(Translated by https://www.hiragana.jp/)
三菱財閥 - Wikipedia

三菱みつびし財閥ざいばつ

日本にっぽん財閥ざいばつ
三菱みつびし商会しょうかいから転送てんそう

三菱みつびし財閥ざいばつ(みつびしざいばつ)(mitsubishi)は、かつて存在そんざいした日本にっぽん財閥ざいばつである。戦前せんぜん三井みつい住友すみともとともに日本にっぽんさんだい財閥ざいばつかぞえられた。現在げんざい三菱みつびしグループ

三菱みつびし財閥ざいばつ
 
創業そうぎょうしゃとされる人物じんぶつ 岩崎いわさき
しめぎあきら スリーダイヤ
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん

土佐とさはん出身しゅっしん岩崎いわさき弥太郎やたろう現在げんざい大阪おおさか創立そうりつした三菱みつびし商会しょうかい日本郵船にっぽんゆうせん)を基盤きばんに、明治めいじ政府せいふ許可きょか海運かいうんぎょう独占どくせん1893ねん三菱みつびし合資ごうし会社かいしゃ設立せつりつし、これを持株もちかぶ会社かいしゃとして金融きんゆうぎょう造船ぞうせんぎょう鉱業こうぎょう鉄道てつどう貿易ぼうえきなどあらゆる分野ぶんや進出しんしゅつする。だい世界せかい大戦たいせん連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい (GHQ/SCAP) の指令しれいにより財閥ざいばつとも解体かいたいされた(財閥ざいばつ解体かいたい)が、そのしばらくして企業きぎょう集団しゅうだんとしてのさい統合とうごうすすめられ、現在げんざいのような三菱みつびしグループが形成けいせいされた。

経歴けいれき

編集へんしゅう

財閥ざいばつ起源きげん

編集へんしゅう

三菱みつびし財閥ざいばつは、ぞく住友すみとも三井みついとともにさんだい財閥ざいばつであるが、住友すみとも三井みついさんひゃくねん以上いじょう旧家きゅうかなのにたいして、三菱みつびし明治めいじ政商せいしょうとして、きょまん利益りえきてそのいしずえきずいたというちがいがある。

最初さいしょ弥太郎やたろう巨利きょりるのは、維新いしん政府せいふ樹立じゅりつ全国ぜんこく統一とういつ貨幣かへい制度せいどしたときのことで、かくはん発行はっこうしていた藩札はんさつしん政府せいふげることを事前じぜん察知さっちした弥太郎やたろうは、じゅうまんりょう資金しきん都合つごうして藩札はんさつ大量たいりょう買占かいしめ、それをしん政府せいふらせて莫大ばくだい利益りえきる。この情報じょうほうながしたのはしん政府せいふ高官こうかんとなっていた後藤ごとう象二しょうじろうであるが、いわば弥太郎やたろう最初さいしょから、政商せいしょうとして暗躍あんやくした。

