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吳朝 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

ちょう

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重定しげさだこう吴朝
ちょう
Nhà Ngô
938ねん—968ねん
吴朝统治的大致疆域 (阴影部分为南汉控制下的静海军领地)
吴朝统治てきだい致疆いき
(阴影部分ぶぶんみなみひかえせいてき静海しずみ领地)
首都しゅとにし
政府せいふ君主くんしゅせい
おう 
• 939-944
吴权くび
• 951-965
吴昌ぶんまつ
历史 
938ねん
• 吴权迁都いたりにし
939ねん
• さん篡位自立じりつ
945ねん
• 杨さん哥被吴昌ぶん推翻
950ねん
965ねん
• 吴昌炽むかいひのと投降とうこう
968ねん
前身ぜんしん
继承
えつみなみ自主じしゅ時期じき
ひのとあさ

ちょうえつみなみNhà Ngô茹吳,939ねん—965ねん[1]),またたたえ自主じしゅ政權せいけん[2]えつみなみ歷史れきし時期じきいちざい10世紀せいき以前いぜんこし南北なんぼく古稱こしょう交州長期ちょうき中國ちゅうごく統治とうち。938ねんこし南北なんぼく古稱こしょう交州豪族ごうぞくけんげきはい中國ちゅうごくみなみかん軍隊ぐんたいなみ於隔ねん(939ねんしょうおうたてまさし建立こんりゅう自主じしゅ政權せいけんためくれちょうちょうれきけいけんさんあきら昌文まさふみとう君主くんしゅ,其間出現しゅつげん內部權力けんりょく鬥爭及各ごうきょう割據かっきょとう問題もんだいさらえんじなりじゅう使つかいくんこれきょくちょう衰亡すいぼう後世こうせい肯定こうていちょうざいえつみなみそう自主じしゅてき重要じゅうようせいただしたい於它いやしょうためえつみなみ獨立どくりつはじめのり出現しゅつげん爭議そうぎ

政局せいきょく發展はってん

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白藤しらふじこうこれせん及建せい

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けん擊退げきたいみなみかん軍隊ぐんたいてき古戰場こせんじょう──白藤しらふじこう

ちょうけんせいてき時間じかんざいこし南北なんぼくぞく时期てき末期まっき。10世紀せいき以前いぜんこしみなみ北部ほくぶ地區ちく古稱こしょう交州長期ちょうきしょ中國ちゅうごく內地王朝おうちょう所轄しょかついた10世紀せいきはつからあさ分裂ぶんれつ瓦解がかい形成けいせいだいじゅうこく局面きょくめん,交州豪族ごうぞくじょう中國ちゅうごく內地紛亂ふんらんそう自主權じしゅけんりょくれきけいきょく家族かぞく楊廷げいとう統治とうち當地とうち,交州あずかみねみなみ地區ちくてき割據かっきょ勢力せいりょくみなみかんため鄰,雙方そうほうおこり衝突しょうとつ[3]

ちょうてきひらきそうしゃけん,交州からはやししゅう人士じんし為當ためとうだいぞく。楊廷げい統治とうちけん擔任たんにんきばはたかんあいしゅういちなみめと廷藝じょためつま[4]937ねん,楊廷げい部將ぶしょう矯公ともところころせひさ,938ねんけん討伐とうばつ矯公ともおおやけともこうみなみかんもとめ援。みなみかん皇帝こうていりゅう皇子おうじりゅうひろしみさおいちさくりゅうひろしみさおりつへいすくい矯公ともけんさきころせおおやけともしかこうざい白藤しらふじこううみこうざいいまこしみなみ廣安ひろやすひがし[5]部署ぶしょおちい阱,「さき於海こううえ大杙おおくいするど其首,おかせ以鐵」,またそくざい椿つばきまつはしつつみじょうてつがわとういたしおみなぎとき派出はしゅつぶね,引南かん海軍かいぐん船艦せんかんいたそうゆう大杙おおくいてき位置いちてき值潮退すさみなみかん艦隊かんたい「轢橛しゃみなくつがえ」,於是「かんへい大敗たいはい士卒しそつくつがえおぼれしゃふとしはん」,りゅうひろしみさおまた於此やくため白藤しらふじこうこれせん[6]けん擊退げきたいみなみかんぐん,於次ねん(939ねんはる自立じりつためおうためぜんくれおう」,ていにしじょうそくにしざいいまひがしえいけん)。[7]

