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牧野まきの富太郎とみたろう

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牧野まきの 富太郎とみたろう
(まきの とみたろう)
1934ねん
生誕せいたん 1862ねん5月22にち文久ぶんきゅう2ねん4がつ24にち
日本の旗 日本にっぽん
死没しぼつ (1957-01-18) 1957ねん1がつ18にち(94さいぼつ
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
研究けんきゅう分野ぶんや 植物しょくぶつがく
出身しゅっしんこう めいきょうかん
佐川さがわ小学校しょうがっこう中退ちゅうたい
おも業績ぎょうせき 多数たすう新種しんしゅ発見はっけん命名めいめい
植物しょくぶつがく雑誌ざっし』の刊行かんこう
おも受賞じゅしょうれき 朝日あさひ文化ぶんかしょう(1937ねん
くんとう旭日重光章きょくじつじゅうこうしょう(1957ねん
文化ぶんか勲章くんしょう(1957ねん
命名めいめいしゃめいりゃく表記ひょうき
植物しょくぶつがく
Makino
プロジェクト:人物じんぶつでん
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牧野まきの 富太郎とみたろう(まきの とみたろう、1862ねん5月22にち文久ぶんきゅう2ねん4がつ24にち) - 1957ねん昭和しょうわ32ねん1がつ18にち)は、日本にっぽん植物しょくぶつ学者がくしゃ高知こうちけん高岡たかおかぐん佐川さがわまち出身しゅっしん

日本にっぽん植物しょくぶつがくちち」といわれ[1]多数たすう新種しんしゅ発見はっけん命名めいめいおこなった近代きんだい植物しょくぶつ分類ぶんるいがく権威けんいである。その研究けんきゅう成果せいかは50まんてんもの標本ひょうほん観察かんさつ記録きろく、そして『牧野まきの日本にっぽん植物しょくぶつ図鑑ずかん』に代表だいひょうされる多数たすう著作ちょさくとしてのこっている。小学校しょうがっこう中退ちゅうたいでありながら理学りがく博士はかせ学位がくいて、まれたは「植物しょくぶつがく」に制定せいていされた。

94さいくなる直前ちょくぜんまで、日本にっぽん全国ぜんこくをまわって膨大ぼうだいかず植物しょくぶつ標本ひょうほん作製さくせいした。個人こじんてき所蔵しょぞうしていたぶんだけでも40まんまいおよび、命名めいめい植物しょくぶつは1,500種類しゅるいかぞえる。野生やせい植物しょくぶつだけでなく、野菜やさい花卉かきなどもふくまれ、身近みぢかにある植物しょくぶつすべてが研究けんきゅう対象たいしょうとなっていたことが、日本にっぽん植物しょくぶつがくちちわれる所以ゆえんである。

生涯しょうがい

1862ねん文久ぶんきゅう2ねん)、土佐とさこく佐川さがわむらげん高知こうちけん高岡たかおかぐん佐川さがわまち)で、近隣きんりんから「佐川さがわきし」とばれた商家しょうか雑貨ざっかぎょう)と酒造しゅぞうぎょういとな裕福ゆうふくいえまれた。幼少ようしょうのころから植物しょくぶつ興味きょうみしめしていたとつたわる。

もとは「なり太郎たろう」というであったが、3さいちちを、5さいははを、6さい祖父そふくしたころ、「富太郎とみたろう」に改名かいめいしている。その祖母そぼそだてられた[2]

10さいより土居どいけんまもるおしえる寺子屋てらこやかよい、11さいになるとさとこうであるめいきょうかん(めいこうかん)にはい儒学じゅがくしゃ伊藤いとうらんりん1815ねん-1895ねん[3]まなんだ。当時とうじ同級生どうきゅうせいのほとんどは士族しぞく子弟していであり、そのなかの「港湾こうわん工学こうがくちち広井ひろいいさむらがいた。漢学かんがくだけではなく、福沢ふくさわ諭吉ゆきちの『世界せかいこくつき』、川本かわもとみゆきみんの『うみかん広義こうぎ』などをつう西洋せいようりゅう地理ちり天文てんもん物理ぶつりまなんだ。

めいきょうかん学制がくせい改革かいかくにより、校舎こうしゃはそのままに佐川さがわ小学校しょうがっこうとなった。そこへ入学にゅうがくしたものの2ねん中退ちゅうたいし、きな植物しょくぶつ採集さいしゅうれる生活せいかつおくるようになる。小学校しょうがっこう中退ちゅうたいした理由りゆうとして、つく酒屋ざかや跡取あととりだったので、小学校しょうがっこうなどで学業がくぎょうおさめ、学問がくもんてることはまったかんがえていなかったからだとべている[4]

