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広井ひろいいさむ

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広井ひろい いさむ
広井ひろいいさむ(1928ねん
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1862-10-24) 1862ねん10月24にち
日本の旗 土佐とさこく佐川さがわむら
死没しぼつ (1928-10-01) 1928ねん10月1にち(65さいぼつ
日本の旗 東京とうきょう牛込うしごめ
出身しゅっしんこう 札幌さっぽろのう学校がっこう農学のうがく
カールスルーエ大学だいがくシュトゥットガルト大学だいがく(バウ・インジュニュール:土木どぼくこう
両親りょうしん ちち広井ひろいじゅうろう
ははとら
学問がくもん
研究けんきゅう機関きかん 札幌さっぽろのう学校がっこう
東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく
主要しゅよう作品さくひん 秋田港あきたこう廣井ひろい波止場はとば
小樽おたるこうきた防波堤ぼうはてい
きゅう豊平とよひらきょう
影響えいきょうけた人物じんぶつ 野中のなか兼山けんざん伊藤いとうらんりん
ウィリアム・ホイーラー
セシル・ピーボディ
メリマン・ハリス
影響えいきょうあたえた人物じんぶつ 岡崎おかざき文吉ぶんきちほり末子まっし
青山あおやま太田おおたえんさん
増田ますだあつし八田はった與一よいち
久保田くぼたゆたか田中たなかゆたか
石川いしかわ栄耀えいよう宮本みやもと武之たけゆき
安芸あきこういち高橋たかはしひろし
伊藤いとうちょうみぎ衛門えもん
学会がっかい 土木どぼく学会がっかい
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廣井ひろい いさむ
札幌さっぽろのう学校がっこう時代じだい仲間なかまともにメリマン・ハリスの墓参はかまいり(前列ぜんれつひだり)。1928ねん
教派きょうは メソジスト教会きょうかい
受洗じゅせん 1877ねん6がつ
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広井ひろい いさむきゅう字体じたい廣井ひろい いさむ、ひろい いさみ、1862ねん10月24にち文久ぶんきゅう2ねん9月2にち) - 1928ねん昭和しょうわ3ねん10月1にち)は、日本にっぽん土木どぼく工学こうがくしゃもと東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ高知こうちけん出身しゅっしん札幌さっぽろのう学校がっこう現在げんざい北海道大学ほっかいどうだいがく卒業そつぎょう。「港湾こうわん工学こうがくちち」とばれた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

高知こうちから東京とうきょう、そして札幌さっぽろ[編集へんしゅう]

1862ねん文久ぶんきゅう2ねん)、土佐とさこく佐川さがわむらげん高知こうちけん高岡たかおかぐん佐川さがわまち)において、筆頭ひっとう家老がろう深尾ふかお家臣かしん土佐とさはん御納戸役おなんどやくつとめる広井ひろいじゅうろうとそのつまとらとのあいだ長男ちょうなん数馬かずまとしてまれる。同郷どうきょうどう世代せだい牧野まきの富太郎とみたろう同様どうようおさなころからさとこうめいきょうかん(めいこうかん)で儒学じゅがくしゃ伊藤いとうらんりん1815ねん-1895ねん)にまなんだ。数馬かずま祖父そふ広井ひろいゆうめい1770ねん-1853ねん)もまた、かつてめいきょうかん儒学じゅがく和算わさんおしえており、らんりんはその弟子でしであった。

当時とうじはまだ安政あんせい南海なんかい地震じしん爪跡つめあとのこ時代じだいだったが、おさなころ数馬かずま浦戸湾うらどわん入口いりくちにあたる種崎たねざきむらげん高知こうち)の海岸かいがんで、じゅうすうねんまえ津波つなみ襲来しゅうらいしたさいうずたかすななか埋没まいぼつわすれられていた堤防ていぼう露出ろしゅつして津波つなみふせいだというはなしかされたとしるしている[1]。この堤防ていぼうは、さかのぼること200ねんまえ1655ねんあかりれき元年がんねん)に、野中のなか兼山けんざんつくらせたものであった。

