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浦和区 - Wikipedia

浦和うらわ

埼玉さいたまけんさいたま行政ぎょうせい

浦和うらわ(うらわく)は、埼玉さいたまけんさいたま構成こうせいする10のうちのひとつ(きゅう浦和うらわ中央ちゅうおう)。埼玉さいたま県庁けんちょうさいたま市役所しやくしょなどの行政ぎょうせい機関きかんあつまる。

うらわく ウィキデータを編集
浦和うらわ
調神社
ロゴ
くに 日本の旗 日本にっぽん
地方ちほう 関東かんとう地方ちほう
都道府県とどうふけん 埼玉さいたまけん
さいたま
市町村しちょうそんコード 11107-4
面積めんせき 11.51km2
そう人口じんこう 168,496ひと [編集へんしゅう]
推計すいけい人口じんこう、2024ねん6がつ1にち
人口じんこう密度みつど 14,639ひと/km2
隣接りんせつ自治体じちたい
隣接りんせつ行政ぎょうせい
さいたま大宮おおみや見沼みぬま中央ちゅうおうみなみみどり
はな ニチニチソウ
いろ あか
浦和うらわ区役所くやくしょ
所在地しょざいち 330-9586
埼玉さいたまけんさいたま浦和うらわ常盤ときわろく丁目ちょうめ4ばん4ごう
北緯ほくい3551ふん41.8びょう 東経とうけい13938ふん43.8びょう / 北緯ほくい35.861611 東経とうけい139.645500 / 35.861611; 139.645500
外部がいぶリンク さいたま浦和うらわ
浦和区位置図
特記とっき事項じこう 世帯せたいすう:73,384世帯せたい(2020ねん6がつ1にち
NTT市外しがい局番きょくばん:048(区内くない全域ぜんいき
ナンバープレート:大宮おおみや
番号ばんごう区画くかくコード:254
経度けいど緯度いど世界せかい測地そくちけい
ウィキプロジェクト
埼玉さいたま県庁けんちょう

埼玉さいたまけんさいたま南部なんぶ位置いちする。きゅう浦和うらわ中央ちゅうおう北側きたがわ相当そうとうし、浦和うらわえき一帯いったいはかつて県庁けんちょう所在地しょざいちであったきゅう浦和うらわ中心ちゅうしん市街地しがいちにあたる(「浦和うらわ地区ちく」も参照さんしょう)。区域くいきはおおむねきゅう浦和うらわまち木崎きざき地区ちく相当そうとうするが、これにくわえてろくつじ地区ちくのうち、神明しんめい北側きたがわ3ぶんの2ほどがとうふくまれる。

ほぼ全域ぜんいき大宮おおみや台地だいち北足立きたあだち台地だいち浦和うらわ大宮おおみやささえだいうえにあり、北端ほくたんのみが芝川しばかわ低地ていちにかかる。そのとう東部とうぶ大宮おおみや台地だいちえんふじみぎ衛門えもんがわなどの中小ちゅうしょう河川かせんはいんでおり、たにそこ平野へいや一部いちぶ形成けいせいされている。

人口じんこう構成こうせい

編集へんしゅう

とう世帯せたいすうは6まん7せん世帯せたいきょう人口じんこうは16まん7せんにんであり、さいたま市内しないではみなみぐ2人口じんこう密度みつどは1まん4せんにん/km2つよしとさいたま市内しないもっとたかく、とう単体たんたいると、自治体じちたい全国ぜんこく1わらび埼玉さいたま県内けんないだい1である[注釈ちゅうしゃく 1]

2013ねん時点じてん年間ねんかん収入しゅうにゅう1000まんえん以上いじょう世帯せたいめる割合わりあいは15.3%[注釈ちゅうしゃく 2][注釈ちゅうしゃく 3]全国ぜんこくだい13、2010ねん平成へいせい22ねん時点じてんにおける25さい以上いじょう人口じんこうのうち、大卒だいそついんそつしゃめる割合わりあいは43.4%で全国ぜんこくだい15[1][注釈ちゅうしゃく 4]

