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火薬かやく帝国ていこく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
オスマン帝国ていこくぐん大砲たいほう, 1788ねん

火薬かやく帝国ていこく[1] (英語えいご: Gunpowder Empires)とは、中世ちゅうせいから近世きんせいにかけて、火薬かやく火器かきもちいて勢力せいりょく範囲はんいひろげ、またそれらから支配しはい体制たいせい社会しゃかい構造こうぞう形成けいせいおおきな影響えいきょうをうけたくに歴史れきしがくうえ概念がいねん仮説かせつである。とくオスマン帝国ていこくサファヴィーあさムガル帝国ていこくさん帝国ていこくについてもちいられる。

あたらしく発明はつめいされた火器かきとく大砲たいほうしょう火器かきじゅう)の使用しよう発展はってんによって、イスラムけい火薬かやく帝国ていこくによる拡張かくちょう過程かてい広大こうだい領域りょういき征服せいふくされた。騎士きし没落ぼつらく王権おうけん強化きょうかしたヨーロッパの場合ばあい同様どうように、ここでも火薬かやく兵器へいき導入どうにゅう中央ちゅうおう集権しゅうけんされた君主くんしゅせい国家こっか台頭たいとうなどの変化へんかうながした。 G. S.ホジソンによれば、火薬かやく帝国ていこくにおけるこれらの変化へんかは、たん軍事ぐんじ組織そしき変化へんかまるものではなかった[2]

ホジソンとマクニールの理論りろん

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アクバル時代じだいムガル帝国ていこくぐん砲兵ほうへい

火薬かやく帝国ていこくという概念がいねんはシカゴ大学だいがくマーシャル・ホジソンウィリアム・ハーディー・マクニールによって提唱ていしょうされた。ホジソンは1974ねん著作ちょさくThe Venture of Islam』のだい3かんに"The Gunpower Empires and Modern Times"というサブタイトルをけた。ホジソンは、モンゴル帝国ていこくのちにアジア中西部ちゅうせいぶ主導しゅどうけんにぎった、不安定ふあんてい地理ちりてき制約せいやくけたテュルクけい民族みんぞくしょ国家こっかを、中世ちゅうせい後期こうきの「軍事ぐんじてきパトロン国家こっか」が一掃いっそうした事象じしょうについて、火薬かやく兵器へいきかぎにぎっていると位置付いちづけた。ホジソンは「軍事ぐんじてきパトロン国家こっか」をつぎのように定義ていぎしている。

ひとに、王朝おうちょう独立どくりつしたほう整備せいびされていること。ふたに、ぐん統一とういつされた単一たんいつ国家こっかという概念がいねんがあること。みっに、すべての経済けいざいてき文化ぶんかてき資源しげんを、ぐんにぎっている一族いちぞく王族おうぞく)のゆうするものとして説明せつめいしようというこころみがなされていること[3]

このような指標しひょうモンゴル帝国ていこく偉大いだいさを説明せつめいする指標しひょうとしてはてはまらないが、この指標しひょうたせば、より時代じだい官僚かんりょう機構きこうととのった安定あんていてき帝国ていこく形成けいせいできるとした。しかしそれは、火薬かやく兵器へいき登場とうじょうと、軍隊ぐんたい生活せいかつ中心ちゅうしんとするへいたちによる技術ぎじゅつ成熟せいじゅくがあってこそのものであるともされた[4]

