李 り 卓 たく 吾 われ (り たくご、嘉 よしみ 靖 やすし 6年 ねん 10月26日 にち (1527年 ねん 11月19日 にち ) - 万 まん 暦 れき 30年 ねん 3月16日 にち (1602年 ねん 5月7日 にち ))は、中国 ちゅうごく 明 あきら 代 だい の思想家 しそうか ・評論 ひょうろん 家 か 。陽明学 ようめいがく 左派 さは (泰 たい 州 しゅう 学派 がくは )に属 ぞく する。泉州 せんしゅう 府 ふ 晋 すすむ 江 え 県 けん の出身 しゅっしん 。
もとの名 な は林 はやし 載 の 贄 にえ (りん さいし)。のちに姓 せい を李 り と改 あらた める。1566年 ねん に即位 そくい した隆 りゅう 慶 けい 帝 みかど 朱 しゅ 載 の 坖の諱 いみな を避 さ けて「載 の 」字 じ を除 のぞ き、李 り 贄 にえ (り し)と名乗 なの った。号 ごう は卓 たく 吾 われ (一説 いっせつ に字 じ とも言 い われる)・宏 ひろし 甫 はじめ ・篤 あつし 吾 われ ・龍 りゅう 湖 みずうみ 叟。別 べつ 号 ごう は温 ゆたか 陵 りょう 居士 こじ 。
また母 はは を早 はや くに亡 な くし、父 ちち の影響 えいきょう を大 おお きく受 う けたと言 い われる李 り 卓 たく 吾 われ は、父 ちち (白 はく 斎 ひとし 公 おおやけ )を偲 しの ぶと言 い う意味 いみ で、晩年 ばんねん 「思 おもえ 斎 とき 」 と号 ごう した[ 1] 。
生涯 しょうがい
嘉 よしみ 靖 やすし 6年 ねん (1527年 ねん )、泉州 せんしゅう 府 ふ 晋 すすむ 江 え 県 けん に生 う まれた。当時 とうじ 、明世 あきよ 宗 そう 嘉 よしみ 靖 やすし 帝 みかど の治世 ちせい は「北 きた 虜 とりこ 南 みなみ 倭 やまと 」に悩 なや まされる時代 じだい であった。若年 じゃくねん を泉州 せんしゅう で過 す ごした卓 たく 吾 われ は母 はは を早 はや くに亡 な くし、父 ちち に読書 どくしょ 詩文 しぶん を教 おそ わった。26歳 さい の時 とき に郷 さと 試 ためし に合格 ごうかく したが進士 しんし とはならず地方 ちほう 官 かん を歴任 れきにん した。40代 だい は北京 ぺきん ・南京 なんきん で官界 かんかい 生活 せいかつ を送 おく り、54歳 さい で官 かん を退 しりぞ いた。その後 ご 麻 あさ 城 ぐすく 県 けん 龍 りゅう 湖 みずうみ にある芝 しば 仏 ふつ 院 いん に落 お ち着 つ き、そこで読書 どくしょ と著述 ちょじゅつ に励 はげ んだ。官職 かんしょく から退 しりぞ いた後 のち は、友人 ゆうじん の経済 けいざい 的 てき な援助 えんじょ を支 ささ えに生活 せいかつ していたという[ 2] 。李 り 卓 たく 吾 われ の代表 だいひょう 作 さく のほとんどはこの芝 しば 仏 ふつ 院 いん 時期 じき のものであり、本人 ほんにん の著作 ちょさく や同 どう 時代 じだい の友人 ゆうじん などの記述 きじゅつ など多 おお くの記録 きろく が残 のこ されているが、その中 なか でも50歳 さい 以前 いぜん の卓 たく 吾 われ の状況 じょうきょう を伝 つた える文 ぶん は極端 きょくたん に少 すく ない[ 3] 。
その思想 しそう は陽明学 ようめいがく 左派 さは (泰 たい 州 しゅう 学派 がくは )に属 ぞく するが、それは官僚 かんりょう として各地 かくち に赴任 ふにん した折 おり 、焦 こげ 竑 や耿定向 むこう ・耿定理 ていり 兄弟 きょうだい と親交 しんこう を結 むす び陽明学 ようめいがく へと傾倒 けいとう していったためである。その後 ご 王 おう 畿 ・羅 ら 汝 なんじ 芳 かおる といった王 おう 陽明 ようめい の弟子 でし に出会 であ うことで、さらに李 り 卓 たく 吾 われ は思索 しさく を深 ふか めていった。現在 げんざい の中国 ちゅうごく の歴史 れきし 学者 がくしゃ の研究 けんきゅう では、ムスリム ではないかと言 い われている。