ふるくは調しらべ神社じんじゃ玉蔵たまくらいん門前もんぜまちとしてさかえ、ろくときひらかれた。また、奈良なら時代じだいには律令制りつりょうせい政庁せいちょうがおかれ跡地あとち氷川神社ひかわじんじゃとなった。江戸えど時代じだいになると中山道なかせんどう浦和うらわ宿やどかれ宿場しゅくばまちとして発展はってんした。廃藩置県はいはんちけんにより浦和うらわけん県庁けんちょう所在地しょざいちとなり、岩槻いわつきけんしのぶけん合併がっぺい埼玉さいたまけん成立せいりつしたのちも、2024ねん現在げんざいまで県庁けんちょう所在地しょざいちとなっている。1883ねん明治めいじ16ねん)には浦和うらわえき開業かいぎょうし、1889ねん明治めいじ22ねん)の町村ちょうそんせい施行しこうにより浦和うらわまち成立せいりつした。

1923ねん大正たいしょう12ねん)に関東大震災かんとうだいしんさい発生はっせいすると、直前ちょくぜんにすでに耕地こうち整理せいり事業じぎょうおこなわれ市街しがい中心ちゅうしん整備せいびおこなわれていたとう地区ちくでは、比較的ひかくてき震災しんさい被害ひがいすくなかった(浦和うらわまち死者ししゃは3にん[2])ことや、首都しゅと東京とうきょう近傍きんぼうでかつ大宮おおみや台地だいち北足立きたあだち台地だいちじょうにあるという立地りっち条件じょうけんもあって、東京とうきょうなどから人口じんこう流入りゅうにゅうし、都市としいしずえとなった(浦和うらわ#住宅じゅうたくとして参照さんしょう)。人口じんこう増加ぞうかともない、1934ねんには市制しせい施行しこう浦和うらわとなる。また当時とうじ鎌倉かまくら文士ぶんし浦和うらわ画家がか」とわれたように、すうおおくの文化ぶんかじんうつんだことでもられ、国内こくない屈指くっし公立こうりつ進学校しんがくこうである埼玉県立浦和高等学校さいたまけんりつうらわこうとうがっこう前身ぜんしん旧制きゅうせい浦和うらわ中学校ちゅうがっこう埼玉大学さいたまだいがく前身ぜんしん埼玉さいたまけん師範しはん学校がっこうおおとりしょうかく)や旧制きゅうせい浦和うらわ高校こうこう埼玉さいたま県内けんない最古さいこ女子じょしこうである埼玉さいたま県立けんりつ浦和うらわだいいち女子じょし高等こうとう学校がっこう浦和うらわ時代じだい市立しりつ高校こうこう2こう浦和うらわ市立しりつ浦和うらわ市立しりつみなみ)のうちのひとさいたま市立しりつ浦和うらわ中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこうなど、こう偏差へんさ教育きょういく機関きかん集積しゅうせきしている。

太平洋戦争たいへいようせんそう1945ねん昭和しょうわ20ねん4がつ14にちには埼玉さいたま県庁けんちょう周辺しゅうへん5月26にちには北浦和きたうらわえき付近ふきん空襲くうしゅうけ、けい17にん死者ししゃ[3]、740にん罹災りさいしゃした。これは戦争せんそう末期まっき全国ぜんこく主要しゅよう都市としへの空襲くうしゅう一環いっかんであり、軍需ぐんじゅ工場こうじょうなどの存在そんざいしない浦和うらわへの攻撃こうげき局所きょくしょてきであった。これが2024ねん現在げんざい戦前せんぜんとほとんどわらない区画くかく街並まちなみとなっている理由りゆうのひとつである。常盤ときわきしまちなど比較的ひかくてき碁盤ごばんのように区画くかくととのっているのは、戦後せんご復興ふっこうによるものではなく、戦前せんぜん1934ねん昭和しょうわ9ねん)に耕地こうち整理せいりおこなわれたためである。1941ねん昭和しょうわ16ねん)には埼玉さいたまけん全域ぜんいき管轄かんかつする浦和うらわ連隊れんたい司令しれいかれ、1946ねん昭和しょうわ21ねん)6がつには、埼玉会館さいたまかいかん別館べっかん進駐軍しんちゅうぐんである埼玉さいたま軍政ぐんせいだい79軍政ぐんせい中隊ちゅうたい)がかれた。

