあい恭介きょうすけ両親りょうしん反対はんたいによって困難こんなんきわめる。戦後せんご服飾ふくしょく学校がっこう教員きょういんとなり、花子はなこ菩提ぼだいとむらう。
おにりゅういん政五郎まさごろう林田はやしだ恒吉つねきち
ほんさく最初さいしょ主人公しゅじんこう高知こうち宇佐うさまれる。おさなくして出奔しゅっぽんしたのち阪神はんしん渡世とせいはい明石屋あかしや万吉まんきち子分こぶんとなり、のち高知こうちもどおにりゅういん一家いっかおこす。四国しこく興行こうぎょうかいにぎった実在じつざい人物じんぶつ鬼頭おにがしら良之助よしのすけこと森田もりた良吉りょうきちがモデル。通称つうしょうおにせい
おにりゅういん花子はなこ
おにせいわらわ・つるとのあいだにもうけた実子じっしであり、ほんさくもうひとりの主人公しゅじんこうおさないころからなん不自由ふじゆうせず成長せいちょうしたため、のちの動乱どうらん翻弄ほんろうされることとなる。

書誌しょし情報じょうほう[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい
Onimasa
監督かんとく しゃ英雄えいゆう
脚本きゃくほん 高田たかだ宏治こうじ
原作げんさく 宮尾みやお登美子とみこ
製作せいさく 奈村きょう遠藤えんどう武志たけし
製作せいさくそう指揮しき 佐藤さとう正之まさゆき日下部くさかべ五朗ごろう
出演しゅつえんしゃ 仲代なかだい達矢たつや
夏目なつめ雅子まさこ
音楽おんがく 菅野かんのひかりあきら
撮影さつえい もり田富たとみ士郎しろう
編集へんしゅう 市田いちだいさむ
製作せいさく会社かいしゃ 東映とうえい俳優座はいゆうざ映画えいが放送ほうそう
配給はいきゅう 東映とうえい
公開こうかい 日本の旗 1982ねん6月5にち
上映じょうえい時間じかん 146ふん
製作せいさくこく 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
配給はいきゅう収入しゅうにゅう 日本の旗 11おくえん[3][4][5]
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1982ねん昭和しょうわ57ねん6月5にち封切ふうき公開こうかい製作せいさく東映とうえい宮尾みやお登美子とみこ最初さいしょ映像えいぞう作品さくひん配給はいきゅう収入しゅうにゅうは11おくえん[3]キネマ旬報きねまじゅんぽうベストテンでは圏外けんがいだい16だったが、読者どくしゃ選出せんしゅつベストテンではだい6となり、1982ねん興行こうぎょうベストテン7となった[4][5]

松恵まつえ夏目なつめ雅子まさこ)の凄味すごみのきいたセリフ「なめたらいかんぜよ!」が当時とうじ流行りゅうこうとなり、夏目なつめのヌードも話題わだいとなった[1][6][7][8][9]夏目なつめだい25かい(1982年度ねんどブルーリボンしょう主演しゅえん女優じょゆうしょう獲得かくとく[1][10]映画えいがだいヒットで宮尾みやお登美子とみこ流行りゅうこう作家さっかにのしがった[1][11]

あらすじ[編集へんしゅう]

昭和しょうわ15ねんなつ松恵まつえ京都きょうと橋本はしもと遊郭ゆうかくけつける。そこでは娼妓しょうぎとした義理ぎりいもうと花子はなこ急死きゅうししていた。

大正たいしょう7ねんあき土佐とさ侠客きょうかくおにりゅう院政いんせいろうつまうたは、子沢山こだくさん白井しろいおとずれ、ひらくとあね松恵まつえをもらうが、ひらくは脱走だっそう松恵まつえうたわらわ牡丹ぼたんわらいわからすことになった。

おにせい闘犬とうけんのいさかいで末長すえなが平蔵へいぞういえき、女中じょちゅうのつるをさらってかえる。末長すえなが逃走とうそうするが兄弟分きょうだいぶん三日月みかづき次郎じろうおにせい海辺うみべ決闘けっとうし、ぜんこと須田すだ宇市が仲裁ちゅうさいする。わらわにされたつるは最初さいしょおにせい近付ちかづかなかったが、あるよる寝床ねどこ居座いすわり、牡丹ぼたん松恵まつえあらそう。松恵まつえはつると平手打ひらてうちをさせられるうち、初潮しょちょうむかえる。やがてつるは妊娠にんしんはな出産しゅっさんおにせいはじめての実子じっしである花子はなこ溺愛できあいする。松恵まつえ県立けんりつだい一女いちじょ学校がっこう合格ごうかくし、おにせい進学しんがく懇願こんがんする。

松恵まつえ女学校じょがっこう卒業そつぎょう小学校しょうがっこう教師きょうしとなる。花子はなこ世間せけんらずでままむすめそだった。おにせい須田すだから須田すだ筆頭ひっとう株主かぶぬし土佐とさ電鉄でんてつのストやぶりを依頼いらいされる。活動かつどう田辺たなべ恭介きょうすけなぐりあったおにせいよわきをたすける侠客きょうかくとして労働ろうどう運動うんどう支援しえん決意けつい須田すだおにせい出入でいり禁止きんしとする手紙てがみおくる。おにせい単身たんしん須田すだのもとにもうひらきにくが、須田すだ末長すえながむすんでいた。

おにせいは16さいはな服役ふくえきちゅう田辺たなべ結婚けっこんさせることにする。釈放しゃくほうされた田辺たなべおにせいからしいものをわれ、れに松恵まつえ所望しょもうし、おにせい激怒げきどさせる。おにせいはけじめとして田辺たなべ小指こゆびめる。おにせい料理りょうり松恵まつえ手篭てごめにしようとするが抵抗ていこうされあきらめる。

おにせいむすめはな山根やまねぐみ権藤ごんどう哲男てつお縁組えんぐみする。祝宴しゅくえん最中さいちゅううたちょうチフスでたおれる。おにせい隔離かくり病院びょういんこばみ、松恵まつえ感染かんせんしながらも看病かんびょうするが、うた死去しきょする。

昭和しょうわ12ねんふゆ高知こうち松恵まつえ大阪おおさか田辺たなべらし妊娠にんしんする。花子はなこ婚約こんやくしゃ権藤ごんどうこうそう事件じけん死去しきょ。つるは家出いえで松恵まつえ田辺たなべ高知こうちかえ途中とちゅうふねなか流産りゅうざんする。松恵まつえおにりゅういんり、おにせい和解わかい。そのよる一人ひとり夜店よみせあるいていた花子はなこ末長すえながにさらわれ、をつけていた田辺たなべ刺殺しさつされる。おにりゅういん一家いっか末長すえながのもとにかうがダイナマイトで一網打尽いちもうだじんにされる。徳島とくしま田辺たなべ葬式そうしき分骨ぶんこつのぞんだ松恵まつえ田辺たなべ父親ちちおや罵倒ばとうされるが、松恵まつえは「おにせいむすめじゃきめたらいかんぜよ」と啖呵たんかる。

子分こぶんくしれたおにりゅういんおにせい供養くようのため地蔵じぞうった。おにせい末長すえながみ、花子はなこもどそうとするが、花子はなこ末長すえながわかしゅかば拒否きょひする。その自首じしゅしたおにせいは、2ねん網走あばしり死去しきょした。

花子はなこながらく消息しょうそく不明ふめいだったがいちだけたすけをもとめるハガキがとどいた。松恵まつえ橋本はしもと遊郭ゆうかくるとはなのハガキをかわやぶしずかにる。

キャスト[編集へんしゅう]

