オスマン帝国 ていこく 軍 ぐん の大砲 たいほう , 1788年 ねん
火薬 かやく 帝国 ていこく [ 1] (英語 えいご : Gunpowder Empires)とは、中世 ちゅうせい から近世 きんせい にかけて、火薬 かやく 、火器 かき を用 もち いて勢力 せいりょく 範囲 はんい を広 ひろ げ、またそれらから支配 しはい 体制 たいせい ・社会 しゃかい 構造 こうぞう の形成 けいせい に大 おお きな影響 えいきょう をうけた国 くに を指 さ す歴史 れきし 学 がく 上 うえ の概念 がいねん 、仮説 かせつ である。特 とく にオスマン帝国 ていこく 、サファヴィー朝 あさ 、ムガル帝国 ていこく の三 さん 帝国 ていこく について用 もち いられる。
新 あたら しく発明 はつめい された火器 かき 、特 とく に大砲 たいほう と小 しょう 火器 かき (銃 じゅう )の使用 しよう と発展 はってん によって、イスラム系 けい 火薬 かやく 帝国 ていこく による拡張 かくちょう 過程 かてい で広大 こうだい な領域 りょういき が征服 せいふく された。騎士 きし の没落 ぼつらく と王権 おうけん の強化 きょうか を生 う み出 だ したヨーロッパの場合 ばあい と同様 どうよう に、ここでも火薬 かやく 兵器 へいき の導入 どうにゅう が中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か された君主 くんしゅ 制 せい 国家 こっか の台頭 たいとう などの変化 へんか を促 うなが した。 G. S.ホジソンによれば、火薬 かやく 帝国 ていこく におけるこれらの変化 へんか は、単 たん に軍事 ぐんじ 組織 そしき の変化 へんか に留 と まる物 もの ではなかった。
アクバル 時代 じだい のムガル帝国 ていこく 軍 ぐん の砲兵 ほうへい
火薬 かやく 帝国 ていこく という概念 がいねん はシカゴ大学 だいがく のマーシャル・ホジソン とウィリアム・ハーディー・マクニール によって提唱 ていしょう された。ホジソンは1974年 ねん の著作 ちょさく 『The Venture of Islam 』の第 だい 3巻 かん に"The Gunpower Empires and Modern Times"というサブタイトルを付 つ けた。ホジソンは、モンゴル帝国 ていこく の後 のち にアジア中西部 ちゅうせいぶ の主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ った、不安定 ふあんてい で地理 ちり 的 てき な制約 せいやく を受 う けたテュルク系 けい 民族 みんぞく の諸 しょ 国家 こっか を、中世 ちゅうせい 後期 こうき の「軍事 ぐんじ 的 てき パトロン国家 こっか 」が一掃 いっそう した事象 じしょう について、火薬 かやく 兵器 へいき が鍵 かぎ を握 にぎ っていると位置付 いちづ けた。ホジソンは「軍事 ぐんじ 的 てき パトロン国家 こっか 」を次 つぎ のように定義 ていぎ している。
一 ひと つ目 め に、王朝 おうちょう の独立 どくりつ した法 ほう が整備 せいび されていること。二 ふた つ目 め に、軍 ぐん が統一 とういつ された単一 たんいつ の国家 こっか という概念 がいねん があること。三 みっ つ目 め に、すべての経済 けいざい 的 てき ・文化 ぶんか 的 てき な資源 しげん を、軍 ぐん を握 にぎ っている一族 いちぞく (王族 おうぞく )の有 ゆう するものとして説明 せつめい しようという試 こころ みがなされていること。
このような指標 しひょう はモンゴル帝国 ていこく の偉大 いだい さを説明 せつめい する指標 しひょう としては当 あ てはまらないが、この指標 しひょう を満 み たせば、より後 ご の時代 じだい の官僚 かんりょう 機構 きこう の整 ととの った安定 あんてい 的 てき な帝国 ていこく を形成 けいせい できるとした。しかしそれは、火薬 かやく 兵器 へいき の登場 とうじょう と、軍隊 ぐんたい を生活 せいかつ の中心 ちゅうしん とする兵 へい たちによる技術 ぎじゅつ の成熟 せいじゅく があってこそのものであるともされた。
