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都留つる重人しげと」のはんあいだ差分さぶん

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学園がくえん紛争ふんそう学長がくちょうのなりがおらず、3年間ねんかんにわたり学長がくちょう不在ふざいつづいていたため、いちきょう出身しゅっしんしゃ以外いがいからははつとなる一橋大学ひとつばしだいがく学長がくちょうを[[1972ねん]](昭和しょうわ47ねん)からつとめた。しかし、のちにいちきょう出身しゅっしんではないとして批判ひはんけるようになり、[[1975ねん]](昭和しょうわ50ねん)に退官たいかんし、一橋大学ひとつばしだいがく名誉めいよ教授きょうじゅわって[[小泉こいずみあきら (経済けいざい学者がくしゃ)|小泉こいずみあきら]]が学長がくちょう事務じむ取扱とりあつかいつとめた<ref name="mjg">{{Cite journal|和書わしょ|url=https://hdl.handle.net/10723/3002|title=明治学院大学めいじがくいんだいがく国際こくさい学部がくぶ創立そうりつ30周年しゅうねん記念きねん座談ざだんかい国際こくさい学部がくぶ30ねん歴史れきしかえる」|journal=国際こくさいがく研究けんきゅう|volume=|issue=50|publisher=明治学院大学めいじがくいんだいがく国際こくさい学部がくぶ|date=2017-04|pages=5-37}}</ref>。
学園がくえん紛争ふんそう学長がくちょうのなりがおらず、3年間ねんかんにわたり学長がくちょう不在ふざいつづいていたため、いちきょう出身しゅっしんしゃ以外いがいからははつとなる一橋大学ひとつばしだいがく学長がくちょうを[[1972ねん]](昭和しょうわ47ねん)からつとめた。しかし、のちにいちきょう出身しゅっしんではないとして批判ひはんけるようになり、[[1975ねん]](昭和しょうわ50ねん)に退官たいかんし、一橋大学ひとつばしだいがく名誉めいよ教授きょうじゅわって[[小泉こいずみあきら (経済けいざい学者がくしゃ)|小泉こいずみあきら]]が学長がくちょう事務じむ取扱とりあつかいつとめた<ref name="mjg">{{Cite journal|和書わしょ|url=https://hdl.handle.net/10723/3002|title=明治学院大学めいじがくいんだいがく国際こくさい学部がくぶ創立そうりつ30周年しゅうねん記念きねん座談ざだんかい国際こくさい学部がくぶ30ねん歴史れきしかえる」|journal=国際こくさいがく研究けんきゅう|volume=|issue=50|publisher=明治学院大学めいじがくいんだいがく国際こくさい学部がくぶ|date=2017-04|pages=5-37}}</ref>。


1975ねんから[[1985ねん]](昭和しょうわ60ねん)まで[[朝日新聞社あさひしんぶんしゃ]]論説ろんせつ顧問こもん<ref name="tosh"/>。[[1986ねん]](昭和しょうわ61ねん)から[[明治学院大学めいじがくいんだいがく]]教授きょうじゅ<ref name="tosh"/> をつとめ、明治学院大学めいじがくいんだいがく[[国際こくさい学部がくぶ]]の創設そうせつ尽力じんりょくした。在職ざいしょくちゅうおしの[[伊東いとう光晴みつはる]](当時とうじ京都きょうと大学だいがく教授きょうじゅ)や[[関根せきね友彦ともひこ]](当時とうじ[[ヨーク大学だいがく (カナダ)|ヨーク大学だいがく]]教授きょうじゅ)の招聘しょうへいなどを検討けんとうしていたが、やがて学内がくない対立たいりつで、おしの[[宮崎みやざき義一ぎいち]]教授きょうじゅ京都大きょうとだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ)などの擁護ようごむなしく、[[1990ねん]]([[平成へいせい]]2ねん明治学院大めいじがくいんだい辞職じしょくした<ref name="mjg"/><ref name="s32">[http://kanonline.news.coocan.jp/2014-09-19tsuru-seminar.html 「都留つる重人しげとゼミ昭和しょうわ32ねんかい」]</ref>。
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[[2006ねん]](平成へいせい18ねん)2がつ5にちに、[[前立腺ぜんりつせんがん|前立腺ぜんりつせんがん]]のため死去しきょ。{{ぼつ年齢ねんれい|1912|3|6|2006|2|5}}。[[如水にょすいかい]]かんで「しのかい」がひらかれ、門下生もんかせいの[[伊東いとう光晴みつはる]]京都大きょうとだいがく名誉めいよ教授きょうじゅや、[[杉山すぎやま武彦たけひこ]]一橋大学ひとつばしだいがく学長がくちょう、[[高山たかやま憲之のりゆき]]一橋大学ひとつばしだいがく経済けいざい研究所けんきゅうじょちょう、[[篠原しのはらさんだいたいら]]一橋大学ひとつばしだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ、[[小宮こみや隆太郎りゅうたろう]]東京大学とうきょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ、[[宮本みやもと憲一けんいち]]大阪市立大学おおさかいちりつだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ、[[寺西てらにし俊一しゅんいち]]一橋大学ひとつばしだいがく教授きょうじゅ、[[速水はやみゆう]]ぜん日本銀行にっぽんぎんこう総裁そうさい、[[宮崎みやざきいさむ]]もと経済企画庁けいざいきかくちょう長官ちょうかんら500にんあまりがあつまった<ref name="ein">[http://www.einap.org/jec/jec_old/rupo/060412001/index.htm 「都留つる重人しげとさんをしのかい」] 日本にっぽん環境かんきょう会議かいぎ</ref>。墓所はかしょは[[多磨たま霊園れいえん]]。
[[2006ねん]](平成へいせい18ねん)2がつ5にちに、[[前立腺ぜんりつせんがん|前立腺ぜんりつせんがん]]のため死去しきょ。{{ぼつ年齢ねんれい|1912|3|6|2006|2|5}}。[[如水にょすいかい]]かんで「しのかい」がひらかれ、門下生もんかせいの[[伊東いとう光晴みつはる]]京都大きょうとだいがく名誉めいよ教授きょうじゅや、[[杉山すぎやま武彦たけひこ]]一橋大学ひとつばしだいがく学長がくちょう、[[高山たかやま憲之のりゆき]]一橋大学ひとつばしだいがく経済けいざい研究所けんきゅうじょちょう、[[篠原しのはらさんだいたいら]]一橋大学ひとつばしだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ、[[小宮こみや隆太郎りゅうたろう]]東京大学とうきょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ、[[宮本みやもと憲一けんいち]]大阪市立大学おおさかいちりつだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ、[[寺西てらにし俊一しゅんいち]]一橋大学ひとつばしだいがく教授きょうじゅ、[[速水はやみゆう]]ぜん日本銀行にっぽんぎんこう総裁そうさい、[[宮崎みやざきいさむ]]もと経済企画庁けいざいきかくちょう長官ちょうかんら500にんあまりがあつまった<ref name="ein">[http://www.einap.org/jec/jec_old/rupo/060412001/index.htm 「都留つる重人しげとさんをしのかい」] 日本にっぽん環境かんきょう会議かいぎ</ref>。墓所はかしょは[[多磨たま霊園れいえん]]。

