桃源郷とうげんきょう

桃源郷とうげんきょう（とうげんきょう）は、俗界ぞっかいを離はなれた他界たかい・仙境せんきょう。ユートピアとほぼ同意どういで、陶とう淵ふかし明あきらの『桃もも花はな源げん記き』はかつて存在そんざいした武たけ陵りょう郡ぐん地域ちいきの話はなし^[1]なので「武陵桃源ぶりょうとうげん」（ぶりょうとうげん）ともいう。

概要がいよう[編集へんしゅう]

陶とう淵ふかし明あきらの作品さくひん『桃もも花はな源げん記き』が出処しゅっしょになっている。桃源郷とうげんきょうへの再訪さいほうは不可能ふかのうであり、また、庶民しょみんや役所やくしょの世俗せぞく的てきな目的もくてきにせよ、賢者けんじゃの高尚こうしょうな目的もくてきにせよ、目的もくてきを持もって追求ついきゅうしたのでは到達とうたつできない場所ばしょとされる（日常にちじょう生活せいかつを重視じゅうしする観点かんてん故こ、理想郷りそうきょうに行いけるという迷信めいしんを否定ひていしている）^[2]。

創作そうさくされてから約やく1600年ねん経たった現在げんざいでも『桃もも花はな源げん記き』が鑑賞かんしょうされているのは、既すでに人々ひとびとの心しんの内うちにある存在そんざいを、詩的してきに具象ぐしょう化かしたものが桃源郷とうげんきょうであるためとされる。既すでに知しっているものであるため地上ちじょうの何処どこかではなく、魂たましいの奥底おくそこに存在そんざいしている。桃源郷とうげんきょうに漁師りょうしが再訪さいほう出来できず、劉りゅう子こ驥が訪問ほうもん出来できなかったのは、心しんの外そとに求もとめたからであり、探さがすとかえって見出みだせなくなるという^[3]。

ユートピアとの相違そうい[編集へんしゅう]

陶とう淵ふかし明あかり研究けんきゅう者しゃの伊藤いとう直哉なおやは以下いかの通とおり述のべている。トマス・モアの思想しそう書しょ『ユートピア』に由来ゆらいするユートピア思想しそうの根底こんていにあるのは、理想りそう社会しゃかいを実現じつげんしようとする主体しゅたい的てき意志いしである。この本ほんではユートピアに滞在たいざいした経験けいけんがある人物じんぶつが、モアに現地げんちの様子ようすを紹介しょうかいする設定せっていになっている。ユートピアは遠とおく離はなれた島国しまぐにとされているが、全まったく到達とうたつ不可能ふかのうな夢幻むげんとしてではなく、地理ちりや社会しゃかい制度せいどの意味いみにおいて十分じゅうぶん到達とうたつ可能かのうなものとして描えがかれており、その上うえでユートピア人じんの風俗ふうぞくや法律ほうりつなどの成立せいりつの根拠こんきょの合理ごうり性せいに疑問ぎもんを投なげかけている。モアのユートピアは「夢想むそう郷きょうではなく、普通ふつうの人々ひとびとが努力どりょくしてき上ずきあげた社会しゃかい主義しゅぎ国家こっか」なのである^[4]。陶とう淵ふかし明あかりが生いきていた時代じだいは異い民族みんぞくの征服せいふく王朝おうちょうが次々つぎつぎと現あらわれ中国ちゅうごくの北部ほくぶを支配しはいし漢かん族ぞくは異い民族みんぞくに征服せいふくされた時代じだいであった。漢かん族ぞくは異い民族みんぞくの奴隷どれいになったり、屈服くっぷくされ臣下しんかになっても悲惨ひさんな生活せいかつを送おくっていた。労役ろうえきから南みなみに逃にげた漢かん族ぞくたちは東あずま晋すすむという国くにを建国けんこくしたが東あずま晋すすむも異い民族みんぞくの侵略しんりゃくに苦くるしんでいた。異い民族みんぞくの征服せいふくからもう逃にげる場所ばしょがない漢かん族ぞくの心理しんりから陶とう淵ふかし明あかりの桃源郷とうげんきょうという作品さくひんが作つくられるようになった。陶とう淵ふかし明あかりはユートピアだけを夢見ゆめみた芸術げいじゅつ家かではなかった。彼かれが住すんでいた乱世らんせいでこの山やまの奥おくのユートピアはとても現実げんじつ的てきなイメージを持もっていた^[5]。

一方いっぽうで桃源郷とうげんきょうは、「理想りそう社会しゃかいの実現じつげんを諦あきらめる」という理念りねんを示しめしている。中国ちゅうごく史上しじょう稀まれに見みる混乱こんらん期きの中なか、人々ひとびとは苦悩くのうと悲劇ひげきに満みちた現実げんじつから逃避とうひしようとし、文壇ぶんだんでは遊ゆう仙せん詩し（神仙しんせん郷きょうに遊あそぶ詩し）が現あらわれた。しかし陶とう淵ふかし明あかりの作品さくひんは、題材だいざいは遊ゆう仙せん詩しと似にているが、思想しそうが本質ほんしつ的てきに異ことなるとされる^[6]。陶とう淵ふかし明あかりは、神かみ仙郷せんきょうの実在じつざいを決けっして信しんじず否定ひていしており、日常にちじょう生活せいかつを尊重そんちょうしていた。同時どうじに、書物しょもつを通つうじて神話しんわ世界せかいを自由じゆうに飛翔ひしょうし、神仙しんせんの境地きょうちに至いたっていた^[7]。