なお万 まん 暦 れき 27年 ねん (1599年 ねん )、南京 なんきん に赴任 ふにん していた折 お りにイエズス会 かい のマテオ・リッチ と邂逅 かいこう している。以後 いご 何 なん 度 ど か会 あ い、相互 そうご 理解 りかい を深 ふか めたようである。李 り 卓 たく 吾 われ はリッチの人柄 ひとがら や能力 のうりょく 、その著作 ちょさく 『交友 こうゆう 論 ろん 』 に高 たか い評価 ひょうか を下 くだ している。またリッチの方 ほう でも李 り 卓 たく 吾 わ がキリスト教 きりすときょう に一定 いってい の理解 りかい を示 しめ したことや文学 ぶんがく にも科学 かがく にも精通 せいつう していると書 か き残 のこ している。
李 り 卓 たく 吾 われ は儒教 じゅきょう ・仏教 ぶっきょう ・道教 どうきょう の三 さん 教 きょう の融合 ゆうごう を唱 とな えていたため、外国 がいこく 思想 しそう であるキリスト教 きりすときょう に理解 りかい を示 しめ したのは当然 とうぜん とも言 い えるが、相対 そうたい 主義 しゅぎ 者 しゃ でもあった卓 たく 吾 われ は、絶対 ぜったい 権威 けんい の一神教 いっしんきょう であるキリスト教 きりすときょう を完全 かんぜん に認 みと めたわけではない、他 た 考 かんが えられている[ 4] 。
官職 かんしょく 引退 いんたい 後 ご に刊行 かんこう した詩文 しぶん 集 しゅう 『焚書 ふんしょ (ふんしょ)』 (1589年 ねん )には耿定向 むこう との往復 おうふく 書簡 しょかん が納 おさ められ朱子学 しゅしがく 及 およ びそれを信奉 しんぽう する道学 どうがく 者 しゃ への厳 きび しい批判 ひはん が込 こ められていた。そのため、周囲 しゅうい から危険 きけん 思想 しそう と断定 だんてい され、様々 さまざま な圧力 あつりょく をかけられた。『焚書 ふんしょ 』を公刊 こうかん した後 のち からは、地方 ちほう の郷 ごう 紳 しん や学者 がくしゃ から迫害 はくがい を受 う け、龍 りゅう 湖 みずうみ に住 す んでいた70歳 さい の年 とし (1596年 ねん )には巡 じゅん 道 どう (地方 ちほう の司法 しほう 長官 ちょうかん )史 ふみ 氏 し が「李 り 卓 たく 吾 われ はまだいるのか、この人物 じんぶつ は大 おお いに空気 くうき を汚 よご している。もし立 た ち退 の かないなら法 ほう に照 てら して処置 しょち しよう」(『続 ぞく 焚書 ふんしょ 』巻一 けんいち 、答 こたえ 来書 らいしょ )と郷 ごう 紳 しん たちに言 い ったという[ 5] 。
李 り 卓 たく 吾 われ への批判 ひはん はその思想 しそう だけでなく生活 せいかつ 習慣 しゅうかん (僧形 そうぎょう となったこと、剃髪 ていはつ 、極度 きょくど の潔癖 けっぺき 症 しょう であったこと、女性 じょせい にも学問 がくもん を講義 こうぎ したこと)にまで及 およ び、彼 かれ を悩 なや ますことになる。62歳 さい の時 とき に落髪 らくはつ 出家 しゅっけ (剃髪 ていはつ )を行 おこな ったとされる。李 り 卓 たく 吾 われ 自身 じしん は、儒書をまとめた『初 はつ 潭集』を編集 へんしゅう するなど儒者 じゅしゃ の精神 せいしん を捨 す てたわけではなかったが、世間 せけん で剃髪 ていはつ は”世俗 せぞく との訣別 けつべつ 、儒者 じゅしゃ の放棄 ほうき ”と受 う け取 と られる行為 こうい [ 6] として、役人 やくにん などからも大 おお きく批判 ひはん され、迫害 はくがい や逮捕 たいほ につながるものとなった。また李 り 卓 たく 吾 われ への批判 ひはん はその思想 しそう の特異 とくい 性 せい のみならず、彼 かれ の性格 せいかく に拠 よ るところも大 おお きい。自 みずか ら狷介 けんかい ・偏狭 へんきょう と述 の べ憚 はばか らず、世 よ と相容 あいい れないこと甚 はなは だしかった。