マクニールは、「新兵 しんぺい 器 き である大砲 たいほう の独占 どくせん がかなったとき、中央 ちゅうおう 政府 せいふ はより広 ひろ い領土 りょうど を、新 あら たな、もしくは新 あら たに統合 とうごう された帝国 ていこく に統一 とういつ することができる。」と説 と いた。特 とく に「独占 どくせん 」が重要 じゅうよう であった。ヨーロッパでは15世紀 せいき の段階 だんかい ですでに大砲 たいほう 技術 ぎじゅつ が進歩 しんぽ していたが、それらを独占 どくせん できた国 くに は無 な かった。銃火 じゅうか 器 き の鋳造 ちゅうぞう 技術 ぎじゅつ はスヘルデ川 がわ ・ライン川 がわ 河口 かこう 付近 ふきん の低地 ていち 地方 ちほう で発展 はってん したが、この地域 ちいき はフランス とハプスブルク帝国 ていこく に分割 ぶんかつ された結果 けっか 、火器 かき の登場 とうじょう の意義 いぎ は軍事 ぐんじ 的 てき な革命 かくめい の域 いき にとどまった。これに対 たい し、西 にし アジア 、ロシア、インド、そしてより変則 へんそく 的 てき な類型 るいけい としては中国 ちゅうごく や日本 にっぽん においても、火器 かき の独占 どくせん に成功 せいこう した勢力 せいりょく による軍事 ぐんじ 的 てき な拡張 かくちょう と帝国 ていこく の形成 けいせい がみられた。
後 ご の歴史 れきし 家 か たちからは、ホジソンやマクニールの火薬 かやく 帝国 ていこく 仮説 かせつ は不十分 ふじゅうぶん で不正確 ふせいかく な説明 せつめい に過 す ぎないとしてあまり肯定 こうてい されていないが、それでも「火薬 かやく 帝国 ていこく 」という用語 ようご は用 もち いられ続 つづ けている[ 7] 。非 ひ 集権 しゅうけん 的 てき なチュルク部族 ぶぞく 国家 こっか 群 ぐん が占 し めていた地域 ちいき に、3つの集権 しゅうけん 的 てき 帝国 ていこく がほとんど同時 どうじ に興隆 こうりゅう したことについては、軍事 ぐんじ 面 めん 以外 いがい からも様々 さまざま な説明 せつめい が試 こころ みられている。例 たと えば15世紀 せいき ヨーロッパを研究 けんきゅう している歴史 れきし 家 か たちからは「宗派 しゅうは 化 か 」(Confessionalization)、すなわち国家 こっか が信仰 しんこう 告白 こくはく や教会 きょうかい 布告 ふこく などを通 つう じて教会 きょうかい との関係 かんけい を深 ふか めたことが、中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か や絶対 ぜったい 主義 しゅぎ の発生 はっせい をもたらしたという概念 がいねん を提唱 ていしょう している。ダグラス・ストレウサンドは、これをサファヴィー朝 あさ を例 れい にとって説明 せつめい している。
サファヴィー朝 あさ は当初 とうしょ から一般 いっぱん 臣民 しんみん に新 あら たな宗教 しゅうきょう 的 てき アイデンティティを強制 きょうせい した。言語 げんご 的 てき アイデンティティの育成 いくせい によらないその政策 せいさく には効果 こうか があった[ 8] 。
ホジソンとマクニールの理論 りろん の問題 もんだい 点 てん の一 ひと つとして、ムガル帝国 ていこく を除 のぞ く2国 こく は、実 み のところ初期 しょき の急 きゅう 拡大 かくだい にそれほど火器 かき が係 かか わっていないということが挙 あ げられる。さらに3国 こく とも、火薬 かやく 兵器 へいき を獲得 かくとく する前 まえ から既 すで に軍事 ぐんじ 的 てき 専制 せんせい 体制 たいせい が形成 けいせい されていた。