2024ねん6がつ22にち (土) 07:28時点じてんにおけるはん

都留つる 重人しげと
しん古典こてん総合そうごう
都留つる重人しげと(1950年代ねんだい
生誕せいたん (1912-03-06) 1912ねん3月6にち
日本の旗 日本にっぽん大分おおいたけん
死没しぼつ (2006-02-05) 2006ねん2がつ5にち(93さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょうみなと
研究けんきゅう分野ぶんや 近代きんだい経済けいざいがく
学位がくい Ph.D.ハーバード大学だいがく・1940ねん
指導しどう学生がくせい 高須賀たかすが義博よしひろ
中村なかむら達也たつや
渡会わたらい勝義まさよし
渡邉わたなべひろし
村田むらたみのる
望月もちづき喜市きいち
伊東いとう光晴みつはる
関根せきね友彦ともひこ
高山たかやまあきら
影響えいきょう
あたえた人物じんぶつ
宮崎みやざき義一ぎいち[1]
宮本みやもと憲一けんいち[2]
実績じっせき 国民こくみん経済けいざい計算けいさんにおけるさんめん等価とうか原則げんそく考案こうあん
公害こうがい問題もんだいあつか雑誌ざっし公害こうがい研究けんきゅう』(げん環境かんきょう公害こうがい』)を創刊そうかんした
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都留つる 重人しげと(つる しげと、1912ねん明治めいじ45ねん3月6にち - 2006ねん平成へいせい18ねん2がつ5にち)は、日本にっぽん経済けいざい学者がくしゃ一橋大学ひとつばしだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ公害こうがい政治せいじ経済けいざいがく提唱ていしょうし、雑誌ざっし公害こうがい研究けんきゅう』(げん環境かんきょう公害こうがい』)創刊そうかん

初代しょだい一橋大学ひとつばしだいがく経済けいざい研究所けんきゅうじょちょうだい6だい一橋大学ひとつばしだいがく学長がくちょうハーバード大学だいがく客員きゃくいん教授きょうじゅイェール大学だいがく客員きゃくいん教授きょうじゅ国際こくさい経済けいざいがく連合れんごう会長かいちょう日本人にっぽんじんはつ)を歴任れきにん日本学士院にほんがくしいん会員かいいん選出せんしゅつされた。日本人にっぽんじんとして2人ふたりのハーバード大学だいがく名誉めいよ学位がくい保持ほじしゃ国民こくみん経済けいざい計算けいさんにおける三面さんめん等価とうか原則げんそく考案こうあん命名めいめいなどをおこなった。

