(Translated by https://www.hiragana.jp/)
張載 (北宋) - 维基百科,自由的百科全书

ちょう (きたそう)

きたそう思想家しそうかきたそういち(1020-1077)

ちょう(1020ねん—1077ねん),あつ[1]:1、203せいたたえよこみぞ先生せんせいだいはりいま開封かいふうにん[2]:237きたそう大夫たいふ官員かんいん思想家しそうかちょう早年そうねん有意ゆうい從軍じゅうぐんあらため習儒がく高中たかなか進士しんし,曾在地方ちほう上出かみでつとむけん判官ほうがんこれしょく入朝にゅうちょうにんこうしょろう退すさかくれ著書ちょしょこうがくちょうこれそうあきら理學りがくてき奠基じんきたそういちざいそうあきら理學りがくいちちょく享有きょうゆう崇高すうこう地位ちいとく以從まつあなびょう哲理てつり思想しそうじょうちょう強調きょうちょう太虛たいきょそく」,ため宇宙うちゅうてき根本こんぽん實體じったい,萬物皆由氣凝聚而成,陰陽いんようりょう互相作用さよう交感こうかん,引起天地てんちあいだ無窮むきゅう變化へんか,而萬物運化都依循自然之ちょう倫理りんりがくてき綱要こうようきょうじん通過つうかれいなりせい」以變化へんか氣質きしつ最終さいしゅうなりため聖人せいじん提出ていしゅつせい二元論にげんろん指出さしでじんゆう天地てんちせいあずか氣質きしつせい」,前者ぜんしゃじゅんぜん後者こうしゃそく世間せけんあくてき根源こんげんちょうみとめため知識ちしき可分かぶんりょうたねそく見聞けんぶんあずか德性とくせい」,にんただゆうもたれ德性とくせい才能さいのう認識にんしき最高さいこうてきりょうぜん道德どうとく領域りょういき,而感かん經驗けいけんたい追求ついきゅう道德どうとく也是必需ひつじゅてきちょうざい西銘にしめ提出ていしゅつみん胞物あずかてき主張しゅちょう,闡揚博愛はくあい利他りたてき精神せいしんなりため影響えいきょう後世こうせい深遠しんえんてきめいへん宗教しゅうきょう方面ほうめん批評ひひょう佛學ぶつがくてき唯識ゆいしきろん反對はんたい其以ため唯一ゆいいつてき實在じつざい人的じんてき心靈しんれい意識いしき政治せいじ思想しそう方面ほうめんちょう意欲いよく恢復かいふくさんだいこれ實施じっし封建ほうけんせい井田いだせいあずか宗法しゅうほうせいちょうこれがくそう代理だいりがくいち重要じゅうようぶんささえたい後世こうせいおう廷相おうおっとたん嗣同とうひとゆう重大じゅうだい影響えいきょう

ちょう
大夫たいふ理學りがく
國家こっか宋朝そうちょう
時代じだいきたそう
姓名せいめいちょう
あつ
ごうよこみぞ先生せんせい
ふうごう郿伯
ぞくかんぞく
せきぬきだいはり
出生しゅっしょう1020ねんそう真宗しんしゅうてんよんねん
逝世1077ねんそうかみはじめ熙宁じゅうねん
臨潼
谥号あかりこう
ほこらびょう張子はりこほこら
おやぞく
父親ちちおやちょうすすむ
つまかく
兄弟きょうだいちょう
ちょういん
進士しんし
たかしぶんいんこうしょろうどうふとしつねれいいん
えきせつ》、《せいこうむ》、《西銘にしめ

生平おいだいら

编辑

早年そうねん

编辑

ちょう祖先そせんきょ開封かいふう父親ちちおやちょうすすむ曾任涪州しゅう在任ざいにんじょうびょうゆえちょうざい父親ちちおや死時しにどき年紀としのりなおようあずかおとうとおとうとちょう戩跟ずい母親ははおや遷居おおとりしょうよこみぞしょうしながくけんゆう早年そうねん意圖いと從軍じゅうぐん[1]:1、155。1041ねん上書うわがき范仲淹討論とうろん西北せいほくぼう軍事ぐんじ建議けんぎ奪回だっかいため西にしなつところ佔的洮西地區ちく。范仲淹認ためはりなり大器たいき勸告かんこくはり放棄ほうき從軍じゅうぐん,而選擇せんたく以儒せいためぎょうなみすすむ讀《中庸ちゅうよういちへん[1]:2、9ちょう接受せつじゅ范仲淹的勸告かんこく放棄ほうき軍事ぐんじ興趣きょうしゅ轉向てんこう專攻せんこう學術がくじゅつ歡讀《中庸ちゅうよう》,ただし不感ふかん滿足まんぞくようりょういくねん工夫くふう研究けんきゅう佛教ぶっきょう道家みちや書籍しょせきただしだい心得こころえかいいた儒家じゅか經典きょうてんよしみゆう(1056—1063)初年しょねんちょうざい開封かいふう講述こうじゅつえきけい》,聽眾甚多[1]:155、2司馬しばひかりまたざい[2]:237ちょうなみひょうほどほど兄弟きょうだい討論とうろんえきけい》,おもて叔侄さんにんこころざし同道どうどうあい關係かんけいみつせつな[1]:2よりどころうんはり自覺じかくろんえきけい如二ほど兄弟きょうだい高明こうめい請人うけにんあらためしたがえほどため,輟講而歸[2]:237

ちゅう舉以

编辑

1057ねんちょう37さい高中たかなか進士しんしさきにんため祁州司法しほうさんぐんこう遷為くもいわおけんこん陝西せんせいむべかわけんれい在官ざいかん期間きかんさがせとい民間みんかんやましにが訓誡くんかい子弟してい[1]:3,曾每個月かげつざいけん準備じゅんび酒食しゅしょく召集しょうしゅう鄉里きょうり長者ちょうじゃしょうかいさがせとい民間みんかんやましにがゆうゆうしょ頒示,そくこう長者ちょうじゃ解釋かいしゃく其中緣由えんゆ要求ようきゅう們回いた鄉里きょうり傳達でんたつ自己じこてき用意よういやくざい1066ねんちょう接受せつじゅおうすえてき邀請[3]:182さいいた開封かいふうこうがく勸學かんがくきり勿以ため急務きゅうむおう留意りゅうい古代こだいきよしくん堯舜みち同時どうじ也曾受ぶん彥博ところ請,いた開封かいふうがくみやこうがく[3]:183。1067ねんちょう任命にんめいため著作ちょさくろう,簽書渭州軍事ぐんじ判官ほうがん公事こうじ在任ざいにん期間きかんふか涇原經略けいりゃく使蔡挺尊重そんちょう軍政ぐんせいだい小事しょうじあずかちょうしょう討。ちょう曾勸ふく蔡挺取出とりでぐんもうかにぎわいずみいんぼう而受なんてきわざわいみん。1069ねんちょうゆかりちゅうすすむりょこうちょ推薦すいせんそうかみはじめ召對問答もんどう回答かいとうしんむねしょとい治世ちせいみちせつ為政いせい不法ふほうさんだいしゃおわり道也みちや」。かみはじめ聽見甚為喜悅きえつ[1]:3命令めいれいはり參與さんよおうやすしせき新政しんせいちょう自稱じしょう地方ちほう入朝にゅうちょうなお未熟みじゅく悉新せい希望きぼうさききゅう觀察かんさつ時間じかん[3]:183かみはじめ於是委任いにんためたかしぶんいんこうしょろうちょうおうやすせき詢問たい熙寧へんほうてき意見いけん[1]:3ちょう以比喻示,如新せいたい地方ちほう政務せいむ干涉かんしょう甚,便びんなん成功せいこう[3]:183二人ふたり意見いけんごうおうやすしせき借用しゃくよう處理しょりあきらしゅうごくあんちょう調しらべ朝廷ちょうてい[1]:4當時とうじほど抗議こうぎ無效むこう[2]:238。1071ねんちょう處理しょりごくあんかいいた朝廷ちょうてい,其弟ちょう表示ひょうじ反對はんたい新政しんせい,屢次上書うわがき批評ひひょうとくざいりょうおうやすせきちょうかんじいた不安ふあん,乃辭去じきょ朝廷ちょうてい職務しょくむ表示ひょうじ不和ふわおうやすせき合作がっさくかいいたよこみぞみちけい洛陽らくようあずか二程兄弟重逢[1]:4、10、202

ちょうざい隱居いんきょよこみぞ期間きかんけん讀儒經籍けいせき記錄きろく自己じこてき哲學てつがく思想しそう專心せんしんがくだいゆう成就じょうじゅこころざしざい恢復かいふくさんだいこれなずらえあずか門人もんじん共同きょうどうかい實施じっし小型こがた井田いだせいただし志願しがんおわり成就じょうじゅ[1]:4-5ちょうためじん自負じふ志向しこう宏大こうだい,曾以孔子こうしふくせい[3]:143隱居いんきょ期間きかん學術がくじゅつじょう雖有しょ成就じょうじゅ心中しんちゅうの卻留こい朝廷ちょうていもちのう夠被朝廷ちょうてい任用にんよう[1]:10、159。1076ねんちょうせんなりせいこうむ》闡述個人こじん學說がくせつ[4]:173同年どうねんちょうゆかりりょだいぼう推薦すいせんかえしかい朝廷ちょうてい授官どうふとしつねれいいんみとめため這是こうろう朝廷ちょうていてき好機こうきかいらく接受せつじゅ官職かんしょくざいれいいんにんしょくちょう發現はつげん郊廟これれい嚴格げんかく以糾ただしただしかずあやかん意見いけんしょうひだりとく而感えつ。1077ねんふゆちょう患病,辭去じきょ官職かんしょくかい陝西せんせいみち洛陽らくようあずか二程兄弟重逢。はしいた臨潼ちょうやまいじゅう而死,終年しゅうねん57さい死時しにどきただゆういちがいおいざいがわぼつゆうぜにざいざい長安ながやすてき門人もんじん聽見訊,趕往臨潼やすはいごと[1]:5、202ちょうゆうのこ孀郭いちちょういんなおよう[3]:184

