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[[19世紀]]にはいると、内陸部にも海岸部の勢力が入り込んでくるようになった。[[オマーン]]の[[サイイド・サイード]]はインド洋の[[ザンジバル]]に拠点を置き、内陸部との交易に力を入れた。このため、[[ティップー・ティプ]]などのアラブ人商人がコンゴ川中流域へと入り込むようになった。一方このころから、ヨーロッパ人もコンゴ川の流域に少しずつ目を向けるようになってきた。といっても、コンゴ川流域には[[ナイル川]]や[[ニジェール川]]のような古くからの大文明はなく、したがって探検の主目的となるのは[[アフリカ探検]]も最末期となってからである。しかし、コンゴ川とニジェール川やナイル川が何らかの関係を持っていると考えるものは多く、この両河川の探検に関連してコンゴ川の流域は少しずつ明らかになっていった。 |
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[[1874年]]には[[ヘンリー・モートン・スタンリー]]が流域全体の探検を行い、[[1877年]]に河口に到達。流路がヨーロッパ人にほぼ知られるようになった。その後、スタンリーは[[ベルギー]]国王[[レオポルド2世]]の支援を得て再度この地域を探検する。この探検の結果、コンゴ川流域のかなりの部分は[[1882年]]に[[コンゴ国際協会]]の勢力範囲となり、[[1885年]]には[[ベルリン会議 (アフリカ分割)|ベルリン会議]]において[[コンゴ自由国]]として正式にレオポルド2世の私領となった。しかし、コンゴ自由国では[[象牙]]や[[ゴム]]の採取のための強制労働がおこなわれ、非常な暴政が敷かれたため国際的な批判を浴び、[[1908年]]にはベルギー領へと移管された。 |
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[[1874年]]には[[ヘンリー・モートン・スタンリー]]が流域全体の探検を行い、[[1877年]]に河口に到達。流路がヨーロッパ人にほぼ知られるようになった。その後、スタンリーは[[ベルギー]]国王[[レオポルド2世]]の支援を得て再度この地域を探検する。この探検の結果、コンゴ川流域のかなりの部分は[[1882年]]に[[コンゴ国際協会]]の勢力範囲となり、[[1885年]]には[[ベルリン会議 (アフリカ分割)|ベルリン会議]]において[[コンゴ自由国]]として正式にレオポルド2世の私領となった。しかし、コンゴ自由国では[[象牙]]や[[ゴム]]の採取のための強制労働がおこなわれ、非常な暴政が敷かれたため国際的な批判を浴び、[[1908年]]にはベルギー領へと移管された。 |
コンゴ川 |
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延長 |
4,371 km |
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平均流量 |
39,610 m³/s |
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流域面積 |
3,680,000 km² |
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水源 |
アフリカ大地溝帯 |
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水源の標高 |
-- m |
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河口・合流先 |
大西洋 |
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流域 |
コンゴ民主共和国, 中央アフリカ, コンゴ共和国, アンゴラ, ザンビア, タンザニア, ブルンジ, ルワンダ |
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コンゴ川(コンゴ語: Nzadi Kongo, リンガラ語: Ebale Kongó, スワヒリ語: Mto wa Kongo, フランス語: Fleuve Congo)は、中部アフリカのコンゴ盆地を蛇行しながら流れ、大西洋に至るアフリカ大陸2番目の長さ(4,371km)を誇る河川である。コンゴ川の名はコンゴ王国に因む。
地理
コンゴ川の源流は、大きくルアラバ川とチャンベジ川の二つからなる。コンゴ川の本流はルアラバ川とみなされることが多いが、ミシシッピ川(支流のミズーリ川の源流からの距離で全長を計算している)のように、川の長さは最長支流からの長さで計算することが慣例であるため、コンゴ川の長さは最長支流であるチャンベジ川の源流からの長さで計算されている。