略歴りゃくれき

大分おおいたけんまれ[3]名古屋なごやそだち。小学校しょうがっこうだい5学年がくねん修了しゅうりょう熱田あつた中学校ちゅうがっこうげん愛知あいち県立けんりつみずりょう高等こうとう学校がっこうだい4学年がくねん修了しゅうりょうだいはち高等こうとう学校がっこうげん名古屋大学なごやだいがく)に入学にゅうがくしたが、日本にっぽん中国ちゅうごく侵入しんにゅう反対はんたい欠席けっせきとどけさずにストライキこしたため(はんみかど同盟どうめい事件じけん)、宮崎みやざき辰雄たつおもと神戸こうべ市長しちょう)、田中たなか文雄ふみおもと王子製紙おうじせいし社長しゃちょう)、河本かわもと敏夫としおもと通産つうさん大臣だいじん)らとともに除籍じょせきされる。

日本にっぽん大学だいがく進学しんがくできなくなったため、アメリカウィスコンシンしゅうのローレンスカレッジに1年間ねんかん留学りゅうがくし、ハリー・ホワイトなどの授業じゅぎょうける。そのハーバード大学だいがく学部がくぶ入学にゅうがくし、1935ねん昭和しょうわ10ねん)に優等ゆうとうしょう取得しゅとく卒業そつぎょう同期どうきでただ一人ひとり大学院だいがくいん進学しんがくした。大学院だいがくいんではのち高名こうみょうせたポール・サミュエルソン同窓生どうそうせい1936ねん昭和しょうわ11ねん)、同大どうだい大学院だいがくいん修士しゅうしごう取得しゅとく結婚けっこん1940ねん昭和しょうわ15ねん)、同大どうだい大学院だいがくいん博士はかせごう (Ph.D.) を取得しゅとく[ちゅう 1]博士はかせ論文ろんぶんは“Development of capitalism & business cycles in Japan, 1868-1897”[4]。そのままハーバード大学だいがく講師こうしとなる。

1942ねん昭和しょうわ17ねん)、だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ日米にちべい開戦かいせん)をけて辞職じしょくして交換こうかんせん帰国きこくつま伯父おじである木戸きど幸一こういち重光しげみつまもるたのみ、外務省がいむしょう嘱託しょくたくとして就職しゅうしょく

1943ねん昭和しょうわ18ねん)、旧制きゅうせい東京とうきょう商科しょうか大学だいがく東亜とうあ経済けいざい研究所けんきゅうじょげん一橋大学ひとつばしだいがく経済けいざい研究所けんきゅうじょ嘱託しょくたく研究けんきゅういん。その都城みやこのじょう二等兵にとうへいつとめたのち、外務省がいむしょう勤務きんむ[4]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)6がつ東條とうじょう英機ひできにより、意見いけん対立たいりつしていた木戸きど圧力あつりょくける目的もくてきで、解雇かいこされたうえ召集令状しょうしゅうれいじょうされて陸軍りくぐん徴兵ちょうへいされた。しかし、木戸きど東條とうじょう秘書官ひしょかんであった赤松あかまつ貞雄さだお[ちゅう 2]たのんだので、赤松あかまつ木戸きど依頼いらいこたえ、外務省がいむしょうから都留つるのために「余人よにんをもってえがたし」というもうれを陸軍りくぐんさせるようにはからい、3かげつ除隊じょたいとなった[5]

連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい経済けいざい科学かがくきょく調査ちょうさ統計とうけい勤務きんむて、1947ねん昭和しょうわ22ねん)、片山かたやま内閣ないかくした経済けいざい安定あんてい本部ほんぶ総合そうごう調整ちょうせい委員いいんかいふく委員いいんちょう次官じかんきゅう待遇たいぐう)に就任しゅうにんだい1かい経済けいざい白書はくしょ経済けいざい実相じっそう報告ほうこくしょ』を執筆しっぴつした。

1948ねん昭和しょうわ23ねん)、東京とうきょう商科しょうか大学だいがくげん一橋大学ひとつばしだいがく教授きょうじゅ就任しゅうにんし、同時どうじ自宅じたく社会しゃかいじん対象たいしょうにした「背広せびろゼミ」を開始かいし[4]。その冷戦れいせんした赤狩あかがマッカーシズム)のなかでアメリカ留学りゅうがく当時とうじ共産きょうさん主義しゅぎしゃであったことを告白こくはくする[ちゅう 3]

1949ねん昭和しょうわ24ねん)、中山なかやま伊知郎いちろう後任こうにんとして、新制しんせい一橋大学ひとつばしだいがく経済けいざい研究所けんきゅうじょ初代しょだい所長しょちょう就任しゅうにん1950ねん昭和しょうわ25ねん)、だい2日本にっぽん学術がくじゅつ会議かいぎ会員かいいん1956ねん昭和しょうわ31ねん)、一橋大学ひとつばしだいがく経済けいざい研究所けんきゅうじょちょう退任たいにん小原おはらたかしわる[4][6]同年どうねんハーバード大学だいがく客員きゃくいん教授きょうじゅ1960ねん昭和しょうわ35ねん)、イェール大学だいがく客員きゃくいん教授きょうじゅ[4]

