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栗栖弘臣 - Wikipedia

栗栖くりすひろししん

日本にっぽん内務ないむ官僚かんりょう海軍かいぐん軍人ぐんじん陸上りくじょう自衛じえいかん

栗栖くりす ひろししん(くりす ひろおみ、1920ねん大正たいしょう9ねん2がつ27にち - 2004ねん平成へいせい16ねん7がつ19にち)は、日本にっぽん内務ないむ官僚かんりょう海軍かいぐん軍人ぐんじんおよ陸上りくじょう自衛じえいかんだい13だい陸上りくじょう幕僚ばくりょうちょうだい10代統合とうごう幕僚ばくりょう会議かいぎ議長ぎちょう

栗栖くりす ひろししん
生誕せいたん 1920ねん2がつ27にち
日本の旗 日本にっぽん 広島ひろしまけんくれ[1]
死没しぼつ (2004-07-19) 2004ねん7がつ19にち(84さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん 神奈川かながわけん横浜よこはま[2]
所属しょぞく組織そしき 大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
警察けいさつ予備よびたい
保安ほあんたい
陸上りくじょう自衛隊じえいたい
ぐんれき 1943 - 1945(帝国ていこく海軍かいぐん
1951 - 1952(予備よびたい
1952 - 1954(保安ほあんたい
1954 - 1978(陸自りくじ
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん法務ほうむ大尉たいい帝国ていこく海軍かいぐん
統合とうごう幕僚ばくりょう会議かいぎ議長ぎちょうたるりくすすむ陸自りくじ
除隊じょたい 静岡しずおか新聞しんぶん客員きゃくいん論説ろんせつ委員いいん
金沢工業大学かなざわこうぎょうだいがく附属ふぞく国際こくさい問題もんだい研究所けんきゅうじょちょう
国士舘大学こくしかんだいがく客員きゃくいん教授きょうじゅ
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経歴けいれき

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だいいち中学校ちゅうがっこう第一高等学校だいちこうとうがっこう1943ねん昭和しょうわ18ねん)9がつ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ卒業そつぎょう高等こうとう文官ぶんかん試験しけん高文たかふみ行政ぎょうせい首席しゅせき合格ごうかく内務省ないむしょう入省にゅうしょうするが、短期たんき現役げんえき海軍かいぐん法務ほうむ士官しかん志願しがん帝国ていこく海軍かいぐんへ。南方なんぽう戦線せんせん従軍じゅうぐんし、海軍かいぐん法務ほうむ大尉たいいとして1945ねん昭和しょうわ20ねん)8がつ終戦しゅうせんむかえる[2]終戦しゅうせんも、現地げんち戦犯せんぱん特別とくべつ弁護人べんごにんつと[2]復員ふくいん1948ねん昭和しょうわ23ねん)までおくれた。

復員ふくいん官僚かんりょうもどらず[注釈ちゅうしゃく 1]弁護士べんごしとなったが、1950ねん昭和しょうわ25ねん)に総理府そうりふ事務じむかんとなり[4]1951ねん昭和しょうわ26ねん)9がつ警察けいさつ予備よびたい保安ほあんたい陸上りくじょう自衛隊じえいたい)に入隊にゅうたいし、警察けいさつ士長しちょう陸軍りくぐん少佐しょうささんとうりくたすく相当そうとう)ににんじられる[2]だい13師団しだんちょう時代じだいには、広島ひろしま中心ちゅうしん観閲かんえつしきおこなった。その東部とうぶ方面ほうめん総監そうかんて、1976ねん昭和しょうわ51ねん[2]10月、だい13だい陸上りくじょう幕僚ばくりょうちょう1977ねん昭和しょうわ52ねん)10がつだい10代統合とうごう幕僚ばくりょう会議かいぎ議長ぎちょう就任しゅうにん

