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西遼 - 維基百科,自由的百科全書

西にしりょう(1124ねん-1218ねん[註 1]),またたたえこうりょう喀喇ちぎり哈剌ちぎりりょうあさ宗室そうしつ重臣じゅうしん耶律大石おおいしざいりょうちょう滅亡めつぼうさいおもしん建立こんりゅうてき以「りょう為國ためくにごうてき王朝おうちょう

だいりょう
1124ねん—1218ねん
りょうじんむね耶律えびすれつぞくきょうじゅうねん(1160ねんてき西にしりょう疆域
きょうしろ 
• 1124ねん-1130ねん
鎮州いまこうむくにぬのしかしょうあおたくぶたじょう
• 1132ねん-1134ねん
みつりついま中國ちゅうごくしんがくさと
• 1134ねん-1218ねん
とらおもえ斡耳朵いまよしなんじきちたくかつうまかつ
君主くんしゅ6 (其中耶律皇帝こうてい3だいふとしきさきしょうせい2だい外戚がいせき篡位しょうみかど1だい
• 1124ねん-1143ねん
とくむね耶律大石おおいし
• 1143ねん-1150ねん
かんてんきさきしょうとうけむり
• 1150ねん-1163ねん
じんむね耶律えびすれつ
• 1163ねん-1178ねん
うけたまわてんきさき耶律そくかん
• 1178ねん-1211ねん
耶律ちょく魯古
かたりげんちぎり中古ちゅうこ漢語かんご[1]
常用じょうようちぎり中古ちゅうこ漢語かんご突厥なみ斯語
きょうおとろえ
• 1124ねん
耶律大石おおいし鎮州しょうおうだつはなれてん祚帝
• 1132ねん
耶律大石おおいしみつりつしょうみかどきくあせ西にしりょう建立こんりゅう
• 1134ねん
西にしりょうげきはいひがし喀喇あせこくていとらおもえ斡耳朵
• 1141ねん
西にしりょう卡特まんこれせんげきはいふさがしかはしら帝國ていこくれんぐん征服せいふく河中かわなか地區ちく
• 1211ねん
乃蠻王子おうじこごめりつ篡位しょうみかど耶律ぜっ
• 1218ねん
こうむおさむ西にしりょうこれせんりょうほろび
宗教しゅうきょう佛教ぶっきょう斯蘭きょう
前身ぜんしん
繼承けいしょう
だいりょう
こうあきらかい
ひがし喀喇あせこく
西にし喀喇あせこく
はな剌子王朝おうちょう
だいこうむくに
こんぞく 中華人民共和國ちゅうかじんみんきょうわこく
 哈薩かつ
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しょう
ぜん17世紀せいきまえ11世紀せいき
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ぜん11世紀せいき

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ぜん770ねんまえ256ねん
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はた
ぜん221ねんまえ207ねん
かん
ぜん202ねん

220ねん
西にしすわえ まえ206ねんまえ202ねん
西にしかん ぜん202ねん—9ねん
しん 9ねん—23ねん
更始こうし政權せいけん 23ねん—25ねん
ひがしかん 25ねん—220ねん
さんこく
220ねん—280ねん
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220ねん—266ねん
しょくかん
221ねん—263ねん

229ねん—280ねん
すすむ
266ねん—420ねん
西にしすすむ 266ねん—316ねん
あずますすむ
317ねん—420ねん
えびすじゅうろくこく
304ねん—439ねん
みなみ
きた
あさ

420ねん

589ねん
そう 420ねん—479ねん きたたかし
386ねん—534ねん
ひとし 479ねん—502ねん
りょう 502ねん—557ねん 西にしたかし
535ねん—557ねん
あずまたかし
534ねん—550ねん
ひね 557ねん—589ねん きたあまね
557ねん—581ねん
きたひとし
550ねん—577ねん
ずい 581ねん—619ねん
とう 618ねん—907ねん
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だい
じゅう
くに

907ねん

979ねん
こうはり
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みなみとう
えつ
ぜんしょくこうしょく
荊南すわえ
みなみかんきたかん
907ねん—979ねん
りょう
ちぎり

916ねん—1125ねん

西にしりょう
1124ねん—1218ねん
こうとう
923ねん—937ねん
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こうしゅう
951ねん—960ねん
そう
960ねん

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みなみそう
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耶律大石おおいし原本げんぽん效力こうりょくりょうてん祚帝ざいりょうあさそくはた滅亡めつぼうさい出奔しゅっぽん。1124ねん,耶律大石おおいしざいりょうちょう西北せいほく鎮州あつしじょういまこうむくにぬのしかしょうあおたくぶたいにしえかいしろ[註 2]しょうおう改元かいげんのべけい史學しがくかい一般以此作為西遼政權的開始。1132ねん,耶律だい石在いしざいみつりついましんがくさとしけんじょう突厥あせごうきくあせ[註 3]かん尊號そんごう天佑てんゆう皇帝こうてい」,西にしりょう正式せいしき建立こんりゅうこれ,耶律大石おおいしこういまこうむ高原こうげんしんちゅう西にし地區ちく擴張かくちょう先後せんごげきはい統治とうち當地とうちてきこうあきらかいひがし喀喇あせこくなみ於1134ねん建都けんととらおもえ斡魯朵いまよしなんじきち斯斯ひろしたくかつうまかつ東南とうなんぬのひしげおさめ)。ずい西にしりょう繼續けいぞくこう西部せいぶてき西にし喀喇あせこく擴張かくちょうなみざい1141ねんてき卡特まんこれせんちゅうげきはいふさがしかはしら帝國ていこくれんぐん征服せいふく河中かわなか地區ちくはな剌子したがえ此成ためちゅう霸主,威名いめい也遠播至おうしゅう。耶律大石おおいし死後しご西にしりょうれきけいしょうとうけむり耶律えびすれつ耶律そくかんさんだい君主くんしゅ統治とうちいただいにん君主くんしゅ耶律ちょく魯古時期じき西にしりょうよし於長對外たいがい戰爭せんそうくに力走りきそうこうおとろえ落,附屬ふぞくこくつぎ叛亂はんらんなみ最終さいしゅう外戚がいせき乃蠻こごめりつ篡國。最終さいしゅうしん崛起てきこうむ帝國ていこく於1218ねん發起ほっきおさむりょう戰役せんえき西にしりょう滅亡めつぼう

國名こくめい

編輯へんしゅう

西にしりょう建國けんこくごうためりょう」,以示其為りょうあさ正統せいとういん於先まえ耶律阿保あぼところけんてきだいりょう西にし,該政權せいけんしょうため西にしりょう」。[6]此外,西にしりょうざい中國ちゅうごく史書ししょちゅうまたゆうこうりょう[7]かず西にしちぎり[8]これしょう

あずか西にしりょうどう時期じき並立へいりつてき中國ちゅうごく政權せいけんみなみそうきむ無論むろんざい耶律大石おおいし生前せいぜんかえ死後しごみな以「大石おおいし[9]、「大石おおいしりんきば」、「大石おおいしちぎりかずはやしきばちぎり[10]ひとしだいゆび西にしりょう政權せいけん,而未曾以「りょう名號みょうごうちょくよび西にしりょうまた使用しよう西にしりょうあるりょうこれめい目前もくぜん所見しょけんてき最早もはや使用しよう西にしりょうかずりょう名號みょうごうてきろくためもとはつ耶律すわえざいこれ西遊せいゆうろくあずかたたえしか居士こじ文集ぶんしゅう》。[11]

きよし斯林西方せいほう文獻ぶんけんそくはた西にしりょう稱呼しょうこため哈喇ちぎり」(おもねひしげはくالدولة القراخطائية‎,英語えいごQara Khitai[12][13]ただし名稱めいしょう傳統でんとう中國ちゅうごくせき近代きんだい以後いご華人かじん學者がくしゃざい翻譯ほんやく域外いきがい著作ちょさくはたQara Khitaiやくため哈喇ちぎり」、「哈剌ちぎり」、「喀拉ちぎりあるくろちぎり[14],哈喇ちぎりたんかずくろちぎりめいとげ在中ざいちゅうぶん文獻ぶんけんちゅう出現しゅつげんせき於「哈喇ちぎりこれめいてき含義,目前もくぜん學界がっかい仍有爭論そうろん突厥ある維吾なんじちゅうQaraゆうくろてき意思いし,此外かえゆう偉大いだい」、「そう」、「最高さいこうてき含義。[15]またゆう解釋かいしゃくしょうQaraゆびてき黑色こくしょく」,根據こんきょぎょう學說がくせつあずかりょうちょうてきみずとく相應そうおう[16]しか而,よりどころ中國ちゅうごく大陸たいりくてきりょう學界がっかいたいちぎりぶんこころざしめいてき研究けんきゅう,「哈喇ちぎりそくりょうちぎりてき音譯おんやく,「哈喇」ため偉大いだい廣大こうだい翻譯ほんやくため漢字かんじそくりょう」,西にしりょうただ沿用りょうりょうだいてき國號こくごう[17]

早期そうき耶律大石おおいしてき活動かつどう

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西にしりょうてき建立こんりゅうしゃ耶律大石おおいしただしりょうちょう開國かいこく君主くんしゅ耶律阿保あぼてきはちせいまご重德しげのり。耶律大石おおいし精通せいつうちぎり漢語かんご,擅長弓馬きゅうば騎射きしゃ。1115ねん,耶律大石中おおいしなか進士しんしいれ翰林かんりんいんちぎりしょう翰林かんりんためりんきば,耶律大石おおいしまたしょうため大石おおいしりんきばあるはやしきば大石おおいしこう歷任れきにんたいしゅうさちしゅう刺史ししりょうきょうぐん節度せつど使[18]

れきけい200多年たねん統治とうちてきりょうちょう國力こくりょく逐漸はしこう衰弱すいじゃく而代これてきおんなしん建立こんりゅうてきかねあさざいかね軍勢ぐんぜい如破ちくてき攻擊こうげきりょうちょう節節ふしぶし敗退はいたい。1122ねんかねぐんおさむかつりょう中京ちゅうきょうだい定府じょうふさわしゅうりょうてん祚帝如驚弓之ゆみのとりしたがえきょいさおせきいたり鴛鴦えんおういま河北かほくしょうちょうきたけんやすかたさといた白水しろうずいま內蒙自治じちがらすらん察布察右ぜんはた黃旗きはたうみ),さいいたおんな底倉そこくら一路いちろ倉皇そうこう逃跑いたり夾山こん內蒙自治じち武川むかわけん附近ふきん)。數日すうじつ宰相さいしょうしょぬるあずか南京なんきんいま北京ぺきん西南せいなんみやこみつるしょう、耶律大石おおいしひとし擁立ようりつはたすすむ國王こくおう[註 4]耶律あつしためみかど建立こんりゅうきたりょう[21]耶律大石おおいしためひじこつしんかんいたりふとし[19]而一こころそうおさむふくつばめくもじゅうろくしゅうてききたそう也與きんあさ締結ていけつりょう海上かいじょうめい南北なんぼく夾擊きょうげきりょうあさただし耶律大石おおいししょう兩次りょうじりつぐん擊退げきたい[22][23]同年どうねん,耶律じゅん病死びょうし,其妻しょうとく臨朝しょうせい[24]1123ねんはるかねぐんおさむやぶきょいさおせききたりょう危在旦夕たんせき,耶律大石おおいし決定けっていはさみしょうとくとう奔天祚帝。てん祚帝いん耶律あつしだてこところせしょうとく及外おい耶律つねゆかり於耶りつ大石おおいしてき辯解べんかいさい使てん祚帝赦免しゃめんりょう其餘眾人。[25][26]

耶律大石おおいしざいりょうてん祚帝ちょうにんみやこみつるいちしょく,1123ねんりつりょうぐん進攻しんこうたてまつせいしゅうちゅうぐん龍門山りゅうもんざんひがしじゅうさとしょきむちょうみつるかんがお斡魯かんがおあきらりつかんがお婁室うま和尚おしょうとうりつぐんおさむ,耶律大石おおいし戰敗せんぱいかんがお婁室俘虜ふりょ所部ところぶ投降とうこうかんがおそうのぞむようなわ綁著耶律大石おおいし強迫きょうはく作為さくい嚮導きょうどうりつぐん襲擊しゅうげきりょうてん祚帝あお冢濼こん內蒙自治じちよび和浩かずひろとくみなみてきだい營,俘獲りょうてん祚帝之子ゆきこしんおう耶律じょうもとおう耶律やすしかず嬪妃、公主こうしゅしたがえしんじん輜重しちょうしゃまんあまり輛。[27][28][29][30]同年どうねん9がつ,耶律大石おおいし跟隨きんあさ西にしせいおび領家りょうけ眷自きん營逃りつりょう一支部隊投奔天祚帝。[註 5][32][33]

ざいいた耶律大石おおいしてき部隊ぶたいかげやましつ首領しゅりょうもう割石わりいしてき援助えんじょりょうてん祚帝みとめため反攻はんこうてき時機じきやめけい來臨らいりん決定けっていおや出兵しゅっぺいおさむふくつばめしゅうくもしゅう地區ちく。耶律大石おおいしみとめためきんぐんもりおうとうやしなえせい蓄銳,不能ふのう貿然出擊しゅつげきてん祚帝聽,堅持けんじ出兵しゅっぺい[34]1124ねん2がつ,耶律大石おおいし知道ともみちてん祚帝無法むほう完成かんせい復興ふっこうりょうちょうてき大業おおわざまたがい怕得いたてん祚帝てき猜忌さいき,於是ころせしょうおつ坡里くくりつりょう鐵騎てっき200[註 6]出奔しゅっぽん[36]耶律大石おおいしはしのちりょうてん祚帝雖然取得しゅとくいち些戰やくてき勝利しょうりただしひさ便びんきむちょうしょはい。1125ねんりょうてん祚帝ざいとう西にしなつてき途中とちゅう俘,りょうちょう滅亡めつぼう[37]

