(Translated by https://www.hiragana.jp/)
函館港 - Wikipedia コンテンツにスキップ

函館はこだてこう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
函館はこだてこう
函館はこだてこう(2012ねん7がつ
所在地しょざいち
くに 日本の旗 日本にっぽん
所在地しょざいち 北海道ほっかいどう函館はこだて
座標ざひょう 北緯ほくい4148ふん26.0びょう 東経とうけい14042ふん38.0びょう / 北緯ほくい41.807222 東経とうけい140.710556 / 41.807222; 140.710556 (函館はこだてこう)座標ざひょう: 北緯ほくい4148ふん26.0びょう 東経とうけい14042ふん38.0びょう / 北緯ほくい41.807222 東経とうけい140.710556 / 41.807222; 140.710556 (函館はこだてこう)
詳細しょうさい
開港かいこう 1859ねん7がつ1にち安政あんせい6ねん6月2にち
管理かんりしゃ 函館はこだて港湾こうわん空港くうこう
種類しゅるい 重点じゅうてん港湾こうわん重要じゅうよう港湾こうわん[1][2]
泊地はくち面積めんせき 1,599,031m²[3]
面積めんせき 2,293ha[4]
埠頭ふとうすう 公共こうきょう56、専用せんよう18[5]
統計とうけい
統計とうけい年度ねんど 2017ねん
発着はっちゃくすう 12,458(うちこう:12,240、そとこう:218)[6]
貨物かもつ取扱とりあつかいりょう 42,657トン[6]
旅客りょかくすう 512,337にん[7]
公式こうしきサイト 港湾こうわん空港くうこう | 函館はこだて
西にし防波堤ぼうはていふくつつみ

函館はこだてこう(はこだてこう)は、北海道ほっかいどう函館はこだて位置いちしている港湾こうわん港湾こうわん管理かんりしゃ函館はこだて港湾こうわんほううえ重要じゅうよう港湾こうわんみなとそくほううえ特定とくていこう指定していされている。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

函館はこだてこう渡島ととう半島はんとう南端なんたん位置いちし、津軽海峡つがるかいきょうめんしたみさきによって形成けいせいされた良港りょうこうで、海水かいすいふか湾入わんにゅうしてともえじょうをなしているためふるくは「ともえこう」といわれた[8]1859ねん安政あんせい6ねん)に横浜よこはまこう長崎ながさきこうとともに日本にっぽん国内こくない最初さいしょ貿易ぼうえきこう交易こうえきこう)として開港かいこうし、運上うんじょうしょ税関ぜいかんもうけられた[9]函館はこだてこう整備せいび1801ねんとおる元年がんねん)から江戸えど幕府ばくふ高田屋たかだや嘉兵衛かへえなどにより埋立うめたておこなわれたのがはじまりとされており[10]以後いご北海道ほっかいどう本州ほんしゅうむす交通こうつう要衝ようしょう北洋ほくよう漁業ぎょぎょう基地きちみなととして発展はってんしてきたが、200海里かいり漁業ぎょぎょう専管せんかん水域すいいき規則きそく青函せいかんトンネル開通かいつうによる青函せいかん連絡れんらくせん廃止はいしにより港湾こうわん計画けいかく改訂かいてい[9]バブル以降いこう社会しゃかい情勢じょうせい変化へんかによりふたた港湾こうわん計画けいかく改訂かいていし、みちみなみ流通りゅうつう拠点きょてんこう地域ちいき特性とくせいかした水産すいさん海洋かいようかんする学術がくじゅつ研究けんきゅう拠点きょてん観光かんこう都市としとしてウォーターフロント整備せいびすすめている[9]

係留けいりゅう施設しせつ

[編集へんしゅう]

