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天孫降臨 - Wikipedia コンテンツにスキップ

天孫てんそん降臨こうりん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
火中かちゅう出産しゅっさんから転送てんそう
歌川うたがわ国芳くによし日本国にっぽんこく開闢かいびゃく由来ゆらいまき天津てんしん日子にっしばんのう邇邇げいいのちあまつひこほのににぎのみこと降臨こうりん於筑むらさき日向ひなた高千穂たかちほ槵触ほうつくしひむかのたかちほのくしふるがたけにあまくだりたまふづ

(てんそんこうりん)とは、天孫てんそんぞく邇邇げいいのちににぎのみことが、こうすめらぎさんれいみこと意嚮いこうによって[1]、もしくは天照大御神あまてらすおおみかみかみみことのりけて[2]葦原よしわら中津なかつこくおさめるために、高天原たかまがはらから筑紫つくし日向ひなたかさね[3][4]高千穂峰たかちほのみねてんくだあまくだったこと[ちゅう 1]。邇邇げいいのち天照大御神あまてらすおおみかみからさずかった三種さんしゅ神器じんぎをたずさえ、てんいのちあまのこやねのみことなどのかみ[ちゅう 2]れて、高天原たかまがはらから地上ちじょうへとかう。途中とちゅう猿田さるた毘古しんさるたひこのかみ案内あんないをした。『記紀きき古事記こじき日本書紀にほんしょき)』にしるされた日本にっぽん神話しんわである。

古事記こじき[編集へんしゅう]

天孫てんそん邇邇げいいのち誕生たんじょう[編集へんしゅう]

天照大御神あまてらすおおみかみ高木たかぎかみこう御産おさんしん)は、天照大御神あまてらすおおみかみであるてんしのぶみのるみみいのちに、「葦原よしわら中国ちゅうごく平定へいていわったので、以前いぜん委任いにんしたとおりに、てんって葦原よしわら中国ちゅうごくおさめなさい」(「今平いまひら訖葦はら中国ちゅうごくなんじとう依命いめい下降かこう而統」『古事記こじき』)とった。

てんしのぶみのるみみいのちは、「天降あまくだりの準備じゅんびをしているあいだに、の邇邇げいいのちまれたので、このくだすべきでしょう」(「ぼくしゃはたくだ装束しょうぞくあいだ せいいち 其名てん邇岐こころざしこく邇岐こころざし天津てんしん日高ひだか日子にっしばんのう邇邇げいいのち 此子おうくだ也」『古事記こじき』)とこたえた。邇邇げいいのちは、てんしのぶみのるみみいのち高木たかぎかみむすめ万幡豊秋津師比売命とのあいである。

それでかみは、邇邇げいいのち葦原あしはらなかくに統治とうち委任いにんし、天降あまくだりをめいじた。

猿田さるた毘古[編集へんしゅう]

邇邇げいいのち天降あまくだりをしようとすると、てんはちやちまたに、高天原たかまがはらから葦原あしはらなかくにまでをらすかみがいた。そこで天照大御神あまてらすおおみかみ高木たかぎかみてん宇受うりいのちに、そのかみだれなのかたずねるようめいじた。そのかみ国津くにつしん猿田さるた毘古しんで、天津てんしんしん御子みこ天降あまくだりすると先導せんどうのためむかえにたのであった。

天孫てんそん降臨こうりん[編集へんしゅう]

邇邇げいいのち天降あまくだりに、てんいのちぬのがたなだまいのちてん宇受うりいのち斯許うりいのちたまいのちともいとぐちいつとものおしたがうことになった。

さらに、天照大御神あまてらすおおみかみ三種さんしゅ神器じんぎおもえきんしん手力てじから男神おかみてん石門せきもんべつしんえ、「このかがみわたしたましいおもって、わたしおがむようにけいまつりなさい。おもえきんしんは、祭祀さいしあつか神宮じんぐう政務せいむおこないなさい」とった。

はち咫鏡とおもえきんしん伊勢神宮いせじんぐうまつってある。のぼりゆかり宇気うけしん伊勢神宮いせじんぐう外宮げくう鎮座ちんざする。てん石門せきもんべつしんは、別名べつめいくしせきまどしん、またはゆたかせきまどしんい、御門みかどかみである。手力てじから男神おかみけんさなながた鎮座ちんざする。

てんいのちちゅうしんれんなかとみのむらじらの、ぬのがたなだまいのち部首ぶしゅいむべのおびとらの、てん宇受うりいのちさるおんなくんさるめのきみらの、斯許うりいのちさくきょうれんかがみつくりのむらじらの、たまいのちたまれんたまのおやのむらじらの、それぞれ祖神そしんである。

邇邇げいいのち高天原たかまがはらはなれ、てん浮橋うきはしから浮島うきしまち、筑紫つくし日向ひなた高千穂たかちほひさぬのりゅう多気たきくじふるたけてんった。

てんにんいのち天津てんしん久米くめいのち武装ぶそうして先導せんどうした。てんにんいのち大伴おおともれんおほとものむらじらの、天津てんしん久米くめいのち久米くめただしくめのあたひらの、それぞれ祖神そしんである。邇邇げいいのちは「この韓国かんこくからくにかい、笠沙かささかささみさきまでしんみちつうじていて、朝日あさひのよくくに夕日ゆうひのよくくにである。それで、ここはとても土地とちである」とって、そこに宮殿きゅうでんててむことにした。

猿田さるた毘古とてん宇受うり[編集へんしゅう]

邇邇げいいのちてん宇受うりいのちに、猿田さるた毘古しんおくとどけて、そのかみってつかえるようった。それで、猿田さるた毘古しんってさるおんなくんうのである。

猿田さるた毘古しんは、おもね耶訶あざかりょうをしているとき比良びらおっとかいはさまれておぼれてしまった。そこしずんでいるときそこひさしたましいといい、あわつぶのぼときおっとおおたましいといい、そのあわけるときおもね和佐わさひさたましいという。