あつしじょうしょうおう

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耶律大石おおいしりつぐんしたがえ夾山出發しゅっぱつきたぎょうさんにちわたり黑水くろみずいまあいぶたかわ),途中とちゅうぐういたしろ韃靼だったんじん首領しゅりょうゆかいにしえゆかいにしえきゅう耶律大石おおいしよんひゃくひきじゅうとう駱駝らくだ若干じゃっかんただひつじてき援助えんじょ。耶律大石おおいし一路かずみちこう西北せいほく,於1124ねんあき到達とうたつあつしじょう召集しょうしゅう威武いぶたかしとくかいしげるしん大林おおばやしむらさきかわとうななぐんしゅうてき長官ちょうかん大黃だいおうしつてきおうおさむちゃあか也喜はな古德ことく孛古こう一部いちぶ)、あまいたる剌乖いたるみつさととうまいしかかわ英語えいごTamir River一部いちぶ)、みつごうぬしくろしゃしつ韋)、がらす古里ふるさと阻蔔そくかん唐古からこゆるがせははおもえ奚的糾而畢じゅうはち部族ぶぞくてき首領しゅりょう舉行大會たいかいざい大會たいかいじょう,耶律大石おおいし慷慨こうがい激昂げっこうてき指出さしで先祖せんぞ創建そうけんりょうちょうてき艱難かんなん以及よし於金あさたい於遼あさ侵略しんりゃく造成ぞうせいてん祚帝流亡りゅうぼう在外ざいがい生靈いきりょう塗炭とたんごう召各ぐんしゅうかず部族ぶぞく驅逐くちく仇敵きゅうてき復興ふっこうだいりょう[36]よし於可あつしじょうただしりょうちょうてき西北せいほくぼう重鎮じゅうちんへんぼう軍隊ぐんたいとく隨意ずいいちょう調ちょう軍隊ぐんたいざい戰亂せんらんちゅうとく保存ほぞん[38]なみ且此かえよう有可ゆか騎乘きじょうてきせんすうじゅうまんひき[39]耶律大石おおいししょうおう安置あんちみなみ北面ほくめんかん整頓せいとん兵馬へいばすり礪武とくいた精兵せいびょうまん餘人よにん[36][40]

耶律大石おおいしざいあつしじょう建立こんりゅう根據地こんきょちせき攢實りょく不斷ふだん使者ししゃ聯絡れんらくしろ韃靼だったんじん西にしなつ以及きたそうしたがえ外交がいこうじょう孤立こりつきんあさ。1125ねんなつ西にしなつ聯絡れんらく耶律大石おおいしおさむかねあさてき山西さんせいしょぐん[41]同年どうねんまつ,耶律大石おおいし使者ししゃ聯絡れんらくきたそう提議ていぎ合力ごうりょくおさむきんあさ[42]1127ねんしろ韃靼だったんじんあずか耶律大石おおいしとおるこう拒絕きょぜつはた馬匹ばひつうり給金きゅうきんあさ金太きんたむね使者ししゃ問罪もんざい雙方そうほう關係かんけい緊張きんちょう[43]1129ねん,耶律大石おおいしりつぐんおさむりょうきんあさてき北方ほっぽう營。つぎねん金太きんた宗派しゅうは耶律あまりいしやつ拔離そく征討せいとう耶律大石おおいしただしよし於諸部落ぶらく同意どうい出兵しゅっぺい大軍たいぐん行進こうしんいたり兀納すいこうおさむへい[44]

耶律だい石西いしにしただし及稱みかど

編輯へんしゅう

經過けいかきゅうせい,耶律大石おおいしてき軍事ぐんじ實力じつりょくいた壯大そうだい。1130ねん3がつ,耶律大石おおいし以青うし白馬はくばさいつげ天地てんちれつ準備じゅんび西にしせい。耶律大石おおいしさき使者ししゃ送信そうしんきゅうこうあきらかい鶻首りょう畢勒哥闡明せんめい兩國りょうこく先代せんだいてき友好ゆうこうなみ要求ようきゅうみち大食たいしょく。畢勒哥得いた書信しょしん迎接げいせつ耶律大石おおいしいたるみやていだいうたげさんにち,臨行ぜん畢勒哥親護送ごそう耶律大石おおいしいずるさかいおくおく耶律大石おおいし馬匹ばひつろくひゃく駱駝らくだすうひゃくひつじさんせんせき作為さくい禮物れいもつなみ約定やくじょう交出人質ひとじち作為さくい耶律大石おおいしてきつけいさおこく[45]

耶律大石おおいしりつぐんはなれ開高かいこうあきらかい鶻,進入しんにゅう乞兒ほいときちおもえさかい內,遭到りょう當地とうち部落ぶらくてき抵抗ていこうただし雙方そうほう發生はっせいだい規模きぼてき戰爭せんそう[5]耶律大石おおいしりつぐん繼續けいぞく西進せいしん到達とうたつみつりつ大軍たいぐんしょいたこれしょもちふう披靡,駱駝らくだうしうまひつじとう輜重しちょう無數むすう[46]1131ねんはるきむちょう統帥とうすいねば及耶りつあまり睹率りょうくもちゅうつばめくもしゅうかんぐんかねぐん1萬人攻打耶律大石的根據地可敦城,ただし遭到失敗しっぱい[47]耶律大石おおいし到達とうたつみつりつ,雖然あずかこうあきらかい發生はっせい摩擦まさつ[48]ただし基本きほんいたりょう當地とうち突厥部族ぶぞくてき支持しじ戶數こすうたちいた4まん[5]1132ねん[註 7],耶律大石おおいしざい新建しんたけなりてきみつりつ正式せいしきたたえきくあせ」,群臣ぐんしんまたみことかんごうため天祐てんゆう皇帝こうてい」,たてはじめのべけいついみこと祖父そふためもと皇帝こうてい祖母そぼため宣義のぶよし皇后こうごうさつふうもとしょうため昭德あきのり皇后こうごう[註 8]西にしりょう帝國ていこく正式せいしき建立こんりゅう[51]

建都けんととらおもえ斡耳朵和せいきん受挫

編輯へんしゅう

西にしりょう帝國ていこく建立こんりゅう,耶律大石おおいし開始かいし醞釀こう周邊しゅうへん地區ちく擴張かくちょう。1132ねん,耶律大石おおいしちかしりつ大軍たいぐんこう南進なんしんはつこうあきらかい鶻再臣服しんぷく於西りょうずい耶律大石おおいしりつぐんこし天山てんざん,沿とうさと盆地ぼんち北向きたむき西にし推進すいしんあずかひがし喀喇あせこく發生はっせい衝突しょうとつ西にしりょうぐんおもねしか斯蘭あせひがし喀喇あせ國大こくだいあせおもね赫馬とく·ほん·哈桑てき軍隊ぐんたいげきはい大將たいしょうおもね勒·おもねかわらなんじ俘,損失そんしつむごおも。耶律大石おおいし撤軍後向うしろむきななかわ地區ちく進發しんぱつおさむへんりょう當地とうちてきちぎりじん突厥じんきょう16000ちょう使つかい西にしりょう軍隊ぐんたいてき人數にんずう增加ぞうかりょういちばい。耶律大石おおいしりつぐんちゅう紮於西にしりょうあずかひがし喀喇あせこく邊境へんきょう地區ちくとうまち時機じき準備じゅんび反攻はんこう[52]

1132ねんおもね赫馬とく·ほん·哈桑,其子ぼくひしげ欣二きんじつぎにんぼくひしげ欣二きんじ軟弱なんじゃく無能むのう原本げんぽんしんぞく於東おひがし喀喇あせこくてきかずら邏祿かんさとひと趁機襲擊しゅうげきてきぞく牲畜,進行しんこう劫掠ごうりゃくぼくひしげ欣二きんじ不能ふのうひかえせいじゅうこく內的きょくぜい,於是使者ししゃ請求せいきゅう耶律大石おおいし進入しんにゅうはち剌沙袞いまよしなんじきち斯斯ひろしたくかつうまかつひがしせっかんてき國家こっか使つかい「擺脫這塵てき煩惱ぼんのう」。耶律大石おおいしせっいた請求せいきゅうりつぐん進入しんにゅうひがし喀喇あせこく首都しゅとはち剌沙袞,「とうじょうぶんぶんてきたから」。耶律大石おおいしすすむぼくひしげ欣二きんじくだため突厥蠻·れつかつまたわけ土庫どんご曼·れつかつ」,ため突厥おう),保留ほりゅうりょうたい喀什噶爾今新いまじん疆維われなんじ自治じち喀什)、和田わだ地區ちくてきひかえせいひがし喀喇あせこくなりため西にしりょうてきつけいさおよし於八剌沙袞附近是可耕可牧的肥沃地區,耶律大石おおいし決定けってい建都けんと於此,はた八剌沙袞改名為虎思斡耳朵(ためきょう而有りょくてきみやちょう),なみ改元かいげんかんこく。耶律大石おおいしずいまた軍隊ぐんたい戰勝せんしょうりょう征服せいふくりょうべつしつはち今新いまじん疆維われなんじ自治じち吉木よしき薩爾けんさかい內),かん里人さとびと久也ひさや臣服しんぷく於西りょう[5][4]

1134ねん4がつ,耶律大石おおいし任命にんめいろくいん大王だいおうしょう斡里剌ため兵馬へいば元帥げんすいてき剌部まえどう樞密院すうみついんごとしょう查剌おもねためふく元帥げんすいちゃあか剌部禿かぶろ耶律つばめさんため都部いちぶしょ護衛ごえい耶律てつためかんりつぐん7まん征討せいとうきんあさざい戰前せんぜんてきちかい大會たいかいじょう,耶律大石おおいしよう白馬はくばあおうしさいてん指出さしで先祖せんぞ創業そうぎょう艱難かんなんよし於後だい君主くんしゅふけ享樂きょうらく致使社稷しゃしょくかたぶけくつがえちゅうなみ久居ひさいこれおうとうさかえ故里ふるさと復興ふっこうだいりょうまたすすむさとししょう斡里剌要あずか士卒しそつどうあまきょう賞罰しょうばつ分明ふんみょう作戰さくせんよう選擇せんたく水草みずくさ豐富ほうふしょ紮營,謹慎きんしん用兵ようへいただしよし於西りょうあずかきむちょう兩國りょうこくしょうへだた遙遠ようえん西にしりょう軍隊ぐんたい行進こうしんまんさといちしょ兵馬へいば損失そんしつむごおもとく撤軍回國かいこく[53]另據《三朝みささきためいかいへん記載きさい,1135ねん,耶律大石おおいしさいつぎりつぐんおさむきんあさきむ熙宗ねば罕迎せんかねぐん進入しんにゅう沙漠さばくあずか西にしりょうぐん征戰せいせんさん晝夜ちゅうやぶん勝敗しょうはいただしかねぐんかてくさ斷絕だんぜつ人馬じんば凍死とうし很多,上本うえほんためちぎり人的じんてき副將ふくしょう臨陣たおせほこ,致使ねば大敗たいはい而歸。ただし此段史料しりょうてき真實しんじつせいまちこう[54]

征服せいふく河中かわなか地區ちく及花剌子

編輯へんしゅう

1137ねんおこり,耶律大石おおいし開始かいしりょうだい擴張かくちょう。1137ねん,耶律大石おおいしりつぐんむこう察赤いまがらす茲別かつ斯坦とう什干)、しかおさめ盆地ぼんちさわひしげおっとなおかわ流域りゅういきしんへい同年どうねん5いたり6がつざいゆるがせいまとうよしかつ斯坦)遭到りょう西にし喀喇あせこくあせうま赫穆とく·ほん·きよしうみだまとくてき抵抗ていこう西にし喀喇あせこく戰敗せんぱいうま赫穆とくはい逃回にげまわ撒馬なんじ。1141ねん西にし喀喇あせこくあずかかずら邏祿じん爆發ばくはつ衝突しょうとつうま赫穆とくこう宗主そうしゅこくふさがしかはしら帝國ていこくもとめ援。ふさがしかはしらまことくわ賈爾動員どういん斯蘭諸國しょこく參戰さんせん集中しゅうちゅうりょう茲尼王朝おうちょうなんじ王朝おうちょうてき軍隊ぐんたいきん10まんにん[註 9]たんたん閱兵就耗りょう半年はんとし時間じかん同年どうねん7がつくわ賈爾りつぐんわたりおもね姆河進入しんにゅう河中かわなか地區ちくかずら邏祿じんきゅうせわし使者ししゃこう耶律大石おおいしもとむすくい

耶律大石おおいしうつししんきゅうくわ賈爾がえかずら邏祿じんせつじょうただしくわ賈爾十分傲慢的回信命令耶律大石加入斯蘭きょう並稱へいしょう自己じこてき軍隊ぐんたいのうよう截斷せつだんてき人的じんてきひげかみとう耶律大石おおいし聽完くわ賈爾てき使者ししゃ讀完書信しょしんしたれい拔下てきいちつまみ鬍鬚,しかこうきゅう一根針讓他當場示範,使者ししゃ不能ふのう做到。耶律大石おおいしせつすんでしかはり不能ふのう截斷せつだん鬍鬚,個人こじんまた怎麼のうようおりだんひげかみ呢?於是れいしんへい雙方そうほうざい撒馬なんじ以北いほくてき卡特まん草原そうげん英語えいごBetpak-Dala對峙たいじ西にしりょうてき軍隊ぐんたい中有ちゅううちぎりじん、突厥じん漢人かんどかずこうむ古人こじん[52]耶律大石おおいし觀察かんさつりょう戰場せんじょうてき地形ちけいゆずる軍隊ぐんたいもたれいたるしか峽谷きょうこくやす營。りょうぐん於1141ねん9がつ9にち展開てんかい會戰かいせん戰前せんぜん耶律大石おおいし指出さしでくわ賈爾てきれん軍人ぐんじん多少たしょうはかりごと,如果全力ぜんりょく進攻しんこう們就かい首尾しゅび顧。耶律大石おおいし六院司大王蕭斡里剌、招討副使ふくし耶律松山まつやまとうりつへい2500おさむれんぐん右翼うよく樞密すうみつ副使ふくししょう剌阿招討使耶律じゅつとうりつへい2500おさむ左翼さよく,耶律大石おおいしちかしりつ部隊ぶたいおさむ打中うちなかぐん[56]くわ賈爾てきれんぐん右翼うよくほこりまいなんじくらきち左翼さよくすず斯坦ほこりまいなんじえびすうまのぞみ自己じこおやりつちゅうぐんゆうせん經驗けいけんてき老兵ろうへいせめ殿どの[4]