おにりゅういん政五郎まさごろう
えんじ - 仲代なかだい達矢たつや
おにりゅういん親分おやぶん土佐とさではれた人物じんぶつで「九反田くたんだおにせい(おにまさ)」のあだまわりからおそれられる。本人ほんにんはヤクザではなく侠客きょうかくだとっている。強面こわおもてすごみがある一方いっぽう男気おとこぎがあり義理堅ぎりがた性格せいかく女性じょせい教育きょういくけることには否定ひていてきかんがえのぬしのち気骨きこつのある恭介きょうすけ感銘かんめいけて傾倒けいとうし、労働ろうどうしゃがわ味方みかたとなり「土佐とさ労働ろうどうしゃ同盟どうめい」を結成けっせいする。
松恵まつえ
えんじ - 夏目なつめ雅子まさこ
政五郎まさごろう養女ようじょ学業がくぎょう優秀ゆうしゅう県立けんりつ高等こうとう女学校じょがっこう入学にゅうがくし、のち小学校しょうがっこう教師きょうしとなる。おにりゅういん人間にんげんたちのざまたりにしてきた影響えいきょうで、しとやかななかにもはげしい情念じょうねんめる女性じょせい成長せいちょう様々さまざま人間にんげんとの出会であいやわかれをつうじて、波乱はらんちた人生じんせいおくる。
少女しょうじょ時代じだい松恵まつえ
えんじ - 仙道せんどう敦子あつこ
当初とうしょおとうとひらけ(ひらく)だけが養子ようしになる予定よていだったが、政五郎まさごろうに「かしこそうなかおをしている」とられたため急遽きゅうきょおにりゅういんにもらわれる。学校がっこうかよわせてもらい勉強べんきょういそしむかたわら、政五郎まさごろうまわりの世話せわまれる花子はなこ子守こもりなどをしてらす。おにりゅういん人間にんげん模様もようはだかんじながら思春期ししゅんきごす。

おにりゅういん家族かぞくなど[編集へんしゅう]

うた
えんじ - 岩下いわした志麻しま
政五郎まさごろうつまおにりゅういんはたら女中じょちゅう手下てしたたちににらみをきかせる。少々しょうしょうのことにもどうじずにりんとしたたたずまいの女性じょせい。まだまだおさな松恵まつえにもおにりゅういんじないように容赦ようしゃせずきびしくしつける。酒好さけずきだが、からだ影響えいきょうており手下てしたたちから心配しんぱいされている。自身じしん子供こどもができないことにかんじているのか、政五郎まさごろうわらわたちをいえ同居どうきょさせることを公認こうにんしている。
花子はなこ
えんじ - 高杉たかすぎかほり
政五郎まさごろうとつるの実子じっし松恵まつえ養女ようじょになった1ねんまれる。ちいさいころから政五郎まさごろうにはあまやかされてそだったため、16さいになるとおてんばなむすめそだつ。マイペースで自己じこ中心ちゅうしんてき性格せいかく幼少ようしょうころから綺麗きれい着飾きかざふく化粧けしょうひん興味きょうみつが、その反面はんめん勉強べんきょう苦手にがて成長せいちょういろあざやかな着物きものおおきいリボンをけている。おにりゅういん人間にんげんたちに人生じんせい翻弄ほんろうされる。
つる
えんじ - けい晃子あきこ
元々もともと末長すえながところはたらいていた女中じょちゅう政五郎まさごろうったとき強引ごういんれてかれそのままわらわとなる。当初とうしょおにりゅういんものたちに反発はんぱつして完全かんぜん黙秘もくひむ。しかし政五郎まさごろう関係かんけい子供こどもむとおおきなかおをするようになる。
牡丹ぼたん
えんじ - 中村なかむら晃子あきこ
政五郎まさごろうわらわ松恵まつえいもうとのようにかわいがっている。松恵まつえきびしくせっするうたに「母親ははおやらしいところなんてせたことないのにおや気取きどって」としんなか反発はんぱつしんいている。
わらいわか(えみわか)
えんじ - 新藤しんどう恵美えみ
政五郎まさごろうわらわ牡丹ぼたんともどもうたのことを「おねえさん」とんでいる。

政五郎まさごろう手下てした[編集へんしゅう]

相良さがら(さがら)
えんじ - 室田むろた日出男ひでお
政五郎まさごろう手下てしたたちのまとめやく政五郎まさごろうとも養子ようしをもらうとき同行どうこうした。たよりがいがあり面倒めんどう手下てしたたちをまとめる。松恵まつえにもやさしくせっしており、松恵まつえからは「おんちゃん(おじちゃん)」とばれしたわれている。
兼松かねまつ
えんじ - 夏木なつきいさお
元々もともとは『かいじん』と名付なづけた土佐とさ闘犬とうけん愛情あいじょうってそだて、闘犬とうけん競技きょうぎ情熱じょうねつそそおとこ対戦たいせん相手あいて平蔵ひらぞういぬったことにいがかりをつけられていぬをなぶりごろしにされる。このとき政五郎まさごろう味方みかたになってくれたことからのちおにりゅういん一員いちいんとなり、いのちがけで政五郎まさごろうささえる。
六蔵ろくぞう
えんじ - 佐藤さとう金造きんぞう
兼松かねまつ手下てした兼松かねまつしんからしたい、のちともおにりゅういん一員いちいんとなる。成長せいちょうした花子はなこ通学つうがく護衛ごえい自転車じてんしゃ練習れんしゅうったりしている。作中さくちゅうでは民謡みんよう上手うまく、地元じもと民謡みんようらしきうたうたっている。
ひのと
えんじ - アゴいさむ
おにりゅういん手下てした
せい
えんじ - 益岡ますおかとおる
おにりゅういん手下てした
ふゆ(ふゆき)
えんじ - 松野まつの健一けんいち
おにりゅういん手下てした
くま
えんじ - 古今ここんていあさ
おにりゅういん手下てした
たい
えんじ - 広瀬ひろせ義宣よしのぶ
おにりゅういん手下てした

恭介きょうすけ関係かんけいしゃ[編集へんしゅう]

田辺たなべ恭介きょうすけ
えんじ - 山本やまもとけい
高知こうち商業しょうぎょう学校がっこう教師きょうしまずしいひとたちの味方みかたとなり、土佐とさ電鉄でんてつ労働ろうどう組合くみあい参謀さんぼうやくとしてストライキを支援しえんする。真面目まじめ正義せいぎかんあふれ、かなり度胸どきょうわった人物じんぶつつねつよ信念しんねんもとづいて行動こうどうしている。政五郎まさごろうとはかんがえのちがいから敵対てきたいしていたが、たれつよさと根性こんじょう政五郎まさごろうみとめられる。のち松恵まつえ好意こういせる。
近藤こんどう
えんじ - 役所広司やくしょこうじ
土佐とさ電鉄でんてつ労働ろうどう組合くみあい委員いいんちょう土佐とさ電鉄でんてつのストライキを実行じっこうする代表だいひょうしゃ最初さいしょ威勢いせいよかったが、政五郎まさごろういちはつなぐられてびてしまう。
田辺たなべ源一郎げんいちろう
えんじ - 小沢おざわ栄太郎えいたろう
恭介きょうすけちちいえおとずれた松恵まつえたいし、侠客きょうかくむすめであることをって不快ふかいかんしめし「はよ、いね!(はやかえれの意味いみ)」と罵倒ばとうびせる。

山根やまね関係かんけいしゃ[編集へんしゅう]

山根やまねまさる
えんじ - 梅宮うめみや辰夫たつお
山根やまねぐみ組長くみちょう作中さくちゅうでは関西かんさいいきおいのあるとされるくみ親分おやぶん哲男てつお花子はなこ縁談えんだんによりおにりゅういん兄弟分きょうだいぶんになることをおおいによろこぶ。
権藤ごんどう哲男てつお
えんじ - まこと直也なおや
山根やまねぐみわかしゅ花子はなことの結婚けっこん前提ぜんていはじめる。
つじはら徳平とくひら
えんじ - 成田なりた三樹みきおっと
政五郎まさごろう山根やまねかちわせた人物じんぶつおにりゅういん山根やまねぐみむにはっていの哲男てつお花子はなこ縁談えんだんってきたことをほこりにおもう。

平蔵ひらぞう関係かんけいしゃ[編集へんしゅう]

末長すえなが平蔵へいぞう
えんじ - 内田うちだ良平りょうへい
末長すえながぐみ組長くみちょうまわりには卑怯ひきょう性格せいかくとしてられているとのこと。『土佐とさあらし』と名付なづけた自慢じまん土佐とさ闘犬とうけん(格付かくづけは横綱よこづな)をっているが、闘犬とうけん競技きょうぎ格下かくした兼松かねまついぬけたことにいがかりをつける。非常ひじょう執念深しゅうねんぶか人物じんぶつで、このいちけんあいだはいった政五郎まさごろうたいうらみの感情かんじょうつ。
秋尾あきお
えんじ - 夏木なつきマリ
平蔵ひらぞうつま喧嘩けんかはや気性きしょうあらく、らないことがあると公衆こうしゅう面前めんぜんでもこえらげる。一方いっぽうでいざとなるとすっとぼけたり、色目いろめ使つかってことおさめようとする性格せいかく
三日月みかづき次郎じろう
えんじ - 綿引わたひきひろし
平蔵ひらぞう兄弟分きょうだいぶん平蔵ひらぞう政五郎まさごろう手下てしたたちによってごときたため政五郎まさごろういのちねらう。