1963ねん昭和しょうわ38ねん)には宮本みやもと憲一けんいち柴田しばた徳衛とくえらと、公害こうがい研究けんきゅう委員いいんかい設立せつりつ。これはのちに日本にっぽん環境かんきょう会議かいぎ母体ぼたいとなった[7]

1965ねん昭和しょうわ40ねん)に大知たいち良太郎りょうたろう後任こうにんとしてふたた一橋大学ひとつばしだいがく経済けいざい研究所けんきゅうじょ所長しょちょう就任しゅうにんし、1967ねん昭和しょうわ42ねん)に山田やまだいさむわるまでつとめた。1971ねん昭和しょうわ46ねん)『公害こうがい研究けんきゅう』を創刊そうかん[4][6]

学園がくえん紛争ふんそう学長がくちょうのなりがおらず、3年間ねんかんにわたり学長がくちょう不在ふざいつづいていたため、いちきょう出身しゅっしんしゃ以外いがいからははつとなる一橋大学ひとつばしだいがく学長がくちょう1972ねん昭和しょうわ47ねん)からつとめた。しかし、のちにいちきょう出身しゅっしんではないとして批判ひはんけるようになり、1975ねん昭和しょうわ50ねん)に退官たいかんし、一橋大学ひとつばしだいがく名誉めいよ教授きょうじゅわって小泉こいずみあきら学長がくちょう事務じむ取扱とりあつかいつとめた[8]

1975ねんから1985ねん昭和しょうわ60ねん)まで朝日新聞社あさひしんぶんしゃ論説ろんせつ顧問こもん[4]1986ねん昭和しょうわ61ねん)から明治学院大学めいじがくいんだいがく教授きょうじゅ[4]つとめ、明治学院大学めいじがくいんだいがく国際こくさい学部がくぶ創設そうせつ尽力じんりょくした。在職ざいしょくちゅうおし伊東いとう光晴みつはる当時とうじ京都きょうと大学だいがく教授きょうじゅ)や関根せきね友彦ともひこ当時とうじヨーク大学だいがく教授きょうじゅ)の招聘しょうへいなどを検討けんとうしていたが、やがて学内がくない対立たいりつで、おし宮崎みやざき義一ぎいち教授きょうじゅ京都大きょうとだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ)などの擁護ようごむなしく、1990ねん平成へいせい2ねん明治学院大学めいじがくいんだいがく辞職じしょくした[8][9]

2006ねん平成へいせい18ねん)2がつ5にちに、前立腺ぜんりつせんがんのため死去しきょ。93さいぼつ如水にょすいかいかんで「しのかい」がひらかれ、門下生もんかせい伊東いとう光晴みつはる京都大きょうとだいがく名誉めいよ教授きょうじゅや、杉山すぎやま武彦たけひこ一橋大学ひとつばしだいがく学長がくちょう高山たかやま憲之のりゆき一橋大学ひとつばしだいがく経済けいざい研究所けんきゅうじょちょう篠原しのはらさんだいひらた一橋大学ひとつばしだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ小宮こみや隆太郎りゅうたろう東京大学とうきょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ宮本みやもと憲一けんいち大阪市立大学おおさかいちりつだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ寺西てらにし俊一しゅんいち一橋大学ひとつばしだいがく教授きょうじゅ速水はやみゆうぜん日本銀行にっぽんぎんこう総裁そうさい宮崎みやざきいさむもと経済企画庁けいざいきかくちょう長官ちょうかんら500にんあまりがあつまった[10]墓所はかしょ多磨たま霊園れいえん

ゼミせい

大学院だいがくいん指導しどう学生がくせい高須賀たかすが義博よしひろ一橋大学ひとつばしだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ[11]中村なかむら達也たつや中央大学ちゅうおうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ[12]渡会わたらい勝義まさよし早稲田大学わせだだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ[13]渡邉わたなべひろし東北大学とうほくだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ[14]村田むらたみのるもと中央ちゅうおう大学だいがく教授きょうじゅ)、望月もちづき喜市きいち北海道大学ほっかいどうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ[14]熊谷くまがい一男かずおもと明治大学めいじだいがく教授きょうじゅ[15]大塚おおつか勇一郎ゆういちろうもと立教大学りっきょうだいがく教授きょうじゅ[16]永井ながいすすむ法政大学ほうせいだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ[12]青木あおき達彦たつひこ信州大学しんしゅうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ[17] など。に、都留つるゼミ出身しゅっしんしゃとして、伊東いとう光晴みつはる京都大きょうとだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ[18] や、宇野うの経済けいざいがくてんじた関根せきね友彦ともひこもとヨーク大学だいがく教授きょうじゅ)、加野かのただしもとソロモン・ブラザーズ銀行ぎんこう日本にっぽん代表だいひょう)、岩崎いわさき八男はちお通産つうさん官僚かんりょうもと中小企業庁ちゅうしょうきぎょうちょう長官ちょうかん[9] などがいる。