火薬 かやく 兵器 へいき の獲得 かくとく と軍隊 ぐんたい への導入 どうにゅう が、実際 じっさい に数 かず あるイスラーム国家 こっか の中 なか で特定 とくてい の3つの帝国 ていこく の興隆 こうりゅう をもたらしたものであるとも思 おも われないただ、火薬 かやく の存在 そんざい が3つの帝国 ていこく の存在 そんざい と本質 ほんしつ 的 てき に結 むす び付 つ いていたかどうかは定 さだ かでないとしても、三 さん 国 こく それぞれがその歴史 れきし の早 はや い段階 だんかい で大砲 たいほう や火器 かき を導入 どうにゅう し、軍事 ぐんじ 戦略 せんりゃく の一部 いちぶ として取 と り込 こ んでいたのは確 たし かである。
三 さん 帝国 ていこく の中 なか で最初 さいしょ に火薬 かやく 兵器 へいき を導入 どうにゅう したのは、14世紀 せいき に射 い 石 せき 砲 ほう を導入 どうにゅう したオスマン帝国 ていこく であった[ 10] 。この対応 たいおう と、それに伴 ともな う兵器 へいき 製造 せいぞう の進歩 しんぽ や、火器 かき を持 も ち専門 せんもん 化 か された常備 じょうび 兵 へい の整備 せいび は、ヨーロッパや中東 ちゅうとう の敵対 てきたい 勢力 せいりょく と比 くら べて極 きわ めて早 はや いものだった。周辺 しゅうへん 諸国 しょこく はオスマン帝国 ていこく の変容 へんよう に衝撃 しょうげき を受 う け、サファヴィー朝 あさ とムガル帝国 ていこく が火器 かき を導入 どうにゅう するきっかけとなった。オスマン帝国 ていこく は少 すく なくともバヤズィト1世 せい の時代 じだい には大砲 たいほう を配備 はいび しており、コンスタンティノープル包囲 ほうい 戦 せん に使用 しよう している。攻 おさむ 城 じょう 兵器 へいき としての大砲 たいほう の優位 ゆうい 性 せい は、1430年 ねん のテッサロニキ攻略 こうりゃく で証明 しょうめい された[ 12] 。オスマン帝国 ていこく はヨーロッパ人 じん の鋳造 ちゅうぞう 所 しょ を用 もち いて大砲 たいほう を製造 せいぞう し、1453年 ねん のコンスタンティノープル包囲 ほうい 戦 せん では巨大 きょだい なウルバン砲 ほう を用 もち いて城壁 じょうへき に巨大 きょだい な砲弾 ほうだん を浴 あ びせ、防衛 ぼうえい 軍 ぐん を驚愕 きょうがく させた。
イギリス・ハンプシャー のフォート・ネルソンに展示 てんじ されているオスマン帝国 ていこく 製 せい のダーダネルス砲 ほう 。これに近 ちか いものが1453年 ねん のコンスタンティノープル包囲 ほうい 戦 せん でも用 もち いられた。
オスマン帝国 ていこく の火器 かき の導入 どうにゅう 速度 そくど はヨーロッパ諸国 しょこく を上回 うわまわ っていた。もともと弓矢 ゆみや を用 もち いる近衛 このえ 歩兵 ほへい だったイェニチェリ は、メフメト2世 せい の時代 じだい に銃 じゅう 兵 へい としての訓練 くんれん を課 か され、「おそらく世界 せかい で最初 さいしょ の火器 かき を装備 そうび した独立 どくりつ 部隊 ぶたい 」となった[ 12] 。大砲 たいほう とイェニチェリの小銃 しょうじゅう を連携 れんけい させる戦術 せんじゅつ は1473年 ねん の白 しろ 羊 ひつじ 朝 あさ に対 たい するバシュケントの戦 たたか い 、1526年 ねん のハンガリーに対 たい するモハーチの戦 たたか い でその真価 しんか を発揮 はっき した。そうした戦 たたか いの中 なか で最 もっと も火薬 かやく 兵器 へいき の真価 しんか が発揮 はっき され、サファヴィー朝 あさ やムガル帝国 ていこく に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた戦闘 せんとう は、1514年 ねん のチャルディラーンの戦 たたか い である。
アッバース1世 せい 期 き のサファヴィー朝 あさ マスケット銃 じゅう 兵 へい (ハビブ=アッラー・マシャディ画 が 、ベルリン・イスラム美術館 びじゅつかん 蔵 くら ).
