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赤羽あかはね末吉すえきち

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赤羽あかはね 末吉すえきち(あかば すえきち、1910ねん5月3にち - 1990ねん6月8にち)は、日本にっぽん絵本えほん画家がか絵本えほん作家さっか舞台ぶたい美術びじゅつ作家さっか絵本えほんスーホのしろうま』でられ[1]日本にっぽん絵本えほん画家がかとしてはじめて国際こくさいアンデルセンしょう画家がかしょう受賞じゅしょうした[2]

三男さんなんフランス文学ぶんがくしゃ上智大学じょうちだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ赤羽あかはね研三けんぞう

来歴らいれき[編集へんしゅう]

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東京とうきょう神田かんだ土代どだいまちげん東京とうきょう千代田ちよだ神田美土代かんだみとしろまち) に、青田あおた小太郎こたろうとさとう(さと)のあいだまれる[3][注釈ちゅうしゃく 1]。1913ねん当時とうじ戸籍こせき住所じゅうしょは「きた豊島としまぐん日暮里にっぽりまち大字だいじ金杉かなすぎ」(げん荒川あらかわ東日暮里ひがしにっぽり)と記載きさいされており[3]、そこでらしていたとされる[4]赤羽あかはね茂乃しげのによると小太郎こたろう職業しょくぎょう判然はんぜんとせず、末吉すえきち後年こうねん「これといって仕事しごともせず、まち顔役かおやくってとこかな」と回想かいそうした[3][注釈ちゅうしゃく 2]戸籍こせきじょうあに4にん義姉ぎしちち養女ようじょ2人ふたりわせた7にん兄弟きょうだいすえだった[3][注釈ちゅうしゃく 3]。9さいときに、深川ふかがわ義姉ぎし1にんとともに転居てんきょし、臨海りんかい尋常じんじょう小学校しょうがっこうげん江東こうとう区立くりつ臨海りんかい小学校しょうがっこう)に6年生ねんせいまでかよった[6]幼少ようしょう末吉すえきちは「」とばれる紙芝居かみしばい熱中ねっちゅう[7]、また映画えいが活動かつどう写真しゃしん)にもあししげとおった[8]。5さいごろ映画えいがとしてはじめてた『ざらし』にはつよ影響えいきょうけ、落語らくご愛好あいこうするようになる[8]。「」の題材だいざい深川ふかがわ界隈かいわいにいた舞子まいこ歌舞伎かぶきなどのえがいた[8]

1923ねん4がつ旧制きゅうせいじゅんてん中学校ちゅうがっこうげんじゅんてん中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう)に進学しんがく[4]中学ちゅうがく進学しんがく同時どうじに、赤羽あかはね房次ふさじろう養子ようしとなるが、深川ふかがわらしはそのままだった[9]。そのとし9がつ関東大震災かんとうだいしんさい遭遇そうぐう家族かぞくとともに相生橋あいおいばしげ、そこからきしかわはいってたすかった[10]いえがなくなったため、震災しんさい根岸ねぎしげん台東たいとう下谷しもたに2丁目ちょうめ)にあった養父ようふたくらす[10]。しかし、養父ようふとの関係かんけいはよくなかったとされる[10]。この時期じき末吉すえきち文学ぶんがく耽溺たんできし、親友しんゆう2にん同人どうじんつくるまでになる[11]。また、フリッツ・ラング監督かんとく映画えいが『ジークフリート』(『ニーンベルンゲン英語えいごばん』のだい1)にはつよ印象いんしょうけ、後年こうねんまでポスターを保存ほぞんして、絵本えほんにも影響えいきょうあたえた[12][注釈ちゅうしゃく 4]

満州まんしゅう時代じだいまで[編集へんしゅう]