コンゴ川本流の上流部であるルアラバ川は、コンゴ民主共和国南東部のカタンガ高原南部、ザンビアとの国境近くに端を発する。そこからほぼまっすぐに北進し、アフリカ大地溝帯西側のミトゥンバ山地に源を発する支流を併せながら水量を増していく。もう一つの源流であるチャンベジ川はザンビアの北東部、タンガニーカ湖の南側の山地に端を発し、南西へと流れてバングウェウル湖東端に流入する。バングウェウル湖南端から再び流れ出すが、ここからはルアプラ川と名を変える。ルアプラ川はしばらく南下したのち大きく弧を描いて、今度は逆に北上する。この弧の部分からムウェル湖に注ぎ込むまでの区間はコンゴ民主共和国とザンビアとの国境をなし、東岸がザンビア領、西岸がコンゴ民主共和国領となる。ムウェル湖南端に注ぎ込んだ川は、北端から再び流れ出すが、ここからはルヴア川という名称になり、ほぼ北西へと進む。この両河川はカタンガ北部のアンコロで合流し、ルヴア川がルアラバ川へと注ぎこむ形となる。
ルアラバ川はさらに北進し、その北でタンガニーカ湖から流出するルクガ川も合流する。本流はさらに北進を続け、キンドゥからウブンドゥまでの約300kmは急流もなく緩やかな流れとなる。ウブンドゥからキサンガニのすぐ上流にあるボヨマ滝までは再び急流となるが、キサンガニから下流のキンシャサまでは緩やかな流れに戻る。ボヨマ滝では赤道を越え、またここから下流はコンゴ川と名前を変え、弧を描くように流れを西へと向ける。このキサンガニからキンシャサまでは流れも太く安定しており、コンゴ民主共和国における物資輸送の大動脈となっている。川はやがて南西へと向きを変え、ムバンダカ周辺でふたたび赤道を南に超える。ムバンダカの下流で中央アフリカ共和国およびコンゴ共和国とコンゴ民主共和国の国境をなしている大支流ウバンギ川と合流する。ウバンギ川との合流点からは西岸のコンゴ共和国東岸のコンゴ民主共和国との国境となる。更にその南でコンゴ南西部からアンゴラ北東部を流域とする大支流カサイ川と合流して、キンシャサ・ブラザビル付近で幅が25kmにも広がりマレボ湖を形成する[1]。マレボ湖は安定した水流の末端に位置するため、河川交通の終着点となっており、この交通網の結節点としてフランスがブラザヴィル、ベルギーがレオポルドヴィル(現キンシャサ)を建設して、それぞれ流域の首都とした。
マレボ湖より下流はコンゴ民主共和国領となるが、ここにはリビングストン滝と呼ばれる急流があり、特に高低差の激しいところでは12km流れる間に96mも高度を下げるため、激流となっている。この激流は船の航行を阻み、コンゴ盆地奥地へのヨーロッパ人の侵入を長い間阻んできた。約200km続くこの激流を越えると、高度は海面近くにまで下がり、リビングストン滝の滝壺にあたるマタディからは再び安定した流れに戻る。マタディからは真西に流路をとるようになり、ボマを経てムアンダで大西洋に注ぐ。この区間は、北岸がコンゴ民主共和国領、南岸がアンゴラ領で、再び国境をなすようになる。河口はデルタを形成せず、一本の太い流れのままで大西洋に注ぎ込む。
流域面積と流量はアマゾン川に次いで世界2位であり、流域の熱帯雨林もアマゾン川に次ぐ広さを持つ。流域中部は赤道直下で1年中雨が降り、またボヨマ滝の南で北に赤道を越え、ムバンダカ近郊で南に赤道を越えるため、支流が赤道をはさんで南北に分散しており、雨季の時期が各支流によって違うため増水期が分散しており、そのため本流の流量はほぼ一定である。
支流も含めての流域関係国は、コンゴ民主共和国をはじめ、コンゴ共和国、中央アフリカ共和国、アンゴラ共和国である。1971年 - 1997年までは、ザイール共和国(現在のコンゴ民主共和国)においてはザイール川と呼ばれていた。この名称変更はザイールの独裁者であったモブツ・セセ・セコが唱えたオータンティシテ(真正化)政策の下、ヨーロッパ由来の地名をアフリカ本来の地名に戻すためと称して行われたが、旧称の「コンゴ」がコンゴ王国時代から続くバントゥー本来の呼称であるのに対して、「ザイール」は15世紀にこの地方に来たポルトガル人が、この大河の名称を地元住民に聞いた際に答えた「ンザディ」(大きな川)をポルトガル人が「ザイール」とき取ったことによって成立した欧州側の呼称であり、矛盾が生じていた。このため、コンゴ共和国側においてはこの川はコンゴ川と呼ばれ続けていた。1997年にモブツ政権が崩壊すると、政権を握ったローラン・カビラはザイール川との呼称を廃止して旧称のコンゴ川へと復帰させた。
歴史
