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筒井つついじょう

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筒井つついじょう
奈良ならけん
筒井城の石碑
筒井つついじょう石碑せきひ
別名べつめい 筒井つつい順慶じゅんけいじょう
城郭じょうかく構造こうぞう 平城ひらじろ
天守てんしゅ構造こうぞう なし
築城ちくじょうねん えいとおる元年がんねん1429ねん以前いぜん
おも改修かいしゅうしゃ 筒井つつい順慶じゅんけい
おも城主じょうしゅ 筒井つつい越智おちかた古市ふるいちかた松永まつなが久秀ひさひでほう
はいじょうねん 天正てんしょう8ねん1580ねん)8がつ17にち
遺構いこう 水堀みずほり
指定してい文化財ぶんかざい なし
再建さいけん造物ぞうぶつ なし
位置いち 北緯ほくい3437ふん11.907びょう 東経とうけい13546ふん58.109びょう / 北緯ほくい34.61997417 東経とうけい135.78280806 / 34.61997417; 135.78280806座標ざひょう: 北緯ほくい3437ふん11.907びょう 東経とうけい13546ふん58.109びょう / 北緯ほくい34.61997417 東経とうけい135.78280806 / 34.61997417; 135.78280806
地図ちず
筒井城の位置(大和郡山市内)
筒井城
筒井つついじょう
筒井城の位置(奈良県内)
筒井城
筒井つついじょう
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筒井つついじょう(つついじょう)は、奈良ならけん大和郡山やまとこおりやま筒井つついまちにあった日本にっぽんしろ室町むろまち時代ときよ戦国せんごく時代じだいつうじて大和やまとこく政治せいじ中心ちゅうしんてき存在そんざいであった興福寺こうふくじ衆徒しゅと筒井つつい居城いじろであった。

概要がいよう

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筒井つつい城跡じょうせき/現在げんざい畑地はたちになっている

筒井つついじょう近鉄きんてつ橿原線かしはらせん筒井つついえきより東北とうほく一帯いったい位置いちし、城郭じょうかくはおおよそ南北なんぼく400m、東西とうざい500mで、平地ひらちきずかれた中世ちゅうせいしろとしては比較的ひかくてき規模きぼおおきく、筒井つつい集落しゅうらくかこかたち筒井つついじょうがあった。現在げんざい筒井つつい城跡じょうせきは、宅地たくち畑地はたち水田すいでんとなっているが、うち曲輪くるわそときょくめぐったほりあと点在てんざいしている。そのほりかこまれた城内きうちには筒井つついとその家臣かしんだん屋敷やしきがあった。また、筒井つついには市場いちばがあったことが確認かくにんされており、筒井つついじょうの「市場いちば外堀そとぼり内部ないぶにももうけられていた可能かのうせいたかいとおもわれる」と指摘してきされている[1]。また筒井つつい集落しゅうらくは、様々さまざま場所ばしょみちがり直進ちょくしんできない構造こうぞうになっている。これらのみち地割じわり筒井つついじょうきずかれた当時とうじ様子ようすをうかがいこと出来できる。

沿革えんかく

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筒井つついじょうをはしる吉野よしの街道かいどう築城ちくじょう当時とうじさらかぎじょうれていたとかんがえられている)

筒井つついじょうきずかれた時期じきについては不明ふめいであるが、文献ぶんけんじょうはつは『まんすみじゅんきさき日記にっき』に、大和やまとえいとおるらんはじまったえいとおる元年がんねん1429ねん)で城主じょうしゅ筒井つついじゅんさとし。このときは「筒井つついかん」と記載きさいされていることもあった。その戦乱せんらん居館きょかんから城郭じょうかく発展はってんしていったのではないかとおもわれている。嘉吉よしきち元年がんねん1441ねん)には城主じょうしゅ筒井つついじゅんひさしにうつり、応仁おうにんらん戦国せんごく時代じだいつうじてなん筒井つついじょうをめぐるおさむしろせんおこなわれその史料しりょう豊富ほうふのこされている。