弥太郎やたろう明治維新めいじいしん前後ぜんご土佐とさはん商事しょうじ部門ぶもんであるひらきまことかん事業じぎょう実質じっしつてきになったが、明治めいじ政府せいふ政策せいさく沿って、土佐とさはん商事しょうじ部門ぶもんから撤退てったい余儀よぎなくされるとそれをぎ、海運かいうんぎょうおもぎょうとした[1]。1868ねんうるう4がつ土佐とさはんはんいのちにより長崎ながさき土佐とさ商会しょうかい(ひらきまことかん貨殖かしょくきょく長崎ながさき出張所しゅっちょうしょ)を閉鎖へいさ。1870ねん3がつ土佐とさはんけん参事さんじとなっていた弥太郎やたろうは、土佐とさはん大阪おおさか西にし堀江ほりえ土佐とさはん蔵屋敷くらやしき現在げんざい土佐とさ稲荷いなり神社じんじゃ付近ふきん)ではじめた大阪おおさか西長にしおさ堀川ほりかわ商会しょうかい継承けいしょうし、佐屋さたよし兵衛ひょうえ名義めいぎをもってきゅうじゅうきゅう商会しょうかいあらため、東京とうきょう大阪おおさか高知こうちあいだ廻漕かいそうぎょうはじめた。土佐とさはんからふねさんせき使用しようゆるされ開業かいぎょうはこびとなる。なお、最初さいしょ土佐とさひらくまことかん商社しょうしゃ」とするあんもあったが、これでは土佐とさはんひらきまことかんとのつながりがひょう出過ですぎるので、土佐とさかい別称べっしょうであるきゅうじゅうきゅうなだから命名めいめいされた[2]。さらに廃藩置県はいはんちけんの1971ねん実質じっしつ土佐とさはん外輪がいりん団体だんたいとしてはん首脳しゅのうじん指令しれいけていたきゅうじゅうきゅう商会しょうかいは、はんから独立どくりつしてきゅう土佐とさ藩士はんし組合くみあい結社けっしゃとなる。翌年よくねんいちがつ三川みかわ商会しょうかいあらためた。この時期じき商会しょうかいはまだ弥太郎やたろう個人こじんのものではなく、きゅう土佐とさ藩士はんしとう組合くみあいによる商社しょうしゃであった[3]弥太郎やたろう商会しょうかい首脳しゅのうではあったが、一時いちじ官途かんとくこともかんがえていた。ようやく民間みんかん事業じぎょうきることを決意けついした[4]弥太郎やたろう1873ねん社名しゃめい三菱みつびし商会しょうかい改称かいしょうし、本社ほんしゃ東京とうきょううつ海運かいうん商事しょうじ中心ちゅうしん事業じぎょう展開てんかいした。三菱みつびしマークの使用しよう許可きょかあたえたのは板垣いたがき退助たいすけである[5]弥太郎やたろうは、当時とうじ欧米おうべい海運かいうん会社かいしゃ独占どくせんしていた内外ないがい航路こうろから外国がいこく汽船きせん会社かいしゃ駆逐くちくするため明治めいじ政府せいふ保護ほごけて「郵便ゆうびん汽船きせん三菱みつびし会社かいしゃ」と改称かいしょうし、1875ねん日本にっぽん上海しゃんはいあいだ定期ていき航路こうろひらき、荷為替にがわせ金融きんゆう開始かいしするなどしてはげしい運賃うんちん競争きょうそうすえ米国べいこくパシフィックメイル(en:Pacific Mail Steamship Company) 汽船きせん会社かいしゃ英国えいこくP&O汽船きせん会社かいしゃ撤退てったいさせることに成功せいこう[1][6]、さらに西南せいなん戦争せんそう1877ねん)のさいには軍事ぐんじ輸送ゆそう主役しゅやくつとめ、さらなるきょまんとみ掌中しょうちゅうにする。

商会しょうかいはこの戦争せんそう政府せいふがわ軍隊ぐんたい軍需ぐんじゅひん輸送ゆそういちけたばかりか、戦争せんそう終結しゅうけつのこった軍需ぐんじゅひん処分しょぶんまでまかされ、一挙いっきょ莫大ばくだい利益りえきることになった。政府せいふ西南せいなん戦争せんそう支払しはらった戦費せんぴは4,150まんえんといわれるが、そのうち1,500まんえん三菱みつびしもうけだった。しかし、そのうらには後藤ごとう象二しょうじろうつうじてときの最大さいだい権力けんりょくしゃ大久保おおくぼ利通としみち大隈おおくま重信しげのぶといった政府せいふ要人ようじんうしたてがあったことはうまでもない。大隈おおくま重信しげのぶ岩崎いわさき弥太郎やたろう癒着ゆちゃく糾弾きゅうだんした「大熊おおくま退治たいじ海坊主うみぼうず退治たいじ」の風刺ふうし有名ゆうめいである[7]。(ちなみに三井みつい財閥ざいばつは、長州ちょうしゅうばつ伊藤いとう博文ひろぶみ井上いのうえかおる品川しながわ弥二郎やじろうらに肩入かたいれして対抗たいこうしていた)。