酒屋さかや祖母そぼ番頭ばんがしらまかせ、ままな生活せいかつおくっていた[4]。15さいから佐川さがわ小学校しょうがっこうの「授業じゅぎょうせい」、すなわち臨時りんじ教員きょういんとしておよそ2年間ねんかん教鞭きょうべんをとった。佐川さがわ勉強べんきょうするだけでは物足ものたりなくなった富太郎とみたろうは、植物しょくぶつ採集さいしゅう写生しゃせい観察かんさつなどの研究けんきゅうつづけながら、17さいになると高知こうち師範しはん学校がっこう教師きょうし永沼ながぬま小一郎こいちろうつうじて欧米おうべい植物しょくぶつがくれ、当時とうじ著名ちょめい学者がくしゃ知己ちきるようになる。牧野ぼくや自叙伝じじょでんで「わたし植物しょくぶつがく知識ちしき永沼ながぬま先生せんせいうところきわめてだいである」としるしている。

そして、江戸えど時代じだい本草学ほんぞうがくしゃ小野おの蘭山あららぎやまによる「本草ほんぞう綱目こうもく啓蒙けいもう[5]出会であい、本草学ほんぞうがくとりわけ植物しょくぶつがく傾倒けいとうする。みずからを「植物しょくぶつせい精霊せいれい)」だとかんじ、日本にっぽんちゅう植物しょくぶつ同書どうしょのようにまとめげるゆめいだき、それは自分じぶんにしかできない仕事しごとだと確信かくしんするようになる。そして19さいときだい2かい内国ないこく勧業かんぎょう博覧はくらんかい見物けんぶつ書籍しょせき顕微鏡けんびきょう購入こうにゅう目的もくてきに、番頭ばんがしら息子むすこ会計かいけいがかり2人ふたりともなはじめて上京じょうきょうした[4]

東京とうきょうでは博物はくぶつきょく田中たなか芳男よしお小野おのしょくいかもとたずね、最新さいしん植物しょくぶつがくはなしいたり植物しょくぶつえん見学けんがくした。

富太郎とみたろう本格ほんかくてき植物しょくぶつがくこころざし、明治めいじ17ねん(1884ねん)、22さいときふたた上京じょうきょうする。そこで帝国ていこく大学だいがく理科りか大学だいがくげん東京大学とうきょうだいがく理学部りがくぶ植物しょくぶつがく教室きょうしつ矢田部やたべ良吉りょうきち教授きょうじゅたずね、どう教室きょうしつ出入でいりして文献ぶんけん資料しりょうなどの使用しよう許可きょかされ研究けんきゅう没頭ぼっとうする。そのとき、富太郎とみたろうひがしアジア植物しょくぶつ研究けんきゅう第一人者だいいちにんしゃであったロシアのマキシモヴィッチ標本ひょうほんおくっている。富太郎とみたろう天性てんせい描画びょうがりょくにもめぐまれており、マキシモヴィッチから絶賛ぜっさんする返事へんじとどいた。やがて25さいで、どう教室きょうしつ大久保おおくぼ三郎さぶろう田中たなか延次郎のぶじろう染谷そめや徳五郎とくごろうらと共同きょうどうで『植物しょくぶつがく雑誌ざっし』を創刊そうかんどう雑誌ざっしには澤田さわだこま次郎じろう白井しらい光太郎こうたろう三好みよしまなぶらも参加さんかしている。2014ねん現在げんざい刊行かんこうされており、日本にっぽんもっとふる権威けんいある植物しょくぶつがくとなっている[注釈ちゅうしゃく 1]

同年どうねんそだててくれた祖母そぼ死去しきょ

26さいでかねてから構想こうそうしていた『日本にっぽん植物しょくぶつこころざしへん』の刊行かんこう自費じひはじめた。工場こうじょう出向でむいて印刷いんさつ技術ぎじゅつまなび、自分じぶんえがいた。これは当時とうじ日本にっぽんには存在そんざいしなかった、日本にっぽん植物しょくぶつであり、いま植物しょくぶつ図鑑ずかんのはしりである。かねてより音信いんしんのあったロシアの植物しょくぶつ学者がくしゃマキシモヴィッチからもたか評価ひょうかされた[注釈ちゅうしゃく 2]

この時期じき牧野まきの東京とうきょう郷里きょうり往復おうふくしながら研究けんきゅうしゃ地位ちい確立かくりつしていくが、研究けんきゅう湯水ゆみずごと使つかったこともあり実家じっか経営けいえいかたむいていった[4]

1889ねん明治めいじ22ねん)、27さい新種しんしゅ植物しょくぶつ発見はっけん。『植物しょくぶつがく雑誌ざっし』に発表はっぴょうし、日本にっぽんではじめて新種しんしゅヤマトグサ学名がくめいをつけた。1890ねん明治めいじ23ねん)、28さいのときに東京とうきょう小岩こいわで、分類ぶんるい困難こんなんヤナギ植物しょくぶつはな標本ひょうほん採集さいしゅうちゅうに、やなぎかたわらの水路すいろ偶然ぐうぜん見慣みなれない水草みずくさ採集さいしゅうする機会きかいた。これは世界せかいてき点々てんてん隔離かくり分布ぶんぷするムジナモ日本にっぽんでのしん発見はっけんであり、そのことをみずか正式せいしき学術がくじゅつ論文ろんぶん世界せかい報告ほうこくしたことで、世界せかいてきられるようになる。同年どうねん小澤おざわ寿ことぶきまもる結婚けっこんし、大学だいがく至近しきん根岸ねぎし一家いっかかまえた。しかし同年どうねん矢田部やたべ教授きょうじゅ松村まつむらつとむさん教授きょうじゅらにより植物しょくぶつがく教室きょうしつ出入でいりをきんじられ、研究けんきゅうみちたれてしまった。『日本にっぽん植物しょくぶつこころざしへん』の刊行かんこうろくかん中断ちゅうだんしてしまった。失意しつい牧野ぼくやはマキシモヴィッチをたより、ロシアにわたって研究けんきゅうつづけようとかんがえるが、1891ねんにマキシモヴィッチが死去しきょしたことにより、実現じつげんはしなかった[注釈ちゅうしゃく 3]