ざい戰場せんじょうじょうすず斯坦貴族きぞく作戰さくせんえいいさむただし西にしりょう軍隊ぐんたいちゅうてきかずら邏祿じん發揮はっきりょう重要じゅうようてき作用さようさこ使つかいくわ賈爾てきれんぐんはい逃。くわ賈爾和馬かずま赫穆とく逃奔いたりたいなんじうめくわ賈爾てき妻子さいしひだり右翼うよく統帥とうすい斯蘭法學ほうがくえびす薩姆·おく瑪爾·ほん·おもねぬのもり·おもねひとし茲·ほん·扎·ぬの哈里ひとし俘虜ふりょ[57]くわ賈爾てきれんぐん損失そんしつむごおも[註 10]僅達しか峽谷きょうこく就裝1まんめい死者ししゃ[1]りょう記載きさいふさがしかはしら帝國ていこくれんぐんてきじん亡者もうじゃよこかばねすうじゅうさと[56]卡特まん戰後せんごふさがしかはしら帝國ていこくてき勢力せいりょく退出たいしゅつ河中かわなか地區ちく西にしりょうなりためちゅう霸主。耶律大石おおいしずいりつぐん進入しんにゅう撒馬なんじ罕,たてうま赫穆德之のりゆきおとうとぼくひしげ欣·ほん·きよしうみだまとくためもも花石はないしあせ繼續けいぞくゆずる統治とうち西にし喀喇あせこく[4] かえしもれいしょぬの哈拉いくわ斯蘭きょうきょうちょうえびすすなきよしひのと·やまと瑪爾任命にんめいおもねしかひろし·てききん統治とうち該地。[58]ずい大將たいしょうがくぬのおもえ出兵しゅっぺいはな剌子ざい該地しょうころせ搶掠,さこ使つかいはな剌子すなおもねおもねひしげひのと·おもねむかい西にしりょう臣服しんぷくなみ每年まいとし繳納值3萬金まんきんだいおさめなんじてき貨物かもつ牲畜。1143ねん,耶律大石おおいし在位ざいい20ねんびょうごうとくむね[56]

耶律大石おおいしてき西にしせい事跡じせきつていたおうしゅうせいだい十字軍じゅうじぐん東征とうせい,於是ざいおうしゅう流傳りゅうでんちょ東方とうほう世界せかいゆういち神秘しんぴてき祭司さいしおうやく基督教きりすときょうてき捍衛しゃ[59]にわかおもねひしげはくひしげひのと英語えいごなか中國ちゅうごくてき發音はつおん類似るいじ於「ちぎり」,みやこただし受耶りつだい石西いしにしただしてき影響えいきょう[3]而耶りつ大石おおいしてき名字みょうじ也成りょう西にしりょう帝國ていこくてきだいたたえざい耶律大石おおいし死後しごきむ西にしなつみなみそうとう國家こっかたい西にしりょうてき後代こうだい君主くんしゅみなしょうため大石おおいし」。[60]

しょうとうけむり及耶りつえびすれつてき執政しっせい

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耶律大石おおいし,其子耶律えびすれつとしようのこみことのりいのち皇后こうごうしょうとうけむり臨朝しょうせい改元かいげん咸清しょうかん天皇てんのうきさき[61]1144ねんきむ熙宗得知とくち耶律大石おおいしてき消息しょうそくねばわりかんやつため使勸降かんこう西にしりょうせい值蕭とうけむり在外ざいがい出獵しゅつりょうねばわりかんやついた她不下馬げば跪拜きはいはん而讓她下馬げばせっみことのりしょうとうけむりいのちじんはたねばわりかんやつひしげ下馬げばねばわりかんやつ痛罵つうばとめしょうとうけむりはついかじんはた其殺[60]しょうとうけむり在位ざいい7ねんかえせい於子耶律えびすれつ[61]

1150ねん,耶律えびすれつ即位そくい改元かいげんぞくきょう。耶律えびすれつ在位ざいい期間きかんひろし首都しゅととらおもえ斡耳朵內畿18さい以上いじょう成年せいねん男子だんしてき人口じんこうきょう84500[註 11][62]1156ねん西にし喀喇あせ國大こくだいあせぼくひしげ欣三きんぞうあずかかずら邏祿軍隊ぐんたい長官ちょうかんもぐさなんじはくかつ發生はっせい衝突しょうとつ雙方そうほうざい飢餓きが草原そうげん英語えいごBetpak-Dala發生はっせい戰爭せんそうぼくひしげ欣三きんぞう戰敗せんぱい暴屍荒野あらの[52]其子おもねさと·ほん·哈桑つぎにんしょう恰格かみなりあせ。恰格かみなりあせずいたいかずら邏祿じん展開てんかい報復ほうふくころせ其首りょうあせかずら邏祿てきひしげ欽伯かつ和比古かずひこあせ之子ゆきこ向花むけ剌子もとめすけ,而恰かくかみなりあせそくこう西にしりょうもとめ援。耶律えびすれつひがし喀喇あせこくあせぼくひしげ欣·ほん·おもね赫馬とくりつぐん1まんまえ救援きゅうえんけい撒馬なんじ罕的宗教しゅうきょう人士じんし調節ちょうせつ雙方そうほう簽訂あいやく,恰格かみなりあせ恢復かいふくりょうかずら邏祿首領しゅりょうてき軍事ぐんじ職務しょくむ雙方そうほう撤軍。[1]耶律えびすれつ在位ざいい13ねん,於1163ねんびょうごうじんむね[62]

耶律そくかん執政しっせい時期じき

編輯へんしゅう

じんむね耶律えびすれつ,其子ねんようのこみことのりいのち其妹耶律そくかん臨朝しょうせい改元かいげんたかしぶくたたえうけたまわてんふとしきさき[63]ため徹底てってい解決かいけつかずら邏祿人的じんてきかくれ患,1164ねん,耶律そくかんいのち西にし喀喇あせうま斯烏とくせいはたぬの哈拉撒馬なんじりょうてきかずら邏祿じん遷往喀什噶爾地區ちくただし引發かずら邏祿人的じんてき暴動ぼうどうぬの哈拉長官ちょうかんだま罕穆とく·ほん·おく瑪爾一面安撫葛邏祿人,一面派使者向西喀喇汗國求援。かずら邏祿じん喪失そうしつ警惕,最終さいしゅういた毀滅せいてき打擊だげき勢力せいりょくざい河中かわなか地區ちくおとろえ落。[52]つぎねん西にしりょう軍隊ぐんたい進入しんにゅうよび劫掠ごうりゃくりょうともえなんじ[64]したがえ此,ともえなんじ臣服しんぷく於西りょうなみこう西にしりょう繳納土地とちぜい[52]

1170ねん西にしりょう喀喇あせこく集結しゅうけつ軍隊ぐんたいたいはな剌子展開てんかい進攻しんこうはな剌子すなおもねなんじ·おもねしか斯蘭かずら邏祿じんおもねなんじはくかつむかいせん雙方そうほうざいおもね姆河ほとり遭遇そうぐうはな剌子戰敗せんぱいおもねなんじはくかつ俘。ひさなんじ·おもねしか斯蘭,其幼子おさなごまこと·すなつぎにん,其兄おもねひしげひのと·とう乞失いんそう失敗しっぱい而投奔西りょうとう乞失以花剌子てき財寶ざいほう按時繳納年貢ねんぐため條件じょうけんかわりょう耶律そくかんてき支持しじ。1172ねん,耶律そくかんいのち丈夫じょうふしょう朵魯りつぐん護送ごそうとう乞失回國かいこく即位そくいまこと·すな赫和其母聞訊逃走とうそう西にしりょういん此加きょうりょうたいはな剌子てきひかえせいただし西にしりょうこれ頻繁ひんぱん使者ししゃいたはな剌子每次まいじさくよう大量たいりょうみつぎきんゆう些使しゃ甚至遵守じゅんしゅ外交がいこう禮節れいせつ,這都ゆずるとう乞失だいため惱火。とう乞失れいしょいちたい無禮ぶれいてきちぎり貴人きじんなみあずか西にしりょう使者ししゃ相互そうご謾罵。ざい得知とくち這一消息しょうそくまこと·すな赫投奔西りょうこう耶律そくかん解釋かいしゃくせつ自己じこいたりょうはな剌子百姓ひゃくしょう軍隊ぐんたいてき擁護ようご。於是,耶律そくかんまたいのちしょう朵魯りつぐん護送ごそうまこと·すな回國かいこくとう乞失れいけつおもね姆河かわつつみ放水ほうすいおき毀道阻止そし西にしりょう軍隊ぐんたいてき前進ぜんしんしょう朵魯しょうまこと·すな護送ごそういたりよび珊,まこと·すな赫攻うめなんじおっと薩拉赫斯ざい此立あしいたり1193ねんざいとう乞失吞併。[5][64]耶律そくかん統治とうち時期じき西にしりょう實力じつりょく疆域たちいたりょういただきほう

耶律そくかん統治とうち時期じき西にしりょうあずかかねあさ也有やゆう接觸せっしょく。1175ねん乃蠻首領しゅりょうとらとく和康かずやすさと首領しゅりょう孛古りつ3まん背叛はいはん西にしりょうとうもたれきんあさ使つかい西にしりょうたいけんかわいまあまふさがかわうえゆう一帶いったいてきひかえせいりょくげんじゃく[65]1177ねんきむ熙宗かん察御かんがお覿古そくじゅんあたり隨行ずいこうてきちぎりじん挼剌招得まさ斡列おもね四人投奔西遼。[66]

耶律そくかんあずか丈夫じょうぶてきおとうとおとうとしょうほおただ沙里さり私通しつうはた丈夫じょうぶしょう朵魯貶為東平とうへいおうなみ罪名ざいめいころせ掉。耶律そくかん舉觸いかりょう二人ふたりてき父親ちちおや,也是西にしりょう三朝みささ元老げんろうろくいん大王だいおうしょう斡里剌よし此,しょう斡里剌發動はつどうへいへんりつぐん包圍ほうい皇宮こうぐうようしゃ耶律そくかんしょうほおただ沙里さり。耶律そくかん在位ざいいどもけい14ねん[63]

耶律ちょく魯古時期じきてきおとろえ

編輯へんしゅう

耶律そくかん死後しごひとしそう耶律えびすれつてき次子じし耶律ちょく魯古ざいころせ長兄ちょうけい即位そくい[5]改元かいげんてん[67][68]耶律ちょく魯古在位ざいい期間きかんよいこころ遊獵ゆうりょう娛樂ごらく政務せいむ[69]なみ不斷ふだんこう周邊しゅうへん各國かっこく發動はつどう戰爭せんそう使つかい西にしりょうてきこく力走りきそうこう衰弱すいじゃくちょくいたり滅亡めつぼう[4]

卡特まんこれせんふさがしかはしら帝國ていこくてき勢力せいりょくただしやめけい完全かんぜん退出たいしゅつ河中かわなか地區ちくたいよびてきひかえせい力也りきやにち趨減じゃくよし此,新興しんこうてきなんじ王朝おうちょう逐漸吞併よび珊各なんじ王朝おうちょうただし占領せんりょうりょう原本げんぽんこう西にしりょうおさめみつぎてきともえなんじかえともえかくたち哈里はつてき名義めいぎこう周邊しゅうへん地區ちく擴張かくちょうあずか西にしりょうてきつけいさおこくはな剌子發生はっせい衝突しょうとつはな剌子すなおもねおもねひしげひのと·とう乞失むかい西にしりょうもとめすけ,耶律ちょく魯古大將たいしょうとういにしえりつぐん西にしせい,於1198ねん4がついたり5がつわたりおもね姆河こうよび地區ちくしんへいはな剌子準備じゅんび進攻しんこう赫拉とく西にしりょう軍隊ぐんたい軍紀ぐんきはい壞,ざい進入しんにゅうよび珊後いたしょしょうころせ搶掠,ただしざい夜間やかん遭到りょうなんじ王朝おうちょう及當軍民ぐんみんてき襲擊しゅうげき許多きょたへいざいきょうわたりおもね姆河淹死,此戰西にしりょう損失そんしつ12000にん。耶律ちょく魯古得知とくち戰敗せんぱいてき消息しょうそくだいためふるえおどろき向花むけ剌子使者ししゃさくようまい死者ししゃ1まんかねだいおさめなんじてき損失そんしつただし遭到とう乞失てき拒絕きょぜつなみ且塔乞失げん不遜ふそんさわいかりょう耶律ちょく魯古。耶律ちょく魯古出兵しゅっぺいおさむはな剌子さいつぎ遭到失敗しっぱいはな剌子しんへいいたりぬの哈拉なみいちおさむ該城,ただしひさ撤軍回國かいこく[52]