楊三哥及吳昌岌、昌文まさふみ時期じき

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けん在位ざいいろくねん,於945ねん[4]てき朝政ともまさきょくなみ長治ながはる久安ひさやすけん臨終りんじゅう遺命いめい其子ゆかりさん(楊廷げい之子ゆきこけんおうきさき楊氏てき兄弟きょうだい)輔助,ただし楊三哥卻自奪王位,ごうしょうたいらおう」。けん長子ちょうしあきら逃,とくちゃきょう范令おおやけきょうじょ躲藏,使つかいさん哥無ほう捉拿。けんだい昌文まさふみ三哥收為己子。950ねん,楊三哥派吳昌文出外討伐叛亂,昌文まさふみざい途中とちゅうたおせほこ,推翻たいらおう奪回だっかい權力けんりょく[8]昌文まさふみ自立じりつためみなみすすむおう」,また於次ねん派遣はけんじん迎接げいせつ其兄あきら岌,たてためてんさくおう」,兩人りょうにんどう國事こくじ,曾一おこり征討せいとうはな閭洞割據かっきょしゃひのとりょうただし後來こうらいあきら岌擅さくぶくれい昌文まさふみいきどお而不さい參與さんよ政事せいじ[9]洮江ぐんじんしゅうやすし不服ふふく昌文まさふみしんせい將之まさゆき殲滅せんめつただししたがえ此「狃勝而驕」。[10]965ねん昌文まさふみざいおやせい太平たいへいからむらじんほろび[11]

交州雖為自主じしゅ政權せいけんただし其流どおりてき貨幣かへい,仍以とうだいひらけもと通寶つうほうこうかんかんもと通寶つうほう(948年始ねんしとうためぬしいたきさきらいてきひのとあさざい独自どくじぬさ[12]

衰亡すいぼう

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したがえさん哥奪おこり地方ちほううえ便びん出現しゅつげん割據かっきょ勢力せいりょく,及至965ねん昌文まさふみ戰死せんし以後いご氏朝うじとも廷已無力むりょくかん全國ぜんこく王子おうじあきらおきあきら岌之ただのうよりどころもりたいらきょうゆうせつざいいまきょうやすしょうあるきよししょう),あずか此同群雄ぐんゆうきおいおこりかくよりどころぐん邑自もり」,後世こうせいすべしょう這些割據かっきょしゃためじゅう使つかいくん」。最後さいごはな閭洞割據かっきょしゃひのとりょうげきはいかくまた勢力せいりょくだつとく全國ぜんこく政權せいけん[13]

統治とうち組織そしき

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けんぞう

ちょうけんたてまさし便びん草創そうそう朝廷ちょうてい構。よりどころ大越おおこし史記しき全書ぜんしょけんざい939ねんはじめしょうおう」,冊立さくりつおうきさきおけ百官ひゃっかんせいあさていふくしょく,這些措施ざい後世こうせいため帝王ていおう規模きぼ矣」。[4]ざい地方ちほう行政ぎょうせい方面ほうめんしたがえ銘文めいぶん資料しりょう可知かち當時とうじゆうけんむらとう行政ぎょうせい單位たんい,另外かえゆうしょうためしゃてき宗教しゅうきょう會社かいしゃ組織そしきしゃうらゆう社主しゃしゅしゃふくしゃ判官ほうがん社務しゃむかん等位とういごう[14]

疆域

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ゆうせきちょう領土りょうど範圍はんいえつみなみ古代こだい地理ちり著作ちょさく,如阮廌輿地よちこころざし》,みとめためきたりょうひろみなみいたるまいるえつみなみĐịa Lý (châu),凡せんはちひゃくさとひがしせっ欽州海門かいもん在中ざいちゅうこく廣西ひろせ),西にしかい雲南うんなん,凡一せんななひゃくさと」。[15]現代げんだい學者がくしゃとう維英のりゆびざい雒越ひと後裔こうえいてき各州かくしゅうそく北部ほくぶ的中てきちゅうゆう和平わへいげん地區ちく以及きよし──乂安的中てきちゅうゆう和平わへいげん地區ちくとく行使こうし其權りょく」。[5]