また、ゼミせいではないが学長がくちょう時代じだいに、細谷ほそや千博ちひろゼミ出身しゅっしんクリスチャン・ポラックいちきょう教員きょういんとしてのこれるように政治せいじにかけあったものの、外国がいこくじん国立こくりつ大学だいがく教員きょういんになることは禁止きんしされており、かなわなかった[19][20][21]

主張しゅちょう

太平洋戦争たいへいようせんそうについて、アメリカが日本にっぽん戦争せんそうになったのは、ニューディール政策せいさくによって軍備ぐんび拡張かくちょうされたからであるとしている[22]

家族かぞく

ちち都留つる信郎のぶおもと東邦とうほうガス社長しゃちょうつま正子まさこ航空こうくう工学こうがくもの和田わだ小六ころく木戸きど幸一こういちおとうと東京工業大学とうきょうこうぎょうだいがく学長がくちょう東京大学とうきょうだいがく名誉めいよ教授きょうじゅとう歴任れきにん)のむすめで、もと東大とうだい教授きょうじゅ理化学研究所りかがくけんきゅうしょゲノム科学かがく総合そうごう研究けんきゅうセンター所長しょちょう和田わだあきらまことあねである。

都留つるは、東京とうきょう赤坂あかさか住宅じゅうたくで、つまちち和田わだ小六ころくいえつまいもうととつさきである肥後ひご一郎いちろういえつま叔母おばとつさきである獅子しし文六ぶんろくいえと、おな敷地しきちないんだ[23]

著書ちょしょ

たんちょ

  • 米国べいこく政治せいじ経済けいざい政策せいさく――ニューディールを中心ちゅうしんとして』(有斐閣ゆうひかく, 1946ねん
  • 戦後せんご日本にっぽんのインフレイション』(岩波書店いわなみしょてん, 1949ねん
  • 『アメリカの資本しほん主義しゅぎ』(近代きんだい思想しそうしゃ, 1949ねん
  • 『アメリカ遊学ゆうがく』(岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ], 1950ねん)、新装しんそう復刊ふっかん2013ねん
  • 『アメリカ経済けいざい発展はってん』(勁草書房しょぼう, 1951ねん
  • 自由じゆう平和へいわのために』(よう書房しょぼう, 1951ねん
  • 国民こくみん所得しょとくさい生産せいさん』(有斐閣ゆうひかく, 1951ねん
  • 日本にっぽん経済けいざいうちそと』(河出かわで書房しょぼう河出かわで新書しんしょ], 1955ねん
  • 経済けいざい』(岩波いわなみ新書しんしょ, 1958ねん
  • 経済けいざいうごかすもの』(岩波いわなみ新書しんしょ, 1959ねん
  • 経済けいざい論理ろんり現実げんじつ』(岩波書店いわなみしょてん, 1960ねん
  • 経済けいざい現代げんだい――経済けいざいがく常識じょうしきとするために』(日本にっぽん評論ひょうろんしんしゃ, 1963ねん
  • 近代きんだい経済けいざいがく群像ぐんぞう――ひととその学説がくせつ』(日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ日経にっけい新書しんしょ], 1964ねん現代げんだい教養きょうよう文庫ぶんこ, 1993ねん岩波いわなみ現代げんだい文庫ぶんこ, 2006ねん
  • 日本にっぽん設計せっけい』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしんしゃ, 1964ねん
  • 物価ぶっかかんがえる』(岩波書店いわなみしょてん, 1967ねん
  • Essays on EConomic Development, (Kinokuniya, 1968).
  • 現代げんだい経済けいざいがく――経済けいざいがく今日きょうてき課題かだい』(筑摩書房ちくましょぼう, 1969ねん
  • 公害こうがい政治せいじ経済けいざいがく』(岩波書店いわなみしょてん, 1972ねん
  • 経済けいざいがくはむずかしくない』(講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ, 1974ねん
  • 経済けいざいがく入門にゅうもん』(講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ, 1976ねん
  • 師友しゆうかりしんろく』(講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ, 1976ねん
  • 日本にっぽん経済けいざい奇跡きせきわった』(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ, 1978ねん
  • 『マルクス 人類じんるい知的ちてき遺産いさん50』(講談社こうだんしゃ, 1982ねん
  • 『さあ、人間にんげん出番でばんだ――日本にっぽん活路かつろかんがえる』(勁草書房しょぼう, 1982ねん
  • 体制たいせい変革へんかく政治せいじ経済けいざいがく』(しん評論ひょうろん, 1983ねん
  • 現代げんだい経済けいざいがく群像ぐんぞう』(岩波書店いわなみしょてん, 1985ねん岩波いわなみ現代げんだい文庫ぶんこ, 2006ねん
  • 経済けいざい常識じょうしき非常識ひじょうしき』(岩波書店いわなみしょてん, 1987ねん
  • 地価ちかかんがえる』(岩波いわなみ新書しんしょ, 1990ねん
  • Institutional Economics Revisited, (Cambridge University Press, 1993).
    中村なかむら達也たつや永井ながいすすむ渡会わたらい勝義まさよしやく制度せいど経済けいざいがくさい検討けんとう』(岩波書店いわなみしょてん, 1999ねん
  • Japan's Capitalism: Creative Defeat and Beyond, (Cambridge University Press, 1993).
    渡辺わたなべさとし石川いしかわ通達つうたつやく日本にっぽん資本しほん主義しゅぎ――創造そうぞうてき敗北はいぼくとその』(岩波書店いわなみしょてん, 1995ねん
  • Economic Theory and Capitalist Society, (E. Elgar, 1994)
  • The Economic Development of Modern Japan, (E. Elgar, 1995).
  • 『なぜいま日米にちべい安保あんぽか』(岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみブックレット], 1996ねん
  • 日米にちべい安保あんぽ解消かいしょうへのみち』(岩波いわなみ新書しんしょ, 1996ねん
  • 科学かがくてきヒューマニズムをもとめて』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ, 1998ねん
  • The Political Economy of the Environment: the Case of Japan, (Athlone Press, 1999).
  • 『いくつもの岐路きろ回顧かいこして――都留つる重人しげと自伝じでん』(岩波書店いわなみしょてん, 2001ねん
  • 『21世紀せいき日本にっぽんへの期待きたい――危機ききてき現状げんじょうからの脱却だっきゃくを』(岩波書店いわなみしょてん, 2001ねん
  • 体制たいせい変革へんかく展望てんぼう』(しん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ, 2003ねん
  • 科学かがく社会しゃかい――科学かがくしゃ社会しゃかいてき責任せきにん』(岩波いわなみブックレット, 2004ねん
  • 市場いちばにはしんがない――成長せいちょうなくて改革かいかくをこそ』(岩波書店いわなみしょてん, 2006ねん