戦後せんご東京とうきょう都心としんへの通勤つうきん利便りべんせいから人口じんこうつづけ、1945ねん昭和しょうわ20ねん)に9まん3,696にんだった人口じんこう1975ねん昭和しょうわ50ねん)には33まん1,145にん増加ぞうかした。東京とうきょう通勤つうきんする埼玉さいたま都民とみんベッドタウンてき性質せいしつもよりくなっていった。人口じんこうぞうによる業務ぎょうむ増加ぞうかもあり仲町なかまちにあった浦和うらわ市役所しやくしょ狭隘きょうあいし、1976ねん昭和しょうわ51ねん)に常盤ときわ埼玉大学さいたまだいがくあと移転いてんした。さらに都市とし改造かいぞう一環いっかんとして、1981ねんには浦和うらわえき西口にしぐちさい開発かいはつビル(浦和うらわコルソ)が建設けんせつ駅前えきまえ広場ひろば拡張かくちょうされ、現在げんざい[いつ?]埼玉さいたまけん最大さいだい売上うりあげだか計上けいじょうしている伊勢丹いせたん浦和うらわてん[よう出典しゅってん]開店かいてんした。それまではきゅう中山道なかせんどう県庁けんちょうどお沿いがにぎわっており十字屋じゅうじや(1984ねん閉店へいてん)などの百貨店ひゃっかてん丸井まるい浦和うらわてん(1985ねん閉店へいてん)、西友せいゆう浦和うらわてん(1992ねん閉店へいてん)もあったが、徐々じょじょ駅前えきまえ周辺しゅうへんものきゃくのにぎわいがシフトしていった。1999ねん平成へいせい11ねん)、浦和うらわ市役所しやくしょ跡地あとち浦和うらわロイヤルパインズホテル開業かいぎょう浦和うらわ市内しないはつちょう高層こうそう建築けんちくぶつであった。そのえき周辺しゅうへんにてさい開発かいはつ機運きうんたかまり、エイペックスタワー浦和うらわ(2003ねん竣工しゅんこう)、ライオンズマンションコスタ・タワー浦和うらわ(2006ねん竣工しゅんこう)などのちょう高層こうそうビルが完成かんせいした。

2001ねん平成へいせい13ねん)に3つの合併がっぺいによりさいたま発足ほっそく2003ねん平成へいせい15ねん)には政令せいれい指定してい都市としへの移行いこうともない、さいたま構成こうせいする9(2024ねん現在げんざい岩槻いわつきくわえ10)のうちの1つとして浦和うらわ発足ほっそくした。埼玉さいたま県庁けんちょうさいたま市役所しやくしょかれる行政ぎょうせい中枢ちゅうすうとして機能きのうしている。また、近年きんねんでは浦和うらわえき周辺しゅうへん地区ちく中心ちゅうしんちょう高層こうそうマンション商業しょうぎょう施設しせつなどのさい開発かいはつ道路どうろ整備せいびすすめられており、2007ねん平成へいせい19ねん)には浦和うらわえき東口ひがしぐち浦和うらわパルコ開店かいてんした。上野うえの東京とうきょうライン開業かいぎょうなどにより東京とうきょうえき新宿しんじゅくえきへの所要しょよう時間じかんが25ふん利便りべんせいたかまったため、マンション開発かいはつ活発かっぱつしている。県庁けんちょう所在地しょざいちとして繁華はんかがいかかえるが、えき周辺しゅうへん条例じょうれいにより風俗ふうぞくてんなどの営業えいぎょう禁止きんしされている(#住宅じゅうたくとして参照さんしょう)。