そのおも人物じんぶつ[編集へんしゅう]

須田すだ宇市
えんじ - 丹波たんば哲郎てつろう
政五郎まさごろうから御前ごぜん(ごぜん)とばれ畏敬いけいねんいだかれる存在そんざい平蔵ひらぞう政五郎まさごろうわかころからをかけており両者りょうしゃにとってさからえない人物じんぶつ調子ちょうしづいてはいけないと政五郎まさごろうさとす。牡丹ぼたんのことをよく人物じんぶつ土佐とさ電鉄でんてつ筆頭ひっとう株主かぶぬし
梅田うめだぬききち
えんじ - 内田うちだみのる
須田すだい。須田すだ土佐とさ電鉄でんてつのストライキにこまっており、問題もんだい解決かいけつするよう政五郎まさごろう依頼いらいする。世間体せけんていがあるため、相手あいてにケガをわせないようにと注文ちゅうもんをつける。
白井しらい善七ぜんしち
えんじ - 谷村たにむら昌彦まさひこ
松恵まつえちち土佐とさ細々こまごま商売しょうばいをしている。みせ繁盛はんじょうさせるためにうしたて必要ひつようかんじ、政五郎まさごろう跡継あとつぎをさがしているとって自身じしん子供こども養子ようしす。子沢山こだくさんで10にんほどの子供こどもかかえる。
ひらく
えんじ - 桜井さくらいみのる
松恵まつえおとうと当初とうしょ政五郎まさごろう夫妻ふさい跡取あととりになるべく養子ようしになるはずだったおとこ侠客きょうかく政五郎まさごろう出会であったときからおそれて養子ようしになることをこばみ、松恵まつえれられ渋々しぶしぶおにりゅういんおとずれる。しかし、おにりゅういん人間にんげん挨拶あいさつませたそのよるれずに一人ひとりして実家じっかもどる。
加藤かとう医師いし
えんじ - 浜田はまだ寅彦とらひこ
うたのかかりつけ時々ときどき体調たいちょうくずしていたうた診察しんさつしていたがちょうチフスと診断しんだんする。治療ちりょうのために隔離かくり病院びょういんうつすことを政五郎まさごろう進言しんげんする。
島田しまだ刑事けいじ
えんじ - 宮城みやぎ幸生さちお
共産党きょうさんとう差金さしがね労働ろうどうしゃ扇動せんどうしている」と治安ちあん維持いじほう違反いはんうたがいで、自作じさくほん街頭がいとうっていた恭介きょうすけ連行れんこうして調しらべする。

その[編集へんしゅう]

りゅう松一しょういち刺客しかく
えんじ - 福本ふくもと清三せいぞう
辰吉たつよし
えんじ - あわ九郎くろう
太刀たちやま
えんじ - 大川おおかわひろし
天神てんじん文吉ぶんきち
えんじ - 宮川みやがわたま
秋本あきもとかなめづくり
えんじ - はやしあきら太郎たろう
ちょろまつ
えんじ - 勝野かつの賢三けんぞう
山村やまむら建彦たけひこ
えんじ - 岩下いわしたひろし
駒田こまだ重蔵しげぞう
えんじ - 岩尾いわお正隆まさたか
きわ
えんじ - 富永とみなが佳代子かよこ
きよ
えんじ - 清水しみず郁子いくこ
宮崎みやざき
えんじ - 笹木ささき俊志としゆき

スタッフ[編集へんしゅう]

製作せいさく[編集へんしゅう]

企画きかく[編集へんしゅう]

プロデューサーの日下部くさかべ五朗ごろうは、社長しゃちょう岡田おかだしげるから女性じょせいきゃく動員どういん見込みこめる映画えいがつくり、それまでの東映とうえい京都きょうと撮影さつえいしょつづけてきた男性だんせいきゃく一辺倒いっぺんとう転換てんかんもとめられていた[1][12][13]かじ芽衣子めいこは「ぜひこれをわたし主役しゅやくで…」と宮尾みやお小説しょうせつおにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』を日下部くさかべんでいた[1][12][13][14][15]

日下部くさかべは、地回じまわりのヤクザ・おにせいとそのむすめ花子はなこおにせい養女ようじょ松恵まつえとのじゅうねんにおよぶ相克そうこくえがいた内容ないようちちむすめ物語ものがたりおんな一生いっしょうえがくことで女性じょせいきゃくにも訴求そきゅうできるうえに、任侠にんきょう世界せかい舞台ぶたいにしたきょうつまみ得意とくいとする情念じょうねんてき泥臭どろくささもあり、映画えいがになると直感ちょっかんした。原作げんさく小説しょうせつ映画えいが準備じゅんびをはじめた[16]本社ほんしゃ会議かいぎでは、若山わかやま富三郎とみさぶろう大竹おおたけしのぶの主演しゅえん役員やくいん20にんまえ説明せつめいしたが却下きゃっかされた[17]岡田おかだ企画きかくなん提出ていしゅつしても「くらい。たらん」と却下きゃっかされた[1][18]日下部くさかべかたえ、岡田おかだ自分じぶんよりをかけてドスケベだから「これは土佐とさだい親分おやぶん妻妾さいしょう同居どうきょで1かい正妻せいさいを、かいにわらわませて、双方そうほういえしてヤリまくるはなしです」とはなしたら、一発いっぱつ逆転ぎゃくてんでOKがたとはなしている[1][14][15][17][18]

映画えいが公開こうかいから11ねんった1993ねん映画えいがのインタビューで日下部くさかべは「『おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』や『楢山節考ならやまぶしこう』なんて映画えいがは、ぼくが東映とうえい社員しゃいんプロデューサーだからできたんで、これが独立どくりつプロデューサーで、自分じぶんがカネあつめて勝負しょうぶする、だい冒険ぼうけんはやれなかったとおもいますね。やらせてもらったんだという気持きもちはあります。それは独立どくりつして、おのれ才能さいのうけてね、そんとく一身いっしんになうというのが本来ほんらいのプロデューサーだとはおもいますが、いま映画えいがかい状況じょうきょうではむずかしくて。まあ最初さいしょドカーンとてりゃ、あとほんぐらいつくれるでしょうけど、最初さいしょほんはずしたらもうエンドでしょうね。才能さいのうっていたとしてももう無理むりでしょう。東映とうえい社員しゃいんプロデューサーですから、たってもたらなくても、責任せきにんらなくていい立場たちばにある。おもうようにやれるということはあります。東宝とうほうはいろんな外部がいぶプロから作品さくひんっていますけど、才能さいのうがありますね。東映とうえいはこれまで岡田おかださんがぜん責任せきにんひとりで背負せおって、自主じしゅ製作せいさく活力かつりょくうしなうまいといろんな作品さくひんつくってましたけど、会社かいしゃにというより、企画きかくむのは最高さいこう責任せきにんしゃである岡田おかださんになりますが、ぼくの場合ばあいは5ほんってって、2ほんなり、3ほんなりが、『よし、やれ!』となりますけど、結局けっきょく映画えいが場合ばあいたるも八卦はっけたらぬも八卦はっけですから、判断はんだんはいってみれば経験けいけんかんたよるしかないですよ。ぼくのプロデューサーとしてのかん岡田おかださんの最高さいこう責任せきにんしゃとしてのかん、ピタッと一致いっちしたとき名作めいさくまれる、『おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』や『極道ごくどうつまたち』なんかがまさにそうだったようにおもいます」などとはなしている[19]

高岩たかいわあわは「佐藤さとう正之まさゆきさんが岡田おかださんのところにやってきて、しゃを『なにかに使つかってやってくれ』とたのみ、ちょうど日下部くさかべが『おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』の企画きかくってきたから岡田おかださんが『これをしゃにやらせろ』とって製作せいさくめた」[20]宮尾みやお登美子とみこもまだベストセラー作家さっかじゃなかった。特異とくい世界せかいのどろどろした人間にんげん関係かんけいをテーマにした小説しょうせつですから、読書どくしょそうひろがらなかった。だから、日下部くさかべ企画きかくあげてたとき、あんなくらはなしたらんと営業えいぎょうなんからなかったんです。だけど、あるひとからヒントをかんずるところあった五朗ごろうはイケるとねばりまくった。みんな反対はんたいでモタなかで、岡田おかだ社長しゃちょうが『しゃにやらせてみろ』としばらくたって指示しじされたんですね。当時とうじしゃさんは公私こうしともにドン底どんぞこでね、監督かんとく生命せいめいさえあやぶまれていたんですよ。それに『やらせてみろ』ですからねえ。結果けっか岡田おかだ社長しゃちょう思惑おもわくどおり、しゃさんの最高さいこう傑作けっさくまれたんですが、そとかられば意外いがい意外いがいでしたね」[21]などとはなしている。