だが、政商せいしょうとして膨張ぼうちょうする三菱みつびしたいして世論せろん批判ひはんがった。そんなさなか弥太郎やたろう後援こうえんしゃだった大久保おおくぼ利通としみち1878ねん暗殺あんさつされ(紀尾井きおいざかへん)、1881ねんには大隈おおくま重信しげのぶ失脚しっきゃくする(明治めいじじゅうよんねん政変せいへん)。いきおいをえた長州ちょうしゅうばつ三井みついはここぞとばかりに三菱みつびしバッシングにってた。その最大さいだいのものが、海運かいうんぎょう独占どくせんしていた三菱みつびしたいして、政府せいふ音頭おんどって財界ざいかいじん渋沢しぶさわ栄一えいいち三井みつい八郎はちろうみぎ衛門えもん大倉おおくら喜八郎きはちろう政商せいしょう結集けっしゅうして設立せつりつした半官半民はんかんはんみん共同きょうどう運輸うんゆ会社かいしゃだった。三菱みつびし共同きょうどう運輸うんゆとの海運かいうんぎょうをめぐるたたかいは、1883ねん4がつから2年間ねんかんつづき、運賃うんちん競争きょうそう開始かいし以前いぜんの10ぶんの1にまでげられるというすさまじさだった。

こうしたさなか、幕末ばくまつ維新いしん激動げきどうのなかを風雲児ふううんじとしてけた弥太郎やたろう病死びょうしする。死後しご三菱みつびし共同きょうどう運輸うんゆ共倒ともだおれをおそれた政府せいふ調停ちょうていにたち、両社りょうしゃ合併がっぺいして日本郵船にっぽんゆうせん発足ほっそく1885ねん9月、資本しほんきん1,100まんえん、うち岩崎いわさき出資しゅっしきん500まんえん)させて、この死闘しとう終止符しゅうしふをうった。明治めいじ18ねん弥太郎やたろうくなったあとは、三菱みつびし重鎮じゅうちんとして、岩崎いわさき一族いちぞくには、弥太郎やたろう従弟じゅうてい豊川とよかわ良平りょうへい近藤こんどう廉平れんぺいつま豊川とよかわ良平りょうへいいもうと)、弥太郎やたろうめい姉妹しまいつまとした荘田しょうだ平五郎へいごろう各務かがみがまきちなどがいた。この豊川とよかわ良平りょうへい近藤こんどう廉平れんぺい荘田しょうだ平五郎へいごろうのほかに、末延すえのぶ道成みちなりくわえた4にんが、弥太郎やたろうきあとの三菱みつびし発展はってんおおいに貢献こうけんし、“三菱みつびし四天王してんのう”といわれた。

弥太郎やたろうのあとをけて三菱みつびし総帥そうすいとなったのが弥太郎やたろうおとうとである岩崎いわさき弥之助やのすけである。弥之助やのすけ三菱みつびし事業じぎょうを「うみからりくへ」と方向ほうこう転換てんかんし、それまで副業ふくぎょうとしていた高島たかしま炭鉱たんこう吉岡よしおか鉱山こうざんだいひゃくじゅうきゅう国立こくりつ銀行ぎんこう長崎造船所なかざきぞうせんじょ地所じしょ千川せんかわ水道すいどう会社かいしゃなどの発展はってんちからをそそぎ、そのためのしん組織そしきとして「三菱みつびししゃ」を創設そうせつする[1]。いわばこれがこう財閥ざいばつ形成けいせいもとになった。1893ねん三菱みつびし合資ごうし会社かいしゃ設立せつりつして岩崎いわさき家産かさん事業じぎょうとを分離ぶんり[1]、この時点じてん三菱みつびし総帥そうすい地位ちいあに弥太郎やたろう長男ちょうなん岩崎いわさき久弥ひさやぎ、さらに大正たいしょう5ねん弥之助やのすけ長男ちょうなん岩崎いわさき小弥太こやたがれ終戦しゅうせんむかえることになる。

