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小槻隆職 - Wikipedia

しょうけやきたかししょく

平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代じだい貴族きぞくしょうけやき政重まさしげ三男さんなんせいじょうひだりだい小槻おおづくどおりじきのうじき大膳だいぜんけんあきら)、みちままし法光寺ほうこうじ検校けんぎょうかちらくいん検校けんぎょう横川よこがわちょう吏、ひがしりんぼうさん法印ほういん)、うけたまわ

しょうけやき たかししょく(おづき の たかもと、のべ元年がんねん1135ねん〉 - たてひさ9ねん10月29にち1198ねん11月29にち〉)は、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよにかけての貴族きぞくひだりだいしょうけやき政重まさしげ三男さんなん官位かんいせいじょうひだりだい

経歴けいれき

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こう白河しらかわ院政いんせい初頭しょとうもと3ねん1158ねん)ごろひだりしょうにんぜられるが、おう元年がんねん1161ねんあにしょうけやきひさしぎょう摂津せっつもり辞任じにんえに佐渡さわたりまもるとして地方ちほうかんてんじ、ふみじゅんあずかるためにかさねていたかんとしてのキャリアをめられてしまう[1]。のちしたがえじょうまで昇進しょうしんする。

ちょうひろし2ねん1164ねん)12月にながぎょうやまいし、ゆか大夫たいふさん博士はかせ大炊おおいあたま佐渡さどこく知行ちぎょうするための文書ぶんしょなどを子息しそくこうぼうゆずった。しかし、強行きょうこうすすめられたこの相続そうぞくたいして、たかししょく異議いぎはさむ。結局けっきょく二条天皇にじょうてんのう指示しじによって、よくちょうひろし3ねん1165ねん正月しょうがつたかししょくひだりだい大夫たいふ)に、こうぼうさん博士はかせにんぜられた[1]。この時点じてんで、たかししょくは30さいこうぼうは17さいであったが、大夫たいふ地位ちいるためには、それまでの経験けいけん重視じゅうしするのが当時とうじ一般いっぱんてき認識にんしきであったことから、13さい年長ねんちょうたかししょく有利ゆうりであった[2]。ここでしょうけやき大夫たいふたかししょくりゅう(のち壬生みぶりゅう)とさん博士はかせこうぼうりゅう(のち大宮おおみやりゅう)に分裂ぶんれつした。

りゅうしょくじんやす2ねん1167ねん)までにせいじょせられ、うけたまわ4ねん1180ねん安徳天皇あんとくてんのうだい嘗会では悠紀ゆき行事ぎょうじつとめた。しかし、次々つぎつぎ兼官けんかんびていたあにながぎょうくらべて官職かんしょくにはめぐまれず[3]たかししょくながぎょうから大夫たいふ継承けいしょうすることはできたが、ながぎょう任官にんかんのために駆使くししていたと想定そうていされる人脈じんみゃくまではぐことができなかったとみられる[4]一方いっぽうで、たかししょく大夫たいふ立場たちば利用りようして、その経済けいざい基盤きばんとなるかんくりや便びん太政官だじょうかんくりやりょう)の開発かいはつたて精力せいりょくてきっている[5]たかししょく大夫たいふいだときには、便びん陸奥みちのくこく安達あだちたもつ常陸ひたちこく吉田よしだしゃつとむヶ所かしょのみであったが、たかししょくにより若狭わかさこく国富くにとみたもつ美作みさくこく田原たはらしょう備後びんごこく世羅せらしょう讃岐さぬきこく柞原くばらしょうよんヶ所かしょくわえた[6]たかししょくはこれまでしょうけやきしょくとしていたさん博士はかせぐことができなかったことから、自身じしん地位ちい確立かくりつするために、大夫たいふとしてかんかた統制とうせいすることに専念せんねんおおくの便びん整備せいびするとともに、ろくかんじん編成へんせいしてこれを経営けいえいした。こうして、たかししょくかんぶん殿どのかんつとむ文庫ぶんこという情報じょうほうめんかんくりやりょうをはじめとする経済けいざいめんろくかんじん編成へんせいした人事じんじめんなど、多角たかくてき主導しゅどうけん掌握しょうあくすることで、はじめて壬生みぶりゅう小槻おおづくによるかんかた主宰しゅさい実現じつげんしたと評価ひょうかされる[7]。これは、安元やすもと3ねん1177ねん)に発生はっせいした安元やすもと大火たいかにより、たかししょく少々しょうしょうちょうあんるいのぞくほとんどの文書ぶんしょ焼失しょうしつしているが[8]、その地位ちいはほとんどらいでいないことからもうかがわれる[7]