応仁おうにんらん細川ほそかわ勝元かつもとそう大将たいしょうとするひがしぐんと、山名やまな宗全そうぜんひきいる西にしぐんあらそいであったが、河内かわうちではそれ以前いぜん畠山はたけやま義就よしなり畠山はたけやま政長まさながかれてあらそっており、これに大和やまと国人くにびとしゅう分裂ぶんれつしてそれぞれに加勢かせいし、そのながれに応仁おうにんらんまれていく。

だいいち筒井つついじょうたたか

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だいいち筒井つついじょうたたか
戦争せんそうおさむしろせん
年月日ねんがっぴ康正こうせい元年がんねん1455ねん)7がつ2にち-8がつ19にち
場所ばしょ筒井つついじょう
結果けっか畠山はたけやま義就よしなり越智おち連合れんごうぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
畠山はたけやま義就よしなり越智おち連合れんごうぐん 筒井つついじゅんひさしぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
畠山はたけやま義就よしなり越智おちもり なりいん光宣みつのぶ筒井つついじゅんひさし
戦力せんりょく
不明ふめい 不明ふめい
損害そんがい
不明ふめい 不明ふめい
筒井つついじょう案内あんない看板かんばん

畠山はたけやま家督かとくあらそいをめぐる大和やまとこくしょにも影響えいきょうあたえることになる。このあらそいに筒井つついじゅんひさし畠山はたけやま弥三郎やさぶろうくみしていたが、康正こうせい元年がんねん1455ねん)7がつ2にち畠山はたけやま義就よしなりぐん筒井つついじょうおさむじょうし、なりいん光宣みつのぶ筒井つついじゅんなが兄弟きょうだい防戦ぼうせんしたが緒戦しょせん敗北はいぼくした。

しかし、筒井つついじょうそのものはちこたえた。このたたかいで大和やまと点在てんざいする西大寺さいだいじ興福寺こうふくじひとし寺院じいんおびえ、同年どうねん8がつ10日とおかにはもんじてしまった。そのこと原因げんいんとなったのか、同日どうじつ貝吹かいふく山城やましろにいた越智おちもりぐんして、筒井つついじょう攻囲こういぐんくわわった。このころはし片岡かたおか筒井つつい与力よりきになっていて、はし尾城おじろ片岡かたおかしろまもっていたが、畠山はたけやま義就よしなり越智おちもり連合れんごうぐん多数たすうによって、これらのしろおさむじょうした。各所かくしょ戦闘せんとうとなったようだが、8がつ19にち筒井つついじょうはし尾城おじろ片岡かたおかじょう落城らくじょうした。光宣みつのぶじゅんなが兄弟きょうだい福住ふくずみしろ逃走とうそうしていった。

その管領かんりょう細川ほそかわ勝元かつもと仲介ちゅうかいによって畠山はたけやま義就よしなり越智おちもり連合れんごうぐん和睦わぼくし、長禄ちょうろく3ねん1459ねん)6がつ1にち光宣みつのぶじゅんなが兄弟きょうだいはしそうしんじょうすることになり、筒井つついじょうにいた越智おちもりぐんしろってった。

だい筒井つついじょうたたか

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だい筒井つついじょうたたか
戦争せんそうおさむしろせん
年月日ねんがっぴ文正ふみまさ元年がんねん1466ねん)10がつ16にち
場所ばしょ筒井つついじょう
結果けっか畠山はたけやま義就よしなりぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
畠山はたけやま義就よしなりぐん 筒井つついじゅんながぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
畠山はたけやま義就よしなり 筒井つついじゅんひさし
戦力せんりょく
不明ふめい 不明ふめい
損害そんがい
不明ふめい 不明ふめい