てん宇受うりいのち猿田さるた毘古しんおくってかえってきて、あらゆるさかなあつめて天津てんしんしん御子みこ(邇邇げいいのち)につかえるかといた。おおくのさかなつかえるとこたえたなかナマコだけがこたえなかった。そこでてん宇受うりいのちは「このくちこたえないくちか」とって小刀こがたなくちいてしまった。それでいまでもナマコのくちけているのである。

木花きばな佐久さくよる毘売と石長いしながうり[編集へんしゅう]

邇邇げいいのち笠沙かささみさきうつくしいむすめった。むすめ大山おおやま見神けんしんかみおもねうり別名べつめい木花きばな佐久さくよる毘売といった。邇邇げいいのち求婚きゅうこんするとちちくようにとわれた。そこでちちである大山おおやま見神けんしんたずねると大変たいへんよろこび、あね石長いしながうりとともにした。しかし、石長いしながうりはとてもみにくかったので、邇邇げいいのち石長いしながうりおくかえし、木花きばな佐久さくよる毘売だけと結婚けっこんした。

大山おおやま見神けんしんは「わたしむすめにん一緒いっしょげたのは、石長いしながうりつまにすれば天津てんしんしん御子みこ(邇邇げいいのち)のいのちいわのように永遠えいえんのものとなり、木花きばな佐久さくよる毘売をつまにすればはなくように繁栄はんえいするだろうと誓約せいやくうけひをしたからである。木花きばな佐久さくよる毘売だけと結婚けっこんしたので、天津てんしんしん御子みこいのちはなのようにはかなくなるだろう」(「わがこれおんな二並立奉者有因 使つかいせき長姫おさひめしゃ 天神てんじん御子みこいのち雖雪れい風吹ふぶき ひさし如石而常かた不動ふどうすわ また使つかい木花きばな佐久さくよるひめしゃ 如木はなさかえさかえすわ いんりつ此誓しゃ而使じょみつぎすすむ こんなんじれいかえしせき長姫おさひめ而独とめ木花きばな佐久さくよるひめ 今後こんご天神てんじん御子みこ寿ことぶきしゃ はた如木はなややたてそく逝矣」『古事記こじき』)とった。それで、現在げんざいでも天津てんしんしん御子みこ寿命じゅみょうながくないのである。

日本書紀にほんしょき[編集へんしゅう]

ちゅう日本書紀にほんしょき本文ほんぶんいちしょあるふみについて:本文ほんぶんのちちゅうかたちで「いちしょいわく」としておおくのつてめている。本文ほんぶんことなるつて併記へいきするという編纂へんさん方針ほうしん。ここではまず本文ほんぶん説明せつめいしたのちかくいちしょ説明せつめいする。

本文ほんぶん[編集へんしゅう]

日本書紀にほんしょき』のだいきゅうだん本文ほんぶんでは、てんあきら大神だいじんみこせい哉吾しょうかちそくてんしのぶみのるみみみことまさかあかつかちはやひあめのおしほみみが、こうすめらぎさんれいみことたかみむすひおんなむすめはたせん千姫せんひめたくはたちぢひめめとりて天津てんしん彦彦瓊瓊きねみことあまつひこひこほのににぎむ。

こうすめらぎさんれいみことは、皇孫こうそん天津てんしん彦彦瓊瓊きねみこと(ニニギノミコト)を葦原よしわら中国ちゅうごくあるじきみとするために、葦原よしわら中国ちゅうごくの「よこしまおにあしきもの」をはらう手立てだてをはちじゅうしょかみ相談そうだんしてこうじていた[9]。(くにゆず)

てんやや派遣はけんからはじまる葦原よしわら中国ちゅうごく平定へいてい(くにゆずり)ときこうすめらぎさんれいみことゆかおいふすままとこおふすまを以ちて、皇孫こうそんすめみま天津てんしん彦彦瓊瓊きねみことおおって降臨こうりんさせた。

皇孫こうそんてんいわあまのいはくら出発しゅっぱつし、またてんはちじゅうくもあめのやえくもけ、りょういつみちべつどうきて、日向ひなたひむかかさね高千穂たかちほみねたかちほのみねてんった[ちゅう 3]

つづいて道中どうちゅう解説かいせつ、その一人ひとりものがいて、みずかこと勝国かつくに勝長かつながせまことかつくにかつながさ名乗なのった。

皇孫こうそんは「くにりやいなや。」とたずねると、かれは「ここくにります。ねがわくは任意にんいみこころのまにまごしてください。」とこたえた。ゆえ皇孫こうそんおこなってまりんだ。

そのとき、そのくに美人びじんたおやめがいて、皇孫こうそんがこの美人びじんに、「おまえはだれか」とたずねると、「わらわやつこ天神てんじんあまつかみ大山おおやま祇神めとってんだです」とこたえた。鹿しかあしひめかしつひめという、とある。その鹿しかあしひめ出産しゅっさん逸話いつわがある。

最後さいごにしばらくして天津てんしん彦彦瓊瓊きねみこと崩御ほうぎょした(「くずしかむざりき」)。そこで筑紫つくしつくし日向ひなたひむか可愛かわいこれやまえのやまりょうみささぎ埋葬まいそうされた。

だいきゅうだんいちしょいち[編集へんしゅう]

だいきゅうだんいちしょいちでは、本文ほんぶん類似るいじするてんやや彦の派遣はけんから葦原よしわら中国ちゅうごく平定へいていがあり、つづいてときてんあきら大神おおがみ、「わかぜんらば、早速さっそくこうさん」とみことのりみことのりし。まさにろうとしていたとき皇孫こうそんすでにせいれき。天津てんしん彦彦瓊瓊きねみことう。そこでてんあきら大神おおがみ言葉ことばくわえて、「此の皇孫こうそんを以ちてえてくだあまくだらさんとよくおもう」とった、とある。