共著きょうちょ

編著へんちょ

  • 岩波いわなみしょう辞典じてん経済けいざいがく』(岩波書店いわなみしょてん,1955ねん
  • 資本しほん主義しゅぎ――マルクスとケインズ』(春秋しゅんじゅうしゃ,1957ねん
  • 現代げんだい資本しほん主義しゅぎさい検討けんとう』(岩波書店いわなみしょてん,1957ねん
  • 近代きんだい経済けいざいがく論集ろんしゅう』(河出かわで書房しょぼう,1961ねん
  • Has Capitalism Changed?: An International Symposium on the Nature of Contemporary Capitalism, (Iwanami,1961).
  • 現代げんだい資本しほん主義しゅぎ公害こうがい』(岩波書店いわなみしょてん,1968ねん
  • Environmental Disruption: Proceedings of International Symposium, March, 1970, Tokyo, (International Social Science Council,1970).
  • 世界せかい公害こうがい地図ちずうえした)』(岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ],1977ねん
  • Growth and Resources Problems Related to Japan: Proceedings of Session VI of the Fifth Congress of the International Economic Association held in Tokyo, Japan, (Macmillan,1978).
  • 『サムエルソン経済けいざいがく講義こうぎうえした)』(岩波書店いわなみしょてん,1983-1984ねん

共編きょうへんちょ

著作ちょさくしゅう

  • 都留つる重人しげと著作ちょさくしゅう』(講談社こうだんしゃ, 1975ねん-1976ねん)
    • だい1かん経済けいざいがくまなひとのために」
    • だい2かん国民こくみん所得しょとくさい生産せいさん
    • だい3かん資本しほん主義しゅぎ経済けいざい発展はってん課題かだい
    • だい4かん経済けいざい政策せいさく安定あんてい成長せいちょう
    • だい5かん経済けいざい政策せいさく福祉ふくしもとめて」
    • だい6かん都市とし問題もんだい公害こうがい
    • だい7かん日本にっぽん経済けいざい時論じろん
    • だい8かん国際こくさい政治せいじ国際こくさい経済けいざい
    • だい9かん「アメリカの政治せいじ経済けいざい
    • だい10かん学問がくもん社会しゃかい論壇ろんだん
    • だい11かんひとたびほん
    • だい12かん随想ずいそうおも
    • だい13かん「Towards a new political economy」