マクニールは、「新兵しんぺいである大砲たいほう独占どくせんがかなったとき、中央ちゅうおう政府せいふはよりひろ領土りょうどを、あらたな、もしくはあらたに統合とうごうされた帝国ていこく統一とういつすることができる。」といた[5]とくに「独占どくせん」が重要じゅうようであった。ヨーロッパでは15世紀せいき段階だんかいですでに大砲たいほう技術ぎじゅつ進歩しんぽしていたが、それらを独占どくせんできたくにかった。銃火じゅうか鋳造ちゅうぞう技術ぎじゅつスヘルデがわラインがわ河口かこう付近ふきん低地ていち地方ちほう発展はってんしたが、この地域ちいきフランスハプスブルク帝国ていこく分割ぶんかつされた結果けっか火器かき登場とうじょう意義いぎ軍事ぐんじてき革命かくめいいきにとどまった[6]。これにたいし、西にしアジア、ロシア、インド、そしてより変則へんそくてき類型るいけいとしては中国ちゅうごく日本にっぽんにおいても、火器かき独占どくせん成功せいこうした勢力せいりょくによる軍事ぐんじてき拡張かくちょう帝国ていこく形成けいせいがみられた[5]

近年きんねん評価ひょうか問題もんだいてん

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歴史れきしたちからは、ホジソンやマクニールの火薬かやく帝国ていこく仮説かせつ不十分ふじゅうぶん不正確ふせいかく説明せつめいぎないとしてあまり肯定こうていされていないが、それでも「火薬かやく帝国ていこく」という用語ようごもちいられつづけている[7]集権しゅうけんてきなチュルク部族ぶぞく国家こっかぐんめていた地域ちいきに、3つの集権しゅうけんてき帝国ていこくがほとんど同時どうじ興隆こうりゅうしたことについては、軍事ぐんじめん以外いがいからも様々さまざま説明せつめいこころみられている。たとえば15世紀せいきヨーロッパを研究けんきゅうしている歴史れきしたちからは「宗派しゅうは」(Confessionalization)、すなわち国家こっか信仰しんこう告白こくはく教会きょうかい布告ふこくなどをつうじて教会きょうかいとの関係かんけいふかめたことが、中央ちゅうおう集権しゅうけん絶対ぜったい主義しゅぎ発生はっせいをもたらしたという概念がいねん提唱ていしょうしている。ダグラス・ストレウサンドは、これをサファヴィーあされいにとって説明せつめいしている。

サファヴィーあさ当初とうしょから一般いっぱん臣民しんみんあらたな宗教しゅうきょうてきアイデンティティを強制きょうせいした。言語げんごてきアイデンティティの育成いくせいによらないその政策せいさくには効果こうかがあった[8]

ホジソンとマクニールの理論りろん問題もんだいてんひとつとして、ムガル帝国ていこくのぞく2こくは、のところ初期しょききゅう拡大かくだいにそれほど火器かきかかわっていないということがげられる。さらに3こくとも、火薬かやく兵器へいき獲得かくとくするまえからすで軍事ぐんじてき専制せんせい体制たいせい形成けいせいされていた。火薬かやく兵器へいき獲得かくとく軍隊ぐんたいへの導入どうにゅうが、実際じっさいかずあるイスラーム国家こっかなか特定とくていの3つの帝国ていこく興隆こうりゅうをもたらしたものであるともおもわれない[9]ただ、火薬かやく存在そんざいが3つの帝国ていこく存在そんざい本質ほんしつてきむすいていたかどうかはさだかでないとしても、さんこくそれぞれがその歴史れきしはや段階だんかい大砲たいほう火器かき導入どうにゅうし、軍事ぐんじ戦略せんりゃく一部いちぶとしてんでいたのはたしかである。

さん帝国ていこくにおける火薬かやく兵器へいき

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オスマン帝国ていこく

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さん帝国ていこくなか最初さいしょ火薬かやく兵器へいき導入どうにゅうしたのは、14世紀せいきせきほう導入どうにゅうしたオスマン帝国ていこくであった[10]。この対応たいおうと、それにともな兵器へいき製造せいぞう進歩しんぽや、火器かき専門せんもんされた常備じょうびへい整備せいびは、ヨーロッパや中東ちゅうとう敵対てきたい勢力せいりょくくらべてきわめてはやいものだった[11]周辺しゅうへん諸国しょこくはオスマン帝国ていこく変容へんよう衝撃しょうげきけ、サファヴィーあさとムガル帝国ていこく火器かき導入どうにゅうするきっかけとなった。オスマン帝国ていこくすくなくともバヤズィト1せい時代じだいには大砲たいほう配備はいびしており、コンスタンティノープル包囲ほういせん使用しようしている。おさむじょう兵器へいきとしての大砲たいほう優位ゆういせいは、1430ねんテッサロニキ攻略こうりゃく証明しょうめいされた[12]。オスマン帝国ていこくはヨーロッパじん鋳造ちゅうぞうしょもちいて大砲たいほう製造せいぞうし、1453ねんコンスタンティノープル包囲ほういせんでは巨大きょだいウルバンほうもちいて城壁じょうへき巨大きょだい砲弾ほうだんびせ、防衛ぼうえいぐん驚愕きょうがくさせた[13]