函館はこだて管理かんり

[編集へんしゅう]
  • 西にしとう
    • D岸壁がんぺき
    • E岸壁がんぺき
    • F岸壁がんぺき
  • 海岸かいがんまち2ごう
    • ふねためだい1岸壁がんぺき
    • ふねためだい2岸壁がんぺき
  • 海岸かいがんまち4ごう
    • ふねため正面しょうめん岸壁がんぺき
    • ふねため南側みなみがわ岸壁がんぺき
    • ふねためだい1岸壁がんぺき
    • ふねためだい2岸壁がんぺき
    • ふねためだい3岸壁がんぺき
  • 豊川とよかわとう岸壁がんぺき
  • 若松わかまつとう
  • 中央ちゅうおうとう
    • 南側みなみがわ岸壁がんぺき
    • 北側きたがわだい1岸壁がんぺき
    • 北側きたがわだい2岸壁がんぺき
    • 北側きたがわだい3岸壁がんぺき
    • 正面しょうめん岸壁がんぺき
  • まんだいとう
    • 南側みなみがわだい1岸壁がんぺき
    • 南側みなみがわだい2岸壁がんぺき
    • 正面しょうめん岸壁がんぺき
    • 北側きたがわだい1岸壁がんぺき
    • 北側きたがわだい2岸壁がんぺき
  • きたとう
    • 南側みなみがわ岸壁がんぺき
    • 正面しょうめん岸壁がんぺき
    • 北側きたがわ岸壁がんぺき
    • B岸壁がんぺき
    • A岸壁がんぺき
  • 港町みなとちょうとう
    • A岸壁がんぺき
    • B岸壁がんぺき
  • 弁天べんてん
    • A岸壁がんぺき
    • B岸壁がんぺき
  • 港町みなとちょう地区ちく係船けいせんくい

民間みんかん管理かんり

[編集へんしゅう]

定期ていき航路こうろ

[編集へんしゅう]

フェリー航路こうろ

[編集へんしゅう]

コンテナ航路こうろ

[編集へんしゅう]

港湾こうわん関係かんけい官公かんこうしょ

[編集へんしゅう]

歴史れきし

[編集へんしゅう]

開港かいこう以前いぜん

[編集へんしゅう]

函館湾はこだてわん一帯いったいはかつて「宇須うずがん」(うすけし、アイヌで「わんはし」という意味いみ)とばれ、よんろく中波ちゅうはおだやかでありふねつな必要ひつようもないため、「あみらずのみなと」ともいわれていた[12]1454ねんとおるとく3ねん)、津軽つがる豪族ごうぞく河野こうのまさしどおり宇須うずがんたてみちみなみじゅうかんひとつ)をきず[13]かたちはこていることから「はこかん」とばれるようになった[14]

鎌倉かまくら時代ときよ末期まっきから室町むろまち時代ときよにかけては安東あんどう活躍かつやくによって津軽つがるじゅうさんみなと中継ちゅうけいして交易こうえきおこなわれていたが[15]渡島ととう半島はんとう沿岸えんがんしょかんきずかれて群雄割拠ぐんゆうかっきょとなると蝦夷えぞから直接ちょくせつ若狭わかさこく方面ほうめんへの交易こうえきおこなわれるようになった[16]交易こうえき和人わじん渡来とらいおおくなるとアイヌとの平等びょうどう格差かくさ顕著けんちょとなり、1457ねん長禄ちょうろく元年がんねん)にアイヌが蜂起ほうきしてコシャマインのたたか[17][18]1512ねんえいただし9ねん)にふたたびアイヌの蜂起ほうきこる[19]。これらにより蝦夷えぞ和人わじん中心ちゅうしん福島ふくしま松前まさき)や上ノ国かみのくにへとうつった[19]。その蠣崎かきざき松前まさき)が蝦夷えぞ掌握しょうあくした[20]