このように三菱みつびし財閥ざいばつ弥太郎やたろう弥之助やのすけ兄弟きょうだい家系かけい世襲せしゅうし、同族どうぞく発展はってんしたことから、「独裁どくさい政治せいじ」とわれる。ちなみに三井みついは「番頭ばんがしら政治せいじ」、住友すみともは「法治ほうち主義しゅぎ」とわれている。

三菱みつびし商会しょうかい

編集へんしゅう
 
まるうち三菱みつびし財閥ざいばつ本社ほんしゃ(1920ねん

1874ねん三菱みつびし商会しょうかい本社ほんしゃ大阪おおさかから東京とうきょううつし、郵便ゆうびん汽船きせん三菱みつびし会社かいしゃ改名かいめいかさねる。同年どうねん勃発ぼっぱつした台湾たいわん出兵しゅっぺいでは派遣はけんせん運行うんこう会社かいしゃとして指名しめいされたことで政府せいふからの信頼しんらいた。主力しゅりょく事業じぎょうである海運かいうんぎょうにおいては外国がいこく勢力せいりょく中小ちゅうしょうふね会社かいしゃ徹底的てっていてき駆逐くちくして独占どくせんてき地位ちいた。しかし三菱みつびし独占どくせんせんよここころよおもわない渋沢しぶさわ栄一えいいち井上いのうえかおる品川しながわ弥二郎やじろうらが三菱みつびし対抗たいこうできる海運かいうん会社かいしゃ設立せつりつ画策かくさく政府せいふ出資しゅっし三井みついなどのはん三菱みつびし勢力せいりょく結集けっしゅうして1882ねん7がつ共同きょうどう運輸うんゆ会社かいしゃ設立せつりつよく1883ねん営業えいぎょう開始かいしした。三菱みつびしはいつもとおりの値下ねさ攻勢こうせい共同きょうどう運輸うんゆつぶそうとしたが、政府せいふ後援こうえんのある共同きょうどう運輸うんゆさらなる値下ねさげで対抗たいこうつづく2年間ねんかんはダンピング競争きょうそう海上かいじょう運賃うんちん大幅おおはばやすくなったが両社りょうしゃ完全かんぜん消耗しょうもうし、守勢しゅせいまわった三菱みつびし路線ろせん人員じんいん削減さくげん倒産とうさん寸前すんぜんとなった。さすがに過当かとう競争きょうそうかねた政府せいふあいだはいり、1885ねん共同きょうどう運輸うんゆとの対等たいとう合併がっぺい日本郵船にっぽんゆうせん会社かいしゃ設立せつりつされた。三菱みつびし中心ちゅうしん事業じぎょうである海運かいうんぎょう一時いちじてきうしなったがすうねんには人的じんてきにも経営けいえい実権じっけんにぎることとなった。

1885ねん弥太郎やたろう死去しきょ、そのおとうと弥之助やのすけいだ。岩崎いわさき弥之助やのすけ三菱みつびししゃ改名かいめい1881ねん買収ばいしゅうした高島たかしま炭鉱たんこう1884ねんけた官営かんえい長崎造船所なかざきぞうせんじょ三菱重工業みつびしじゅうこうぎょう)を中核ちゅうかくとして、事業じぎょう再興さいこうはかった。

炭鉱たんこう鉱山こうざん事業じぎょう拡充かくじゅう1887ねん長崎造船所なかざきぞうせんじょはらげとその積極せっきょくてき造船ぞうせんぎょう拡充かくじゅう、1885ねんだいひゃくじゅうきゅう国立こくりつ銀行ぎんこう三菱銀行みつびしぎんこう現在げんざい三菱みつびしUFJ銀行ぎんこう)の買収ばいしゅうによる銀行ぎんこう業務ぎょうむへの本格ほんかく展開てんかいをし、1887ねん東京とうきょう倉庫そうこ三菱倉庫みつびしそうこ)を設立せつりつした。