コンゴ川流域は、紀元前2000年ごろには狩猟採集民であるピグミーが広く分布していたと考えられている。その後、現在のカメルーン南部周辺を起源とするバントゥー系の住民が大拡張を開始し、紀元前1120年ごろにはそのうちの西バントゥー系がコンゴ川流域に到達。紀元1年前後にはコンゴ川流域に広く居住するようになった。西バントゥー系は食料作物としてヤムイモとアブラヤシを持ち、焼畑をおこなった。また鉄器製造技術を持ち、これを使って密林の奥へと勢力を拡大していった。紀元1年ごろには、いったんアフリカ大陸東部へと移住した東バントゥー系がコンゴ川流域への入植を開始した。彼らはソルガムやシコクビエといった穀物の栽培技術を持ち、密林よりもサバンナなどの開けた土地を好んだため、西バントゥー系とのすみわけに成功し、両者はやがて混じりあって行った。また、彼らによって5世紀頃にアジアからバナナの栽培技術がもたらされる。バナナはヤムイモより栽培しやすく、生産性も非常に高かったため、コンゴ川流域に瞬く間に広がっていった[2]。
しかしながら、コンゴ川流域、特に中流域には広大な領域国家は成立しなかった。わずかに、河口域にコンゴ王国などが、最上流域にルバ王国とルンダ王国などが成立したに過ぎない。これらの王国はインド洋からアフリカ内陸部へといたる交易ルートを力の源泉としていた。
この状況が変化するのは、ポルトガルが大西洋を南下し、この地域へと到達した時である。1482年、ポルトガル人のディオゴ・カンがコンゴ王国へと到達し、ポルトガルとコンゴとの間に交易が開始された。両国の関係は当初対等で互恵的なものであったが、やがてヨーロッパ世界で奴隷の需要が激増するに従い、奴隷を大量に移出したコンゴ王国の力は弱まっていった。一方で、ヨーロッパ世界との接触は西方への交易ルートが開けたことを意味し、コンゴ川流域は次第に西のポルトガル・ヨーロッパの交易圏か、東のインド洋・アラブの交易圏へと組み込まれていった。しかし、ヨーロッパ人はリビングストン滝の急流に、アラブ人は東岸からの距離に、それぞれ阻まれて、コンゴ川中上流域へと到達することはできなかった。
ヨーロッパ人との接触によって、1600年ごろにはコンゴ川流域に新大陸原産のキャッサバが持ち込まれた。これはバナナよりさらに手間がかからず、さらにやせた土地でもよく生育したため、キャッサバの導入は再びこの地域に農業革命をもたらした。
探検史
19世紀にはいると、内陸部にも海岸部の勢力が入り込んでくるようになった。オマーンのサイイド・サイードはインド洋のザンジバルに拠点を置き、内陸部との交易に力を入れた。このため、ティップー・ティプなどのアラブ人商人がコンゴ川中流域へと入り込むようになった。一方このころから、ヨーロッパ人もコンゴ川の流域に少しずつ目を向けるようになってきた。といっても、コンゴ川流域にはナイル川やニジェール川のような古くからの大文明はなく、したがって探検の主目的となるのはアフリカ探検も最末期となってからである。しかし、コンゴ川とニジェール川やナイル川が何らかの関係を持っていると考えるものは多く、この両河川の探検に関連してコンゴ川の流域は少しずつ明らかになっていった。
1874年にはヘンリー・モートン・スタンリーが流域全体の探検を行い、1877年に河口に到達。流路がヨーロッパ人にほぼ知られるようになった。その後、スタンリーはベルギー国王レオポルド2世の支援を得て再度この地域を探検する。この探検の結果、コンゴ川流域のかなりの部分は1882年にコンゴ国際協会の勢力範囲となり、1885年にはベルリン会議においてコンゴ自由国として正式にレオポルド2世の私領となった。しかし、コンゴ自由国では象牙やゴムの採取のための強制労働がおこなわれ、非常な暴政が敷かれたため国際的な批判を浴び、1908年にはベルギー領へと移管された。
一方、スタンリーとほぼ同時期に、ピエール・ブラザもフランス政府の支援を受けてまたコンゴ川流域を探険していた。この探険の成果などを元に、現在のコンゴ共和国や中央アフリカ共和国など流域の北部や西部はフランス領となった。
植民地時代には、両国政府は産業開発を積極的におこなった。マレボ湖に面し、ブラザとスタンリーがそれぞれ建設したブラザヴィルとレオポルドヴィル(現キンシャサ)はコンゴ川を利用した内陸水運の結節点として開発が進められ、1898年にはレオポルドヴィルとマタディを結ぶマタディ・キンシャサ鉄道が、1934年にはブラザヴィルとポワントノワールを結ぶコンゴ・オセアン鉄道がそれぞれ開通し、内陸の産物を両都市に集積して海港へと輸送し輸出する体制が整えられた。コンゴ川には蒸気船が浮かべられ、内陸舟運が積極的に開発された。
1960年、ベルギー領はコンゴ民主共和国として、フランス領はコンゴ共和国や中央アフリカ共和国として、それぞれ独立を果たした。
経済