9さいのときにちち死別しべつし、いさむあらためる。11さい上京じょうきょう叔父おじである男爵だんしゃく片岡かたおか利和としかず邸宅ていたく書生しょせいとして寄宿きしゅくしながらこうだい学校がっこうはいったが、16さいのとき、こうだい学校がっこう学費がくひ方針ほうしん変更へんこうけて、全額ぜんがく官費かんぴ生活せいかつ支給しきゅうされるという札幌さっぽろのう学校がっこう入学にゅうがくめた[2]

札幌さっぽろのう学校がっこう海外かいがい武者むしゃ修行しゅぎょう[編集へんしゅう]

札幌さっぽろのう学校がっこうでは内村うちむら鑑三かんぞう新渡戸にとべ稲造いなぞう宮部みやべ金吾きんごらとともに期生きせいとなった。教頭きょうとうには前年ぜんねん帰国きこくしたウィリアム・スミス・クラークわって、その弟子でしであるウィリアム・ホイーラー着任ちゃくにんしていた。ホイーラーは当時とうじ20だいなかばの土木どぼく技術ぎじゅつしゃであったが、わずか3ねん任期にんきあいだに、いまのこ札幌さっぽろ時計とけいだいきゅうのう学校がっこう演武えんぶじょう)や、てつ混合こんごうトラス構造こうぞう豊平とよひらきょう設計せっけいするなど活躍かつやくしており、国境こっきょうえて貢献こうけんするその姿すがたは、いさむ進路しんろおおきな影響えいきょうあたえた。に、セシル・ピーボディらから土木どぼく工学こうがく数学すうがく測量そくりょうじゅつ物理ぶつりがくなどをまなんだ。

在学ざいがくちゅう1877ねん明治めいじ10ねん)6がついさむ同期生どうきせい6にんは、函館はこだて駐在ちゅうざいしていたメソジストけい宣教師せんきょうしメリマン・ハリスから洗礼せんれいけてキリスト教きりすときょう改宗かいしゅうした。いさむかれらのなかでも非常ひじょう熱心ねっしん信者しんじゃであったが、ある内村うちむら鑑三かんぞうに「この貧乏びんぼうこくりてみんものきょうせずして宗教しゅうきょうきょううるもえきすくなし。ぼくいまよりは伝道でんどう断念だんねんして工学こうがくはいる」と宣言せんげんし、内村うちむららに伝道でんどうたくしたという[3]

1881ねん明治めいじ14ねん)7がつ札幌さっぽろのう学校がっこう卒業そつぎょう官費かんぴせい規定きていしたが開拓かいたく使御用ごようかけ奉職ほうしょく、11月にはなかだちでんひらけ事務じむがかり鉄路てつろ勤務きんむし、北海道ほっかいどう最初さいしょ鉄道てつどうである官営かんえい幌内ほろない鉄道てつどう小樽おたる-幌内ほろないあいだ工事こうじたずさわり、はじめて小規模しょうきぼ鉄道てつどう橋梁きょうりょう建設けんせつたずさわった。翌年よくねん開拓かいたく使廃止はいしにともないこうしょううつり、鉄道てつどうきょく日本にっぽん鉄道てつどう会社かいしゃ東京とうきょう-高崎たかさきあいだ建設けんせつ工事こうじ監督かんとくとして、荒川あらかわ橋梁きょうりょう架設かせつにあたった[4]

よく1883ねん明治めいじ16ねん)12月、単身たんしん私費しひ横浜よこはまこうからアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくわたった。ホイーラーらの紹介しょうかい中西部ちゅうせいぶセントルイス陸軍りくぐん工兵こうへいたい本部ほんぶ技術ぎじゅつしゃ採用さいようされ、ミシシッピがわとミズーリがわ治水ちすい工事こうじたずさわったのち、チャールズ・シェイラー・スミス(Charles Shaler Smith)の設計せっけい事務所じむしょ橋梁きょうりょう設計せっけい従事じゅうじした[2]。セントルイスでのりょう職場しょくばとも、当時とうじ世界せかい最長さいちょうのアーチきょうであり、鋼鉄こうてつ最初さいしょもちいただい規模きぼ橋梁きょうりょうでもあったイーズきょうのたもとにあり、つよ印象いんしょうのこしている。当時とうじスミスの事務所じむしょでは、となりケンタッキーしゅう北米ほくべいはつ、かつ世界せかい最長さいちょうかつ最高さいこうたかさのカンチレバーはしであるハイきょうen:High_Bridge_of_Kentucky)を設計せっけいしていた。