オスマン帝国 ていこく はチャルディラーンの戦 たたか いでサファヴィー朝 あさ と衝突 しょうとつ した。このシーア派 は の宿敵 しゅくてき と戦 たたか うためにオスマン帝国 ていこく のセリム1世 せい が東部 とうぶ 戦線 せんせん に野戦 やせん 砲 ほう を輸送 ゆそう させたのに対 たい し、サファヴィー朝 あさ のイスマーイール1世 せい は各地 かくち の諸侯 しょこう の騎兵 きへい 軍 ぐん を召集 しょうしゅう して集結 しゅうけつ させ、オスマン軍 ぐん の陣営 じんえい に突撃 とつげき させた。オスマン軍 ぐん は、大砲 たいほう を荷車 にぐるま の間 あいだ に設置 せっち し、イェニチェリを守 まも る防壁 ぼうへき とした。砲撃 ほうげき と銃撃 じゅうげき を受 う けたサファヴィー朝 あさ の騎兵 きへい は壊滅 かいめつ 的 てき な損害 そんがい を被 こうむ った。勢 いきお いに乗 の ったオスマン軍 ぐん はサファヴィー朝 あさ の首都 しゅと タブリーズ までも一時期 いちじき 占領 せんりょう し、多 おお くの都市 とし を奪 うば った[ 15] 。
チャルディラーンでの敗北 はいぼく によりイスマーイール1世 せい の拡張 かくちょう 政策 せいさく は頓挫 とんざ した。彼 かれ はしばらく政治 せいじ や軍事 ぐんじ への情熱 じょうねつ を失 うしな い、火薬 かやく 兵器 へいき を導入 どうにゅう するなどの対策 たいさく もすぐには行 おこな わなかった。敗北 はいぼく から2年 ねん 後 ご 、イスマーイール1世 せい は8000人 にん のマスケット銃 じゅう 兵隊 へいたい トフェングチを創設 そうせつ し、1521年 ねん までに2万 まん 人 にん にまで規模 きぼ を拡大 かくだい させた。半 はん 世紀 せいき 後 ご のアッバース1世 せい は、1598年 ねん ごろに軍制 ぐんせい 改革 かいかく を行 おこな い、500門 もん の大砲 たいほう と1万 まん 2000人 にん の銃 じゅう 兵 へい を配備 はいび した。
サファヴィー朝 あさ は、イスマーイール1世 せい の死去 しきょ 後 ご に起 お きた動乱 どうらん に乗 じょう じて侵攻 しんこう してきたウズベク に対 たい する戦争 せんそう で、火薬 かやく 兵器 へいき を投入 とうにゅう した。タフマースプ1世 せい は自 みずか ら軍 ぐん を率 ひき いてヘラート を奪回 だっかい し、1528年 ねん 9月 がつ 24日 にち のジャムの戦 たたか い
でウズベクと激突 げきとつ した。この戦 たたか いでサファヴィー軍 ぐん は、大砲 たいほう を中央 ちゅうおう において両翼 りょうよく に荷車 にぐるま と騎兵 きへい を展開 てんかい した。この様 よう について、ムガル帝国 ていこく のバーブルは「アナトリア 流 りゅう 」と評 ひょう している。数 かず 千 せん 人 にん の銃 じゅう 兵 へい を軍 ぐん の中央 ちゅうおう に置 お いたのも、オスマン帝国 ていこく のイェニチェリにならった布陣 ふじん だった。ウズベク軍 ぐん の騎兵 きへい はサファヴィー軍 ぐん の両翼 りょうよく を攻撃 こうげき して後退 こうたい させたが、タフマースプ1世 せい が中央 ちゅうおう の銃 じゅう 兵 へい を鼓舞 こぶ してウズベク騎兵 きへい を攻撃 こうげき し、決定的 けっていてき 勝利 しょうり を収 おさ めた[ 19] 。
マッチロック式 しき ライフル を持 も つムガル兵 へい