一旦いったん郷里きょうり高知こうち帰郷ききょうし、地元じもと植物しょくぶつ研究けんきゅうをしたり、西洋せいよう音楽おんがくかいひらいてみずか指導しどうし、ときには指揮しきしゃとして指揮棒しきぼうったりしていたが、知人ちじんらの助力じょりょくにより、駒場こまばのう大学だいがくげん東大とうだい農学部のうがくぶ)にて研究けんきゅうつづけることができるようになり、帰京ききょう

31さいで、矢田部やたべ退任たいにん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく理科りか大学だいがく主任しゅにん教授きょうじゅとなった松村まつむらもどされるかたち助手じょしゅとなったが、そのときには生家せいか完全かんぜん没落ぼつらくしていた。助手じょしゅ月給げっきゅう一家いっかやしなっていたが[注釈ちゅうしゃく 4]文献ぶんけん購入こうにゅうなどの研究けんきゅう必要ひつよう資金しきんには事欠ことかいていた。それでも、研究けんきゅうのために必要ひつようおもった書籍しょせき非常ひじょう高価こうかなものでもすべ購入こうにゅうしていたため多額たがく借金しゃっきんをつくり、ついには家賃やちんはらえず、家財道具かざいどうぐ一切いっさい競売きょうばいにかけられたこともある[注釈ちゅうしゃく 5]

その各地かくち採集さいしゅうしながら植物しょくぶつ研究けんきゅうつづけ、多数たすう標本ひょうほん著作ちょさくのこしていく。ただ、学歴がくれきいことと、大学だいがく所蔵しょぞう文献ぶんけん使用しよう方法ほうほう研究けんきゅう熱中ねっちゅうするあまり、参照さんしょうようしたままなかなか返却へんきゃくしないなど)による研究けんきゅうしつ人々ひとびととの軋轢あつれきもあり厚遇こうぐうはされなかった[4]松村まつむらとは植物しょくぶつ命名めいめいなどをめぐって対立たいりつもしている。

1900ねんから、未完みかんわった『日本にっぽん植物しょくぶつこころざしへん』のわりにあたらしく『だい日本にっぽん植物しょくぶつこころざし』を刊行かんこうする。今回こんかい自費じひではなくみかどだいから費用ひよう捻出ひねりだされ、東京とうきょう大手おおて書店しょてん出版しゅっぱんしゃであった丸善まるぜんから刊行かんこうされた。だかこれも松村まつむら妨害ぼうがいにより、4かん中断ちゅうだんしてしまった。

1926ねん大正たいしょう15ねん)には津村つむらじゅん天堂てんどうげんツムラ[6]協力きょうりょくて、個人こじんで『植物しょくぶつ研究けんきゅう雑誌ざっし[7]創刊そうかんしたが、3ごう休刊きゅうかんした。以降いこうは、むら協力きょうりょくにより編集へんしゅう委員いいんせい現在げんざい刊行かんこうされている[注釈ちゅうしゃく 6]

1912ねん大正たいしょう元年がんねん牧野ぼくや50さい)から1939ねん昭和しょうわ14ねん、77さい)まで東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく理科りか大学だいがく講師こうしつとめる。このあいだ学歴がくれきたず、権威けんい理解りかいしない牧野まきのたいし、学内がくないからなん圧力あつりょくがあったが、結局けっきょく牧野ぼくやみかどだい必要ひつよう人材じんざいとされ、助手じょしゅ時代じだいからけい47年間ねんかん大学だいがく留任りゅうにんしている。

牧野まきの富太郎とみたろう墓碑ぼひ

1927ねん4月(昭和しょうわ2ねん)、65さい東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくから理学りがく博士はかせける。論文ろんぶんだいは「日本にっぽん植物しょくぶつ考察こうさつ(英文えいぶん)」。同年どうねん発見はっけんした新種しんしゅささ翌年よくねん死去しきょしたつまをとって「スエコザサ」と名付なづけた。

1937ねん昭和しょうわ12ねん)、朝日あさひ文化ぶんかしょう受賞じゅしょう

1940ねん昭和しょうわ15ねん)、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく退官たいかん、78さい研究けんきゅう集大成しゅうたいせいである「牧野まきの日本にっぽん植物しょくぶつ図鑑ずかん」を刊行かんこう、このほん改訂かいていかさねながら現在げんざい販売はんばいされている。