1978ねん昭和しょうわ53ねん)7がつ、「週刊しゅうかんポスト誌上しじょうで「現行げんこう自衛隊じえいたいほうにはあながあり、奇襲きしゅう侵略しんりゃくけた場合ばあい首相しゅしょう防衛ぼうえい出動しゅつどう命令めいれいるまでうごけない。だい一線いっせん部隊ぶたい指揮しきかんちょう法規ほうきてき行動こうどうることはありえる」と有事ゆうじ法制ほうせい早期そうき整備せいびうながす“ちょう法規ほうき発言はつげん”をおこなう。かつて法務ほうむ士官しかんであった視点してんでの発言はつげんであったが、これが政治せいじ問題もんだいし、記者きしゃ会見かいけんでも信念しんねんゆずらず、同様どうよう発言はつげんかえしたため、文民ぶんみん統制とうせい観点かんてんから不適切ふてきせつとして、とき防衛庁ぼうえいちょう長官ちょうかん金丸かねまるしん事実じじつじょう解任かいにんされた[2](2だい竹田たけだ五郎ごろう専守防衛せんしゅぼうえい政策せいさく批判ひはん解任かいにんされている)。しかしその首相しゅしょう当時とうじ)の福田ふくだ赳夫たけお閣議かくぎ有事ゆうじ立法りっぽう有事ゆうじ法制ほうせい研究けんきゅう促進そくしん民間みんかん防衛ぼうえい体制たいせい検討けんとう防衛庁ぼうえいちょう指示しじ国防こくぼう論議ろんぎタブーやぶられ、以後いごおおくの国防こくぼう論議ろんぎこるきっかけとなった。

1980ねん昭和しょうわ55ねん)6がつだい12かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ東京とうきょう選挙せんきょ民社党みんしゃとう公認こうにん出馬しゅつばしたが、落選らくせん。その静岡しずおか新聞しんぶん客員きゃくいん論説ろんせつ委員いいん金沢工業大学かなざわこうぎょうだいがく附属ふぞく国際こくさい問題もんだい研究所けんきゅうじょ所長しょちょう国士舘大学こくしかんだいがく客員きゃくいん教授きょうじゅなどをつとめながら多数たすう著書ちょしょなどで安全あんぜん保障ほしょう問題もんだい発言はつげんつづけた。

栗栖くりす発言はつげんから25ねん2003ねん平成へいせい15ねん)6がつ有事ゆうじ法制ほうせいだいいち段階だんかいともいえる武力ぶりょく攻撃こうげき事態じたい対処たいしょ関連かんれんさんほう安全あんぜん保障ほしょう会議かいぎ設置せっちほう一部いちぶ改正かいせいほう武力ぶりょく攻撃こうげき事態じたいとうにおけるくに平和へいわ独立どくりつならびにくにおよ国民こくみん安全あんぜん確保かくほかんする法律ほうりつ武力ぶりょく攻撃こうげき事態じたい対処たいしょほう)・ 自衛隊じえいたいほうおよ防衛庁ぼうえいちょう職員しょくいん給与きゅうよとうかんする法律ほうりつ一部いちぶ改正かいせいほう)が成立せいりつ有事ゆうじ法制ほうせい基本きほんほうである「武力ぶりょく攻撃こうげき事態じたい対処たいしょほう」が施行しこうされた。

主張しゅちょう

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事務次官じむじかん内局ないきょくちょうとしてその職務しょくむ範囲はんい行政ぎょうせい事務じむかぎり、部隊ぶたい運用うんよう担当たんとうする統合とうごう幕僚ばくりょう会議かいぎ議長ぎちょうげん統合とうごう幕僚ばくりょうちょう)とべつ系統けいとうかんがえるべきとしている。また、部隊ぶたい運用うんようおよび運用うんようかんする情報じょうほう兵站へいたんとう統合とうごう幕僚ばくりょう会議かいぎ専管せんかんとし、事務次官じむじかんちょうとする内局ないきょくはシビリアン人事じんじ土地とち建物たてもの装備そうびひん管理かんり施設しせつ維持いじ建設けんせつ業務ぎょうむ予算よさん総括そうかつ技術ぎじゅつ開発かいはつかくまく調整ちょうせい管掌かんしょうし、さらに国家こっか安全あんぜん保障ほしょう企画きかく立案りつあん主務しゅむとし、外国がいこくとの防衛ぼうえい協力きょうりょくをも担当たんとうさせるべきとしている[12]

また著書ちょしょ日本にっぽん国防こくぼうぐん創設そうせつせよ』ちゅうで、「自衛隊じえいたい国民こくみん生命せいめい財産ざいさんまもるものだと誤解ごかいしているひとおおい。政治せいじやマスコミも往々おうおうこの言葉ことば使つかう。しかし国民こくみん生命せいめい身体しんたい財産ざいさんまもるのは警察けいさつ使命しめいであって、武装ぶそう集団しゅうだんたる自衛隊じえいたい任務にんむではない。自衛隊じえいたいくに独立どくりつ平和へいわまもるのである。警察けいさつほう自衛隊じえいたいほういてある。『くに』とは、わがくに歴史れきし伝統でんとうもとづく固有こゆう文化ぶんかなが年月としつきあいだ醸成じょうせいされた国柄くにがら天皇てんのうせい中心ちゅうしんとする一体いったいかん享受きょうじゅする民族みんぞく家族かぞく意識いしきである。けっして個々ここ国民こくみん意味いみしない」とべた。

おも著書ちょしょ

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おも論文ろんぶん
  • "A basis for an effective U.S.‐Japan security system", Comparative Strategy, 2:4 (1980), 323-334.