つづいて、ゆえてんあきら大神おおがみは、天津てんしん彦彦瓊瓊きねみこと八坂やさか瓊曲だまはち咫鏡およ草薙くさなぎけんてん叢雲むらくもけん)の三種さんしゅ宝物ほうもつみくさのたからたまう(さづけた)。

いであわせていつとものおかみはいえてさむらいはべらしむ(したがわせた)、とあり以下いかがそのかみである。

  • てんいのちあめのこやねちゅうしんなかとみうえとおつおや
  • ふとしだまいのちふとだま忌部いむべいむべうえ
  • てん鈿女いのちあめのうずめさるおんなさるめうえ
  • いししこりうばいのちいしこりどめかがみさくかがみつくりうえ
  • 玉屋たまやいのちたまのや玉作たまつくりたまつくりうえ

そして皇孫こうそんに、「葦原よしわらせんひゃくあき瑞穂みずほこくあしはらのちいほあきのみずほのくには、これ子孫しそんおうきみたるべきである。皇孫こうそんなんじおこなっておさめよ。さあかれよ。宝祚ほうそあまつひつぎたかしさかんなることまさに天壌てんじょうあめつちきゅうきわまりけん(永続えいぞくするだろう)」とみことのりした。これが天壌無窮てんじょうむきゅうあめつちときはまりなしかみみことのりである。

そうしてあいだに、先駆せんくものかえりて、「いちはしらかみりててんはちたちあまのやちまたり。はなながななななあたそびらながたけななしゃくななさかあまり。まさにななひろななひろうべし。またくちしりくちわきあかひかれり。はち咫鏡のごとくしてしかてりかがやけることあかさんあかかがち(ほおずき)にたり」。

そこでしたがえていたかみつかわしてたずねにかせた。このときはちじゅうまんかみやおよろずのかみがいたが、みな眼力がんりきけてあいうを出来できず。そこで(皇孫こうそんらは)とくてん鈿女いのちに「なんじ眼力がんりきかち(すぐ)れしかみである。ゆくひろよ」とみことのりす。

以下いかてん鈿女いのち衢神ちまたのかみさる田彦たびこ問答もんどうである。

  1. てん鈿女いのちむねをあらわにし、ころもひもほぞへそしたまでげあざわらい、衢神にかいつ。→ 衢神ざる田彦たびこ:「てん鈿女、なんじす(そんなことをする)はなにゆえぞ」とたずねた。
  2. てん鈿女いのち:「てんあきら大神だいじん御子みこ皇孫こうそん)がすす道路どうろみち如此かくきょいましゃるはだれぞ。敢てう」→ 衢神ざる田彦たびこ:「てんあきら大神だいじん御子みこいま、まさにくとく。ゆえむかまつりてあいつ。さる田彦たびこ大神だいじんぞ」
  3. てん鈿女いのち:「なんじはたさきさきだちくか、それとも、わがなんじさきくか」→ 衢神ざる田彦たびこ:「わがさきけいみちひらきかん」
  4. てん鈿女いのち:「なんじ何処どこいずこいたるや。皇孫こうそん何処どこいたるや」→ 衢神ざる田彦たびこ:「天神てんじん御子みこ、まさに筑紫つくし日向ひなたひむか高千穗たかちほたかちほさわこれみねくぢふるのたけいたるべし。伊勢いせ狭長きょうちょうさなだ五十鈴いすずいすず川上かわかみいたるべし」さらつづけ、「素性すじょうあきらかししゃなんじなり。なんじおくりて致るべし」

そのてん鈿女いのちかえまいいたりてじょうかたちほうかえりこともうす、とある。そこで皇孫こうそんてんいわあめのいわくらだつはなれち、てんはちじゅうくもけて、りょうみちべつみちべつて、てんくだあまくだる。はたしてさきちぎりごとく、皇孫こうそん筑紫つくし日向ひなた高千穗たかちほたかちほさわこれみねくじふるのたけいたる。

衢神ざる田彦たびこ伊勢いせ狭長きょうちょうでん五十鈴いすず川上かわかみ辿たどき、てん鈿女いのちは衢神ざる田彦たびこところずいおくとどけた。そこで皇孫こうそんてん鈿女いのちに、「なんじ素性すじょうあきらかにしたかみをもって姓氏せいしとせよ」とみことのりし、これによってさるおんなくんさずかった、とある。

前半ぜんはんてんあきら大神おおがみ仕切しき天壌無窮てんじょうむきゅうかみみことのりであり、後半こうはんてん鈿女いのちさる田彦たびこ問答もんどうがメインとなる。

だいきゅうだんいちしょ[編集へんしゅう]

だいきゅうだんいちしょでは、このときこうすめらぎさんれいみことは〜中略ちゅうりゃく〜とあり、以下いかかみを○○づくりとさだめた。

  • 紀国きのくにきのくに忌部いむべ遠祖えんそおけまけしんたおきほおいさくかさしゃかさぬいさだめる
  • 彦狭しんひこさちさくたてしゃたてぬいさだめる
  • 天目てんもくいち箇神あまのまひとつさくきんしゃかなだくみさだめる
  • 天日てんじつわししんあまのひわし作木さくぎ綿めんしゃゆうつくりさだめる
  • くしあかりだましんくしあかるたまさくだましゃたまつくりさだめる

そしてふとしだまいのちをして、じゃくかたやわかたふとししゅふとだすきとりかけて手代てだいみてしろ代表だいひょうしゃ)とした。また、てんいのちあまのこやねのみこと神事しんじかむことつかさどかみであったためふとしうらないふとまにぼくごとうらことによってつかたてまつらしむ、とある。