1949ねん昭和しょうわ24ねん)、だいちょうカタル一旦いったん危篤きとく状態じょうたいとなるも、回復かいふく

1950ねん昭和しょうわ25ねん)、日本学士院にほんがくしいん会員かいいん

1951ねん昭和しょうわ26ねん)、整理せいりのまま自宅じたく山積やまづみされていた植物しょくぶつ標本ひょうほんやく50まんてん整理せいりすべく、朝比奈あさひな泰彦やすひこ科学かがく研究所けんきゅうじょ所長しょちょう中心ちゅうしんとなって「牧野まきの博士はかせ標本ひょうほん保存ほぞん委員いいんかい」が組織そしき文部省もんぶしょうから30まんえん補助ほじょきん翌年よくねんにかけて標本ひょうほん整理せいりおこなわれた[8]同年どうねん設立せつりつされただい1かい文化ぶんか功労こうろうしゃ対象たいしょうしゃとなる。

1953ねん昭和しょうわ28ねん)、91さい東京とうきょう名誉めいよ都民とみん

1954ねん昭和しょうわ29ねんごろから病気びょうきがちになり、やまい寝込ねこむことがおおくなった。

1956ねん昭和しょうわ31ねん)、「植物しょくぶつがくきゅうじゅうねん」・「牧野まきの富太郎とみたろう自叙伝じじょでん」を刊行かんこう同年どうねん12がつ郷里きょうり高知こうちけん佐川さがわまち名誉めいよ町民ちょうみん。また、高知こうちけん牧野まきの植物しょくぶつえん設立せつりつされることが決定けっていされた。

1957ねん昭和しょうわ32ねん)、94さい死去しきょ没後ぼつごしたがえさんじょされ、くんとう旭日重光章きょくじつじゅうこうしょう文化ぶんか勲章くんしょう追贈ついぞうされた。墓所はかしょ東京とうきょう台東たいとう谷中やなか天王寺てんのうじ郷里きょうり佐川さがわまちにも分骨ぶんこつされている。

高知こうち県立けんりつ牧野ぼくや植物しょくぶつえん牧野まきの富太郎とみたろう記念きねんかん本館ほんかん

1958ねん昭和しょうわ33ねん)4がつ高知こうちけん高知こうち五台山ごだいさん高知こうち県立けんりつ牧野ぼくや植物しょくぶつえん開園かいえんした[9]

家族かぞく

子供こどもは13にんまれ、そのうち7にん(3なん4じょ)が成長せいちょうした[10][11]

逸話いつわ

  • 植物しょくぶつだけではなく鉱物こうぶつにも興味きょうみをもち、音楽おんがくについてはみずか指揮しきをとり演奏えんそうかいひらき、郷里きょうり音楽おんがく教育きょういく振興しんこうにも尽力じんりょくした。
  • 植物しょくぶつ研究けんきゅうのため、つく酒屋ざかやであった実家じっか財産ざいさん使つかったが[4]東京とうきょうさい親戚しんせきゆずった。のち困窮こんきゅうし、やむなくつまはじめた料亭りょうてい収益しゅうえき研究けんきゅうにつぎんだという。その料亭りょうていけんや、当時とうじ大学だいがく権威けんい無視むしした出版しゅっぱんなどがもと大学だいがくわれたこともある。しかし、学内がくないには富太郎とみたろう植物しょくぶつたいする情熱じょうねつとその業績ぎょうせきたか評価ひょうかするものおおく、78さいまでじつに47ねんのあいだ、東大とうだい植物しょくぶつがく教室きょうしつになくてはならない講師こうしとして日本にっぽん植物しょくぶつがく貢献こうけんした。
  • 富太郎とみたろう金銭きんせん感覚かんかく欠如けつじょや、周囲しゅういひとにたいするかれいにまつわる逸話いつわおおい。しかし富太郎とみたろうした松村まつむらつとむさん自身じしんわか研究けんきゅう邁進まいしんするあまり、周囲しゅういたいする配慮はいりょいていたことをみとめている。後年こうねん富太郎とみたろう松村まつむら明治めいじ初頭しょとう植物しょくぶつがくだいいち功労こうろうしゃであり、東大とうだい植物しょくぶつがく教室きょうしつ基礎きそきずいたひとであるとしょうさんした。
  • 尾瀬おぜ植物しょくぶつ採集さいしゅうしたさいにあまりに植物しょくぶつったため、尾瀬おぜ保護ほご運動うんどう第一人者だいいちにんしゃであった平野ひらの長蔵ちょうぞう研究けんきゅうするだけでなく保護ほごかんがえろとしかったというエピソードがある。
  • おおくの植物しょくぶつ命名めいめいおこない「雑草ざっそうという植物しょくぶつ」という言葉ことばのこしている。[20]
  • 詩人しじん児童じどう文学ぶんがく作家さっか山本やまもと和夫かずお自宅じたくおとずれたさいは、記念きねん写真しゃしんるなど親交しんこうがあった。
  • 生地きじ佐川さがわまちでは、牧野まきの富太郎とみたろう主人公しゅじんこうにした連続れんぞくテレビ小説しょうせつ誘致ゆうち活動かつどうおこなわれ [21]、2023年度ねんど前期ぜんき連続れんぞくテレビ小説しょうせつらんまん」の主人公しゅじんこう槙野まきの万太郎まんたろうのモデルとなることが決定けっていした[22][23]神木しぼく隆之たかゆきかいえんじる。
  • 2021ねん牧野まきの富太郎とみたろうかんし、つま寿ことぶきまもるをつけたスエコザサなどを原料げんりょうにした、高知こうちけんはつクラフトジン、「マキノジン」がつくられた[24]