いろ浦和うらわをホームタウンとするJリーグのクラブ・浦和うらわレッドダイヤモンズのチームカラーにちなんだ[4] あか

年表ねんぴょう

編集へんしゅう

詳細しょうさい浦和うらわ参照さんしょう

住宅じゅうたくとして

編集へんしゅう

住宅じゅうたくとしての人気にんき1923ねん大正たいしょう12ねん)の関東大震災かんとうだいしんさい以後いごたかまる。それに先立さきだ1916ねん大正たいしょう5ねん初頭しょとう國民こくみん新聞しんぶん紙上しじょうにおいて、東京とうきょう近郊きんこう理想りそうてき住宅じゅうたく別荘べっそう投票とうひょうにより選定せんていする企画きかくおこなわれ、浦和うらわまち郊外こうがい住宅じゅうたく部門ぶもんでは9とう別荘べっそう部門ぶもんでは8とう入賞にゅうしょうし、良好りょうこう郊外こうがい住宅じゅうたくとしてすで認知にんちされていた。具体ぐたいてき理由りゆう掲載けいさいされ、東京とうきょうへのちかさ、教育きょういく環境かんきょう充実じゅうじつ下水道げすいどう整備せいびりつたかさなどがげられていた。また、鹿島臺かしまだい鹿島台かしまだい・2024ねん現在げんざい別所べっしょぬま周辺しゅうへん)の風光ふうこう明媚めいびさや災害さいがい不安ふあんすくないこともしるされ、当時とうじはまだはたけおお宅地たくち開発かいはつ余地よちがあった鹿島かしまだい住宅じゅうたくとして注目ちゅうもくされていたことがかる。震災しんさい直前ちょくぜんには鹿島かしまだい官吏かんり教員きょういんけの町営ちょうえい住宅じゅうたく建設けんせつしており、また1922ねん大正たいしょう11ねん)9がつには浦和うらわ耕地こうち整理せいり事業じぎょう着工ちゃっこうし、まちとしても浦和うらわ住宅じゅうたく別荘べっそう期待きたい住宅じゅうたく不足ふそく対応たいおうするため実際じっさい宅地たくちとしての開発かいはつ本格ほんかくしていた。

その矢先やさき大震災だいしんさい発生はっせいし、浦和うらわ東京とうきょう横浜よこはまからの移住いじゅうしゃ一気いっきに3000にん以上いじょう人口じんこう増加ぞうかこった。当時とうじ人口じんこうは1まん2000にん程度ていどであり、25%の増加ぞうかりつであった。とく前述ぜんじゅつ鹿島台かしまだいエリアである別所べっしょぬま周辺しゅうへんには、画家がか移住いじゅう画家がかアトリエ目立めだったため、おなじような理由りゆう移住いじゅうえた鎌倉かまくら鎌倉かまくら文士ぶんしという言葉ことばたいになる浦和うらわ画家がかという言葉ことばまれた。昭和しょうわ初期しょきには40にん以上いじょう画家がかしゅうじゅうし、「さながら絵描えかむらである」と報道ほうどうされた[5]。アトリエの遺構いこうえつつあるが、けんてん開催かいさいされる埼玉さいたま県立けんりつ近代きんだい美術館びじゅつかんうらわ美術館びじゅつかんなど、美術びじゅつかんする施設しせつおおい。

戸建こだ住宅じゅうたく建設けんせつ余地よちすくなくなった近年きんねんではえき周辺しゅうへん中心ちゅうしんにマンション開発かいはつ相次あいつぎ、10かい以上いじょう高層こうそうマンションが350むね(2017ねん時点じてん)と、さいたま市内しないもっと高層こうそうマンションがおおでもある。

さいたま市内しない住宅じゅうたく公示こうじ地価ちか上位じょうい1から5までがとう区内くない高砂たかさごきしまち前地まえじ北浦きたうらかず常盤ひたち)で、高砂たかさごにおいては東京とうきょう23区内くない以外いがいでは国内こくないもっと住宅じゅうたく地価ちかたか[6]

2016ねんの「戸建こだて住宅じゅうたくとして人気にんきたかかった市区しく町村ちょうそんランキング(首都しゅとけん)」では、東京とうきょう世田谷せたがやぐ2となっている[7]2018ねんスーモ関東かんとうばんみたいまちランキング」において10にランクインした。2019ねんのスーモ「関東かんとうばんみたいまちランキング」において、前年ぜんねんの10から8にランクアップした。