宗教しゅうきょう

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佛教ぶっきょうつていれ交州ずいから時期じき出現しゅつげんりょうめつ禪宗ぜんしゅう無言むごんどおりぜんとう教派きょうはいた10世紀せいきてきちょう仍得いた流傳りゅうでんなみ在日ざいにちてきちょうはじむかくあさ受到重視じゅうし[16] いたり於起げん中國ちゅうごくてき宗教しゅうきょうざいくれあさまたとく流傳りゅうでんよりどころかわ慈廉てきかねめい資料しりょうちょう時期じきゆうげんもんしん結合けつごうたかししん道教どうきょうてきふとしはじめさんみこと」(そく元始げんしてんみこと靈寶れいほうてんみこと道德どうとくてんみこと),一同興造道教設施。道教どうきょう信徒しんとちゅうかえしつらえ宗教しゅうきょう職位しょくいゆう高級こうきゅう醮祭人員じんいんこういさおいちしょく[17]

あずかみなみかん關係かんけい

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あさあずかみなみかんせっ鄰。みなみかんざい白藤しらふじこうこれせんけんところはい,「とげ棄不ふくおさむ」,さい爭奪そうだつ交州[18]ただしみなみかんたい交州仍有影響えいきょうりょくざい慈廉けんにちそうむら出土しゅつどてきちょうどうがねはやかね」(948ねんこく),銘文めいぶんじょう使用しようみなみかん年號ねんごう乹和ろくねん」,現代げんだい學者がくしゃよりどころ此認ため該古がね所屬しょぞくてきしゃあずかみなみかんゆう一定いっていてき關係かんけい[19]ほうこく漢學かんがくなんじゆめ指出さしでみなみかん鑄造ちゅうぞう工藝こうげいせいたたえ,「はやかね便びん可能かのう鑄造ちゅうぞう於南かんあるみなみかん工匠こうしょういた交州鑄造ちゅうぞう反映はんえいりょう雙方そうほうゆうちょ文化ぶんか交流こうりゅう[20]

ざいさんだつけん事件じけん家族かぞくためもとめたもて,乃向みなみかんしょうしんもとめふう[21],於是ざい954ねん昌文まさふみいちさくあきら濬)使つかいいたみなみかんしょうしん入貢にゅうこう要求ようきゅうさつふう[註 1][22]這次もとめふうてき結果けっか各種かくしゅ史籍しせきゆう不同ふどう記載きさい,一說南漢答應吳朝要求,なみいん出發しゅっぱつさつふうじただし途中とちゅうちょうまた以「海賊かいぞくためみだれ道路どうろ不通ふつうためゆかり中斷ちゅうだん行程こうてい[23];另一說是南漢封吳昌文為「せい海軍かいぐん節度せつど使けんみやこまもる[24]

ちょうてき歷史れきし意義いぎ

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ざいえつみなみ後世こうせいちょうためこしみなみだつはなれ中國ちゅうごく自立じりつてき重要じゅうよう時期じき封建ほうけん時代じだい史官しかんはじむぶんきゅうせつけんたたえおうただしわがえつ正統せいとう庶幾しょき乎復ぞく矣」[4]ほうぞく時代じだいえつみなみ人士じんしゆうわがこしみなみふくこく自主じしゅだいいちくん王權おうけん[25]、「くれおうじょう釁起へいえつ乃為みね以南いなん獨立どくりつこく[26]とう論調ろんちょういた現代げんだいえつみなみ學術がくじゅつ機關きかんえつみなみ社會しゃかい科學かがく委員いいんかいせつ它是「堂堂どうどうせいせいてき獨立どくりつ王國おうこく[27]

ただしちょうてき獨立どくりつ國家こっか地位ちいまた受到質疑しつぎ中國ちゅうごく學者がくしゃかくちょうえみうめ指出さしでちょうざいけんどき就未曾統一越ひとこしみなみ各地かくちひとしゆう豪族ごうぞくてのひらけんあきら昌文まさふみどき仍有地方ちほう割據かっきょ氏朝うじとも廷還需向中國ちゅうごくみなみかんしょうしんもとめふう以自たもて,而且君主くんしゅなみ正式せいしきしょうみかど改元かいげん所以ゆえんなん以被ためえつみなみ獨立どくりつ國家こっかはじめ[28]

