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「コンゴがわ」のはんあいだ差分さぶん

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=== 探検たんけん ===
=== 探検たんけん ===
[[19世紀せいき]]にはいると、内陸ないりくにも海岸かいがん勢力せいりょくはいんでくるようになった。[[オマーン]]の[[サイイド・サイード]]はインド洋いんどようの[[ザンジバル]]に拠点きょてんき、内陸ないりくとの交易こうえきちかられた。このため、[[ティップー・ティプ]]などのアラブじん商人しょうにんがコンゴ川中かわなか流域りゅういきへとはいむようになった。一方いっぽうこのころから、ヨーロッパじんもコンゴがわ流域りゅういきすこしずつけるようになってきた。といっても、コンゴがわ流域りゅういきには[[ナイルがわ]]や[[ニジェールがわ]]のようなふるくからのだい文明ぶんめいはなく、したがって探検たんけんしゅ目的もくてきとなるのは[[アフリカ探検たんけん]]もさい末期まっきとなってからである。
[[19世紀せいき]]にはいると、内陸ないりくにも海岸かいがん勢力せいりょくはいんでくるようになった。[[オマーン]]の[[サイイド・サイード]]はインド洋いんどようの[[ザンジバル]]に拠点きょてんき、内陸ないりくとの交易こうえきちかられた。このため、[[ティップー・ティプ]]などのアラブじん商人しょうにんがコンゴ川中かわなか流域りゅういきへとはいむようになった。一方いっぽうこのころから、ヨーロッパじんもコンゴがわ流域りゅういきすこしずつけるようになってきた。といっても、コンゴがわ流域りゅういきには[[ナイルがわ]]や[[ニジェールがわ]]のようなふるくからのだい文明ぶんめいはなく、したがって探検たんけんしゅ目的もくてきとなるのは[[アフリカ探検たんけん]]もさい末期まっきとなってからである。しかし、コンゴがわとニジェールがわやナイルがわなんらかの関係かんけいっているとかんがえるものはおおく、このりょう河川かせん探検たんけん関連かんれんしてコンゴがわ流域りゅういきすこしずつあきらかになっていった


[[1874ねん]]には[[ヘンリー・モートン・スタンリー]]が流域りゅういき全体ぜんたい探検たんけんおこない、[[1877ねん]]に河口かこう到達とうたつりゅうがヨーロッパじんにほぼられるようになった。その、スタンリーは[[ベルギー]]国王こくおう[[レオポルド2せい]]の支援しえん再度さいどこの地域ちいき探検たんけんする。この探検たんけん結果けっか、コンゴがわ流域りゅういきのかなりの部分ぶぶんは[[1882ねん]]に[[コンゴ国際こくさい協会きょうかい]]の勢力せいりょく範囲はんいとなり、[[1885ねん]]には[[ベルリン会議かいぎ (アフリカ分割ぶんかつ)|ベルリン会議かいぎ]]において[[コンゴ自由じゆうこく]]として正式せいしきにレオポルド2せいわたしりょうとなった。しかし、コンゴ自由じゆうこくでは[[象牙ぞうげ]]や[[ゴム]]の採取さいしゅのための強制きょうせい労働ろうどうがおこなわれ、非常ひじょう暴政ぼうせいかれたため国際こくさいてき批判ひはんび、[[1908ねん]]にはベルギーりょうへと移管いかんされた。
[[1874ねん]]には[[ヘンリー・モートン・スタンリー]]が流域りゅういき全体ぜんたい探検たんけんおこない、[[1877ねん]]に河口かこう到達とうたつりゅうがヨーロッパじんにほぼられるようになった。その、スタンリーは[[ベルギー]]国王こくおう[[レオポルド2せい]]の支援しえん再度さいどこの地域ちいき探検たんけんする。この探検たんけん結果けっか、コンゴがわ流域りゅういきのかなりの部分ぶぶんは[[1882ねん]]に[[コンゴ国際こくさい協会きょうかい]]の勢力せいりょく範囲はんいとなり、[[1885ねん]]には[[ベルリン会議かいぎ (アフリカ分割ぶんかつ)|ベルリン会議かいぎ]]において[[コンゴ自由じゆうこく]]として正式せいしきにレオポルド2せいわたしりょうとなった。しかし、コンゴ自由じゆうこくでは[[象牙ぞうげ]]や[[ゴム]]の採取さいしゅのための強制きょうせい労働ろうどうがおこなわれ、非常ひじょう暴政ぼうせいかれたため国際こくさいてき批判ひはんび、[[1908ねん]]にはベルギーりょうへと移管いかんされた。