1893ねん商法しょうほう施行しこうされ、三菱みつびししゃ三菱みつびし合資ごうし会社かいしゃへと改組かいそ同時どうじ弥太郎やたろう長男ちょうなん久弥ひさや三菱みつびし合資ごうしさん代目だいめ社長しゃちょう就任しゅうにん総務そうむ銀行ぎんこう営業えいぎょう炭坑たんこう鉱山こうざん地所じしょ各部かくぶ設置せっちして分権ぶんけん体制たいせいき、長崎造船所なかざきぞうせんじょ拡張かくちょう神戸こうべ下関造船所しものせきぞうせんしょ新設しんせつ麒麟麦酒きりんびーる設立せつりつなど、事業じぎょうがいっそう拡大かくだいされた。

1916ねん大正たいしょう5ねん)に弥之助やのすけ長男ちょうなん小弥太こやたよん代目だいめ社長しゃちょう就任しゅうにん部長ぶちょうせい廃止はいし分野ぶんやべつ担当たんとう事務じむ理事りじいた。

1917ねん三菱みつびし造船ぞうせん三菱製紙みつびしせいし1918ねん三菱商事みつびししょうじ三菱みつびし鉱業こうぎょう1919ねん三菱銀行みつびしぎんこう1920ねん三菱みつびし内燃ないねん製造せいぞう1921ねん三菱電機みつびしでんき次々つぎつぎ分割ぶんかつしていった。そして、満州まんしゅう事変じへんからだい世界せかい大戦たいせんにかけて軍需ぐんじゅ膨張ぼうちょう拡大かくだい背景はいけい三菱みつびし事業じぎょう飛躍ひやくてき拡大かくだいした。

スリーダイヤマークの「三菱みつびし」のだが、これは土佐とさはんあるじ山内やまうち家紋かもんの「みっかしわ」と岩崎いわさき家紋かもんさんかいひし」をわせたものであった。戦前せんぜんの8だい財閥ざいばつ三菱みつびし財閥ざいばつ三井みつい財閥ざいばつ住友すみとも財閥ざいばつ安田やすだ財閥ざいばつ浅野あさの財閥ざいばつ大倉おおくら財閥ざいばつ古河ふるかわ財閥ざいばつ川崎かわさき財閥ざいばつ)のなかでは唯一ゆいいつ創業そうぎょうしゃせいかんさないものとなったが、これはしん政権せいけん明治めいじ政府せいふ奉公ほうこうするという岩崎いわさき気持きもちをあらわしたものだったといわれる。

財閥ざいばつ解体かいたい三菱みつびし

編集へんしゅう

戦後せんご連合れんごうこく方針ほうしんもとづく財閥ざいばつ解体かいたい政策せいさくによって三菱みつびし本社ほんしゃ三菱商事みつびししょうじ解散かいさん三菱重工業みつびしじゅうこうぎょう三菱化成みつびしかせいさん分割ぶんかつまれた。ゆかにあった小弥太こやたは「国民こくみんとしてなすべき当然とうぜん義務ぎむ全力ぜんりょくくしたのであって、かえりみてずべきなにものもない」と反駁はんばくしたが、時代じだいながれにあらがこと出来できなかった。当時とうじ模様もよう三菱みつびし合資ごうし会社かいしゃ社長しゃちょう久弥ひさやは「すっかりはだかになった。土佐とさ郷里きょうり土地とち東京とうきょう墓地ぼちだけがのこった。自分じぶんはこれまで長子ちょうし以外いがい一族いちぞく親戚しんせきもの三菱みつびし本社ほんしゃ参加さんかさせなかったのに(11にんもの指名しめいけるとは)ヒドイものだ」(岩崎いわさき久弥ひさやでん)と憤懣ふんまんやるかたない心情しんじょう吐露とろしている。しかも下谷しもたにかやまちにあった本邸ほんていはアメリカぐん接収せっしゅうされ、ついで財産ざいさんぜいのために手放てばなしたため、久弥ひさや一時いちじその一室いっしつ間借まがりしていた。なお、解体かいたいまえ三菱みつびし財閥ざいばつそう資産しさんは、現在げんざい価値かち換算かんさんして推定すいてい120ちょうえんかんがえられている。

