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观应扰乱

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にちうつしほう
にち原文げんぶんかんおう擾乱じょうらん
假名かめいかんのうのじょうらん
平文へいぶんしき罗马Kannō Jōran

观应扰乱にち语:かんおう擾乱じょうらん发生ざい日本にっぽん南北なんぼくあさ时期北朝ほくちょう室町むろまち幕府ばくふてき内部ないぶけいそうよし足利尊氏あしかがたかうじざい观应さんねん(1352ねん)击败足利あしかがただしいん此这事件じけん命名めいめい为“观应らん”。

背景はいけい[编辑]

足利あしかが直義ただよしあずか高師直こうのもろなおてき對立たいりつ[编辑]

室町むろまち幕府ばくふ成立せいりつ初期しょき足利あしかが家督かとく足利尊氏あしかがたかうじあずか其弟足利あしかが直義ただよしきょうてのひら幕府ばくふ政事せいじ當世とうせいたたえ人為じんいりょう將軍しょうぐん」,政所まんどころにち政所まんどころさむらいしょとう部門ぶもんよし足利尊氏あしかがたかうじ管轄かんかつといちゅうしょにちといちゅうしょぜんりつかたとうのりゆかり足利あしかが直義ただよし管轄かんかつ足利尊氏あしかがたかうじしゅてのひら象徵しょうちょうあずか旗下きか武士ぶし主從しゅうじゅう關係かんけいてき支配しはいけん足利あしかが直義ただよしのりてのひら行政ぎょうせい司法しほうとう相關そうかん職務しょくむ形成けいせいとう政治せいじ。另一方面ほうめん下野げやだかにちこうため足利あしかがてき譜代ふだい家臣かしん高師直こうのもろなおため足利あしかが執事しつじにち執事しつじ#室町むろまち幕府ばくふ執事しつじ,其弟高師泰こうのもろやすためさむらいしょあたまじんにんつねざい前線ぜんせん作戰さくせんだて赫赫かくかく戰功せんこう貞和さだかず4ねん(1348)正月しょうがつ四條畷しじょうなわてこれせんなか高師直こうのもろなおさらりつぐんおさむおちい南朝なんちょう大本營だいほんえい吉野よしのさこ使つかい後村上天皇ごむらかみてんのう撤往賀名かなせいにち賀名かなせい,此戰使高師直こうのもろなお聲名せいめいだい噪。

あい較於ちょじゅう恢復かいふく幕府ばくふ秩序ちつじょ尊重そんちょう公家くげ及寺しゃてき足利あしかが直義ただよし高師直こうのもろなおたい兄弟きょうだいとういいさら現實げんじつ主義しゅぎ習慣しゅうかん於用武力ぶりょく解決かいけつ問題もんだい,《太平たいへいさら記載きさいこう兄弟きょうだいとう表示ひょうじ用木ようぼくとうある黃金おうごんこくてき雕像就可以取だい天皇てんのう足利あしかが直義ただよしあずか高師直こうのもろなお矛盾むじゅん最深さいしんしょため領地りょうちてき知行ちぎょうにち知行ちぎょう南北なんぼくあさ時期じきつね出現しゅつげん武士ぶしきょう佔寺しゃ本所ほんじょにち本所ほんじょてき領地りょうち足利あしかが直義ただよし提出ていしゅつ許多きょた政策せいさく處理しょり問題もんだい以回おう公家くげ社會しゃかいてき要求ようきゅうしかたい於在前線ぜんせん作戰さくせんてき武士ぶしらいせつしたがえ戰場せんじょう附近ふきんてき莊園しょうえんおおやけりょうにち国衙こくがりょうつよちょうかてくさ確保かくほ軍隊ぐんたいてきぐんかておそれ高師直こうのもろなお主張しゅちょうよう打破だは現有げんゆうてき莊園しょうえんせいてき秩序ちつじょはたさら土地とちてき相關そうかん權益けんえき分配ぶんぱいきゅう武士ぶし。而高兄弟きょうだいとう幕府ばくふ內權ぜいてきじょうます也引おこり畠山はたけやま國清くにきよにち畠山はたけやま国清くにきよ細川ほそかわあらわとう將領しょうりょうてき反感はんかん

高師直こうのもろなお軍事ぐんじ政變せいへん[编辑]