つづいてこうすめらぎさんれいみことは、「わがのり天津てんしんしんませあまつひもろきおよ天津てんしんいわさかいあまついわさかおこしたてて、まさに皇孫こうそんため祭祀さいしたてまつらん。なんじいましてんいのちたいだまいのちは、むべよろしく天津てんしんしんませもちたもちて、葦原あしはらなかくにりて、また皇孫こうそんため祭祀さいしたてまつられよ」とみことのりみことのりす。二神にかみふたはしらのかみつかわしててんしのぶみのるみみみことあまのおしほみみしたがわせてくだあまくだらす、とある。

このときてんあきら大神おおがみたからきょうたからのかがみち、てんしのぶみのるみみみことさづけて、「御子みこよ、たからきょうること、まさになおなおるがごとくすべし。あずかともゆかおなじくし御殿ごてんともにし、以ちて祭祀さいしかがみとされよ。」と祝福しゅくふくした。また、てんいのちたいだまいのちに、「おもんみこれなんじいましはしらかみまたまたどうとも殿しんがりうちさむらいさぶらいて、ふせまもるをいたせ」とみことのりす。また、「高天原たかまがはらところきこしめときにわゆにわいなほを以ちて、また、まさに御子みこしらせまつるべし。」とみことのりす、とある。

そして、こうすめらぎさんれいみことおんなむすめばんはたひめよろづはたひめてんしのぶみのるみみみことはいあわせてとさせ、くだあまくだらせた。その途中とちゅうきょてんあめきょいまして天津てんしん彦火瓊瓊きねみことまれたため、この皇孫こうそんおやわってらせようとかんがえ、てんいのちたいだまいのちおよしょ氏族しぞくもろとものおのかみかみ々をことごとく、みなあいさづけき。また、ふくこれぶつみそつものいちもはらまえさきりてさづける。そうしたのちてんしのぶみのるみみみことはまたてんかえる、とある。

それから、天津てんしん彦火瓊瓊きねみこと日向ひなたくしひ高千穗たかちほみねたけち、膂宍そししむねふくくにむなそうくにひたすらおかひたおからくにくだりとおりて、浮渚ざい平地ひらちうきじまりたひらった。そして、国主こくしゅくにのぬしこと勝国かつくに勝長かつながせましておとずれう。するとかれは「これここくにり、すてみことのりずいまにまに。(どうぞご自由じゆうに)」とこたえた。

そこで皇孫こうそん宮殿きゅうでんて、そこでゆういきやすんだのち海辺うみべすすんで一人ひとり美人びじんをとめかけた。皇孫こうそんが、「なんじいましこれこれだれぞ。」とたずねると、「わらわやつここれこれ大山おおやま祇神おおやまつみかみわれ田鹿たじかあしひめ、またの木花きばなひらき耶姫。」とこたえ、さらに、「また、あねいろねいわ長姫おさひめいわながひめり。」ともうげた。皇孫こうそんが、「わがなんじいましを以ちてづまとなさんとよくおもう、如之なにいかに。」とたずねると、「わらわちちかぞ大山おおやま祇神おおやまつみのかみり。ねがわくはたれといいたまえ。」とこたえた。

皇孫こうそんがそこでだい山祇やまずみしんに、「「わがなんじいまし女子じょし(むすめ)をる。以ちてづまとせんとほしう。」とかたると、大山おおやま祇神は使つかいおんな(ふたりのむすめ)をしてひゃくつくえ飲食いんしょくももとりのつくえものたしめてたてまつすすむたてまつる、とある。

すると皇孫こうそんは、あねほうみにくいとおもってさずやめけき。いもうとおととゆうこくしょくかおよしとしてしてこういき。すると一夜いちやにして身籠みごもみごもった。そこでいわ長姫おさひめおおいにじ、「かり使つかいたとえ天孫てんそんあめみまわらわしりぞけずさば、めるみこ寿ことぶきいのちながく、磐石ばんじゃくつねそんるがごとくにらんを、いますでしからず。ただおとうといもうとどくひとりをみそなわすは、めるみこかならはなごとうつろいちなん。」と呪詛じゅそべた。そのに、かみわれ田鹿たじかあしひめつてつたえている。

このいちしょでは前半ぜんはんてんいのちたいだまいのちしゅとしてえがき、後半こうはんいわ長姫おさひめ逸話いつわつたえている。

だいきゅうだんいちしょよん[編集へんしゅう]

だいきゅうだんいちしょよんでは、こうすめらぎさんれいみことゆかくつがえふすまを、天津てんしん彦国光彦みつひこ瓊瓊きねみことせ、こうすめらぎさんれいみことは、ゆかくつがえふすま天津てんしん彦国光彦みつひこ瓊瓊きねみことせて、てん磐戸いわどけて、てん幾重いくえものくもけてらせた。

このとき大伴おおともれん遠祖えんそであるてんにんいのちあまのおしひが、らいくめべ遠祖えんそであるてんくしだいらいあまのくしつのおおくめひきい、そびらにはてんいわうつぼあまのいわゆき背負せおい、うでにはりょうだかいつのたかともしるけ、にはてんくちなしゆみあまのはじゆみ天羽あもうはねあまのははやり、はちもく鳴鏑なりかぶらやつめのかぶらふくち、またあたまづちかぶつちのつるぎびる、とある

はしらかみ天孫てんそんあめみままえさきちて、すすり、日向ひなたかさね高千穂たかちほくしくしひふたつのいただきのあるみね辿たどき、浮渚ざい平地ひらちうきじまりたいらち、ひたすらおかひたおよりくにくだりとおりて、われでん長屋ながやかさせまこれかささのみさき辿たどいたる、とある。