ほんさく美術びじゅつ担当たんとうした西岡にしおか善信よしのぶ著書ちょしょで「当時とうじぼくつきに5、6かい東京とうきょうって、六本木ろっぽんぎ喫茶店きっさてん俳優座はいゆうざわせをしてました。それで佐藤さとう正之まさゆきさんに『おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』というタイトルをいた。佐藤さとうさんは『これをしゃにやらせようとおもうけどどうやろ?』とかれたけど、本人ほんにん映画えいがめようとしてたし、どうかなとおもったんです。でも、東映とうえい相談そうだんしてみようかとなった。東映とうえい岡田おかださんがオーケーをして、結果けっかてきにヒットしました」などとべている[22]

かじ芽衣子めいこ証言しょうげん[編集へんしゅう]

かじ芽衣子めいこは『オール讀物よみもの』の連載れんさい自伝じでん かじ芽衣子めいこ」2017ねん8がつごうで「あいだちがった情報じょうほうがまるで事実じじつであるかのように世間せけんひろがっているので、野放のばなしにできない」とはじめてその経緯けいいはなし、この日下部くさかべはなし事実無根じじつむこんで、日下部くさかべ自身じしんかじ)の企画きかく横取よこどりした卑劣ひれつ人間にんげん批判ひはんしている[23]

日下部くさかべ著書ちょしょ『シネマの極道ごくどう』のなかで「かじ芽衣子めいこさんが『日下部くさかべさん、これをんでくれない?』と原作げんさくってきた」[17][24]、「かじ主演しゅえんした1974ねんの『ジーンズブルース 明日あしたなき無頼ぶらい以来いらいかじとは交諠をむすんでいた」ともはなしているが[17]かじは「わたし出演しゅつえんした作品さくひんにプロデューサーとして日下部くさかべさんの名前なまえはいっていることはありましたが、現場げんばでおいしておはなししたことのない、まったくぞんげないほう」という[23]

かじは「おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい」の原作げんさく書店しょてんんで感銘かんめいけ、映画えいがけての具体ぐたいてきなプランをすすめて、監督かんとく増村ますむらたもつづくりに、おにせいやくには若山わかやま富三郎とみさぶろうかんがえ、若山わかやまには出演しゅつえん快諾かいだくされていた[1]シノプシスをマネージャーにまとめさせて企画きかくしょ作成さくせい。「女囚じょしゅうさそりシリーズ」の降板こうばん問題もんだい東映とうえいには迷惑めいわくをかけたこともあり、「恩返おんがえしが出来できるかもしれない」と東映とうえい企画きかくむことにし、作品さくひん内容ないようから東映とうえい東京とうきょうよりも東映とうえい京都きょうとほうがいいだろうとかんがえた。最初さいしょはお世話せわになったしゅんふじひろししげるっていこうとおもったが、だいプロデューサーにいきなりは失礼しつれいかとおもい、当時とうじ企画きかく窓口まどぐちだった奈村きょう企画きかくんだ。ところがなかなか返事へんじず、東映とうえいがダメなら独立どくりつプロで製作せいさくしてもいいとおもはじめたころ東映とうえいが『おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』の映画えいが発表はっぴょうした。企画きかくしゃかじ名前なまえまったくなく、寝耳ねみみみずはなし呆然ぼうぜんかじに奈村から電話でんわがあり、「(主人公しゅじんこう以外いがいの)ほかのやくならどれでもいいって、五朗ごろうちゃんがっている」とつたえられた(日下部くさかべ本人ほんにんからの打診だしんはなし)。「これがあなたかたのやりかたなのですね」と電話でんわった。なんうしたてもない自分じぶんにはどうすることもできず、『おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』という作品さくひん意識いしきからはなすしかなかった。

映画えいがだいヒットし、東映とうえい宮尾みやお作品さくひんつづけに製作せいさくいち時代じだいきずいた。のちになって日下部くさかべあやまりたいとっていると東映とうえい関係かんけいしゃから連絡れんらくがあり、かじ気乗きのりはしなかったが、かおててくれとたのまれて、指定していされたみせ出向でむくが、日下部くさかべはニタニタしているだけで謝罪しゃざい一切いっさいなし。けんみせでもおなじでわかぎわになってはじめて日下部くさかべくちひらき、「まあ、今回こんかいはいろいろあったけど、みずながしてよ」といながら、かじひざあたりをかるくたたき、かじはそのはらいのけてそのった。

日下部くさかべ間近まぢかせっしたのはこれいちかいきりで、その撮影さつえいしょっても日下部くさかべかじるとげるという。この経験けいけん以降いこうかじ物事ものごと達観たっかんするようになったとはなしている[23]

監督かんとく[編集へんしゅう]

しゃ英雄えいゆうは1980ねんむすめともえ交通こうつう事故じこ重体じゅうたいとなり[25]自身じしん銃刀じゅうとうほう違反いはん容疑ようぎ逮捕たいほ[26]フジテレビ退職たいしょく[25]つまにもげられ意気いき消沈しょうちん自殺じさつかんがえていた[27][28]業界ぎょうかいからはなれて経営けいえいして生計せいけいてようと新宿しんじゅくゴールデンがい開店かいてん準備じゅんびをしていたが、それをかねた親友しんゆう佐藤さとう正之まさゆき佐藤さとうからたのまれた岡田おかだ尽力じんりょくにより映画えいがかい復帰ふっきした[1][20][29][30]岡田おかだからしゃに「いち会社かいしゃかおせよ」と電話でんわがあり、けずぎらいのしゃ自分じぶんよわっているところを岡田おかだせたくないと、いっぱいって岡田おかだいにった。すると岡田おかだから「おまえ、いろいろあったみたいだけど、元気げんきそうじゃないか。それにしても、おまえけっぷりがいいな」とわれた。意地いじでもけをみとめたくなかったところに「けっぷりがいい」と、岡田おかだからけをたたえられたことはなによりうれしく、しゃかたりたがしたという[29]。「どうだ、になってもう一度いちど映画えいがってみないか。なにりたい企画きかくがあったらっていよ」とわれ、ってった企画きかく宮尾みやお登美子とみこ小説しょうせつかい』だった[29]岡田おかだ自伝じでんいなきわが映画えいが人生じんせい』などで、佐藤さとう同時どうじフジテレビ鹿内しかない春雄はるおから「しゃはよくやってくれたからかわいいんだけれども、なんとかならんかと連絡れんらくがあった」とべている[30][31]しゃほんさく再起さいきけた。ただテレビ出身しゅっしんしゃたして女性じょせいれるのかと反対はんたいするこえおおかったが[28]原作げんさくしゃ宮尾みやおが「修羅場しゅらば経験けいけんしてきているから」とOKをした[7][28]。なお、『かい』は、のち東映とうえいにて映画えいが製作せいさくされており、しゃ監督かんとくつとめている。