1203ねんいたり1204ねんなんじ王朝おうちょうはな剌子さいつぎ爆發ばくはつ戰爭せんそうはな剌子すなおもねおもねひしげがらすひのと·訶末むかい西にしりょうもとめ援。耶律ちょく魯古とういにしえりつぐん1まん支援しえん西にし喀喇あせおく斯曼·ほん·えきぼくひしげ派兵はへい參戰さんせんなんじ王朝おうちょうまことしつ哈不ひのと得知とくち消息しょうそくきゅうせわし退すさへいただしざいやすいまおもねとみあせ安德あんとくえびす西にしりょう軍隊ぐんたい包圍ほうい雙方そうほう展開てんかい激戰げきせんなんじ王朝おうちょうゆう5まんにん戰死せんし西にしりょう軍隊ぐんたい損失そんしつむごおもしつ哈不ひのとはいりつりょうざんへいやく100にんはい逃回にげまわやす堡壘ほうるいただし堡壘ほうるいてきしろ牆被西にしりょう軍隊ぐんたい打開だかいいちかけこうざいそくはた俘時,西にし喀喇あせおく斯曼介入かいにゅう斡旋あっせんざいしつ哈不ひのと承諾しょうだく交出だいぞう馬匹ばひつとう物資ぶっし及大りょう贖金西にしりょう釋放しゃくほうりょう。此戰西にしりょう雖然取得しゅとく勝利しょうりただしづけりょう很大てき代價だいか[5]1205ねんなんじ王朝おうちょうてきともえなんじ總督そうとく伊馬いまもりひのと·おう瑪爾りつぐんおさむりょう西にしりょうひかえせいてきたいなんじうめ[52]つぎねんしつ哈不ちょうざい遠征えんせい印度いんどどき刺殺しさつ,此後,なんじ王朝おうちょうはしこうおとろえ落。よし於西りょうなんじ王朝おうちょう大國たいこくりょうはい俱傷,はな剌子したがえちゅうりょうおうとく[5]ため穩住西にしりょう,1206ねんはな剌子すなおもね訶末したがえなんじ王朝おうちょう奪取だっしゅてきたいなんじうめ茲交還きゅう西にしりょう[52]なみよし母親ははおや罕可あつし出面でづら款待かんたいりょう西にしりょうてき使臣ししんうまあい·ふとなみ交了拖欠西にしりょうてき年貢ねんぐ[5],此時西にしりょうたい於花剌子てきひかえせいやめけい式微しきび

ざい西にしせん持續じぞく作戰さくせんてき同時どうじ西にしりょう也並放棄ほうき東征とうせいふくこくけい劃。1185ねんなつ,耶律ちょく魯古使つかい西にしなつ遊說ゆうぜいなつひとしむね同意どうい西にしりょうみち西にしなつゆずる西にしりょう東征とうせいかねあさ恢復かいふくそうたかしむね聞知ぶんち希望きぼうのう藉此機會きかい實現じつげんみなみそうあずか西にしりょう夾擊きょうげきかねあさいん此遣密使みっし進入しんにゅう西にしなつさかい遊說ゆうぜい促成そくせい此事。ゆかり於夏ひとしそう同意どうい耶律ちょく魯古てき請求せいきゅう西にしりょう東征とうせいけい劃作やめ[70][71]

耶律ちょく魯古在位ざいい期間きかん西にしりょういんきゅうへい黷武國力こくりょくおとろえつけいさおこく紛紛ふんぷん擺脫西にしりょうてきひかえせい。1209ねんはるこうあきらかいまたみやこまもるともえ而朮·おもね而忒·てききん不堪ふかん西にしりょうてき統治とうちころせ西にしりょうふとし師僧しそうしょうかんとうもたれりょう新興しんこうてきこうむ帝國ていこく[8]1210ねんはな剌子すなおもねおもねひしげがらすひのと·訶末はた耶律ちょく魯古往花剌子てきおさむ年貢ねんぐてきしょ磔刑たっけい公開こうかい宣布せんぷだつはなれ西にしりょうてきひかえせい[69]西にし喀喇あせあせおく斯曼也因ためこう耶律ちょく魯古てき女兒じょじ求婚きゅうこん遭到拒絕きょぜつたおせ向花むけ剌子[5]1211ねんかずら邏祿おもねしか斯蘭あせとうもたれこうむ帝國ていこく[69]ひがし喀喇あせきよし罕默とくさんせい也起へい反抗はんこう西にしりょうてき統治とうちただし遭到西にしりょう軍隊ぐんたいてき鎮壓ちんあつきよし罕默とくさんせい俘。[5]

西にしりょうてき滅亡めつぼう

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こごめりつこれ乃蠻とうあせ之子ゆきこ。1204ねん,乃蠻こうむ帝國ていこく成吉せいきちおもえあせおさむほろびこごめりつ逃亡とうぼういたり西にしりょう耶律ちょく魯古おさむとめこごめりつ很快いたりょう耶律ちょく魯古てき信任しんにんちょく魯古はた女兒じょじ渾忽公主こうしゅよめきゅうなみ委託いたく處理しょり國事こくじれつにゅうしょう西にしりょうてきつけいさおこく紛紛ふんぷん背叛はいはん西にしりょうこごめりつこう耶律ちょく魯古建議けんぎ自己じこかえしかいみつりつうみ押立おしたていま哈薩かつ斯坦とうしかすすむしか)、べつしつはち等地とうち召集しょうしゅう乃蠻きゅう,幫助耶律ちょく魯古鎮壓ちんあつ叛亂はんらん。耶律ちょく魯古ふうこごめりつためあせなみおくおく很多禮物れいもつしか而,こごめりつざいおさむへん乃蠻きゅう劫掠ごうりゃくりょう西にしりょうななかわ地區ちくなみ同時どうじ使者ししゃ聯絡れんらくはな剌子すなおもね訶末,約定やくじょう雙方そうほうだれさき奪取だっしゅ西にしりょう占有せんゆう它的土地とちずいこごめりつげきはいりょう西にしりょうてき軍隊ぐんたい劫掠ごうりゃくりょう耶律ちょく魯古がらす茲根いくわずいまた進攻しんこう西にしりょう首都しゅととらおもえ斡耳朵ただしざい兀赤耶律ちょく魯古げきはい。於是,こごめりつかえしかいみつりつはかりごとさいつぎ進攻しんこう[5]

1210ねん,耶律ちょく魯古軍隊ぐんたい3まん鎮壓ちんあつ西にし喀喇あせこくてき叛亂はんらんおさむりょう首都しゅと撒馬なんじざい得知とくちこごめりつざい東部とうぶ叛亂はんらんてき消息しょうそく,耶律ちょく魯古きゅうせわしはた軍隊ぐんたい調ちょうかい東部とうぶはな剌子趁機こう撒馬なんじ推進すいしんかい西にし喀喇あせこくてき軍隊ぐんたいこう西にしりょう進攻しんこうれんぐん到達とうたつ西にしりょう大將たいしょうとういにしえ鎮守ちんじゅてき怛羅斯いま哈薩かつ斯坦とうひしげ附近ふきん),とういにしえりつぐん出城でしろ交戰こうせん雙方そうほうぶん勝負しょうぶしか而,とうふるざい撤軍途中とちゅう俘,遭處はな剌子ずい將軍しょうぐんたい撤回てっかい河中かわなか地區ちく[註 12]怛羅斯草原之はらのせんとう敗退はいたいてきへいかえしかい西にしりょう首都しゅととらおもえ斡耳朵時,當地とうちきょみんよし於想投降とうこうはな剌子拒絕きょぜつ入城にゅうじょう西にしりょう軍隊ぐんたいてき統帥とうすいざい勸降かんこうはててき情況じょうきょう下下しもじもれいおさむじょうとらおもえ斡耳朵的きょみん堅守けんしゅ16てん城門じょうもん西にしりょう軍隊ぐんたいようだいぞうおさむやぶ入城にゅうじょう西にしりょう軍隊ぐんたいしょうころせ搶掠さんてん城中じょうちゅうころせてき大名だいみょうしんゆう47000にん[註 13]よしため耶律ちょく魯古てき遭到こごめりつてき劫掠ごうりゃく西にしりょう宰相さいしょううまあい·ふと自己じこてき財產ざいさん耶律ちょく魯古徵收ちょうしゅう,於是建議けんぎ兵士へいしはたざい城中じょうちゅう掠奪りゃくだつてきてき財產ざいさんけんじきゅう耶律ちょく魯古。しか而,這一提議遭到了諸將領的抵制,しるべ致西りょう軍隊ぐんたい大量たいりょう離散りさん[5]

1211ねんあきこごめりつりつぐん8000襲擊しゅうげきりょうただしざい出獵しゅつりょうてき耶律ちょく魯古,なみ竊取せっしゅりょう皇位こういこごめりつみこと耶律ちょく魯古ためふとし上皇じょうこう皇后こうごうため皇太后こうたいごう早晚そうばんといこう們的衣食いしょく起居ききょ。1213ねん,耶律ちょく魯古ざい憤懣ふんまんちゅう死去しきょきょう在位ざいい34ねんしょうりょうまつぬし」。[68]

 
さんさい圖會ずえ》描繪てき西にしりょうちぎりじん形象けいしょう

こごめりつ即位そくい釋放しゃくほうりょうひがし喀喇あせきよし罕默とくさんせいはた其送かい喀什噶爾ただし受當貴族きぞくてき歡迎かんげい入城にゅうじょうとげ於城もんほらちゅうよし於喀什噶しか肯歸こごめりつまい逢秋おさむ時節じせつこごめりつ便びん派兵はへい毀當人的じんてきそう稼。1214ねん當地とうち百姓因為饑荒不得已而歸順。ざい占領せんりょう喀什噶爾こごめりつはた西にしりょう首都しゅと遷往喀什噶爾,なみれいざいごと每戶まいこちゅういち名士めいしへい,這些へい毫無軍紀ぐんきいたしょしょうころせ搶掠。こごめりつ屢次征討せいとうおもねちから麻里まり今新いまじん疆維われなんじ自治じち霍城けん一帶いったいあせ斡匝はて最終さいしゅう趁其出獵しゅつりょうはた其擒ころせ[5]

こごめりつ原本げんぽん信奉しんぽうけいきょうこうざい渾忽公主こうしゅてきすすむせつあらためしん佛教ぶっきょう他用たよう強制きょうせい手段しゅだん強迫きょうはく西にしりょう當地とうちてききよし斯林あらためしん佛教ぶっきょうあるけいきょう穿ほじ戴契人的じんてき服裝ふくそう,這引おこりりょう當地とうち人民じんみんてき強烈きょうれつ不滿ふまんこごめりつ征服せいふく和田わだしたれい召集しょうしゅう當地とうちてき斯蘭きょうおもね討論とうろん教義きょうぎよし於教ちょうおもねおもね剌丁·訶末極力きょくりょく維護斯蘭きょうこごめりついのちじんはた其嚴けい拷打なみ強迫きょうはくあらためきょう訶末したがえこごめりつれいはた其釘清真きよざねてらてき大門おおもんじょう

1218ねんこうむ帝國ていこく成吉せいきちおもえあせあきらべつ曷思むぎさとりつこうむぐん2萬攻打屈出律,こごめりつ聞訊たいりょう隨從ずいじゅうしたがえ喀什噶爾逃跑。[72]こごめりつ逃至ともえいたるかつさんいまおもねとみあせともえいたる赫尚しょう),ざいかわら罕河だに東部とうぶてきいたるひしげ峽谷きょうこく當地とうちりょうつめ交給あきらべつ[73]あきらべつ進入しんにゅう喀什噶爾宣布せんぷ宗教しゅうきょう自由じゆう城中じょうちゅうきょみんたいこごめりつ展開てんかい報復ほうふくだい屠殺とさつ西にしりょうてき軍隊ぐんたい[69]あきらべつはたこごめりつ斬首ざんしゅいのち曷思むぎさと拿著てき首級しゅきゅうでんしめせ押兒牽今新いまじん疆維われなんじ自治じち莎車けん)、斡端今新いまじん疆維われなんじ自治じち和田わだとうじょう城中じょうちゅう將領しょうりょうみなりつ投降とうこう[72]いたり此,西にしりょうためこうむ古所ふるところめつりょうぜっ

後續こうぞく

編輯へんしゅう

西にしりょう滅亡めつぼうはら西にしりょう將領しょうりょうなみ剌黑·哈只ぼくぜんなみてきかつなんじ,於1224ねんざい該地建立こんりゅうりょうかつなんじ曼王あさ。該王あさ個別こべつ學者がくしゃたたえためこう西にしりょう。1306ねん,該王あさかむなんじあせこくところ兼併けんぺい[74]ただし,該王あさ君主くんしゅなみ耶律史書ししょ也並記載きさい君主くんしゅぞくちぎりぞく、該王あさ仍以「りょう為國ためくにごうよし此,おこりなんじ曼王あさなみ史學しがくかい主流しゅりゅう觀點かんてんため西にしりょうてきのべぞく

疆域民族みんぞく

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西にしりょう幅員ふくいんりょう闊,統治とうち區域くいきじょ直轄ちょっかつ領地りょうちがい包括ほうかつ很多いさおこく附屬ふぞく部族ぶぞく西にしりょうてき直轄ちょっかつ領地りょうちとらおもえ斡耳朵ため中心ちゅうしんきたいたる犁河みなみいたるすずなんじかわうえゆう西にしいたる怛羅斯,あずまいたるともえなんじ斯孔いまふさがかつ東南とうなん)。其附いさお國有こくゆう西にし喀喇あせこくひがし喀喇あせこくこうあきらかい鶻和はな剌子附屬ふぞく部族ぶぞく主要しゅようゆう粘拔ねばりぬけおん(乃蠻)、かんさとかずら邏祿