孟夏もうか　草木くさき長ちょうじ　屋やを遶りて樹き扶疏たり　衆しゅう鳥とりは託たくする有あるを欣び　吾われも亦また吾わが廬いおりを愛あいす
既すでに耕たがやしては亦またた已すでに種たねゑ　時ときに還かえりて我わが書しょを讀よむ　窮きゅう巷ちまたは深ふか轍わだちを隔へだて　頗すこぶる故人こじんの車くるまを迴らす
歡言しては春はる酒しゅを酌くみ　我わが園えん中ちゅうの蔬を摘つまむ　微雨びう東ひがしより來きたり
汎ひろし覽らんす周しゅう王おうの傳つて　流りゅう觀かんす山海さんかいの圖ず　俯仰ふぎょうして宇宙うちゅうを終おわりせば　樂らくしからずして復ふくた何なに如
（初夏しょかになって草木くさきが伸のび　我わが家やの周まわりには樹木じゅもくが生茂おいしげる　鳥とりたちは巣す作づくりに喜よろこび励はげみ　私わたしも自分じぶんの家いえが気きに入いっている
野良のら仕事しごとに精せいを出だし　家いえに帰かえると読書どくしょを楽たのしむ　狭せまい道みちには車くるまも入はいって来これぬから　煩わずらわしい付つき合あいをしなくて済すむ
近隣きんりんの人ひとたちと歓談かんだんしては酒さけを酌くみ交かわし　肴さかなに庭にわの野草やそうを食くう　小雨こさめが東ひがしの方ほうから降ふってくると　それに伴ともなって気持きもちのよい風ふうも吹ふく
周しゅう王おうの傳つてを精読せいどくし　それに添そえられた絵えに目めをやる　寝ねながらにして宇宙うちゅうのことが分わかるのだから　こんなに楽たのしいことはない）
—陶とう淵ふかし明あきら、讀山海さんかい經けい其一

西洋せいようのユートピア思想しそうは悲惨ひさんな管理かんり社会しゃかいを生うみ出だし潰ついえ去さった。また東洋とうようも二に千せん年ねん以上いじょう前まえに、韓非子かんぴしの思想しそうに支ささえられて現あらわれた秦はた帝国ていこくの専制せんせい支配しはいとその崩壊ほうかいによって、同様どうようの道みちを辿たどった。反面はんめん、『桃もも花はな源げん記き』の描写びょうしゃは「老子ろうし」を踏ふまえつつも、ユートピアの末路まつろを象徴しょうちょうしている。つまり、地上ちじょうにユートピアを作つくろうとする熱意ねついが生うむ惨劇さんげきを表現ひょうげんしている。だが、災厄さいやくから逃のがれた先祖せんぞは、彷徨ほうこうの果はてに辿たどり着ついた地ちがあった。つまり、ユートピアの崩壊ほうかい後ごに姿すがたを現あらわすものが桃源郷とうげんきょうである^[8]。対照たいしょう的てきな両者りょうしゃはもたらす結果けっかも逆ぎゃくになっている。すなわち、主体しゅたい的てき・積極せっきょく的てきなユートピア思想しそうは、その目標もくひょうとは全まったく裏腹うらはらの大おおきな災禍さいかを生しょうじる。消極しょうきょく的てきな桃源郷とうげんきょうは、現実げんじつには何なんの力りょくも持もち得えないが、人間にんげんの精神せいしんに大おおきな慰なぐさめを与あたえ得える^[9]。伊藤いとう直哉なおやは、映画えいが『千せんと千尋ちひろの神隠かみがくし』主題歌しゅだいかの歌詞かし「海うみの彼方かなたには　もう探さがさない　輝かがやくものは　いつもここに　わたしのなかに　みつけられたから」を、『桃もも花はな源げん記き』の良よい注釈ちゅうしゃくとして引用いんようしている^[10]。

思想しそう[編集へんしゅう]

この話はなしは後のちに道教どうきょうの思想しそうや伝承でんしょうと結むすびつき、とりわけ仙人せんにん思想しそうと結むすびついた。山やまで迷まよって仙人せんにんに逢あうという類るいの伝説でんせつや、仙人せんにんになるために食たべる霊力れいりょくのある桃ももの実みや、西王母せいおうぼ伝説でんせつの不老不死ふろうふしの仙せん桃ももなどとの関連かんれんから、桃ももの林はやしの奥おくにある桃源郷とうげんきょうは仙人せんにんの住すまう地ちとも看做みなされるようになった。

しかし、北きた宋そうの蘇そ軾は、「もし仙郷せんきょうであるならば、どうして鶏にわとりをつぶして、漁師りょうしをもてなしたりするものか？」と言いっている。唐とう代だいの李白りはくなどは、桃源郷とうげんきょう＝仙郷せんきょうと考かんがえていたようだが、宋そうの蘇そ軾、王おう安やすし石せきは、あくまでも搾取さくしゅや戦乱せんらんのない人間にんげんの世界せかいだと考かんがえていたようだ。