だいいち筒井つついじょうたたかいから11ねんふたた大和やまと河内かわち勢力せいりょく拡大かくだいしてきた畠山はたけやま義就よしなり筒井つついじょうにもおさむじょうしてきた。このときもかなりの大軍たいぐんだったらしく、抵抗ていこうできなくなった筒井つついじゅんながぐんは、筒井つついじょうから脱出だっしゅつ南西なんせいやく10km距離きょりをおいたはし尾城おじろ退避たいひした。

義就よしなり反対はんたい勢力せいりょくであった畠山はたけやま政長まさながぞくしていたしょしょうは、このときそれぞれの城下町じょうかまちかれ、おおくの死傷ししょうしゃて、ほとんどがやぶれていた。このとき状況じょうきょうは『大乗だいじょういん寺社じしゃ雑記ざっきごと』に記述きじゅつされている。その大和やまと義就よしなり掌握しょうあくされることになる。

光専寺こうせんじ山門さんもん/筒井つつい城内きうち

だいさん筒井つついじょうたたか

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だいさん筒井つついじょうたたか
戦争せんそうおさむしろせん
年月日ねんがっぴ文明ぶんめい9ねん1477ねん)1がつ11にち
場所ばしょ筒井つついじょう
結果けっか越智おちさかえ古市ふるいち連合れんごうぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
越智おちさかえぐん 筒井つついじゅんみことぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
畠山はたけやま義就よしなり 筒井つついじゅんみこと
戦力せんりょく
不明ふめい 不明ふめい
損害そんがい
不明ふめい 不明ふめい
筒井つついじょう北側きたがわより北東ほくとう方向ほうこう撮影さつえい

筒井つついじゅんひさし筒井つつい中興ちゅうこう明主めいしゅわれ、大和やまと武士ぶし随一ずいいち地位ちいきずき、十市といち布施ふせ宝来ほうらい木津きづはし福住ふくずみひとし国人くにびとしゅう麾下きかくわえていった。ぞくに「筒井つついとう」としょうされることになる。しかし、じゅんなが文明ぶんめい8ねん1476ねん)4がつ3にち死去しきょすると筒井つついじょうふたたねらわれることになる。

じゅんながのち長男ちょうなん筒井つついじゅんみことまましいだが、越智おちさかえ古市ふるいち連合れんごうぐんよく文明ぶんめい9ねん1477ねん)1がつおさむじょうしてきた。じゅんみこと反撃はんげきするちからはなく、「じゅういちにちよる筒井つつい本城ほんじょう焼失しょうしつ」(『大乗だいじょういん寺社じしゃ雑記ざっきごと』)と記載きさいされている。そのじゅんみこといま勢力せいりょくけんにあった福住ふくずみじょうってった。

10月にあらためて畠山はたけやま政長まさながぐん合力ごうりょくしたじゅんみことは、はしらととも河内かわうちぐんしたがやぶれ、大和やまとかえした。この敗戦はいせんがきっかけとなり越智おちとういきおいづけることになり、本格ほんかくてき大和やまと支配しはいすることになる。一方いっぽうじゅんみことちょうとおる3ねん1489ねん)7がつ22にち京都きょうと客死かくししてしまいおとうとなりいんじゅんもりじゅんみこと遺児いじじゅんけん後見人こうけんにんとして筒井つつい仕切しきることになる。

だいよん筒井つついじょうたたか

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だいよん筒井つついじょうたたか
戦争せんそうおさむしろせん
年月日ねんがっぴ文明ぶんめい15ねん1483ねん)9がつ29にち
場所ばしょ筒井つついじょう
結果けっか古市ふるいちぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
古市ふるいちはしぐん なりいんじゅんもりぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
不明ふめい なりいんじゅんもり
戦力せんりょく
不明ふめい 不明ふめい
損害そんがい
不明ふめい 不明ふめい
菅田すげたうり神社じんじゃ本殿ほんでん/筒井つつい城内きうち