スミスの病没びょうぼつは、はじめ南部なんぶバージニアしゅうロアノークにあるノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道てつどう、のちに北部ほくぶデラウェアしゅう橋梁きょうりょう建設けんせつ会社かいしゃエッジ・ムーア・ブリッジ(Edge Moor Bridge)にうつって技術ぎじゅつしゃとしてはたらかたわら、橋梁きょうりょう建築けんちくについて英文えいぶんあらわした技術ぎじゅつしょ『プレート・ガーダー・コンストラクション』(Plate-Girder Construction)を刊行かんこうした[2]同書どうしょは、理論りろんから実践じっせんてき標準ひょうじゅん設計せっけいまでをつらぬ内容ないようから、アメリカの大学だいがく教科書きょうかしょとしてなが使用しようされ、1914ねんには5さつるほど好評こうひょうだったという[4][5]

教育きょういくしゃにして実務じつむ[編集へんしゅう]

1887ねん明治めいじ20ねん)、母校ぼこう札幌さっぽろのう学校がっこうから、道庁どうちょうへの移管いかんともな新設しんせつされる工学科こうがっか助教授じょきょうじゅへの就任しゅうにん要請ようせいけ、一旦いったんドイツカールスルーエ大学だいがくに1年間ねんかんシュトゥットガルト大学だいがく半年はんとしあいだ留学りゅうがくして土木どぼく工学こうがく水利すいり工学こうがく研究けんきゅう、バウ・インジュニュール(土木どぼくこう)の学位がくいのち1889ねん明治めいじ22ねん)に帰国きこく札幌さっぽろのう学校がっこう工学科こうがっか教授きょうじゅ就任しゅうにんした。講義こうぎ英語えいご中心ちゅうしんおこなわれた[2]当時とうじ工学科こうがっかでは卒業そつぎょう研究けんきゅう題材だいざいに、道庁どうちょう実際じっさい企画きかくされている土木どぼく事業じぎょうえらばれており、研究けんきゅう成果せいか事業じぎょうかされるなど、道庁どうちょう土木どぼく機関きかんのシンクタンクとしての機能きのうたしていた[6]。こうしたなかから、岡崎おかざき文吉ぶんきち平野ひらの多喜たきまつらが巣立すだっていった。

秋田港あきたこうセリオンタワー付近ふきんにある石碑せきひ秋田港あきたこうに「廣井ひろい波止場はとば」のがついたことをあらわ碑文ひぶんられている。

1889ねん明治めいじ22ねんごろからはじまった秋田港あきたこう当時とうじは「土崎つちざきみなと」)[7]築港ちっこうさいし、秋田あきたけん青年せいねん実業じつぎょう近江谷おうみや栄次えいじ(のちに衆議院しゅうぎいん議員ぎいん)に招請しょうせいされ、13ねん改修かいしゅう完了かんりょうした秋田港あきたこうには「廣井ひろい波止場はとば」のけられた。

1890ねん明治めいじ23ねん)からは北海道庁ほっかいどうちょう技師ぎし兼務けんむし、函館はこだてこう築堤ちくていたずさわったのち1893ねん明治めいじ26ねん)、札幌さっぽろのう学校がっこう文部省もんぶしょう移管いかん工学科こうがっか廃止はいしともな技師ぎし専任せんにんとなり、小樽築港おたるちっこう事務所じむしょちょう就任しゅうにん小樽おたるこう開港かいこうけた整備せいび従事じゅうじした。ふゆ季節風きせつふうはげしい波浪はろう見舞みまわれる岸壁がんぺきたいして、いさむ火山灰かざんばい混入こんにゅうして強度きょうどしたコンクリートを開発かいはつ、さらにそのコンクリートブロックを7134ふん傾斜けいしゃさせ並置へいちする[8]はすかたまりブロック」という独特どくとく工法こうほう採用さいようし、1908ねん明治めいじ41ねん)、1300mにおよ日本にっぽんはつのコンクリートせい長大ちょうだい防波堤ぼうはてい完成かんせいさせた。設計せっけいさいもちいたなみあつ算出さんしゅつほうは、広井ひろい公式こうしきわれ現在げんざい使つかわれている。