発見はっけん命名めいめいした植物しょくぶつ

命名めいめいは2500しゅ以上いじょう新種しんしゅ1000、しん変種へんしゅ1500)とされる。みずからの新種しんしゅ発見はっけんも600しゅあまりとされる。

発見はっけん命名めいめいした植物しょくぶつれい
ムジナモ、センダイヤザクラ、トサトラフタケ、ヨコグラツクバネ、アオテンナンショウ、コオロギラン、スエコザサ

和名わみょうについては、ワルナスビノボロギクのような、当該とうがい植物しょくぶつしゅ性質せいしつみじか言葉ことばたくみくいいあらわしているものもある一方いっぽうで、ハキダメギクなど発見はっけん場所ばしょをつけただけの命名めいめいもある。イヌノフグリのように意味いみかんがえると(いぬ陰嚢ふぐりゆえ)、少々しょうしょう破廉恥はれんちなものもあるが、この植物しょくぶつ場合ばあい、もとは和歌山わかやまけんにおける同種どうしゅ方言ほうげんからとったものではある。

つまかんしたスエコザサのエピソードはよくられているが、こうした学問がくもん以外いがい私情しじょうをはさんだけんじめい例外れいがいてきであった。マルバマンネングサの学名がくめいにはロシアの植物しょくぶつ学者がくしゃマキシモヴィッチにより、牧野まきのまれている。

また、わかれになった愛人あいじんたきしのんでアジサイHydorangea macrophylla Sieb. var. otakusa学名がくめい命名めいめいしたシーボルトについて、otakusa由来ゆらいをシーボルトは日本にっぽんでの地方ちほうめいだと著書ちょしょにのべていたものが事実じじつはんし、おたきけんじめいしたものであることをめたのも富太郎とみたろうである。

書籍しょせき

1953ねん

※リンクさき国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション or 青空あおぞら文庫ぶんこ

著書ちょしょ共著きょうちょ編著へんちょ

仮名遣かなづか表記ひょうきあらた改題かいだい、註をした新版しんぱん伊藤いとうひろし(東京教育大学とうきょうきょういくだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ)解説かいせつで、牧野まきの富太郎とみたろう略歴りゃくれき説明せつめいがある
  • 植物しょくぶついちにちいちだい : 随筆ずいひつ』(東洋とうようしょかん、1953ねん
  • わかおも』(旺文社おうぶんしゃ、1955ねん1がつ
  • 牧野まきの植物しょくぶつ一家言いっかげん』(きたたかしかん、1956ねん
  • 草木くさきとともに』(ダヴィッドしゃ、1956ねん
  • 牧野まきの富太郎とみたろう自叙伝じじょでん』(長嶋ながしま書房しょぼう、1956ねん
以下いか没後ぼつごかん
  • 牧野まきの富太郎とみたろう植物しょくぶつぜん8かんあかね書房しょぼう、1973-1974、中村なかむらひろしへん
  • 牧野まきの富太郎とみたろう選集せんしゅうぜん5かん東京とうきょう美術びじゅつ 1981。復刻ふっこく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい、2008
  • 植物しょくぶついちにちいちだい博品社はくひんしゃ、1998、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ、2008
  • 植物しょくぶつ一家言いっかげん くさてんめぐみ』 小山こやま鐵夫てつお監修かんしゅうきたたかしかん、2000ねん
  • 牧野まきの植物しょくぶつ随筆ずいひつ』 (講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、2002ねん
  • 植物しょくぶつ』(ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ、2008ねん
  • はな物語ものがたり ぞく植物しょくぶつ』 (ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ、2010ねん
  • 『わが植物しょくぶつあい』 (河出かわで文庫ぶんこ、2022ねん

解説かいせつ

図鑑ずかん図譜ずふ図説ずせつ

  • 新撰しんせん日本にっぽん植物しょくぶつ図説ずせつだい2かんだい2しゅうけいぎょうしゃ, 1903)
  • 日本にっぽん高山たかやま植物しょくぶつ図譜ずふ. だいかんさん好学こうがく, 牧野まきの富太郎とみたろう 共著きょうちょ (成美せいびどう, 1907)
  • 日本にっぽん高山たかやま植物しょくぶつ図譜ずふ. だい2かんさん好学こうがく, 牧野まきの富太郎とみたろう 共著きょうちょ (成美せいびどう, 1909)
  • 日本にっぽん植物しょくぶつ図鑑ずかん』(きたたかしかん, 1940)
  • 牧野まきの日本にっぽん植物しょくぶつ圖鑑ずかん : 學生がくせいばん』(きたたかしかん, 1949.04)
  • 原色げんしょく日本にっぽん高山たかやま植物しょくぶつ図譜ずふ』 (まことぶんどう新光しんこうしゃ, 1953)
  • 普通ふつう植物しょくぶつ検索けんさく図説ずせつ』(こう書院しょいん, 1970)
  • 原色げんしょく牧野まきの日本にっぽん植物しょくぶつ図鑑ずかん』(きたたかしかん, 1985.04)
  • 牧野まきのしん日本にっぽん植物しょくぶつ図鑑ずかん』(きたたかしかん, 1996)
    • 原色げんしょく牧野まきの日本にっぽん植物しょくぶつ図鑑ずかんぜん3かんきたたかしかん, 2000)。※『牧野まきのしん日本にっぽん植物しょくぶつ図鑑ずかん』の植物しょくぶつ着色ちゃくしょくしたもの。

