三菱 みつびし 財閥 ざいばつ は、俗 ぞく に住友 すみとも 、三井 みつい とともに三 さん 大 だい 財閥 ざいばつ であるが、住友 すみとも 、三井 みつい が三 さん 百 ひゃく 年 ねん 以上 いじょう の史 し を持 も つ旧家 きゅうか なのに対 たい して、三菱 みつびし は明治 めいじ 期 き に政商 せいしょう として、巨 きょ 万 まん の利益 りえき を得 え てその礎 いしずえ を築 きず いたという違 ちが いがある。
最初 さいしょ に弥太郎 やたろう が巨利 きょり を得 え るのは、維新 いしん 政府 せいふ が樹立 じゅりつ し全国 ぜんこく 統一 とういつ 貨幣 かへい 制度 せいど に乗 の り出 だ した時 とき のことで、各 かく 藩 はん が発行 はっこう していた藩札 はんさつ を新 しん 政府 せいふ が買 か い上 あ げることを事前 じぜん に察知 さっち した弥太郎 やたろう は、十 じゅう 万 まん 両 りょう の資金 しきん を都合 つごう して藩札 はんさつ を大量 たいりょう に買占 かいし め、それを新 しん 政府 せいふ に買 か い取 と らせて莫大 ばくだい な利益 りえき を得 え る。この情報 じょうほう を流 なが したのは新 しん 政府 せいふ の高官 こうかん となっていた後藤 ごとう 象二 しょうじ 郎 ろう であるが、いわば弥太郎 やたろう は最初 さいしょ から、政商 せいしょう として暗躍 あんやく した。
弥太郎 やたろう は明治維新 めいじいしん 前後 ぜんご の土佐 とさ 藩 はん の商事 しょうじ 部門 ぶもん である開 ひらき 誠 まこと 館 かん 事業 じぎょう を実質 じっしつ 的 てき に担 にな ったが、明治 めいじ 政府 せいふ の政策 せいさく に沿 そ って、土佐 とさ 藩 はん が商事 しょうじ 部門 ぶもん から撤退 てったい を余儀 よぎ なくされるとそれを引 ひ き継 つ ぎ、海運 かいうん 業 ぎょう を主 おも 業 ぎょう とした[1] 。1868年 ねん 閏 うるう 4月 がつ 、土佐 とさ 藩 はん は藩 はん 命 いのち により長崎 ながさき 土佐 とさ 商会 しょうかい (開 ひらき 誠 まこと 館 かん 貨殖 かしょく 局 きょく 長崎 ながさき 出張所 しゅっちょうしょ )を閉鎖 へいさ 。1870年 ねん 3月 がつ 、土佐 とさ 藩 はん の権 けん 参事 さんじ となっていた弥太郎 やたろう は、土佐 とさ 藩 はん が大阪 おおさか 市 し 西 にし 区 く 堀江 ほりえ の土佐 とさ 藩 はん 蔵屋敷 くらやしき (現在 げんざい の土佐 とさ 稲荷 いなり 神社 じんじゃ 付近 ふきん )で始 はじ めた大阪 おおさか 西長 にしおさ 堀川 ほりかわ 商会 しょうかい を継承 けいしょう し、土 ど 佐屋 さた 善 よし 兵衛 ひょうえ の名義 めいぎ をもって九 きゅう 十 じゅう 九 きゅう 商会 しょうかい と改 あらた め、東京 とうきょう 、大阪 おおさか 、高知 こうち 間 あいだ の廻漕 かいそう 業 ぎょう を始 はじ めた。土佐 とさ 藩 はん から船 ふね 三 さん 隻 せき の使用 しよう を許 ゆる され開業 かいぎょう の運 はこ びとなる。なお、最初 さいしょ 「土佐 とさ 開 ひらく 誠 まこと 館 かん 商社 しょうしゃ 」とする案 あん もあったが、これでは土佐 とさ 藩 はん の開 ひらき 誠 まこと 館 かん とのつながりが表 ひょう に出過 です ぎるので、土佐 とさ 海 かい の別称 べっしょう である九 きゅう 十 じゅう 九 きゅう 灘 なだ から命名 めいめい された[2] 。