しゃは『週刊しゅうかんHeibon』1983ねん9がつ29にちごうしゃ長時間ちょうじかん密着みっちゃく取材しゅざいで、「東映とうえい岡田おかだ社長しゃちょうから"再出発さいしゅっぱつになにかやりたいものがあるか"といわれたときはうれしかったですよ。即座そくざに"『おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』をやりたい"とびついた。むかしから宮尾みやお登美子とみこさんのものはんでたし、人間にんげんっている怨念おんねんくやしさ、魔性ましょう情念じょうねん爆発ばくはつふかえがかれていますからねえ」などとはなしている[32]。1984ねん8がつ7にち東映とうえい本社ほんしゃ で『かい』の製作せいさく発表はっぴょうおこなわれたさいしゃは「TVから映画えいがかいりして宮尾みやお作品さくひんにぶつかり『おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』『あきらろう』そして『かい』とさんさくでやりたいと岡田おかだ社長しゃちょうにおねがいしたが、映画えいがかいでメシをえる人間にんげんとしてそのゆめかなえられてうんつよおとこだとおもう」とはなした[33]岡田おかだは『キネマ旬報きねまじゅんぽう』1987ねん3がつ上旬じょうじゅんごうのインタビューで「しゃくん非常ひじょうんでるときぼくのところにやってきてね、仕事しごとをしたいと。ぼくむかしから、京都きょうと撮影さつえい所長しょちょうをしとるころからかれをかわいがっていたもんだから、本当ほんとうにやるがあるのかとくと、是非ぜひ、やりたいと。ただ、おまえはもう『さんひきさむらい』のパターンから脱却だっきゃくしないとだめだよってったら、宮尾みやお登美子とみこさんの作品さくひんをやりたいとした。宮尾みやおさんの作品さくひん全部ぜんぶってきたんだ。しゃ希望きぼうしたのは『おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』ではなくほか女衒ぜげんもの(『かい[28][29])だったが、そのなかからぼくがタイトルがよさそうなのをえらんだのが『おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』だったわけだ。ところがこれは企画きかく会議かいぎだい反対はんたいらった。営業えいぎょうなんか一人ひとり賛成さんせいするものがいなかった。それで一応いちおう、その研究けんきゅう課題かだいとしてひっこめ、会議かいぎのあとで早速さっそくしゃくん企画きかくとおすためにはこんなキャストではだめだといったんだ。そのときなんだかわけのわからんキャスティングをしゃくんんできていてね。ただ、その当時とうじしゃくん作品さくひん女優じょゆうるかというと、なかなかたがらなかったんだ。それでしょうがないからぼく岩下いわした志麻しま電話でんわしてOKをり、いろいろやっているうちに夏目なつめ雅子まさこっかかってきた。で、ぼく夏目なつめったんだ。これはいい、夏目なつめにせいと、これが成功せいこう要因よういんだった。岩下いわした志麻しま夏目なつめ雅子まさことくれば、もう反対はんたいするやつはいない」とはなしている[34]。2001ねん著書ちょしょいなきわが映画えいが人生じんせい』での岩下いわした志麻しまとの対談たいだんでは「しゃ岩下いわしたくんのファンでどうしてもみたいんだとぼくのところに『おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』をってきた」などとはなしている[30]

しゃ期待きたいしたのは、女優じょゆうがす能力のうりょくだった。硬派こうはなアクション演出えんしゅつ定評ていひょうのあったしゃであるが『ひと』(1969ねん)でばいしょう美津子みつこを、『出所しゅっしょいわ』(1971ねん)で、江波えば杏子あんずをヌードにさせてはげしいえんじさせた実績じっせきがあった[35]東映とうえいもそれまでポルノをたくさん製作せいさくしたが、いでいたのはポルノせんもん女優じょゆうで、トップどころの女優じょゆうがせるにはべつ才能さいのう必要ひつようだった[35]しゃほんさく演出えんしゅつでも、みずかはだかになり、おなじくはだかになった助監督じょかんとく相手あいて実演じつえんしながら、うごきを女優じょゆうたちにつたえた[30]助監督じょかんとくあしゆびまでめた[30]羞恥心しゅうちしんをかなぐりてた演技えんぎ指導しどう迫力はくりょく圧倒あっとうされ、夏目なつめ夏木なつきマリけい晃子あきこ女優じょゆうたちが次々つぎつぎとヌードになり、濃厚のうこう展開てんかいした[36]しゃは「女優じょゆうはいくらきんんでおがたおしても、そう簡単かんたん映画えいがぐものではないし、ハードなはやりたがらない」「相手あいて信用しんようさせること。信用しんようさせるために自分じぶん率先そっせんしてはじをかく。ラブシーンは、助監督じょかんとく一緒いっしょになってうごきのすべてを細大さいだいらさず女優じょゆうまえでやってせる。んずほぐれつをあせだくだくで真剣しんけんそのものをやってせる。撮影さつえいするとき、役者やくしゃおなじにえんじてせる監督かんとくおれぐらいだろう。たいていは、現場げんば役者やくしゃに『きなようにやってみてください』とうのがおちなんだ。だれだってはじはかきたくない。しかし監督かんとく女優じょゆうはじかぎりをしてせるのが商売しょうばいだ。それには、こっちがさきはじをかかなければ相手あいて安心あんしんさせることなんてできない」などとはなしていた[37]

ヒロイン決定けっていまで[編集へんしゅう]

女優じょゆうほんおくってくるということは「自分じぶんヒロインをやりたい」という暗黙あんもく意思いし表示ひょうじであるが日下部くさかべは「松恵まつえ」をかじえんじるには大人おとなすぎると判断はんだん[38]かじには「松恵まつえ以外いがいやくならだれでもキャスティングすると説得せっとくしたがかじゆずらず。企画きかくのきっかけをあたえてくれた功労こうろうしゃとの交渉こうしょう決裂けつれつした」とはなしている[14][15][38][39]

しゃ主役しゅやく大竹おおたけしのぶとかんが[40]なが期間きかん交渉こうしょうつづけていた[6]。しかしスタッフのきびしさが評判ひょうばんになっていたきょうつまみ仕事しごと大竹おおたけかたくなにいやがり[40]東映とうえいしゃ『クロニクル東映とうえい』でのしゃ証言しょうげんでも「主演しゅえん大竹おおたけしのぶさんを候補こうほげていたのだが、どうしてもOKがとれなかった。『アクションのしゃ作品さくひんでは(出演しゅつえんしたくない)』ということではなかったかとおもう」とかれている[41]。その当時とうじしゃ評判ひょうばんは、芸能げいのうかいであまりこのましいものではなく「あの監督かんとくにかかったら、なにをされるかからない。間違まちがいなくがされるだけ」と、とく女優じょゆうあいだ敬遠けいえんされていた[1][29]大竹おおたけりるとってきてしゃ連日れんじつさけみ、「上等じょうとうだ!大竹おおたけしのぶがなんぼのもんじゃい!」と息巻いきまいていたといわれる[29]しゃ自分じぶんからはがんとして女優じょゆうあたまげることはなく、あたまげたのは遺作いさくとなった『おんなころせ地獄じごく』(1992ねん)の樋口ひぐち可南子かなこだけだったという[42]しゃは「大竹おおたけがダメならほか女優じょゆうで」と要請ようせいしたが、東映とうえい製作せいさくサイドが「せめてヒロインだけは大物おおもの女優じょゆうにしてはくをつけないと文芸ぶんげい作品さくひんとしてりたない」と拒否きょひ当時とうじ大竹おおたけ演技えんぎ女優じょゆうとしてとりとすいきおいだった。クランクインを半年はんとし延期えんきして、さらにだいたけ出演しゅつえん交渉こうしょうねばづよつづけたがやはり大竹おおたけ辞退じたいした[29]。この時点じてん岡田おかだは「製作せいさく一時いちじ中断ちゅうだんまれた」とはなしている[30]

夏目なつめ雅子まさこのヒロイン抜擢ばってき[編集へんしゅう]

スタートから頓挫とんざしかけてきたころ、夏目なつめがり、夏目なつめしゃ電話でんわしてきた。[40]「わたしはモデルがりの女優じょゆうたまごです。今度こんど映画えいが企画きかくのことをりました。ぜひ、わたしにやらせてください」。ハキハキしたこえでこうはなすと10ふんもたたぬうちに、しゃ自宅じたく夏目なつめ訪問ほうもんしてきた[40]直接ちょくせつ交渉こうしょうにはおうじない流儀りゅうぎしゃは、ただちに「かえってくれ」とくちしかけたとき、いきなり夏目なつめは『おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』の台本だいほん玄関げんかん土間どまくと、そのうえ正座せいざして両手りょうていて「このホンにのりました」とった[40]テレビドラマ西遊せいゆう』での 三蔵さんぞう法師ほうしのイメージしか、しゃ夏目なつめたいしてっていなかったが、意表いひょうかれ思案しあんする余裕よゆうあたえない夏目なつめのような熱意ねついかんじたとべている[41]日下部くさかべ和田わだつとむ演出えんしゅつしたNHKドラマザ・商社しょうしゃ』(1980ねん)で、毅然きぜんいでヌードを披露ひろうしていた夏目なつめを「このげる」と推薦すいせんしたとはなしている[15]