博士はかせ論文ろんぶん

  • 日本にっぽん植物しょくぶつ考察こうさつ英文えいぶん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく学位がくい理学りがく博士はかせ, 1927.04.16)

学術がくじゅつ雑誌ざっし

  • 万葉集まんようしゅうなわノリ」(アララギ発行はっこうしょ『アララギ』42かん8ごう39~43ぺーじ, 1949.08)
  • 「ゴキブリでは意味いみをなさぬ」(日本にっぽん科学かがく協会きょうかい採集さいしゅう飼育しいく = Collecting and breeding』12かん10ごう317ぺーじ, 1950.10)
  • わたし信条しんじょう」(岩波書店いわなみしょてん世界せかい』61ごう71~73ぺーじ, 1951.02)
  • わたし短歌たんかかん」(短歌たんか研究けんきゅうしゃ短歌たんか研究けんきゅう』8かん9ごう, 1951.09)
  • 「ホテイナリヒラの来歴らいれき日本にっぽんちくささかい富士ふじちくるい植物しょくぶつえん報告ほうこく = The reports of the Fuji Bamboo Garden』12ごう6~8ぺーじ, 1967.11)
  • たけ開花かいかについて」(日本にっぽんちくささかい富士ふじちくるい植物しょくぶつえん報告ほうこく = The reports of the Fuji Bamboo Garden』13ごう6ぺーじ, 1968.12)

書簡しょかん

伝記でんきなど

子供こども伝記でんき

子供こども絵本えほん

《JBBY (日本にっぽん国際こくさい児童じどう図書としょ評議ひょうぎかい)で、世界せかい紹介しょうかいしたい子供こどもほん選出せんしゅつ

牧野ぼくや題材だいざい・ヒントにしている作品さくひん

小説しょうせつ

  • 池波いけなみ正太郎しょうたろう牧野まきの富太郎とみたろう」『武士ぶし紋章もんしょう新潮しんちょう文庫ぶんこ、1994
  • 大原おおはら富枝とみえくさしとね小説しょうせつ牧野まきの富太郎とみたろう小学館しょうがくかん、2001
  • 朝井あさいまかて『ボタニカ』祥伝社しょうでんしゃ、2022ねん1がつ13にちISBN 9784396636173 

映画えいが

2009ねん映画えいが黄金おうごんはな』で富太郎とみたろうをモデルにした“まき老人ろうじん”を原田はらだ芳雄よしおえんじた。

テレビドラマ

2023年度ねんど前期ぜんきのNHK連続れんぞくテレビ小説しょうせつらんまん』で、牧野まきの富太郎とみたろうをモデルにした主人公しゅじんこう槙野まきの万太郎まんたろう”を、神木しぼく隆之たかゆきかいえんじる[26][27]

関連かんれん人物じんぶつ

田中たなか芳男よしお

富太郎とみたろう1883ねん明治めいじ16ねん)、だい2かい内国ないこく勧業かんぎょう博覧はくらんかい見学けんがくのため上京じょうきょうし、そのさい文部省もんぶしょう博物はくぶつきょくたずね、田中たなか芳男よしお小野おのしょく愨に小石川こいしかわ植物しょくぶつえん案内あんないしてもらっている。まだ無名むめい富太郎とみたろうが、3ねんコーネル大学だいがく留学りゅうがくした東京大学とうきょうだいがく理学部りがくぶ植物しょくぶつがく教室きょうしつほこたか教授きょうじゅ矢田部やたべ良吉りょうきちゆるしをて、この教室きょうしつ出入でい出来できるようになったのは、田中たなか芳男よしお田中たなかである伊藤いとう圭介けいすけちからがあった。

博物館はくぶつかん行政ぎょうせいおおくの勧業かんぎょう殖産しょくさん貢献こうけんし、のち貴族きぞくいん議員ぎいんになった田中たなか富太郎とみたろうほんりをするなどしたしく交友こうゆうがあり、それは24さい年上としうえ田中たなかくなるまでつづいた。

いけちょうはじめ

富太郎とみたろう1916ねん大正たいしょう5ねん)12月、生活苦せいかつくから収集しゅうしゅうした植物しょくぶつ標本ひょうほん10まんてん海外かいがい研究所けんきゅうじょることを決断けつだんする。

富太郎とみたろう窮状きゅうじょうった渡辺わたなべ忠吾ちゅうごは、『東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』に「篤学とくがくしゃ困窮こんきゅうかえりみず、国家こっかてき資料しりょう流出りゅうしゅつすることがあれば国辱こくじょくである」との記事きじき、『大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん』がこれを転載てんさいした。