天下てんか三菱みつびし」の基幹きかん産業さんぎょうひとつに不動産ふどうさんがある。「まるうち大家たいかさん」のごと世界せかいてきちょういち等地とうちのビジネスがい土地とち管理かんりしている。財閥ざいばつ解体かいたいにより三菱地所みつびしじしょ関東かんとう不動産ふどうさん不動産ふどうさんふたつに分割ぶんかつされた。不動産ふどうさんまるビルを中心ちゅうしん皇居こうきょ東京とうきょうえきあいだ土地とちのかなりの部分ぶぶん所有しょゆうしゃであった。1952ねんふじもう久二郎きゅうじろう田島たじますすむこう武部たけべさるさく子分こぶん)という二人ふたりおとこ不動産ふどうさんりを仕掛しかけ、ほぼ成功せいこうしかけたという衝撃しょうげきてき事件じけんきた。

この「不動産ふどうさん事件じけん」もあり三菱みつびしさい統合とうごう促進そくしんされた。1954ねん三菱商事みつびししょうじさい合同ごうどう、また、同年どうねんには三菱みつびし主要しゅよう企業きぎょう会長かいちょう社長しゃちょう親睦しんぼく情報じょうほう交換こうかん目的もくてきとした三菱みつびし金曜きんようかいはじめられ、10ねんの1964ねんには三菱重工業みつびしじゅうこうぎょうさい合同ごうどうするなどふたたびグループした。金曜きんようかいは、戦前せんぜん三菱みつびし本社ほんしゃ頂点ちょうてんとした三菱みつびし財閥ざいばつ復活ふっかつではなく、グループ各社かくしゃによる対等たいとうなグループ形成けいせいである。ちなみに、住友すみともグループは1949ねん正式せいしきには、1951ねん4がつ)に白水しろみずかい設立せつりつされ、三井みついグループは、1961ねん二木ふたきかいをそれぞれ設立せつりつしている。

三菱みつびしグループは、とく戦後せんご日本にっぽん高度こうど経済けいざい成長せいちょうに、高度こうど成長せいちょうになった重化学じゅうかがく工業こうぎょう分野ぶんや中核ちゅうかく有力ゆうりょく企業きぎょうおおいというつよみをおおいに発揮はっきし、戦後せんごつづき、日本にっぽん代表だいひょうする企業きぎょうグループのひとつとして発展はってんした。

現在げんざい財閥ざいばつ解体かいたい - 2016ねん現在げんざい

編集へんしゅう

1955ねん鳩山はとやま一郎いちろう内閣ないかく過度かど経済けいざいりょく集中しゅうちゅう排除はいじょほう昭和しょうわ22ねん法律ほうりつだい207ごう)の廃止はいし法案ほうあん内閣ないかく提出ていしゅつだい42ごう)を提出ていしゅつした。衆議院しゅうぎいん商工しょうこう委員いいんかい委員いいんちょう田中たなか角栄かくえいのもとで審議しんぎおこなわれ、「過度かど経済けいざいりょく集中しゅうちゅう排除はいじょほうとう廃止はいしする法律ほうりつ昭和しょうわ30ねん法律ほうりつだい87ごう)」が成立せいりつした[8]

21世紀せいき現在げんざい三菱みつびしグループ金曜きんようかい)には三菱商事みつびししょうじ三菱重工業みつびしじゅうこうぎょう三菱みつびしUFJ銀行ぎんこうの「三菱みつびしグループ御三家ごさんけ」を筆頭ひっとうに、多数たすう日本にっぽん代表だいひょうする企業きぎょう連名れんめいしている。 一部いちぶ企業きぎょうにおける自衛隊じえいたいへの納入のうにゅう実績じっせきおおきさなどから、かつての国防こくぼう国策こくさく会社かいしゃとしてのイメージが現在げんざいでものこっている。高度こうど経済けいざい成長せいちょうからバブル崩壊ほうかいまでは、たとえば、グループの製品せいひん優先ゆうせんてき購入こうにゅうする、グループない問題もんだい負担ふたん各社かくしゃ負担ふたんする、など、グループ同士どうしでの結束けっそく財閥ざいばつけいグループとくら大変たいへんつよめんがあった。「「三菱みつびし」と会社かいしゃ宴会えんかいでは、キリンビールをすのが慣例かんれいである」との飲食いんしょくてん業界ぎょうかいでのジンクスもあったほどである。