1928ねん中学ちゅうがく卒業そつぎょう[4]卒業そつぎょう定職ていしょくにもかず、日本にっぽんいえ入門にゅうもんしたものの、旦那だんなしゅ宴席えんせき即興そっきょうえがいてかねをもらう師匠ししょうたちの姿すがた失望しつぼうして短期間たんきかんめてしまう[14]。1929ねんごろには築地つきじしょう劇場げきじょう熱中ねっちゅう舞台ぶたい芸術げいじゅつこころざした[4]。1931ねんには3かげつだけ日本にっぽんプロレタリア美術家びじゅつか同盟どうめい研究所けんきゅうじょ所属しょぞくし、講師こうし八島やじま太郎たろうからデッサンのおしえをけた[15][注釈ちゅうしゃく 5]。 1932ねん、22さい義姉ぎしたよって関東かんとうしゅう大連たいれん現在げんざい中国ちゅうごく遼寧りょうねいしょう)に移住いじゅう[16]大連たいれんでは義姉ぎしおっと運営うんえいする運送うんそう会社かいしゃみではたら[17]。ある街頭がいとうかけた『コドモノクニ』(1932ねん6がつごう)の初山はつやましげるによる表紙ひょうしつよせられ(自身じしんでそのごう購入こうにゅうした)、ふたたえがはじめる[18][注釈ちゅうしゃく 6]大連たいれん在住ざいじゅう画家がか甲斐かい八郎はちろうい、1933ねんには甲斐かいらのこした「満州まんしゅう郷土色きょうどしょく研究けんきゅうかい」に参加さんかする[20]。また、やとぬしいのむすめすすめられて交際こうさいはじめ、1934ねん6がつ結婚けっこんした[21][注釈ちゅうしゃく 7]

まんしゅう電信でんしん電話でんわ会社かいしゃまんしゅう電電でんでん)がアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくから輸入ゆにゅうする機材きざい通関つうかん業務ぎょうむ勤務きんむさきったえんで、先方せんぽうから「えがける人材じんざい」としてスカウトされ、1936ねん入社にゅうしゃ満州まんしゅう電電でんでん本社ほんしゃのあったしんきょう当時とうじまんしゅうこく首都しゅとで、げん吉林きつりんしょう長春ちょうしゅん)に家族かぞくとともに移住いじゅうした(もっとも入社にゅうしゃから5ねんほどはえが仕事しごとなかったという)[22]しんきょうではおなまんしゅう電電でんでんつとめていた森繁もりしげ久弥ひさや満州まんしゅうでんぎょう芦田あしだ伸介しんすけ、さらに満州まんしゅう活動かつどうしていた文化ぶんかじんだん一雄かずお木山きやま捷平しょうへい逸見いつみ猶吉ゆうきち北村きたむら謙次郎けんじろう長谷川はせがわら)などと交友こうゆうった[23][注釈ちゅうしゃく 8]

末吉すえきちはほとんど独学どくがくであったが[15]、1940ねんだい3かい満州まんしゅうこく美術びじゅつ展覧てんらんかいくにてん)の東洋とうよう日本にっぽん)で特選とくせん大臣だいじんしょう次点じてん)となったのを皮切かわきりに、1942ねんだい5かいまで3かい連続れんぞくしてどう部門ぶもん特選とくせんとなり、日本にっぽん画家がかとしての地位ちい確立かくりつした[25]。これにより、まんしゅう電電でんでんでも広報こうほうはん宣伝せんでんポスターなどの業務ぎょうむくようになる[26]。また、満州まんしゅう時代じだいたびこのみ、一人ひとりであちこちに旅行りょこうした[27]。1943ねんには、満州まんしゅうこく政府せいふ企図きとしたチンギス・ハーンびょう壁面へきめん壁画へきが取材しゅざいとしてうちモンゴルを1かげつ以上いじょうにわたっての5めいのメンバーとともに旅行りょこうし、おおくの写真しゃしんのこ[28]帰路きろにはくも崗石くつにもった[29]