江戸えど時代じだいになると松前まさきはん亀田かめだ蝦夷えぞ和人わじんさかいとして、アイヌと和人わじん紛争ふんそうける対策たいさくをとった[21]。このころはこかん地方ちほう中心ちゅうしん亀田かめだであったが[22]亀田かめだみなと亀田川かめだがわ河口かこうにありすなどろ流入りゅうにゅうしてみなとめるため、大船おおぶねはこかんはいるようになり、次第しだい住民じゅうみんはこかんうつっていった[12]松前まさきはん場所ばしょ請負うけおいせいはじめて発達はったつすると交易こうえき活発かっぱつになり、ひがし蝦夷えぞまではこかん商人しょうにん掌握しょうあくするようになり、コンブなどの産物さんぶつはこかんみなと集荷しゅうかされていった[23]1739ねんもとぶん4ねん)の記録きろくでははこかん廻船かいせん寄港きこうして繁昌はんじょうし、奥羽おううもっと波浪はろうおだやかなみなとのためひがしまわ廻船かいせん北前きたまえせん)が天候てんこう様子見ようすみをしていたという[24]。このため亀田かめだにあった亀田かめだ番所ばんしょ1741ねんひろし元年がんねん)にはこかん移設いせつされ、おきくち業務ぎょうむおこなわれた(『蝦夷えぞとう奇観きかん』によると移設いせつ1747ねんのべとおる4ねん)とされている)。さらに、1785ねん天明てんめい5ねん)には長崎ながさきたわらぶつ会所かいしょたわらぶつ役所やくしょとなってはこかん会所かいしょ設置せっちされ、はこかん北国きたぐににおけるたわらぶつ集荷しゅうか拠点きょてんとなった[25]

19世紀せいきはいると1801ねんとおる元年がんねん)にうち澗町に掘割ほりわりきり)をもう[26]1803ねんとおる3ねん)に地蔵じぞうまち海中かいちゅう遠浅とおあさ埋立うめたて[26]1804ねん文化ぶんか元年がんねん)にはしま竣工しゅんこうして造船ぞうせんしょもうけられるなど[26]人工じんこう港湾こうわんがいちはや造成ぞうせいされた[26]1811ねん文化ぶんか8ねん)にはおきくち番所ばんしょもうけられた。はこかん拠点きょてんとし蝦夷えぞ御用ごようていやとい船頭せんどうにも任命にんめいされた高田屋たかだや嘉兵衛かへえ択捉えとろふ航路こうろ開発かいはつおこな[27]ちょく制度せいど廃止はいしとなってふたた場所ばしょ請負うけおいせいとなる択捉えとろふのほかに根室ねむろ幌泉ほろいずみなどの場所ばしょ請負うけお[28]、「ゴローニン事件じけん」での多大ただいなる貢献こうけんなど豪商ごうしょうとして周辺しゅうへん地域ちいき平和へいわ発展はってん寄与きよした。