しゃむすめともえ著書ちょしょで、東映とうえいしゃかれた上記じょうきしゃはなしつくばなし実際じっさいはプロデューサーの事務所じむしょ夏目なつめマネージャー同伴どうはんしゃはじめてい、初対面しょたいめんときから物怖ものおじすることなく、人懐ひとなつっこいみで「松恵まつえやく自分じぶんができたらラッキーだ」と屈託くったくなくはなした夏目なつめ度胸どきょうりんとした美貌びぼう大層たいそう抜擢ばってきまった、というのが真相しんそういている[43]しゃともえは「サービス精神せいしん旺盛おうせいちちが、ときとして会話かいわさえも相手あいてよろこぶように自分じぶんりゅう脚色きゃくしょくしたのではないか」とべている[43]夏目なつめ当時とうじすで人気にんきてはいたが、映画えいがのヒロインをるにはまだ新人しんじん映画えいがはヒットしないんじゃないかとおもわれた[29]東映とうえい製作せいさくサイドは最後さいごまでしぶったが、セットが完成かんせいしていたこともあり、どうにかクランクインとなった[29]夏目なつめ文学ぶんがく其田そのだ事務所じむしょ)に所属しょぞくしていたため、岡田おかだ文学ぶんがく出向でむいて同郷どうきょう杉村すぎむら春子はるこ夏目なつめ起用きよう了承りょうしょう[31]岡田おかだは「松恵まつえやくにはまる女優じょゆうがなかなかつからず、製作せいさく一時いちじ中断ちゅうだんまれた。それからみな必死ひっし女優じょゆうさがしにはしまわってようやく発掘はっくつしたのが文学ぶんがく所属しょぞくしていた夏目なつめ雅子まさこさんである」とはなしている[30]

おにりゅういん政五郎まさごろうおにせい[編集へんしゅう]

今回こんかい女性じょせいきゃくむため「文芸ぶんげい作品さくひん」のかまえをせなければならないが、従来じゅうらい東映とうえいきの役者やくしゃでは「いつものようにおとこくさ東映とうえいヤクザ映画えいが」と敬遠けいえんされるおそれがある[18]。そこで東映とうえい東京とうきょう撮影さつえいしょ製作せいさくされただいヒット戦争せんそう映画えいがひゃくさん高地こうち』(1980ねん)に主演しゅえんしていて、本社ほんしゃ営業えいぎょうサイドにも信頼しんらいのあった仲代なかだい達矢たつや日下部くさかべ出演しゅつえん依頼いらいした[18]日下部くさかべは「プロデューサーとしては、監督かんとくまえ主演しゅえんだれでやるかが最初さいしょる」「佐藤さとう正之まさゆきさんに『仲代なかだいさんをしてくれ』とったら『しゃ仲代なかだいをパッケージでつけたい』とわれた」などとはなしている[11]仲代なかだいほんさく出演しゅつえん東映とうえいれこみ[44]、「機会きかいがあったらまたやりましょう」という言葉ことばをもらったため、東映とうえい仲代なかだい主演しゅえん企画きかくかんがえるようになった[44]仲代なかだいはこれ以前いぜん東映とうえいとはえんうす役者やくしゃだった[44]

正妻せいさい[編集へんしゅう]

しゃ岡田おかだに「岩下いわした志麻しまみたい」と直談判じかだんぱん[30]岩下いわした松竹しょうちく至宝しほうで、松竹しょうちくしをしぶったといわれる[11]しゃから「このやくいきかたきっぽくて、岩下いわしたさんはいままでそういうやくをやっていないから、そういうものをしたい。このやくで、そういう芸域げいいきひろげていくきっかけにしたらどうか」とアドバイスを承諾しょうだくした[30]岩下いわしたのヤクザのあねやくほんさくはじめて。岩下いわしたふとももずみせる官能かんのうてきなシーンをみずか提案ていあんし、東映とうえいという縁遠えんどおかった世界せかい一気いっきにのめりんだ[45]ほんさくでは夏目なつめっていかれたが[46]、これが1986ねんからのたりやく極道ごくどうつまたちシリーズ」につながる[47]。『ごくつま』ではすごみのいたひくこえで「あんたら、覚悟かくごしいや!」とピストルをぶっはなし"あね"イメージを決定的けっていてきにした[45][48]松竹しょうちくそだちの岩下いわしたきょうつまみ初日しょにちはびくびくだったとはなしている[30]仲代なかだい岩下いわしたは『雲霧くもぎり仁左衛門にざえもん』(1978ねん)でしゃ一緒いっしょ仕事しごとをしており気心きごころれていた。

夏木なつきマリ[編集へんしゅう]

おにせい敵対てきたいするくみあねやくえんじた夏木なつきマリ当時とうじ歌手かしゅ仕事しごとをもっぱらにしていたが、歌手かしゅ時代じだい夏木なつきのショーをていたしゃだい抜擢ばってきした[49][50][51]夏木なつきは「れない歌手かしゅがふてくされて舞台ぶたいをやっていたトンネル時代じだいだったので、またゆめれればいいな、とおもいながら、それでもれない歌手かしゅ起死回生きしかいせいねらうチャンスとおもった」[49]浅田あさだ美代子みよこチャンやけんナオコ映画えいが事務所じむしょがらみでたことはあったけど、シナリオんだのはこれがはじめて」[50]などとはなしている。最初さいしょわたされたシナリオでは自身じしん出番でばんが8シーンしかなく、シーンすうすくないのが不満ふまんで、出番でばんおお中村なかむら晃子あきこやくえてくれとたのんだら、キャラクターにわないからダメといわれ、しゃになだめられて不承不承ふしょうぶしょうやったら、出来上できあがった映画えいが中村なかむらのシーンが大幅おおはばにカットされていて「映画えいがってこわいなあ」とおもったという[50]

そののキャスト[編集へんしゅう]

新藤しんどう恵美えみヘアをチラチラさせて熱演ねつえん[52]

脚本きゃくほん[編集へんしゅう]

当初とうしょ野上のかみ龍雄たつお担当たんとうする予定よていだったが、「自分じぶん出生しゅっしょうかさなりすぎている」と降板こうばん高田たかだ宏治こうじ起用きようされた[53]しゃ高田たかだたいして尊大そんだい態度たいどったが、高田たかだ脚本きゃくほんのアイデアをいて態度たいど一変いっぺんさせ意気投合いきとうごうし、そのもコンビでおおくの作品さくひんした[53][54][55]。「なめたらいかんぜよ!」のめいゼリフは、宮尾みやお原作げんさくにはない高田たかだ創作そうさくしゃ芸能げいのうかい復帰ふっきからほんさくのクランクインまで1ねんもかかり、しゃ高田たかだとの電話でんわでのわせで、自分じぶんをなかなかみとめてくれない世間せけんたいしていかりをぶちまけ、この言葉ことばをよくいた[13][54][56][57]高田たかだしゃ心中しんちゅうのおもいやり「なめたらいかんぜよ!」というセリフをかさねた[6][56]夏目なつめ見事みごと本番ほんばんいちかいでこのセリフをめた[58]試写ししゃ宮尾みやおは、このセリフにビックリ仰天ぎょうてんし、映画えいが公開こうかいは「なめたらいかんぜよの宮尾みやおさん」とわれることになり、困惑こんわくしたとはなしていたという[8]しゃ日常にちじょうなかでぽんぽん素晴すばらしい言葉ことばひとで、高田たかだ記憶きおくしていくつかシナリオで起用きようしているという。このためシナリオはしゃ一緒いっしょいている感覚かんかくがあり、しゃ自身じしん生理せいりがシナリオにおおはいっている、と高田たかだはなしている[57]

撮影さつえい[編集へんしゅう]