文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)10がつ源義経みなもとのよしつねみなもと頼朝よりともたいして謀反むほんこしてこう白河しらかわ法皇ほうおうから頼朝よりとも追討ついとう院宣いんぜんるが、たかししょくはこの院宣いんぜん奉行ぶぎょうおこなった。しかし、義経よしつね謀叛ぼうほん失敗しっぱいして11月に都落みやこおちする。12月になると頼朝よりとも高階たかしなやすしけい親義ちかよしけい公家くげかいかんし、たかししょく院宣いんぜん奉行ぶぎょうした責任せきにんわれてひだりだいかれ、おい小槻おおづくこうぼうわりにこれにいた。この処分しょぶんたいして、たかししょくみずか開発かいはつ手掛てがけてきたかんくりや便びんかん文書ぶんしょわたしをこばむなど、はげしい抵抗ていこうしめしている[9]文治ぶんじ2ねん1186ねん)9がつからりゅうしょくはほとんど京都きょうと姿すがたあらわさないことから、大夫たいふはなれているあいだ各地かくちおもむいて、家人かじんとともに所領しょりょう開発かいはつ指揮しきっていた可能かのうせいもある[10]

たてひさ2ねん1191ねん)5がつ頼朝よりとも朝政ちょうせい干渉かんしょうこころよおもわないのち白河しらかわ法皇ほうおう指示しじによりこうぼうわってひだりだいかえにんする。かえにんたって、大夫たいふ職掌しょくしょうりゅうしょくこうぼうりょう分掌ぶんしょうさせるあんるが、前例ぜんれいかんさる宣旨せんじ発給はっきゅうという重要じゅうよう任務にんむぶん殿どの管理かんりにん分散ぶんさんさせることにしょきょう否定ひていてきであったとみられ、結局けっきょくこうぼうひだりだい解任かいにんされた[11]同年どうねん12がつ小野おのしゃ行幸ぎょうこう行事ぎょうじしょうにより加階かかいせいじょうのぼった。のち、修理しゅうり東大寺とうだいじ大仏だいぶつ長官ちょうかん記録きろくしょ寄人よりうどつとめる。また、かえにん便びん拡大かくだいみ、あらたに常陸ひたちこく石崎いしざきたもつ加賀かがこく北嶋きたじまたもつ備前びぜんこく日笠ひかさたもつ安芸あきこくのうよんヶ所かしょくわえ、若狭わかさこく国富くにとみたもつ近江おうみこく細江ほそえたもつのうさんヶ所かしょだてけんしている[6]

摂関せっかんつとめた九条くじょうけんから職務しょくむ能力のうりょくたか評価ひょうかされ[12]けんじつ執政しっせい記録きろくしょ寄人よりうどつとめるなど、けん政権せいけん運営うんえい参画さんかくした[13]。また、けん実家じっかいえつとめている[14]

なお、たかししょく長兄ちょうけい小槻おおづくけい子息しそくであるあらわつな猶子ゆうしとした[15]。これは、こうぼう対抗たいこうするにあたって正当せいとうせいるために、あらわつな猶子ゆうしとしてむことで、みずからを嫡子ちゃくしであったけい後継こうけいしゃ位置いちづけようとしたものともかんがえられる[16]

たてひさ9ねん1198ねん)10がつ病気びょうきのために所帯じょたい官職かんしょく子息しそくくにむねゆずることを請願せいがんしてゆるされ[17]同月どうげつ29にち卒去そっきょ享年きょうねん64。

人物じんぶつ

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かたにとらわれない一種いっしゅ自由じゆうさあるいは合理ごうりせいにまとった人物じんぶつとの評価ひょうかがあり[18]以下いかのような逸話いつわがある。