また73歳 さい で南京 なんきん で出版 しゅっぱん した歴史 れきし 人物 じんぶつ 評論 ひょうろん 集 しゅう 『蔵書 ぞうしょ 』 も逮捕 たいほ 投獄 とうごく の原因 げんいん の一 ひと つともなった。結局 けっきょく 、迫害 はくがい を逃 のが れたさきの北京 ぺきん 近郊 きんこう で逮捕 たいほ された。そして獄中 ごくちゅう で自殺 じさつ 。享年 きょうねん 76。
死後 しご も弾圧 だんあつ は止 や まず、著作 ちょさく やその出版 しゅっぱん の版木 はんぎ は既刊 きかん 、未刊 みかん 問 と わず全 すべ て焼却 しょうきゃく 、遺棄 いき され、王朝 おうちょう が清 きよし に移 うつ り変 か わっても禁書 きんしょ 目録 もくろく にその著作 ちょさく は載 の せられることになる。また『明 あきら 儒学 じゅがく 案 あん 』(明代 あきよ の学者 がくしゃ を羅列 られつ して、その学問 がくもん の系統 けいとう を明 あき らかにした書 しょ [ 7] )にもその名 な は記 しる されていない。
思想 しそう
李 り 卓 たく 吾 われ 思想 しそう の真髄 しんずい は童心 どうしん 説 せつ にある。「童 わらわ 」が童子 どうじ 、赤 あか ん坊 ぼう と言 い う意味 いみ であり、人間 にんげん が生 う まれたままの自然 しぜん 状態 じょうたい である。「童心 どうしん 」とは偽 いつわ りのない純真 じゅんしん 無垢 むく な心 しん 、真心 まごころ を言 い う。これは陽明学 ようめいがく の「良知 りょうち 」を発展 はってん させた先 さき に李 り 卓 たく 吾 わ が到達 とうたつ したものである。李 り 卓 たく 吾 われ によれば、誰 だれ もが持 も つこの「童心 どうしん 」は人間 にんげん が成長 せいちょう して社会 しゃかい 生活 せいかつ を営 いとな み、文明 ぶんめい 化 か されるにつれて、道理 どうり や見聞 けんぶん 、知識 ちしき を得 え るなど外 そと からもたらされるものによって曇 くも らされ、失 うしな われるという[ 8] 。
この思想 しそう が危険 きけん 視 し されるのは、当時 とうじ 正統 せいとう イデオロギーとなっていた朱子学 しゅしがく における聖人 せいじん に至 いた る道 みち を否定 ひてい している点 てん にある。朱子学 しゅしがく では心 しん を性 せい と情 じょう に分 わ かち性 せい こそ理 り とする「性 せい 即 そく 理 り 」をテーゼとするが、性 せい を発露 はつろ するために読書 どくしょ などによって研鑽 けんさん を積 つ まねばならないとする。しかるに李 り 卓 たく 吾 われ はそのように多 おお くの書物 しょもつ を読 よ んでど道理 どうり や見聞 けんぶん を得 え ると言 い う研鑽 けんさん そのものが「童心 どうしん 」を失 うしな わせるとして排 はい し、否定 ひてい 的 てき に捉 とら えるのである。そして「童心 どうしん 」を失 うしな った者 もの が成 な す文 ぶん や行動 こうどう がいかに巧 たく みであろうと仮 かり (にせ)であって、真 しん なるものでは無 な いとする。