人口じんこう

編集へんしゅう

とう成立せいりつから毎年まいとし4がつ1にち人口じんこう微増びぞうつづいており、2003ねんから2015ねんあいだやく2まんにん増加ぞうかしている。住民じゅうみん基本きほん台帳だいちょう人口じんこうより(台帳だいちょうほう改正かいせいまえの2012ねん以前いぜん台帳だいちょう人口じんこう+外国がいこくじん登録とうろく人口じんこう数値すうち[8]市内しないではみなみいで人口じんこうおおである。

2003ねん平成へいせい15ねん 137,595にん
2004ねん平成へいせい16ねん 139,609にん
2005ねん平成へいせい17ねん 141,252にん
2006ねん平成へいせい18ねん 142,439にん
2007ねん平成へいせい19ねん 143,715にん
2008ねん平成へいせい20ねん 145,038にん
2009ねん平成へいせい21ねん 145,937にん
2010ねん平成へいせい22ねん 146,071にん
2011ねん平成へいせい23ねん 146,424にん
2012ねん平成へいせい24ねん 147,538にん
2013ねん平成へいせい25ねん 148,571にん
2014ねん平成へいせい26ねん 151,341にん
2015ねん平成へいせい27ねん 154,049にん

町名ちょうめい

編集へんしゅう

とうでは、大半たいはん地区ちく住居じゅうきょ表示ひょうじかんする法律ほうりつもとづく住居じゅうきょ表示ひょうじ実施じっしされている。

浦和うらわ区役所くやくしょ管内かんない(87まちよろ
町名ちょうめい 町名ちょうめい 設置せっち年月日ねんがっぴ 住居じゅうきょ表示ひょうじ実施じっし年月日ねんがっぴ 住居じゅうきょ表示ひょうじ実施じっし直前ちょくぜん町名ちょうめい 備考びこう
大原おおはらいち丁目ちょうめ おおはら 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
大原おおはら丁目ちょうめ 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
大原おおはらさん丁目ちょうめ 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
大原おおはらよん丁目ちょうめ 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
大原おおはら丁目ちょうめ 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
上木崎かみきざきいち丁目ちょうめ かみきざき 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち
上木崎かみきざき丁目ちょうめ 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち
上木崎かみきざきさん丁目ちょうめ 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち
上木崎かみきざきよん丁目ちょうめ 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち
上木崎かみきざき丁目ちょうめ 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
上木崎かみきざきろく丁目ちょうめ 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
上木崎かみきざきなな丁目ちょうめ 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
上木崎かみきざきはち丁目ちょうめ 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
木崎きざきいち丁目ちょうめ きざき 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
木崎きざき丁目ちょうめ 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
木崎きざきさん丁目ちょうめ 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
木崎きざきよん丁目ちょうめ 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
木崎きざき丁目ちょうめ 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
きしまちいち丁目ちょうめ きしちょう 1964ねん4がつ1にち 1964ねん4がつ1にち
きしまち丁目ちょうめ 1964ねん4がつ1にち 1964ねん4がつ1にち
きしまちさん丁目ちょうめ 1964ねん4がつ1にち 1964ねん4がつ1にち
きしまちよん丁目ちょうめ 1964ねん4がつ1にち 1964ねん4がつ1にち
きしまち丁目ちょうめ 1964ねん4がつ1にち 1964ねん4がつ1にち
きしまちろく丁目ちょうめ 1964ねん4がつ1にち 1964ねん4がつ1にち
きしまちなな丁目ちょうめ 1964ねん4がつ1にち 1964ねん4がつ1にち
北浦きたうらかずいち丁目ちょうめ きたうらわ 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち
北浦和きたうらわ丁目ちょうめ 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち
北浦和きたうらわさん丁目ちょうめ 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち
北浦和きたうらわよん丁目ちょうめ 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち
北浦和きたうらわ丁目ちょうめ 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち
皇山こうざんまち こうざんちょう 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
神明しんめいいち丁目ちょうめ しんめい 1980ねん11月1にち 1980ねん11月1にち
神明しんめい丁目ちょうめ 1980ねん11月1にち 1980ねん11月1にち
駒場こまばいち丁目ちょうめ こまば 1966ねん4がつ1にち 1966ねん4がつ1にち
駒場こまば丁目ちょうめ 1966ねん4がつ1にち 1966ねん4がつ1にち
せらさきいち丁目ちょうめ せがさき 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