すると、そのいちかみひとはしらのかみり。こと勝国かつくに勝長かつながせまことかつくにかつのかみう。そこで天孫てんそんがそのかみに、「くにざいありや」とたずねると、「り」とこたえ、さらに、「みことのりみことのりずいまにまたてまつらん」とう。そこで天孫てんそんはそのまりんだ。そのこと勝国かつくに勝長かつながせま弉諾みこと御子みこである。またの塩土しおど老翁ろうおうしおつちのおじという、とある。

このいちしょでは、瓊瓊きねみこと降臨こうりんしゅとして記述きじゅつし、てんにんいのちてんくしだいらいのみを随神かんながらとする。そしてこと勝国かつくに勝長かつながせま別名べつめい彦火みこと神話しんわ登場とうじょうする塩土しおど老翁ろうおうだという。

だいきゅうだんいちしょろく[編集へんしゅう]

だいきゅうだんいちしょろくでは、てんしのぶみのるみことあまのおしほねは、こうすめらぎさんれいみことむすめたえはた千千姫万幡姫命、またはこうすめらぎさんれいみことはたひめほのとはたひめ千千ちじひめいのちちぢひめ、をめとりてみし天火てんかあかりいのちあまのほのあかりつぎ天津てんしん彦根ひこね瓊瓊きねみことむ。その天火てんかあかりいのちてん香山かやまあまのかぐやま尾張おわりれんとう遠祖えんそである。

皇孫こうそん瓊瓊きねみこと葦原あしはらなかくに降臨こうりんたてまつるにいたるにおよびて〜中略ちゅうりゃく〜このときこうすめらぎさんれいみことゆかくつがえふすま皇孫こうそん天津てんしん彦根ひこね瓊瓊きねみことせて、てんはちじゅうくもはいおしわけて、以ちてくだあまくだたてまつる。そこで、このかみとなえて天国てんごくにょうせき彦火瓊瓊きねみことあまつくににぎしほのににぎう。ときいたりしところは、びて日向ひなたかさね高千穂たかちほ添山そえやまみねそほりのやまのたけう。〜中略ちゅうりゃく〜瓊瓊きねみことわれあたかさせまこれかささのみさき辿たどたどき、長屋ながやたけしまたかしまのぼる。そのめぐるとそこにひとがいた。こと勝国かつくに勝長かつながせまう。

天孫てんそんがそこで、「此はだれくにぞ。」とたずねると、「これちょうせまめるところくに也。しかれども、いま天孫てんそんたてまつのぼらん。」とこたえた。天孫てんそんがまた、「そのしゅうおこりさきたつるなみなみほうえ八尋やひろ殿どのやひろとのおこりてて、手玉てだまただま玲瓏れいろうもゆらけいはたお少女しょうじょおとめは、これこれだれ子女しじょむすめぞ」とたずねると、「大山おおやま祇神がおんなむすめひとしだいあねいわ長姫おさひめいわながひめともうす。すくなおとと木花きばなひらき耶姫ともうし、またはゆたかわれ田津たづひめとよあたつひめともうす」とこたえた〜中略ちゅうりゃく皇孫こうそんすめみまりてゆたかわれ田津たづひめとよあたつひめまねくとのりいちにして身籠みごもる。皇孫こうそんはこれをうたがう。〜中略ちゅうりゃく〜それによりははいろはちかいうけいがはっきりとしめした。ほうまさ本当ほんとう)に皇孫こうそんであったと。しかしゆたかわれ田津たづひめ皇孫こうそんうらんでともわず。(くちをきかなかった)皇孫こうそんうれえてうたんだ。

憶企都茂つも播 陛爾播誉もどたいはは 禰耐よりどころしげ おもねとう播怒かいしげるほまれ 播磨はりまさとしたいほまれおきは あたりにはれども さ寝床ねどこも あたはぬかもよ はま千鳥ちどりよ)※意味いみおき海藻かいそう浜辺はまべせらるるが、ともこと出来できず。はま千鳥ちどりよ。】

以上いじょうがこのいちしょ内容ないようである。つてであるためよう所要しょようしょりゃくしてあるのはしょ酷似こくじしているからとおもわれる。

だいきゅうだんいちしょななでは、こうすめらぎさんれいみことむすめ天万てんまんはたせんはたひめあまよろずたくはたちはたひめがいた、とある。

  • こうすめらぎさんれいみことむすめばんはたひめよろづはたひめむすめたまひめいのちたまよりひめ。此のかみてんにんこついのちあまのおしほねとなりて、御子みこてんきねおけせらたかしあまのぎほほおきせむという、とある。
  • かちそくいのちかちはやひのみこと御子みこてんだいみみみことあまのおおみみ。此のかみひめにくつひめめとりて、御子みこ瓊瓊きねみことほのににぎむという、とある。
  • かみすめらぎさんれいみことおんなむすめはたせんはたひめたくはたちはたひめ御子みこ瓊瓊きねみことほのににぎむという、とある。
  • てんきねいのちあまのきせわれ田津たづひめあたつひめめとりて、(りゃく)とある。

このいちしょではつて箇条書かじょうがきにつたえる。

だいきゅうだんいちしょはち[編集へんしゅう]

だいきゅうだんいちしょはちでは、正哉まさやわれしょうかちそくてんしのぶみのるみみみことこうすめらぎさんれいみことむすめ天万てんまんはたせんはたひめめとりて、としてみし御子みこてん照国てるくに照彦てるひこあきらいのちあまてるくにてるひこほのあかりといい、尾張おわりれんとう遠祖えんそとおつおやである。

つぎてんにょうせきこくにょうせき天津てんしん彦火瓊瓊きねみことあまにぎしくににぎしあまつひこほのににぎこのかみめとだい山祇やまずみしんおおやまつみ女子じょしむすめ木花きばなひらき耶姫いのちこのはなのさくやひめとしてみし御子みこは(りゃく)、とある。