畠山はたけやま義就よしなりぐんは、反対はんたい勢力せいりょく籠城ろうじょうしていた河内かわうち犬田いぬたしろ文明ぶんめい15ねん1483ねん)8がつ13にちよりおさむじょうした。このとき越智おちとう」にぞくしていた古市ふるいち武名ぶめいげ、同年どうねん9がつ27にち犬田いぬたじょう落城らくじょうした。古市ふるいちぐんは、2にちの29にち筒井つついじょうおさむじょうした。このうごきに即応そくおうしてじゅうはしりょうぐん援護えんごまわるべく筒井つついじょう南側みなみがわにある結崎ゆうざき陣取じんどった。古市ふるいちぐん調しらべりゃくめぐらし、はしぐん古市ふるいちぐん寝返ねがえり、筒井つついじょう落城らくじょうした。

筒井つついぐん東山ひがしやまないへ、十市とおいちぐん藤井ふじい方面ほうめん逃走とうそうした。このたたかいで周辺しゅうへんむらかれてしまった。

だい筒井つついじょうたたか

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だい筒井つついじょうたたか
戦争せんそうおさむしろせん
年月日ねんがっぴえいただし13ねん1516ねん)10がつ
場所ばしょ筒井つついじょう
結果けっか越智おちきょう古市ふるいち連合れんごうぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
越智おちきょう古市ふるいち連合れんごうぐん なりいんじゅんもりぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
越智おちきょう なりいんじゅんもり
戦力せんりょく
不明ふめい 不明ふめい
損害そんがい
不明ふめい 不明ふめい
菅田すげたうり神社じんじゃ拝殿はいでん/筒井つつい城内きうち

えいただし年間ねんかんには大和やまと赤沢あかざわちょうけい養子ようしちょうけいおさえられていた。大和やまと国人くにびとしゅ対抗たいこうして国人くにびと一揆いっき形成けいせい大和やまと国人くにびと一揆いっきしゅうともばれている。ただ古市ふるいちせまかわはこの一揆いっきしゅにはくわわらず赤沢あかざわぐん加担かたんしたようである。

しかしえいただし錯乱さくらん細川ほそかわまさしもと暗殺あんさつ赤沢あかざわちょうけい丹後たんご戦死せんし大和やまと駐留ちゅうりゅうしていた赤沢あかざわぐん京都きょうと退しりぞいていくと、大和やまと支配しはいをめぐりふたたあらそはじめることになる。それまで越智おちとう戦術せんじゅつてき和議わぎむすんでいた筒井つついとうであったが、もともと敵対てきたい関係かんけいにあった越智おち古市ふるいちえいただし13ねん1516ねん)10がつおさむじょうして、なりいんじゅんもりぐんやぶった。

このころ越智おちとうには畠山はたけやま義英よしひでが、筒井つついとうには畠山はたけやま稙長たねながくわわったが、よくえいただし14ねん1517ねん)8がつ両者りょうしゃあいだ和睦わぼく成立せいりつすると、筒井つつい越智おち古市ふるいちあいだでも和議わぎ成立せいりつした。

筒井つついじゅんあきら画像がぞう/えんしょうてらぞう
筒井つつい順慶じゅんけい画像がぞう/傳香寺でんこうじぞう
筒井つつい順慶じゅんけい五輪ごりんとうくつがえどう/重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい

その大和やまと混乱こんらんした状態じょうたいとなる。越智おち古市ふるいちあいだでも和議わぎ成立せいりつし、筒井つつい大和やまと支配しはいけん掌握しょうあくするようになるが、とおるろく元年がんねん1528ねん)に柳本やなぎもと賢治けんじ乱入らんにゅうしてくると頓挫とんざしてしまう。賢治けんじ中嶋なかじまたたか暗殺あんさつされると木沢きさわ長政ながまさ大和やまと北半きたはんこくおさめることになったが、長政ながまさ太平寺たいへいじたたか討死うちじににすると、今度こんどじゅうとおただし台頭たいとうしてきて筒井つついじゅんあきらじゅうとおちゅう大和やまと支配しはいをめぐってきそった。天文てんもん14ねん1545ねん)にとおただし死亡しぼうすると、大和やまと制圧せいあつ成功せいこうした。