著作ちょさく

编辑

ちょうしん自撰じせんうつしてき著作ちょさくゆうえきせつ》、《せいこうむ》、《よこみぞ文集ぶんしゅう》;歷年れきねんこうがく記錄きろくけい門人もんじん記錄きろく集成しゅうせいゆう語錄ごろく》、《孟子もうしせつ》、《論語ろんごせつ》、《せつ》、《れいせつ》、《せつ》、《禮樂れいがくせつ》、《らくせつとう[1]:6ちょうまた注解ちゅうかいりょう春秋しゅんじゅうかず兵書へいしょじょう繚子》;門人もんじん輯錄其說,せん經學けいがく理窟りくつ[3]:178-179

思想しそう

编辑
 
ばんわらいどう竹莊たけしょうでんちゅうちょうぞう

宇宙うちゅうろん

编辑

ちょう哲學てつがく思想しそう淵源えんげんざいしゅうえき》,特別とくべつ繫辭でん》,《せいこうむやくゆう四份一篇幅引申《しゅうえき所論しょろん[3]:144、158;其宇宙うちゅうかんふか受《しゅうえきてき宇宙うちゅうろん影響えいきょう,也吸收きゅうしゅう陰陽いんようぎょう學說がくせつちょうめんたいてき思想しそう問題もんだい佛教ぶっきょうたい宇宙うちゅうしょ主張しゅちょうてき虛無きょむ主義しゅぎ佛家ぶっけみとめため現象げんしょう世界せかい不能ふのうはなれひらき人的じんてき意識いしき獨立どくりつ存在そんざい天地てんち日月じつげつ以至人世じんせいあいだまぼろし妄的。ためりょう反駁はんばく佛教ぶっきょうてき形而上學けいじじょうがくせつちょう建立こんりゅういちしゅ形而上けいじじょう系統けいとうよう證明しょうめいしょてき宇宙うちゅう世界せかい實在じつざい而非まぼろし妄的。ちょう強調きょうちょう宇宙うちゅうてき現象げんしょう世界せかいなみもたれ人的じんてき意識いしき獨立どくりつ存在そんざい宇宙うちゅう本源ほんげん所謂いわゆる太虛たいきょかず[1]:33、49ため宇宙うちゅうてき根本こんぽん實體じったい現象げんしょう世界せかいてき根本こんぽん素質そしつ[1]:34、51解釋かいしゃくため物質ぶっしつあるそんゆう」,宇宙うちゅうてき最後さいご實在じつざい原始げんし動力どうりょく[5]:115、112。萬物皆由氣凝聚而成,つぎ消散しょうさん復歸ふっき渾沌こんとん狀態じょうたい[3]:45聚為ぶつ,就像すい結成けっせい冰,氣散きさんじ就如冰融ためすい[6]:144したがえ變化へんかためしたがえ有形ゆうけい變化へんかため無形むけいなみ代表だいひょう事物じぶつ本身ほんみめつぜっぼつゆう物質ぶっしつゆうしょ損失そんしつある消滅しょうめつちょう反對はんたい道家みちや有生ゆうせいてき說法せっぽう,也譴責けんせき佛教ぶっきょうてき主觀しゅかん唯心ゆいしん主義しゅぎ[1]:40、45、49反對はんたいそらてき理論りろん強調きょうちょう這個世界せかいざい認知にんちしゃてき心靈しんれいうら,而是獨立どくりつ存在そんざい[1]:51-52

ちょう強調きょうちょう太虛たいきょそくかず虛空こくうそく」,道佛どうぶついえ分別ふんべつしょ提出ていしゅつてききょかずそら」跟ろん綜合そうごうおこりらい[1]:43太虛たいきょ就是てき原始げんし狀態じょうたい[7]:383,也是てき起源きげん一切いっさい事物じぶつてきかえり宿やど[1]:37一切いっさい事物じぶつてきほん狀態じょうたい萬物ばんぶつみなげん太虛たいきょ[8]:40てき散逸さんいつ狀態じょうたい便びんきょ[3]:162聚則ため萬物ばんぶつ氣散きさんじそくなり太虛たいきょ[7]:383。「太虛たいきょかず虛空こくう含有がんゆう形而上けいじじょうてき意義いぎ[1]:44太虛たいきょ無形むけい無窮むきゅうため宇宙うちゅう本體ほんたい[9]:76なま原始げんし混沌こんとん不可ふか,「太虛たいきょ無形むけい本體ほんたい」。自身じしん具有ぐゆう陰陽いんようりょうたね極性きょくせいざい太虛たいきょちゅう陰陽いんようそく統一とういつてき[3]:42、49太虛たいきょ別名べつめい就是てんそく廣大こうだいてき現象げんしょう世界せかい[1]:90,也是たいてんみちてき形容けいよう描述[8]:41ちょう太虛たいきょため本體ほんたいせつ可能かのう受老ろんてき影響えいきょう[9]:97,其太虛說きょせつまた也許受到《みかど內經といおうちゅうてき影響えいきょう[10]:81ちょうてき宇宙うちゅうかん動態どうたい而非靜態せいたいてき這種動態どうたいなみさまたげ宇宙うちゅうてき諧,這種諧而また生動せいどうてき渾然一體こんぜんいったいちょうしょうためふとし[11]:69原始げんし混沌こんとんひつじぶんきょ於萬ぶつさき,就是ふとしてき狀態じょうたいふとし陰陽いんよううん便びん生出おいで寰宇萬物ばんぶつ化成かせい世間せけん萬象ばんしょう[3]:41

ちょうみとめため不斷ふだん變化へんか引用いんようしゅうえき》及そう逍遙しょうようゆう解釋かいしゃく不斷ふだん變動へんどうてきとくてん,「きょそくてき含意がんい宇宙うちゅうあいだてき實體じったいざい不斷ふだん變化へんかてき過程かていちゅうてき變化へんかよし陰陽いんよう這兩原則げんそくえいひさしざい活動かつどうちゅう[1]:38、56、39陰陽いんようりょう互相作用さよう感應かんおう引起無窮むきゅう變化へんかてき根源こんげん須任なん外因がいいんためだいいち動力どうりょく事物じぶつぶつ物的ぶってきまんせん變化へんかみやこただしよし於陰兩端りょうたん互相交替こうたいしょ構成こうせいてき[1]:63、43、40大地だいちしょ於天中間ちゅうかんこうひだり旋轉せんてん日月じつげつ五星亦隨著地一同旋轉。宇宙うちゅう萬物繁多而各不相同,よし於在ぶつ中有ちゅうう陰陽いんよう兩端りょうたんてき變化へんか[1]:43、39てき實然じつねん形態けいたい千變萬化せんぺんばんか決定けっていりょう萬物ばんぶつひとし[12]:137宇宙うちゅうあいだぼつゆうりょうたね事物じぶつ完全かんぜんしょうどうてき人的じんてき心靈しんれい也是獨特どくとくてき,其反おうかくあいどう[1]:41-42陰陽いんようしょう輔相なり而不かい完全かんぜんけしほろびぼう一方いっぽうみつる滿まん致極,旋即就開始かいしおとろえ虧,另一方便ほうべん開始かいし增長ぞうちょうみつるきょくそく虧,如寒あつあい推,彼此ひし相生あいおい相克そうこく運轉うんてんきゅう[3]:50、57宇宙うちゅう一切現象都有對立的兩方面,彼此ひし互相排斥はいせき,而結果けっか必歸於和解わかい[1]:63;佔優勢ゆうせいしゃなみ不能ふのう完全かんぜん消滅しょうめつ它的對立たいりつめん,這就かたき必和而解」[6]:152

ちょう確信かくしんせい宇宙うちゅう事事物物じじぶつぶつてき結構けっこう遵循一套有聯貫性的秩序和原理[1]:33宇宙うちゅうえんじへん雖極ため複雜ふくざつただし遵循いち規律きりつ[6]:147陰陽いんよう交感こうかんあずか循環じゅんかんゆうざい,「のうようらい解釋かいしゃく世間せけん萬象ばんしょう。萬物運化都源於自然之理,なみ人格じんかくてきてんある鬼神きじんらい引導いんどう變化へんか過程かていひとよう掌握しょうあく天地てんちうん,就能順應じゅんのう萬物ばんぶつ[3]:60、39ただしちょう主張しゅちょう氣先きさき於理[5]:113ほどしゅ理學りがく不同ふどうぼつゆう」於在哲學てつがく體系たいけいてき核心かくしん位置いち[3]:61ためみちこれ本原もとはらみちある道德どうとく值皆內在於氣[5]:118、116すんで形而上けいじじょうてきまた形而下けいじかてきかたちじょうてき虛空こくうてき暫時ざんじ沉澱,ためがた下之したの形而上けいじじょうてきそく宇宙うちゅうあずか人性じんせい至善しぜんてき本源ほんげんちょう肯定こうていがたじょうてき至善しぜん本質ほんしつ,以及其作為さくい道德どうとく實踐じっせんてき超越ちょうえつ依據いきょ[12]:136-137宇宙うちゅう充滿じゅうまんちょ倫理りんり道德どうとくてきあたい值,自然しぜんかい具有ぐゆう道德どうとくせい[1]:68天地てんちぶつ千差萬別せんさばんべつ,卻同さんせい於一有價值意義的本源[12]:139