2012ねん11月26にち (月)げつ 13:30時点じてんにおけるはん

コンゴがわ
延長えんちょう 4,371 km
平均へいきん流量りゅうりょう 39,610 m³/s
流域りゅういき面積めんせき 3,680,000 km²
水源すいげん アフリカ大地だいちみぞたい
水源すいげん標高ひょうこう -- m
河口かこう合流ごうりゅうさき 大西おおにしひろし
流域りゅういき  コンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく, 中央アフリカ共和国の旗 中央ちゅうおうアフリカ, コンゴ共和国の旗 コンゴ共和きょうわこく, アンゴラの旗 アンゴラ, ザンビアの旗 ザンビア, タンザニアの旗 タンザニア, ブルンジの旗 ブルンジ, ルワンダの旗 ルワンダ
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コンゴがわとその流域りゅういき

コンゴがわコンゴ: Nzadi Kongo, リンガラ: Ebale Kongó, スワヒリ: Mto wa Kongo, フランス語ふらんすご: Fleuve Congo)は、中部ちゅうぶアフリカコンゴ盆地ぼんち蛇行だこうしながらながれ、大西おおにしひろしいたアフリカ大陸たいりく2番目ばんめながさ(4,371km)をほこ河川かせんである。コンゴがわコンゴ王国おうこくちなむ。

地理ちり

コンゴがわ源流げんりゅうは、おおきくルアラバがわとチャンベジがわふたつからなる。コンゴがわ本流ほんりゅうはルアラバがわとみなされることがおおいが、ミシシッピがわ支流しりゅうミズーリがわ源流げんりゅうからの距離きょり全長ぜんちょう計算けいさんしている)のように、かわながさは最長さいちょう支流しりゅうからのながさで計算けいさんすることが慣例かんれいであるため、コンゴがわながさは最長さいちょう支流しりゅうであるチャンベジがわ源流げんりゅうからのながさで計算けいさんされている。

コンゴ川本かわもとりゅう上流じょうりゅうであるルアラバがわは、コンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく南東なんとうカタンガ高原こうげん南部なんぶ、ザンビアとの国境こっきょうちかくにはしはっする。そこからほぼまっすぐに北進ほくしんし、アフリカ大地だいちみぞたい西側にしがわミトゥンバ山地さんちみなもとはっする支流しりゅうあわせながら水量すいりょうしていく。もうひとつの源流げんりゅうであるチャンベジがわはザンビアの北東ほくとう、タンガニーカ南側みなみがわ山地さんちはしはっし、南西なんせいへとながれてバングウェウルひがしはし流入りゅうにゅうする。バングウェウル湖南こなみはしからふたたながすが、ここからはルアプラがわえる。ルアプラがわはしばらく南下なんかしたのちおおきくえがいて、今度こんどぎゃく北上ほくじょうする。この部分ぶぶんからムウェルむまでの区間くかんはコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこくとザンビアとの国境こっきょうをなし、東岸とうがんがザンビアりょう西岸せいがんがコンゴ民主みんしゅ共和きょうわ国領こくりょうとなる。ムウェル湖南こなみはしんだかわは、北端ほくたんからふたたながすが、ここからはルヴアがわという名称めいしょうになり、ほぼ北西ほくせいへとすすむ。このりょう河川かせんはカタンガ北部ほくぶのアンコロで合流ごうりゅうし、ルヴアがわがルアラバかわへとそそぎこむかたちとなる。