1945ねん8がつソ連それんたいにち参戦さんせんこう一家いっか長春ちょうしゅんとなったしんきょうにとどまる[30]。1946ねんには日本人にっぽんじん新聞しんぶん刊行かんこうしていた東北とうほくしるべほうしゃ[注釈ちゅうしゃく 9]から刊行かんこうされた『児童じどう讀本とくほん』の表紙ひょうし挿絵さしええがいた[31][32]ソ連それんぐん撤退てったいはちぐん中国共産党ちゅうごくきょうさんとうぐん)が進駐しんちゅうすると、日本人にっぽんじん画家がかとともに共産党きょうさんとう宣伝せんでんポスター制作せいさくめいじられる[30]。その中国ちゅうごく国民党こくみんとうぐんわって進駐しんちゅうし、共産党きょうさんとう占領せんりょう仕事しごと非難ひなんされかかるが、蔣介せきのポスターをえがいてなんのがれた[33]国民党こくみんとうぐんからの依頼いらい絵画かいが指導しどうなどのとめようしゃという身分みぶんになるものの、あてがわれた仕事しごとはいずれもうまくいかなかった[34]つぎ指示しじされた仕事しごと拒否きょひしてとめようしゃ地位ちいうしな[34]国共こっきょう内戦ないせん危険きけんもあり、末吉すえきち帰国きこく決意けついする[34]。1947ねん8がつ下旬げじゅん長春ちょうしゅん出発しゅっぱつ途中とちゅう奉天ほうてんで40日間にちかん収容しゅうようしょれられ、9月29にちえびすあしとうから出航しゅっこう、10月7にち佐世保させぼこう上陸じょうりくしたが、船内せんない発生はっせいした麻疹ましんのために20日はつか以上いじょう隔離かくりされたのち熊本くまもとけん人吉ひとよしにあったつま母親ははおや実家じっか到着とうちゃくした[35]。しかし、世話せわができないという先方せんぽう意向いこう沿い、10日とおかほどの滞在たいざい出発しゅっぱつして11月11にち東京とうきょうもどり、月島つきしまにあるあにいえせた[35]

日本にっぽん帰国きこく[編集へんしゅう]

東京とうきょうもどった末吉すえきち挿絵さしえやポスター、看板かんばんなどの仕事しごとがけたが、収入しゅうにゅう一家いっかささえるにはおよばず、つま銀座ぎんざ千疋せんびき勤務きんむした[36]。しかも、そのとしの12月から1948ねん4がつにかけ、次男じなん(2さい)、次女じじょ(5さい)、長女ちょうじょ(12さい)を相次あいついでくす[37]。1948ねん8がつ職業しょくぎょう安定あんていしょからの紹介しょうかいで、連合れんごうぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい (GHQ)の民間みんかん情報じょうほう教育きょういくきょく (CIE)にデザイナーとして採用さいようされる[38]。1951ねんあき北多摩きたたまぐん府中ふちゅうまちげん府中ふちゅう)の都営とえい住宅じゅうたく転居てんきょした[39]。また、1949ねん三男さんなん研三けんぞう)、1952ねんよんなんをもうけている[39]。1952ねん連合れんごうぐん占領せんりょうわると、末吉すえきちちゅうにちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大使館たいしかん文化ぶんか交換こうかんきょく展示てんじ展示てんじうつ[40]、1969ねんまで勤務きんむする[41]おも仕事しごと大使館たいしかん日本にっぽん国内こくないがけるアメリカの文化ぶんか産業さんぎょうなどの展示てんじかい設営せつえい撤収てっしゅうだった[42]大使館たいしかん仕事しごとおおくの出張しゅっちょうともなったものの、当時とうじ日本にっぽんではめずらしい完全かんぜん週休しゅうきゅうにち残業ざんぎょうもないうえ給与きゅうよはよく、余暇よか描画びょうが旅行りょこうをすることができた[43]

画業がぎょう挿絵さしえ中心ちゅうしんで、1952ねんごろには毎日新聞まいにちしんぶんに「やまおくの花火はなび」という3コマ漫画まんが文章ぶんしょう柴野しばの民三たみぞう)を連載れんさいした[44]。1959ねんには「民話みんわ屏風びょうぶ」により、日本にっぽん童画どうがかいてん茂田井もたいたけしょう受賞じゅしょうした[44]

1957ねんごろ茂田井もたい遺作いさくとなった絵本えほんセロひきのゴーシュ』(原作げんさく宮沢みやざわ賢治けんじ福音館書店ふくいんかんしょてん)にせっして感銘かんめいける[45][注釈ちゅうしゃく 10]。これを契機けいき絵本えほん画家がかとなるべく、福音館書店ふくいんかんしょてん松居まついただし手紙てがみおくって面会めんかいし、画家がかとして採用さいようされる[47][注釈ちゅうしゃく 11]。そのせき末吉すえきちつたえた「雪国ゆきぐにえがきたい」という希望きぼうに、松居まつい後日ごじつ瀬田せだ貞二ていじ再話さいわ)の『かさじぞう』を依頼いらいした[47]絵本えほん『かさじぞう』は1961ねん1がつ発売はつばいの『こどものとも』58ごう掲載けいさいされ、末吉すえきちは50さい絵本えほん画家がかとしてデビューする[48]