貞和さだかず5ねん(1349)うるう6がつ畠山はたけやまただしむねにち畠山はたけやまただしむね上杉うえすぎ重能しげよしにち上杉うえすぎ重能しげよし禪僧ぜんそう大同だいどうみょうにち大同だいどうみょうむかい足利あしかが直義ただよし進言しんげんおう彈劾だんがい高師直こうのもろなお高師泰こうのもろやす。而後,足利あしかが直義ただよしあずか足利尊氏あしかがたかうじしょう討此ごと最終さいしゅう高師直こうのもろなお執事しつじてき職位しょくい罷免ひめんあらためよし高師直こうのもろなおがいおい高師たかしにち高師たかし暫代此職。《太平たいへいさら記載きさい足利あしかが直義ただよしよく暗殺あんさつ高師直こうのもろなおしかえんたいれきにちえんたいれき並無ならびな記載きさい

貞和さだかず5ねん(1349)8がつはつ高師直こうのもろなお從前じゅうぜんせんかいきょうなみ聚集大量たいりょう武士ぶしざい其宅てい足利あしかが直義ただよし此,ふか高師直こうのもろなお加害かがい於己,8がつ13にち逃往足利尊氏あしかがたかうじたくてい避難ひなん。8月14にち高師直こうのもろなおりつぐん包圍ほうい足利尊氏あしかがたかうじたくてい要求ようきゅう引渡畠山はたけやまただしそうひとしじん (御所ごせまきにち御所ごせまき) 。而後,ざい足利尊氏あしかがたかうじ居中きょちゅう斡旋あっせん,以畠山はたけやまただし宗及そうきゅう上杉うえすぎ重能しげよしりゅう足利尊氏あしかがたかうじ嫡子ちゃくし足利あしかが義詮よしあきら代替だいたい足利あしかが直義ただよし行使こうし政務せいむ高師直こうのもろなお重任じゅうにん執事しつじ上述じょうじゅつさん條件じょうけんため前提ぜんてい足利あしかが直義ただよしあずか高師直こうのもろなお達成たっせい和解わかいしか畠山はたけやまただし宗及そうきゅう上杉うえすぎ重能しげよし於流越前えちぜんてき途中とちゅう殺害さつがい足利あしかが直義ただよし也被せり隱退いんたい最終さいしゅう出家しゅっけ法號ほうごうめぐみげん。《えんたいれき記載きさい,此政變せいへんため足利尊氏あしかがたかうじあずか高師直こうのもろなおくしどおりこのみてきしか現今げんこん學者がくしゃほう不一ふいつゆうみとめため足利尊氏あしかがたかうじ此舉がかりためりょう確保かくほ足利あしかが義詮よしあきらてき地位ちい也有やゆうみとめため足利尊氏あしかがたかうじただ行事ぎょうじ

足利あしかが直冬ただふゆ[编辑]

貞和さだかず5ねん(1349)4がつ足利あしかが直冬ただふゆぜん西國さいごく赴任ふにん長門ながと探題たんだいにち長門ながと探題たんだい途中とちゅう停留ていりゅう備後びんごこく鞆浦ともうらにち鞆のうら足利あしかが直冬ただふゆあずかなまちち足利尊氏あしかがたかうじ關係かんけいけいはん而與養父ようふ足利あしかが直義ただよし交好。足利あしかが直冬ただふゆ聽聞ちょうもん足利あしかが直義ただよししつぜい企圖きと上洛じょうらくただし遭到赤松あかまつ則村のりむら阻止そし高師直こうのもろなおじょうぜいれい討伐とうばつ足利あしかが直冬ただふゆ足利あしかが直冬ただふゆ逃往九州きゅうしゅう

經過けいか[编辑]

足利あしかが直義ただよし反擊はんげき[编辑]

逃往九州的足利直冬在當地擴張其勢力,中國ちゅうごく地方ちほう也有やゆう許多きょた武士ぶしひびき應其おうごごう召,此,かんおう元年がんねん(1350)6がつ足利尊氏あしかがたかうじいのち高師泰こうのもろやす追討ついとうしか高師泰こうのもろやす石見いわみこくあずか支持しじ足利あしかが直冬ただふゆてき武士ぶし苦戰くせん直冬ただふゆごえいきおいだいみなぎしょう大友おおともとう九州豪族紛紛倒向足利直冬。10月28にち足利尊氏あしかがたかうじりつぐんおやせい足利あしかが直冬ただふゆいのち足利あしかが義詮よしあきら留守るす京都きょうと;而足利直としなお義則よしのり於10がつ26にち逃出京都きょうと