西にしりょうてき疆域ひがしいたりひしげかわ包括ほうかつあつしじょう周圍しゅうい地區ちく。乃蠻かつれつ遷至這一地區ちく西にしりょうてき東部とうぶかい退すさいたりいさおこくこうあきらかい鶻的東部とうぶかい東北とうほくいたりけんかわ與吉よきちしかよし斯為鄰。1175ねんゆかり於粘拔恩(乃蠻きんあさ退すさいたりおもねしか泰山たいざん西北せいほくこしともえなんじ喀什みずうみ包括ほうかつかん里人さとびと活動かつどうてき地區ちく西にしいたり鹹海がらす斯秋なんじ特高とっこうばら卡拉沙漠さばく包括ほうかつはな剌子ざい內;南部なんぶ西段にしだん以阿姆河ためかい先後せんごあずかふさがしかはしら帝國ていこくなんじ王朝おうちょうため鄰。中段ちゅうだん包括ほうかつかわら罕走ろう東段ひがしだん喀喇崑崙山こんろんざん崑崙山こんろんざんおもねしか金山かなやまためかいあずか吐蕃あたまかいせっ壤;東南とうなん包括ほうかつ哈密わかへだたとうかつひしげ瑪干沙漠さばくあずか西にしなつため鄰。[4]

西にしりょうてき主要しゅようじょう鎮有とらおもえ斡耳朵河中かわなか撒馬なんじ)、玉里たまり犍(たまりゅうすぐるあか)、かばはなぬの哈拉)、察赤(とう什干)、なまりあと邗(がらす茲根)、しつ哈兒(喀什噶爾)、斡端(和田わだ)、おもねさとおもねちから麻里まり)、えきはなれ)、唆里迷(焉耆)、哈密りょく哈密)、べつせきべつしつはち)、かずしゅう吐魯ばん)。

淺綠せんりょく部分ぶぶんため西にしりょうかなえもり時期じきてき版圖はんと右側みぎがわきょせん內為耶律大石おおいし早期そうきてき勢力せいりょく範圍はんい

民族みんぞく

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西にしりょう民族みんぞくてき國家こっかゆうしたがえ中國ちゅうごく東北とうほく而來てきちぎりじん漢人かんどかず其他民族みんぞくゆう使用しようなみ斯語てきとうよし克人かつと使用しよう突厥てきかい鶻人ゆうまき民族みんぞくゆうかずら邏祿じんかん里人さとびと、乃蠻じんとうかえゆうしたがえ西にし僑居而來てきおもねひしげはくじんなみ斯人敘利じんなおふとしじんひとし作為さくい少數しょうすう民族みんぞくてきちぎりじん和漢わかんじんあずか當地とうちうらない多數たすうてきかい鶻人、突厥じん長期ちょうきしょうしょつうこん適應てきおうりょう當地とうちてき習俗しゅうぞく,逐漸融合ゆうごう於回鶻或其他突厥民族みんぞくちゅう[75]

西にしりょうてき國家こっか機構きこう採用さいようりょうちょうてき兩面りょうめんせい」,そく政府せいふぶん南北なんぼく兩面りょうめん[76]ていきょてき農業のうぎょう民族みんぞく地區ちく管理かんり設置せっちしゅうけん中央ちゅうおうしつらえ南面なんめんちょうかん總理そうり軍政ぐんせい事務じむ流動的りゅうどうてき畜牧民族みんぞく,以部ぞくため行政ぎょうせい單位たんいしつらえかん統治とうち中央ちゅうおうしつらえ北面ほくめんちょうかん總領そうりょう部族ぶぞく軍政ぐんせい事務じむじょ直轄ちょっかつ領地りょうちがい西にしりょうようゆう很多いさおこく西にしりょう保留ほりゅうりょう這些いさおこくてき獨立どくりつ制度せいどゆずる它們享有きょうゆう很大てき自立じりつけん西にしりょうざいいさおこく基本きほんちゅう紮軍たいただおういさおこく要求ようきゅう,幫助其鎮あつこく叛亂はんらん西にしりょう發給はっきゅう們一塊銀牌作為歸順的標誌。西にしりょう根據こんきょ這些國家こっかてき重要じゅうようせい忠誠ちゅうせい程度ていど採取さいしゅりょう不同ふどうてき管理かんり政策せいさく:如完ぜん自治じちてきぬの哈拉ぬのなんじ罕王あさ[註 14]すなくろおさめせめかんこくてきしょうかん常駐じょうちゅう首府しゅふ監察かんさつ軍政ぐんせいてきひがし西にし喀喇あせこくこうあきらかい鶻;官員かんいん按時了解りょうかい情況じょうきょうおさむ年貢ねんぐてきはな剌子[4]かえゆうしんぞく於西りょうてきゆうまき部落ぶらくかずら邏祿乃蠻;其中西にし喀喇あせ乃蠻とうざい西にしりょう統治とうち中期ちゅうき叛去。

此外,西にしりょうざい直轄ちょっかつ地區ちく實行じっこう中央ちゅうおう集權しゅうけんせい禁止きんし分封ぶんぽう土地とち平日へいじつゆずるぐんかんしゅにぎ超過ちょうか100にん),[52]ただしざいいさおこく保留ほりゅうりょう封建ほうけんさい邑制かつとう);[3]けい徭薄おさむ土地とちぜいただこう每戶まいこおさむ1個いっこだいおさめなんじてき[52]宗教しゅうきょう開放かいほう信仰しんこう自由じゆうたいいさおこく採取さいしゅ羈縻てき政策せいさく[4]

經濟けいざい

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直轄ちょっかつ地區ちく

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りょうひとしそう時期じき鑄造ちゅうぞうてき年號ねんごうぜにぞくきょうもとたから

西にしりょう統治とうちてき直轄ちょっかつ地區ちくずいちょ經濟けいざいてき發展はってんしろ鎮的數量すうりょう規模きぼいただい規模きぼてき發展はってんよりどころ統計とうけい,僅犁河谷地やちざい12世紀せいきじょう鎮數就達いた56[77]はらゆうてきしろ鎮除とらおもえ斡耳朵外,如怛斯、がらす茲根、なまりこたえこん哈薩かつ斯坦姆肯とくおもねかみなり斯河かずすずなんじかわ交匯しょとう規模きぼいたなるばいてき擴大かくだい。七河及附近地區灌溉系統發達,當地とうちきょみん使用しようてつ鏵木犁和砍土鏝耕作こうさく使用しよう鐮刀おさむわり西にしりょうてき農業のうぎょう僅有穀物こくもつしゅうえかえゆう園藝えんげいぎょう棉花めんかしゅうえ養蠶ようさんぎょう,這些ぎょうぎょうまたおびどうりょう糧食りょうしょく加工かこうぎょう葡萄ぶどう釀酒ぎょうてき發展はってん。此外,畜牧ぎょう狩獵しゅりょうぎょう也在西にしりょう直轄ちょっかつ地區ちく占有せんゆう重要じゅうようてき地位ちい[4]

西にしりょう直轄ちょっかつ地區ちくてき手工業しゅこうぎょう主要しゅよう以制すえぎょう玻璃はり製造せいぞうぎょう、礦冶ぎょう製鐵せいてつぎょう銅器どうき製造せいぞうぎょうせきりょう加工かこうぎょうためぬし貿易ぼうえきてき貨物かもつ主要しゅようきんそうてきおんなやつ玩、いと綢和しろ氈等;ちゅう西にしてきたまたからたま香料こうりょうとう[3]此外,西にしりょうてき直轄ちょっかつ地區ちく存在そんざい奴隸どれい貿易ぼうえき奴隸どれい主要しゅようげん北方ほっぽうゆうまき部落ぶらく特別とくべつ欽察じん),うん往河中和ちゅうわ西にし地區ちく充當じゅうとう馬木うまきかつ[4]

西にしりょう曾按中國ちゅうごく內地ぜにぬさてき形式けいしき鑄造ちゅうぞう自己じこてきぜにぬさ,如《古泉こいずみちゅう記錄きろくてきかんこく通寶つうほう[35]耶律えびすれつ時期じきてきぞくきょうもとたから[78]耶律ちょく魯古時期じきてきてんもとたから[67]一說蕭塔不煙時期還鑄有「かん天元てんげんたから」,[79]しか未見みけん其實ぶつ,21世紀せいき以來いらいてき研究けんきゅうみとめため其屬錯誤さくごてき判定はんていはたこしみなみちょうてんかんもとたからぜに誤讀ごどく[78]ただし西にしりょう始終しじゅう統一とういつ貨幣かへいはら喀喇あせこくてき貨幣かへい仍被繼續けいぞく使用しよう鑄造ちゅうぞう稅收ぜいしゅう以金だいおさめなんじため計算けいさん單位たんい[3]

つけいさおこく

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よし於西りょうたいいさおこくてき經濟けいざい很少あずかつけいさおこくてき經濟けいざい水平すいへいようだか於西りょうてき直轄ちょっかつ地區ちくざい河中かわなか地區ちく、喀什噶爾、和田わだ地區ちくだかあきらかい鶻都ゆう發達はったつてき農業のうぎょう,畜牧ぎょう狩獵しゅりょうぎょうさかなぎょう也是主要しゅようぎょうぎょう

西にしりょうつけいさおこくてき手工業しゅこうぎょう主要しゅよう有河あるが中地なかじ、喀什噶爾和田わだ地區ちくてき玻璃はり製造せいぞうぎょう;喀喇あせこくてきせいすえぎょう金屬きんぞくせい作業さぎょうみやつこぎょうづくりぎょうだかあきらかい鶻的みやつこぎょうきんぎょう、礦業、冶煉ぎょう製藥せいやくぎょう香料こうりょうせい作業さぎょう。喀喇あせこくだかあきらかい鶻位於中西にし交通こうつうてきようどうあずか東方とうほうてきそうきむ西方せいほうてき印度いんどおもねとみあせ以及西にしきたかずひがし南歐なんおうゆう貿易ぼうえき關係かんけい[4]

西にしりょうつけいさおこくてき經濟けいざい以河ちゅう地區ちくてき撒馬しか和布わかめ哈拉さいため發達はったつ,其他城市じょうし包括ほうかつ喀喇あせこくてき察赤、ゆるがせ氈等;だかあきらかい鶻的喀什噶爾、斡端、べつしつはち哈密りょく今新いまじん疆維われなんじ自治じち哈密)、唆里みつ今新いまじん疆維われなんじ自治じち焉耆かいぞく自治じちけん)、おおせよしともみさと今新いまじん疆維われなんじ自治じち瑪納斯縣とう[3]

せき於西りょうてき軍事ぐんじ制度せいど史料しりょうしょうゆう記載きさい西にしりょうてき軍隊ぐんたいちゅう騎兵きへい主要しゅよう兵種へいしゅ後期こうきゆう西にしりょう軍隊ぐんたい使用しようぞうへい作戰さくせんてき記載きさい[3]ため防止ぼうし軍隊ぐんたい叛亂はんらん,耶律大石おおいし禁止きんし將軍しょうぐん直接ちょくせつひかえせい100以上いじょうてき軍隊ぐんたい[52]軍隊ぐんたいみやこゆかり朝廷ちょうてい直接ちょくせつひかえせいただざい戰爭せんそう期間きかん臨時りんじ調ちょう若干じゃっかんへいきゅうぼう將軍しょうぐん指揮しき[4]西にしりょうげんせいやめていきょてきゆうまき民族みんぞく攜帶武器ぶき參與さんよ戰爭せんそう[35]西にしりょうてき軍隊ぐんたいざい對外たいがい擴張かくちょう守衛しゅえい邊疆へんきょう鎮壓ちんあつ叛亂はんらん維護西にしりょう統治とうちとう方面ほうめんおこりいたりょう重要じゅうようてき作用さよう西にしりょうてきつけいさおこく也擁ゆう各自かくじてき軍隊ぐんたいせめ維護治安ちあん維持いじ國家こっか統治とうちつけいさおこくてき軍隊ぐんたいゆう協同きょうどう西にしりょう作戰さくせんゆう受西りょうてき調しらべ執行しっこう任務にんむただしゆう也與西にしりょう直接ちょくせつ對抗たいこう[4]

文化ぶんか宗教しゅうきょう

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西にしりょう統治とうち的中てきちゅう文化ぶんかてき顯著けんちょとくてん就是東西とうざいかた文化ぶんか交流こうりゅう融合ゆうごうてききょう西にしりょうかんかた使用しよう漢語かんごちぎり和波わなみ斯語,民間みんかん使用しよう突厥かく民族みんぞくざい相互そうご交流こうりゅうてき過程かていちゅう學習がくしゅう不同ふどう民族みんぞくてきげん促進そくしんりょう文化ぶんかてき融合ゆうごう西にしりょう時期じきゆかり於受阿ひしげはく文化ぶんかてき影響えいきょうはららい使用しようてきかい鶻文字母じぼ,逐漸おもねひしげはく字母じぼところ代替だいたい。這一時期西遼的突厥語部族誕生了多位有影響力的詩人,如おもね赫馬とく·ふさがおもね赫馬とく·ほん·赫穆とく·だまかつ乃克おもねうまかつ·ぬの哈拉扎尼·撒馬なんじ罕迪ひとし[4]

西にしりょう統治とうち時期じきかん文化ぶんか在中ざいちゅう地區ちくいたりょうこう泛的傳播でんぱ西にしりょうてき君主くんしゅ使用しよう漢文かんぶん年號ねんごうびょうごうかんかたげん使用しよう漢語かんご[80]ざい行政ぎょうせい軍事ぐんじぜい生產せいさん技術ぎじゅつ建築けんちく藝術げいじゅつ宗教しゅうきょう信仰しんこう生活せいかつ習俗しゅうぞく方面ほうめん漢文かんぶんしたがえ多方面たほうめん影響えいきょうちょ當時とうじ的中てきちゅう地區ちく[4]