『かさじぞう』の制作せいさく前後ぜんこうに、松居まついだいさく希望きぼうわれ「こうむふるものがかきたい」とこたえる[19]。1961ねん6がつ松居まついから大塚おおつか勇三ゆうぞうの『スーホのしろうま』を、『こどものとも』の穴埋あなう原稿げんこうとして依頼いらいされ、10月刊行かんこうの『こどものとも』67ごう掲載けいさいされた[19]。1かげつでの作画さくがうえ色刷いろずりが末吉すえきちことなっていたため個人こじんてきには満足まんぞくできない仕上しあがりだったが[19]再版さいはん希望きぼう版元はんもとせられたこともあり、横型よこがた大判おおばん絵本えほん末吉すえきち提案ていあんによる)にえがなおされて1967ねん再版さいはんされた[49][注釈ちゅうしゃく 12]

このあいだ、1965ねん最初さいしょサンケイ児童じどう出版しゅっぱん文化ぶんかしょう(『ももたろう』『しろいりゅうくろいりゅう』)を受賞じゅしょう、さらに『スーホのしろうま』で1968ねん再度さいど受賞じゅしょうし、絵本えほん作家さっかとしての評価ひょうか確立かくりつ、1969ねんアメリカ大使館あめりかたいしかん退職たいしょくして専業せんぎょう絵本えほん画家がかとなった[41]退職たいしょく神奈川かながわけん鎌倉かまくら自宅じたくけんアトリエを新築しんちくして1970ねん転居てんきょする[50]。これに先立さきだち、1965ねんには長野ながのけん信濃しなのまち黒姫山くろひめさんふもと別荘べっそうて、まち意向いこう協力きょうりょくするかたち周辺しゅうへんを「黒姫くろひめ山荘さんそう」という別荘べっそうにする活動かつどうがけた[51]。この別荘べっそうにはいわさきちひろいぬいとみこらも別荘べっそうかまえ、かれらをふくめた住人じゅうにん交流こうりゅうした[51]専業せんぎょう作家さっかとなってからも精力せいりょくてき作品さくひんおく一方いっぽうで、1974ねんからセミナー「絵本えほん学校がっこう」(黒姫くろひめなど数カ所すうかしょ開催かいさい)の校長こうちょうけん講師こうしつとめるなど、後身こうしん育成いくせいにもんだ[52]

一方いっぽう絵本えほんんだ木下きのした順二じゅんじ依頼いらいで、1962ねん木下きのした脚本きゃくほん担当たんとうした名古屋なごや西川にしかわりゅう[注釈ちゅうしゃく 13]舞踊ぶようげきはなわか』の舞台ぶたい美術びじゅつ衣装いしょうふくむ)をがける[53][54][注釈ちゅうしゃく 14]。これを契機けいきに、おも名古屋なごや西川にしかわりゅう舞踊ぶようげき脚本きゃくほん木下きのしたのほか、松山まつやまよしさん北條ほうじょう秀司しゅうじら)10さく舞台ぶたい美術びじゅつ担当たんとうした[55]

1980ねん3がつ27にち日本人にっぽんじんでははつとなる国際こくさいアンデルセンしょう画家がかしょう受賞じゅしょう決定けっていし、チェコスロバキアプラハでの授賞じゅしょうしきのために同年どうねん9がつから10がつにかけてわたりおうした[56]日本にっぽん日本にっぽん国際こくさい児童じどう図書としょ評議ひょうぎかいから国際こくさい児童じどう図書としょ評議ひょうぎかい (IBBY)へ末吉すえきち推薦すいせんしょ(ドシエ)をいたのは渡辺わたなべ茂男しげおで、授賞じゅしょうしきには末吉すえきち同行どうこうした[57]

1986ねんには『鳥獣ちょうじゅう人物じんぶつ戯画ぎが』をヒントにした創作そうさく絵本えほん『おへそがえる・ごん』(ぜん3かん)を刊行かんこう、これが最後さいごのオリジナル絵本えほんとなった[58]。この絵本えほんには手塚てづか治虫おさむ関心かんしんしめし、一部いちぶ実験じっけんアニメにしたいといた手紙てがみ末吉すえきちおくっている[58]