記事きじ反響はんきょうび、神戸こうべからにん篤志とくしあらわれた。一人ひとり久原くはら房之助ふさのすけ、もう一人ひとりが20さい京都きょうと帝国ていこく大学生だいがくせいいけちょうはじめであった。

12月21にち富太郎とみたろう寿ことぶきまもる夫人ふじんとともに神戸こうべかう。はじめちちいけ長通ながどおり遺産いさんなかから3まんえん標本ひょうほんり、あらためて富太郎とみたろう寄贈きぞうしようともうた。感激かんげきした富太郎とみたろうはこのもう固辞こじ標本ひょうほんつうてたいけちょう会館かいかん所蔵しょぞうされることになり、会館かいかんいけちょう植物しょくぶつ研究所けんきゅうじょ改称かいしょうされる。

これで富太郎とみたろう困窮こんきゅう時代じだい危機ききだっすることになる。また、はじめ富太郎とみたろうにその研究けんきゅう援助えんじょする[28]

関連かんれん施設しせつ

高知こうち県立けんりつ牧野ぼくや植物しょくぶつえん
高知こうち五台山ごだいさんに、没後ぼつご1ねん1958ねん昭和しょうわ33ねん)に富太郎とみたろう生前せいぜん希望きぼう反映はんえい開園かいえんした。敷地しきちは6haに拡張かくちょうされ、1500しゅ、13000かぶ植物しょくぶつがうえられている。開園かいえん当初とうしょ牧野ぼくや偉業いぎょうのこし、観光かんこう植物しょくぶつえんとしての色彩しきさいかったが、現在げんざい有用ゆうよう植物しょくぶつかんするおおくの研究けんきゅうしゃようし、世界せかいてき研究けんきゅう機関きかんとしての地位ちいきずきつつある。
牧野まきの富太郎とみたろう資料しりょう展示てんじしつ
高知こうちけん佐川さがわまち佐川さがわまち総合そうごう文化ぶんかセンターないにある展示てんじしつで、富太郎とみたろう眼鏡めがね所蔵しょぞうほん手紙てがみ墨書ぼくしょなど遺品いひんおお収蔵しゅうぞうしている。
牧野まきの富太郎とみたろう記念きねんかん
上記じょうき植物しょくぶつ園内えんない付属ふぞく施設しせつで、本館ほんかん展示てんじかんの2つの建物たてものにわかれる。本館ほんかんには遺族いぞくから寄贈きぞうされた蔵書ぞうしょやく4まん5000さつ直筆じきひつ原稿げんこう写生しゃせいとう、5まん8000てんおさめられた牧野まきの文庫ぶんこはじめ、植物しょくぶつかんする研究けんきゅうしつなどがある。展示てんじかんでは博士はかせ生涯しょうがいかんする展示てんじなどがある。
建築けんちく設計せっけい内藤ないとうひろによる。
練馬ねりま区立くりつ牧野まきの記念きねん庭園ていえん
東京とうきょう練馬ねりま東大泉ひがしおおいずみ自宅じたく跡地あとち一般いっぱん公開こうかいしたもの。340しゅあまりの植物しょくぶつえられ、記念きねんかんには遺族いぞくから寄託きたくされている博士はかせ遺品いひん展示てんじされている。2010ねん平成へいせい22ねん)8がつ記念きねんかん講習こうしゅうとう改修かいしゅうさいオープンした。常設じょうせつ展示てんじくわ企画きかく展示てんじしつでは関根せきねくもとま服部はっとりゆきとき植物しょくぶつ展覧てんらんかい植物しょくぶつ標本ひょうほん展覧てんらんかい開催かいさいされている。
東京都立大学とうきょうとりつだいがく牧野まきの標本ひょうほんかん
没後ぼつご遺族いぞくから寄贈きぞうされた40まんてん標本ひょうほん収蔵しゅうぞうされ、一部いちぶ画像がぞうデータベースされ一般いっぱん公開こうかいされている。富太郎とみたろうが90ねん生涯しょうがいけて採集さいしゅうした膨大ぼうだい植物しょくぶつ標本ひょうほん整理せいりにははん世紀せいき時間じかんようした。
牧野まきの富太郎とみたろう句碑くひ
広島ひろしまけん北広島きたひろしままち八幡はちまんきゅう芸北げいほく町内ちょうない)の臥龍山がりゅうざんふもと八幡原はちまんぱら公園こうえん1999ねん富太郎とみたろうんだ句碑くひ建立こんりゅうされた。句碑くひきざまれたは、富太郎とみたろう1933ねん昭和しょうわ8ねん)にはじめて八幡はちまんおとずれたさい湿地しっちいちめんカキツバタ自生じせいをみて感激かんげきんだものとされる。