さらに廃藩置県 はいはんちけん 後 ご の1971年 ねん 、実質 じっしつ は土佐 とさ 藩 はん の外輪 がいりん 団体 だんたい として藩 はん 首脳 しゅのう 陣 じん の指令 しれい を受 う けていた九 きゅう 十 じゅう 九 きゅう 商会 しょうかい は、藩 はん から独立 どくりつ して旧 きゅう 土佐 とさ 藩士 はんし の組合 くみあい 結社 けっしゃ となる。翌年 よくねん 一 いち 月 がつ に三川 みかわ 商会 しょうかい と改 あらた めた。この時期 じき 、商会 しょうかい はまだ弥太郎 やたろう 個人 こじん のものではなく、旧 きゅう 土佐 とさ 藩士 はんし 等 とう の組合 くみあい による商社 しょうしゃ であった[3] 。弥太郎 やたろう は商会 しょうかい の首脳 しゅのう ではあったが、一時 いちじ は官途 かんと に就 つ くことも考 かんが えていた。ようやく民間 みんかん 事業 じぎょう に生 い きることを決意 けつい した[4] 弥太郎 やたろう は1873年 ねん に社名 しゃめい を三菱 みつびし 商会 しょうかい と改称 かいしょう し、本社 ほんしゃ を東京 とうきょう に移 うつ し海運 かいうん と商事 しょうじ を中心 ちゅうしん に事業 じぎょう を展開 てんかい した。三菱 みつびし マークの使用 しよう 許可 きょか を与 あた えたのは板垣 いたがき 退助 たいすけ である[5] 。弥太郎 やたろう は、当時 とうじ 欧米 おうべい の海運 かいうん 会社 かいしゃ が独占 どくせん していた内外 ないがい 航路 こうろ から外国 がいこく 汽船 きせん 会社 かいしゃ を駆逐 くちく するため明治 めいじ 政府 せいふ の保護 ほご を受 う けて「郵便 ゆうびん 汽船 きせん 三菱 みつびし 会社 かいしゃ 」と改称 かいしょう し、1875年 ねん に日本 にっぽん 上海 しゃんはい 間 あいだ の定期 ていき 航路 こうろ を開 ひら き、荷為替 にがわせ 金融 きんゆう を開始 かいし するなどして激 はげ しい運賃 うんちん 競争 きょうそう の末 すえ に米国 べいこく パシフィックメイル(en:Pacific Mail Steamship Company ) 汽船 きせん 会社 かいしゃ と英国 えいこく P&O 汽船 きせん 会社 かいしゃ を撤退 てったい させることに成功 せいこう し[1] [6] 、さらに西南 せいなん 戦争 せんそう (1877年 ねん )の際 さい には軍事 ぐんじ 輸送 ゆそう の主役 しゅやく を務 つと め、さらなる巨 きょ 万 まん の富 とみ を掌中 しょうちゅう にする。
商会 しょうかい はこの戦争 せんそう で政府 せいふ 側 がわ の軍隊 ぐんたい ・軍需 ぐんじゅ 品 ひん の輸送 ゆそう を一 いち 手 て に引 ひ き受 う けたばかりか、戦争 せんそう 終結 しゅうけつ の残 のこ った軍需 ぐんじゅ 品 ひん の処分 しょぶん までまかされ、一挙 いっきょ に莫大 ばくだい な利益 りえき を得 え ることになった。政府 せいふ が西南 せいなん 戦争 せんそう で支払 しはら った戦費 せんぴ は4,150万 まん 円 えん といわれるが、そのうち1,500万 まん 円 えん が三菱 みつびし の儲 もう けだった。しかし、その裏 うら には後藤 ごとう 象二 しょうじ 郎 ろう を通 つう じてときの最大 さいだい の権力 けんりょく 者 しゃ 大久保 おおくぼ 利通 としみち 、大隈 おおくま 重信 しげのぶ といった政府 せいふ 要人 ようじん の後 うし ろ盾 たて があったことは言 い うまでもない。