ルアラバがわはさらに北進ほくしんし、そのきたタンガニーカから流出りゅうしゅつするルクガかわ合流ごうりゅうする。本流ほんりゅうはさらに北進ほくしんつづけ、キンドゥからウブンドゥまでのやく300kmは急流きゅうりゅうもなくゆるやかなながれとなる。ウブンドゥからキサンガニのすぐ上流じょうりゅうにあるボヨマたきまではふたた急流きゅうりゅうとなるが、キサンガニから下流かりゅうのキンシャサまではゆるやかなながれにもどる。ボヨマたきでは赤道あかみちえ、またここから下流かりゅうはコンゴがわ名前なまええ、えがくようにながれを西にしへとける。このキサンガニからキンシャサまではながれもふと安定あんていしており、コンゴ民主みんしゅ共和きょうわこくにおける物資ぶっし輸送ゆそう大動脈だいどうみゃくとなっている。かわはやがて南西なんせいへときをえ、ムバンダカ周辺しゅうへんでふたたび赤道せきどうみなみえる。ムバンダカの下流かりゅう中央ちゅうおうアフリカ共和きょうわこくおよびコンゴ共和きょうわこくとコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく国境こっきょうをなしているだい支流しりゅうウバンギがわ合流ごうりゅうする。ウバンギがわとの合流ごうりゅうてんからは西岸せいがんのコンゴ共和きょうわ国東くにさきがんのコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこくとの国境こっきょうとなる。さらにそのみなみでコンゴ南西なんせいからアンゴラ北東ほくとう流域りゅういきとするだい支流しりゅうカサイがわ合流ごうりゅうして、キンシャサブラザビル付近ふきんはばが25kmにもひろがりマレボ形成けいせいする[1]。マレボ安定あんていした水流すいりゅう末端まったん位置いちするため、河川かせん交通こうつう終着しゅうちゃくてんとなっており、この交通こうつうもう結節けっせつてんとしてフランスがブラザヴィル、ベルギーがレオポルドヴィル(げんキンシャサ)を建設けんせつして、それぞれ流域りゅういき首都しゅととした。

マレボより下流かりゅうはコンゴ民主みんしゅ共和きょうわ国領こくりょうとなるが、ここにはリビングストンたきばれる急流きゅうりゅうがあり、とく高低こうていはげしいところでは12kmながれるあいだに96mも高度こうどげるため、激流げきりゅうとなっている。この激流げきりゅうふね航行こうこうはばみ、コンゴ盆地ぼんち奥地おくちへのヨーロッパじん侵入しんにゅうながあいだはばんできた。やく200kmつづくこの激流げきりゅうえると、高度こうど海面かいめんちかくにまでがり、リビングストンたきたきつぼにあたるマタディからはふたた安定あんていしたながれにもどる。マタディからは西にしながれをとるようになり、ボマムアンダ大西洋たいせいようそそぐ。この区間くかんは、北岸ほくがんがコンゴ民主みんしゅ共和きょうわ国領こくりょう南岸なんがんがアンゴラりょうで、ふたた国境こっきょうをなすようになる。河口かこうデルタ形成けいせいせず、一本いっぽんふとながれのままで大西洋たいせいようむ。

流域りゅういき面積めんせき流量りゅうりょうアマゾン川あまぞんがわいで世界せかい2であり、流域りゅういき熱帯ねったい雨林うりんアマゾン川あまぞんがわひろさをつ。流域りゅういき中部ちゅうぶ赤道せきどう直下ちょっかで1ねんちゅうあめり、またボヨマたきみなみきた赤道せきどうえ、ムバンダカ近郊きんこうみなみ赤道せきどうえるため、支流しりゅう赤道せきどうをはさんで南北なんぼく分散ぶんさんしており、雨季うき時期じきかく支流しりゅうによってちがうため増水ぞうすい分散ぶんさんしており、そのため本流ほんりゅう流量りゅうりょうはほぼ一定いっていである。