倫理りんりがく

编辑
 
明代あきよ曹端西銘にしめじゅつかいしょかげ

ちょう倫理りんりがくてき綱要こうようきょうじん通過つうかれいなりせい」以變化へんか氣質きしつ最終さいしゅうなりため聖人せいじん[10]:59。其倫理りんりかん承繼しょうけいさきしん儒家じゅかてき傳統でんとう思想しそうみとめためただゆうかいいたあなはじめてき積極せっきょく道德どうとく人生じんせいかんさい挽救佛道ぶつどう二派對個人和社會道德做成的不良影響[1]:73、80復興ふっこう儒學じゅがくため使命しめい批評ひひょう佛教ぶっきょうあいしん虛無きょむてき人生じんせいかん,而失掉道德どうとく問題もんだいてき意識いしき禪宗ぜんしゅう心心こころごころ傳授でんじゅ不立文字ふりゅうもんじ結果けっか客觀きゃっかんてき道德どうとく標準ひょうじゅんおけろんちょう確信かくしん宇宙うちゅうあいだゆういちしゅ客觀きゃっかん普遍ふへん適用てきようてき道德どうとく規律きりつ[1]:83-84せいあずかてんみち絕對ぜったい和永かずえつねてき天道てんとう具有ぐゆう獨立どくりつ人道的じんどうてき超越ちょうえつ品格ひんかく[8]:42-43,其終極しゅうきょくせきなつけざい於「せいあずか天道てんとう合一ごういつてき問題もんだい[8]:38ちょう座右ざゆうめいため天地てんちりつこころためせいみんたていのちため往聖つぎぜっがくためまんせいひらけ太平たいへい」,みとめためにんなん學者がくしゃおうとうゆう志向しこうよしため天地てんち無心むしん學者がくしゃおうため天地てんちりつこころため百姓ひゃくしょうでんあげ天道てんとう[1]:80、155-156馮友らんたたえよんばなしためよこみぞよん」,いい其點あかり歷史れきし文化ぶんか人的じんてき創造そうぞうにんたい命運めいうんようじゅん自然しぜんなみ反映はんえいりょうじん禽之べん[13]:245-247さきあげゆうかんいよいよかくゆうしょたんちょうとげ復興ふっこう儒學じゅがくみちこう[1]:156ちょう要求ようきゅう轉化てんか物欲ぶつよくため聖賢せいけんほっ要求ようきゅう君子くんしこころざしじん」,以天蒼生そうせいためおのれめいじたてしん解除かいじょ眾生苦難くなん[14]:133ごう道德どうとくてき動機どうき必須ひっす聖賢せいけんてき動機どうき,而聖賢せいけんこれしょよく做到天下でんか太平たいへい,眾人どもとおる安樂あんらくてき理想りそう世界せかい,這是純粹じゅんすい公利きみとし利他りたてき道德どうとく動機どうき人的じんてき利欲りよくこころ往往おうおうただちゅうどうわたしおのれ,以致行為こうい往往おうおうあずか道德どうとくしょう背馳はいち,這是あくてき本源ほんげん[14]:129

ちょう承繼しょうけい孟子もうしてき觀點かんてん主張しゅちょう人的じんてき天性てんせいためぜん[1]:94また提出ていしゅつせい二元論にげんろん[14]:130折衷せっちゅう孟子もうし荀子てき性善せいぜん性惡せいあくろん[9]:87ひと唯一ゆいいつゆう天地てんちせいあずか天地てんちしんてき動物どうぶつ天地てんちせいいち形而上けいじじょうてき概念がいねん人類じんるい道德どうとく行為こういてき超越ちょうえつ標準ひょうじゅん人的じんてき天性てんせいためぜんよし天地てんちせいどくらいてき[1]:89-90、93てんみちうん遵循ぼう固定こていてき事物じぶつてき生育せいいく老化ろうか衰亡すいぼう晝夜ちゅうやさらかえぶし變化へんかみな以其。雖說天道てんとうおや抽象ちゅうしょうなみ無意識むいしきただしてん作為さくいせいやしなえ化育かいくてき創造そうぞうりょく,它又ぜんてき[3]:131、66,而且純然じゅんぜん公正こうせいなりため人倫じんりんてき基礎きそ人的じんてき行為こういおう遵從、適應てきおう順應じゅんのう天道てんとう,也就遵從りょう自己じこてき天性てんせい[3]:146、66、131。而罪あくてき問題もんだいよし氣質きしつこれせいさんせいてき[1]:93まい個人こじんようゆう同樣どうようてき天性てんせいまた各自かくじあずか人相にんそう區別くべつ,這種差異さいざい於「しつゆうべつ[3]:84天地てんちせい眾人みなゆう,而氣質きしつせいそく人人ひとびとゆうべつ氣質きしつせいゆび人的じんてき心理しんり特徵とくちょう人格じんかく脾氣あずか智慧ちえ[14]:128,也是じんほっみなもと[3]:86にんいん形體けいたい而有てき欲求よっきゅう,如飲食いんしょく男女だんじょみやこただし氣質きしつ性的せいてき表現ひょうげん[6]:160道德どうとく本質ほんしつ不能ふのうだつはなれ人的じんてき自然しぜん情欲じょうよく兩者りょうしゃ互依互存,就如陰陽いんよう互動[14]:127氣質きしつせい本來ほんらいぼつゆう道德どうとく倫理りんり所謂いわゆるぜんあずかあくてき區別くべつ[1]:97情感じょうかん本身ほんみ人為じんいあくてき主因しゅいん[14]:128ただし氣質きしつせい其他同類どうるいある事物じぶつ接觸せっしょく便びんしたがえ天地てんちせい墮落だらくりょう[1]:97なりため世上せじょうあくてきげんあたまかえかいいん習慣しゅうかんてきしげるちょう而變ほん厲,蔽塞たい天性てんせいてき認識にんしき一般人いっぱんじん不能ふのう認識にんしき其天せいため氣質きしつせいしょせいため自身じしんてき欲求よっきゅうしょやく[3]:86、89、131此人必須ひっす受理じゅりせい反省はんせいてき制約せいやく,以免落於よこしまじょう惡行あくぎょう[14]:128ひと們各ゆう不同ふどうてき性格せいかくよし氣質きしつてき偏頗へんぱ,「ひとつよしやわらきゅうゆうざいあずか不才ふさいこれへん也」,にん何人なんにんのう培養ばいよう自己じこ具有ぐゆうてき氣質きしつ使つかい保持ほじある回復かいふく本來ほんらい不偏ふへん倚的狀態じょうたい便びん知性ちせいてん[1]:99

てんしょてき氣質きしつこれせいかくあいどう,而相どうてき就是人人ひとびとゆう變化へんか氣質きしつてき可能かのうせい[1]:100道德どうとく根源こんげん人的じんてき內在本性ほんしょう[14]:128,一個人既有內在的至善之性,またゆうとどこお礙其內在至善しぜんてき「秉性」,使つかい天性てんせい常常つねづね遮蔽しゃへいただゆう氣質きしつせい驅使くし[3]:76、83、88變化へんか氣質きしつにん才能さいのうはん本有ほんゆうてき天地てんちせい[14]:129學習がくしゅう變化へんか氣質きしつてき必須ひっすみち[1]:101にん通過つうか學習がくしゅう立志りっしらい改變かいへん氣質きしつ克服こくふくあくてき氣質きしつ[3]:90ちょう重視じゅうし知性ちせいあずか理性りせいみとめため發展はってん道德どうとく行為こういようもたれ知性ちせいてき理解りかい,其理ろん雖然建立こんりゅうざい先天的せんてんてき道德どうとく理性りせいじょうただし同時どうじ強調きょうちょう後天こうてん知性ちせいてき學習がくしゅう道德どうとく實踐じっせんもたれ人的じんてき道德どうとく本質ほんしつ以及人的じんてき先天せんてん道德どうとく情感じょうかん,而是もたれ知性ちせい理解りかい聖賢せいけんしんもたれ學習がくしゅう聖賢せいけんげんからだかいみん胞物あずかてき精神せいしんなみきゅう事物じぶつ[14]:129-130ためがく必須ひっす勤勉きんべん,鍥而捨,以恒,はじ下問かもんあずか友人ゆうじんしょうあずか析疑[3]:93-94。「まこと道德どうとく修養しゅうよう主要しゅよう方法ほうほういちいちつき其誠てきじんはかりごと自己じこてき功利こうり才能さいのうあずかてんみち合一ごういつ[1]:105ひとよう發揮はっき潛在せんざいてきぜん必須ひっす認識にんしきいた自己じこてきひとししん,遵順其本せい而行,也就まこと[3]:83まことまた必須ひっすざいごうれいてき行為こういじょう實踐じっせん出來でき[1]:105れいげん天地てんちなみじん隨意ずいいへんづくりてきのう克服こくふく一些不良的社會習氣。ため學者がくしゃのう約束やくそく行為こういごう於禮,氣質きしつ就將改變かいへん[3]:134、95ちょう主張しゅちょう學者がくしゃよう虛心きょしん平氣へいき,以變化へんか氣質きしつ[9]:93ちょう雖然繼承けいしょう孟子もうしてき性善せいぜんろんざいはり哲學てつがくちゅう氣質きしつこれせい實現じつげん道德どうとくてき先天せんてん阻礙,以他最終さいしゅうかえ強調きょうちょう學習がくしゅう聖賢せいけんげん接受せつじゅれいきょう規範きはんてき重要じゅうようせいてき理論りろん接近せっきん道德どうとく理性りせいろん甚著じゅう情感じょうかんてき道德どうとく[14]:132