大隈 おおくま 重信 しげのぶ と岩崎 いわさき 弥太郎 やたろう の癒着 ゆちゃく を糾弾 きゅうだん した「大熊 おおくま 退治 たいじ と海坊主 うみぼうず 退治 たいじ 」の風刺 ふうし 画 が は有名 ゆうめい である[7] 。(ちなみに三井 みつい 財閥 ざいばつ は、長州 ちょうしゅう 閥 ばつ の伊藤 いとう 博文 ひろぶみ 、井上 いのうえ 馨 かおる 、品川 しながわ 弥二郎 やじろう らに肩入 かたい れして対抗 たいこう していた)。
だが、政商 せいしょう として膨張 ぼうちょう する三菱 みつびし に対 たい して世論 せろん の批判 ひはん が持 も ち上 あ がった。そんなさなか弥太郎 やたろう の後援 こうえん 者 しゃ だった大久保 おおくぼ 利通 としみち が1878年 ねん に暗殺 あんさつ され(紀尾井 きおい 坂 ざか の変 へん )、1881年 ねん には大隈 おおくま 重信 しげのぶ が失脚 しっきゃく する(明治 めいじ 十 じゅう 四 よん 年 ねん の政変 せいへん )。勢 いきお いをえた長州 ちょうしゅう 閥 ばつ と三井 みつい はここぞとばかりに三菱 みつびし バッシングに打 う って出 で た。その最大 さいだい のものが、海運 かいうん 業 ぎょう を独占 どくせん していた三菱 みつびし に対 たい して、政府 せいふ が音頭 おんど を取 と って財界 ざいかい 人 じん の渋沢 しぶさわ 栄一 えいいち 、三井 みつい 八郎 はちろう 右 みぎ 衛門 えもん ・大倉 おおくら 喜八郎 きはちろう ら政商 せいしょう を結集 けっしゅう して設立 せつりつ した半官半民 はんかんはんみん の共同 きょうどう 運輸 うんゆ 会社 かいしゃ だった。三菱 みつびし と共同 きょうどう 運輸 うんゆ との海運 かいうん 業 ぎょう をめぐる戦 たたか いは、1883年 ねん 4月 がつ から2年間 ねんかん も続 つづ き、運賃 うんちん が競争 きょうそう 開始 かいし 以前 いぜん の10分 ぶん の1にまで引 ひ き下 さ げられるというすさまじさだった。
こうしたさなか、幕末 ばくまつ 、維新 いしん の激動 げきどう のなかを風雲児 ふううんじ として駆 か け抜 ぬ けた弥太郎 やたろう が病死 びょうし する。死後 しご 、三菱 みつびし 、共同 きょうどう 運輸 うんゆ の共倒 ともだお れを恐 おそ れた政府 せいふ が調停 ちょうてい にたち、両社 りょうしゃ は合併 がっぺい して日本郵船 にっぽんゆうせん を発足 ほっそく (1885年 ねん 9月、資本 しほん 金 きん 1,100万 まん 円 えん 、うち岩崎 いわさき 家 か 出資 しゅっし 金 きん 500万 まん 円 えん )させて、この死闘 しとう に終止符 しゅうしふ をうった。明治 めいじ 18年 ねん に弥太郎 やたろう が亡 な くなったあとは、三菱 みつびし の重鎮 じゅうちん として、岩崎 いわさき 一族 いちぞく には、弥太郎 やたろう の従弟 じゅうてい ・豊川 とよかわ 良平 りょうへい や近藤 こんどう 廉平 れんぺい (妻 つま が豊川 とよかわ 良平 りょうへい の妹 いもうと )、弥太郎 やたろう の姪 めい 姉妹 しまい を妻 つま とした荘田 しょうだ 平五郎 へいごろう ・各務 かがみ 鎌 がま 吉 きち などがいた。この豊川 とよかわ 良平 りょうへい 、近藤 こんどう 廉平 れんぺい 、荘田 しょうだ 平五郎 へいごろう のほかに、末延 すえのぶ 道成 みちなり を加 くわ えた4人 にん が、弥太郎 やたろう 亡 な きあとの三菱 みつびし 発展 はってん に大 おお いに貢献 こうけん し、“三菱 みつびし 四天王 してんのう ”といわれた。