リヴィングストンたき一部いちぶであるインガ急流きゅうりゅうインガ・ダム存在そんざいする

支流しりゅうふくめての流域りゅういき関係かんけいこくは、コンゴ民主みんしゅ共和きょうわこくをはじめ、コンゴ共和きょうわこく中央ちゅうおうアフリカ共和きょうわこくアンゴラ共和きょうわこくである。1971ねん - 1997ねんまでは、ザイール共和きょうわこく現在げんざいのコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく)においてはザイールがわばれていた。この名称めいしょう変更へんこうはザイールの独裁どくさいしゃであったモブツ・セセ・セコとなえたオータンティシテ(真正しんせい政策せいさくした、ヨーロッパ由来ゆらい地名ちめいをアフリカ本来ほんらい地名ちめいもどすためとしょうしておこなわれたが、旧称きゅうしょうの「コンゴ」がコンゴ王国おうこく時代じだいからつづバントゥー本来ほんらい呼称こしょうであるのにたいして、「ザイール」は15世紀せいきにこの地方ちほうたポルトガルじんが、この大河たいが名称めいしょう地元じもと住民じゅうみんいたさいこたえた「ンザディ」(おおきなかわ)をポルトガルじんが「ザイール」とききとったことによって成立せいりつした欧州おうしゅうがわ呼称こしょうであり、矛盾むじゅんしょうじていた。このため、コンゴ共和きょうわこくがわにおいてはこのかわはコンゴがわばれつづけていた。1997ねんにモブツ政権せいけん崩壊ほうかいすると、政権せいけんにぎったローラン・カビラはザイールがわとの呼称こしょう廃止はいしして旧称きゅうしょうのコンゴがわへと復帰ふっきさせた。

歴史れきし

コンゴがわ流域りゅういきは、紀元前きげんぜん2000ねんごろには狩猟しゅりょう採集さいしゅうみんであるピグミーひろ分布ぶんぷしていたとかんがえられている。その現在げんざいカメルーン南部なんぶ周辺しゅうへん起源きげんとするバントゥーけい住民じゅうみんだい拡張かくちょう開始かいしし、紀元前きげんぜん1120ねんごろにはそのうちの西にしバントゥーけいがコンゴがわ流域りゅういき到達とうたつ紀元きげん1ねん前後ぜんごにはコンゴがわ流域りゅういきひろ居住きょじゅうするようになった。西にしバントゥーけい食料しょくりょう作物さくもつとしてヤムイモアブラヤシち、焼畑やきばたをおこなった。また鉄器てっき製造せいぞう技術ぎじゅつち、これを使つかって密林みつりんおくへと勢力せいりょく拡大かくだいしていった。紀元きげん1ねんごろには、いったんアフリカ大陸たいりく東部とうぶへと移住いじゅうしたひがしバントゥーけいがコンゴがわ流域りゅういきへの入植にゅうしょく開始かいしした。かれらはソルガムシコクビエといった穀物こくもつ栽培さいばい技術ぎじゅつち、密林みつりんよりもサバンナなどのけた土地とちこのんだため、西にしバントゥーけいとのすみわけに成功せいこうし、両者りょうしゃはやがてじりあってった。また、かれらによって5世紀せいきころアジアからバナナ栽培さいばい技術ぎじゅつがもたらされる。バナナはヤムイモより栽培さいばいしやすく、生産せいさんせい非常ひじょうたかかったため、コンゴがわ流域りゅういきしばたあいだひろがっていった[2]

しかしながら、コンゴがわ流域りゅういきとくちゅう流域りゅういきには広大こうだい領域りょういき国家こっか成立せいりつしなかった。わずかに、河口かこういきコンゴ王国おうこくなどが、最上もがみ流域りゅういきルバ王国おうこくルンダ王国おうこくなどが成立せいりつしたにぎない。これらの王国おうこくインド洋いんどようからアフリカ内陸ないりくへといたる交易こうえきルートをちから源泉げんせんとしていた。