せらさき丁目ちょうめ 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
せらさきさん丁目ちょうめ 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
せらさきよん丁目ちょうめ 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
せらさき丁目ちょうめ 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
高砂たかさごいち丁目ちょうめ たかさご 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
高砂たかさご丁目ちょうめ 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
高砂たかさごさん丁目ちょうめ 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
高砂たかさごよん丁目ちょうめ 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
大東だいとういち丁目ちょうめ だいとう 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
大東だいとう丁目ちょうめ 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
大東だいとうさん丁目ちょうめ 1982ねん8がつ1にち 1982ねん8がつ1にち
常盤ひたちいち丁目ちょうめ ときわ 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
常盤ときわ丁目ちょうめ 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
常盤ときわさん丁目ちょうめ 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
常盤ときわよん丁目ちょうめ 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
常盤ときわ丁目ちょうめ 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
常盤ときわろく丁目ちょうめ 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
常盤ときわなな丁目ちょうめ 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
常盤ときわはち丁目ちょうめ 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
常盤ときわきゅう丁目ちょうめ 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
常盤ときわじゅう丁目ちょうめ 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
仲町なかまちいち丁目ちょうめ なかちょう 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
仲町なかまち丁目ちょうめ 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
仲町なかまちさん丁目ちょうめ 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
仲町なかまちよん丁目ちょうめ 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
はりだにいち丁目ちょうめ はりがや 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち
はりだに丁目ちょうめ 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち
はりだにさん丁目ちょうめ 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち
はりだによん丁目ちょうめ 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち
東岸とうがんまち ひがしきしちょう 1964ねん4がつ1にち 1964ねん4がつ1にち
東高砂ひがしたかさごまち ひがしたかさごちょう 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
東仲ひがしなかまち ひがしなかちょう 1965ねん7がつ1にち 1965ねん7がつ1にち
前地まえじいち丁目ちょうめ まえじ 1966ねん4がつ1にち 1966ねん4がつ1にち
前地まえじ丁目ちょうめ 1966ねん4がつ1にち 1966ねん4がつ1にち
前地まえじさん丁目ちょうめ 1966ねん4がつ1にち 1966ねん4がつ1にち
三崎みさき みさき 1979ねん3がつ31にち
元町もとまちいち丁目ちょうめ もとちょう 1966ねん4がつ1にち 1966ねん4がつ1にち
もとまち丁目ちょうめ 1966ねん4がつ1にち 1966ねん4がつ1にち
もとまちさん丁目ちょうめ 1966ねん4がつ1にち 1966ねん4がつ1にち
本太もとぶといち丁目ちょうめ もとぶと 1966ねん4がつ1にち 1966ねん4がつ1にち
本太もとぶと丁目ちょうめ 1966ねん4がつ1にち 1966ねん4がつ1にち
本太もとぶとさん丁目ちょうめ 1966ねん4がつ1にち 1966ねん4がつ1にち
本太もとぶとよん丁目ちょうめ 1966ねん4がつ1にち 1966ねん4がつ1にち
本太もとぶと丁目ちょうめ 1966ねん4がつ1にち 1966ねん4がつ1にち
領家りょうけいち丁目ちょうめ りょうけ 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち
りょう丁目ちょうめ 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち
りょうさん丁目ちょうめ 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち
りょうよん丁目ちょうめ 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち
りょう丁目ちょうめ 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち
りょうろく丁目ちょうめ 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち
りょうなな丁目ちょうめ 1967ねん9がつ1にち 1967ねん9がつ1にち

