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ぜんからぶん

維基百科ひゃっか自由じゆうてき百科全書ひゃっかぜんしょ

欽定きんていぜんからぶん》,簡稱《ぜんからぶん》,清朝せいちょうかんおさむとうひとそうしゅう全書ぜんしょいちせんかんなみ卷首かんしゅよんかん,輯有からあさだいじゅうこく文章ぶんしょうども18,488へん一說いっせつ20,025へん)、作者さくしゃ3,042にん一說いっせつ3,035にん)。

編纂へんさん經過けいか

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きよしよしみけいじゅうねん1807ねん),清仁きよひとむね取得しゅとく內府きゅうぞうからぶんいちひゃくろくじゅうさつ[註 1]みとめため該書「からだれいひつじきょう選擇せんたく不精ぶしょう」,於是いのちしん以重輯。《ぜんからぶん正式せいしき輯纂はじめ於嘉けいじゅうさんねん1808ねん),敕令開設かいせつぜんからぶんかん」,ゆかりぶんはな殿どのだい學士がくしただしりょう銜,ゆかり廷臣ていしんがく者共ものども107にん入館にゅうかんへんこう,以《からぶんため基礎きそよん全書ぜんしょ》內的唐人とうじんべつしゅう,以及《文苑ぶんえん英華えいか》、《からぶんいき》、《から大詔たいしょうれいしゅう》、《文苑ぶんえん》、《たかし古文こぶん》、《文章ぶんしょうべんからだ彙選とうそうしゅうなみさがせ永樂えいらく大典たいてん所載しょさいざんへん,「散見さんけん於史ざつ記載きさいこころざしじょう金石かねいしいしぶみばんしゃ」。いたりよしみけいじゅうきゅうねん(1814ねんうるうがつなりしょ進呈しんてい欽定きんてい御製ぎょせい序文じょぶんそく交由內府、とくりょう淮鹽せいおもねかつとうおもねひとしせめかんこくよしみけいじゅうよんねん1819ねんかんなりそくあげしゅうかんほんひかりいとぐち年間ねんかんゆう廣州こうしゅう重刻じゅうこくほん

作為さくいぜんからぶん底本ていほんてき內府きゅうせきからぶん原書げんしょいまやめそん當時とうじ學者がくしゃたい其檢描述如下:[1]

  • からぶん收錄しゅうろくとう五代ごだい文一ぶんいちまんすうせんへんふんじゅうろくはこまいはこじゅうさつ
  • からぶん序文じょぶん凡例はんれいぺーじくびゆう梅谷うめたに鈐印當時とうじ不知ふち編者へんしゃ傳說でんせつためうみやすしちんある玲瓏れいろう山館やまだてでんただしろうのこぞう
  • からぶんなお編輯へんしゅう完成かんせい採納さいのう文章ぶんしょうだい常見つねみ明代あきよ版本はんぽん唐人とうじん文集ぶんしゅう
  • からぶんはた誥制特別とくべつぶんため一類いちるい
  • からぶんはた帝王ていおう批語本文ほんぶんこれ
  • からぶんちゅうからふとしむね文章ぶんしょう內有《すすむしょさんぶん
  • からぶんおさむゆうかいしんとう傳奇でんき作品さくひん
  • からぶんはた史書ししょ中唐人なかとうじん對話たいわあやま以為該人文章ぶんしょう
  • からぶんあやまおさむずいだい以前いぜんぶん
  • からぶんちゅう文苑ぶんえん英華えいか文章ぶんしょういんよりどころあかりこく本所ほんじょ輯,ごくなまりあやま脫漏だつろうしょ

清仁きよひとむねしょ批評ひひょうからだれいひつじきょう選擇せんたく不精ぶしょう主要しゅようゆびろくこう,於是《ぜんからぶん編輯へんしゅうおさむあらためりょうたいれい,也不收錄しゅうろく小說しょうせつ作品さくひんからだれいじょう遵循《ぜん唐詩とうし》,次序じじょ分別ふんべつため:「くびしょみかど后妃こうひ宗室そうしつ諸王しょおう公主こうしゅ;五代亦依此序次,じゅう國主こくしゅだいしんこうしゃくみちつぎねやしゅういたり宦官かんがんよん裔,かくぶん類從るいじゅうへん卷末かんまつ。」

評價ひょうか

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ぜんからぶん》蒐羅ごくため廣博こうはくひろしだいなりしょ以來いらいそくため研究けんきゅうからあさ文學ぶんがくあずか歷史れきし重要じゅうよう典籍てんせき俞樾ひょうゆうとういちだい文苑ぶんえんよし,畢萃於茲;讀唐文者もんじゃ,歎觀とめ矣」。[2]

ぜんからぶんゆうおさむあやまおさむ重出じゅうしゅつとうかけしつれい如:まきさんひゃくじゅうななおさむすめらぎはじめ冉集じょなみこうてき作品さくひん,〈陋室めいため偽作ぎさくりゅう禹錫作品さくひん[註 2]