この状況じょうきょう変化へんかするのは、ポルトガル大西洋たいせいよう南下なんかし、この地域ちいきへと到達とうたつしたときである。1482ねん、ポルトガルじんディオゴ・カンがコンゴ王国おうこくへと到達とうたつし、ポルトガルとコンゴとのあいだ交易こうえき開始かいしされた。両国りょうこく関係かんけい当初とうしょ対等たいとう互恵ごけいてきなものであったが、やがてヨーロッパ世界せかい奴隷どれい需要じゅよう激増げきぞうするにしたがい、奴隷どれい大量たいりょう移出いしゅつしたコンゴ王国おうこくちからよわまっていった。一方いっぽうで、ヨーロッパ世界せかいとの接触せっしょく西方せいほうへの交易こうえきルートがけたことを意味いみし、コンゴがわ流域りゅういき次第しだい西にしのポルトガル・ヨーロッパの交易こうえきけんか、ひがしインド洋いんどようアラブ交易こうえきけんへとまれていった。しかし、ヨーロッパじんはリビングストンたき急流きゅうりゅうに、アラブじん東岸とうがんからの距離きょりに、それぞれはばまれて、コンゴ川中かわなかじょう流域りゅういきへと到達とうたつすることはできなかった。

ヨーロッパじんとの接触せっしょくによって、1600ねんごろにはコンゴがわ流域りゅういき新大陸しんたいりく原産げんさんキャッサバまれた。これはバナナよりさらに手間てまがかからず、さらにやせた土地とちでもよく生育せいいくしたため、キャッサバの導入どうにゅうふたたびこの地域ちいき農業のうぎょう革命かくめいをもたらした。

探検たんけん

19世紀せいきにはいると、内陸ないりくにも海岸かいがん勢力せいりょくはいんでくるようになった。オマーンサイイド・サイードインド洋いんどようザンジバル拠点きょてんき、内陸ないりくとの交易こうえきちかられた。このため、ティップー・ティプなどのアラブじん商人しょうにんがコンゴ川中かわなか流域りゅういきへとはいむようになった。一方いっぽうこのころから、ヨーロッパじんもコンゴがわ流域りゅういきすこしずつけるようになってきた。といっても、コンゴがわ流域りゅういきにはナイルがわニジェールがわのようなふるくからのだい文明ぶんめいはなく、したがって探検たんけんしゅ目的もくてきとなるのはアフリカ探検たんけんさい末期まっきとなってからである。しかし、コンゴがわとニジェールがわやナイルがわなんらかの関係かんけいっているとかんがえるものはおおく、このりょう河川かせん探検たんけん関連かんれんしてコンゴがわ流域りゅういきすこしずつあきらかになっていった。

1874ねんにはヘンリー・モートン・スタンリー流域りゅういき全体ぜんたい探検たんけんおこない、1877ねん河口かこう到達とうたつりゅうがヨーロッパじんにほぼられるようになった。その、スタンリーはベルギー国王こくおうレオポルド2せい支援しえん再度さいどこの地域ちいき探検たんけんする。この探検たんけん結果けっか、コンゴがわ流域りゅういきのかなりの部分ぶぶん1882ねんコンゴ国際こくさい協会きょうかい勢力せいりょく範囲はんいとなり、1885ねんにはベルリン会議かいぎにおいてコンゴ自由じゆうこくとして正式せいしきにレオポルド2せいわたしりょうとなった。しかし、コンゴ自由じゆうこくでは象牙ぞうげゴム採取さいしゅのための強制きょうせい労働ろうどうがおこなわれ、非常ひじょう暴政ぼうせいかれたため国際こくさいてき批判ひはんび、1908ねんにはベルギーりょうへと移管いかんされた。

一方いっぽう、スタンリーとほぼどう時期じきに、ピエール・ブラザフランス政府せいふ支援しえんけてまたコンゴがわ流域りゅういき探険たんけんしていた。この探険たんけん成果せいかなどをもとに、現在げんざいのコンゴ共和きょうわこく中央ちゅうおうアフリカ共和きょうわこくなど流域りゅういき北部ほくぶ西部せいぶはフランスりょうとなった。

植民しょくみん時代じだいには、両国りょうこく政府せいふ産業さんぎょう開発かいはつ積極せっきょくてきにおこなった。マレボめんし、ブラザとスタンリーがそれぞれ建設けんせつしたブラザヴィルとレオポルドヴィル(げんキンシャサ)はコンゴがわ利用りようした内陸ないりく水運すいうん結節けっせつてんとして開発かいはつすすめられ、1898ねんにはレオポルドヴィルとマタディむすマタディ・キンシャサ鉄道てつどうが、1934ねんにはブラザヴィルとポワントノワールむすコンゴ・オセアン鉄道てつどうがそれぞれ開通かいつうし、内陸ないりく産物さんぶつりょう都市とし集積しゅうせきして海港かいこうへと輸送ゆそう輸出ゆしゅつする体制たいせいととのえられた。コンゴがわには蒸気じょうきせんかべられ、内陸ないりく舟運しゅううん積極せっきょくてき開発かいはつされた。