しかし、バブル崩壊ほうかい経済けいざいのグローバル以降いこうは、金融きんゆう自由じゆうなみなか、グループあいだ結束けっそくりょく外部がいぶからおもわれているほどつよくはなくなってきている。むしろ、あまりひょうてこないしん財閥ざいばつグループのほうがグループ企業きぎょうあいだ結束けっそくつよいとるべきである。従来じゅうらい川上かわかみ製品せいひんつよく、川下かわした製品せいひんよわいとされてきたイメージがあったが、そのイメージを払拭ふっしょくすべく、かく企業きぎょう製品せいひん開発かいはつおよび市場いちば開拓かいたくはげんでいる。

また、グループない企業きぎょう社員しゃいん毎月まいつき配布はいふされている広報こうほう「マンスリーみつびし」は、2007ねん7がつごうにおいて通算つうさん500ごうたっした。

三菱みつびし財閥ざいばつ歴代れきだい総帥そうすい

編集へんしゅう
三菱みつびし財閥ざいばつ歴代れきだい総帥そうすい
代数だいすう 氏名しめい 在任ざいにん期間きかん おも職歴しょくれき
1 岩崎いわさき弥太郎やたろう 明治めいじ6ねん(1873ねん) - 明治めいじ18ねん(1885ねん) しょくきゅうじゅうきゅう商会しょうかい
2 岩崎いわさき弥之助やのすけ 明治めいじ18ねん(1885ねん) - 明治めいじ26ねん(1893ねん しょく三菱みつびし合資ごうし会社かいしゃ総裁そうさい
3 岩崎いわさき久弥ひさや 明治めいじ26ねん(1893ねん) - 大正たいしょう5ねん(1916ねん) しょく麒麟麦酒きりんびーる創業そうぎょうしゃ
4 岩崎いわさき小弥太こやた 大正たいしょう5ねん(1916ねん) - 昭和しょうわ20ねん(1945ねん しょく三菱重工業みつびしじゅうこうぎょう創業そうぎょうしゃ
5 田中たなかかんさん 昭和しょうわ20ねん(1945ねん) - 昭和しょうわ21ねん(1946ねん しょく三菱商事みつびししょうじ社長しゃちょう

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ a b c d 三菱みつびし財閥ざいばつみ)みつびしざいばつ コトバンク
  2. ^ 岩崎いわさき彌太郎やたろうでん 下巻げかん
  3. ^ 近世きんせい土佐とさ群像ぐんぞう3』グランド印刷いんさつ株式会社かぶしきがいしゃ、2009ねん4がつ1にち、187ぺーじ 
  4. ^ 岩崎いわさき彌太郎やたろうでん 下巻げかん
  5. ^ 岩崎いわさき彌太郎やたろう日記にっき 明治めいじさんねんうるうじゅうがつじゅうはちにちづけ
  6. ^ 日本郵船にっぽんゆうせん歴史れきし だいいちしょう 欧米おうべい列強れっきょう支配しはいから日本にっぽんうみまもるドラマはひとりのおとこ決意けついからはじまった 日本郵船にっぽんゆうせん
  7. ^ 大熊おおくま退治たいじ海坊主うみぼうず退治たいじ風刺ふうし
  8. ^ 過度かど経済けいざいりょく集中しゅうちゅう排除はいじょほうとう廃止はいしする法律ほうりつ昭和しょうわ30ねん法律ほうりつだい87ごう)、改正かいせい法令ほうれい一覧いちらん - 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん日本法令にほんほうれい索引さくいん

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう