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天道 - Wikipedia

天道てんとう

太陽たいよう天空てんくう通過つうかするみちてんじて、自然しぜん摂理せつり天理てんり

天道てんとう(てんどう、てんとう[1])とは、太陽たいよう天空てんくう通過つうかするみちをさすが、天体てんたい運行うんこうには一定いってい規則きそくせいがあるため、てんじて天然てんねん自然しぜん摂理せつり天理てんり意味いみするようになった。古代こだい中国ちゅうごく原始げんし宗教しゅうきょうにおいて、天地てんち存在そんざいする万物ばんぶつうんさくてん意思いしである「天命てんめい」によってめられたものであるとする思想しそう存在そんざいした。これが儒教じゅきょう経典きょうてんなどをとおして日本にっぽんでもられるようになり、さらに仏教ぶっきょう日本にっぽん在来ざいらい信仰しんこうからも影響えいきょうけ、宿命しゅくめいろんてき要素ようそ天道てんとう思想しそうとして中世ちゅうせいから近世きんせいにかけてひろとなえられた。

戦国せんごく時代じだい天道てんとう思想しそう

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戦国せんごく時代じだい日本にっぽんにおいて、神仏しんぶつ習合しゅうごうくわえさらに儒教じゅきょう(とりわけ朱子学しゅしがく)の思想しそうつよざりい、最終さいしゅうてきに「天運てんうん」「天命てんめい」があらゆる物事ものごと根源こんげんにあるとする、中世ちゅうせい日本にっぽんどくゆう思想しそう体系たいけい・「天道てんとう思想しそう」が発生はっせいした[2][3]個人こじん内面ないめん行動こうどうちょう自然しぜんてき天道てんとうられ運命うんめい左右さゆうされ、そのおこないがひどければほろびるという、一神教いっしんきょうてき発想はっそうである。

中世ちゅうせい日本にっぽん学者がくしゃ神田かんだ千里せんりによれば、戦国せんごく時代じだい後半こうはんには天道てんとう思想しそう共通きょうつう枠組わくぐみとした「ひとつの体系たいけいある宗教しゅうきょう」を構成こうせいして、大名だいみょうふくめた武士ぶしそう広範こうはん庶民しょみんなど階層かいそうわず当時とうじ日本人にっぽんじんあいだふか浸透しんとうしていた。当時とうじ日本にっぽん進出しんしゅつはじめたイエズスかい宣教師せんきょうしたちにもキリスト教きりすときょうたものだとめられ、布教ふきょうのためかみを「天道てんとう」と意訳いやく同一どういつしてふつそう武士ぶし庶民しょみん論議ろんぎすることで宣教せんきょうしようとした。キリシタン大名だいみょうキリスト教きりすときょうかみを「天道てんとう」と表現ひょうげんする場合ばあいがあったとされる[4]

代表だいひょうてき思想しそうしゃ一人ひとりでもない歴史れきし太田おおた牛一ごいちで、その著書ちょしょ信長のぶながこう』において、ひと行為こうい戦争せんそう生死せいしはどれも「天道てんとう」がすべてさだめているとし、幸運こううんときは「天道てんとう照覧しょうらん」として、ぎゃく主君しゅくん弑殺した武将ぶしょう非業ひごうげるなどの事柄ことがらについては「天道てんとうおそろしきこと」としょうし、天道てんとう思想しそう基底きていにあるとする因果いんがてき運命うんめいろん主張しゅちょうした。延暦寺えんりゃくじのような仏教ぶっきょうだい寺院じいんでも「天道てんとう」にさからえない存在そんざいで、そのおそれをらずそむけば、織田おだ信長のぶなが比叡山ひえいざん焼討やきうちのように滅亡めつぼうするとされている。『太閤たいこうさま軍記ぐんきない』では非業ひごうげた武将ぶしょうたちの最後さいごかたり、その悲惨ひさん天命てんめいとしてかならず「天道てんとうおそろしきこと」とめくくっている[3]

そのの「天道てんとう

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日本にっぽんでは、太陽たいよう天道てんとうさま(おてんとさま)ともう。世界せかい各地かくち太陽たいようかみとしてまつられ、太陽たいようしん存在そんざいはよくられる。日本にっぽん場合ばあいは、てんあきら大神おおがみ(アマテラスオオカミ)が太陽たいよう神格しんかくとされている。『古事記こじき』や『日本書紀にほんしょき』には、スサノヲノミコトの乱暴らんぼう狼藉ろうぜきのために、てんあきら大神おおがみてん岩戸いわとかくれてなかやみつつまれるとあり、太陽たいようしん性格せいかく顕在けんざいする。伊勢いせ内宮ないくうとしてられるすめらぎ大神宮だいじんぐうには祭神さいじんとしてまつられている。

平安へいあん時代じだい末期まっき以降いこう本地垂迹ほんじすいじゃく思想しそう展開てんかいによって、神仏しんぶつ習合しゅうごうかんがえがふかまると、本地ほんじ大日如来だいにちにょらい垂迹すいじゃくてんあきら大神おおがみとなった。中世ちゅうせいには神仏しんぶつ習合しゅうごうてんあきら大神おおがみ中心ちゅうしん展開てんかいし、『日本書紀にほんしょき』をえて「中世ちゅうせい本紀ほんぎ」がされた[5]民間みんかんでは、てんとうむし天道虫てんとうむしく)を太陽たいよう見立みたてた。

千葉ちばの「天道てんとう念仏ねんぶつ

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千葉ちばけんでは、きゅう千葉ちばぐん中心ちゅうしんとして、天道てんとう念仏ねんぶつしょうし、むらごとにはる2がつ・3月に出羽三山でわさんざんをかたどった祭壇さいだんつくり、念仏ねんぶつとな作物さくもつ豊作ほうさくいのるなど、農耕のうこう儀礼ぎれい展開てんかいした。船橋ふなばしについては『江戸えど名所めいしょ図会ずえ』(1834~1836)にえがかれた記録きろくのこ[6][7]はる彼岸ひがんころおこなわれることがおおく、浄土じょうど信仰しんこうとも混淆こんこう太陽たいようおがんでいた彼岸ひがん極楽往生ごくらくおうじょうねがった。祭壇さいだん出羽三山でわさんざんをかたどり、梵天ぼんてんて、中央ちゅうおうそうおくいん湯殿山ゆどのさんはいした。湯殿山ゆどのさんは、胎蔵かい大日如来だいにちにょらい本地ほんじてんあきら大神おおがみ垂迹すいじゃくとしており、太陽たいよう信仰しんこう習合しゅうごうした[8]千葉ちばけんには出羽三山でわさんざんこうひろがり、天道てんとう念仏ねんぶつ修験しゅげんどう影響えいきょうつよけた民間みんかん行事ぎょうじとなった。

山形やまがたけん天童てんどう起源きげんなので天道てんとう念仏ねんぶつとなったという俗説ぞくせつもある。

播磨はりまの「にちとも

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西日本にしにほん播磨はりま地方ちほうでははる彼岸ひがんいちにちちゅう太陽たいよううごきにしたがって、むらひがしから西にしあるいていた彼岸ひがんねがう「にちとも(ひのとも)」という行事ぎょうじおこなわれていた[9][10]

対馬つしまでは独自どくじ天道てんとう信仰しんこうのこる。太陽たいようひかり女性じょせい陰部いんぶんではらみ、子供こどもむという太陽たいようかん精神せいしんばなしつたえられ、ははしんしんとしてまつるようになったという。ははしん山麓さんろくしん山上さんじょうまつり、天神てんじんたる太陽たいようおがむことがおおく、やま天道てんとうさんとして禁忌きんき聖地せいちとされる。しん天童てんどう天道てんとう法師ほうしともわれる[11]石塔せきとうつくってやま太陽たいようおが信仰しんこうがあり、対馬つしま南岸なんがん位置いちする豆酘つつひがし浅藻あざも(あざも)にあるオソロシドコロ(おそろししょ信仰しんこう禁足きんそく)の、八丁はっちょうかく名高なだかい。多久たくあたまたましい神社じんじゃ奉仕ほうししていたきょうそう天道てんとうまつり、あかまいあかたくして豊穣ほうじょう祈願きがんした。ともそう観音堂かんのんどう奉仕ほうし天道てんとうまつ神仏しんぶつ習合しゅうごう行事ぎょうじつづけてきた。天道てんとう母子ぼししんのうちのしんで、ははしん観音かんのん習合しゅうごうしたのである。旧暦きゅうれき正月しょうがつ10にちの「あたま神事しんじ」はいち年間ねんかん神仏しんぶつ奉仕ほうししてあかまい栽培さいばいおこなってきたあたまが、つぎとしあたまわた行事ぎょうじ厳格げんかくおこなわれてきた[12]北部ほくぶ佐護さごみなと天神てんじん多久たくあたまたましい(あまのたくつたま)神社じんじゃ天道てんとう信仰しんこう山上さんじょう御子みこしんまつり、山麓さんろく水辺みずべにあるかみたましい(かみむすび)神社じんじゃには天道てんとうははしんまつり、母子ぼししん信仰しんこうである[13]天道てんとうまつりは、太陽たいようおがむとともに、天道てんとうさん崇拝すうはいし、べいむぎ収穫しゅうかく感謝かんしゃねがった。対馬つしま中部ちゅうぶでは、きゅう6がつヤクマまつりで石塔せきとうててやまおが習俗しゅうぞく天道てんとう信仰しんこう名残なごりで、むぎ収穫しゅうかくさいでもあった。木坂きさか青海あおみでは現在げんざいもおこなわれている[14]天道てんとう信仰しんこう母子ぼししん基盤きばんにあったので、八幡やはた信仰しんこう習合しゅうごうした。太陽たいようによってはらんだ子供こども天神てんじんとしてまつ天道てんとう信仰しんこううえに、ははしん神功じんぐう皇后こうごう)としん応神天皇おうじんてんのう)をまつ八幡やはた信仰しんこうかさなった。母子ぼししん信仰しんこうは、日本にっぽん神話しんわむすけられて、豊玉とよたまひめいのちちがや草葺くさぶきごういのちとも解釈かいしゃくされた。しかし、母子ぼししん信仰しんこう基層きそうには、海神わたつみ山神さんじん祭祀さいしがあり、太陽たいようまつ天道てんとう信仰しんこう融合ゆうごうしていた。元々もともと自然しぜん崇拝すうはいはっした祭祀さいしが、歴史れきしじょう人物じんぶつ仮託かたくされ、社人しゃにんによる神話しんわさい解釈かいしゃく導入どうにゅうされ、明治めいじ時代じだい以降いこう国家こっか神道しんとう展開てんかいによって、祭神さいじん日本にっぽん神話しんわかみ々にみかえられ、式内しきないしゃ比定ひていされて祭神さいじん天皇てんのうにつながるかみみつるさい編成へんせいされた。