1987ねんにはのう梗塞こうそく入院にゅういん退院たいいん肝硬変かんこうへん発覚はっかくするなど体調たいちょうとし、1990ねんはるには家族かぞくに(がけていた)『ふうまた三郎さぶろう』が完成かんせいしたら絵本えほん執筆しっぴつから引退いんたいするともはなしたという[59][60]。1990ねん6がつ8にち肝硬変かんこうへん由来ゆらいする食道しょくどう静脈じょうみゃくこぶ破裂はれつにより死去しきょ[61]生前せいぜん最後さいご絵本えほん宮沢みやざわ賢治けんじの『ひかりの素足すあし』で、『ふうまた三郎さぶろう』は原画げんが3まいのみで未完みかんとなった[62][注釈ちゅうしゃく 15]

末吉すえきち自身じしんぜん作品さくひん居住きょじゅうした鎌倉かまくら寄贈きぞうする意向いこうだったが、がわ原画げんがのみをれるとしたため、1998ねん遺作いさくてん開催かいさいしたいわさきちひろ絵本えほん美術館びじゅつかんげんちひろ美術館びじゅつかん東京とうきょう)に遺族いぞくより寄贈きぞうされた[63]寄贈きぞう時点じてんでの資料しりょう原画げんがなどやく6900てんで、その発見はっけんされたものをくわえて2020ねん時点じてんでは7000てんちかくにえている[63]

作風さくふう[編集へんしゅう]

伝統でんとうてき墨絵すみえ技法ぎほうかした『かさじぞう』では日本にっぽんゆきえがき、壮大そうだい歴史れきし絵巻えまきの『源平げんぺい絵巻物えまきもの』では絢爛けんらん豪華ごうか大和絵やまとえ展開てんかいした。ダイナミックで生命せいめいりょくあふれる造形ぞうけいから素朴そぼくうつくしさまで表現ひょうげんしたが、松居まついただしは「絵本えほん独特どくとく機能きのうはたらき」を熟知じゅくちし、なにより「物語ものがたりをよくみとり、その物語ものがたり表現ひょうげんできる」稀有けう人物じんぶつだったとしている[よう出典しゅってん]。また、おに題材だいざいとした絵本えほんおおがけたことから「おにあか」の異名いみょうけられていた[64]

手掛てがけた作品さくひん古典こてんむかしばなしにまらず民話みんわ創作そうさく絵本えほんおよび、国内こくないのみならず海外かいがいからも評価ひょうかた。

東京とうきょうそだちだったが、満州まんしゅう時代じだい山形やまがたけんから入植にゅうしょくした満蒙まもう開拓かいたくだんゆきすくない現地げんちらしているのにせっして、雪国ゆきぐにたいする興味きょうみいだ[65]帰国きこくにも、ふゆ休暇きゅうかって新潟にいがたけん東北とうほく地方ちほう豪雪ごうせつ地帯ちたい旅行りょこうしスケッチした[66]前記ぜんきとおり、絵本えほん画家がかとしてデビューするときには「雪国ゆきぐにはなし」をのぞんで『かさじぞう』を制作せいさくし、そのも『つるにょうぼう』などに雪国ゆきぐに取材しゅざいかされた(ただし、ゆきえがいた絵本えほん自体じたいは6てんで、ぜん作品さくひんなかでは少数しょうすうである)[67]

日本にっぽん画家がかであった満州まんしゅう時代じだいにすでに、子供こどもへの愛情あいじょう童心どうしん特徴とくちょうとして杉村すぎむら勇造ゆうぞう桑原くわばらひろし指摘してきされていた[68]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

満州まんしゅう在住ざいじゅう時代じだいは、日本人にっぽんじんがあまり近寄ちかよらない「城内きうち」とばれる現地げんちじん地区ちく一人ひとりでしばしばかけ、スケッチなどのかたわてん物色ぶっしょくしてられているものをべたという[69]。「満州まんしゅう郷土色きょうどしょく研究けんきゅうかい」がした『苦力くーりー素描そびょう』というルポルタージュ形式けいしき文集ぶんしゅうにも参加さんかした[70]。しかし、満州まんしゅうこくらしたことは戦後せんご末吉すえきち悔恨かいこんねんんだ[71]。1983ねん、「日本にっぽん民間みんかん文学ぶんがく代表だいひょうだん」というあつまり(松居まついただし君島きみしま久子ひさこらも参加さんか)で36ねんぶりに訪中ほうちゅう[72]北京ぺきんひらいた中国ちゅうごくがわ関係かんけいしゃとの食事しょくじかい挨拶あいさつしたさいに、戦争せんそう当時とうじ大人おとなだった自分じぶん中国ちゅうごくたいして罪人ざいにんなので絶対ぜったい観光かんこうでは訪中ほうちゅうしないが、中国ちゅうごくやくつことがあればよろこんでおとずれる、それが今回こんかい実現じつげんしたというはなしをした[73]帰国きこく家族かぞくに「ほんのすこしだけれど、かたりたよ」とはなしたという[73]。この旅行りょこうでは制作せいさくちゅうだった絵本えほん『あかりのはな』の取材しゅざいのため、しゅうしょうミャオぞくむら訪問ほうもんした[72]