イギリス・ハンプシャーのフォート・ネルソンに展示てんじされているオスマン帝国ていこくせいダーダネルスほう。これにちかいものが1453ねんのコンスタンティノープル包囲ほういせんでももちいられた。

オスマン帝国ていこく火器かき導入どうにゅう速度そくどはヨーロッパ諸国しょこく上回うわまわっていた。もともと弓矢ゆみやもちいる近衛このえ歩兵ほへいだったイェニチェリは、メフメト2せい時代じだいじゅうへいとしての訓練くんれんされ、「おそらく世界せかい最初さいしょ火器かき装備そうびした独立どくりつ部隊ぶたい」となった[12]大砲たいほうとイェニチェリの小銃しょうじゅう連携れんけいさせる戦術せんじゅつは1473ねんしろひつじあさたいするバシュケントのたたか[14]、1526ねんのハンガリーにたいするモハーチのたたかでその真価しんか発揮はっきした。そうしたたたかいのなかもっと火薬かやく兵器へいき真価しんか発揮はっきされ、サファヴィーあさやムガル帝国ていこくおおきな影響えいきょうあたえた戦闘せんとうは、1514ねんチャルディラーンのたたかである。

アッバース1せいのサファヴィーあさマスケットじゅうへい (ハビブ=アッラー・マシャディベルリン・イスラム美術館びじゅつかんくら).

オスマン帝国ていこくはチャルディラーンのたたかいでサファヴィーあさ衝突しょうとつした。このシーア宿敵しゅくてきたたかうためにオスマン帝国ていこくセリム1せい東部とうぶ戦線せんせん野戦やせんほう輸送ゆそうさせたのにたいし、サファヴィーあさイスマーイール1せい各地かくち諸侯しょこう騎兵きへいぐん召集しょうしゅうして集結しゅうけつさせ、オスマンぐん陣営じんえい突撃とつげきさせた。オスマンぐんは、大砲たいほう荷車にぐるまあいだ設置せっちし、イェニチェリをまも防壁ぼうへきとした。砲撃ほうげき銃撃じゅうげきけたサファヴィーあさ騎兵きへい壊滅かいめつてき損害そんがいこうむった。いきおいにったオスマンぐんはサファヴィーあさ首都しゅとタブリーズまでも一時期いちじき占領せんりょうし、おおくの都市としうばった[15]

サファヴィーあさ

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チャルディラーンでの敗北はいぼくによりイスマーイール1せい拡張かくちょう政策せいさく頓挫とんざした。かれはしばらく政治せいじ軍事ぐんじへの情熱じょうねつうしない、火薬かやく兵器へいき導入どうにゅうするなどの対策たいさくもすぐにはおこなわなかった。敗北はいぼくから2ねん、イスマーイール1せいは8000にんのマスケットじゅう兵隊へいたいトフェングチを創設そうせつし、1521ねんまでに2まんにんにまで規模きぼ拡大かくだいさせた[16]はん世紀せいきアッバース1せいは、1598ねんごろに軍制ぐんせい改革かいかくおこない、500もん大砲たいほうと1まん2000にんじゅうへい配備はいびした[17]