北浦きたうらかず高砂たかさご常盤ひたちはりだに前地まえじ本太もとぶとは、住居じゅうきょ表示ひょうじ実施じっしまえにはすべて「まち」がついた。

では文教ぶんきょう都市とし宿場しゅくばまちとしてなが歴史れきし区内くない文化財ぶんかざい観光かんこうスポットなどが一目いちもくでわかる「浦和うらわ文化ぶんか小径しょうけいマップ」を地区ちくごとに作成さくせいし、無料むりょう配布はいふしている。「中山道なかせんどう浦和うらわ宿やどあるく」、「北浦和きたうらわ界隈かいわいあるく」、「浦和うらわえき東口ひがしぐちから本太もとぶと界隈かいわいあるく」、「上木崎かみきざき界隈かいわいから見沼みぬまあるく」、「前地まえじきしまち界隈かいわいあるく」、「常盤ときわ仲町なかまち界隈かいわいあるく」、「大東だいとうから駒場こまばあるく」の7地区ちく発行はっこうされている[9]

きゅう大字だいじ浦和うらわ宿やど

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浦和うらわむら浦和うらわまち浦和うらわ宿やどとなった浦和うらわ中心ちゅうしんであり、かつては小字こあざとして御殿山ごてんやまうえなかした存在そんざいした。また、中山道なかせんどう浦和うらわ宿やど時代じだいには、きたから「上町うえまち」、「仲町なかまち」、「下町したまち」とばれた。明治めいじ7ねんきしむら浦和うらわ宿やど編入へんにゅうされ、上町うえまち仲町なかまち下町したまちきしきゅうきしむら)はそれぞれ「常盤ときわ」、「ちゅう」、「高砂たかさご」、「きし」としょうされるようになり、地域ちいきないにはこのような町名ちょうめい存在そんざいした。

これらの公称こうしょう町名ちょうめい昭和しょうわ初期しょき地図ちずには確認かくにんできるが、現在げんざい[いつ?]ではほとんど使つかわれることはない。NTTの電信柱でんしんばしら設置せっちされた管理かんりプレートには「はやしまち」、「弥生やよい」、「本町ほんまち」、「あさひまち」といった表示ひょうじがあり、電線でんせん名称めいしょうとしては現在げんざい[いつ?]のこっているようである[よう出典しゅってん]。また「どおり」という道路どうろめいとしてもきゅう町名ちょうめい確認かくにんできる。

同様どうよう現存げんそんしないが、稲荷いなりまるたいくぼといった小字こあざ以下いか参照さんしょう)も昭和しょうわ9ねん耕地こうち整理せいりまえまで存在そんざいした。耕地こうち整理せいり現在げんざい[いつ?]整然せいぜんとした区画くかくまれ、現在げんざい[いつ?]町名ちょうめい原型げんけいとなる区割くわりが設定せっていされた(常盤ときわまち北浦和きたうらわまちなど)。仲町なかまち高砂たかさご西部せいぶ住宅じゅうたくがい通称つうしょう鹿島台かしまだいばれた。

小字こあざ
  • きし分宿ぶんしゅく尺地しゃくち天神てんじんめんだいろくてんまえ竹之下たけのしたづかこしくぼつつみ東裏ひがしうら八田はったしゅうしばみちどおり中道通なかみちどおり中原なかはら中之なかのばら三本木さんぼんぎぼうつま一里塚いちりづか本太もとぶとさかい御殿ごてんしりちゅう向原むかいはらしん山道さんどういえあたま西川原にしかわはらてら屋敷やしききよしだに鹿島かしま下西しもさい向原むかいのはるだい窪南くぼみなみだいかみ苗木なえぎばら下向しもむかいげん本宿ほんしゅくいちくぼてらしたきしした稲荷いなりまる

本社ほんしゃ企業きぎょう

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埼玉さいたまりそな銀行ぎんこう本部ほんぶ、さいたま営業えいぎょう
 