ちょう文章ぶんしょう西銘にしめ原名げんめいてい頑」,闡述其倫理りんり中心ちゅうしん思想しそう和人わじんせい理想りそう[1]:85前半ぜんはん份闡じゅつ天人てんにん合一ごういつ萬物ばんぶつ一體いったいかん後半こうはん闡述其對てんてきけんまこと信仰しんこうたて高遠こうえん[9]:84ちょうてき道德どうとく宇宙うちゅうかんはた天地人てんちじんわがなりだい家庭かてい,「みんわれ同胞どうほうものわれあずか」,天下てんか萬物莫不與我同體同源[14]:129。《西銘にしめ表明ひょうめい天地てんち人類じんるいてき父母ちちはは人的じんてき天性てんせい掌握しょうあく天地てんちゆうりょう任務にんむあずか天地てんちあいとく天下てんか人類じんるい同胞どうほう天下てんか萬物ばんぶつしょうるいおう同胞どうほう同類どうるいしょうまち敬老けいろう慈幼,以及せきふところ苦難くなんちゅうてき同胞どうほう,就是けいかしこ天地てんちひとよう了解りょうかい天地てんちてきしん」,才能さいのう繼承けいしょうてんてき意志いしちょう舉出古人こじんこうじゅんてきれい子來こらい形容けいようひとし[1]:87-88かつ一天就應盡一天的任務,いち來臨らいりん便びん安息あんそく。《西銘にしめ》闡揚博愛はくあい利他りた思想しそう,以仁こうため道德どうとく生活せいかつてき基本きほん原則げんそくゆう些人ぞく五倫ごりん範疇はんちゅう內,じゃくおやてきじんみやこただしどういち天下てんか父母ちちははてき兄弟きょうだいおう一視同仁いっしどうじんてきせきちゅう[1]:89、94。《西銘にしめ博愛はくあいてき觀念かんねん可能かのう佛教ぶっきょう影響えいきょう[5]:121はりせきちゅう其他萬物ばんぶつ當為とういともともなえ,這點也可能かのうしたがえ佛教ぶっきょうたい一切眾生應有慈心的教義引申而來的[1]:96

ちょう確信かくしんあくてきらいげん後天的こうてんてき習氣,所有しょゆうあく天產てんさんせいてき惡習あくしゅうのりなりため道德どうとく實踐じっせんてき最大さいだい障礙しょうがい[14]:129人生じんせいてき至善しぜんつき各人かくじんしょおうつきてき道德どうとく義務ぎむ,以尋もとめなりため聖人せいじんろんつきりょう義務ぎむてきはてためなになみおう顧慮こりょ個人こじんてき利害りがい得失とくしつ[1]:95ひさげ倡人よう寡欲かよくようゆうたい他人たにんやましてき同情どうじょうしんよう有為ゆうい他人たにんかいてき利他りたしん[14]:128ゆうせきごと個人こじんいやみやこ能成よしなりため聖人せいじんちょうてき答案とうあんすんで肯定こうていてきまた否定ひていてきにん聖人せいじん卻可以理解りかい聖人せいじんせつただしなみまい個人こじん都會とかいたちいた聖人せいじん境界きょうかい[4]:180聖人せいじん一般人いっぱんじん不同ふどうてき聖人せいじん修養しゅうよう工夫くふう超越ちょうえつ一般人いっぱんじんてきわたし欲界よくかいげんたちいた無我むがてき境界きょうかい[1]:109ひとのう超越ちょうえつ形體けいたいてき拘束こうそく超越ちょうえつぶつため外在がいざい於我てき偏見へんけん充分じゅうぶん發揮はっき德性とくせいかず天地てんちみちあい貫通かんつういたるいたあずかものあいだてき境界きょうかい,就是聖人せいじんてき境界きょうかい[12]:138

知識ちしきろん

编辑
 
明人あきとしょへん張子はりこ全書ぜんしょしょかげ

ちょうみとめためじょりょう人的じんてき耳目じもくしょ接觸せっしょくてき外界がいかい事物じぶつがいかえゆうちょう乎有がた世界せかいてき實在じつざい境界きょうかいてき存在そんざいじんしょのう夠認知的ちてき知識ちしき以分ためりょうたねそく見聞けんぶんあずか德性とくせい」。人心じんしん主動しゅどうてき認知にんちしゃのう夠從接觸せっしょく接受せつじゅ外界がいかいてき事物じぶつ而產せい印象いんしょう觀念かんねん,這就所謂いわゆる見聞けんぶん[1]:120、130、125對象たいしょう有形ゆうけいてき客觀きゃっかん現象げんしょう世界せかい。「德性とくせいしょ見聞けんぶんそうさらだか感官かんかんこれすけ直接ちょくせつ懂得事物じぶつてきつね[3]:104,其對象たいしょう無形むけいてき天道てんとう天德てんとくてき良知りょうちもたれ認知にんちしゃてき內在修養しゅうよう直覺ちょっかくてき方法ほうほうちょう主張しゅちょう直覺ちょっかく直接ちょくせつ理解りかい天地てんちせいにんただゆうもたれ德性とくせい才能さいのう認識にんしき最高さいこうてきりょうぜん道德どうとく領域りょういき[1]:130、135,以「りょうさとるあるさとるてき方式ほうしき才能さいのう接近せっきんみち[8]:43。「天德てんとく」其可知性ちせい非人ひにんてき理性りせいところのう證明しょうめいてき[1]:152-153人的じんてき內心ゆう直覺ちょっかく能力のうりょく認識にんしき一貫いっかんみちのう區別くべつ是非ぜひ,識得世間せけんふんきよし善惡ぜんあくしょう「此心」[3]:99-100、146ただしひと正確せいかくてき理解りかい能力のうりょく「此心」,卻是なん發現はつげん而易於喪失そうしつてき往往おうおうため偏見へんけん妄知しょ阻,なん以彰あらわにん需要じゅよういたてんばち才能さいのう鏟除這種糾纏,使つかい心靈しんれい獲得かくとく自由じゆう[3]:99、147ひと如果焦慮しょうりょあるおもえ甚,就無緣むえん於「此心」りょう經籍けいせき文章ぶんしょうひろもとめゆう「此心」てきみち[3]:100、102德性とくせい憑著直覺ちょっかく本能ほんのう而開さとる不能ふのう授受じゅじゅてきゆう這個りょうさとるてきじん以作些指導しどうただしよう最終さいしゅう獲得かくとくかえ須自致,ただのう自己じこ發現はつげん[3]:105-106

ちょう承繼しょうけい傳統でんとう儒家じゅかてき觀點かんてんみとめため知識ちしきそく道德どうとく知識ちしきてき目的もくてきため知識ちしき本身ほんみ,乃是ため倫理りんり道德どうとくてき最終さいしゅう目的もくてきためちょ使認知にんちしゃなりため聖人せいじん[1]:121、128-129ひとのうつきせい」,全然ぜんぜん識得自己じこてき潛在せんざい能力のうりょく便びん進入しんにゅう聖人せいじんてきさかいのう順應じゅんのう天地てんち而動。聖人せいじん認識にんしきいた萬物ばんぶつむね於一てき道理どうり超越ちょうえつ一己いっこ私欲しよくやめ如物,融通ゆうずう物我ぶつがたちいたり無我むがさかい[3]:110、123たい世間せけん萬象ばんしょう經籍けいせき文字もじのうりょうしか於心,憑著直覺ちょっかく察知さっち事態じたいなみ以自はつてき舉動かいおうずいごとおううん,毋需訴諸意識いしき[3]:126、129-130ちょう確信かくしん天地てんちあいだゆう所謂いわゆるみちある普遍ふへん真理しんりてき存在そんざい探索たんさく這個超越ちょうえつ感官かんかんてき境界きょうかいゆうりょうたね不同ふどう方法ほうほうそく自明じめいまことかずまことあきら」。自明じめいまことてき方法ほうほうさき窮理きゅうり而後つきせいまことあかりてき方法ほうほうのりさきつきせい而後窮理きゅうりちょう強調きょうちょう自明じめいまことてき方法ほうほう[1]:144勸告かんこく弟子でし致力於窮理きゅうり[3]:111ざい先天せんてん道德どうとく理性りせい後天こうてん知性ちせい學習がくしゅうあいだちょう強調きょうちょうてき後者こうしゃ[14]:129ちょうみとめため見聞けんぶん知的ちてきもたれせい憑著「多聞たもん」,作為さくい判斷はんだん是非ぜひてき標準ひょうじゅん[1]:148初學しょがく經籍けいせきてき學者がくしゃおうとう誦,以確保かくほのう實踐じっせん其理,なみおう集中しゅうちゅう精力せいりょく讀《論語ろんご》《孟子もうししょおうおちい注疏ちゅうそてきどろ淖中[3]:97。《しゅうえき體現たいげんりょう天地てんちてきうんやめ聖人せいじんたいぞうてきかんさとる揭示けいじちょうん過程かていにんおう遵循《しゅうえき演繹えんえきてき過程かてい[3]:133-134

ちょうみとめため聖人せいじん具備ぐび真理しんりのう夠遵循適ちゅう行為こうい而不必費りょくなみのうたちいた目標もくひょう而不必思慮しりょ聖人せいじんこころ也是ひろだいてき虛心きょしん而不受外ぶつしょるいいん而能夠知せいてん[1]:143、149しんてきこうのう包括ほうかつ道德どうとく修養しゅうよう知覺ちかく情感じょうかんあずか物欲ぶつよくちょうせつこころすべ性情せいじょう」,せい就是道德どうとく可能かのうてき基礎きそ[14]:127學者がくしゃ須廣だい其心,つつみ一切いっさい心外しんがいもの,以得あずかてん合一ごういつ[9]:82人受ひとうけ形體けいたいてききりせい,僅能べん析感かんしょ及有げん範圍はんい內的東西とうざい[15]:42,其心往往おうおう以見しょ聞為わたしおのれてき目標もくひょう,貶低りょう道德どうとく標準ひょうじゅん,這種知識ちしきただげんせいざい感官かんかんあずか外物がいぶつ接觸せっしょくしょ而已[1]:149ただゆう通過つうか自我じが修養しゅうようにん才能さいのう超越ちょうえつごく其紛繁多はんたさまてき現象げんしょう世界せかいたちいたあずか天地てんち同一どういつなみりょうさとる宇宙うちゅう秩序ちつじょてき統一とういつゆうじょちょう堅持けんじ感官かんかん經驗けいけんたい追求ついきゅう道德どうとく必需ひつじゅてき[15]:42人的じんてき知識ちしきよし外在がいざい事物じぶつあずか內在意識いしき結合けつごうどくらいてきそく「內外ごう」,にん所以ゆえんゆう知識ちしきよし於他てき感官かんかん外物がいぶつ接觸せっしょく[1]:118、122外物がいぶつてき存在そんざいたい喚起かんき人的じんてき意識いしきいたりせき重要じゅうようただしひと們不おうため其所束縛そくばく[15]:42-43

政治せいじ思想しそう

编辑

ちょう強調きょうちょう士人しじんあずか百姓ひゃくしょうてき區分くぶんたいらいせつ理想りそうてき社會しゃかいよし世世せぜ代代だいだいため朝廷ちょうてい提供ていきょう大夫たいふてき少數しょうすう家族かぞく主導しゅどうてき真正しんしょう定義さだよし士人しじんてきなみ通過つうか做官てき能力のうりょく,而是たい於真せい學術がくじゅつてき投入とうにゅう[15]:43-44士人しじんざい當地とうち社會しゃかいてきりょうしるべかくしょく必須ひっすいた中央ちゅうおう政府せいふ認可にんか[15]:48朝廷ちょうていゆう責任せきにん確保かくほ士人しじん家族かぞく長期ちょうきのべぞく贊同さんどうとうだいため高官こうかん授官てきかげ制度せいどただし這特けんかいずいちょ其子死亡しぼう終結しゅうけつちょう建議けんぎてきはた高官こうかん墓地ぼち附近ふきん五至七頃的土地分給他的後人,使つかい們可以歷だい享有きょうゆう朝廷ちょうていたまものてき財產ざいさんためりょう維繫家族かぞくてき綿めんのべちょう建議けんぎ朝廷ちょうていおう在朝ざいちょう家族かぞくちゅう設立せつりつ宗法しゅうほうせい[15]:44,其中宗子むねこ(嫡長子ちょうしてき選擇せんたくたい家族かぞくてき存亡そんぼういたりためせきかぎ宗子むねこ必須ひっす言行げんこう俱佳,いやのりぞくじん以另せんけんのう一旦いったん宗子むねこ選出せんしゅつ就是いちむねてき代表だいひょう,其他子孫しそん允許いんきょ另外祭祀さいし祖先そせん宗子むねこようゆう共同きょうどう財產ざいさんちゅうてきさいひと份額,以及承繼しょうけい朝廷ちょうていてきかげかず其他かんかた特權とっけん[15]:49朝廷ちょうてい需要じゅよう這些世襲せしゅう官員かんいんてきこうろう維持いじ長期ちょうき穩定。君主くんしゅてき利益りえきあずか士人しじん家族かぞくてき利益りえきくちびるしょう朝廷ちょうていおう由來ゆらい一小部份世襲家庭的官員任職,們擁ゆう特權とっけん,也對社會しゃかいゆう不可ふか推卸てき責任せきにんよう確保かくほ國家こっか以「ひとしみちらい[15]:45

ちょう孟子もうし一樣いちよう非常ひじょう重視じゅうしためみんせいさんあいしん仁政じんせいかずようみんおうはじめ井田いだせい[12]:149[15]:45井田いだせいてき基本きほん精神せいしんひとしたいら」,天子てんし土地とちぶん配給はいきゅうぼつゆう土地とちてきじん使つかい土地とちてきようゆう趨於平等びょうどう[12]:149朝廷ちょうていためりょう施行しこう井田いだせいよう將官しょうかんいんてき土地とちじゅうしんぶんきゅう百姓ひゃくしょうたい於擁ゆうせんごろ以上いじょう土地とちてき大臣だいじん朝廷ちょうていきゅう們五じゅうさとてき封地ほうち,以彌們的損失そんしつたい其他地主じぬし朝廷ちょうてい可用かようかん銜作補償ほしょう[15]:46實行じっこう井田いだせいてき目的もくてきゆずる天下でんか百姓都擁有自己的土地,ちょう批評ひひょう後世こうせいほうただし授田みんかえ要求ようきゅう人民じんみん服役ふくえき,而且いんすめらぎけん膨脹ぼうちょうせい國家こっか所得しょとくてき利益りえきまた完全かんぜん天子てんし所有しょゆう[12]:149田制たせいただしひとしひら理想りそうてき體現たいげんのう幫助ざい人間にんげん實現じつげん天地てんち萬物ばんぶつため一體いったいてき理想りそうとく實行じっこうてきはなしにん們會たいまち彼此ひし血肉けつにくきょだかひとかい如對さむらい自己じこ子女しじょさま保護ほご百姓ひゃくしょうせいせい方面ほうめんちょう提出ていしゅつ實施じっし上古じょうこてき封建ほうけんせい[15]:46はたみかど國分こくぶ任命にんめい有能ゆうのうりょくてき官員かんいん以治。一旦出現一個不服從中央的封國,あさ廷還是能これよし聯合れんごう其他こうちゅう中央ちゅうおうてきふうこく平定へいてい叛亂はんらんよし此他主張しゅちょう力量りきりょう集中しゅうちゅう中央ちゅうおうけんのりおう終身しゅうしんせいてき[15]:47封建ほうけん制度せいどげんけい中央ちゅうおう政府せいふじゅう擔的方法ほうほう天子てんしすんで維持いじ軍隊ぐんたい,也無須花さく行政ぎょうせい管理かんり,這些責任せきにんやめよし封建ほうけん領主りょうしゅうけたまわ擔。ためりょうかんあずかみんてき利益りえきおう允許いんきょざいとみとめざい地方ちほう國家こっかただゆうざい人民じんみん地方ちほう富裕ふゆう才能さいのう富裕ふゆう主張しゅちょうてき封建ほうけんせいたいおうやすしせき新政しんせいてき攻擊こうげき新政しんせいてき目的もくてきせいうえ而下斂財。ちょう提出ていしゅつぶんまわしかん市場いちばおう朝廷ちょうていてき責任せきにん,而是ちゅう於讓市場いちばかんてき責任せきにん[15]:48

ちょう意欲いよく恢復かいふくさんだいこれみとめため先王せんおうほう才能さいのう真正しんせい體現たいげん天下でんかため一家いっかてき理想りそう重視じゅうしさんだいてき典章てんしょう制度せいど主張しゅちょう根據こんきょ現實げんじつ情況じょうきょう斟酌しんしゃく恢復かいふくふるれい[12]:150、148特別とくべつちょじゅう古代こだい封建ほうけん制度せいどうら天子てんし諸侯しょこうさい天地てんち鬼神きじんれいあずか家族かぞくてきさいれい[11]:72聖人せいじんせいれいてき根本こんぽん原則げんそく規定きてい事物じぶつ尊卑そんぴ先後せんご自然しぜん而有てき秩序ちつじょちょう強調きょうちょう自然しぜんかいちゅうまん物的ぶってきひとしいん其不ひとし形成けいせい尊卑そんぴ大小だいしょう先後せんごてき階級かいきゅうぶんにん禮法れいほう遵守じゅんしゅ尊卑そんぴ等級とうきゅう秩序ちつじょあい自然しぜん法則ほうそくてきちょう承認しょうにんにんあずかひとあいだ雖有天生あもうてき不平等ふびょうどう[12]:148-149人類じんるい社會しゃかいちゅうてき不平等ふびょうどう自然しぜん而有てきただし通過つうかさんだい良法りょうほうにんあずかひとあいだ仍可建立こんりゅうとおるひろしあいだてき關係かんけい彼此ひししょうどおり構成こうせい理想りそうてき社會しゃかいそく所謂いわゆるみんわれ同胞どうほう[12]:149-151ちょう構想こうそうてき世界せかい所有しょゆうじん互相れんゆい如同一家いっか皇帝こうていたい臣下しんか就像一家いっかこれちょう統治とうちしゃ百姓的關係應是如親人一般[15]:49いたりさんだいてきにくけいちょうみとめため仁術じんじゅつ」,雖把犯人はんにんてき腳砍,卻能めん一死いっし[6]:169