サファヴィーあさは、イスマーイール1せい死去しきょきた動乱どうらんじょうじて侵攻しんこうしてきたウズベクたいする戦争せんそうで、火薬かやく兵器へいき投入とうにゅうした。タフマースプ1せいみずかぐんひきいてヘラート奪回だっかいし、1528ねん9がつ24にちジャムのたたか でウズベクと激突げきとつした。このたたかいでサファヴィーぐんは、大砲たいほう中央ちゅうおうにおいて両翼りょうよく荷車にぐるま騎兵きへい展開てんかいした。このようについて、ムガル帝国ていこくのバーブルは「アナトリアりゅう」とひょうしている[18]かずせんにんじゅうへいぐん中央ちゅうおういたのも、オスマン帝国ていこくのイェニチェリにならった布陣ふじんだった。ウズベクぐん騎兵きへいはサファヴィーぐん両翼りょうよく攻撃こうげきして後退こうたいさせたが、タフマースプ1せい中央ちゅうおうじゅうへい鼓舞こぶしてウズベク騎兵きへい攻撃こうげきし、決定的けっていてき勝利しょうりおさめた[19]

ムガル帝国ていこく

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マッチロックしきライフルつムガルへい

ムガル帝国ていこく創設そうせつしゃでありバーブルは、チャルディラーンのたたかいで同盟どうめいしゃイスマーイール1せいやぶれたのち火薬かやく兵器へいき野戦やせんほう、またその戦術せんじゅつ積極せっきょくてきれた。かれローディーあさラホール太守たいしゅダウラト・ハン・ローディーをたすけてインドに侵入しんにゅうし、スルターンのイブラーヒーム・ローディーたたかった時点じてんで、すでにバーブルは火薬かやく兵器へいきをよく運用うんようできるようになっていた。かれはオスマン帝国ていこく技術ぎじゅつしゃウスタッド・アリー・クリーをやとい、大砲たいほう機動きどうじゅう歩兵ほへい中央ちゅうおうにおいて荷車にぐるままもりつつ両翼りょうよくゆみ騎兵きへい配置はいちするというオスマンがた戦術せんじゅつ吸収きゅうしゅうした。このしん技術ぎじゅつ導入どうにゅうは、1526ねんだいいちパーニーパットのたたかでのだい勝利しょうりにつながった。圧倒的あっとうてき多勢たぜいなローディーあさアフガンじんラージプート連合れんごうぐんに、バーブルひきいる小規模しょうきぼなティムールあさ残党ざんとう圧勝あっしょうできた一因いちいんは、君主くんしゅのバーブルが実際じっさい戦闘せんとう参加さんかしたてんにもあった。これはムガル帝国ていこく史上しじょうほとんどいことであった[20]

ひがしアジアの「火薬かやく帝国ていこく

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以上いじょうの3つのイスラーム火薬かやく帝国ていこくは、早期そうき火薬かやく兵器へいき導入どうにゅうして、しん兵器へいきしん戦術せんじゅつによって戦場せんじょう支配しはい成功せいこうした。一方いっぽうひがしアジアでも、ヨーロッパの海上かいじょう帝国ていこくからの影響えいきょうけて、イスラームけん火薬かやく帝国ていこく軍事ぐんじ革新かくしんきた。

中国ちゅうごく

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世界せかい先駆さきがけて火薬かやく発明はつめいされた中国ちゅうごくでは、8世紀せいきまつから9世紀せいき初頭しょとうごろに、ロケットのような火箭かせんやりそう王朝おうちょう兵器廠へいきしょうにおいて生産せいさんされるようになり、実戦じっせんではきむとの戦争せんそうちゅうきた内乱ないらん使用しようしたとされる[21][22][23]1259ねんみなみそう寿ことぶきはる開発かいはつされたじつやりばれる大砲たいほうちか木製もくせい火砲かほうたいもとせんなどに使用しようされた。1288ねん当時とうじ青銅せいどうせい銃身じゅうしん中国ちゅうごく発掘はっくつされたことで、モンゴル帝国ていこく大元おおもと統治とうち中国ちゅうごくやりからじゅう装備そうびえたことがあきらかになっており、じゅうはモンゴル帝国ていこくつうじて、マドファとして西方せいほうイスラム世界せかいにもつたえられ、ヨーロッパへつたわったとされる[24]