1960ねん、ベルギーりょうはコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこくとして、フランスりょうはコンゴ共和きょうわこく中央ちゅうおうアフリカ共和きょうわこくとして、それぞれ独立どくりつたした。

経済けいざい

世界せかいだい2巨大きょだい流量りゅうりょうち、さらに流量りゅうりょうぶし変動へんどうがほとんどないうえ流量りゅうりょうもっとおおくなる下流かりゅうおおきな高低こうてい存在そんざいするため、電力でんりょく端境期はざかいきのない良質りょうしつ水力すいりょく発電はつでんげんとしてふるくから注目ちゅうもくされてきた。推計すいけいでは、コンゴがわ水系すいけい発電はつでんポテンシャルは世界せかい水力すいりょく発電はつでんそうポテンシャルのうち13%をめ、サブサハラ・アフリカの電力でんりょく需要じゅようをすべてたすことができると計算けいさんされている[3]とく注目ちゅうもくされたのは、リヴィングストン滝下たきしたりゅうにあるインガ急流きゅうりゅうである。12kmのあいだに96mも高度こうどげるこの急流きゅうりゅうで、1920年代ねんだいにはすでに建設けんせつ計画けいかくがり、1957ねん調査ちょうさ開始かいしされた。計画けいかくでは5つのダムを建設けんせつし、そう発電はつでんりょうは34500メガワットにのぼ計算けいさんであった。1961ねんコンゴ動乱どうらんによって一時いちじ計画けいかく中断ちゅうだんしたものの、1966ねんにはモブツ・セセ・セコ政権せいけんによりリビングストンたきインガ・ダム建設けんせつ開始かいしされ、1974ねんにはだい1およだい2計画けいかく完成かんせいし、2つのダムに14のタービンがかれて発電はつでん開始かいしし、以後いごのザイール(げんコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく)の主要しゅよう電力でんりょく供給きょうきゅうげんとなっている。しかし、資金しきん不足ふそくおよびモブツ政権せいけん乱脈らんみゃくによってだい3計画けいかく実施じっしされず、また電力でんりょくも12計画けいかく計画けいかくじょう数値すうちの40%である700メガワットしか生産せいさんされていない。また、長大ちょうだい送電そうでんせんによって産業さんぎょう地帯ちたいである南部なんぶカタンガしゅうどう鉱山こうざん電力でんりょくおくられているものの、それと首都しゅとキンシャサ以外いがい地域ちいきには電力でんりょく供給きょうきゅうされず、コンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく国内こくないでは深刻しんこく電力でんりょく不足ふそくきている。しかし、送電そうでんせんがカタンガをとおって大陸たいりく南端なんたんケープタウンまでつながっているため、近年きんねん電力でんりょく不足ふそくさけばれているみなみアフリカ共和きょうわこくなどアフリカ南部なんぶ諸国しょこくがコンゴがわ発電はつでん注目ちゅうもくしており、2004ねんには44,000メガワットの発電はつでん施設しせつ建設けんせつするウェスタン・パワー・コリドー計画けいかく発表はっぴょうされた。