歷任れきにん君主くんしゅ

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ちょう君主くんしゅ  编辑
稱號しょうごう 姓名せいめい 在世ざいせい 在位ざいい時間じかん
ぜんくれおう けん 898ねん-944ねん 939ねん-944ねん
楊平おう さん とし-980ねん 945ねん-950ねん
てんさくおう
あずかみなみすすむおう昌文まさふみ並立へいりつ
あきら とし-954ねん 950ねん-954ねん
みなみすすむおう
あずかてんさくおうあきら並立へいりつ
昌文まさふみ 934ねん-965ねん 951ねん-965ねん

注釋ちゅうしゃく

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  1. ^ よりどころ中國ちゅうごく史籍しせきしんだい》及元だい越人えつじんはじむやすみなみこころざしりゃくしょじゅつ使つかいしょうしんてきちょう君主くんしゅためあきら」,ただしえつみなみ古代こだい史籍しせきえつりゃく》及《大越おおこし史記しき全書ぜんしょぼつゆうあきら濬」てき記錄きろくたい此,阮朝史官しかんしょへんてき欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》猜測「あるもの昌文まさふみ改名かいめいあきら濬」,中國ちゅうごく學者がくしゃたけしょうきよしみとめためやすみなみこころざしりゃく記述きじゅつ正確せいかくいんあきらあきら濬及昌文まさふみさんにんひとし真實しんじつ存在そんざいてき人物じんぶつ