工事こうじちゅういさむ毎朝まいあさだれよりもはや現場げんばおもむき、よるもっとおそくまではたらいた。現場げんばでははんズボン姿すがたでコンクリートをみずか姿すがたをしばしばかけたという[8]。この防波堤ぼうはていは、建設けんせつから100ねん以上いじょう経過けいかした現在げんざいでも当時とうじのままに機能きのうしているが、たまたま結果けっかとしてのこったという以上いじょうに、いさむ準備じゅんび周到しゅうとうだったとえる。コンクリートの強度きょうど試験しけんは、当初とうしょ50ねん大正たいしょう以降いこうあらためられてじつに100ねんまで強度きょうどをテストするよう、じつに6まんきょうためしたい用意よういされ、実際じっさいに2005ねん現在げんざいもなお強度きょうどテストがおこなわれているからである[8]

1899ねん明治めいじ32ねん)、秋田あきたこう小樽おたるこう設計せっけい感服かんぷくした土木どぼくかい泰斗たいと古市ふるいちこうたけし推挙すいきょにより[9]学外がくがい出身しゅっしんにもかかわらず工学こうがく博士はかせごう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅとなり、1919ねん大正たいしょう8ねん)には土木どぼく学会がっかいだい6だい会長かいちょうとなった。いさむ土木どぼくかいへ、ほり末子まっし青山あおやま太田おおたえんさん増田ますだあつし八田はった與一よいち久保田くぼたゆたか田中たなかゆたか宮本みやもと武之たけゆき石川いしかわ栄耀えいようら、20ねん以上いじょうわたり錚々たる逸材いつざいおくし、そのうちすくなくない人々ひとびと海外かいがい雄飛ゆうひした。学生がくせいへの指導しどうきびしくも懇切こんせつで、教育きょういくしゃとしての評価ひょうかたかかった。「先生せんせい毎日まいにち直前ちょくぜんゆかいて、かりをし、正座せいざして30分間ふんかん今日きょういちにち精魂せいこんめて学生がくせいたち教育きょういくしたか、反省はんせいして翌日よくじつ生活せいかつかてにした」とつたえられる[10]

また、稚内わっかないこう函館はこだてこう釧路くしろこう留萌るもいこうといった道内どうない港湾こうわん整備せいびはもちろん、渡島ととうすいでんによる大沼おおぬま水力すいりょく発電はつでんしょ函館はこだて)、最初さいしょ鉄筋てっきんコンクリート橋梁きょうりょうである広瀬ひろせきょう仙台せんだい)、関東かんとう地方ちほうはつ商業しょうぎょうようダムとして鬼怒川きぬがわ水力すいりょく電気でんき建設けんせつした黒部くろべダム日光にっこう)など、おおくの土木どぼく工事こうじ設計せっけい指導しどうにあたっておきながら、報賞ほうしょう金品きんぴんわたそうとすると、「費用ひよう余裕よゆうがあるならば、その資金しきん工事こうじ一層いっそう完璧かんぺきなものにしていただきたい」とべて拒絶きょぜつしたという[11]。さらに、研究けんきゅうめんでは関門かんもんきょう原型げんけいとなった下関しものせき海峡かいきょう横断おうだんきょう設計せっけい鉄筋てっきんコンクリートのためのセメント用法ようほう実験じっけん日本にっぽんはじめてカスチリアノの定理ていりもちいたせいてい構造こうぞう解法かいほう解説かいせつするなどの業績ぎょうせきのこしている。

きているかぎはたらく」「はたらけなくなればぬだけだ」と常々つねづねかたっていたいさむは、文部省もんぶしょうすすめる国立こくりつ大学だいがくへの60さい定年ていねんせい導入どうにゅう反対はんたいしたが、教授きょうじゅかい多数決たすうけつ導入どうにゅう決定けっていされると、主張しゅちょうことにする制度せいどしたがうことをいさぎよしとしないことをおも理由りゆうに、1919ねん大正たいしょう8ねん)6がつ、57さい依願いがん退職たいしょくした[12]1920ねん大正たいしょう9ねん)2がつ6にち東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく名誉めいよ教授きょうじゅ称号しょうごう授与じゅよされた[13]

最後さいごだい仕事しごと[編集へんしゅう]