ムガル帝国 ていこく の創設 そうせつ 者 しゃ でありバーブルは、チャルディラーンの戦 たたか いで同盟 どうめい 者 しゃ イスマーイール1世 せい が敗 やぶ れた後 のち に火薬 かやく 兵器 へいき や野戦 やせん 砲 ほう 、またその戦術 せんじゅつ を積極 せっきょく 的 てき に取 と り入 い れた。彼 かれ がローディー朝 あさ のラホール 太守 たいしゅ ダウラト・ハン・ローディーを助 たす けてインドに侵入 しんにゅう し、スルターンのイブラーヒーム・ローディー と戦 たたか った時点 じてん で、すでにバーブルは火薬 かやく 兵器 へいき をよく運用 うんよう できるようになっていた。彼 かれ はオスマン帝国 ていこく の技術 ぎじゅつ 者 しゃ ウスタッド・アリー・クリーを雇 やと い、大砲 たいほう 機動 きどう や銃 じゅう 歩兵 ほへい を中央 ちゅうおう において荷車 にぐるま で守 まも りつつ両翼 りょうよく に弓 ゆみ 騎兵 きへい を配置 はいち するというオスマン型 がた の戦術 せんじゅつ を吸収 きゅうしゅう した。この新 しん 技術 ぎじゅつ 導入 どうにゅう は、1526年 ねん の第 だい 一 いち 次 じ パーニーパットの戦 たたか い での大 だい 勝利 しょうり につながった。圧倒的 あっとうてき 多勢 たぜい なローディー朝 あさ のアフガン人 じん ・ラージプート 連合 れんごう 軍 ぐん に、バーブル率 ひき いる小規模 しょうきぼ なティムール朝 あさ 残党 ざんとう が圧勝 あっしょう できた一因 いちいん は、君主 くんしゅ のバーブルが実際 じっさい に戦闘 せんとう に参加 さんか した点 てん にもあった。これはムガル帝国 ていこく 史上 しじょう ほとんど無 な いことであった[ 20] 。
以上 いじょう の3つのイスラーム火薬 かやく 帝国 ていこく は、早期 そうき に火薬 かやく 兵器 へいき を導入 どうにゅう して、新 しん 兵器 へいき と新 しん 戦術 せんじゅつ によって戦場 せんじょう を支配 しはい し成功 せいこう した。一方 いっぽう 東 ひがし アジアでも、ヨーロッパの海上 かいじょう 帝国 ていこく からの影響 えいきょう を受 う けて、イスラーム圏 けん の火薬 かやく 帝国 ていこく に似 に た軍事 ぐんじ 革新 かくしん が起 お きた。
世界 せかい に先駆 さきが けて火薬 かやく が発明 はつめい された中国 ちゅうごく では、8世紀 せいき 末 まつ から9世紀 せいき 初頭 しょとう ごろに、ロケット のような火箭 かせん や火 ひ 槍 やり が宋 そう 王朝 おうちょう の兵器廠 へいきしょう において生産 せいさん されるようになり、実戦 じっせん では金 きむ との戦争 せんそう 中 ちゅう に起 お きた内乱 ないらん に使用 しよう したとされる[ 21] [ 22] [ 23] 。1259年 ねん に南 みなみ 宋 そう の寿 ことぶき 春 はる 府 ふ で開発 かいはつ された実 じつ 火 ひ 槍 やり と呼 よ ばれる大砲 たいほう に近 ちか い木製 もくせい 火砲 かほう は対 たい 元 もと 戦 せん などに使用 しよう された。1288年 ねん 当時 とうじ の青銅 せいどう 製 せい の銃身 じゅうしん が中国 ちゅうごく で発掘 はっくつ されたことで、モンゴル帝国 ていこく の大元 おおもと 統治 とうち 下 か の中国 ちゅうごく が火 ひ 槍 やり から銃 じゅう へ装備 そうび を変 か えたことが明 あき らかになっており、銃 じゅう はモンゴル帝国 ていこく を通 つう じて、マドファ として西方 せいほう のイスラム 世界 せかい にも伝 つた えられ、ヨーロッパへ伝 つた わったとされる[ 24] 。