初日しょにち撮影さつえいわったのち夏目なつめしゃに「かくしていたことがあります」とはなしし「もうろされる心配しんぱいはないとおもうのでもうします。じつバセドばせどびょう悪化あっかして入院にゅういんすることになりました。手術しゅじゅつのため1カ月かげつやすませてください。だましてごめんなさい。どうしてもこの仕事しごとをやりたかったのです」とした[1][41][40]最初さいしょから病気びょうきのことがかっていたら「松恵まつえやくろされていたが、ルール違反いはんをあえてするほど、夏目なつめはこのやく執着しゅうちゃくしていた[40]主役しゅやくきゅうやす混乱こんらんしたが、夏目なつめ病気びょうき療養りょうようちゅうは、さき仙道せんどう敦子あつこによる子供こども時代じだいの「松恵まつえ」の撮影さつえいすすめた。1カ月かげつ約束やくそくどおり夏目なつめ復帰ふっきし、手術しゅじゅつこん痛々いたいたしかったが、仲代なかだいとのはじめ、以前いぜんまさ体当たいあたり演技えんぎせた[59]夏目なつめ復帰ふっきは5カ月かげつだったともいわれる[58]。しかし撮影さつえいわるとさけ過度かどむようになった。ウイスキーをボトル1ほん、それもストレートであける。しかしどんなにもうと、翌朝よくあさはきちんと時間じかんどおりに撮影さつえい現場げんばるので文句もんくけようがなかった[41]完成かんせいのキャンペーンで高知こうちったとき旅館りょかんしゃ仲代なかだい達矢たつや夏目なつめわせて口説くどこうとしたが、夏目なつめさけ滅法めっぽうつよさきしゃ仲代なかだいがひっくりかえったといわれる[39]主演しゅえん仲代なかだいは、後年こうねん回想かいそうろくで、共演きょうえんしゃつか夏目なつめめている[60]

美術びじゅつ西岡にしおか善信よしのぶ撮影さつえいもり田富たとみ士郎しろうは、しゃが1969ねんの『ひと』で腕前うでまえれこみ、ほんさくでも指名しめいされ参加さんかした。西岡にしおか森田もりたは、文豪ぶんごう小説しょうせつ数多かずおお映画えいがした大映だいえい京都きょうと撮影さつえいしょ出身しゅっしんで、それまでのきょうつまみ作品さくひんにはられなかった気品きひんただよっていた。上品じょうひん高級こうきゅうかんのある映像えいぞうは、それまできょうつまみ作品さくひんけてきた女性じょせいきゃくにもれられだいヒットにつながった。ほんさく以降いこうきょうつまみ映画えいがづくりは一気いっきに、女性じょせいきゃく意識いしきした「高級こうきゅうつくり」へ傾斜けいしゃしていった[61]

宣伝せんでん[編集へんしゅう]

ほんさくにはおにりゅう院政いんせい五郎ごろうやく仲代なかだい達矢たつやはじめ、荒々あらあらしいおとこたちが登場とうじょうする。しかし宣伝せんでんポスターにはそうした雰囲気ふんいきまったせず、和服わふく姿すがた夏目なつめ雅子まさこだけをうつした。予告編よこくへん女優じょゆう前面ぜんめんしたつくりで、それまでの泥臭どろくさい「おとこ世界せかい東映とうえいのイメージを意図いとてきかくし、妖艶ようえんうつくしさにあふれる「おんな世界せかい」を強調きょうちょうした[62]1960年代ねんだいから1970年代ねんだいにかけてきょうつまみ製作せいさくした作品さくひん女性じょせいきゃくはほとんどいなかった、あるいはおそれて近寄ちかよらなかった[62]。そのため女性じょせいきゃく東映とうえい劇場げきじょうむためには、今度こんど作品さくひんいままでとはちがうというアピールが特別とくべつ必要ひつようだった[63]てて期待きたいせていなかった新人しんじん女優じょゆう夏目なつめ雅子まさこ豹変ひょうへんに、現場げんばスタッフも度肝どぎもかれ、京都きょうとからおくられてきたプリントを宣伝せんでんスタッフも夏目なつめ台本だいほんにはかれてなかった「なめたらいかんぜよ!」の啖呵たんかるシーンを予告編よこくへんとテレビスポットに使つかうことをめた[64]。その結果けっか、「なめたらいかんぜよ!」の言葉ことば世間せけんわたり、『おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』がだいヒットするきっかけとなった。ほんさく新聞しんぶん広告こうこくは、1982年度ねんど朝日あさひ広告こうこくしょう受賞じゅしょうしている[65]

公開こうかい[編集へんしゅう]

東映とうえい営業えいぎょう劇場げきじょう支配人しはいにんだれ一人ひとりほんさくのヒットを予想よそうするものはおらず[29]女性じょせいそうむのはむずかしいのではというぜん評判ひょうばんだった[66]、11おくえん配給はいきゅう収入しゅうにゅうげたが、岡田おかだは「テレビドラマではえがけない、いものを映画えいがでは映像えいぞうできることがヒットの要因よういん」と自己じこ分析ぶんせきしている[66]各地かくち劇場げきじょうでは女性じょせいきゃくが6わり以上いじょうめ、女性じょせいきゃく獲得かくとく課題かだいになっていた東映とうえいにとってひさしぶりの快挙かいきょであったと同時どうじに、興行こうぎょうてきにもだい成功せいこうおさめた[53][65]

後続こうぞく作品さくひんへの影響えいきょう[編集へんしゅう]

ほんさく公開こうかいまえから[67]岡田おかだ社長しゃちょう夏目なつめみ、夏目なつめ主演しゅえん任侠にんきょう映画えいが―これまでのような任侠にんきょう映画えいがではなく、あたらしいかたちの、おんなから任侠にんきょうどうえが任侠にんきょう路線ろせん復活ふっかつさせようと夏目なつめ主演しゅえんあたらしい看板かんばん路線ろせん構想こうそうした[67][68]じつは『青春せいしゅんもん』に起用きようした松坂まつさか慶子けいこ東映とうえいいてこれをやろうとしたが[67]松坂まつさかきに失敗しっぱいしていた[67]岡田おかだ松坂まつさかこうとしていることを深作ふかさく欣二きんじは、1982ねん6がつ10日とおか松竹しょうちく本社ほんしゃであった『道頓堀どうとんぼりがわ』のマスコミ試写ししゃかい終了しゅうりょうおこなわれた記者きしゃ会見かいけん[69]記者きしゃの「ヤクザ映画えいがつくらないのですか?」という質問しつもんたいして「松坂まつさかさんでりゅうさんなんかやると面白おもしろいでしょうな。こんなことをうと東映とうえい岡田おかだ社長しゃちょうおこられるかな」と軽口かるくちをたたいた[69]岡田おかだつぎ夏目なつめけ、「夏目なつめ雅子まさこ松坂まつさか慶子けいこえる女優じょゆうや」といた[67]具体ぐたいてきにはまず、山口組やまぐちぐみさん代目だいめ女房にょうぼうから任侠にんきょう世界せかいえがく『制覇せいは』に夏目なつめ主演しゅえん指示しじしていたが[67]夏目なつめはこのオファーに難色なんしょくしめしてあえなく頓挫とんざ[68]東映とうえい夏目なつめおんなヤクザ路線ろせんかれることはなく、夏目なつめ二度にどとヤクザ映画えいがをやらなかった。『おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』は夏目なつめ唯一ゆいいつ出演しゅつえんしたヤクザ映画えいがである。岡田おかだ構想こうそうによる女性じょせい任侠にんきょうしん路線ろせんはこののち文芸ぶんげい作品さくひんとミックスし、夏目なつめ以外いがい女優じょゆうたちによって実現じつげんうつされ[30]、1980年代ねんだい東映とうえいはしらになっていった[7][70][71][72][73]夏目なつめもとには映画えいが会社かいしゃ各社かくしゃ争奪そうだつせんひろげ、夏目なつめ自身じしん次回じかいさく松竹しょうちく時代じだい女房にょうぼう』をえらんだ[68]

しゃは「『おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』がヒットしたら『かい』も『あきらろう』もらせてください」と岡田おかだ約束やくそくけていたため[29]ほんさくだい成功せいこう監督かんとくとして復活ふっかつし『あきらろう』『かい』をることが出来でき[1][20][64]

おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』『あきらろう』『かい』は、しゃ宮尾みやお登美子とみことのコンビ作品さくひんで「高知こうちさんさく」ともばれた。これらは東映とうえいあらたな“女性じょせい文芸ぶんげい大作たいさく路線ろせん”を確立かくりつさせた[30][41][70][74]