このいちしょではべつつてつたえる。

火中かちゅう出産しゅっさん[編集へんしゅう]

ここでは、木花きばなひらき耶姫の出産しゅっさんについてしるす。

古事記こじき[編集へんしゅう]

木花きばな佐久さくよる毘売の出産しゅっさん 木花きばな佐久さくよる毘売は一夜いちやともにしただけで身篭みごもった。それをいた邇邇げいいのちは「たった一夜いちや身篭みごもはずはない。それは国津くにつしんだろう」(「佐久さくよる毘売 いち宿しゅく哉妊 此胎必非我子わがこ而為国津くにつかみ之子ゆきこ」『古事記こじき』)とった。

木花きばな佐久さくよる毘売は、「この国津くにつしんなら、とき無事ぶじではないでしょう。天津てんしんしんなら、無事ぶじでしょう」(「われにん之子ゆきこ わか国津くにつかみ之子ゆきこしゃ こう難産なんざん わかため天津てんしんしん御子みこしゃ さいわいさん」『古事記こじき』)と誓約せいやくをし、のない御殿ごてんててそのなかはいり、とき御殿ごてんをつけた。天津てんしんしんであったので、無事ぶじさんはしらんだ。

さかんにえたときんだ火照ほていのちよわくなったとき須勢いのちえたときどおいのち、またの天津てんしん日高ひだか日子にっししゅいのちという。

日本書紀にほんしょき[編集へんしゅう]

だいきゅうだん本文ほんぶんでは、そのくに美人びじんたおやめがいて、皇孫こうそんがこの美人びじんに、「おまえはだれか」とたずねると、「わらわやつこ天神てんじんあまつかみだい山祇やまずみしんめとってんだです」とこたえた。鹿しかあしひめかしつひめという、とある。皇孫こうそん彼女かのじょると、一夜いちやにして妊娠にんしんした。皇孫こうそんしんじられず、「また天神てんじんといえども、ぞよく一夜いちやあいだひとをしてはらみらせんや。なんじふところはらめるはかならあらじ」とった。

そこで鹿しかあしひめいかうらんで、戸口とぐちのない小屋こやつくってそのなかこもり、ちかいて、「わらわが娠める、わか天孫てんそんあめみま御子みこあらざればかならめつほろびぬ。もし本当ほんとうにに天孫てんそんならば、がいそこなうことのうあたわじ。」とって、をつけて小屋こやいた、とある。以下いかがその三子みつご詳細しょうさいである。

  • 最初さいしょのぼったけむりからまれたけなわくだいのち隼人はやとはやひとひとし始祖しそ
  • つぎねつしずまってまれを彦火みこと
  • つぎまれあかりいのち尾張おわりれんをはりのむらじひとし始祖しそ

とある。 だいきゅうだんいちしょでは、そのかみわれ田鹿たじかあしひめ皇孫こうそんて「わらわ天孫てんそんあめみま御子みこはらめり。わたしむべからず、」とうと、皇孫こうそんは「たとえ天神てんじんあまつかみ御子みこといえども如何いかいかに一夜いちやにしてひとをしてはらませんや。そもそもはた御子みこあらざるか。」とった。それをいた木花きばなひらき耶姫何故なぜかみわれ田鹿たじかあしひめから木花きばなひらき耶姫にわっている】おおいにうらんで、、しつつくりてちかいて「はらめる、これもしかみあたしかみならば、かならこうさちあらず。これまこと天孫てんそんならば、かならずまさにちょんまたまれなん。」といそのしつなかはいを以ちてしつく、とある。

以下いか火中かちゅう出産しゅっさん三子みつご詳細しょうさいである。

  • 焰がはじこるときともみし御子みこせりいのちほのすせり
  • つぎりなるときみし御子みこあかりいのちほのあかり
  • つぎみし御子みこ彦火みことひこほほでみ、またはおりみことほのおり

とある。 だいきゅうだんいちしょさんでは、まずかみわれ田鹿たじかあしひめ火中かちゅう出産しゅっさんべる。

  • 最初さいしょほのおほのおあかるいときまれたあかりいのちほのあかりである。
  • つぎに、ほのおほむらさかときまれたしんいのちほのすすみである。またはせりいのちほのすせりう。
  • つぎに、ほのおしずまったときまれたおり彦火みことほのおりひこほほでみのみことである。

このあわせて三子みつごみはしらのみこがいそこなうことなく、ははいろはもまたすこしもそこなところし。そしてたけかたなでそのへそる。その竹刀しないてしところのち竹林ちくりんる。そこで、その竹屋たけやたかやう。

そのときかみわれ田鹿たじかあしひめぼくていうらへたを以ちいたせま名田なださなだう。そのいねてん甜酒あめのたむさけみてにいなえもよおした。また、渟浪ぬなたいねもちいて、めしいいつくり嘗をもよおした。

後半こうはんではかみわれ田鹿たじかあしひめ農耕のうこうしんとしての様子ようすしめす。

だいきゅうだんいちしょでは、天孫てんそん(瓊瓊きねみこと)は大山おおやま祇神のむすめわれ田鹿たじかあしひめめとり、一夜いちやにして身籠みごもる。そしてよんよはしらのみこむ。そこでわれ田鹿たじかあしひめいだすすて、「天神てんじん御子みこを、やすしいずくんわたしやしなえひだしべけんや。じょうかたちげてこえらしむ」とった。このとき天孫てんそんはそのたちを嘲笑あざわらい、「あなにや、皇子おうじは、くもせいれたるかな」とった、とある。