開港かいこうから太平洋戦争たいへいようせんそうまで

[編集へんしゅう]
1891ねん函館はこだてこう風景ふうけい
1930ねんごろ函館はこだてこう

1854ねん3月31にちよしみひさし7ねん3月3にち)に「日米にちべい和親わしん条約じょうやく」が締結ていけつマシュー・ペリー (Matthew Calbraith Perry) は旗艦きかん以下いか5かんひきいて同年どうねん5月17にち4がつ21にち)にはこかんみなと入港にゅうこうして測量そくりょうなどをおこなった。このさい複数ふくすう乗組のりくみいんはこかんイベリア半島はんとう先端せんたんジブラルタルがよくているとの印象いんしょうけたという[29]よく1855ねん安政あんせい2ねん)、薪水しんすい食料しょくりょう補給ほきゅうこうとしてはこかん使用しようされることになったため、江戸えど幕府ばくふはこかん付近ふきん直轄ちょっかつりょうとしてはこかん奉行ぶぎょうき、みなと防衛ぼうえい外交がいこうのために奉行ぶぎょうしょ移転いてんすすめた。本格ほんかくてき貿易ぼうえきのための開港かいこうではないので外国がいこくじんとの交易こうえき行為こうい禁止きんしされていたが[30]外国がいこくせん入港にゅうこうはじまると実質じっしつてき物品ぶっぴん売買ばいばいけることは困難こんなんであった[30]1859ねん安政あんせい6ねん)、はこかん奉行ぶぎょう外国がいこくじん居留きょりゅうのため大町おおまち埋立うめたて着手ちゃくしゅし、周辺しゅうへん個人こじんにより埋立うめたておこなわれた[26]同年どうねん7がつ1にち6月2にち)、「安政あんせいカ国かこく条約じょうやく」により開港かいこうして貿易ぼうえきはじまるが、横浜よこはまこう長崎ながさきこう比較ひかくすると貿易ぼうえきがくけっしてたかくはなかった[31]。その、コンブを中心ちゅうしんとした海産物かいさんぶつおもきよしけて輸出ゆしゅつしていた[32]

明治めいじになると戊辰戦争ぼしんせんそう勃発ぼっぱつはこかんわんはこかん戦争せんそう戦場せんじょうとなる。1869ねん明治めいじ2ねん)、明治めいじ政府せいふ蝦夷えぞ直轄ちょっかつして開拓かいたく使所管しょかんとし、はこかんを「函館はこだて」と改称かいしょうはこかんみなとも「函館はこだてこう」と改称かいしょうする。1879ねん明治めいじ12ねん)から港湾こうわん整備せいび調査ちょうさおこなわれた。当時とうじ内務省ないむしょう技師ぎしローウェンホルスト・ムルデル (Anthonie Thomas Lubertus Rouwenhorst Mulder) の提言ていげんもとづき、亀田川かめだがわ津軽海峡つがるかいきょうめんする大森おおもりはま付替つけかえ、すなどろみなとへの流入りゅうにゅうふせいだ。同年どうねん開拓かいたく使三菱みつびし会社かいしゃ三菱みつびし財閥ざいばつ)に青函せいかん航路こうろ運営うんえい委託いたくしたが貨物かもつあつかいなどの評判ひょうばんわるく、1882ねん明治めいじ15ねん)に開拓かいたく使廃止はいしされてのう商務省しょうむしょう移管いかんふね北海道ほっかいどう運輸うんゆ会社かいしゃ貸与たいよされた。同年どうねん北海道ほっかいどう運輸うんゆ合併がっぺい共同きょうどう運輸うんゆ会社かいしゃ設立せつりつして青函せいかん航路こうろ開設かいせつすると、三菱みつびしとのあいだはげしい競争きょうそうきた。共倒ともだおれの懸念けねんなどから政府せいふ仲裁ちゅうさいはいり、1885ねん明治めいじ18ねん)9がつ両社りょうしゃ合併がっぺいして日本郵船にっぽんゆうせん設立せつりつされた。