世界第2位の巨大な流量を持ち、さらに流量の季節変動がほとんどない上、流量の最も多くなる下流部に大きな高低差が存在するため、電力の端境期のない良質の水力発電源として古くから注目されてきた。推計では、コンゴ川水系の発電ポテンシャルは世界の水力発電の総ポテンシャルのうち13%を占め、サブサハラ・アフリカの電力需要をすべて満たすことができると計算されている[3]。特に注目されたのは、リヴィングストン滝下流にあるインガ急流である。12kmの間に96mも高度を下げるこの急流で、1920年代にはすでに建設計画が持ち上がり、1957年に調査が開始された。計画では5つのダムを建設し、総発電量は34500メガワットに上る計算であった。1961年のコンゴ動乱によって一時計画は中断したものの、1966年にはモブツ・セセ・セコ政権によりリビングストン滝にインガ・ダムが建設が開始され、1974年には第1次及び第2次計画が完成し、2つのダムに14のタービンが置かれて発電を開始し、以後のザイール(現コンゴ民主共和国)の主要な電力供給源となっている。しかし、資金不足及びモブツ政権の乱脈によって第3次計画は実施されず、また電力も1次2次計画の計画上の数値の40%である700メガワットしか生産されていない。また、長大な送電線によって産業地帯である南部のカタンガ州の銅鉱山に電力は送られているものの、それと首都キンシャサ以外の地域には電力は供給されず、コンゴ民主共和国国内では深刻な電力不足が起きている。しかし、送電線がカタンガを通って大陸南端のケープタウンまでつながっているため、近年電力不足が叫ばれている南アフリカ共和国などアフリカ南部諸国がコンゴ川の発電に注目しており、2004年には44,000メガワットの発電施設を建設するウェスタン・パワー・コリドー計画が発表された。
交通
交通インフラが未発達なコンゴ民主共和国や周辺諸国にとって、高低差がなく水深の深いコンゴ川は重要な河川交通路となっている。中部アフリカ最大の都市であるコンゴ民主共和国の首都キンシャサはこの河川交通網の結節点として建設され、ここを起点に中央アフリカ共和国の首都バンギやコンゴ中部の大都市キサンガニ、カサイ州やカタンガへの玄関口であるイレボなどにオナトラ社などの定期船や貨物船が就航しており、同国の大動脈となっている。キサンガニとウブンドゥの間の急流には迂回路として鉄道が敷かれ、ウブンドゥからキンドゥまでは再び船舶輸送が中心となる。舟運によってキンシャサに集められた貨物は、リビングストン滝を迂回するマタディ・キンシャサ鉄道によって海岸から120km上流にあるマタディへと運ばれる。マタディからボマをとおり河口までの間は再び航行が可能になり、外洋船舶も遡上可能であるため、河港マタディはコンゴ民主共和国の主要貿易港となっている。また、同様にコンゴ共和国の首都ブラザヴィルも同じ機能を持ち、コンゴ・オセアン鉄道によって海港ポワントノワールへと連絡している。また、海を持たない中央アフリカ共和国においてはコンゴ川の支流ウバンギ川は唯一の外国貿易ルートとして非常に重要であり、大型船の入れる同国唯一の港である首都バンギは内陸港であるにもかかわらずもっとも重要な輸出港となっている。
コンゴ川本流には2つしか橋が架かっていない。上流域、ルクガ川とルアラバ川の合流点から下流にあるコンゴロのコンゴロ橋と、下流域のマタディにあるマタディ橋である。コンゴロ橋は1939年にベルギー政府によって建設された。これに対し、マタディ橋は日本の政府開発援助によって1974年に建設が開始され、1983年に完成したものである。マタディ橋の全長は722mであり、建設当時はアフリカで最も長い橋であった[4]。この橋はコンゴ川南岸にあるマタディと北岸のコンゴ民主共和国領を連絡する機能を持ち、マタディ・キンシャサ鉄道を延伸して北岸のボマ、さらには河口のバナナ港まで鉄道を建設する計画のもと建設された。このため、マタディ橋は道路・鉄道併用橋となっているものの、延伸計画はその後の経済破綻や政情不安によって実現せず、さらに同区間の道路整備も同じ事情によって実現しなかったため、橋の機能は計画に比べて大きく制限されているのが実情である。コンゴ民主共和国の首都キンシャサとコンゴ共和国の首都ブラザヴィルとの間は川を挟んで2㎞程度しか離れていないため、何度か架橋計画が浮上しているが、実現はしていない。
支流
脚注
- ^ ミリオーネ全世界事典 第11巻 アフリカⅡ p307(学習研究社、1980年11月1日)
- ^ 「新書アフリカ史」第8版(宮本正興・松田素二編)、2003年2月20日(講談社現代新書)p68
- ^ Alain Nubourgh, Belgian Technical Cooperation (BTC). Weetlogs.scilogs.be (2010-04-27). Retrieved on 2011-11-29.
- ^ 「最新 世界の鉄道」ぎょうせい、2005年6月 p318
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