足利あしかが直義ただよしさき逃往大和やまとこくごう全國ぜんこく武士ぶし討伐とうばつ高師直こうのもろなおたい,而後於11がつ21にちぜんかわ內國接收せっしゅう畠山はたけやま國清くにきよてき庇護ひご。11月23にちよりどころえんたいれき記載きさい足利あしかが直義ただよしとうまこと南朝なんちょうざい足利あしかが直義ただよしてきごう召下,石塔せきとう頼房よりふさにち石塔せきとう頼房よりふさ細川ほそかわあらわ桃井ももいただしつねにち桃井ももいただしつね斯波しば高經たかつねにち斯波しば高経たかつねとうひと紛紛ふんぷん舉兵;關東かんとう地區ちく上杉うえすぎ憲顯のりあき驅逐くちくどうため關東かんとう執事しつじてき高師冬こうのもろふゆにち高師冬こうのもろふゆ(高師直こうのもろなお親族しんぞく),加入かにゅう直義ただよし一方いっぽう大和やまとこくかわ內國、和泉いずみこく紀伊きいこくとう南朝なんちょう武士ぶし支持しじ足利あしかが直義ただよし

高師直こうのもろなお[编辑]

かんおう2ねん(1351)正月しょうがつ足利あしかが直義ただよしりつぐんこう京都きょうと邁進まいしん足利あしかが義詮よしあきら棄守京都きょうとまえあずか足利尊氏あしかがたかうじ匯合。足利尊氏あしかがたかうじげきはい桃井ももいただしつねただし支持しじ足利あしかが直義ただよしてき武士ぶし越來ごえくえつ足利尊氏あしかがたかうじさき撤退てったいいたり丹波たんば,而後また撤退てったいいたり播磨はりま。2月,足利尊氏あしかがたかうじさいつぎこう京都きょうと進軍しんぐんしか於播すり光明寺こうみょうじ合戰かっせんにち光明寺こうみょうじじょう (播磨はりまこく)攝津せっつこく打出うちで浜之はまのせんにち打出浜うちではまたたかせっ連敗れんぱい於直よし一方いっぽう

かんおう2ねん(1351)2がつ22にち足利尊氏あしかがたかうじあずか足利あしかが直義ただよし高師直こうのもろなおたい兄弟きょうだいとう出家しゅっけため條件じょうけん和談わだん。2月26にちこう兄弟きょうだい押送おうそういたり京都きょうとしか,於攝武庫川むこがわにち武庫川むこがわ上杉うえすぎ能憲よしのりにち上杉うえすぎ能憲よしのり上杉うえすぎしげるにち上杉うえすぎしげる攔截,こう兄弟きょうだいとう誅殺ちゅうさつ。而後,足利あしかが直義ただよし作為さくい足利あしかが義詮よしあきらてき輔佐ほさじゅうかえしせいだん足利あしかが直冬ただふゆ就任しゅうにん九州きゅうしゅう探題たんだい

足利尊氏あしかがたかうじあずか足利あしかが直義ただよしてき對立たいりつ[编辑]

かんおう2ねん(1351)3がつ2にち足利尊氏あしかがたかうじあずか足利あしかが直義ただよし京都きょうと會談かいだん足利尊氏あしかがたかうじ以勝利者きけものてき姿態したい賞賜しょうし足利あしかが直義ただよし旗下きか武士ぶしさら要求ようきゅうようしょ殺害さつがいだか兄弟きょうだいてきじょう杉重すぎじゅう(最終さいしゅうあらためためしょ以流けい)。足利あしかが直義ただよし回歸かいきせいだんせめ輔佐ほさ足利あしかが義詮よしあきらしか作為さくい幕府ばくふ行政ぎょうせい司法しほう相關そうかん職務しょくむてき引付ひきつけよし直義ただよしてき武士ぶし擔任たんにん足利あしかが義詮よしあきらたい此安はい非常ひじょう不滿ふまん。7月19にちいんあずか足利あしかが義詮よしあきらごう足利あしかが直義ただよしこう足利尊氏あしかがたかうじひょうたち辭退じたい政務せいむてき意向いこう足利尊氏あしかがたかうじ挽留。雖然足利あしかが直義ただよし成功せいこう剷除政敵せいてき高師直こうのもろなお,仍有しょう武士ぶし反對はんたい足利あしかが直義ただよし,3がつまつ直義ただよしてき奉行ぶぎょうじん齋藤さいとうとしたい遭人暗殺あんさつ;5がつ桃井ももいただしつね也遭じん襲擊しゅうげき足利あしかが直義ただよしあずか仁木にきよりゆきあきらにち仁木にきよりゆきあきら佐佐木ささきみちほまれとうみこと武士ぶし也因領地りょうちてき關係かんけい而有矛盾むじゅん