1896ねん明治めいじ29ねん)から函館はこだてこう本格ほんかく整備せいびはじまり、港内こうない浚渫しゅんせつ砂防さぼうつつみ防波堤ぼうはてい灯台とうだい設置せっちうめてによる埠頭ふとう建設けんせつなどがおこなわれた。この工事こうじ一環いっかんとして整備せいびされた広井ひろいいさむ手掛てがけた石積いしつ防波堤ぼうはてい函館はこだて漁港ぎょこう船入ふないり澗(ふないりま)防波堤ぼうはてい」は北海道ほっかいどう最初さいしょ近代きんだい港湾こうわん施設しせつといわれ、「函館はこだてこう改良かいりょう施設しせつぐん」として「土木どぼく学会がっかい選奨せんしょう土木どぼく遺産いさん」に選定せんていされている[33]にち戦争せんそうのち締結ていけつした「ポーツマス条約じょうやく」(にち講和こうわ条約じょうやく)により樺太からふと獲得かくとくし、ロシア日本海にほんかいオホーツクかいリング海りんぐかい沿岸えんがん漁業ぎょぎょうけん日本にっぽんもとくみすると、函館はこだてこうりょう漁業ぎょぎょう策源地さくげんちとしての地位ちい確立かくりつした[34]1908ねん明治めいじ41ねん)には青森あおもりこうとのあいだ日本にっぽん国有こくゆう鉄道てつどう国鉄こくてつ)の青函せいかん連絡れんらくせん開設かいせつ1921ねん大正たいしょう10ねん)に蟹工船かにこうせん操業そうぎょう開始かいしとなり、1927ねん昭和しょうわ2ねん)にさけますおき工船こうせん操業そうぎょう開始かいしするなど、大正たいしょうから昭和しょうわせん前期ぜんきにかけては北洋ほくよう漁業ぎょぎょう基地きちとしての全盛期ぜんせいきむかえた[34]1932ねん昭和しょうわ7ねん)には西にし埠頭ふとう供用きょうよう開始かいし[35]若松わかまつ埠頭ふとう有川ありかわ埠頭ふとう青函せいかん連絡れんらくせん発着はっちゃくくわわったことで機能きのうたかまった[36]太平洋戦争たいへいようせんそうだい世界せかい大戦たいせん)の只中ただなかには北海道ほっかいどう石炭せきたん本州ほんしゅう輸送ゆそうする役割やくわりたしたが、1945ねん昭和しょうわ20ねん)7がつべいぐんによる北海道ほっかいどう空襲くうしゅうではきゃく貨船4せき貨物かもつせん6せき沈没ちんぼつし、2せき損傷そんしょうした[37]。なお、空襲くうしゅう以前いぜんに2せき海難かいなん事故じこ沈没ちんぼつしており、壊滅かいめつ状態じょうたいであった[37]

戦後せんごから現代げんだい

[編集へんしゅう]

1951ねん昭和しょうわ26ねん)に「重要じゅうよう港湾こうわん」に指定していされるとともに「港湾こうわん運送うんそう事業じぎょうほう」が適用てきようされ、「出入国しゅつにゅうこく管理かんりれい」にもとづいて出入国しゅつにゅうこくみなとに、「検疫けんえきほう」にもとづいて検疫けんえきこう指定していされている。1952ねん昭和しょうわ27ねん)に北洋ほくよう漁業ぎょぎょう再開さいかいされるとサケマスりょうなどがおこなわれたが、1977ねん昭和しょうわ52ねん)に「排他はいたてき経済けいざい水域すいいき」が設定せっていされると北洋ほくよう漁業ぎょぎょう基地きちとしての役割やくわりおおきく衰退すいたいした[38]。なお、昭和しょうわ20年代ねんだいからイカとイカを原料げんりょうとしたスルメの工業こうぎょう成長せいちょうし、「函館はこだて」ブランドが確立かくりつされている[39][40]1953ねん昭和しょうわ28ねん)に港湾こうわん管理かんりしゃ函館はこだてとなる[35]1954ねん昭和しょうわ29ねん)には台風たいふう15ごうのち洞爺とうやまる台風たいふう命名めいめい)の影響えいきょうにより洞爺とうやまる事故じこ発生はっせいだい惨事さんじとなった[41]1959ねん昭和しょうわ34ねん)に中央ちゅうおう埠頭ふとう供用きょうよう開始かいし[35]1964ねん昭和しょうわ39ねん)に大間だいまこう1967ねん昭和しょうわ42ねん)に青森あおもりこうとのあいだみち南海なんかいうん東日本ひがしにっぽんフェリー津軽海峡つがるかいきょうフェリー)のフェリー就航しゅうこう1974ねん昭和しょうわ49ねん)にまんだい埠頭ふとう供用きょうよう開始かいしした。