李 り 卓 たく 吾 わ が仮 かり (にせ)、端 はし 的 てき に言 い えば偽善 ぎぜん 者 しゃ と非難 ひなん する具体 ぐたい 的 てき な対象 たいしょう は士 し 大夫 たいふ たちである。彼 かれ が生 い きた明代 あきよ は『金瓶 かなかめ 梅 うめ 』が書 か かれたり、著名 ちょめい な詩人 しじん がひいきの妓女 ぎじょ のくつをお猪口 ちょこ にして持 も ち歩 ある いたりする行動 こうどう に見 み られるように文化 ぶんか 爛熟 らんじゅく あるいは退廃 たいはい の時代 じだい といえるのであるが、その支配 しはい イデオロギーは儒教 じゅきょう の中 なか でも特 とく にリゴリズム(厳格 げんかく 主義 しゅぎ )の傾向 けいこう が強 つよ い朱子学 しゅしがく であった。すなわち士 し 大夫 たいふ は口 くち を開 あ けば「仁義 じんぎ 」といった立派 りっぱ なことをいうが、実際 じっさい の行動 こうどう はそれに伴 ともな っていないことがままあったのである。こうしたダブルスタンダードに対 たい し李 り 卓 たく 吾 われ は激 はげ しく反発 はんぱつ し、士 し 大夫 たいふ やその価値 かち 観 かん を激 はげ しく痛罵 つうば したのである。
士 し 大夫 たいふ 的 てき 価値 かち 観 かん への嫌悪 けんお ・反発 はんぱつ が明確 めいかく に吐露 とろ されている例 れい として、それまで儒者 じゅしゃ によって貶 おとし められてきた歴史 れきし 上 じょう の人物 じんぶつ や文学 ぶんがく の顕彰 けんしょう が挙 あ げられる。たとえば秦 はた の始皇帝 しこうてい や馮道 といったそれまで高 たか く評価 ひょうか されてこなかった人々 ひとびと を再 さい 評価 ひょうか し、また『西 にし 廂 ひさし 記 き 』・『西遊 せいゆう 記 き 』・『水 みず 滸伝 』を『史記 しき 』や『離 はなれ 騒 』とならぶ古今 ここん の至文 しぶん と評価 ひょうか している。それらをはじめ、十 じゅう 数種類 すうしゅるい にのぼる批評 ひひょう の文章 ぶんしょう 入 い りの本 ほん を書 か き、通俗 つうぞく 文学 ぶんがく の地位 ちい を大 おお いに高 たか めた。公安 こうあん 派 は の文学 ぶんがく には李 り 卓 たく 吾 われ の思想 しそう 的 てき な影響 えいきょう が顕著 けんちょ である。
李 り 卓 たく 吾 われ の代表 だいひょう 作 さく 『蔵書 ぞうしょ 』は紀伝 きでん 体 たい の歴史 れきし 書 しょ だが、その真骨頂 しんこっちょう は人物 じんぶつ の分類 ぶんるい や各 かく 列伝 れつでん に付 ふ される評論 ひょうろん にあり、歴史 れきし 書 しょ の体裁 ていさい をとった思想 しそう 書 しょ と見 み るべきである。『蔵書 ぞうしょ 』にて、李 り 卓 たく 吾 われ は孔子 こうし の是非 ぜひ の判断 はんだん も現在 げんざい の基準 きじゅん とはならず、各人 かくじん は自己 じこ の是非 ぜひ の基準 きじゅん を持 も つべきだとしている。李 り 卓 たく 吾 われ は戯曲 ぎきょく や小説 しょうせつ にも「童心 どうしん 」の発露 はつろ を認 みと めて、詩文 しぶん と俗文 ぞくぶん 学 がく の価値 かち を同等 どうとう のものとした。こうした李 り 卓 たく 吾 われ の価値 かち 判断 はんだん は、彼 かれ が外的 がいてき な規範 きはん よりも、自 みずか らの内 うち なる真心 まごころ 、すなわち「童心 どうしん 」を重視 じゅうし し、且 か つ是非 ぜひ に定論 ていろん 無 な しとしたことにより可能 かのう となったのである。
後世 こうせい への影響 えいきょう