日本にっぽん火器かき伝来でんらいしたのとおなじころ、中国ちゅうごくにもポルトガルしきしょう火器かき様々さまざま方面ほうめんから流入りゅうにゅうした。1540年代ねんだいから1560年代ねんだいにかけては後期こうきやまと黄金おうごん時代じだいにあたり、明朝みょうちょう早期そうきからヨーロッパじん接触せっしょくしていたやまと寇との戦闘せんとうとおして火器かき入手にゅうしゅし、複製ふくせいはじめたとみられている。1558ねんやまと寇の指導しどうしゃおうただし降伏ごうぶくしてきたたさいあきら大量たいりょう火器かき没収ぼっしゅうし、複製ふくせいした[25]

あかりでもまた火器かき使用しよう基礎きそとした戦術せんじゅつ発展はってんした。戚継こうへい訓練くんれんして専門せんもんし、一斉いっせい射撃しゃげき反転はんてん行進こうしんなどの戦術せんじゅつれたり、部隊ぶたい整備せいびして柔軟じゅうなん陣形じんけい展開てんかい可能かのうにしたりして、やまと寇やモンゴルじんとの戦争せんそう成功せいこうおさめた[25]

1661ねんオランダひがしインド会社かいしゃたたかったあかり将軍しょうぐんてい成功せいこうは、戚継こう戦法せんぽう戦術せんじゅつもちいて勝利しょうりかさねた。てい成功せいこうへい陣形じんけいたもたせるためにきびしい訓練くんれん規律きりつし、兵器へいきしつまさるオランダぐんやぶったのである[25]

いぬいたかしみかど時代じだいきよし兵士へいし

きよしでは1631ねんにヨーロッパしき大砲たいほう運用うんようする部隊ぶたい編制へんせいされた[26]かれらはべにえびすのような大砲たいほう製造せいぞうしたりヨーロッパから輸入ゆにゅうしたりして、しんぐんなかたか信頼しんらい[27]満州まんしゅうじんはあまりじゅうあつかいたがらず、その使用しよう製造せいぞうかんじんまかせた[28][29]大砲たいほう小銃しょうじゅうは、十全じゅうぜん武功ぶこうられるような清朝せいちょう戦争せんそうひろもちいられた[30][31]。しかし1700年代ねんだい中盤ちゅうばんせいひがしアジアでの覇権はけん確立かくりつし、だい規模きぼ戦争せんそうくなると、火器かき発展はってん下火したびになった。1840ねんのアヘン戦争せんそう清朝せいちょうもちいたすべり腔砲は、ヨーロッパではすでにすたれ、ライフルほうにとってかわられていた[29]

日本にっぽん

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日本人にっぽんじんは16世紀せいき中盤ちゅうばんにポルトガルじんからアーケバス長身ちょうしん火縄銃ひなわじゅう)を入手にゅうしゅし、このポルトガルしき火薬かやく兵器へいき独自どくじ量産りょうさんはじめた。一方いっぽうで、日本にっぽんへの火器かき流入りゅうにゅうは、海外かいがい活動かつどうした日本人にっぽんじん傭兵ようへい出国しゅっこく帰国きこくとおしてすでに1540ねんにははじまっていたとするせつもある。鉄砲てっぽう生産せいさんはじまってあいだもなく、じゅう日本にっぽん兵士へいし主要しゅよう装備そうびとなっていった[25]