しかし、大和やまと掌握しょうあくしたじゅんあきらであったが、同年どうねん死去しきょしてしまう。家督かとく順慶じゅんけいうつったがまだ幼少ようしょうであったため、松永まつなが久秀ひさひでえいろく2ねん1559ねん)に大和やまと侵攻しんこうし、筒井つついじょうえいろく8ねん1565ねん)11月に久秀ひさひでから攻撃こうげきをうけ、炎上えんじょうしてしまった。その東大寺とうだいじ大仏殿だいぶつでんたたかがありよくえいろく9ねん1566ねん)にはもどすが、えいろく11ねん1568ねん)10がつふたた松永まつながぐん占領せんりょうされてしまう。

このとき筒井つつい松永まつながおさむしろせんだいろく筒井つついじょうたたか以降いこう)ついては筒井つついじょうたたか参照さんしょう

松永まつながかたうつった筒井つついじょう多聞たもん山城やましろ信貴しぎ山城やましろ重要じゅうよう拠点きょてんしてもちいられた。これは郡山こおりやましろめる拠点きょてんとして、多聞たもん山城やましろ信貴山しぎさんじょうのルートを確保かくほするためつなぎのしろささえじょうであった。このとき松永まつながかた史料しりょうには筒井つついじょうことを「平城ひらじろ」とだけしるされている。

もとかめ2ねん1571ねん)8がつ松永まつながぐんたつ市城いちしろ合戦かっせん筒井つついぐん勝利しょうりすると、順慶じゅんけいちから重視じゅうしした明智あけち光秀みつひで仲介ちゅうかいにより織田おだ信長のぶなが帰服きふく許可きょか筒井つついじょう回復かいふくした。やがて久秀ひさひで信長のぶなが謀反むほんこして自殺じさつ信貴山しぎさんじょうたたか)、一方いっぽう順慶じゅんけい天正てんしょう7ねん1579ねん)に筒井つついじょう改修かいしゅうしようと多聞たもん山城やましろ石垣いしがき筒井つついじょううつしたが、信長のぶながの「大和やまと一国破城命令」によりはいじょうとし、居城きょじょう郡山こおりやまじょううつした。よく天正てんしょう8ねん1580ねん)8がつ17にちことであった。

歴代れきだい城主じょうしゅ

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筒井つついじょう歴代れきだい8だい城主じょうしゅ
なんだい城主じょうしゅ 初代しょだい城主じょうしゅ 2だい城主じょうしゅ 3だい城主じょうしゅ 4だい城主じょうしゅ
城主じょうしゅめい 筒井つついじゅんさとし 筒井つつい順弘のぶひろ 筒井つついじゅんひさし 筒井つついじゅんみこと
なんだい城主じょうしゅ 5だい城主じょうしゅ 6だい城主じょうしゅ 7だい城主じょうしゅ 8だい城主じょうしゅ
城主じょうしゅめい 筒井つついじゅんけん 筒井つついじゅんきょう 筒井つついじゅんあきら 筒井つつい順慶じゅんけい

城郭じょうかく

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筒井つついじょう推定すいてい城郭じょうかく部分ぶぶん/ 国土こくど交通省こうつうしょう 国土こくど地理ちりいん 地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス空中くうちゅう写真しゃしんもと作成さくせい