訳書やくしょ

  • シュンペーター帝国ていこく主義しゅぎ社会しゃかい階級かいきゅう』(岩波書店いわなみしょてん, 1956ねん
  • M・ドッブ経済けいざい理論りろん社会しゃかい主義しゅぎ』(岩波書店いわなみしょてん,1958-1959ねん
  • ジョーン・ロビンソンマルクス主義まるくすしゅぎ経済けいざいがく検討けんとう――マルクス・マーシャル・ケインズ』(紀伊國屋きのくにや書店しょてん,1960ねん
  • P・A・サムエルソン経済けいざいがく――入門にゅうもんてき分析ぶんせきうえした)』(岩波書店いわなみしょてん,1966ねん
  • スウィージー資本しほん主義しゅぎ発展はってん理論りろん』(しん評論ひょうろん,1967ねん
  • E・J・ミシャン『経済けいざい成長せいちょう代価だいか』(岩波書店いわなみしょてん,1971ねん
  • ジョン・K・ガルブレイスあたらしい産業さんぎょう国家こっか』(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ,1972ねん
  • マーシャル・ゴールドマンソ連それんにおける環境かんきょう汚染おせん――進歩しんぽなにあたえたか』(岩波書店いわなみしょてん,1973ねん
  • ジョン・K・ガルブレイス『マネー――その歴史れきし展開てんかい』(TBSブリタニカ,1976ねん
  • ジョン・K・ガルブレイス『確実かくじつせい時代じだい』(TBSブリタニカ,1978ねん
  • ジョン・K・ガルブレイス『大衆たいしゅうてき貧困ひんこん本質ほんしつ』(TBSブリタニカ,1979ねん
  • フレッド・ハーシュ『成長せいちょう社会しゃかいてき限界げんかい』(日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ,1980ねん
  • フレッド・ハーシュ, ジョン・H・ゴールドソープへん『インフレーションの政治せいじ経済けいざいがく』(日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ,1982ねん
  • P・A・サムエルソン『サムエルソンしんかた経済けいざいがく』(ダイヤモンド社だいやもんどしゃ,1984ねん
  • E・J・ミシャン『経済けいざいがく神話しんわせい』(ダイヤモンド社だいやもんどしゃ,1987ねん
  • G・クロウ, T・ホィールライト『オーストラリア――いま従属じゅうぞく国家こっか』(勁草書房しょぼう,1987ねん
  • A・デーヴィッド, T・ホィールライト『にちごう摩擦まさつしん時代じだい――アジア資本しほん主義しゅぎ幕開まくあけ』(勁草書房しょぼう,1990ねん
  • P・A・サムエルソン, W・ノードハウス経済けいざいがく』(岩波書店いわなみしょてん,1992-1993ねん
  • アーサー・シュレジンジャー, 『アメリカの分裂ぶんれつ――多元たげん文化ぶんか社会しゃかいについての所見しょけん』(岩波書店いわなみしょてん,1992ねん
  • M・シェンバーグへん現代げんだい経済けいざいがく巨星きょせい――みずからがかた人生じんせい哲学てつがく』(岩波書店いわなみしょてん,1994ねん
  • イグナチ・サックス『健全けんぜん地球ちきゅうのために――21世紀せいきけての移行いこう戦略せんりゃく』(サイマル出版しゅっぱんかい,1994ねん
  • ロバート・アイスナー『経済けいざい誤解ごかいく』(日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ,1995ねん
  • ジョセフ・L・サックス『「レンブラント」でダーツあそびとは――文化ぶんかてき遺産いさんおおやけ権利けんり』(岩波書店いわなみしょてん,2001ねん

学術がくじゅつ論文ろんぶん

  • Tsuru, Shigeto; Fries, Horace S. (1933). “A Problem in Meaning”. Journal of General Psychology 8 (1): 281-284. 
  • Tsuru, Shigeto (1941). “Economic Fluctuations in Japan, 1868-1893”. The Review of Economics and Statistics 23 (4): 176-189. 

脚注きゃくちゅう

注釈ちゅうしゃく

  1. ^ ド大どだいでのもう勉強べんきょう秀才しゅうさいぶりは有名ゆうめいであり、こののちおなじくド大どだい留学りゅうがくした鶴見つるみ俊輔しゅんすけわせて同期生どうきせいやハーバード関係かんけいしゃに「ツル・ツルミ」とわれた。
  2. ^ 東條とうじょう退陣たいじんのちの1944ねん昭和しょうわ19ねん)7がつから1945ねん昭和しょうわ20ねん)2がつまで、赤松あかまつ軍務ぐんむ課長かちょうであった。
  3. ^ これがもとで、アメリカ留学りゅうがく当時とうじ学友がくゆうで、のちカナダ外交がいこうかんとなったエドガートン・ハーバート・ノーマン自殺じさつした。工藤くどう美代子みよこ「スパイとわれた外交がいこうかん ハーバート・ノーマンの生涯しょうがい」(ちくま文庫ぶんこ)ほか参照さんしょう