日本 にっぽん に火器 かき が伝来 でんらい したのと同 おな じころ、中国 ちゅうごく にもポルトガル式 しき の小 しょう 火器 かき が様々 さまざま な方面 ほうめん から流入 りゅうにゅう した。1540年代 ねんだい から1560年代 ねんだい にかけては後期 こうき 倭 やまと 寇 の黄金 おうごん 時代 じだい にあたり、明朝 みょうちょう は早期 そうき からヨーロッパ人 じん と接触 せっしょく していた倭 やまと 寇との戦闘 せんとう を通 とお して火器 かき を入手 にゅうしゅ し、複製 ふくせい を始 はじ めたとみられている。1558年 ねん に倭 やまと 寇の指導 しどう 者 しゃ 王 おう 直 ただし が降伏 ごうぶく してきたた際 さい 、明 あきら は大量 たいりょう の火器 かき を没収 ぼっしゅう し、複製 ふくせい した[ 25] 。
明 あかり でもまた火器 かき の使用 しよう を基礎 きそ とした戦術 せんじゅつ が発展 はってん した。戚継光 こう は兵 へい を訓練 くんれん して専門 せんもん 化 か し、一斉 いっせい 射撃 しゃげき や反転 はんてん 行進 こうしん などの戦術 せんじゅつ を取 と り入 い れたり、部隊 ぶたい を整備 せいび して柔軟 じゅうなん な陣形 じんけい 展開 てんかい を可能 かのう にしたりして、倭 やまと 寇やモンゴル人 じん との戦争 せんそう で成功 せいこう を収 おさ めた[ 25] 。
1661年 ねん にオランダ東 ひがし インド会社 かいしゃ と戦 たたか った明 あかり の将軍 しょうぐん 鄭 てい 成功 せいこう は、戚継光 こう に似 に た戦法 せんぽう や戦術 せんじゅつ を用 もち いて勝利 しょうり を重 かさ ねた。鄭 てい 成功 せいこう は兵 へい に陣形 じんけい を保 たも たせるために厳 きび しい訓練 くんれん と規律 きりつ を課 か し、兵器 へいき の質 しつ で勝 まさ るオランダ軍 ぐん を破 やぶ ったのである[ 25] 。
乾 いぬい 隆 たかし 帝 みかど の時代 じだい の清 きよし の兵士 へいし 。
清 きよし では1631年 ねん にヨーロッパ式 しき の大砲 たいほう を運用 うんよう する部隊 ぶたい が編制 へんせい された。彼 かれ らは紅 べに 夷 えびす 炮 のような大砲 たいほう を製造 せいぞう したりヨーロッパから輸入 ゆにゅう したりして、清 しん 軍 ぐん の中 なか で高 たか い信頼 しんらい を得 え た[ 27] 。満州 まんしゅう 人 じん はあまり銃 じゅう を扱 あつか いたがらず、その使用 しよう と製造 せいぞう を漢 かん 人 じん に任 まか せた[ 29] 。 大砲 たいほう や小銃 しょうじゅう は、十全 じゅうぜん 武功 ぶこう で知 し られるような清朝 せいちょう の戦争 せんそう で広 ひろ く用 もち いられた[ 30] [ 31] 。しかし1700年代 ねんだい 中盤 ちゅうばん に清 せい が東 ひがし アジアでの覇権 はけん を確立 かくりつ し、大 だい 規模 きぼ な戦争 せんそう が無 な くなると、火器 かき の発展 はってん は下火 したび になった。1840年 ねん のアヘン戦争 せんそう で清朝 せいちょう が用 もち いた滑 すべり 腔砲 は、ヨーロッパではすでに廃 すた れ、ライフル砲 ほう にとってかわられていた[ 29] 。
日本人 にっぽんじん は16世紀 せいき 中盤 ちゅうばん にポルトガル人 じん からアーケバス (長身 ちょうしん 火縄銃 ひなわじゅう )を入手 にゅうしゅ し、このポルトガル式 しき の火薬 かやく 兵器 へいき を独自 どくじ に量産 りょうさん し始 はじ めた。一方 いっぽう で、日本 にっぽん への火器 かき の流入 りゅうにゅう は、海外 かいがい で活動 かつどう した日本人 にっぽんじん 傭兵 ようへい の出国 しゅっこく ・帰国 きこく を通 とお して既 すで に1540年 ねん には始 はじ まっていたとする説 せつ もある。鉄砲 てっぽう の生産 せいさん が始 はじ まって間 あいだ もなく、銃 じゅう は日本 にっぽん の兵士 へいし の主要 しゅよう 装備 そうび となっていった[ 25] 。