東映とうえい男性だんせい路線ろせん中心ちゅうしんだった1963ねんひがしつまみ所長しょちょう時代じだい岡田おかだしげるが、プロデューサー生命せいめいけて佐久間さくま良子りょうこを『五番ごばんまちゆうきりろう』(水上みずかみつとむ原作げんさく田坂たさかたかし監督かんとく)のヒロインに抜擢ばってきしてだいヒットさせ、東映とうえいに“女性じょせい文芸ぶんげい路線ろせん”を開拓かいたくしたことがあったが[7][75][76]、1970年代ねんだいにはかげひそめていた[7]おおきなムーブメントになったのは『おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』のだいヒットが[7][65][77]文芸ぶんげい原作げんさく東映とうえい得意とくい任侠にんきょうくわえて、女優じょゆうたちのエロチシズム。ここにあらたな鉱脈こうみゃく見出みいだした東映とうえいは、宮尾みやお登美子とみこ原作げんさく続々ぞくぞく映画えいが[28]おとこ顔負かおまけの啖呵たんか土佐とさ女性じょせいたちのイメージは1986ねんからはじまる「極道ごくどうつまたちシリーズ」にがれた[7][71][72][78]。テレビドラマでも女子じょし高校生こうこうせい刑事けいじ最後さいご啖呵たんかってあくたおす『スケバン刑事けいじ』が1985ねんからはじまり、土佐とさべん啖呵たんかまった『代目だいめスケバン刑事けいじ』の南野みなみの陽子ようこが、シリーズ最高さいこう人気にんきあつめた[7]

逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • しゃはテレビ出身しゅっしん映画えいが監督かんとく先駆さきがけであるが[79]きょうつまみ所長しょちょう岡田おかだしげるは1966ねん時代じだいげき低迷ていめいしたきょうつまみあたらしい導入どうにゅう模索もさくし、中村なかむら錦之助きんのすけしたしかった本田ほんだのべ三郎さぶろうからの推薦すいせんしゃまねいていた[80]中村なかむら主演しゅえん丹下たんげひだりぜん 飛燕ひえん居合いあい』と、夏八木なつやぎ夏木なつきくん主演しゅえんきばおおかみかいシリーズ』と、2ほん映画えいがしゃ監督かんとくしている[30][79][80]しゃは『丹下たんげひだりぜん』できょうつまみ竹光たけみつによる殺陣さつじん製作せいさくしたが、『きばおおかみかい』ではかたな重量じゅうりょうかん表現ひょうげんし、たたかいに生々なまなましい迫力はくりょくもとめ、ジュラルミン仕様しようかたな[注釈ちゅうしゃく 1]殺陣さつじんるつもりだった。それでも夏八木なつやぎ殺陣さつじん相手あいてをする東映とうえいけんかいから竹光たけみつ要望ようぼうされ、しゃれる[80]。クランクインまえからてつ稽古けいこしていた夏八木なつやぎ[79]竹光たけみつちからぎて相手あいて怪我けがわせてしまい、けんかい反発はんぱつ[80]。これ以降いこうしゃきょうつまみっていなかった[80]
  • ほんさくだいヒット以降いこうしゃだい監督かんとくみちを、夏目なつめ雅子まさこだい女優じょゆうみちあゆむが、夏目なつめはこのわずか3ねんくなった。しゃ夏目なつめ葬儀そうぎのちくなる2週間しゅうかんまえ夏目なつめおとうと小達おだて敏昭としあき当時とうじ高校生こうこうせい)がったという夏目なつめ写真しゃしんわたされた。くろいカーテンのまえに、あか長襦袢ながじばんしごき1ほん姿すがたち、両手りょうて紙吹雪かみふぶき中空ちゅうくうらしている写真しゃしんだった。しゃは「あの紙吹雪かみふぶきカルテやぶった紙片しへんではなかったか。わたしは、女優じょゆうすさまじいばかりの執念しゅうねんおもいがした。夏目なつめさんは外見がいけんのさっぱりさにず、はかれない魔性ましょううめきがけたたましく、わたしを途方とほうにくれさせた。彼女かのじょ魔性ましょうこそが、あの映画えいがかした。しかしなぜか、くわしい説明せつめいはできないのだ。わたしのこの映画えいがおんな魔性ましょうのにおいをつよつつんだ。28さい短命たんめいったひとりのおんなの憶いをわたしごときがはかることができるはずがあろうか」などとべている[41]
    • だが夏目なつめ死去しきょから33ねんた2018ねん3がつ23にち放送ほうそうの『ばくほう! THE フライデー』(TBS系列けいれつ)にて、実際じっさいにこの写真しゃしん撮影さつえいしたカメラマンの岩田いわた省三しょうぞう取材しゅざいこたえ、「じつくなるすうねんまえ展覧てんらんかいけに撮影さつえいさせてもらったもの」とはなした。つまり写真しゃしんくなる2週間しゅうかんまえったものではなく、白血病はっけつびょう発症はっしょうもしていないときられたものだとかしている。岩田いわた夏目なつめがデビュー直後ちょくごの20さいごろ出演しゅつえんした銀行ぎんこう広告こうこく写真しゃしんがけて以来いらいなかで、くだんの写真しゃしん夏目なつめ自身じしんっていたため岩田いわたから本人ほんにんにも1まいプレゼントされており、その1まい夏目なつめ死後しご家族かぞくから「しゃ監督かんとくっていてしい」とたくされたという。番組ばんぐみない岩田いわたは、しゃ上記じょうきのようなことをべた理由りゆうについて「1ほんのドラマをつく映画えいが監督かんとくなので、夏目なつめ雅子まさこやまいけて旅立たびだったのではなく最後さいごまでやまいたたかつづけたすご女優じょゆうだったことをつたえるための演出えんしゅつだったのでは」という趣旨しゅしのことをべている。
  • 1985ねん9がつ13にちにフジテレビ系列けいれつで2にちまえ急逝きゅうせいした夏目なつめ追悼ついとう番組ばんぐみとしてテレビ放送ほうそうされたさいには視聴しちょうりつ34.8%(関東かんとう地区ちくビデオリサーチ)を記録きろく映画えいが放送ほうそうとしては歴代れきだい11日本にっぽん映画えいがとしては歴代れきだい8である[82]

テレビドラマ[編集へんしゅう]

テレビドラマ(1984ねん[編集へんしゅう]

1984ねん昭和しょうわ59ねん)7がつ17にち - 8がつ21にちまでTBS系列けいれつにて放送ほうそう放送ほうそう時間じかん毎週まいしゅう火曜日かようび21:00 - 21:54。ぜん6

松恵まつえ焦点しょうてんをあてた[83]

キャスト[編集へんしゅう]

スタッフ[編集へんしゅう]

サブタイトル[編集へんしゅう]

  1. げたらいかんぜよ(7がつ17にち
  2. れたらいかんぜよ(7がつ24にち
  3. んだらいかんぜよ(7がつ31にち
  4. けたらいかんぜよ(8がつ7にち
  5. いたらいかんぜよ(8がつ14にち
  6. なめたらいかんぜよ(8がつ21にち

テレビドラマ(2010ねん[編集へんしゅう]

2010ねん平成へいせい22ねん)6がつ6にちテレビ朝日てれびあさひけいにてスペシャルドラマとして放映ほうえい主演しゅえん観月みづきありさ視聴しちょうりつ13.9%。

メインの観月みづき岡田おかだ浩暉ひろきフジテレビけいドラマで映画えいがもされた『ナースのお仕事しごと』でも共演きょうえんしていた。また“御前ごぜん”こと須田すだやく夏八木なつやぎは、映画えいがばん当時とうじは「夏木なつきいさお名義めいぎ)では兼松かねまつえんじていた。

ストーリー[編集へんしゅう]

まずしいいえまれた主人公しゅじんこう松恵まつえは6さいのとき、跡継あとつぎにとのぞまれたあにの"おまけ"として、どものいないおにりゅう院政いんせいろう養女ようじょはいる。成長せいちょうした松恵まつえ政五郎まさごろう反対はんたいって進学しんがく小学校しょうがっこう教師きょうしとしてはたらきはじめる。やがてはじめてのこい経験けいけん。しかし、そのこいおとずれたのは、ひどく、かなしい結末けつまつだった。"おまけの"である自分じぶんにとって、このいえでの居場所いばしょはどこにもない……そうかんじていたはずの松恵まつえ。だが、おおきなかなしみのなかで、次第しだいのつながらないいもうと花子はなこ義理ぎりははうた、そして義父ぎふ政五郎まさごろうへのあい見出みいだし、自分じぶんが"おにりゅういんむすめ"であることを痛感つうかんしていく。

キャスト[編集へんしゅう]

スタッフ[編集へんしゅう]

おくれネットきょく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく
  1. ^ 刃引はびきはしてあるが、てつ重量じゅうりょうかたなおな[79]
出典しゅってん
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参考さんこう文献ぶんけん・ウェブサイト[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]