NTT東日本ひがしにっぽん-せき信越しんえつ本社ほんしゃ

企業きぎょう集積しゅうせき拠点きょてんとしてテクノシティ浦和うらわがある。

Category:浦和うらわ企業きぎょう参照さんしょう

主要しゅよう施設しせつ

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行政ぎょうせい司法しほうとう

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ホテル・商業しょうぎょう

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医療いりょう保健ほけん

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公共こうきょう施設しせつ

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おも支社ししゃ支店してん

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おも法人ほうじん

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マスメディア

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テレビ埼玉てれびさいたま
 
NHKさいたま放送ほうそうきょく

公園こうえん運動うんどう施設しせつ

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学校がっこう

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埼玉県立浦和高等学校さいたまけんりつうらわこうとうがっこう
高等こうとう学校がっこう
中学校ちゅうがっこう
小学校しょうがっこう

劇団げきだん・スクール

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交通こうつう

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浦和うらわえき
 
しん浦和うらわきょう

鉄道てつどう

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東日本旅客鉄道ひがしにほんりょかくてつどう(JR東日本ひがしにっぽん
  京浜東北線けいひんとうほくせん
  宇都宮線うつのみやせん高崎線たかさきせん上野うえの東京とうきょうライン
  • - 浦和うらわえき -
  湘南しょうなん新宿しんじゅくライン
  • - 浦和うらわえき -
一般いっぱん国道こくどう
県道けんどう

旧跡きゅうせき名物めいぶつ・イベント

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旧跡きゅうせき
  • 浦和うらわ宿本しゅくほんじんあと
  • 浦和うらわ宿やど石橋いしばし供養くようぼとけ
  • 浦和うらわ宿やどなな市場いちばあと
  • 青山あおやま茶舗ちゃほくに登録とうろく有形ゆうけい文化財ぶんかざい
名物めいぶつ

うなぎ蒲焼かばやきふるくから名物めいぶつで、まん寿屋ことぶきやなど創業そうぎょう100ねんえる老舗しにせおおい(浦和うらわ宿やど参照さんしょう)。江戸えど時代じだいには、練馬ねりま大根だいこんならんで浦和うらわ大根だいこん産地さんちとしてもられた。

イベント

出身しゅっしんしゃ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 人口じんこうは2022ねんれい4ねん時点じてん推計すいけい人口じんこう面積めんせきは2022ねんれい4ねん)の全国ぜんこく都道府県とどうふけん市区しく町村ちょうそん面積めんせき調ちょうによる。
  2. ^ 2013ねん平成へいせい25ねん住宅じゅうたく土地とち統計とうけい調査ちょうさによる。分母ぶんぼからは収入しゅうにゅう階層かいそう不明ふめい世帯せたいのぞく。
  3. ^ ただし、住宅じゅうたく土地とち統計とうけい調査ちょうさおもてあきら対象たいしょうがいとなる人口じんこう1まん5せんにん未満みまん町村ちょうそんのぞ
  4. ^ 分母ぶんぼからは最終さいしゅう卒業そつぎょう学校がっこう不明ふめいおよ在学ざいがくしゃのぞく。

出典しゅってん

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  1. ^ 2010ねん平成へいせい22ねん国勢調査こくせいちょうさによる。
  2. ^ 浦和うらわ通史つうしへんIII
  3. ^ 戦災せんさい概況がいきょう浦和うらわによる。
  4. ^ さいたま公式こうしきサイト「いろ・ロゴマークの使用しようについて」
  5. ^ 東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん 昭和しょうわ6ねん8がつ18にちづけ
  6. ^ INC, SANKEI DIGITAL (2017ねん3がつ22にち). “29ねん公示こうじ地価ちか 住宅じゅうたくねんぶり上昇じょうしょう 入間いるまIC付近ふきん工業こうぎょう全国ぜんこくいち 埼玉さいたま”. 産経さんけいニュース. 2020ねん7がつ3にち閲覧えつらん
  7. ^ 人気にんきまちランキング2016/新築しんちくへん】マンション・一戸建いっこだてともに、王者おうじゃかがやいたのは「東京とうきょう世田谷せたがや」! - オウチーノ 2017ねん1がつ27にち
  8. ^ さいたま人口じんこう世帯せたいとき系列けいれつ結果けっか さいたま
  9. ^ 浦和うらわ文化ぶんか小径しょうけいマップ
  10. ^ 埼玉さいたま県立けんりつ浦和うらわだいいち女子じょし高等こうとう学校がっこう学校がっこう公式こうしき

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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