交通こうつう

交通こうつうインフラが発達はったつなコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく周辺しゅうへん諸国しょこくにとって、高低こうていがなく水深すいしんふかいコンゴがわ重要じゅうよう河川かせん交通こうつうとなっている。中部ちゅうぶアフリカ最大さいだい都市としであるコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく首都しゅとキンシャサはこの河川かせん交通こうつうもう結節けっせつてんとして建設けんせつされ、ここを起点きてん中央ちゅうおうアフリカ共和きょうわこく首都しゅとバンギやコンゴ中部ちゅうぶ大都市だいとしキサンガニ、カサイしゅうやカタンガへの玄関げんかんこうであるイレボなどにオナトラしゃなどの定期ていきせん貨物かもつせん就航しゅうこうしており、同国どうこく大動脈だいどうみゃくとなっている。キサンガニとウブンドゥのあいだ急流きゅうりゅうには迂回うかいとして鉄道てつどうかれ、ウブンドゥからキンドゥまではふたた船舶せんぱく輸送ゆそう中心ちゅうしんとなる。舟運しゅううんによってキンシャサにあつめられた貨物かもつは、リビングストンたき迂回うかいするマタディ・キンシャサ鉄道てつどうによって海岸かいがんから120km上流じょうりゅうにあるマタディへとはこばれる。マタディからボマをとおり河口かこうまでのあいだふたた航行こうこう可能かのうになり、外洋がいよう船舶せんぱく遡上そじょう可能かのうであるため、河港かこうマタディはコンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく主要しゅよう貿易ぼうえきこうとなっている。また、同様どうようにコンゴ共和きょうわこく首都しゅとブラザヴィルもおな機能きのうち、コンゴ・オセアン鉄道てつどうによって海港かいこうポワントノワールへと連絡れんらくしている。また、うみたない中央ちゅうおうアフリカ共和きょうわこくにおいてはコンゴがわ支流しりゅうウバンギがわ唯一ゆいいつ外国がいこく貿易ぼうえきルートとして非常ひじょう重要じゅうようであり、大型おおがたせんれる同国どうこく唯一ゆいいつみなとである首都しゅとバンギは内陸ないりくみなとであるにもかかわらずもっとも重要じゅうよう輸出ゆしゅつこうとなっている。

コンゴ川本かわもとりゅうには2つしかはしかっていない。うえ流域りゅういき、ルクガがわとルアラバがわ合流ごうりゅうてんから下流かりゅうにあるコンゴロのコンゴロきょうと、しも流域りゅういきのマタディにあるマタディきょうである。コンゴロきょう1939ねんベルギー政府せいふによって建設けんせつされた。これにたいし、マタディきょう日本にっぽん政府せいふ開発かいはつ援助えんじょによって1974ねん建設けんせつ開始かいしされ、1983ねん完成かんせいしたものである。マタディきょう全長ぜんちょうは722mであり、建設けんせつ当時とうじはアフリカでもっとながはしであった[4]。このはしはコンゴがわ南岸なんがんにあるマタディと北岸ほくがんのコンゴ民主みんしゅ共和きょうわ国領こくりょう連絡れんらくする機能きのうち、マタディ・キンシャサ鉄道てつどう延伸えんしんして北岸ほくがんのボマ、さらには河口かこうのバナナみなとまで鉄道てつどう建設けんせつする計画けいかくのもと建設けんせつされた。このため、マタディきょう道路どうろ鉄道てつどう併用へいようきょうとなっているものの、延伸えんしん計画けいかくはその経済けいざい破綻はたん政情せいじょう不安ふあんによって実現じつげんせず、さらにどう区間くかん道路どうろ整備せいびおな事情じじょうによって実現じつげんしなかったため、はし機能きのう計画けいかくくらべておおきく制限せいげんされているのが実情じつじょうである。コンゴ民主みんしゅ共和きょうわこく首都しゅとキンシャサとコンゴ共和きょうわこく首都しゅとブラザヴィルとのあいだかわはさんで2㎞程度ていどしかはなれていないため、なん架橋かきょう計画けいかく浮上ふじょうしているが、実現じつげんはしていない。

支流しりゅう

脚注きゃくちゅう

  1. ^ ミリオーネぜん世界せかい事典じてん だい11かん アフリカⅡ p307(学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、1980ねん11月1にち
  2. ^ 新書しんしょアフリカだい8はん宮本みやもとただしきょう松田まつだもとへん)、2003ねん2がつ20日はつか講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ)p68
  3. ^ Alain Nubourgh, Belgian Technical Cooperation (BTC). Weetlogs.scilogs.be (2010-04-27). Retrieved on 2011-11-29.
  4. ^ 最新さいしん 世界せかい鉄道てつどう」ぎょうせい、2005ねん6がつ p318