弥太郎 やたろう のあとを受 う けて三菱 みつびし 総帥 そうすい となったのが弥太郎 やたろう の弟 おとうと である岩崎 いわさき 弥之助 やのすけ である。弥之助 やのすけ は三菱 みつびし の事業 じぎょう を「海 うみ から陸 りく へ」と方向 ほうこう 転換 てんかん し、それまで副業 ふくぎょう としていた高島 たかしま 炭鉱 たんこう 、吉岡 よしおか 鉱山 こうざん 、第 だい 百 ひゃく 十 じゅう 九 きゅう 国立 こくりつ 銀行 ぎんこう 、長崎造船所 なかざきぞうせんじょ 、地所 じしょ 、千川 せんかわ 水道 すいどう 会社 かいしゃ などの発展 はってん に力 ちから をそそぎ、そのための新 しん 組織 そしき として「三菱 みつびし 社 しゃ 」を創設 そうせつ する[1] 。いわばこれが後 こう の財閥 ざいばつ 形成 けいせい の基 もと になった。1893年 ねん に三菱 みつびし 合資 ごうし 会社 かいしゃ を設立 せつりつ して岩崎 いわさき 家 か の家産 かさん と事業 じぎょう とを分離 ぶんり し[1] 、この時点 じてん で三菱 みつびし 総帥 そうすい の地位 ちい は兄 あに 弥太郎 やたろう の長男 ちょうなん ・岩崎 いわさき 久弥 ひさや が継 つ ぎ、さらに大正 たいしょう 5年 ねん 弥之助 やのすけ の長男 ちょうなん ・岩崎 いわさき 小弥太 こやた に引 ひ き継 つ がれ終戦 しゅうせん を迎 むか えることになる。
このように三菱 みつびし 財閥 ざいばつ は弥太郎 やたろう 、弥之助 やのすけ の兄弟 きょうだい 家系 かけい で世襲 せしゅう し、同族 どうぞく で発展 はってん したことから、「独裁 どくさい 政治 せいじ 」と言 い われる。ちなみに三井 みつい は「番頭 ばんがしら 政治 せいじ 」、住友 すみとも は「法治 ほうち 主義 しゅぎ 」と言 い われている。
丸 まる の内 うち の三菱 みつびし 財閥 ざいばつ 本社 ほんしゃ (1920年 ねん )
1874年 ねん 、三菱 みつびし 商会 しょうかい は本社 ほんしゃ を大阪 おおさか から東京 とうきょう に移 うつ し、郵便 ゆうびん 汽船 きせん 三菱 みつびし 会社 かいしゃ と改名 かいめい を重 かさ ねる。同年 どうねん に勃発 ぼっぱつ した台湾 たいわん 出兵 しゅっぺい では派遣 はけん 船 せん の運行 うんこう 会社 かいしゃ として指名 しめい されたことで政府 せいふ からの信頼 しんらい を得 え た。主力 しゅりょく 事業 じぎょう である海運 かいうん 業 ぎょう においては外国 がいこく 勢力 せいりょく や中小 ちゅうしょう の船 ふね 会社 かいしゃ を徹底的 てっていてき に駆逐 くちく して独占 どくせん 的 てき な地位 ちい を得 え た。しかし三菱 みつびし の独占 どくせん と専 せん 横 よこ を快 こころよ く思 おも わない渋沢 しぶさわ 栄一 えいいち や井上 いのうえ 馨 かおる や品川 しながわ 弥二郎 やじろう らが三菱 みつびし に対抗 たいこう できる海運 かいうん 会社 かいしゃ の設立 せつりつ を画策 かくさく 、政府 せいふ の出資 しゅっし も得 え 、三井 みつい などの反 はん 三菱 みつびし 勢力 せいりょく も結集 けっしゅう して1882年 ねん 7月 がつ に共同 きょうどう 運輸 うんゆ 会社 かいしゃ が設立 せつりつ 、翌 よく 1883年 ねん 営業 えいぎょう を開始 かいし した。