經學けいがく

编辑

ちょうしるゆうよこみぞえきせつかず論語ろんごせつ》,後者こうしゃやめしつでん佚文いつぶんしょしゅ論語ろんご精義せいぎ[16]:176。《しゅうえき方面ほうめんちょうてき易學えきがくぞく義理ぎり學派がくは不同ふどう邵雍一派いっぱてきぞうすうこれがくたいしゅうえきからだれいてき理解りかいおうちゅうあな穎達疏,陰陽いんよう二氣變易的法則,作為さくい易學えきがくてき最高さいこう範疇はんちゅうただしちょう反對はんたい以老そう道家みちや學說がくせつ解釋かいしゃくしゅうえき》,批評ひひょうしゅうあつしあずか邵雍てき易學えきがく揚棄ようきかんだい易學えきがくてき天人てんにん感應かんおうせつ,而建立こんりゅう以「ため核心かくしんてき易學えきがく體系たいけいちょう以易がく批判ひはん佛道ぶつどういえてき學說がくせつたいてき解釋かいしゃくゆう些是あずかほど一致いっちてき[17]:255-256。《論語ろんご方面ほうめんちょう解釋かいしゃく孔子こうしなな十而從心所欲不踰矩」,獨特どくとく援用えんようりょうわれふく夢見ゆめみしゅうこう」,みとめため孔子こうしなな十歲後不再夢想成為しゅうこうてき後繼こうけいしゃ覺悟かくご自己じこてきおとろえろう妥當だとうてきなみ恐懼きょうく死亡しぼう[16]:179-180、184ちょう解釋かいしゃくぜっよん,毋意、毋必、毋固、毋我」,みとめため做人わかゆう必固」其中いちしゃのりあずか天地てんち相似そうじ」,而沒ゆう必固てき缺點けってんてきのりからだかいいた虛心きょしんてき聖人せいじん境界きょうかい[16]:185、187、190

宗教しゅうきょう

编辑

ちょう青年せいねん皈依儒學じゅがくまえたいふつがく甚為じゅく悉,研究けんきゅう佛教ぶっきょう典籍てんせき[1]:49ちょう著書ちょしょてき目的もくてきいち卻是はいぼとけ[3]:7たい佛教ぶっきょうてき批判ひはん佛教ぶっきょうにせけいくび楞嚴けいため主要しゅよう對象たいしょう[7]:384指出さしで佛教ぶっきょう錯誤さくごみとめためただ一的實在是人的心靈意識,一切存在物都是夢幻而非實在的,而不明白めいはくてんみちあずか天道てんとうせいいのちてき道理どうり,錯把みみ目鼻めはなした身心しんしん六根ろっこんとうさく宇宙うちゅう由來ゆらいてきはじめいん批評ひひょう佛學ぶつがくてき唯識ゆいしきろんしたがえ宇宙うちゅうろんうえ反對はんたい佛教ぶっきょうてき基礎きそ[1]:50、53ちょう批評ひひょう佛教ぶっきょう吸引きゅういんりょう士人しじん使つかい們不さい進入しんにゅう儒家じゅかてきもん牆;佛教徒ぶっきょうとしょうしんじ經過けいか修養しゅうよう工夫くふう學習がくしゅう聖人せいじんてき思想しそう便びんなりため聖人せいじん道德どうとくあずか人倫じんりんいん混亂こんらん異端いたん謬說ずい佛教ぶっきょう興起こうき佛教ぶっきょうただ提供ていきょう教條きょうじょう戒律かいりつ使つかい信徒しんと服從ふくじゅう實踐じっせんじょう變成へんせい盲目的もうもくてき迷信めいしん佛教ぶっきょう所謂いわゆる「羯摩」(因果いんがほうおうかずさい」(うたててき教義きょうぎそうしんじ個人こじん靈魂れいこんてき存在そんざい缺乏けつぼう證據しょうこてき信仰しんこう[1]:82-83ちょう批評ひひょう佛道ぶつどういえ推崇本體ほんたい而貶てい現象げんしょう,一味追求空無一物虛假的體而忽視實在的用[12]:136批評ひひょう道教どうきょうひろもとめ長生ちょうせい不死ふし誤信ごしん物體ぶったい永存えいぞん不變ふへん,而不知ふち萬物不能不散而成為太虛,懂天氣化きかてき道理どうり生死せいしことぶき夭實よし天命てんめい掌握しょうあく非人ひにんしょのう左右さゆう[1]:84-85人的じんてき生死せいし也就てき聚散[7]:386ただしゆう學者がくしゃ指出さしでちょう天地てんちせいあずか氣質きしつ性的せいてき說法せっぽう,受當時とうじ道士どうしちょうはくはしてき影響えいきょう[10]:79はりまた承繼しょうけいりょうとうだい道士どうしげんつなろんちゅう一氣いっきかずまんことてきそうほう[7]:388

影響えいきょう

编辑
 
しんだいおうしょくせいこうむはつしょかげ

ちょうこれそうあきら理學りがくてき奠基じんいち[3]:169在世ざいせい門人もんじん很多[1]:165,以張ため核心かくしんてきせきちゅう理學りがく,曾盛行せいこういちちょうおとうとおとうとちょう戩,門人もんじんりょだいちゅうりょだいひとしりょだい昞、范育ゆうゆうふくちょうしゅんみんとうひとしょ形成けいせいてき學派がくは,曾與ほどらくがく並稱へいしょう[18]:7ざい11世紀せいき後期こうきちょうてき關學かんがく甚具影響えいきょうりょくてき學派がくはただしちょう死後しご門人もんじん便びん[3]:2、7はり分別ふんべつ見聞けんぶんあずか德性とくせい以後いごそうあきら儒者じゅしゃ遵守じゅんしゅ[19]:5ちょうたい理學りがくてき另一だい貢獻こうけんくびさき提出ていしゅつ天地てんちせいあずか氣質きしつ性的せいてき區別くべつ[5]:123獨創どくそうりょう氣質きしつせい」這概念がいねん[3]:85影響えいきょう啟發けいはつりょうほどほど兄弟きょうだい[1]:161たいにちてき理學りがく思想しそう影響えいきょう深遠しんえん[3]:85ちょうたい於天せい氣質きしつ性的せいてき區別くべつためほど兄弟きょうだいしょ採納さいのう,也為しゅところうけたまわぞく[1]:171-172しゅ熹很重視じゅうし天地てんちせいあずか氣質きしつこれせいあいだ這種區別くべつせつ氣質きしつせつおこり於張、ほどごく有功ゆうこう於聖もん[5]:120ちょう指出さしで有清ありきよ昏之べつ所以ゆえん人的じんてきまた有清ありきよ昏,其說ひらきほどしゅ以氣說明せつめい人物じんぶつてきまんこと不同ふどう[9]:77-78ちょうしたがえ氣質きしつせいいた天地てんち性的せいてき自我じが變革へんかくろんつね後世こうせい功過こうかかくところ採用さいよう[10]:59ちょうてきろんためたい中國ちゅうごく哲學てつがくさいそうてき貢獻こうけん,其氣ろんしゅ接受せつじゅなりため理學りがく思想しそう一部いちぶ[3]:40明代あきよおう廷相受張影響えいきょう[18]:33自認じにんためはりろんてき繼承けいしょうじんざい一元論的問題上以張載的繼承者自居[12]:151、154ちょうてき思想しそうゆう其是宇宙うちゅうろん深深ふかぶか影響えいきょうしんはつおうおっと後者こうしゃちょゆう張子はりこただしこうむちゅう》,たいちょうてきろんゆう詳細しょうさい注解ちゅうかい[1]:175おうおっと自覺じかくよく承繼しょうけいはりこれがく,而自問じもんりょく不能ふのう[18]:36-37戴震てき宇宙うちゅうかん也受はり影響えいきょうゆう其是後者こうしゃ氣化きかてき學說がくせつ[1]:180

ちょう「以禮ためきょうてき思想しそうざいあかり清之きよゆきさい學界がっかいゆう重要じゅうよう影響えいきょうむねちょうくつさち顧炎たけしおうおっととう學者がくしゃ受到はりれいきょう啟發けいはつ[18]:42ちょう西銘にしめ》一文成為理學倫理觀的基礎[19]:3文章ぶんしょう體用たいよう兩全りょうぜん仁義じんぎけん顧,且以儒家じゅかりん理由りゆう人類じんるい而擴いたり天地てんちなりため儒家じゅか無上むじょう文獻ぶんけん[2]:239中國ちゅうごくきん千年思想方面影響至深且巨的一篇論文」[20]:387ちょうさい重要じゅうようなみなん懂的著作ちょさくせいこうむ》,あきらきよしゆういくしゅ註解ちゅうかいさい著名ちょめいてきおうおっと張子はりこただしこうむちゅう[1]:7はたちょうこれがく推向另いち高峰こうほう[18]:31清人きよひとおうしょくてきせいこうむはつ》也甚ため完備かんび[4]:173清末きよすえたん嗣同受張影響えいきょう甚大じんだい接受せつじゅはりてきろん,甚至みとめためはりろんうら含有がんゆう科學かがくてき宇宙うちゅうかん[11]:88、33-34したがえちゅうひろ找有意義いぎゆう目的もくてきてき宇宙うちゅう秩序ちつじょちょう學說がくせつゆう其是《せいこうむちゅう天人てんにん合一ごういつてき宇宙うちゅうかんたん嗣同《じんがく思想しそうてき主要しゅようげんいち[11]:35、68;《じんがくうけたまわかさねりょう西銘にしめちゅうしょ含的兼愛けんあい思想しそうたん嗣同也承繼しょうけいりょうちょうたいしんてき二元論にげんろんてきほう[11]:90、76,其「以太」せつそくうけたまわかさねはりてき一元論いちげんろんまた引用いんようはりてき名言めいげんため天地てんちりつこころためせいみんたていのちみち其使いのちかん[11]:80-81、83