  • 吉田よしだけいぼう邸宅ていたくたずねたさいたかししょくまねれられるまえ客殿きゃくでん妻戸つまどうちがりみ、けいぼうを「ゆう以奇かい」とおどろかせた(『きち』)[19]
  • 五体ごたい不具ふぐけがれにあった九条くじょうけんのもとにたかししょくたずねてたので、けん制止せいししたところ、たかししょくは「近日きんじつさわきたなしていない場所ばしょなどありません」とって、にせず堂上どうじょうのぼってきた(『たま』)[20]

また、本来ほんらい史生ふみおクラスのかんじん担当たんとうするかんくりや便びん設定せっていみずかおこない、開発かいはつ手掛てがけた。えいよろず元年がんねん1165ねんたてとされる若狭わかさこく国富くにとみたもつ開発かいはつにあたって、たかししょくは「吉原よしはら安富やすとみ」という仮名かめい使用しようしたが[21]便びん開発かいはつおこなうことがりゅうしょく身分みぶん立場たちば不相応ふそうおう行為こういとしてとらえられていたことが想定そうていされる[22]

かんれき

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系図けいず纂要』による。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 年月日ねんがっぴしょうしょうけやきたかししょくひつ起請文きしょうもん」(『だい日本にっぽん史料しりょう』4-補遺ほい,たてひさ9ねん10がつ29にちじょう所収しょしゅう
  2. ^ 今井いまい泰子やすこ 2015, p. 45.
  3. ^ 曽我そが良成よしなりかんつとむしょうけやきたかししょくについて」『名古屋学院大学なごやがくいんだいがく論集ろんしゅう 人文じんぶん自然しぜん科学かがくへんだい26かんだい1ごう名古屋学院大学なごやがくいんだいがく総合そうごう研究所けんきゅうじょ、1989ねん7がつ、88-68ぺーじISSN 03850056NAID 40002773853 
  4. ^ 今井いまい泰子やすこ 2015, p. 50.
  5. ^ 橋本はしもと義彦よしひこ太政官だじょうかんくりやについて」『しょりょう紀要きよう 3』宮内庁くないちょうしょりょう、1953ねん
  6. ^ a b かんちゅう便びんべつ相伝そうでんやから由緒ゆいしょ注文ちゅうもんあん」(『壬生みぶ文書ぶんしょ』314ごう)、「小槻おおづく有家ありえ奏聞そうもんじょうあん」(『壬生みぶ文書ぶんしょ』312ごう
  7. ^ a b 井上いのうえ幸治こうじ 2012, p. 217.
  8. ^ たま安元やすもと3ねん4がつ29にち,30にちじょう
  9. ^ 吾妻あづまきょう文治ぶんじ2ねん2がつ22にちじょう
  10. ^ 井上いのうえ幸治こうじ 2012, p. 216.
  11. ^ たまたてひさ2ねん4がつ21にちじょう
  12. ^ たまうけたまわやす4ねん10がつ21にちじょう,文治ぶんじ6ねん6がつ6にちじょう,たてひさ2ねん4がつ23にちじょうなど
  13. ^ 大関おおぜき[2014: 106]
  14. ^ たまたてひさ3ねん正月しょうがつ15にちじょう,たてひさ6ねん正月しょうがつ1にちじょう
  15. ^ a b さんちょうたてひさ9ねん2がつ26にちじょう
  16. ^ 今井いまい泰子やすこ 2015, p. 56.
  17. ^ こよみたてひさ9ねん10がつ23にちじょう
  18. ^ 今井いまい泰子やすこ 2015, p. 51.
  19. ^ きち養和ようわ元年がんねん9がつ27にちじょう
  20. ^ たま寿ことぶきひさし元年がんねん4がつ27にちじょう
  21. ^ ながまん元年がんねん2がつ24にち若狭わかさ国司くにじちょうせんあん(『ぞくひだりすすむしょう』1所収しょしゅう
  22. ^ 今井いまい泰子やすこ 2015, p. 52.
  23. ^ a b c 地下ちか家伝かでん
  24. ^ 即位そくい次第しだい』「もと
  25. ^ やまえんじゅ
  26. ^ a b 花押かおうかがみ』1525
  27. ^ 鎌倉かまくら遺文いぶん』1066
  28. ^ 花押かおうかがみ』1525
  29. ^ たま
  30. ^ a b c たま
  31. ^ 百錬ひゃくれんしょう
  32. ^ 壬生みぶしんうつし古文書こもんじょ
  33. ^ こよみ

参考さんこう文献ぶんけん

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