宗教しゅうきょう

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じょこごめりつ統治とうち時期じき以外いがい西にしりょう始終しじゅう奉行ぶぎょう宗教しゅうきょう自由じゆうてき政策せいさく改變かいへんりょう過去かこ喀喇あせこく法定ほうてい國教こっきょうため斯蘭きょうてき政策せいさくよし此,佛教ぶっきょう斯蘭きょうけいきょう薩滿きょうあまきょうなおふとしきょうざい西にしりょういたりょう很大てき發展はってん[3]

建築けんちく藝術げいじゅつ

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くらい於吉しかよし斯斯ひろしてき西にしりょう城市じょうしとらおもえ斡耳朵、斯萊けん卡鎮れつべつだくおっと卡鎮れき山大やまだい古城こじょう發現はつげんりょう西にしりょう時期じきてきみんよう建築けんちくのこざい建築けんちく裝飾そうしょく方面ほうめん體現たいげんりょうかんぞく藝術げいじゅつ和漢わかん文化ぶんかあずかちゅう文化ぶんか融合ゆうごうてきとくてん,如瓦、どろ塑和だん炕等。廟宇びょうう中有ちゅううかんぞく風格ふうかくてき繪畫かいが裝飾そうしょく牆壁しょうへき佛像ぶつぞうただし有漢うかんぞく藝術げいじゅつてき模型もけいかえけん古代こだい印度いんど藝術げいじゅつてきとくてん[81]此外,於托かつうまかつ附近ふきんてきぬの蘭塔らんとうかずがらす茲根てきりょう大型おおがた斯蘭陵墓りょうぼみやこただしいたりこん保存ほぞんかんこのみてき西にしりょう時期じきてき斯蘭建築けんちく[82]這一時期河中地區的園林藝術也獲得了高度的發展,耶律すわえざいおかしょうつしりょうしょう讚美さんび當地とうちえんりん藝術げいじゅつてき詩歌しか[3]

君主くんしゅれつひょう

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  生前せいぜん在位ざいいてき西にしりょう皇帝こうていとも4
  生前せいぜん攝政せっしょうてき西にしりょうおんなぬしとも2
西にしりょう君主くんしゅあずか年號ねんごう
肖像しょうぞう びょうごう 謚號 尊號そんごう 姓名せいめい 在世ざいせい時間じかん 年號ねんごう 在位ざいい時間じかん
嗣元皇帝こうてい[83] 耶律めい不詳ふしょう ?-?
とくむね[84] 天祐てんゆう皇帝こうてい[83] 耶律大石おおいし 1087ねん1143ねん のべけい 1132ねん1143ねん
きくあせ[83] かんこく
かん天皇てんのうきさき[85] しょうとうけむり ?-1150ねん 咸清 1143ねん1150ねん
じんむね[85] 耶律えびすれつ ?-1163ねん ぞくきょう 1150ねん1163ねん
うけたまわてんふとしきさき[86] 耶律そくかん ?-1177ねん たかしぶく 1163ねん1177ねん
耶律ちょく魯古 ?-1213ねん てん 1177ねん1211ねん
こごめりつ ?-1218ねん 1211ねん1218ねん

相關そうかん條目じょうもく

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注釋ちゅうしゃく

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  1. ^ 嚴格げんかく意義いぎじょう1211ねんこごめりつ篡國おうため西にしりょう結束けっそくてきしるべこごめりつ篡國なみあらため國號こくごうじょ宗教しゅうきょう政策せいさくがいあずか西にしりょう時期じき政治せいじ措施しょうどうなみ且其ため耶律ちょく魯古てき女婿じょせい執政しっせいてき7ねん可視かしため西にしりょうてきのべぞく[2]
  2. ^ せき於可あつしじょうてき位置いちもとはつてきちょういさお輝和てるかずおかしょざいばくきた發現はつげんりょういくちぎりたん古城こじょうただし究竟きゅうきょう哪座あつしじょう史學しがく觀點かんてん不一ふいつひねとくしば根據こんきょれん考古こうこ資料しりょう參照さんしょう漢文かんぶん文獻ぶんけんとく結論けつろんひしげかわしたゆう南側みなみがわてきあおたくぶた古城こじょうしゅうやくろく這一代遼代城址最大的。のこ中有ちゅうう大量たいりょうりょうかわらうつわさら,且尚ゆう一座いちざ根據こんきょ這座古城こじょうてき方位ほうい規制きせい遺物いぶつ判斷はんだんおうりょうだい鎮州あつしじょうよし宗安むねやすしょちょ西にしりょう史論しろん·耶律大石おおいし研究けんきゅうだい55ぺーじ[3]
  3. ^ gur-khanあるkur-khan,またわけさくいにしえあせかずらあせかずら罕、噶兒あせためだいあせあるあせちゅうあせ[4]また根據こんきょ突厥翻譯ほんやくため普天ふてんてき英雄えいゆうてきかず光榮みつえてきあせ[5]
  4. ^ 三朝みささきためいかいへんかずちぎりこくこころざしひとし記載きさいためつばめおう[19][20]
  5. ^ せき於耶りつ大石おおいしざいかね營中てき生活せいかつ,《ちぎりこくこころざしちゅう記載きさい耶律大石おおいし投降とうこうきんあさあずかねば不和ふわねば罕想ころせ掉耶りつ大石おおいし,耶律大石おおいしたいちょ五個兒子夜間逃脫,ただし妻子さいしとめざいかね營中。ねば罕將耶律大石おおいしてき妻子さいしたまものきゅう部落ぶらくちゅう地位ちい最低さいてい賤的じんただしてき妻子さいしけんさだ不屈ふくつ最後さいごねば射殺しゃさつ[31]そうだい學者がくしゃしんでんざいきゅう聞誤しょうちゅう質疑しつぎ這段材料ざいりょうてき真實しんじつせいとうちょう孺在《耶律大石おおいし年譜ねんぷ中指なかゆび耶律大石おおいししたがえ投降とうこうきんあさてき意向いこう所以ゆえん此段材料ざいりょう不可ふかしょちょ西にしりょう研究けんきゅうだい59ぺーじ[4]
  6. ^ せき於耶りつ大石おおいし出奔しゅっぽん隨行ずいこうてき人數にんずうこころざしあまてき世界せかい征服せいふくしゃだい417ぺーじゆうりょうたね不同ふどうてき記載きさい,80めい家人かじん部下ぶかあるごく其龐だいてきぞく[5]而《西にしりょうだい62ぺーじそく記載きさいため60めい隨從ずいじゅう[14]とくおっと、馮家ますあいちょてき中國ちゅうごく社會しゃかいりょうだい631ぺーじみとめため如果しょう80にん作為さくい耶律大石おおいしてきおやしんじまいひとさいおびじょう們的隨從ずいじゅう總數そうすうそく接近せっきん200にん[35]
  7. ^ いんりょう·まきさんじゅう·てん皇帝こうていよんたい耶律大石おおいししょうみかど一事描述有誤,所以ゆえん耶律大石おおいししょうみかど時間じかん存在そんざい爭議そうぎゆう1125ねん、1126ねん、1131ねん、1132ねん多種たしゅ說法せっぽう。按耶りつだい石西いしにしただし開始かいし於1130ねんはる,這被學界がっかい普遍ふへん接受せつじゅりょう弢認ため耶律大石おおいしよう完成かんせい征戰せいせん、招撫ことぞくじゅうけんみつりつ三件事需要耗費兩年時間,所以ゆえんしょうみかど時間じかんざい1132較為恰當,しょちょ西にしりょう研究けんきゅうだい41ぺーじいたり42ぺーじ[4]
  8. ^ 一說蕭塔不煙與昭德皇后蕭氏為同一人,[49]ただし也有やゆう觀點かんてんみとめためしゃなみどう一人ひとり[50]
  9. ^ せき於卡とくまんこれせん雙方そうほう參戰さんせんてき人數にんずう斯蘭史料しりょう方面ほうめんしょ提供ていきょうてき雙方そうほう人數にんずう比例ひれいゆう1:3(10まんたい30まんある1:10(7まんたい70まん),強調きょうちょう西にしりょう軍隊ぐんたい數量すうりょうしょ優勢ゆうせいほん·もぐさ西にしなんじ記載きさい西にしりょうれんぐんちゅう包括ほうかつ3まんいたり5まんめいかずら邏祿騎兵きへい部分ぶぶん斯蘭史料しりょう記載きさい雙方そうほう兵力へいりょく對等たいとう。《りょう·まきさんじゅう·てん皇帝こうていよん記載きさい西にしりょう左右さゆうつばさかく2500にん推測すいそくちゅうぐん數量すうりょうため1まんいたり2まんにん[55]按《りょうちゅう耶律大石おおいしてき派兵はへい數量すうりょう和戰わせんぜんくんさとし西にしりょう軍隊ぐんたいてき數量すうりょうおうとおしょう於桑賈爾てき10まんれんぐん[4]
  10. ^ せき於卡とく萬之戰中塞爾柱帝國聯軍的陣亡人數,ほん·もぐさ西にしなんじてきちょんふみちゅう記載きさいため10まんにんころせ,其中有ちゅうう12000めい戴頭はばしゃ斯蘭教法きょうほうがく4000めい婦女ふじょ[52]ともえたくしかとくみとめためふさがしかはしら帝國ていこくれん軍陣ぐんじんほろび3まんにん[1]一般認為陣亡人數在11000いたり10まんこれあいだ[55]
  11. ^ せき於耶りつえびすれつ時期じき這次人口じんこうひろし查,とくおっと馮家ますみとめため84500這個數字すうじ西にしりょう首都しゅととらおもえ斡耳朵內畿能夠為軍隊ぐんたい徭役服務ふくむてき18さい以上いじょう成年せいねん男子だんしてき戶數こすう、馮所ちょ中國ちゅうごく社會しゃかいりょうだい643ぺーじだい659ぺーじ[35]
  12. ^ せき於這じょう戰爭せんそうこころざしあまてき世界せかい征服せいふくしゃ中有ちゅううりょうたね不同ふどうてき記載きさいかえゆう一種いっしゅ記載きさいざい1210ねん西にしりょうあずかはな剌子ぐん交戰こうせん於伊ひしげまい草原そうげんはな剌子てき宗教しゅうきょう人士じんし鼓動こどう戰士せんし發動はつどう聖戰せいせん西にしりょうぐん戰敗せんぱいとうふる俘。こころざしあましょちょ世界せかい征服せいふくしゃだい401ぺーじいたりだい404ぺーじ[5]
  13. ^ りょう弢認ため這個數字すうじ於誇だいしょちょ西にしりょう研究けんきゅうだい112ぺーじ[4]
  14. ^ 12世紀せいき前期ぜんき於布哈拉てき獨立どくりつ政體せいたい名義めいぎじょう西にし喀喇あせこくてきつけいさお實際じっさい一個貴族城邦共和國。[1]