そこでわれ田鹿たじかあしひめおこって、「なんすれぞわらわあざけうや」とうと、天孫てんそんは、「しんうたぐうたがわし。ゆえあざけう。なんとなればまた天神てんじんといえども、あによく一夜いちやあいだひとをしてゆうはらませんや。かたまことにはあらじ」とった。これをいてわれ田鹿たじかあしひめはますますうらみ、しつつくりそのなかはいり、ちかいて「わらわにんはらめるところわか天神てんじんあまつかみ御子みこあらずばかならほろびなん。これこれわか天神てんじんあまつかみ御子みこならばがいそこなところけん」とう。そしてはな小屋こやいた、とある。

以下いかがそのよんはしら御子みこ登場とうじょうじゅん名乗なのりの台詞せりふである。

  • そのはじかるときいさましくすすて:あかりいのちほのあかり:「われこれこれ天神てんじんあまつかみみこあかりいのちちちかぞ何処どこいずこすわいますや。」
  • もりさかりときいさましくすすて:しんいのちほのすすみ:「われこれこれ天神てんじんあまつかみみこしんいのちちちかぞおよあにいろね何処どこいずこりや。」
  • 火炎かえんほのおおとろえしめときいさましくすすて:おりみことほのおり:「われこれこれ天神てんじんあまつかみみこおりみことほのおりのみことちちかぞおよあにいろねひとし何処どこいずこりや。」
  • ねつほとほりを避りしときいさましくすすて:彦火みこと:「われこれこれ天神てんじんあまつかみみこは彦火みことちちかぞおよあにいろねひとし何処どこいずこりや。」

しかのちに、ははいろはわれ田鹿たじかあしひめほたくいあと)のなかからて、おもむきてことあげ(言葉ことばして)、「わらわめるみこおよわらわおのずからなんわざわいとうえども、すこしもそんそこなえるところし。天孫てんそんあめみまあにあにそなわすや」とう、とある。

天孫てんそんは「わがほんよりこれる。ただしただ一夜いちやにしてゆうはらめり。うたがものらんとおもんばかおもいて、衆人しゅうじんもろもろのひとをしてみなこれこれ、あわせてまた天神てんじんのう一夜いちやにしてゆうはらましむることをらしめんとよくおもう。またなんじれいくしひことあやしき(奇異きいな)かしこさ能力のうりょくり、みことうふくりんひとちょうすぐれたるいきるをかさんとよくおもう。ゆえまえさきあざけあざけことばり」とこたえた、とある。

このいちしょ火中かちゅう出産しゅっさん(ではなく火中かちゅうちかいだが)のつてである。あるいは瓊瓊きねみことのいいわけ代弁だいべんするよういちしょともおもわれる。また、ここでのわれ田鹿たじかあしひめ出産しゅっさん火中かちゅうちかいおこなことや、御子みこよんはしらおり、みずか名乗なのりをげることなどがつておおきくことなる。

だいきゅうだんいちしょろくでは、皇孫こうそんすめみまりてゆたかわれ田津たづひめとよあたつひめまねくとのりいちにして身籠みごもる。皇孫こうそんはこれをうたがう。〜中略ちゅうりゃく〜そしてまれた御子みこ以下いかかみである。

  • せりいのちほのすせりのみこと
  • おりみことほのおりのみこと、または彦火みことひこほほでみのみこと

それによりはは(いろは)のちかいうけいがはっきりとしめした。ほうまさ本当ほんとう)に皇孫こうそんであったと。しかしゆたかわれ田津たづひめ皇孫こうそんうらんでともわず。(くちをきかなかった)皇孫こうそんうれえてうたんだ、とある。 だいきゅうだんいちしょななでは、てんきねいのちあまのきせわれ田津たづひめあたつひめめとりて、御子みこあかりいのちほのあかりむ。つぎよるいのちほのよりつぎ彦火みことひこほほでみという、とある。

だいきゅうだんいちしょはちでは、つぎてんにょうせきこくにょうせき天津てんしん彦火瓊瓊きねみことあまにぎしくににぎしあまつひこほのににぎこのかみめとだい山祇やまずみしんおおやまつみ女子じょしむすめ木花きばなひらき耶姫いのちこのはなのさくやひめとしてみし御子みこせりいのちほのすせりという。つぎに彦火みこと、とある。

このいちしょでも木花きばなひらき耶姫いのち御子みこはしらとなっている。

なお、皇子おうじ出生しゅっしょう順番じゅんばんは、文献ぶんけんによりことなっている。

書名しょめい だいいち王子おうじ だい王子おうじ だいさん王子おうじ だいよん王子おうじ
古事記こじき 火照ほていのちほでり 須勢いのちほすせり どおいのちほおり天津てんしん日高ひだか日子にっししゅいのちあまつひこひこほほでみ
日本書紀にほんしょき 本文ほんぶん たけなわくだいのちほすせり 彦火みことひこほほでみ あかりいのちほあかり
いちしょだい1・だい4 記述きじゅつなし
いちしょだい2 せりいのちほすせり あかりいのちほあかり 彦火みことひこほほでみおりみことほおり
いちしょだい3 あかりいのちほあかり しんいのちほすすみせりいのちほすせり おり彦火みことほおりひこほほでみ
いちしょだい5 あかりいのちほあかり しんいのちほすすみ おりみことほおり 彦火みことひこほほでみ
いちしょだい6 せりいのちほすせり おりみことほおり彦火みことひこほほでみ
いちしょだい7 あかりいのちほあかり よるおきいのちほよおり 彦火みことひこほほでみ
いちしょだい8 せりいのちほすせり 彦火みことひこほほでみ


考察こうさつ[編集へんしゅう]