出典しゅってん

  1. ^ 宮崎みやざき義一ぎいち みやざき よしかず」 デジタルばん 日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん+Plusの解説かいせつ
  2. ^ 環境かんきょう公害こうがい』(○○ろくねんよんがつごう
  3. ^ 都留つる重人しげとしゅう日本にっぽん書房しょぼう現代げんだい知性ちせい全集ぜんしゅう16〉、1958ねん11月、287ぺーじNDLJP:2941190/145 年譜ねんぷ」を参照さんしょう
  4. ^ a b c d e f g h 都留つる重人しげと先生せんせい略歴りゃくれき 一橋大学付属図書館ひとつばしだいがくふぞくとしょかん
  5. ^ 鳥居とりいみん近衛このえ文麿ふみまろだま」してす』(くさおもえしゃ)p.198、またまえちょ日米にちべい開戦かいせんなぞ』も参照さんしょう
  6. ^ a b 歴代れきだい所長しょちょう 一橋大学ひとつばしだいがく経済けいざい研究所けんきゅうじょ
  7. ^ 宮本みやもと 憲一けんいち bians
  8. ^ a b 明治学院大学めいじがくいんだいがく国際こくさい学部がくぶ創立そうりつ30周年しゅうねん記念きねん座談ざだんかい国際こくさい学部がくぶ30ねん歴史れきしかえる」」『国際こくさいがく研究けんきゅうだい50ごう明治学院大学めいじがくいんだいがく国際こくさい学部がくぶ、2017ねん4がつ、5-37ぺーじ 
  9. ^ a b 都留つる重人しげとゼミ昭和しょうわ32ねんかい
  10. ^ 都留つる重人しげとさんをしのかい 日本にっぽん環境かんきょう会議かいぎ
  11. ^ 高須賀たかすが義博よしひろ商品しょうひん経済けいざい価値かち機構きこう : 価値かち形態けいたいろんいち考察こうさつ」『いちきょう研究けんきゅうだい2ごう一橋大学ひとつばしだいがく大学院だいがくいん学生がくせいかい、1956ねん3がつ、110-130ぺーじdoi:10.15057/6830ISSN 0286-861XNAID 110007621348 
  12. ^ a b 昭和しょうわ43年度ねんど学位がくい授与じゅよ単位たんい修得しゅうとく論文ろんぶん」『いちきょう研究けんきゅうだい17ごう一橋大学ひとつばしだいがく大学院生だいがくいんせい自治じちかい、1969ねん7がつ、44-46ぺーじdoi:10.15057/6681ISSN 0286-861XNAID 110007621203 
  13. ^ 昭和しょうわ45年度ねんど 学位がくい授与じゅよ単位たんい修得しゅうとく論文ろんぶん」『いちきょう研究けんきゅうだい21ごう一橋大学ひとつばしだいがく大学院生だいがくいんせい自治じちかい、1971ねん7がつ、96-98ぺーじdoi:10.15057/6650ISSN 0286-861XNAID 110007621176 
  14. ^ a b 経済けいざいがく研究けんきゅう修士しゅうし論文ろんぶん紹介しょうかい」『いちきょう研究けんきゅうだい3ごう一橋大学ひとつばしだいがく大学院だいがくいん学生がくせいかい、1957ねん3がつ、47-49ぺーじdoi:10.15057/6821ISSN 0286-861XNAID 110007621339 
  15. ^ 昭和しょうわ36年度ねんど学位がくい授与じゅよ論文ろんぶんおよ単位たんい修得しゅうとく論文ろんぶん要旨ようし」『いちきょう研究けんきゅうだい9ごう一橋大学ひとつばしだいがく大学院だいがくいん学生がくせいかい、1962ねん9がつ、57-59ぺーじdoi:10.15057/6747ISSN 0286-861XNAID 110007621269 
  16. ^ 昭和しょうわ41・42年度ねんど学位がくい授与じゅよ単位たんい修得しゅうとく論文ろんぶん」『いちきょう研究けんきゅうだい16ごう一橋大学ひとつばしだいがく大学院生だいがくいんせい自治じちかい、1969ねん2がつ、97-101ぺーじdoi:10.15057/6690ISSN 0286-861XNAID 110007621212 
  17. ^ 昭和しょうわ46年度ねんど 学位がくい授与じゅよ単位たんい修得しゅうとく論文ろんぶん」『いちきょう研究けんきゅうだい23ごう一橋大学ひとつばしだいがく大学院生だいがくいんせい自治じちかい、1972ねん7がつ、143-146ぺーじdoi:10.15057/6632ISSN 0286-861XNAID 110007621158 
  18. ^ 一橋大学ひとつばしだいがく理論りろん経済けいざい学者がくしゃたち」 如水にょすいかい
  19. ^ にちふつ交流こうりゅう研究けんきゅう クリスチャン・ポラックさん 「きぬひかり」のえんたどる(3)」 2018/3/1づけ日本経済新聞にほんけいざいしんぶん 夕刊ゆうかん
  20. ^ にちふつ交流こうりゅう研究けんきゅう クリスチャン・ポラックさん 「きぬひかり」のえんたどる(4)」 2018/3/1づけ日本経済新聞にほんけいざいしんぶん 夕刊ゆうかん
  21. ^ にちふつ交流こうりゅう研究けんきゅう クリスチャン・ポラックさん 「きぬひかり」のえんたどる(5)」 2018/3/2づけ日本経済新聞にほんけいざいしんぶん 夕刊ゆうかん
  22. ^ 麻木あさぎ久仁子くにこ田村たむら秀男ひでお田中たなか秀臣ひでおみ日本にっぽん建替たてかえろん 〔100ちょうえん余剰よじょう資金しきん動員どういんせよ!〕』 藤原ふじわら書店しょてん、2012ねん、77ぺーじ
  23. ^ 福本ふくもと信子のぶこ獅子しし文六ぶんろく先生せんせい応接間おうせつま』(かげ書房しょぼう)P.25

関連かんれん項目こうもく

外部がいぶリンク