日本にっぽん地名ちめい

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地名ちめいでは、名古屋なごや天白てんぱく天道てんとう福岡ふくおかけん飯塚いいづか天道てんとう鹿児島かごしまけん出水いずみぐん長島ながしままち天道てんとうさん山形やまがたけん天童てんどうなどがある。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 広辞苑こうじえんだいはん)、岩波書店いわなみしょてん、1998ねんISBN 4000801120
  2. ^ 伊藤いとうさとし神道しんとうとはなにかーしんふつ日本にっぽん中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ)2012ねん P.245-248
  3. ^ a b 谷口たにぐち克広かつひろ信長のぶなが政略せいりゃく学研がっけん 2013ねん、P.132-133<引用いんようもとは、石毛いしげただし戦国せんごく安土あづち桃山ももやま時代じだい倫理りんり思想しそう天道てんとう思想しそう展開てんかい吉川弘文館よしかわこうぶんかん 1965ねん日本にっぽんにおける倫理りんり思想しそう展開てんかい 日本にっぽん思想しそう研究けんきゅうかい紀要きよう2』>
  4. ^ 神田かんだ千里せんり宗教しゅうきょう戦国せんごく時代じだい講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ)2010ねん P.49-87 ISBN 978-4-06-258459-3
  5. ^ 伊藤いとうさとし中世ちゅうせいてんあきら大神おおがみ信仰しんこう研究けんきゅう法蔵館ほうぞうかん、2011ねん
  6. ^ 斎藤さいとうがつ岑『江戸えど名所めいしょ図会ずえ』6かん筑摩書房ちくましょぼう(ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ)、2009ねん
  7. ^ 江戸えど名所めいしょ図会ずえ 1927, p. 363.
  8. ^ 鈴木すずきただしたかし念仏ねんぶつ修験しゅげん千葉ちばけん船橋ふなばし天道てんとう念仏ねんぶつ事例じれいから」福田ふくだあきら山下やました欣一きんいちへんみこめくらそう伝承でんしょう世界せかいだい3しゅう三弥みつや書店しょてん、2006ねん、86-135ぺーじ
  9. ^ にちとも(ひのとも)とは - コトバンク
  10. ^ にちともとは - 季語きご季題きだい Weblio辞書じしょ
  11. ^ 鈴木すずき棠三対馬つしま神道しんとうさんいち書房しょぼう、1972ねん
  12. ^ 鈴木すずきただしたかし豆酘つつ祭祀さいし村落そんらく空間くうかん」『祭祀さいし空間くうかんのコスモロジーー対馬つしま沖縄おきなわ春秋しゅんじゅうしゃ、2004ねん、263-358ぺーじ
  13. ^ 鈴木すずきただしたかし佐護さごみなと祭祀さいし村落そんらく空間くうかん」『祭祀さいし空間くうかんのコスモロジーー対馬つしま沖縄おきなわ春秋しゅんじゅうしゃ、2004ねん
  14. ^ 鈴木すずきただしたかし木坂きさか祭祀さいし村落そんらく空間くうかん」「青海あおみ祭祀さいし村落そんらく空間くうかん」『祭祀さいし空間くうかんのコスモロジーー対馬つしま沖縄おきなわ春秋しゅんじゅうしゃ、2004ねん、25-115ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 神田かんだ千里せんり宗教しゅうきょう戦国せんごく時代じだい講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ〉、2010ねんISBN 978-4-06-258459-3 
  • 斎藤さいとう幸雄ゆきおまきなな ゆら光之みつゆき 天道てんとう念佛ねんぶつ」『江戸えど名所めいしょ図会ずえ』 4かん有朋ありともどう書店しょてん、1927ねん、362-364ぺーじNDLJP:1174161/186 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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