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 内務省ないむしょう解体かいたいされていたが、復員ふくいん栗栖くりすのぞめば、警察庁けいさつちょう1954ねんまでは国家こっか地方ちほう警察けいさつ本部ほんぶ)や自治省じちしょう1960ねん以降いこう名称めいしょう)などの内務省ないむしょう後継こうけい官庁かんちょうに「昭和しょうわ18ねんぐみ」として復帰ふっきできたとおもわれる。たとえば、東京帝大とうきょうていだい法学部ほうがくぶ卒業そつぎょうして内務省ないむしょう入省にゅうしょうし、短期たんき現役げんえき海軍かいぐん主計しゅけい士官しかん志願しがんして海軍かいぐんはいり、シンガポール海軍かいぐん主計しゅけい大尉たいいとして終戦しゅうせんむかえた宮崎みやざき清文きよふみがいる[3]復員ふくいん宮崎みやざきは、国家こっか地方ちほう警察けいさつ本部ほんぶ警察庁けいさつちょう)の官僚かんりょう復帰ふっき[3]、2018ねん現在げんざい内閣ないかく事務次官じむじかん相当そうとうする総理府そうりふ総務そうむふく長官ちょうかん事務じむ担当たんとうつとめて退官たいかんした。

出典しゅってん

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  1. ^ 出身しゅっしん源田げんたおな広島ひろしまけん山県やまがたぐん加計かけまちげん山県やまがたぐん安芸あき太田おおたまち)とする文献ぶんけんもある(週刊しゅうかんサンケイ1979ねん5がつ24にちごう28ぺーじ)。
  2. ^ a b c d e f g 栗栖くりすひろししんもと統幕とうばく議長ぎちょう死去しきょ 78ねんちょう法規ほうき発言はつげん解任かいにん. 共同通信社きょうどうつうしんしゃ. 47NEWS. (2004ねん7がつ20日はつか). オリジナルの2013ねん11月3にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131103090945/https://www.47news.jp/CN/200407/CN2004072001002781.html 2013ねん11月1にち閲覧えつらん 
  3. ^ a b 佐々淳行さっさあつゆき目黒めぐろ警察けいさつしょ物語ものがたり文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん文庫ぶんこ)、1994ねん、193-198ぺーじ、「だいはち 監督かんとく指導しどう-スマートさが信条しんじょうもと海軍かいぐん士官しかん
  4. ^ a b 官報かんぽう本紙ほんしだい6957ごう昭和しょうわ25ねん3がつ23にち
  5. ^ 昭和しょうわ18ねん10がつ16にち 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう部内ぶないげんだい1233ごう (防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C13072093600 
  6. ^ 昭和しょうわ19ねん3がつ1にち 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう部内ぶないげんだい1350ごう (防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C13072096300 
  7. ^ 昭和しょうわ19ねん3がつ1にち 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう部内ぶないげんだい1353ごう (防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C13072096400 
  8. ^ 昭和しょうわ19ねん4がつ1にち 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう部内ぶないげんだい1404ごう (防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C13072097000 
  9. ^ 昭和しょうわ19ねん9がつ5にち 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう かぶと だい1585ごう (防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C13072100800 
  10. ^ 昭和しょうわ20ねん3がつ5にち 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう かぶと だい1738ごう (防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C13072103600 
  11. ^ 昭和しょうわ20ねん8がつ22にち 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう かぶと部内ぶないげんだい1982ごう (防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C13072106900 
  12. ^ 栗栖くりす日本にっぽん国防こくぼうぐん創設そうせつせよ」12~13ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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先代せんだい
鮫島さめしま博一ひろかず
統合とうごう幕僚ばくりょう会議かいぎ議長ぎちょう
だい10代:1977ねん - 1978ねん
次代じだい
高品たかしな武彦たけひこ
先代せんだい
三好みよし秀男ひでお
陸上りくじょう幕僚ばくりょうちょう
だい13だい:1976ねん - 1977ねん
次代じだい
高品たかしな武彦たけひこ
先代せんだい
中山なかやま平八郎へいはちろう
東部とうぶ方面ほうめん総監そうかん
だい12だい:1975ねん - 1976ねん
次代じだい
高品たかしな武彦たけひこ