  •  たにゆう伝説でんせつをクシフルにおと九重ここのえ連峰れんぽう久住山くじゅうさんとするせつとう紹介しょうかいしている。たに自身じしんは、高千穂たかちほを「たかやま」のとし、添(ソホリ)がソウルおなおうであるなど韓国かんこくとの関連かんれんしめ記載きさい前述ぜんじゅつの瓊々きねみこと言葉ことばから、本来ほんらい九州きゅうしゅう北部ほくぶ伝説でんせつであったが、政策せいさくじょう都合つごう九州きゅうしゅう南部なんぶ移動いどうしたとしている。また、たにはソホリに「おおきい」ののクがついたものがクシフルである可能かのうせいとカシハラとの類似るいじせい指摘してきしている[10]
  •  日本書紀にほんしょきに「日向ひなたかさね高千穂たかちほみねてんります」とあるが、この「かさね」については、おなじく日本書紀にほんしょきけいぎょう天皇てんのう13ねん5月じょうに、「かさねこく平定へいてい」としるされてある。「かさねこくこく)」[11]とは古代こだいみなみ九州きゅうしゅう居住きょじゅうしたくまかさね (球磨くまおく於) といわれ、のち隼人はやとばれた人々ひとびと本拠地ほんきょちとされる[12]
  •  古田ふるた武彦たけひこ福岡ふくおかけん日向ひなたとうげ笠沙かささみさききた)を天孫てんそん降臨こうりん伝説でんせつ発祥はっしょうとする。
  •  なお、そのにもクシフルの比定ひていおおくある。クシフルと同様どうよう、ソウルが変化へんかしたとされる脊振山せふりさん(セフリサン)は、福岡ふくおかけん佐賀さがけんさかいにあって、韓国かんこく(カラクニ)、朝鮮半島ちょうせんはんとう南部なんぶ対馬つしまこうにえるやまである[13]


ちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 日本書紀にほんしょきだいきゅうだん本文ほんぶん
  2. ^ 日本書紀にほんしょきだいきゅうだんいちしょ
  3. ^ 小学館しょうがくかん 大辞泉だいじせんくまかさね くまそコトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E7%86%8A%E8%A5%B2-55947 
  4. ^ かさねこく』コトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E8%A5%B2%E5%9B%BD-554978 
  5. ^ 日本書紀にほんしょき 30かん. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん
  6. ^ 訓読くんどく日本書紀にほんしょき. なか 黒板こくばん勝美かつみ (岩波書店いわなみしょてん) p.7 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん
  7. ^ 宮川みやがわりょうあつし平成へいせいじゅうねんいちがつじゅうななにち 最終さいしゅう講義こうぎ 日蓮宗にちれんしゅう修法しゅほう概説がいせつ (宮川みやがわりょうあつし先生せんせい退職たいしょく記念きねんごう)」『身延みのぶ論叢ろんそうだい16ごう身延山みのぶさん大学だいがく仏教ぶっきょう学会がっかい、2011ねん3がつ、15-16ぺーじCRID 1390009224530243072doi:10.15054/00000290ISSN 13422715 
  8. ^ 平凡社へいぼんしゃ神道しんとうだい辞典じてん : 3かん だいかん平凡社へいぼんしゃ、1941ねん、125ぺーじdoi:10.11501/1913348NDLJP:1913348https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I1913348。"国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション"。 
  9. ^ 黒板こくばん勝美かつみ訓読くんどく日本書紀にほんしょき. 上巻じょうかん上巻じょうかん岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ文庫ぶんこ〉、1943ねん4がつdoi:10.11501/1904260NDLJP:1904260https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000003990511。"国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション"。 
  10. ^ たにゆうニ‐日本にっぽん近代きんだいの《朝鮮ちょうせんかん》 .rshttps://archives.bukkyo-u.ac.jp › rp-contentsPDF
  11. ^ かさねこく』コトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E8%A5%B2%E5%9B%BD-554978 
  12. ^ 小学館しょうがくかん 大辞泉だいじせんくまかさね くまそ』コトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E7%86%8A%E8%A5%B2-55947 
  13. ^ きむまさしおこり古代こだい北九州きたきゅうしゅう朝鮮半島ちょうせんはんとう南部なんぶとの共同きょうどう文化ぶんかけんについて」『アジア太平洋たいへいよう研究けんきゅうだい43かん成蹊大学せいけいだいがくアジア太平洋たいへいよう研究けんきゅうセンター、2018ねん11月、81-97ぺーじCRID 1390291767726442752doi:10.15018/00001159hdl:10928/1148ISSN 0913-8439 
  14. ^ 澤田さわだ洋太郎ようたろう日本語にほんご形成けいせいなぞせまる』(新泉しんいずみしゃ、1999ねん)、澤田さわだ洋太郎ようたろう『アジアなかのヤマト民族みんぞく』(新泉しんいずみしゃ、1999ねん
  15. ^ みことのりむね子細しさい□【庶】しか上古じょうこときげんなみほお敷文しきぶみ構句於字そくなんやめいんくんじゅつしゃ逮心ぜん以音れんしゃごと ... 以後いご朝鮮ちょうせん神話しんわ北方ほっぽう民族みんぞく神話しんわとの類似るいじせい指摘してきした三品みしな彰英あきひで

ノート[編集へんしゅう]

  1. ^ 神武じんむ天皇てんのうむかしわが天神てんじんだかすめらぎさんれい尊大そんだい孁尊きょ此豊葦原よしわら瑞穂みずほこく而授わがてん彦火瓊瓊きねみこと。」(日本書紀にほんしょきだい3かん)[5]とある。むかしに、天神てんじんこうすめらぎさんれいみこと大日だいにち孁尊はこの豊葦原とよあしはら瑞穂みずほこくを、わたし先祖せんぞである瓊瓊きねみことにおあたえになった、という意味いみ[6]
  2. ^ これらのかみ々を「さんじゅうかみ」と総称そうしょうすることがある[7][8]
  3. ^ 大祓おおはらいにもおな記述きじゅつがある。

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]