三菱 みつびし はいつも通 とお りの値下 ねさ げ攻勢 こうせい で共同 きょうどう 運輸 うんゆ も潰 つぶ そうとしたが、政府 せいふ の後援 こうえん のある共同 きょうどう 運輸 うんゆ は更 さら なる値下 ねさ げで対抗 たいこう 。続 つづ く2年間 ねんかん はダンピング競争 きょうそう で海上 かいじょう 運賃 うんちん は大幅 おおはば に安 やす くなったが両社 りょうしゃ は完全 かんぜん に消耗 しょうもう し、守勢 しゅせい に回 まわ った三菱 みつびし は路線 ろせん や人員 じんいん の削減 さくげん で倒産 とうさん 寸前 すんぜん となった。さすがに過当 かとう 競争 きょうそう を見 み かねた政府 せいふ が間 あいだ に入 はい り、1885年 ねん に共同 きょうどう 運輸 うんゆ との対等 たいとう 合併 がっぺい で日本郵船 にっぽんゆうせん 会社 かいしゃ が設立 せつりつ された。三菱 みつびし は中心 ちゅうしん 事業 じぎょう である海運 かいうん 業 ぎょう を一時 いちじ 的 てき に失 うしな ったが数 すう 年 ねん 後 ご には人的 じんてき にも経営 けいえい の実権 じっけん を握 にぎ ることとなった。
1885年 ねん の弥太郎 やたろう 死去 しきょ 後 ご 、その弟 おとうと ・弥之助 やのすけ が後 ご を継 つ いだ。岩崎 いわさき 弥之助 やのすけ は三菱 みつびし 社 しゃ と改名 かいめい し1881年 ねん に買収 ばいしゅう した高島 たかしま 炭鉱 たんこう と1884年 ねん に借 か り受 う けた官営 かんえい 長崎造船所 なかざきぞうせんじょ (後 ご の三菱重工業 みつびしじゅうこうぎょう )を中核 ちゅうかく として、事業 じぎょう の再興 さいこう を図 はか った。
炭鉱 たんこう 、鉱山 こうざん 事業 じぎょう の拡充 かくじゅう 、1887年 ねん の長崎造船所 なかざきぞうせんじょ の払 はら い下 さ げとその後 ご の積極 せっきょく 的 てき な造船 ぞうせん 業 ぎょう の拡充 かくじゅう 、1885年 ねん に第 だい 百 ひゃく 十 じゅう 九 きゅう 国立 こくりつ 銀行 ぎんこう (後 ご の三菱銀行 みつびしぎんこう →現在 げんざい の三菱 みつびし UFJ銀行 ぎんこう )の買収 ばいしゅう による銀行 ぎんこう 業務 ぎょうむ への本格 ほんかく 展開 てんかい をし、1887年 ねん に東京 とうきょう 倉庫 そうこ (後 ご の三菱倉庫 みつびしそうこ )を設立 せつりつ した。
1893年 ねん に商法 しょうほう が施行 しこう され、三菱 みつびし 社 しゃ は三菱 みつびし 合資 ごうし 会社 かいしゃ へと改組 かいそ 。同時 どうじ に弥太郎 やたろう の長男 ちょうなん ・久弥 ひさや が三菱 みつびし 合資 ごうし の三 さん 代目 だいめ 社長 しゃちょう に就任 しゅうにん 。総務 そうむ 、銀行 ぎんこう 、営業 えいぎょう 、炭坑 たんこう 、鉱山 こうざん 、地所 じしょ の各部 かくぶ を設置 せっち して分権 ぶんけん 体制 たいせい を敷 し き、長崎造船所 なかざきぞうせんじょ の拡張 かくちょう と神戸 こうべ 、下関造船所 しものせきぞうせんしょ の新設 しんせつ 、麒麟麦酒 きりんびーる の設立 せつりつ など、事業 じぎょう がいっそう拡大 かくだい された。
1916年 ねん (大正 たいしょう 5年 ねん )に弥之助 やのすけ の長男 ちょうなん ・小弥太 こやた が四 よん 代目 だいめ 社長 しゃちょう に就任 しゅうにん 。部長 ぶちょう 制 せい を廃止 はいし し分野 ぶんや 別 べつ に担当 たんとう 事務 じむ 理事 りじ を置 お いた。
1917年 ねん に三菱 みつびし 造船 ぞうせん 、三菱製紙 みつびしせいし 、1918年 ねん に三菱商事 みつびししょうじ 、三菱 みつびし 鉱業 こうぎょう 、1919年 ねん に三菱銀行 みつびしぎんこう 、1920年 ねん に三菱 みつびし 内燃 ないねん 機 き 製造 せいぞう 、1921年 ねん に三菱電機 みつびしでんき と次々 つぎつぎ に分割 ぶんかつ 化 か していった。そして、満州 まんしゅう 事変 じへん から第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん にかけて軍需 ぐんじゅ の膨張 ぼうちょう 拡大 かくだい を背景 はいけい に三菱 みつびし の事業 じぎょう は飛躍 ひやく 的 てき に拡大 かくだい した。
スリーダイヤマークの「三菱 みつびし 」の呼 よ び名 な だが、これは土佐 とさ 藩 はん 主 あるじ 山内 やまうち 家 か の家紋 かもん の「三 みっ つ柏 かしわ 」と岩崎 いわさき 家 か の家紋 かもん 「三 さん 階 かい 菱 ひし 」を組 く み合 あ わせたものであった。戦前 せんぜん の8大 だい 財閥 ざいばつ (三菱 みつびし 財閥 ざいばつ 、三井 みつい 財閥 ざいばつ 、住友 すみとも 財閥 ざいばつ 、安田 やすだ 財閥 ざいばつ 、浅野 あさの 財閥 ざいばつ 、大倉 おおくら 財閥 ざいばつ 、古河 ふるかわ 財閥 ざいばつ 、川崎 かわさき 財閥 ざいばつ )の中 なか では唯一 ゆいいつ 創業 そうぎょう 者 しゃ の姓 せい を冠 かん さないものとなったが、これは新 しん 政権 せいけん の明治 めいじ 政府 せいふ に奉公 ほうこう するという岩崎 いわさき の気持 きも ちを表 あらわ したものだったといわれる。
戦後 せんご 、連合 れんごう 国 こく の方針 ほうしん に基 もと づく財閥 ざいばつ 解体 かいたい 政策 せいさく によって三菱 みつびし 本社 ほんしゃ 、三菱商事 みつびししょうじ は解散 かいさん 。三菱重工業 みつびしじゅうこうぎょう 、三菱化成 みつびしかせい が三 さん 分割 ぶんかつ に追 お い込 こ まれた。死 し の床 ゆか にあった小弥太 こやた は「国民 こくみん としてなすべき当然 とうぜん の義務 ぎむ に全力 ぜんりょく を尽 つ くしたのであって、顧 かえり みて恥 は ずべき何 なに ものもない」と反駁 はんばく したが、時代 じだい の流 なが れに抗 あらが う事 こと は出来 でき なかった。当時 とうじ の模様 もよう を三菱 みつびし 合資 ごうし 会社 かいしゃ 社長 しゃちょう の久弥 ひさや は「すっかり裸 はだか になった。土佐 とさ の郷里 きょうり の土地 とち と東京 とうきょう の墓地 ぼち だけが残 のこ った。自分 じぶん はこれまで長子 ちょうし 以外 いがい は一族 いちぞく 親戚 しんせき の者 もの も三菱 みつびし 本社 ほんしゃ に参加 さんか させなかったのに(11人 にん もの指名 しめい を受 う けるとは)ヒドイものだ」(岩崎 いわさき 久弥 ひさや 伝 でん )と憤懣 ふんまん やるかたない心情 しんじょう を吐露 とろ している。しかも下谷 しもたに の茅 かや 町 まち にあった本邸 ほんてい はアメリカ軍 ぐん に接収 せっしゅう され、ついで財産 ざいさん 税 ぜい のために手放 てばな したため、久弥 ひさや は一時 いちじ その一室 いっしつ を間借 まが りしていた。なお、解体 かいたい 前 まえ の三菱 みつびし 財閥 ざいばつ の総 そう 資産 しさん は、現在 げんざい 価値 かち に換算 かんさん して推定 すいてい 120兆 ちょう 円 えん と考 かんが えられている。