トニオ・アンドラーデによれば、ヨーロッパ人 じん からもたらされた革命 かくめい 的 てき な軍事 ぐんじ モデルは、日本 にっぽん の軍事 ぐんじ 技術 ぎじゅつ に大 おお きな飛躍 ひやく をもたらした。特 とく にアンドラーデは、訓練 くんれん 技術 ぎじゅつ の向上 こうじょう によって可能 かのう になった銃 じゅう 兵 へい の一斉 いっせい 連続 れんぞく 射撃 しゃげき に着目 ちゃくもく している[ 25] 。一斉 いっせい 連続 れんぞく 射撃 しゃげき 戦法 せんぽう は、日本 にっぽん の織田 おだ 信長 のぶなが によって開発 かいはつ されたものだとされている。彼 かれ はそれまでの弓 ゆみ 兵 へい が行 おこな っていた戦術 せんじゅつ を銃火 じゅうか 器 き 戦術 せんじゅつ に持 も ち込 こ んだのであるが、銃 じゅう 兵 へい が装填 そうてん している間 あいだ に他 た の銃 じゅう 兵 へい が射撃 しゃげき できるというこのシステムは、信長 のぶなが の敵 てき に壊滅 かいめつ 的 てき な打撃 だげき を与 あた えることになった[ 32] 。
朝鮮 ちょうせん にも中国 ちゅうごく で使用 しよう されていた火器 かき が導入 どうにゅう され、14世紀 せいき 後半 こうはん には製造 せいぞう も始 はじ めていた。しかし1592年 ねん から1598年 ねん の日本 にっぽん との戦争 せんそう が始 はじ まると、銃火 じゅうか 器 き 導入 どうにゅう の遅 おく れが露呈 ろてい し、日本 にっぽん や明 あかり と同様 どうよう の軍事 ぐんじ 改革 かいかく を迫 せま られた。この戦争 せんそう 中 ちゅう の1594年 ねん には、すでに朝鮮 ちょうせん 軍 ぐん 内 ない で銃 じゅう 兵 へい が占 し める割合 わりあい が5割 わり を超 こ えていた。彼 かれ らは戚継光 こう の一斉 いっせい 射撃 しゃげき 戦術 せんじゅつ などを取 と り入 い れるとともに改良 かいりょう を重 かさ ね、他国 たこく に抗 こう し得 え るまでに軍事 ぐんじ 技術 ぎじゅつ を発展 はってん させた[ 33] 。
1619年 ねん に明 あかり と女 おんな 真 しん 族 ぞく の間 あいだ で発生 はっせい したサルフの戦 たたか い では、小銃 しょうじゅう を装備 そうび した朝鮮 ちょうせん 軍 ぐん が明 あかり の陣営 じんえい で参戦 さんせん した。戦闘 せんとう には敗 やぶ れたものの、この戦 たたか いで朝鮮 ちょうせん 軍 ぐん は銃火 じゅうか 器 き 戦術 せんじゅつ を披露 ひろう し善戦 ぜんせん した。その後 ご 1627年 ねん と1636年 ねん に女 おんな 真 しん 族 ぞく が直接 ちょくせつ 朝鮮 ちょうせん に侵入 しんにゅう した際 さい にも朝鮮 ちょうせん 軍 ぐん は銃 じゅう を主体 しゅたい として戦 たたか ったが、敗北 はいぼく した[ 25] 。1654年 ねん と1658年 ねん にはロシアと戦 たたか う清朝 せいちょう に援軍 えんぐん を派遣 はけん し 、その勝利 しょうり に大 おお きく貢献 こうけん した[ 33] 。
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