そのころ札幌さっぽろ市内しない豊平とよひらきょうは、かつてホイーラーが架設かせつしたてつ混合こんごうトラスきょうも、いさむ一番いちばん弟子でし岡崎おかざき文吉ぶんきちによる初代しょだい鉄橋てっきょうも、洪水こうずいにより落橋するなどして10ねん以上いじょう仮設かせつ状態じょうたいのままになっていた。いさむ技師ぎし山口やまぐち敬助けいすけ技手ぎしゅ高橋たかはし勝衛かつえいへの設計せっけい指導しどうたり、1924ねん大正たいしょう13ねん)、豊平とよひらきょうは3れんのブレースト・リブ・タイド・アーチによるアーチきょうとして完成かんせいした。この2代目だいめ鉄橋てっきょうは20ねん以上いじょうちょうきにわたり、札幌さっぽろ街並まちなみと調和ちょうわして市民しみんあいされ、旭橋あさひばし旭川あさひかわ現存げんそん設計せっけい指導しどういさみおしよしまち太郎たろういち)・きゅう幣舞ぬさまいきょう釧路くしろ解体かいたいずみ)とともに「北海道ほっかいどうさん大名だいみょうきょう」としょうされた[14]えにさいして1964ねん昭和しょうわ39ねん解体かいたいされたが、北海道ほっかいどう開拓かいたく記念きねんかん模型もけいのこっている。

1928ねん昭和しょうわ3ねん10月1にち狭心症きょうしんしょうにより自宅じたくにて急逝きゅうせいした。いさむ生涯しょうがいクリスチャンであり、の4ヶ月かげつまえにも内村うちむら新渡戸にとべとともに宣教師せんきょうしハリスの墓前ぼぜん祈祷きとうかい参列さんれつしていた。葬儀そうぎ生涯しょうがいともであった内村うちむら鑑三かんぞう司式ししきによりおこなわれ、内村うちむら弔辞ちょうじなかで「廣井ひろいくんりて明治めいじ大正たいしょう日本にっぽんきよきエンジニアーちました。…『つくりしはしきずきし防波堤ぼうはていがすべての抵抗ていこうこたるや』とのふか心配しんぱいがあったのであります。そしてその良心りょうしんその心配しんぱいきみ工学こうがくをしておおくの工学こうがくうえ一頭地いっとうちを抽(ぬき)んでしめたのであります。くん工学こうがくきみ自身じしんえきせずして国家こっか社会しゃかい民衆みんしゅうとを永久えいきゅうえきしたのであります。広井ひろいくん工学こうがくキリスト教きりすときょうてき紳士しんし工学こうがくでありました。」とべた[3]墓所はかしょ多磨たま霊園れいえん

1929ねん昭和しょうわ4ねん)10がつ小樽おたるこう見下みおろす公園こうえん序幕じょまくされたいさむ胸像きょうぞうは、戦時せんじちゅう金属きんぞく供出きょうしゅつによって撤去てっきょされたが、1953ねん昭和しょうわ28ねん彫刻ちょうこく中野なかのいちによるものとして再建さいけん1999ねん平成へいせい11ねん)8がつ運河うんが公園こうえん移設いせつ序幕じょまくされて、いまも100ねんえたみずからの畢生ひっせいさく見守みまもっている。

親族しんぞく[編集へんしゅう]

栄典えいてん[編集へんしゅう]

位階いかい
勲章くんしょうとう

おも功績こうせきとう[編集へんしゅう]

広井ひろい設計せっけいした関門海峡かんもんかいきょう横断おうだん鉄道てつどうきょう実際じっさいにはトンネルが選択せんたくされたため建設けんせつされなかった

おも著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • Plate Girder Construction. Van Nostrand Science Series #95. 1888. - 在米ざいべいちゅう、26さいころ著作ちょさく
  • 築港ちっこうぜん5かん1898ねん明治めいじ31ねん)~1902ねん明治めいじ35ねん))
  • The Statically Indeterminate Stresses in Frames Commonly Used for Bridges Van Nostrand Pub. 1905 - カスチリアノの定理ていり解説かいせつしょ1915ねん改訂かいてい増補ぞうほ
  • 日本にっぽん港湾こうわん1927ねん昭和しょうわ2ねん))