「天下 てんか の三菱 みつびし 」の基幹 きかん 産業 さんぎょう の一 ひと つに不動産 ふどうさん がある。「丸 まる の内 うち の大家 たいか さん」の如 ごと く世界 せかい 的 てき な超 ちょう 一 いち 等地 とうち のビジネス街 がい の土地 とち を管理 かんり している。財閥 ざいばつ 解体 かいたい により三菱地所 みつびしじしょ は関東 かんとう 不動産 ふどうさん 、陽 ひ 和 わ 不動産 ふどうさん の二 ふた つに分割 ぶんかつ された。陽 ひ 和 わ 不動産 ふどうさん は丸 まる ビルを中心 ちゅうしん に皇居 こうきょ と東京 とうきょう 駅 えき の間 あいだ の土地 とち のかなりの部分 ぶぶん の所有 しょゆう 者 しゃ であった。1952年 ねん 、藤 ふじ 網 もう 久二郎 きゅうじろう と田島 たじま 将 すすむ 光 こう (武部 たけべ 申 さる 策 さく の子分 こぶん )という二人 ふたり の男 おとこ は陽 ひ 和 わ 不動産 ふどうさん の乗 の っ取 と りを仕掛 しか け、ほぼ成功 せいこう しかけたという衝撃 しょうげき 的 てき な事件 じけん が起 お きた。
この「陽 ひ 和 わ 不動産 ふどうさん 乗 の っ取 と り事件 じけん 」もあり三菱 みつびし の再 さい 統合 とうごう は促進 そくしん された。1954年 ねん に三菱商事 みつびししょうじ が再 さい 合同 ごうどう 、また、同年 どうねん には三菱 みつびし 主要 しゅよう 企業 きぎょう の会長 かいちょう ・社長 しゃちょう の親睦 しんぼく と情報 じょうほう 交換 こうかん を目的 もくてき とした三菱 みつびし 金曜 きんよう 会 かい が始 はじ められ、10年 ねん 後 ご の1964年 ねん には三菱重工業 みつびしじゅうこうぎょう も再 さい 合同 ごうどう するなど再 ふたた びグループ化 か した。金曜 きんよう 会 かい は、戦前 せんぜん の三菱 みつびし 本社 ほんしゃ を頂点 ちょうてん とした三菱 みつびし 財閥 ざいばつ の復活 ふっかつ ではなく、グループ各社 かくしゃ による対等 たいとう なグループ形成 けいせい である。ちなみに、住友 すみとも グループは1949年 ねん (正式 せいしき には、1951年 ねん 4月 がつ )に白水 しろみず 会 かい が設立 せつりつ され、三井 みつい グループは、1961年 ねん に二木 ふたき 会 かい をそれぞれ設立 せつりつ している。
三菱 みつびし グループは、特 とく に戦後 せんご の日本 にっぽん の高度 こうど 経済 けいざい 成長 せいちょう 期 き に、高度 こうど 成長 せいちょう を担 にな った重化学 じゅうかがく 工業 こうぎょう 分野 ぶんや に中核 ちゅうかく 有力 ゆうりょく 企業 きぎょう が多 おお いという強 つよ みを大 おお いに発揮 はっき し、戦後 せんご も引 ひ き続 つづ き、日本 にっぽん を代表 だいひょう する企業 きぎょう グループの一 ひと つとして発展 はってん した。
現在 げんざい (財閥 ざいばつ 解体 かいたい 後 ご - 2016年 ねん 現在 げんざい )
編集 へんしゅう
この節 ふし には独自 どくじ 研究 けんきゅう が含 ふく まれているおそれがあります。 問題 もんだい 箇所 かしょ を検証 けんしょう し出典 しゅってん を追加 ついか して、記事 きじ の改善 かいぜん にご協力 きょうりょく ください。議論 ぎろん はノート を参照 さんしょう してください。(2008年 ねん 2月 がつ )