トニオ・アンドラーデによれば、ヨーロッパじんからもたらされた革命かくめいてき軍事ぐんじモデルは、日本にっぽん軍事ぐんじ技術ぎじゅつおおきな飛躍ひやくをもたらした。とくにアンドラーデは、訓練くんれん技術ぎじゅつ向上こうじょうによって可能かのうになったじゅうへい一斉いっせい連続れんぞく射撃しゃげき着目ちゃくもくしている[25]一斉いっせい連続れんぞく射撃しゃげき戦法せんぽうは、日本にっぽん織田おだ信長のぶながによって開発かいはつされたものだとされている。かれはそれまでのゆみへいおこなっていた戦術せんじゅつ銃火じゅうか戦術せんじゅつんだのであるが、じゅうへい装填そうてんしているあいだじゅうへい射撃しゃげきできるというこのシステムは、信長のぶながてき壊滅かいめつてき打撃だげきあたえることになった[32]

朝鮮ちょうせん

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朝鮮ちょうせんにも中国ちゅうごく使用しようされていた火器かき導入どうにゅうされ、14世紀せいき後半こうはんには製造せいぞうはじめていた。しかし1592ねんから1598ねん日本にっぽんとの戦争せんそうはじまると、銃火じゅうか導入どうにゅうおくれが露呈ろていし、日本にっぽんあかり同様どうよう軍事ぐんじ改革かいかくせまられた。この戦争せんそうちゅうの1594ねんには、すでに朝鮮ちょうせんぐんないじゅうへいめる割合わりあいが5わりえていた。かれらは戚継こう一斉いっせい射撃しゃげき戦術せんじゅつなどをれるとともに改良かいりょうかさね、他国たこくこうるまでに軍事ぐんじ技術ぎじゅつ発展はってんさせた[33]

1619ねんあかりおんなしんぞくあいだ発生はっせいしたサルフのたたかでは、小銃しょうじゅう装備そうびした朝鮮ちょうせんぐんあかり陣営じんえい参戦さんせんした。戦闘せんとうにはやぶれたものの、このたたかいで朝鮮ちょうせんぐん銃火じゅうか戦術せんじゅつ披露ひろう善戦ぜんせんした。その1627ねんと1636ねんおんなしんぞく直接ちょくせつ朝鮮ちょうせん侵入しんにゅうしたさいにも朝鮮ちょうせんぐんじゅう主体しゅたいとしてたたかったが、敗北はいぼくした[25]。1654ねんと1658ねんにはロシアとたたか清朝せいちょう援軍えんぐん派遣はけん、その勝利しょうりおおきく貢献こうけんした[33]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 齋藤さいとう俊輔しゅんすけ火薬かやく帝国ていこく試論しろん : オスマン帝国ていこく火器かき」『大東だいとうアジアがく論集ろんしゅうだい2ごう大東文化大学だいとうぶんかだいがく、2002ねん3がつ、150-162ぺーじISSN 2185-9760NAID 1100047224202021ねん6がつ1にち閲覧えつらん 
  2. ^ Khan 2005, p. 54.
  3. ^ Hodgson 1974, p. II:405-06.
  4. ^ Hodgson 1974, p. III:16.
  5. ^ a b McNeill 1993, p. 103.
  6. ^ McNeill 1993, pp. 110–11.
  7. ^ Streusand 2011, p. 3.
  8. ^ Streusand 2011, p. 4.
  9. ^ Ágoston 2005, p. 192.
  10. ^ Nicolle, David (1980). Armies of the Ottoman Turks 1300-1774. Osprey Publishing,
  11. ^ Ágoston 2005, p. 92.
  12. ^ a b Streusand 2011, p. 83.
  13. ^ McNeill 1993, p. 125.
  14. ^ Har-El 1995, pp. 98–99.
  15. ^ Streusand 2011, p. 145.
  16. ^ Matthee 1999.
  17. ^ Ágoston 2005, pp. 59-60 & n.165.
  18. ^ Mikaberidze 2011, pp. 442–43.
  19. ^ Streusand 2011, p. 170.
  20. ^ Streusand 2011, p. 255.
  21. ^ Lorge, Peter A. (2008), The Asian Military Revolution: from Gunpowder to the Bomb, Cambridge University Press, ISBN 978-0-521-60954-8 p. 33-34.
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参考さんこう文献ぶんけん

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