參考さんこう文獻ぶんけん

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  3. ^ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 3.8 よし宗安むねやす. 《西にし辽史论·耶律大石おおいし研究けんきゅう》. 烏魯木齊うるむち解放かいほうみなみ348ごう: しん人民じんみん出版しゅっぱんしゃ. 1996ねん8がつ: だい55ぺーじだい80ぺーじいたりだい81ぺーじだい91ぺーじだい97ぺーじいたりだい103ぺーじだい111ぺーじだい118ぺーじだい120ぺーじいたりだい124ぺーじだい141ぺーじ. ISBN 7228039904. 
  4. ^ 4.00 4.01 4.02 4.03 4.04 4.05 4.06 4.07 4.08 4.09 4.10 4.11 4.12 4.13 4.14 4.15 4.16 4.17 4.18 りょう弢. 《西にし辽史研究けんきゅう》. 銀川ぎんかわ解放かいほう西にしがい105ごう: やすしなつ人民じんみん出版しゅっぱんしゃ. 1987ねん11月: だい39ぺーじいたりだい190ぺーじ. ISBN 7227000443. 
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  10. ^ そうしゅう必大.《しゅうえき公文こうぶんしゅう·まきいちよんはち》.
  11. ^ なえじゅんはく,《<りょう>さがせげんだいきゅうしょう西にしりょう事跡じせき」,中華ちゅうかしょきょく,2020ねん6がつだい345-346ぺーじISBN 9787101144215
  12. ^ なえじゅんはく,《<りょう>さがせげんだいきゅうしょう西にしりょう事跡じせき」,中華ちゅうかしょきょく,2020ねん6がつだい325ぺーじISBN 9787101144215
  13. ^ Michal Biran. The Empire of the Qara Khitai in Eurasian History: Between China and the Islamic World. Cambridge University Press. 2005: 95. ISBN 0521842263. 
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  15. ^ りょう弢. 《喀拉あせ王朝おうちょう稿こう》. 烏魯木齊うるむち解放かいほう306ごう: しん人民じんみん出版しゅっぱんしゃ. 1986ねん1がつ: だい52ぺーじ. 
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  18. ^ りょう·まきさんじゅう·てん皇帝こうていよん》:耶律大石おおいししゃせいごうため西にしりょう大石おおいし重德しげのりふとしはちだいまご也。つうりょう漢字かんじぜん騎射きしゃのぼりたかしけいねん進士しんしだい,擢翰りんおうたてまつひろますうけたまわむねりょう以翰りんためりんきばしょう大石おおいしりんきばれきたい祥二しょうじしゅう刺史ししりょうきょうぐん節度せつど使
  19. ^ 19.0 19.1 三朝みささきためいかいへん·まききゅう》:新城しんじょう主將しゅしょうよんぐん大王だいおうしょうふとし大石おおいしりんきば以燕おうあつしびょうさき併入つばめゆいはかりごとさくたてしょう
  20. ^ ちぎりこくこころざし·まきじゅういち·てん皇帝こうていちゅう》:つばめおう大石おおいしりんきばりょう一千五百餘騎屯涿州新城。
  21. ^ りょう·まきじゅうきゅう·てん皇帝こうていさん》:(だいねんはる正月しょうがつおつきむかつ中京ちゅうきょうしん下澤しもさわしゅう上出かみできょいさおせきいたり鴛鴦えんおう濼…さんがつからしとり上聞じょうぶんきんはたみね西にしとげ趨白すい濼…へいとらうえいたるおんな底倉そこくら。聞金へいはたちかけい不知ふち所出しょしゅつじょうけいいれ夾山…ところゆたか聞上にゅう夾山,數日すうじつ命令めいれい不通ふつうそくあずかおとうとしょのうそとかり怨軍,內結みやこみつるしょうはかりごとりつじゅんとげあずかしょ大臣だいじん耶律大石おおいしひだりくわだてゆみおそれなかぶん、曹勇よしかんこう弼集しげるかん百官ひゃっかんしょぐん父老ふろうすうまんにんまいあつし
  22. ^ 三朝みささきためいかいへん·まきなな》。
  23. ^ 三朝みささきためいかいへん·まきじゅういち》。
  24. ^ りょう·まきじゅうきゅう·てん皇帝こうていさん》:やめ而淳,眾乃りつ其妻しょうため皇太后こうたいごうおもぐん國事こくじたてまつ遺命いめいむかいたててん次子じしはたおうじょうためみかどふとしきさきとげしょうせい改元かいげんとくきょう
  25. ^ ちぎりこくこころざし·まきじゅう·てん皇帝こうてい》:だいさんねんはる正月しょうがつ金主きんしゅ入居にゅうきょいさおせき,晡時いたつばめしょう聞居いさおせきしつもりよるりつしょう及車ちょう出城でしろこえごとむかえてきじつよく出奔しゅっぽんりょうぐんしたがえりんきばはさみしょう以歸てん祚於夾山…耶律大石おおいしりんきばりょうへいななせんいた夾山。てん祚命ころせしょう並外なみはずれおいつね哥,あまりめんほんざい
  26. ^ りょう·まきさんじゅう·てん皇帝こうていよん》:及金へいいたりしょうとくてん祚。てん祚怒誅德而責大石おおいし曰:「わがざいなんじなん敢立あつし?」たい曰:「陛下へいか全國ぜんこくいきおい不能ふのういちこばめてき,棄國遠くにとお遁,使つかいはじむみん塗炭とたんそくたてじゅうじゅんみなふとし子孫しそんあにかち乞命於他人たにん耶?」じょう以答,たまもの酒食しゅしょく,赦其ざい
  27. ^ かね·まき·ふと本紀ほんぎ》:(てんななねんみずのえたつふくしょ於宋。はついれつばめりょうへいふくはんたてまつせいしゅうはやしきばだい石壁いしかべりゅう門東もんとうじゅうさとみやこみつる斡魯聞之,あきらりつ、婁室、うま和尚おしょうとうりつへい討之,なま大石おおいし,悉降其眾。
  28. ^ かね·まきいちひゃくじゅういち·ねばわりかんやつ列傳れつでん》:はつふとし入居にゅうきょいさおせきりょうはやしきば耶律大石おおいし北口きたぐちほろび,以其眾來襲らいしゅうたてまつせいしゅうかべ於龍門東もんとうじゅう,婁室往取大石おおいしなみくだ其眾。そうのぞむかさねりょうしゅ輜重しちょう於青冢,以大せきためきょうしるべ
  29. ^ かね·まきななじゅうよん·そうのぞむ列傳れつでん》:そうのぞむあずかとううみ四騎以繩系遼都統林牙大石,使つかいためきょうみちびけちょくいたりりょうしゅ營。ときりょうしゅ往應しゅう,其嬪しょおんなてきへい奄至おどろき駭欲奔,いのちこれゆうごろこうぐんいたりりょうふとし叔胡かわら國王こくおうこねさとりょうかん夫人ふじんなみ其子しんおうもとおうおんなこつよく余里より衍、斡里衍、だい奧野おくのつぎ奧野おくのちょう王妃おうひ斡里衍,招討迪ろくしょうろくきん節度せつど使孛迭、あかいぬみなくだとくしゃまんじょう
  30. ^ りょう·まきじゅうきゅう·てん皇帝こうていさん》:(だいさんねんつちのえいぬかねへいかこえ輜重しちょう於青冢,かた寨太とくはは哥竊はりおうみやびさと以遁,しんおうもとおうしょ公主こうしゅしたがえしんみな陷沒かんぼつ
  31. ^ ちぎりこくこころざし·まきじゅうきゅう·だいでん》:だいじつすんでくだじょしんあずかだい酋粘罕為そうりくおどけそうどうしょう忿,ねば罕心よくころせ而口不言ふげんだいじつ懼。及既ちょうそく棄其つま,攜よい遁。つめだんねば罕怪其日だか使つかい召之,其妻曰:「昨夕さくゆう以酒忤大人おとなかしこざい而竄。」詢其しょ以告。ねば罕大いか,以配部落ぶらくさい賤者。つま肯屈,つよこれごくくち嫚罵,とげ射殺しゃさつ
  32. ^ りょう·まきじゅうきゅう·てん皇帝こうていさん》:(だいさんねんあききゅうがつ,耶律大石おおいしかねらい
  33. ^ かえりせんこころざし·まきじゅうさん》引《きた使》:むかし大石おおいしりんきばりょうぞく也,ふとしあい其俊べんたまものつま,而陰蓄異こころざしよししたがえ西にしせい,挈其孥亡入山にゅうざん
  34. ^ ちぎりこくこころざし·まきじゅう·てん皇帝こうてい》:あきてん祚得耶律大石おおいしりんきばへいまたとくかげ山室やまむろ韋毛割石わりいしへいいい天助てんじょ中興ちゅうこうさいはかりごと出兵しゅっぺいおさむふくつばめくも大石おおいしりんきばりょく諫曰:「かねじんはつおちい長春ちょうしゅんりょうりょうみちのりしゃ不幸ふこう廣平ひろへい甸,而都中京ちゅうきょう;及陷上京じょうきょうすなわちつばめさん;及陷中京ちゅうきょう則幸のりゆきくもちゅう;及破くもちゅうすなわち夾山。こう以全はかりごと戰備せんび,以至舉國かんみなためきんじん所有しょゆうこん國勢こくせい微弱びじゃくいたり此而りょくもとめせんとくけい也。とうやしなえへいまち而動,不可ふかけい舉。」てん祚斥而不したがえ
  35. ^ 35.0 35.1 35.2 35.3 とくおっと; 馮家ます. 《中国ちゅうごく社会しゃかい—辽》. じょう: じょう. 1944ねん: だい631ぺーじだい643ぺーじだい644ぺーじだい659ぺーじだい664ぺーじ 英語えいご. 
  36. ^ 36.0 36.1 36.2 りょう·まきさんじゅう·てん皇帝こうていよん》:大石おおいしやすとげころせしょうおつ薛、坡里くく自立じりつためおうりつ鐵騎てっきひゃくよい遁。きたぎょうさんにち黑水くろみずしろたちたちしょう穩床いにしえゆかいにしえけんじよんひゃく,駝じゅうひつじ若干じゃっかん西にしいたりあつしじょうちゅうきたにわみやこまもるかい威武いぶたかしとくかいしげるしん大林おおばやしむらさきかわ、駝等七州及大黃室韋、てき剌、おうおさむ剌、ちゃあか剌、也喜、はな古德ことくあま剌、いたる剌乖、いたるみつさとみつごうぬしがらす古里ふるさと、阻蔔、ひろしそくかん唐古からこゆるがせははおもえ、奚的、糾而畢じゅうはちおう眾,さとし曰「わが祖宗そそう艱難かんなん創業そうぎょう歷世れきせいきゅうぬし歷年れきねんひゃくきむ以臣ぞく,逼我國家こっかのこわがはじむ庶,ほふ翦我しゅう邑,使つかいわがてん皇帝こうてい蒙塵もうじん於外,にちよる痛心つうしんやましくびわがいま仗義而西,ほしちからしょしげる,翦我仇敵きゅうてきふくわが疆宇。おもんみなんじ眾亦ゆう軫我國家こっかわが社稷しゃしょくおもえきょうすくい君父くんぷすみせいみん於難しゃ乎?」とげ精兵せいびょうまんあまりおけ官吏かんりたてはいかぶと仗。
  37. ^ ちぎりこくこころざし·まきじゅう·てん皇帝こうてい》:てん祚遂きょうりつしょぐん夾山,したりょうみね天德てんとくぐんひがししょう寧邊にょんびょんくも內等しゅう南下のうげたけしゅうぐうきんじん兀室,せん於奄曷下すい…乃謀奔夏こくけい未決みけつ…而金使婁宿はせ而至,跪於てん祚前曰:「奴婢ぬひ佞,乃以かいかぶとはん皇帝こうていてん有餘ゆうよざい。」よしささげ觴而すすむとげ俘以還。
  38. ^ りょう·まきさんじゅう·地理ちりこころざしいち》:鎮州,けんやすぐん節度せつどほんいにしえあつしじょうみつるじゅう二年皇太妃奏置。せんしょ部族ぶぞくまんたかしたむろぐんせん捍禦しつ韋、はね厥等こく,凡有征討せいとうとく抽移。
  39. ^ ちぎりこくこころざし·まきじゅうはち·だいでん》:りょう御馬おんますうじゅうまんまき於磧がいおんな絕遠ぜつえんこれみなためだいじつ所得しょとく
  40. ^ かね·まきさん·ふとそうおさむてんかいねんじゅうがつつちのえたつ西南せいなん西北せいほくりょうみちけんみやこみつる斡魯ごと:「りょうさち穩撻らい奔,げん耶律大石おおいし自稱じしょうためおうおけ南北なんぼくかんぞくゆうせんまんひきりょう主從しゅうじゅうしゃよんせんゆうまんあまりよく趨天とくちゅうたに。」みことのり曰:「ついかさねりょうぬし,必酌ごとむべ。其討大石おおいしのり俟報。」
  41. ^ かね·まきななじゅうさん·かんがおまれいん列傳れつでん》:まれいんうえ其書,且奏曰:「聞夏使じんやくだい石取山いしとりやま西にしもろぐん,以臣かんなつめい不可ふか信也しんや。」
  42. ^ 三朝みささきためいかいへん·まきじゅうはち》:なつ國之くにゆききたゆうだいりょうてん祚子はりおうあずかはやしきばしょうたいみつるへいじゅうまん榜稱:かねじんみちあずか南朝なんちょう奸臣かんしんゆいやく,毀我むねしゃこん聞南あさ天子てんし悔過へりくだくらい,嗣君ひじりあきら,如能あいげききんじんだてわがむねしゃのり前日ぜんじつはいめいこととうろん也。
  43. ^ けんえん以來いらいけいねん要錄ようろく·まきいちひゃくはちじゅういち》:丁未ていみとしとうひろしうま入金にゅうきんこく,而又どおりこう於達じつはやしきばかねじんそく使つかい問罪もんざいとうひろし
  44. ^ かね·まきいちひゃくじゅういち·ねばわりかんやつ列傳れつでん》:(てんかいななねんたいしゅうみやこみつるばばそう:「大石おおいしやめ北部ほくぶ營,おそれ後難こうなんせい,且近ぐんまきむべれつたむろ戍」…はちねん耶律あまり睹、いしやつ、拔離そく追討ついとう大石おおいし徵兵ちょうへいしょしょしたがえいしやついたり兀納すい而還。
  45. ^ りょう·まきさんじゅう·てん皇帝こうていよん》:明年みょうねんがつかぶとうま,以青うし白馬はくばさい天地てんち祖宗そそうせいたび而西。さき遺書いしょかい鶻王畢勒哥曰:「むかしわがふと皇帝こうていきたせいぼく罕城,そく使つかいいたりあましゅうみことのりなんじがらすははぬし曰:『なんじおもえ故國ここく耶,ちんそくためなんじふくなんじ不能ふのうかえし耶,ちんそくゆうざいちんなおざいなんじ也。』なんじそくひょうしゃ,以為遷國於此,じゅう有餘ゆうよ軍民ぐんみんみな安土あづちじゅう遷,不能ふのうふくかえし矣。あずかなんじこくいちにちこう也。いまわがはた西にしいたり大食たいしょくかりみちなんじこく,其勿致疑。」畢勒哥得しょそくむかいいたるていだいうたげさんにち。臨行,けんじろくひゃく,駝百,ひつじさんせんねがいしつ子孫しそんためいさおおく至境しきょうがい