筒井つついじょうは、筒井つつい集落しゅうらく全体ぜんたいかこ外堀そとぼりとその内側うちがわにある内堀うちぼりから構成こうせいされており、内堀うちぼりかこまれた部分ぶぶんが「シロばたけ」とわれ、周囲しゅういくらべて一段いちだんたかくなったはたけとなっている。この部分ぶぶんがちょうど筒井つついじょう中心ちゅうしんてき場所ばしょであったとおもわれている。ほりうちがわにはるいがありてき侵入しんにゅうふせいだ。筒井つついじょう大和郡山やまとこおりやま教育きょういく委員いいんかい過去かこ6かい以上いじょう発掘はっくつ調査ちょうさ実施じっし土師はじさら一括いっかつ陶器とうきされた状態じょうたい検出けんしゅつされ、西側にしがわでははば12m以上いじょうふかさ2m以上いじょうほり検出けんしゅつされている。このほりは16世紀せいきちゅうごろで石垣いしがきたないしろとしては最大さいだいきゅうかんがえられている。さらしろ中心ちゅうしんからは7世紀せいきはじめのおおきな建物たてものあとや4世紀せいきおおきなみぞつかっており、ふるくから重要じゅうよう場所ばしょであった。また発掘はっくつ調査ちょうさから鉄砲てっぽうたまほり斜面しゃめんより出土しゅつどした。おおきさは1.1cm、おもさは7.68gのなまりせいで、1559ねんえいろく2ねん)の筒井つついじょう落城らくじょうさい使つかわれたとみられている。「松永まつなが久秀ひさひで筒井つついじょう最新さいしん兵器へいきもちいてめたかもしれない」と指摘してきされている[1]

蓮根はすねはたけ/筒井つついじょう中心ちゅうしん
推定すいているいあと/菅田すげたうり神社じんじゃ境内けいだいにある

現在げんざい筒井つついじょう中心ちゅうしん蓮根はすねはたけになっている。蓮根れんこんはたけは「シロばたけ」()をぐるりといており、蓮根はすねはたけ筒井つついじょうほりあと推定すいていされている。平城ひらじろしろとして使用しようされなくなって、耕地こうち使用しようする場合ばあい本丸ほんまる周囲しゅういひくくなっているのでとして利用りようしやすい。筒井つついじょう場合ばあい昭和しょうわ初期しょき以前いぜんであったようで、これが蓮根れんこんはたけ変化へんかしたとわれている。この「シロばたけ」には現在げんざい民家みんかっていない。地元じもとひとからは「筒井つつい殿様とのさまんでいたので遠慮えんりょしていえてていない」と伝承でんしょうされている。これは筒井つついじょうかぎったことではなく、中心ちゅうしんには民家みんかてないという風習ふうしゅうひろられる、と解説かいせつされている[1]

ほりあと/菅田すげたうり神社じんじゃ東側ひがしがわ
ほりあと/筒井つつい集落しゅうらく北側きたがわ

筒井つつい集落しゅうらく北側きたがわ南東なんとうがわには現在げんざいでも外堀そとぼりあとがあり、また菅田すげたうり神社じんじゃ東側ひがしがわにははばやく2mの内堀うちぼりあと遺構いこう良好りょうこうのこっている。また菅田すげたうり神社じんじゃ境内けいだい南側みなみがわには、若干じゃっかんたかくなった部分ぶぶんがありるいあと指摘してきされている。この菅田すげたうり神社じんじゃ筒井つついじょうがあったころから、位置いちちがえず鎮座ちんざしているとかんがえられている。