李 り 卓 たく 吾 われ の童心 どうしん 説 せつ は激 はげ しい批判 ひはん を浴 あ びたが、命脈 めいみゃく が絶 た えたわけではない。文学 ぶんがく において受 う け継 つ がれていった。すなわち明 あかり 末 まつ に袁宏道 どう ら公安 こうあん 派 は の唱 とな えた性 せい 霊 れい 説 せつ はこの童心 どうしん 説 せつ を受 う けたものである。これは人間 にんげん の自然 しぜん な心 しん の発露 はつろ を文学 ぶんがく によって表現 ひょうげん しようとする考 かんが えで、その後 ご は清 きよし の袁枚 に引 ひ き継 つ がれた。後継 こうけい 者 しゃ としては水 みず 滸伝の補作 ほさく 者 しゃ 馮夢竜 りゅう がいるが、馮夢竜 りゅう は李 り 卓 たく 吾 われ と異 こと なり明王 みょうおう 朝 あさ の価値 かち 観 かん に挑戦 ちょうせん せず、俗文 ぞくぶん 学 がく を通 つう じて穏 おだ やかに思想 しそう を説 と いていると増井 ますい 経夫 つねお は述 の べている。
真 ま っ向 こう から士 し 大夫 たいふ 的 てき 価値 かち 観 かん に挑戦 ちょうせん した李 り 卓 たく 吾 われ の姿勢 しせい を継 つ ぐものは明 あきら ・清 きよし を通 つう じて現 あらわ れなかった。しかし現在 げんざい の我々 われわれ がすでに知 し っているように、儒教 じゅきょう は中国 ちゅうごく が近代 きんだい 化 か する過程 かてい において支配 しはい イデオロギーの座 ざ から滑 すべ り落 お ち、五 ご 四 よん 運動 うんどう においては「人 ひと を喰 く う」教 おし えとして批判 ひはん にさらされた。ここにいたって、儒教 じゅきょう 批判 ひはん の先駆 せんく 者 しゃ として李 り 卓 たく 吾 われ は漸 ようや く顕彰 けんしょう されるのである。中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく が政権 せいけん を獲得 かくとく した後 のち も、儒教 じゅきょう が批判 ひはん にさらされる中 なか で李 り 卓 たく 吾 われ は善人 ぜんにん として持 も て囃 はや された。現在 げんざい 、顧炎武 たけし ・黄 き 宗 むね 羲 ・王 おう 夫 おっと 之 の と並 なら んで明 あかり 末清 すえきよ 初 はつ を代表 だいひょう する思想家 しそうか の一人 ひとり として数 かぞ えられている。
日本 にっぽん との関係 かんけい
現代 げんだい 日本 にっぽん ではほとんど知 し られていない李 り 卓 たく 吾 われ だが、江戸 えど の中頃 なかごろ から幕末 ばくまつ にかけて日本 にっぽん でも多 おお くの思想家 しそうか に読 よ まれていた。
野山 のやま 獄中 ごくちゅう に於 お いて李 り 卓 たく 吾 われ の『焚書 ふんしょ 』を読 よ んで非常 ひじょう に感激 かんげき したという吉田 よしだ 松陰 しょういん は李 り 卓 たく 吾 われ に深 ふか い思 おも い入 い れを持 も っていた[ 9] 。吉田 よしだ 松陰 しょういん は獄死 ごくし する一 いち 年 ねん ほど前 まえ から李 り 卓 たく 吾 われ に関心 かんしん を寄 よ せ、彼 かれ が中国 ちゅうごく の史書 ししょ から言葉 ことば を抜 ぬ き出 だ したというノートには李 り 卓 たく 吾 われ に関係 かんけい するもの(『焚書 ふんしょ 』や『続 ぞく 蔵書 ぞうしょ 』など)が多 おお く残 のこ され、その印象 いんしょう を入江 いりえ 杉 すぎ 蔵 ぞう や品川 しながわ 弥二郎 やじろう をはじめとする多 おお くの門下生 もんかせい へと書 か き送 おく ったという[ 10] 。『焚書 ふんしょ 』の抄録 しょうろく については、これを形見 かたみ として残 のこ し実 じつ 読を勧 すす める旨 むね 記 しる された書簡 しょかん [ 11] とともに高杉 たかすぎ 晋作 しんさく に届 とど けるよう久坂 くさか 玄 げん 瑞 みず に命 めい じたことが知 し られている[ 9] [ 12] 。