地位ちいあずか評價ひょうか

编辑

古代こだい

编辑

ちょうきたそう理學りがく創始そうしじんいちあずかしゅうあつし邵雍ほどほどごうしょうためきたそう[1]:11ざいそうあきら理學りがくいちちょく享有きょうゆう崇高すうこう地位ちい[18]:21ちょうこれがくそう代理だいりがくいち重要じゅうようぶんささえ[1]:180ほど顥、ほど兄弟きょうだい贊同さんどうはりてき倫理りんりがくかんゆう其推たかし西銘にしめいちへんきょく完備かんび,乃ひとしこれたい也」[1]:162せつゆうりょう這篇文章ぶんしょう以省卻許多言たげん[6]:154みとめため西銘にしめはりたい哲學てつがく思想しそうてき最大さいだい貢獻こうけん[3]:150ろん仁之ひとし傑作けっさくはたかん以來いらい無人むじんのう[5]:120楊時質疑しつぎ西銘にしめみん胞物あずかこれせつあずかぼく兼愛けんあいことほど顥和しゅ熹都以「いちふんことため解釋かいしゃくみとめためはり學說がくせつゆう於墨兼愛けんあいしゅ熹推たかし西銘にしめ》「いたりため深切しんせつ[1]:87、170稱讚しょうさんはり所說しょせつゆうあなはじめしょせつそこ」,「精義せいぎ入神にゅうしん」。しゅ熹也贊同さんどうはりざい知識ちしきろんしょ提出ていしゅつてきりょうたね知識ちしき:聞見あずか德性とくせい[1]:180、174ただし二程和朱熹卻不贊同張載的宇宙論,ゆう其是「太虛たいきょそくてき見解けんかい[1]:163-164、168批評ひひょうはり使用しよう太虛たいきょ」這個[3]:47

ちょう思想しそうざいあかり清之きよゆきさい受到學界がっかい重視じゅうし[18]:40あかり中葉ちゅうようかんくに擁護ようごはり而貶斥ほどしゅ學派がくは[15]:130,很欣しょうはり太虛たいきょそくてき本體ほんたいろんみとめためはりせつかんとうそう以來いらい儒者じゅしゃしょ能見のみてき道理どうり[18]:48かんうみたたえあげはりほどしゅ學派がくはさらのう真正しんせい實踐じっせん自己じこてき為政いせい理念りねんなみのう傳承でんしょう聖人せいじんまなべ[15]:131りょ推崇はりてき成就じょうじゅみとめためはりこれしょあなはじめ有能ゆうのう如是にょぜきりしゃ」,たいちょうてき評價ひょうかかいほどあずかしゅこれあいだ[18]:12-13明代あきよりょくすのき熱心ねっしん推崇はりこれがくゆう其是其禮がくおう廷相せんしょうはり思想しそうゆう於程しゅ理學りがくもりたたえせいこうむ》,なみためぶん反駁はんばくしゅ熹對はりてき批評ひひょう[15]:127、129-130ただしおう廷相也批評ひひょうはり學說がくせつゆうきんぜんいや[12]:134明代あきよ廷翰たたえしょうはりてきろん,卻批評ひひょうはり使用しよう體用たいよう虛實きょじつ動靜どうせいとうもと區分くぶんてきひょうじゅつ郝敬のり稱讚しょうさんはりてきれいがく[18]:36、42許多きょた明代あきよせき中學ちゅうがくしゃみとめためちょうところひさげ倡的道學どうがくさいのう代表だいひょう當地とうち學術がくじゅつ傳統でんとう馮從われ尊崇そんすうはりため關學かんがく鼻祖びそ[15]:132、140,其《關學かんがくへん強調きょうちょうはりせきちゅう理學りがくひらきそうしゃ奠基しゃ,「關學かんがくなりためしたがえ創立そうりつ以降いこう綿めん延發えんぱつてんてき地域ちいき學術がくじゅつ傳統でんとう[18]:12、20おうおっとたいちょう景仰けいこう備至,たたえ學說がくせつ「如皎うららてんかそけしょく[1]:175かおもと推崇はりとくあなはじめ正宗まさむね[18]:43しんだいせい精義せいぎたい西銘にしめさくかんかたさい權威けんいてき肯定こうてい:「ゆうそう理學りがく宗祖しゅうそまことためかたり》《はじめ以後いご僅見これしょ[20]:387戴震のり批評ひひょうはりてき二元論にげんろん[18]:38

現代げんだい

编辑

たいしん儒家じゅかせつ,《西銘にしめ》一文有力表彰中國文化的博愛精神與天人てんにん合一ごういつてき崇高すうこう境界きょうかい顯示けんじ中國ちゅうごく文化ぶんかなみ於世かい其他宗教しゅうきょう文明ぶんめい[18]:499とうくんあつし評價ひょうかはりてき哲學てつがく境界きょうかいほどしゅおう陽明ようめいこれだか,「しか而其用心ようじんとく細密さいみつ謹嚴きんげん,……此在そうあきらちゅうただ朱子しゅし以相」。牟宗さんたたえしょうはり自得じとくさとるえら」,たいみちたいてきからださとるあずかしゅうあつしほど顥相ちか[1]:181、188,其思想しそう天道てんとうせいいのちしょう貫通かんつう」。りゅうじゅつさきたたえあげはりゆう儒者じゅしゃ天地てんち萬物ばんぶつ一體いったいてきえりふところ[19]:1、3ほう東美とうびたたえあげせいこうむ》「そうだい哲學てつがく著作ちょさくちゅう思想しそうさいのう集中しゅうちゅう組織そしきさいかんせいてきだい著作ちょさく」,また欣賞《西銘にしめ》「大氣たいき磅礴」,「さい有精ゆうせいしんさいゆう氣魄きはくざいそう儒中くび推張よこみぞ[21]:290-291ただしなに炳棣指出さしで,《西銘にしめしょ展示てんじてき宇宙うちゅう本體ほんたいろんなみもと於博あい平等びょうどうてき理念りねん,而是宗法しゅうほうしきてき,闡述りょう宗法しゅうほうしきてき倫理りんり規範きはん[20]:390-391しゅう璣認ためはり宇宙うちゅうろんてき現代げんだい意義いぎあずかかしわかくもりあずかふところとくかいそうさんにんざい宇宙うちゅう本體ほんたい變動へんどうせいてき見解けんかい相似そうじ[1]:183-184中國ちゅうごく大陸たいりく學者がくしゃ欣賞はりてき思想しそうため唯物ゆいぶつ主義しゅぎ哲學てつがくたたえためじゅう一世紀中國唯物主義哲學家」[7]:370ちょう岱年たたえたい於唯物論ぶつろんてき卓越たくえつ貢獻こうけん永遠えいえん不朽ふきゅうてき[1]:182

きのねん

编辑

1220ねんちょうみなみ宋朝そうちょう廷賜謚「あきらおおやけ」,1241ねんしたがえまつあなびょうふう「郿伯」[1]:203。1490ねん楊一きよしざいはり曾在其中こうがくてき武功ぶこうけん綠野りょくやていおさむけんはりほこら;1519ねんおおとりしょう建立こんりゅう岐陽書院しょいん供奉ぐぶしゅうこうちょうとうひと[15]:131、126元明もとあきしん時期じきざい陝西せんせいいたりしょうゆう14しょほこらびょう祭祀さいしはり,其中さい著名ちょめいてきおおとりしょう郿縣よこみぞてき張子はりこほこら,1295年初ねんしょけん,1326ねんざいほこらきょうけんよこみぞ書院しょいんいちちょく經營けいえいいたり清末きよすえ,於現代げんだいそくしつらえゆうはりほこら文物ぶんぶつ管理かんりしょ[18]:21-23ばんあかりちょう及其家族かぞく地位ちい獲得かくとくひさげます享受きょうじゅみことさかえちょう子孫しそん遷徙各地かくち明代あきよちょう墓地ぼち所在しょざいてき郿縣やめぼつゆうはりてき後裔こうえい居住きょじゅう。1620ねん明朝みんちょうかん選擇せんたく移徙わたましいた河北かほく灤州しながくけんゆうてきはり後裔こうえい迎接げいせつ們回いた郿縣居住きょじゅう[18]:28、25結果けっかちょうだいじゅうよんせい後裔こうえいちょう文運ぶんうん帶同たいどう子孫しそんかいいた郿縣居住きょじゅうなみやすはいざい張子はりこほこら內的張子はりこ書院しょいんこうがくにんきょう奉祀ほうし先祖せんぞ。1622ねん朝廷ちょうてい授予ちょう文運ぶんうん五經ごきょう博士はかせ銜,子孫しそん世襲せしゅう,以奉祀ほうしはりあずか其他きたそう四子享有同等的尊榮。ちょう父親ちちおやちょうすすむ也在1724ねんまつたかしせいほこらしょうさき儒」[18]:26、28