1955年 ねん 、鳩山 はとやま 一郎 いちろう 内閣 ないかく は過度 かど 経済 けいざい 力 りょく 集中 しゅうちゅう 排除 はいじょ 法 ほう (昭和 しょうわ 22年 ねん 法律 ほうりつ 第 だい 207号 ごう )の廃止 はいし 法案 ほうあん (内閣 ないかく 提出 ていしゅつ 第 だい 42号 ごう )を提出 ていしゅつ した。衆議院 しゅうぎいん 商工 しょうこう 委員 いいん 会 かい 委員 いいん 長 ちょう 田中 たなか 角栄 かくえい のもとで審議 しんぎ が行 おこな われ、「過度 かど 経済 けいざい 力 りょく 集中 しゅうちゅう 排除 はいじょ 法 ほう 等 とう を廃止 はいし する法律 ほうりつ (昭和 しょうわ 30年 ねん 法律 ほうりつ 第 だい 87号 ごう )」が成立 せいりつ した[8] 。
21世紀 せいき 現在 げんざい の三菱 みつびし グループ (金曜 きんよう 会 かい )には三菱商事 みつびししょうじ 、三菱重工業 みつびしじゅうこうぎょう 、三菱 みつびし UFJ銀行 ぎんこう の「三菱 みつびし グループ御三家 ごさんけ 」を筆頭 ひっとう に、多数 たすう の日本 にっぽん を代表 だいひょう する企業 きぎょう が連名 れんめい している。
一部 いちぶ の企業 きぎょう における自衛隊 じえいたい への納入 のうにゅう 実績 じっせき の大 おお きさなどから、かつての国防 こくぼう 国策 こくさく 会社 かいしゃ としてのイメージが現在 げんざい でも残 のこ っている。高度 こうど 経済 けいざい 成長 せいちょう からバブル崩壊 ほうかい 期 き までは、例 たと えば、グループの製品 せいひん を優先 ゆうせん 的 てき に購入 こうにゅう する、グループ内 ない の問題 もんだい の負担 ふたん を各社 かくしゃ で負担 ふたん する、など、グループ同士 どうし での結束 けっそく が他 た の財閥 ざいばつ 系 けい グループと比 くら べ大変 たいへん 強 つよ い面 めん があった。「「三菱 みつびし 」と名 な の付 つ く会社 かいしゃ の宴会 えんかい では、キリンビールを出 だ すのが慣例 かんれい である」との飲食 いんしょく 店 てん 業界 ぎょうかい でのジンクスもあった程 ほど である。
しかし、バブル崩壊 ほうかい 、経済 けいざい のグローバル化 か 以降 いこう は、金融 きんゆう 自由 じゆう 化 か の波 なみ の中 なか 、グループ間 あいだ の結束 けっそく 力 りょく は外部 がいぶ から思 おも われているほど強 つよ くはなくなってきている。むしろ、あまり表 ひょう に出 で てこない新 しん 財閥 ざいばつ グループの方 ほう がグループ企業 きぎょう 間 あいだ の結束 けっそく が強 つよ いと見 み るべきである。従来 じゅうらい は川上 かわかみ 製品 せいひん に強 つよ く、川下 かわした 製品 せいひん に弱 よわ いとされてきたイメージがあったが、そのイメージを払拭 ふっしょく すべく、各 かく 企業 きぎょう は製品 せいひん 開発 かいはつ および市場 いちば 開拓 かいたく に励 はげ んでいる。
また、グループ内 ない 企業 きぎょう の社員 しゃいん に毎月 まいつき 配布 はいふ されている広報 こうほう 誌 し 「マンスリーみつびし」は、2007年 ねん 7月 がつ 号 ごう において通算 つうさん 500号 ごう に達 たっ した。