吉田 よしだ 松陰 しょういん は、李 り 卓 たく 吾 われ の時代 じだい や思想 しそう とは異質 いしつ 性 せい はあったものの、その思想 しそう の中 なか から自 みずか らを投影 とうえい しその文章 ぶんしょう などを自己 じこ 表現 ひょうげん の一 ひと つとした[ 13] 。
明治 めいじ に入 はい って李 り 卓 たく 吾 われ を顕彰 けんしょう したのは三宅 みやけ 雪嶺 せつれい 著 ちょ 『王 おう 陽明 ようめい 』(1894年 ねん )に寄 よ せた陸 りく 羯南 かつなん の跋文 ばつぶん 「王 おう 陽明 ようめい の後 のち に題 だい す」であり、また内藤 ないとう 湖南 こなん は遺著 いちょ 『支 ささえ 那 な 史学 しがく 史 し 』(1949年 ねん )に「李 り 贄 にえ の史論 しろん 」の章 しょう を立 た て「古今 ここん 未曾有 みぞう の過激 かげき 思想 しそう 」と評 ひょう したが、それ以前 いぜん に早 はや く「李 り 氏 し 蔵書 ぞうしょ 」(「読書 どくしょ 記 き 三 さん 則 のり 」の一 いち 、初出 しょしゅつ 1902年 ねん 。『目睹 もくと 書 しょ 譚 たん 』所収 しょしゅう )で「但 ただし だ此は激 げき 薬 やく の若 わか し、以 もっ て常食 じょうしょく とはすべからず」としながら一読 いちどく を奨 すす めていた。これらが清末 きよすえ 中国人 ちゅうごくじん 留学生 りゅうがくせい の眼 め に触 ふ れて李 り 卓 たく 吾 われ 再 さい 発見 はっけん の一 ひと つの機縁 きえん をなした可能 かのう 性 せい が、島田 しまだ 虔 けん 次 じ によって示唆 しさ されている。
「神 かみ の道 みち 」を提唱 ていしょう した本 ほん 居 きょ 宣長 のりなが も、李 り 卓 たく 吾 われ の提唱 ていしょう した「童心 どうしん 」と似 に た思想 しそう を展開 てんかい している。本 ほん 居 きょ 宣長 のりなが は「道 みち 」の根本 こんぽん 的 てき な意味 いみ が「真心 まごころ 」にあり、それは童心 どうしん と同 おな じように成長 せいちょう する過程 かてい で得 え る知識 ちしき や学習 がくしゅう などにより失 うしな ってしまうと言 い う。この真心 まごころ も童心 どうしん も、共 とも に過 す ごし「生 う まれつき」「自然 しぜん な状態 じょうたい 」を強調 きょうちょう している。本 ほん 居 きょ 宣 せん 長 ちょう の「内 うち なる自然 しぜん 」として人間 にんげん の私欲 しよく を容認 ようにん していると言 い う点 てん は李 り 卓 たく 吾 われ の思想 しそう に通 つう じる所 ところ がある[ 14] 。
著書 ちょしょ
『焚書 ふんしょ 』
『続 ぞく 焚書 ふんしょ 』
『蔵書 ぞうしょ 』
『続 ぞく 蔵書 ぞうしょ 』
『李 り 氏 し 文集 ぶんしゅう 』
『卓 たく 吾 われ 大徳 だいとく 』
『古道 ふるみち 録 ろく 』
『孫子 まごこ 参 さん 同 どう 十 じゅう 三 さん 篇 へん 』
『浄土 じょうど 訣』
『坡公年譜 ねんぷ 』
なお明代 あきよ の『西遊 せいゆう 記 き 』のバリエーションのひとつに『李 り 卓 たく 吾 われ 先生 せんせい 批評 ひひょう 西遊 せいゆう 記 き 』があるが、これは権威 けんい づけのため李 り 卓 たく 吾 われ の名 な を勝手 かって に使用 しよう したものである。
脚注 きゃくちゅう
^ 劉 りゅう 岸 きし 偉 えら 『明 あきら 末 まつ の文人 ぶんじん 李 り 卓 たく 吾 われ 中国 ちゅうごく にとって思想 しそう とは何 なに か』(初 はつ )中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1994年 ねん 8月 がつ 、25頁 ぺーじ 。ISBN 4-12-101200-3 。