きた市場いちばみなみ市場いちば

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城内きうちには曲輪くるわだけが存在そんざいしたわけではない。「シロばたけ」の東側ひがしがわ一帯いったいきた市場いちば須浜池すはまいけ南側みなみがわみなみ市場いちばというめいのこされている。これは城内きうち縦貫じゅうかんしている吉野よしの街道かいどう沿いに存在そんざいしていたとかんがえられている。このような街道かいどう市場いちば城内じょうないむということは、それだけで規模きぼおおきくなることを意味いみする。普通ふつう街道かいどうだれたいしても通行つうこうできるが、城内きうち街道かいどうがはしっていると通行人つうこうにんたいしてなにがしかの規制きせいくわわることつながるとかんがえられている。また市場いちばやその住宅じゅうたく城内じょうないにあることで、領主りょうしゅ保護ほごけられるが、反面はんめんてきからの攻撃こうげきけたさい、防備ぼうびうす市場いちばから攻撃こうげきされやすい。だいさん筒井つついじょうたたかいで筒井つついじょう炎上えんじょうしたさいに、古市ふるいちにより市場いちばから放火ほうかされたようである(『けいさとしわたしようしょう』)。

鬼門きもん

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京都きょうと御所ごしょ北東ほくとうすみ鬼門きもんおと
江戸城えどじょう鬼門除きもんよけ/寛永寺かんえいじ清水しみず観音堂かんのんどう

筒井つついじょう東北とうほくすみ水堀みずほりれに屈曲くっきょくしている。でも屈曲くっきょくしている部分ぶぶんはあるが、連続れんぞくして屈曲くっきょくしているのはここだけである。このような曲輪くるわ構造こうぞうをしている理由りゆうとして『筒井つついじょう総合そうごう調査ちょうさ報告ほうこくしょ』では、

  1. 防御ぼうぎょ目的もくてきとして意図いとてきもうけられた
  2. 元々もともと自然しぜん地形ちけい沿ってつくられた
  3. 風水ふうすいによる鬼門きもんおとしに相当そうとうする

かんがえられるが、これらの可能かのうせいについて検討けんとうしている[2]

そもそも鬼門きもんとは、中国ちゅうごく発展はってんした地相ちそうじゅつで、遣唐使けんとうしによって日本にっぽんつたえられたが9世紀せいきまつ遣唐使けんとうし廃止はいしになってからは、日本にっぽん独自どくじ変化へんか陰陽いんようどう風水ふうすい)のひとつ、鬼門きもんきらいそれをのぞける風習ふうしゅうがあったとおもわれている。戦国せんごく時代じだい風水ふうすいとは武士ぶしのものであって、陣取じんとりや合戦かっせん日時にちじ風水ふうすいによってめられることもあった。

鬼門除きもんよけのひとつが「鬼門きもんおとし」で、建物たてもの敷地しきち北東ほくとうすみくことで、北東ほくとうすみつくらないようにしたもので、この「鬼門きもんおとし」で有名ゆうめい施設しせつ京都きょうと御所ごしょである。ほぼ正方形せいほうけいになっている禁裏きんりであるが北東ほくとうすみへいだけがけている。また近世きんせい城郭じょうかくでは鹿児島かごしまじょう日出にっしゅつじょう鬼門きもん江戸城えどじょう寛永寺かんえいじすじたがえもん彦根城ひこねじょう中堀なかほりにおける構造こうぞうなど中世ちゅうせい城郭じょうかくでもすうおおくの「鬼門きもんおとし」がられる。しかし、これらのれい風水ふうすいのみではなく防備ぼうび施設しせつそなえているしろ々もあった。

そこで筒井つついじょうだが、構造こうぞうになっているが、北東ほくとうには虎口ここうく、隣接りんせつする東口ひがしぐち北口きたぐち両方りょうほう虎口ここうにも横矢よこやからないため防御ぼうぎょのためではないとおもわれる。また、この部分ぶぶんには河川かせん氾濫はんらん城内じょうないおよぶのをふせぐためるいもうけたとしても、れにする必要ひつよう地形ちけい沿ってまるくするか、あるいは直線ちょくせんきずくのが自然しぜんである。したがって、防御ぼうぎょ地形ちけいではなく「風水ふうすいのみにかかわるもの」と結論けつろんづけられている[2]

城跡じょうせきへのアクセス

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 筒井つつい筒井つついじょう
  2. ^ a b 筒井つついじょう総合そうごう調査ちょうさ報告ほうこくしょ

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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