かんおう2ねん(1351)7がつ28にち足利尊氏あしかがたかうじ討伐とうばつ近江おうみ佐佐木ささきみちほまれためよしきょう隔日かくじつ足利あしかが義詮よしあきら也出きょう追討ついとう播磨はりまてき赤松あかまつ則祐のりすけにち赤松あかまつ則祐のりすけしかりょうぐん突然とつぜんころせかい京都きょうと夾擊きょうげき足利あしかが直義ただよし足利あしかが直義ただよし此,逃往越前えちぜんこく金崎かなさき。8月6にち足利尊氏あしかがたかうじ派遣はけん使者ししゃいたり足利あしかが直義ただよししょいのち其返かい京都きょうと處理しょり政務せいむ足利あしかが直義ただよし拒絕きょぜつ。9月,足利尊氏あしかがたかうじ近江おうみげきはい畠山はたけやま國清くにきよ桃井ももいただしつね石塔せきとう頼房よりふさとう直義ただよし武士ぶし,而後,足利尊氏あしかがたかうじあずか足利あしかが直義ただよし展開てんかい和談わだんただしよし主戰しゅせん桃井ももいただしつねてき反對はんたい最終さいしゅう談判だんぱん破局はきょく。此期あいだ畠山はたけやま國清くにきよ斯波しば高經たかつねとう武士ぶし紛紛ふんぷん足利あしかが直義ただよしさいうえさきぜん細川ほそかわあらわ也投もたれ尊氏たかうじ陣營じんえい足利あしかが直義ただよしこえぜいだいげん。11月,足利あしかが直義ただよし撤往鎌倉かまくら,就此,足利尊氏あしかがたかうじ成功せいこう壓制あっせい近畿きんき地方ちほう直義ただよし勢力せいりょく

正平しょうへい一統いっとう[编辑]

雖然平定へいてい近畿きんき地區ちくしか足利あしかが直義ただよし關東かんとう北陸ほくりくとう地區ちく仍很ゆう引響りょくきょう足利あしかが直冬ただふゆ仍於西國さいこく擴張かくちょう勢力せいりょく足利尊氏あしかがたかうじてん而與南朝なんちょう和談わだん,而後,北朝ほくちょうたかしこう天皇てんのうあずかちょくじん親王しんのうにちちょくじん親王しんのう遭到はい黜,なみ停止ていし使用しよう北朝ほくちょうかんおうてき年號ねんごう統一とういつ使用しよう南朝なんちょうてき年號ねんごう正平しょうへい」,南朝なんちょうそく承認しょうにん足利尊氏あしかがたかうじ武家ぶけ棟梁とうりょうにち武家ぶけ棟梁とうりょうてき地位ちいなみ下達かたつ追討ついとう足利あしかが直義ただよしてき綸旨りんじにち綸旨りんじしょう正平しょうへい一統いっとう

あずか南朝なんちょう和談わだんかん足利尊氏あしかがたかうじこう鐮倉進軍しんぐん足利尊氏あしかがたかうじ先後せんござい駿河するがこく伊豆いずこく相模さがみこくげきはい足利あしかが直義ただよし正平しょうへい7ねん(1352)正月しょうがつ足利あしかが直義ただよしこう足利尊氏あしかがたかうじ投降とうこう兄弟きょうだいにんかえしかい鐮倉,足利あしかが直義ただよし軟禁なんきん。2月26にち足利あしかが直義ただよし突然とつぜん死亡しぼう,《太平たいへい記載きさい足利あしかが直義ただよし毒殺どくさつ

後續こうぞく[编辑]

正平しょうへい7ねん(1352)うるう2がつ南朝なんちょう後村上天皇ごむらかみてんのう進入しんにゅう京都きょうと周邊しゅうへんてき八幡やはた,而後,南朝なんちょう大臣だいじん北畠きたばたけ親房ちかふさりつぐん進入しんにゅう京都きょうとはた足利あしかが義詮よしあきら驅逐くちく至近しきんこう關東かんとう方面ほうめん宗良親王むねながしんのう新田にった義興よしおきとうひとおさむおちい鎌倉かまくら足利あしかが義詮よしあきら見和みわだんやめ破局はきょく恢復かいふくかんおう年號ねんごうごう全國ぜんこく武士ぶし反擊はんげき,3がつせっれん奪回だっかい鎌倉かまくら京都きょうと,5月,後村上天皇ごむらかみてんのう退すさかい南朝なんちょう根據地こんきょち賀名かなせい。8月17,北朝ほくちょうわたるひとし践祚せんそため後光ごこうげん天皇てんのう

かんおうみだれ足利あしかが直義ただよし雖然しか足利あしかが直冬ただふゆ石塔せきとうぼうにち石塔せきとうぼう桃井ももいただしつね山名やまなにち山名やまな吉良きら滿貞みつさだにち吉良きら満貞みつさだとう直義ただよし武士ぶし仍不ねがい投降とうこう足利尊氏あしかがたかうじしょうひと決定けってい歸順きじゅん南朝なんちょう持續じぞく南北なんぼくあさてきせんごと

参考さんこう文献ぶんけん[编辑]