^ 劉 りゅう 岸 きし 偉 えら 『明 あきら 末 まつ の文人 ぶんじん 李 り 卓 たく 吾 われ 中国 ちゅうごく にとって思想 しそう とは何 なに か』(初 はつ )中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1994年 ねん 8月 がつ 、27頁 ぺーじ 。ISBN 4-12-101200-3 。
^ 劉 りゅう 岸 きし 偉 えら 『明 あきら 末 まつ の文人 ぶんじん 李 り 卓 たく 吾 われ 中国 ちゅうごく にとって思想 しそう とは何 なに か』(初 はつ )中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1994年 ねん 8月 がつ 、24頁 ぺーじ 。ISBN 4-12-101200-3 。
^ 劉 りゅう 岸 きし 偉 えら 『明 あきら 末 まつ の文人 ぶんじん 李 り 卓 たく 吾 われ 中国 ちゅうごく にとって思想 しそう とは何 なに か』(初 はつ )中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1994年 ねん 8月 がつ 、36頁 ぺーじ 。ISBN 4-12-101200-3 。
^ 劉 りゅう 岸 きし 偉 えら 『明 あきら 末 まつ の文人 ぶんじん 李 り 卓 たく 吾 われ 中国 ちゅうごく にとって思想 しそう とは何 なに か』(初 はつ )中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1994年 ねん 8月 がつ 、30-31頁 ぺーじ 。ISBN 4-12-101200-3 。
^ 劉 りゅう 岸 きし 偉 えら 『明 あきら 末 まつ の文人 ぶんじん 李 り 卓 たく 吾 われ 中国 ちゅうごく にとって思想 しそう とは何 なに か』(初 はつ )中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1994年 ねん 8月 がつ 、111頁 ぺーじ 。ISBN 4-12-101200-3 。
^ ブリタニカ国際 こくさい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん
^ 劉 りゅう 岸 きし 偉 えら 『明 あきら 末 まつ の文人 ぶんじん 李 り 卓 たく 吾 われ 中国 ちゅうごく にとって思想 しそう とは何 なに か』(初 はつ )中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1994年 ねん 8月 がつ 、133頁 ぺーじ 。ISBN 4-12-101200-3 。
^ a b 亀田 かめだ 一 はじめ 邦 くに 『幕末 ばくまつ 防 ぼう 長 ちょう 儒医の研究 けんきゅう 』知泉 ちせん 書 しょ 館 かん 、2006年 ねん 6月 がつ 、87頁 ぺーじ 。ISBN 9784901654807 。
^ 溝口 みぞぐち 雄三 ゆうぞう 『李 り 卓 たく 吾 われ 正道 せいどう を歩 あゆ む異端 いたん 』集英社 しゅうえいしゃ 〈中国 ちゅうごく の人 ひと と思想 しそう 〉、2 、16頁 ぺーじ 。ISBN 4081850100 。
^ 「僕 ぼく 頃 ごろ 李 り 氏 し 焚書 ふんしょ ヲ抄録 しょうろく 仕 つかまつ 候 こう 。卓 たく 吾 われ ハ蠢物ニテ僕 ぼく 景仰 けいこう 欽慕 きんぼ 不 ふ 大方 おおかた 。僕 ぼく 若 わか 遂 とげ ニ不 ふ 能見 のみ 老兄 ろうけい ニハ、右 みぎ ノ抄録 しょうろく ヲ残置 ざんち 候 こう 間 あいだ 、御 ご 一見 いっけん 可 か 被 ひ 下 した 候 こう 」(『高杉 たかすぎ 晋作 しんさく 資料 しりょう 』第 だい 二 に 巻 かん 、安政 あんせい 六 ろく 年 ねん 四 よん 月 がつ 頃 ごろ ,吉田 よしだ 松陰 しょういん より晋作 しんさく 宛 あて 書簡 しょかん (No. 38)、51頁 ぺーじ )