また、満州まんしゅう郷土きょうど玩具おもちゃ熱心ねっしんあつめ、げのさい荷物にもつになるため持参じさんをあきらめたが、スケッチにしてのこした[74]帰国きこく意識いしきしてコレクションこそしなかったものの、その興味きょうみ絵本えほん題材だいざいとなる民話みんわ共通きょうつうせいがあることをみずかしるし、晩年ばんねんまで愛好あいこうした[74]

わかころ熱心ねっしんかよった築地つきじしょう劇場げきじょうでは、山本やまもと安英やすえねつげた[75]後年こうねん木下きのした順二じゅんじ舞台ぶたい芸術げいじゅつがけて、山本やまもととかかわることになった[53]

ちゅうにちアメリカ大使館たいしかんつとめながら、まった英語えいごはなさなかった(仕事しごと会話かいわ通訳つうやくかいした)[76]。しかし、冷遇れいぐうされることはなく館内かんないでは有名人ゆうめいじんだったという[76]

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • 『おおきなおおきなおいも 鶴巻つるまき幼稚園ようちえん市村いちむら久子ひさこ教育きょういく実践じっせんによる』さく 福音館書店ふくいんかんしょてん、1971ねん
  • 源平げんぺい絵巻えまき画集がしゅう岩崎いわさき書店しょてん、1975ねん
  • おにのうで』ぶん 偕成社かいせいしゃ、1976ねん
  • 絵本えほんわらべうた』偕成社かいせいしゃ、1977ねん
  • 『そら、にげろ』偕成社かいせいしゃ、1978ねん
  • 『へそとりごろべえ』 童心どうしんしゃ、1978ねん
  • 絵本えほんよもやまばなし偕成社かいせいしゃ 1979ねん 
  • わたし絵本えほんろん』偕成社かいせいしゃ、1983ねん
  • わたし絵本えほんろん ちゅう高校生こうこうせいのための絵本えほん入門にゅうもん平凡社へいぼんしゃ<平凡社へいぼんしゃライブラリー>、2005ねん
  • 『おへそがえる・ごん』ぜん3かん さく 福音館書店ふくいんかんしょてん、1986ねん

挿画そうが[編集へんしゅう]

日本にっぽん民話みんわ

中国ちゅうごく・モンゴルの民話みんわ

しょうれき[編集へんしゅう]