  46. ^ りょう·まきさんじゅう·てん皇帝こうていよん》:ところてきしゃ勝之かつゆきくだしゃ安之やすゆきへいぎょうまんしゃすうこく駝、うまうしひつじ財物ざいぶつ不可ふかかちけい軍勢ぐんぜいもり銳氣えいきばい
  47. ^ 大金たいきんこくこころざし·まきなな·ふとそう本紀ほんぎ》:(てんかいきゅうねんはる),ねば罕自くもちゅう以燕くもかんぐんおんなしんぐん一萬人付右都監耶律余睹,きたおさむ耶律大石おおいしりんきば、耶律ふついただきりんきば於漠きた曷董じょうあつしじょう)…曷董じょうくもちゅうよし貓兒そうぎん瓮口きたやくさんせんあまりさとつき沙漠さばく無人むじんさかいこれぎょう也,三路之夫死不勝計,しゃうしじゅういちとくかえ
  48. ^ かね·まきさん·ふとそう本紀ほんぎ》:(てんかいきゅうねんきゅうがつおのれとりかずしゅうかい鶻執耶律大石おおいしとう撒八、すすむさと、突迭らいけんじ
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  51. ^ りょう·まきさんじゅう·てん皇帝こうていよん》:(耶律大石おおいし)以甲たつとしがつにち即位そくいねんさんじゅうはちごうかずら罕。ふくじょうかん尊號そんごう曰天皇帝こうてい改元かいげんのべけいつい祖父そふため嗣元皇帝こうてい祖母そぼため宣義のぶよし皇后こうごうさつもとしょうため昭德あきのり皇后こうごう
  52. ^ 52.00 52.01 52.02 52.03 52.04 52.05 52.06 52.07 52.08 52.09 52.10 52.11 れん科學かがくいん. 《よし尔吉斯人和吉かずよし尔吉斯地区ちく历史资料》. 莫斯: れん科學かがくいん. 1973ねん: だいいち輯·だい64ぺーじいたりだい73ぺーじ にわか. 
  53. ^ りょう·まきさんじゅう·てん皇帝こうていよん》:(かん國元くにもとねんさんがつ,以六院司大王蕭斡里剌為兵馬都元帥,てき剌部ぜんどう樞密院すうみついんごとしょう查剌おもねふくこれちゃあか剌部禿かぶろ魯耶りつつばめさんため都部いちぶしょ護衛ごえい耶律てつ哥為かんりつなな萬騎東征以青牛白馬祭天,はた以誓於眾曰:「わがだいりょうふとしふとしそう艱難かんなん而成みかどぎょう,其後嗣こうしくんふけたのしいや國政こくせい盜賊とうぞく蜂起ほうき天下てんかくずしちん率爾そつじ眾,とおいたりさくばくふく大業おおわざ,以光中興ちゅうこう。此非ちんあずかしかきょ。」さるいのち元帥げんすい斡里剌曰:「こんなんじ其往,信賞必罰しんしょうひつばつあずか士卒しそつどう甘苦かんくぜん水草みずくさ以立營,りょうてき而進,毋自わざわいはい也。」ぎょうまんあまりさと所得しょとく牛馬ぎゅうば,勒兵而還。大石おおいし曰:「すめらぎてんどるじゅん數也かずや!」
  54. ^ 三朝みささきためいかいへん·まきいちひゃくななじゅうはち》:はやしきばへいゆるがせしか猖獗しょうけつおかせ陛下へいかようしん出師すいしにんしん受命じゅめいよく謁駑どんちからつきあさつたなこれはかりごと以狂ちまた。耶律潛伏せんぷくすなとうふくはん交攻凡さん晝夜ちゅうや,其勝負しょうぶひつじぶんなおためせん。奈杜まことかてそうやめだん人馬じんば凍死とうしはやしきばへいわが深入ふかいりじゅうぜんきこりまたかてだん所以ゆえん王師おうししつまた副將ふくしょうがい得心とくしんせい反逆はんぎゃく背負せおい朝廷ちょうていそととくはんゆう由也よしや
  55. ^ 55.0 55.1 Michal Biran. 《The Empire of the Qara Khitai in Eurasian History: Between China and the Islamic World》. New York: Cambridge University Press. 2005ねん: だい43ぺーじいたりだい44ぺーじ. ISBN 9780521842266. 
  56. ^ 56.0 56.1 56.2 りょう·まきさんじゅう·てん皇帝こうていよん》:(耶律大石おおいしいたりひろおもえ西域せいいき諸國しょこく舉兵じゅうまんごうゆるがせ珊,らいこばめせんりょうぐんしょうもちさともとさとし將士しょうし曰:「かれぐん雖多而無謀むぼうおさむのり首尾しゅびすくえわが必勝ひっしょう。」六院司大王蕭斡里剌、招討副使ふくし耶律松山まつやまとう將兵しょうへいせんひゃくおさむ其右;樞密すうみつ副使ふくししょう剌阿、招討使耶律じゅつ薛等將兵しょうへいせんひゃくおさむ其左;以眾おさむ其中。三軍さんぐん俱進,ゆるがせ大敗たいはい,殭屍すうじゅうさとちゅうぐんひろおもえ凡九じゅうにちまた西にしいたりおこり漫…かんこくじゅうねん歿,在位ざいいじゅうねんびょうごうとくむね
  57. ^ がらす茲別かつ維埃社會しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく科學かがくいん歷史れきししょ. 《乌兹别克苏维ほこり社会しゃかいぬし义共和国わこく》. とう什干: がらす茲別かつ維埃社會しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく. 1955ねん: だいいちかん·だい273ぺーじ にわか. 
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  60. ^ 60.0 60.1 かね·まきいちひゃくじゅういち·ねばわりかんやつ列傳れつでん》:いん曰:「往年おうねん大國たいこく嘗遣ねばわりかんやつかずしゅう往使大石おおいしすんでにゅう其境,大石おおいしかたてきあずかかんやつしょうぐうもんかんやつ何人なんにん敢不下馬げばかんやつ曰:' わがうえこく使也,奉天ほうてんめいじらい招汝くだなんじとう下馬げば聽詔。'大石おおいし曰:'なんじたん使らいよくごと口舌こうぜつ耶?'使つかいじん捽下,使つかいかんやつ跪,かんやつののし曰:'はんぞく天子てんしにん於爾へい招汝。しかたて能面のうめんばく請罪闕下,またとうつきけい天子てんし使つかい,乃敢はんはずかしめ乎!'大石おおいしいか,乃殺。此時大石おおいしりんきばやめ子孫しそんしょうつぎ西方にしかたしょ仍以大石おおいしよび。'」
  61. ^ 61.0 61.1 りょう·まきさんじゅう·てん皇帝こうていよん》:えびすれつねんよう遺命いめい皇后こうごうけんこくこうめいとうけむりごうかん天皇てんのうきさきしょうせい改元かいげん咸清,在位ざいいななねん
  62. ^ 62.0 62.1 りょう·まきさんじゅう·てん皇帝こうていよん》:えびすれつ即位そくい改元かいげん紹興しょうこうせきみんじゅうはちさい以上いじょうとくはちまんよんせんひゃく在位ざいいじゅうさんねん歿,びょうごうじんむね
  63. ^ 63.0 63.1 りょう·まきさんじゅう·てん皇帝こうていよん》:ようのこみことのり以妹そくかんけんこくしょうせい改元かいげんたかしぶくごううけたまわてんふとしきさきあずか駙馬しょう朵魯おとうとほおただ沙里さりどおり駙馬ため東平とうへいおうころせこれ。駙馬ちち斡里剌以へいかこえ其宮,射殺しゃさつそくかん及朴ただ沙里さりそくかん在位ざいいじゅうよんねん
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  65. ^ かね·まきいちひゃくじゅういち·ねばわりかんやつ列傳れつでん》:これさい粘拔ねばりぬけおんくんちょう撒里まさとらとく斯率やすしさと部長ぶちょう孛古及戶さんまんあまりもとめ內附,乞納ぜん大石おおいししょくだぱいしるし,受朝廷牌しるし
  66. ^ かね·まきはちじゅうはち·とうくくやすれい列傳れつでん》:(だいじょうじゅうななねんみことのりかん察御かんがお覿古そくぎょうあたりしたがえくだりちぎり押剌よんにん,挼剌、招得、まさ魯、斡列おもねあたりほろび大石おおいし
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  68. ^ 68.0 68.1 りょう·まきさんじゅう·てん皇帝こうていよん》:ひとしそう次子つぎこちょく魯古即位そくい改元かいげんてん禧,在位ざいいさんじゅうよんねんときあき出獵しゅつりょう,乃蠻おうこごめりつ以伏へいはちせんとりこ,而據其位。とげかさねりょう衣冠いかんとうとちょく魯古ためふとし上皇じょうこう皇后こうごうため皇太后こうたいごう朝夕ちょうせきとい起居ききょ,以侍終焉しゅうえんちょく魯古りょうぜっ
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  72. ^ 72.0 72.1 もと·まきいちひゃくじゅう·曷思むぎさと列傳れつでん》:みかどいのち曷思むぎさとしたがえあきらはくため先鋒せんぽうおさむ乃蠻,克之かつゆき其主きょくりつあきらはくれい曷思むぎさときょくりつくび往徇其地,わかしつ哈兒、押兒牽、斡端しょしろみなもちふうくだ
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  78. ^ 78.0 78.1 鐵生てつおわけ). よし尔吉斯发现的“续兴もとたからあずか西にし辽年ごうこう. いと綢之世界せかい遺產いさん. 國際こくさい古蹟こせきのこ理事りじかい西安しーあん國際こくさい保護ほご中心ちゅうしん. [2020-10-17]. (原始げんし內容そん於2023-11-17). 中國ちゅうごく古錢こせんぬさ文獻ぶんけんちゅうひとしれつゆうてんかんもとたから惜原しょいずみこころざしやめ佚,明代あきよ(1603ねんたい部分ぶぶんぜに進行しんこうりょう顯然けんぜん出版しゅっぱん人手ひとであたり並無ならびな全部ぜんぶぜにひん實物じつぶつ部分ぶぶんぜによし出版しゅっぱんじん杜撰ずさんとくてんかんもとたからそくためいちれい後來こうらいてきてんかんもとたからぜにこうため19世紀せいき中國ちゅうごくかず日本にっぽんぜにぬさ著作ちょさく引用いんようてんかんもとたからせん文也ふみやあらため讀為かん天元てんげんたからなみみとめためけい攝政せっしょう皇后こうごうかんてんきさきしょしか而,ぼつゆう一位作者注意到感天后是蕭塔不煙的尊號(原文げんぶんさく諡號しごう)。而錢ぶんじょうただおうゆう年號ねんごう年號ねんごうため咸清),而不おうゆう尊號そんごう。1940ねん左右さゆう,一些中國錢幣收藏家已注意到這一問題,なみ建議けんぎれついれやすみなみぜに 
  79. ^ にんつね. 《辽代金石かねいし录》. 1905ねん: まきいち·だい21ぺーじ. かんてんぜにきむさくよん曰感天元てんげんたから西にしりょう天祐てんゆうみかどきさきしょうとうけむりしょうせいごうかん天皇てんのうきさきうたぐ此錢。 
  80. ^ ちんかき. 《もと西域せいいきじん华化こう》. 上海しゃんはいみずきん272ごう: 上海しゃんはいせき出版しゅっぱんしゃ. 2000ねん12月: まきいち·だい3ぺーじ. ISBN 7532528103. 西にしりょう五主ごぬし,凡八じゅうはちねんみなゆう漢文かんぶん年號ねんごう可知かち其在西域せいいき,必曾行使こうし漢文かんぶん 
  81. ^ よしなんじきち斯蘇維埃社會しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく科學かがくいん歷史れきししょ. 《よし尔吉斯地区史くし》. 什凱かつ: よしなんじきち斯蘇維埃社會しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく科學かがくいん. 1956ねん: だいいちかん·だい141ぺーじいたり142ぺーじ にわか. 
  82. ^ とみおっと. 《とうよしかつ民族みんぞく》. 莫斯: れん科學かがくいん. 1964ねん: だい276ぺーじ にわか. 
  83. ^ 83.0 83.1 83.2 だつだっ. 《りょうまきさんじゅう本紀ほんぎだいさんてん皇帝こうていよんちゅうぶん. また西にしいたりおこり漫,文武ぶんぶ百官冊立大石為帝,以甲たつとしがつにち即位そくいねんさんじゅうはちごうかずら罕。ふくじょうかん尊號そんごう天祐てんゆう皇帝こうてい改元かいげんのべけいつい謚祖ちちため嗣元皇帝こうてい祖母そぼため宣義のぶよし皇后こうごうさつもとしょうため昭德あきのり皇后こうごうよしいい百官ひゃっかん曰:「ちんあずかきょうとうぎょうさんまん跋涉ばっしょう沙漠さばくふうよる艱勤。よりゆき祖宗そそうぶくきょうとうちからおかせとうだいしかなんじちちむべ恤典,きょうとおるみことさかえ。」しょう斡里剌等よんじゅうきゅうにん祖父そふふう爵有 
  84. ^ だつだっ. 《りょうまきさんじゅう本紀ほんぎだいさんてん皇帝こうていよんちゅうぶん. かんこくじゅうねん歿,在位ざいいじゅうねんびょうごうとくむね 
  85. ^ 85.0 85.1 だつだっ. 《りょうまきさんじゅう本紀ほんぎだいさんてん皇帝こうていよんちゅうぶん. えびすれつねんよう遺命いめい皇后こうごうけんこくこうめいとうけむりごうかん天皇てんのうきさきしょうせい改元かいげん咸清,在位ざいいななねんえびすれつ即位そくい改元かいげん紹興しょうこうせきみんじゅうはちさい以上いじょうとくはちまんよんせんひゃく在位ざいいじゅうさんねん歿,びょうごうじんむね 
  86. ^ だつだっ. 《りょうまきさんじゅう本紀ほんぎだいさんてん皇帝こうていよんちゅうぶん. ようのこみことのり以妹そくかんけんこくしょうせい改元かいげんたかしぶくごううけたまわてんふとしきさきあずか駙馬しょう朶魯おとうとほおただ沙里さりどおり駙馬ため東平とうへいおうころせこれ。駙馬ちち斡里剌以へいかこえ其宮,射殺しゃさつそくかん及朴ただ沙里さりそくかん在位ざいいじゅうよんねん 
中國ちゅうごくちょうだいかず政權せいけん
ぜんあさ
だいりょう
西にしりょう
1025ねん-1218ねん
後朝きぬぎぬ
だいこうむくに
西域せいいき地區ちく政權せいけん
ぜんあさ
だいりょう
西にしりょう
1025ねん-1218ねん
後朝きぬぎぬ
だいこうむくに