脚注きゃくちゅう

注釈ちゅうしゃく

  1. ^ 創刊そうかんごう表紙ひょうし
  2. ^ マルバマンネングサには牧野ぼくやとマキシモヴィッチの名前なまえ双方そうほうから由来ゆらいする学名がくめいがつけられている。
  3. ^ 矢田部やたべほかにも、伊藤いとう篤太郎とくたろう(理学部りがくぶ教授きょうじゅ伊藤いとう圭介けいすけまご)と新種しんしゅトガクシソウ)の命名めいめい先着せんちゃくじゅん)をめぐって対立たいりつし、伊藤いとう出入でい禁止きんしにしている。破門はもんくさ事件じけんとしてられるこのけんについては、トガクシソウの項目こうもく参照さんしょう
  4. ^ 子供こどもは13にんまれ、そだったのは7にん
  5. ^ つまことぶきまもる子供こどもたちにたいし「貧乏びんぼう学問がくもんのための貧乏びんぼうであるので、じることはない」といいきかせていた。
  6. ^ 1916ねん大正たいしょう5ねん)4がつ牧野まきの富太郎とみたろうによって創刊そうかんされ、1933ねんまでつづ個人こじん編集へんしゅうされていた。そのは、朝比奈あさひな泰彦やすひこ(1933-1975)、はらひろし(1975-1987)、柴田しばたうけたまわ(1987-2006)、大橋おおはしひろこう(2006-現在げんざい)が代々だいだい編集へんしゅう主幹しゅかんまたは代表だいひょう委員いいん編集へんしゅうちょう)をつとめている。

出典しゅってん

  1. ^ 希少きしょうなシダ89ねんぶり発見はっけん日本にっぽん植物しょくぶつがくちち採集さいしゅう以来いらい 伊吹いぶき山麓さんろく、アマ研究けんきゅうしゃ運命うんめいてき」|文化ぶんか・ライフ|地域ちいきのニュース|京都きょうと新聞しんぶん”. 京都きょうと新聞しんぶん. 2021ねん6がつ12にち閲覧えつらん
  2. ^ 富太郎とみたろう生涯しょうがいについて”. 牧野まきの記念きねん庭園ていえん情報じょうほうサイト. 2020ねん4がつ24にち閲覧えつらん
  3. ^ 蔵元くらもと紀行のりゆき”. 地酒じざけ蔵元くらもとかい. 2020ねん4がつ24にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e f 天野あまの郁夫いくお学歴がくれき社会しゃかい教育きょういく日本にっぽん近代きんだい』(初版しょはん平凡社へいぼんしゃ平凡社へいぼんしゃライブラリー〉(原著げんちょ2005ねん1がつ6にち)、pp. 85-88ぺーじISBN 4582765262 
  5. ^ 本草ほんぞう綱目こうもく啓蒙けいもう”. 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション. 2020ねん4がつ24にち閲覧えつらん
  6. ^ ツムラの歴史れきし 1924ねん~1933ねん”. ツムラ. 2020ねん4がつ24にち閲覧えつらん
  7. ^ The Journal of Japanese Botany”. ツムラ. 2020ねん4がつ24にち閲覧えつらん
  8. ^ 牧野まきの標本ひょうほん補助ほじょきん」『朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ26ねん1がつ20日はつか
  9. ^ 牧野まきの植物しょくぶつえん概要がいよう
  10. ^ a b c 代表だいひょうてき人物じんぶつ事業じぎょう時事通信社じじつうしんしゃ、1913ねんhttps://books.google.com/books?id=OH9bVQgLKhcC&newbks=0&printsec=frontcover&pg=PP450&dq=%E7%89%A7%E9%87%8E%E5%AF%8C%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%80%80%E9%95%B7%E7%94%B7&hl=ja 
  11. ^ 牧野まきの富太郎とみたろう - NPO法人ほうじん 国際こくさい留学生りゅうがくせい協会きょうかい向学こうがく新聞しんぶん”. www.ifsa.jp. 2022ねん2がつ3にち閲覧えつらん
  12. ^ 植物しょくぶつ桜井さくらい書店しょてん、1943ねんhttps://books.google.com/books?id=V4F982Uh4kMC&newbks=0&printsec=frontcover&pg=PP399&dq=%E5%B0%8F%E6%BE%A4%E4%B8%80%E6%94%BF&hl=ja 
  13. ^ 牧野まきの博士はかせ寿ことぶきまもる夫人ふじん | 練馬ねりまわがまち資料しりょうかん”. www.nerima-archives.jp. 2022ねん3がつ15にち閲覧えつらん
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  16. ^ 新聞しんぶん集成しゅうせい昭和しょうわ編年史へんねんし』 31かん、4ごう明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわ新聞しんぶん研究けんきゅうかい、1955ねん、324ぺーじ 
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  19. ^ a b c d (中国ちゅうごく) 人事じんじ興信錄こうしんろく. 人事じんじ興信所こうしんじょ. (2003). https://books.google.com/books?id=0D80AQAAIAAJ&newbks=0&printsec=frontcover&pg=PP585&dq=%E7%89%A7%E9%87%8E%E5%AF%8C%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%81%AE%E9%95%B7%E5%A5%B3&hl=ja 
  20. ^ 牧野まきの富太郎とみたろう 植物しょくぶつ博士はかせ人生じんせい図鑑ずかん平凡社へいぼんしゃ
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外部がいぶリンク