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 廣井ひろいいさむちょ築港ちっこうだいいちかん序文じょぶん”. 丸善まるぜん (1898ねん). 2015ねん5がつ8にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d 苦難くなんみちみずかひらいた天才てんさい技術ぎじゅつしゃ生涯しょうがい 工学こうがく博士はかせ廣井ひろいいさむの『評伝ひょうでん』を刊行かんこうして”. 土木どぼく学会がっかい vol.88 no.9. 土木どぼく学会がっかい (2003ねん9がつ). 2015ねん5がつ8にち閲覧えつらん
  3. ^ a b 旧友きゅうゆう広井ひろいいさむくんほうむるの内村うちむら鑑三かんぞう 1928ねん昭和しょうわ3ねん)10がつ4にち
  4. ^ a b 廣井ひろいいさむにみる札幌さっぽろのう学校がっこう土木どぼく教育きょういくとわがくににおける橋梁きょうりょうがく確立かくりつ」『土木どぼく計画けいかくがく研究けんきゅう論文ろんぶんしゅう No.15』1988ねん5がつ
  5. ^ 」の系譜けいふ札幌さっぽろのう学校がっこう教育きょういく”. 2015ねん5がつ8にち閲覧えつらん
  6. ^ 札幌さっぽろのう学校がっこうにおける土木どぼく教育きょういく」『高等こうとう教育きょういくジャーナル─高等こうとう教育きょういく生涯しょうがい学習がくしゅう─ 5(1999)』”. 2015ねん5がつ8にち閲覧えつらん
  7. ^ 秋田あきた県立けんりつ博物館はくぶつかん秋田あきた先覚せんかく記念きねんしつ
  8. ^ a b c 日本にっぽん近代きんだい土木どぼくいしずえきずいたきよきエンジニア 広井ひろいいさむ”. うみつぶせしゃたち~日本にっぽん海洋かいよう偉人いじん列伝れつでん. 社団しゃだん法人ほうじん日本にっぽん埋立うめたて浚渫しゅんせつ協会きょうかい (2005ねん5がつ). 2015ねん5がつ8にち閲覧えつらん
  9. ^ 東京とうきょう帝國ていこく大學だいがく 學術がくじゅつ大観たいかん 工學部こうがくぶ航空こうくう研究所けんきゅうじょへん」p.68、帝國ていこく大學だいがく新聞しんぶんしゃ 1942ねん
  10. ^ a b 近代きんだい土木どぼく先駆せんく広井ひろいいさむ最大さいだい功績こうせき”. まんばんほう (2013ねん2がつ8にち). 2015ねん5がつ8にち閲覧えつらん
  11. ^ 向学こうがく新聞しんぶん 現代げんだい日本にっぽん源流げんりゅう 広井ひろいいさむ 高潔こうけつ無私むし人格じんかく 札幌さっぽろのう学校がっこう洗礼せんれい”. NPO国際こくさい留学生りゅうがくせい協会きょうかい (1898ねん). 2015ねん5がつ8にち閲覧えつらん
  12. ^ 高崎たかさき哲郎てつろうやまかいてきょ工学こうがく博士はかせ広井ひろいいさむ生涯しょうがい』、鹿島かしま出版しゅっぱんかい、2003ねん、pp.230-233
  13. ^ 官報かんぽうだい2252ごう大正たいしょう9ねん2がつ7にち
  14. ^ 北海道ほっかいどうさん大名だいみょうきょうをごぞんじ? 豊平とよひらきょうあさひきょう幣舞ぬさまいきょう”. 北海道ほっかいどうファンマガジン. PNG Office (2008ねん3がつ13にち). 2015ねん1がつ6にち閲覧えつらん
  15. ^ 官報かんぽうだい2545ごう叙任じょにん及辞れい」1891ねん12月22にち
  16. ^ 官報かんぽうだい2072ごう叙任じょにん及辞れい」1919ねん7がつ2にち
  17. ^ 官報かんぽうだい5098ごう叙任じょにん及辞れい」1900ねん7がつ2にち
  18. ^ 官報かんぽうだい6148ごう叙任じょにん及辞れい」1903ねん12月28にち
  19. ^ 官報かんぽうだい1200ごう叙任じょにん及辞れい」1916ねん7がつ31にち
  20. ^ 官報かんぽうだい1499ごう付録ふろく辞令じれい」1931ねん12月28にち

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]