引用いんようらいげん

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  1. ^ 陳重のぶしげきんそくひねなかきん)《えつ南通みなみとおり》(そくえつみなみりゃく》),北京ぺきん商務しょうむしるししょかん,57ぺーじくるわ鐸、ちょうえみうめえつ南通みなみとおり》,中國ちゅうごく人民じんみん大學だいがく出版しゅっぱんしゃ,664ぺーじ;《東南とうなん歷史れきしてん》,上海しゃんはい辭書じしょ出版しゅっぱんしゃ,509ぺーじ
  2. ^ かく鐸、ちょうえみうめえつ南通みなみとおり》,中國ちゅうごく人民じんみん大學だいがく出版しゅっぱんしゃ,664ぺーじ
  3. ^ りょともきたぞく時期じきてきえつみなみ》,香港ほんこんちゅうぶん大學だいがくしん研究所けんきゅうじょ,140─142ぺーじ
  4. ^ 4.0 4.1 4.2 4.3 れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·がい全書ぜんしょ·おさむ》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか硏究所けんきゅうじょ,172ぺーじ
  5. ^ 5.0 5.1 とう維英《えつみなみ歷代れきだい疆域》,北京ぺきん商務しょうむしるししょかん,143ぺーじ
  6. ^ おうおさむしんだい·みなみかん·りゅう龑》,北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,813ぺーじ司馬しばひかりどおりかん·すすむ》,北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,9192─9193ぺーじ
  7. ^ れんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·がい全書ぜんしょ·おさむ》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか硏究所けんきゅうじょ,172ぺーじりょともきたぞく時期じきてきえつみなみ》,香港ほんこんちゅうぶん大學だいがくしん研究所けんきゅうじょ,142ぺーじくるわ鐸、ちょうえみうめえつ南通みなみとおり》,中國ちゅうごく人民じんみん大學だいがく出版しゅっぱんしゃ,240ぺーじ
  8. ^ えつりゃくまきじょう收錄しゅうろく於《よん全書ぜんしょだい466さつ),上海しゃんはいせき出版しゅっぱんしゃ,571ぺーじくれれんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·がい全書ぜんしょ·おさむ·楊さん哥》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,172-173ぺーじ
  9. ^ えつりゃくまきじょう收錄しゅうろく於《よん全書ぜんしょだい466さつ),上海しゃんはいせき出版しゅっぱんしゃ,571ぺーじくれれんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·がい全書ぜんしょ·おさむ·くれおう》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,172-173ぺーじ
  10. ^ はんきよし簡等《欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく前編ぜんぺんまきだいじゅうろくぺーじ
  11. ^ えつりゃくまきじょう收錄しゅうろく於《よん全書ぜんしょだい466さつ),上海しゃんはいせき出版しゅっぱんしゃ,571ぺーじくれれんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·がい全書ぜんしょ·おさむ·くれおう》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,175ぺーじ
  12. ^ えつみなみ歷史れきし貨幣かへい》,中國ちゅうごく金融きんゆう出版しゅっぱんしゃ,14及16ぺーじ
  13. ^ えつりゃくまきじょう收錄しゅうろく於《よん全書ぜんしょだい466さつ),上海しゃんはいせき出版しゅっぱんしゃ,571─572ぺーじくれれんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·がい全書ぜんしょ·おさむ·くれおうくれ使くん》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,175─176ぺーじ陳重のぶしげきんそくひねなかきん)《えつ南通みなみとおり》(そくえつみなみりゃく》),北京ぺきん商務しょうむしるししょかん,58─59ぺーじ
  14. ^ はやかねめい》(948ねんこくなり),收錄しゅうろく於潘ぶんかくなんじゆめぬしへんこしみなみかん銘文めいぶん匯編·だい一集北屬時期至李朝》,遠東とおひがし學院がくいんかん研究けんきゅういん,47ぺーじ
  15. ^ 阮廌《輿地よちこころざし》,收錄しゅうろく於《すめらぎはじむそもそもときしょうおおやけのこしゅう》,6ぺーじ
  16. ^ もりつぎぶん佛教ぶっきょう》,江蘇ちぁんすー人民じんみん出版しゅっぱんしゃ,300─301ぺーじ
  17. ^ はやかねめい》(948ねんこくなり),收錄しゅうろく於潘ぶんかくなんじゆめぬしへんこしみなみかん銘文めいぶん匯編·だい一集北屬時期至李朝》,遠東とおひがし學院がくいんかん研究けんきゅういん,47─48ぺーじ
  18. ^ おうおさむしんだい·みなみかん·りゅうあきら》,北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,816ぺーじ
  19. ^ はやかねめい》(948ねんこくなり),收錄しゅうろく於潘ぶんかくなんじゆめぬしへんこしみなみかん銘文めいぶん匯編·だい一集北屬時期至李朝》,遠東とおひがし學院がくいんかん研究けんきゅういん,45─48ぺーじ.
  20. ^ 香港ほんこんちゅうぶん大學だいがくだい二屆海外華人研究與文獻收藏機構國際合作會議──なんじゆめちょていつとむじんやくしたがえ梵鐘ぼんしょう銘文めいぶん中國ちゅうごくあずか東南とうなんてき貿易ぼうえき往來おうらい[永久えいきゅう失效しっこう連結れんけつ]
  21. ^ かく鐸、ちょうえみうめえつ南通みなみとおり》,中國ちゅうごく人民じんみん大學だいがく出版しゅっぱんしゃ,243ぺーじ
  22. ^ えつりゃくまきじょう收錄しゅうろく於《よん全書ぜんしょだい466さつ),上海しゃんはいせき出版しゅっぱんしゃ,571ぺーじくれれんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·がい全書ぜんしょ·おさむ·くれおう》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか研究所けんきゅうじょ,174ぺーじおうおさむしんだい·みなみかん·りゅうあきら》,北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,816ぺーじはじむ崱《やすみなみこころざしりゃく》,北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,280─281ぺーじはんきよし簡等《欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく前編ぜんぺんまきだいじゅういたりじゅうろくぺーじ
  23. ^ おうおさむしんだい·みなみかん·りゅうあきら》,北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,816ぺーじはじむ崱《やすみなみこころざしりゃく》,北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,280─281ぺーじはんきよし簡等《欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく前編ぜんぺんまきだいじゅうぺーじ
  24. ^ 司馬しばひかりどおりかん·しゅうおさむ》,北京ぺきん中華ちゅうかしょきょく,9501ぺーじくれれんとう大越おおごえ史記しき全書ぜんしょ·がい全書ぜんしょ·おさむ》,東京大學とうきょうだいがく東洋とうよう文化ぶんか硏究所けんきゅうじょ,174ぺーじ
  25. ^ だかけいえつようえつみなみよう》,だいよんじゅういちよう
  26. ^ かぶとまめ中學ちゅうがくえつ撮要さつようなつしゅうだいいたりだいさんよう
  27. ^ えつみなみ社會しゃかい科學かがく委員いいんかいえつみなみ歷史れきし》,北京ぺきん人民じんみん出版しゅっぱんしゃだい151-152ぺーじ
  28. ^ かく鐸、ちょうえみうめえつ南通みなみとおり》,中國ちゅうごく人民じんみん大學だいがく出版しゅっぱんしゃ,242-244ぺーじ

參考さんこう書目しょもく及網からま資源しげん

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まいり

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