絵本えほんおよびその業績ぎょうせきたいするもの

  • サンケイ児童じどう出版しゅっぱん文化ぶんかしょう
    • 1965ねん(『ももたろう』『しろいりゅうくろいりゅう』)
    • 1968ねん(『スーホのしろうま』)
  • 厚生省こうせいしょう児童じどう文化ぶんか福祉ふくし奨励しょうれいしょう - 1968ねん(『スーホのしろうま』)
  • 講談社こうだんしゃ出版しゅっぱん文化ぶんかしょう - 1973ねん(『源平げんぺい絵巻物えまきもの 衣川きぬがわのやかた』)
  • ブルックリン美術館びじゅつかん絵本えほんしょう - 1975ねん(『スーホのしろうま』)
  • 小学館しょうがくかん絵画かいがしょう - 1975ねん(『ほうまんのいけのカッパ』)
  • 国際こくさいアンデルセンしょう画家がかしょう
  • ライプチヒ国際こくさい図書としょデザインてん金賞きんしょう(『絵本えほんわらべうた』『そら、にげろ』、ひがしドイツ文部もんぶ大臣だいじんしょう(『絵本えほんわらべうた』) - 1982ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 赤羽あかはね茂乃しげのによると、よし土代どだいまちのどのあたりかまでは判然はんぜんとせず、また出生しゅっしょうとどけは1913ねんになって兄弟きょうだいとまとめて提出ていしゅつされているがそこには神田かんだたすく荏木まち住所じゅうしょははおとうと居所きょしょ)が記載きさいされているという[3]
  2. ^ この内容ないようは『こどものとも』1980ねん7がつごう掲載けいさいされた「布施ふせ太子たいし入山にゅうざん」という末吉すえきち文章ぶんしょうによる[5]
  3. ^ 末吉すえきち自身じしん生前せいぜん自分じぶんしたいもうとがいたがんだ、とはなしたことがあったものの、裏付うらづけられていない[3]
  4. ^ 末吉すえきちは、国際こくさいアンデルセンしょう授賞じゅしょうしきでのスピーチでもこの映画えいがからけた感銘かんめいれている[13]
  5. ^ 末吉すえきち後年こうねん最初さいしょ絵本えほん『かさじぞう』をアメリカに居住きょじゅうしていた八島やじまおくり、その再会さいかいして交流こうりゅう復活ふっかつさせた[15]
  6. ^ 末吉すえきち絵本えほん画家がかとなったのち、『かさじぞう』『スーホのしろうま』(『こどものとも』掲載けいさいばん)を初山はつやまおくり、後者こうしゃたいしては評価ひょうかする返書へんしょっている[19]
  7. ^ この結婚けっこんつまははやしな条件じょうけんで、養父ようふからはゆるしをられず、法律ほうりつじょう夫婦ふうふとなったのは戦後せんご法律ほうりつ改正かいせいされたのちのことだった[21]
  8. ^ とく森繁もりしげとはなが親交しんこうち、末吉すえきち死去しきょしたさい弔電ちょうでん供花きょうか森繁もりしげからおくられている[24]
  9. ^ 社長しゃちょう石河いしかわきよし(いしこ きよし)は、漫画まんが評論ひょうろん石子いしこじゅんちち[31][32]
  10. ^ 赤羽あかはね茂乃しげのは、茂田井もたいえが人物じんぶつ人形にんぎょうげきをモデルにしているてんまえ、満州まんしゅう末吉すえきち愛好あいこうした中国ちゅうごく影絵かげえ人形にんぎょう芝居しばい共通きょうつうする部分ぶぶんかれた可能かのうせい指摘してきしている[46]
  11. ^ 二人ふたり初対面しょたいめん時期じきについては末吉すえきち松居まつい回想かいそう齟齬そごがあり、赤羽あかはね茂乃しげのは1958ねんごろ推測すいそくしている[47]
  12. ^ 1964ねん松居まついからは「表紙ひょうしえがし」での再版さいはん提案ていあんがあり、それをえがいたものの、最終さいしゅうてきには全面ぜんめん改稿かいこう新版しんぱんとなった[19]。その経緯けいい末吉すえきち自身じしんは、当初とうしょ原画げんが印刷所いんさつしょ火災かさい焼失しょうしつしたからだとべていたが、実際じっさいけたのは『かさじぞう』で、松居まつい当初とうしょ原画げんがのこっているのをりながらなおしにおうじたことになる[49]
  13. ^ 赤羽あかはね茂乃しげの (2020)では「西川にしかわりゅう」とのみしるしている。
  14. ^ 木下きのした絵本えほんについては、木下きのしたは『かさじぞう』、末吉すえきちは『だいくとおにろく』だったとしるしている[53]
  15. ^ 没後ぼつごの1995ねんに、生前せいぜん完成かんせいしていた『日本にっぽん昔話むかしばなし』が刊行かんこうされている[60]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ "赤羽あかはね末吉すえきち". ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん. コトバンクより2021ねん8がつ19にち閲覧えつらん
  2. ^ "赤羽あかはね末吉すえきち". デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plus. コトバンクより2021ねん8がつ19にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f 赤羽あかはね茂乃しげの 2020, pp. 34–37.
  4. ^ a b c d 赤羽あかはね茂乃しげの 2020, p. 570.
  5. ^ 赤羽あかはね茂乃しげの 2020, p. 84.
  6. ^ 赤羽あかはね茂乃しげの 2020, p. 39.
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 鳥越とりこししん絵本えほん歴史れきしをつくった20にんそうもとしゃ、1993ねん
  • 赤羽あかはね茂乃しげの絵本えほん画家がか赤羽あかはね末吉すえきち スーホの草原そうげんにかけるにじ福音館書店ふくいんかんしょてん、2020ねん  著者ちょしゃ赤羽あかはね研三けんぞうつま

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]