參考さんこう文献ぶんけん

编辑
  1. ^ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 1.17 1.18 1.19 1.20 1.21 1.22 1.23 1.24 1.25 1.26 1.27 1.28 1.29 1.30 1.31 1.32 1.33 1.34 1.35 1.36 1.37 1.38 1.39 1.40 1.41 1.42 1.43 1.44 1.45 1.46 1.47 1.48 1.49 1.50 1.51 1.52 1.53 1.54 1.55 1.56 1.57 1.58 1.59 1.60 1.61 1.62 1.63 1.64 1.65 1.66 1.67 1.68 1.69 1.70 1.71 1.72 1.73 1.74 1.75 1.76 1.77 1.78 しゅう璣. 《ちょう》. 台北たいぺい: 東大とうだい圖書としょまた份有げん公司こうし. 1987. ISBN 9789571928784 ちゅうぶんしげるからだ)). 
  2. ^ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 ちんさかえとし. 《そうあきら理學りがく概念がいねんあずか歷史れきし》. 台北たいぺい: 中央ちゅうおう硏究けんきゅういんちゅう國文こくぶんあきら硏究所けんきゅうじょ籌備しょ. 1996. ISBN 9789576714351 ちゅうぶんしげるからだ)). 
  3. ^ 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 3.12 3.13 3.14 3.15 3.16 3.17 3.18 3.19 3.20 3.21 3.22 3.23 3.24 3.25 3.26 3.27 3.28 3.29 3.30 3.31 3.32 3.33 3.34 3.35 3.36 3.37 3.38 3.39 3.40 3.41 3.42 かずらもぐさ儒(Ira E. Kasoff). 《张载てき思想しそう》. たてごうやく. 上海しゃんはい: 上海しゃんはいせき出版しゅっぱんしゃ. 2010. ISBN 9787532557066 ちゅうぶん(简体)). 
  4. ^ 4.0 4.1 4.2 ろう宓榭(Michael Lackner). 《内外ないがい俱圣:张载论孔てきそう重本しげもと质》. 《ろう宓榭汉学文集ぶんしゅう》. ちょうわたるとうやく. 上海しゃんはい: ふくだん大學だいがく出版しゅっぱんしゃ. 2013: 172–183. ISBN 9787309096545 ちゅうぶん(简体)). 
  5. ^ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 5.6 ちょうくん. 《しん儒家じゅか思想しそう》. ほどぶん熙譯. 北京ぺきん: 中國ちゅうごく人民じんみん大學だいがく出版しゅっぱんしゃ. 2006. ISBN 9787300075754 ちゅうぶん(简体)). 
  6. ^ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 馮友らん. 《中国ちゅうごく哲学てつがくしん编》下卷げかん. 北京ぺきん: 人民じんみん出版しゅっぱんしゃ. 1989. ISBN 9787100190435 ちゅうぶん(简体)). 
  7. ^ 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 7.5 大島おおしまあきら. 《邵雍、张载てき气的思想しそう》. 小野澤おのざわきよし一等いっとう (编). 《气的思想しそう中国ちゅうごく自然しぜん观和人的じんてき观念てき发展》. けいやく. 上海しゃんはい: 上海しゃんはい人民じんみん出版しゅっぱんしゃ. 2007: 370–390. ISBN 9787208121867 ちゅうぶん(简体)). 
  8. ^ 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 しん. 《张载道学どうがく论纲》. 《哲學てつがく研究けんきゅう》. 2020, 12: 37–45, 124 [2023-08-28]. ISSN 1000-0216. (原始げんし内容ないようそん于2024-03-13) ちゅうぶん(简体)). 
  9. ^ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 9.6 宇野うの哲人てつとにち宇野うの哲人てつと. 《中國ちゅうごく近世きんせい儒學じゅがく》. うまぶくたつやく. 台北たいぺい: 中國ちゅうごく文化ぶんか大學だいがく出版しゅっぱん. 1982. OCLC 992247061 ちゅうぶんしげるからだ)). 
  10. ^ 10.0 10.1 10.2 10.3 三浦みうら國雄くにおにち三浦みうら國雄くにお. 《论气质变——张载与道教どうきょうてき自我じが变革论》. 《不老不死ふろうふしてき欲求よっきゅう三浦みうら国雄くにお道教どうきょう论集》. おうしるべやく. 成都せいと: 四川しせん人民じんみん出版しゅっぱんしゃ. 2017: 57–81. ISBN 9787220099724 ちゅうぶん(简体)). 
  11. ^ 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 11.5 ちょう. 《烈士れっし精神せいしんあずか批判ひはん识:谭嗣どう思想しそうてき分析ぶんせき》. ちぇこころざしうみとうやく. 北京ぺきん: 中央ちゅうおうへんやく出版しゅっぱんしゃ. 2016. ISBN 9787511727329 ちゅうぶん(简体)). 
  12. ^ 12.00 12.01 12.02 12.03 12.04 12.05 12.06 12.07 12.08 12.09 12.10 12.11 12.12 おうあきらえら. もとめどうあずかそんことちょうあずかおう廷相ろん比較ひかく. 《漢學かんがく研究けんきゅう》. 2005, 23 (2): 133–159 [2023-08-28]. ISSN 0254-4466. (原始げんし内容ないようそん于2024-07-27) ちゅうぶんしげるからだ)). 
  13. ^ 馮友らん. 《中国ちゅうごく现代哲学てつがく》. 廣州こうしゅう: 廣東かんとん人民じんみん出版しゅっぱんしゃ. 1999. ISBN 9787218137810 ちゅうぶん(简体)). 
  14. ^ 14.00 14.01 14.02 14.03 14.04 14.05 14.06 14.07 14.08 14.09 14.10 14.11 14.12 14.13 14.14 14.15 りゅうおさむ璐. 《张载与おうおっとてき道德どうとく心理しんり哲学てつがく. 《社會しゃかい科學かがく》. 2011, 5: 126–133 [2023-08-28]. ISSN 0257-5833. doi:10.3969/j.issn.0257-5833.2011.05.015. (原始げんし内容ないようそん于2024-03-13) ちゅうぶん(简体)). 
  15. ^ 15.00 15.01 15.02 15.03 15.04 15.05 15.06 15.07 15.08 15.09 15.10 15.11 15.12 15.13 15.14 15.15 15.16 15.17 15.18 おうあきらえら. 《中国ちゅうごく史上しじょうてき关中士人しじん:907-1911》. りゅう晨譯. 杭州こうしゅう: 浙江せっこう大學だいがく出版しゅっぱんしゃ. 2017. ISBN 9787308176170 ちゅうぶん(简体)). 
  16. ^ 16.0 16.1 16.2 山際やまぎわ明利あきとし. 《ちょうよこみぞ論語ろんごせつ」——「きょかず生死せいしかん》. 松川まつかわ健二けんじ (编). 《論語ろんご思想しそう》. 楊菁やく. 台北たいぺい: 萬卷樓圖書股份有限公司. 2006: 175–196. ISBN 9789577395597 ちゅうぶんしげるからだ)). 
  17. ^ しゅはくこん. 《易学えきがく哲学てつがくだいかん. 北京ぺきん: はななつ出版しゅっぱんしゃ. 1995. ISBN 7508005902 ちゅうぶん(简体)). 
  18. ^ 18.00 18.01 18.02 18.03 18.04 18.05 18.06 18.07 18.08 18.09 18.10 18.11 18.12 18.13 18.14 18.15 18.16 りょみょう芬. 《多元たげん视域ちゅうてきあかりきよし理学りがく》. 成都せいと: 四川しせん人民じんみん出版しゅっぱんしゃ. 2023. ISBN 9787220127717 ちゅうぶん(简体)). 
  19. ^ 19.0 19.1 19.2 りゅうじゅつさき. 《张载ざいそう代理だいりがくてき地位ちいじゅうさがせ. 《からがくかん》. 2013, 6: 1–7 [2023-08-28]. ISSN 1001-0300. doi:10.3969/j.issn.1001-0300.2013.06.001. (原始げんし内容ないようそん于2024-03-13) ちゅうぶん(简体)). 
  20. ^ 20.0 20.1 20.2 なに炳棣. 《儒家じゅか宗法しゅうほうしきてき宇宙うちゅう本體ほんたいろんしたがえてき西銘にしめだんおこり》. 《なに炳棣思想しそう制度せいど史論しろん》. 台北たいぺい: 中央ちゅうおう研究けんきゅういん. 2013: 385–396. ISBN 9789860369007 ちゅうぶんしげるからだ)). 
  21. ^ ほう東美とうび. 《しん儒家じゅか哲學てつがくじゅうはちこう》. 台北たいぺい: 黎明れいめい文化ぶんか事業じぎょうまた份有げん公司こうし. 1989. ISBN 9789571602929 ちゅうぶんしげるからだ)). 

延伸えんしん閱讀

编辑

[]

  ざい维基ぶん阅读此作しゃ作品さくひん  ざい维基どもとおる资源阅览影像えいぞう
きたそう
しゅうあつし · 邵雍 · 张载 · ほど · ほど