^ 亀田 かめだ 一 はじめ 邦 くに 「松下 まつした 村塾 そんじゅく の近代 きんだい 」140-141頁 ぺーじ 。
^ 劉 りゅう 岸 きし 偉 えら 『明 あきら 末 まつ の文人 ぶんじん 李 り 卓 たく 吾 われ 中国 ちゅうごく にとって思想 しそう とは何 なに か』(初 はつ )中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1994年 ねん 8月 がつ 、188-192頁 ぺーじ 。ISBN 4-12-101200-3 。
^ 劉 りゅう 岸 きし 偉 えら 『明 あきら 末 まつ の文人 ぶんじん 李 り 卓 たく 吾 われ 中国 ちゅうごく にとって思想 しそう とは何 なに か』(初 はつ )中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ 、1994年 ねん 8月 がつ 、179-180頁 ぺーじ 。ISBN 4-12-101200-3 。
参考 さんこう 文献 ぶんけん
島田 しまだ 虔 けん 次 じ 『朱子学 しゅしがく と陽明学 ようめいがく 』 岩波 いわなみ 新書 しんしょ 青 あお 版 ばん 、1967年 ねん 。ISBN 4004120284
『中国 ちゅうごく 思想 しそう 史 し の研究 けんきゅう 』 京都大学 きょうとだいがく 学術 がくじゅつ 出版 しゅっぱん 会 かい 、2005年 ねん
「私 わたし の内藤 ないとう 湖南 こなん 」、『中国 ちゅうごく の伝統 でんとう 思想 しそう 』 みすず書房 しょぼう 、2001年 ねん
溝口 みぞぐち 雄三 ゆうぞう 『中国 ちゅうごく 前 ぜん 近代 きんだい 思想 しそう の屈折 くっせつ と展開 てんかい 』 東京 とうきょう 大学 だいがく 出版 しゅっぱん 会 かい 、1980年 ねん 。ISBN 4130100459
溝口 みぞぐち 雄三 ゆうぞう 『李 り 卓 たく 吾 われ 正道 せいどう を歩 あゆ む異端 いたん 』集英社 しゅうえいしゃ 〈中国 ちゅうごく の人 ひと と思想 しそう 〉、2 。ISBN 4081850100 。
劉 りゅう 岸 きし 偉 えら 『明 あきら 末 まつ の文人 ぶんじん 李 り 卓 たく 吾 われ :中国 ちゅうごく にとって思想 しそう とは何 なに か』 中公新書 ちゅうこうしんしょ 、1994年 ねん
黄 き 仁宇 にう 『万 まん 暦 れき 十 じゅう 五 ご 年 ねん 1587:「文明 ぶんめい 」の悲劇 ひげき 』 稲 いね 畑 はた 耕一郎 こういちろう ほか訳 やく 、東方 とうほう 書店 しょてん 、1989年 ねん 。ISBN 4497892727
増井 ますい 経夫 つねお 訳 わけ 『焚書 ふんしょ :明代 あきよ 異端 いたん の書 しょ 』 平凡社 へいぼんしゃ 、1969年 ねん
藤野 ふじの 岩 いわ 友 とも 編 へん 『中国 ちゅうごく 文学 ぶんがく 小 しょう 事典 じてん 』高文 たかふみ 堂 どう 出版 しゅっぱん 社 しゃ
亀田 かめだ 一 はじめ 邦 くに 『幕末 ばくまつ 防 ぼう 長 ちょう 儒医の研究 けんきゅう 』知泉 ちせん 書 しょ 館 かん 、2006年 ねん 6月 がつ 。ISBN 9784901654807 。
亀田 かめだ 一 はじめ 邦 くに 「松下 まつした 村塾 そんじゅく の近代 きんだい 」、江藤 えとう 茂博 しげひろ ・町 まち 泉 いずみ 寿郎 としお [編 へん ]『講座 こうざ 近代 きんだい 日本 にっぽん と漢学 かんがく 第 だい 2巻 かん 漢学 かんがく と漢学 かんがく 塾 じゅく 』戎 えびす 光 ひかり 祥 さち 出版 しゅっぱん 、2020年 ねん 1月 がつ 。ISBN 9784864033428
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