ぜんからぶんさいため詬病しゃ全書ぜんしょちゅう出處しゅっしょだいだいくだていりょう史料しりょう值,史家しかちんかきせつ「《ぜんからぶんとうかんしょ,其謬ゆう甚,不可ふか不注意ふちゅうい也。」[3]またせつ「《ぜんからぶんちゅう出處しゅっしょいち糊塗ことこと笑也えみや。」[4]

參與さんよ編輯へんしゅう人員じんいん

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清仁きよひとそう御製ぎょせい序文じょぶん
へんこう官員かんいん職名しょくめい

欽定きんていぜんからぶん卷首かんしゅ·よしみけいじゅうきゅうねんうるうがつたてまつむねひらけれつへんこうぜんからぶんしょしん職名しょくめいしょうれつ姓名せいめいあずかかん銜。

格式かくしき

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  • よん部類ぶるいあつまりそうしゅうるいだんだいぞくずいとうだい
  • 現存げんそん版本はんぽんよしみけいじゅうきゅうねん武英たけひで殿どの刊本かんぽん
  • 卷數かんすういちせんれいよんかん(含卷首かんしゅよんかん)。
  • 函數かんすうじゅうはこ
  • 冊數さっすうひゃくれいよんさつ
  • そうていせんそう
  • はんめんまいぺーじめんきゅうぎょうまいくだりじゅうくだりかくよんしゅうそうらんいたしん花口はなぐちたん魚尾よのおちゅうぬい上記じょうき書名しょめい欽定きんていぜんからぶんまきしもためぺーじ

補遺ほい

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ため裨補《ぜんからぶんこうていせいしょちんひろし墀撰《ぜんとう文紀ふみのりごといちひゃくじゅうかんあきらけい有功ゆうこう唐詩とうしごと》,ろくからぶん逸事いつじ兼補けんぽ闕篇;どう咸年あいだ學者がくしゃろうかくせん《讀全からぶん劄記》、《劄記ぞく指出さしで其錯謬者凡130じょう[5]岑仲つとむせん《讀全からぶんさつ》,沿勞かくたとえ,「就小でん洎人めい官爵かんしゃくこおりけん年月としつきとうすうるいぴつ其偶」,また310じょう[6]

ぜんからぶん編成へんせい收錄しゅうろくぶん清末きよすえりくしんげんへんからぶん拾遺しゅういななじゅうかん、《からぶんぞくじつじゅうろくかん遺文いぶんたち3,000へんしん增作ぞうさくしゃきん500にん十世紀唐代新出土文獻數量極其豐富,しゅう紹良おもへんてきとうだい墓誌ぼし匯編》、《とうだい墓誌ぼし匯編ぞくしゅう》,收錄しゅうろく以墓ためぬしてきとうだい文章ぶんしょうやく5500へんつよしぬしへんぜんからぶん補遺ほい》,匯編近年きんねんしん發現はつげんてきとう代人だいにんてき墓誌ぼしとう資料しりょうへんめい索引さくいん作者さくしゃ索引さくいん,2007ねんよし三秦出版社出版九輯;ちんしょうくんへんぜんからぶんへん》,2005ねんゆかり中華ちゅうかしょきょく出版しゅっぱん

註釋ちゅうしゃく

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  1. ^ 其時《からぶん編者へんしゃしょうすうじゅうねんちん其元於《いさおあいだとき筆記ひっきまきいち言明げんめいためちんくにところへん
  2. ^ 《陋室めいざいりゅう禹錫しょしゅうひとし未見みけん收錄しゅうろく後人こうじん質疑しつぎためたくめい偽作ぎさくとうだいちぇまたゆう《陋室めい一文いちぶんまいり文學ぶんがく遺產いさん》,1987ねんだい6なんじ煜《だんりゅう禹錫陋室めい》。

參考さんこう文獻ぶんけん

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引用いんよう

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  1. ^ ぜんからぶん》〈凡例はんれい〉、法式ほうしきぜんそん素堂そどうぶんぞくしゅうまきこうぜんからぶん〉。
  2. ^ 俞樾からぶん拾遺しゅういついで
  3. ^ ちんかき致陳らくもと,1941ねん9がつ3にち。《ひねかき來往らいおう書信しょしんしゅう》,だい1127ぺーじ
  4. ^ ちんかき致陳らくもと,1941ねん6がつ7にち。《ひねかき來往らいおう書信しょしんしゅう》,だい1125ぺーじ
  5. ^ ろうかく讀書どくしょざつ識》まきはち
  6. ^ かん中央ちゅうおう研究けんきゅういん歷史れきしげん研究所けんきゅうじょしゅうかんだいきゅうほんこう收錄しゅうろく於《唐人とうじんゆきだいろく》。

らいみなもと

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  • 欽定きんていぜんからぶん卷首かんしゅ·職名しょくめい
  • ぜんからぶん出版しゅっぱん說明せつめい中華ちゅうかしょきょく,1982ねん.

まいり

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