1984ねん昭和しょうわ59ねん)に函館はこだて地域ちいきが「テクノポリス」に指定していされると地域ちいき企業きぎょう技術ぎじゅつ高度こうど企業きぎょう立地りっちなどをすすめてきた[40]1988ねん昭和しょうわ63ねん)に青函せいかんトンネル開通かいつうして青函せいかん連絡れんらくせん廃止はいしされると、「国際こくさい観光かんこう都市とし宣言せんげん」をおこなって観光かんこう都市としへの転換てんかんはかった。同年どうねん青森あおもりと『青函せいかんトンネル開通かいつう記念きねん博覧はくらんかい』を開催かいさい駐車ちゅうしゃじょうとして利用りようされたみどりしまは、中央ちゅうおう埠頭ふとうきた埠頭ふとう万代ばんだい埠頭ふとう造成ぞうせいともな港内こうない浚渫しゅんせつ結果けっかによる土砂どしゃによる人工じんこうとう1991ねん平成へいせい3ねん竣工しゅんこう[42])であり、1996ねん平成へいせい8ねん)から一般いっぱん開放かいほうしている[43]1997ねん平成へいせい9ねん)に函館はこだてこう物流ぶつりゅう円滑えんかつはかるため函館はこだて湾岸わんがん大橋おおはし(ともえ大橋おおはし)が開通かいつう2002ねん平成へいせい14ねん)と2003ねん平成へいせい15ねん)には港町みなとちょう地区ちくにそれぞれ水深すいしん14 mと12 mの岸壁がんぺき供用きょうよう開始かいししている。また、地域ちいき特性とくせいかしたまちづくりにむため、2003ねん平成へいせい15ねん)に「函館はこだて国際こくさい水産すいさん海洋かいよう都市とし構想こうそう」を策定さくてい[40]文部もんぶ科学かがくしょうの「都市としエリア産学さんがくかん連携れんけい促進そくしん事業じぎょう」、構造こうぞう改革かいかく特別とくべつ区域くいき「マリン・フロンティア科学かがく技術ぎじゅつ研究けんきゅう特区とっく」に選定せんていされ、共同きょうどう研究けんきゅう国際こくさいてき研究けんきゅう交流こうりゅう促進そくしんはかった[40]2012ねん平成へいせい24ねん)に弁天べんてん地区ちく西にしとうみどりしま大町おおまち地区ちく)・あかレンガ倉庫そうこぐん末広すえひろ地区ちく)・函館はこだて朝市あさいち若松わかまつ地区ちく)のエリアが「みなとオアシス」に登録とうろくされた[44]2014ねん平成へいせい26ねん)には弁天べんてん地区ちく函館はこだて国際こくさい水産すいさん海洋かいよう総合そうごう研究けんきゅうセンターが開設かいせつした[45]2017ねん平成へいせい29ねん)には函館はこだてこう幹線かんせん臨港りんこう道路どうろ全線ぜんせん開通かいつうしている[46]函館はこだて青函せいかん連絡れんらくせん記念きねんかん摩周ましゅうまるがある若松わかまつとうは、クルーズ客船きゃくせん専用せんよう岸壁がんぺきとして整備せいびしており、暫定ざんてい供用きょうようしている[47]

ギャラリー

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 国土こくど交通省こうつうしょう重点じゅうてん港湾こうわんに32道府県どうふけんの43こう選定せんてい” (PDF). 日本港運協会にほんこううんきょうかい (2010ねん8がつ4にち). 2015ねん7がつ26にち閲覧えつらん
  2. ^ 国際こくさい戦略せんりゃくこう国際こくさい拠点きょてんこう重要じゅうよう港湾こうわん一覧いちらん” (PDF). 内閣ないかく. 2016ねん3がつ5にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2015ねん7がつ28にち閲覧えつらん
  3. ^ 被覆ひふくない泊地はくち面積めんせき”. 北海道開発ほっかいどうかいはつきょく. 2016ねん3がつ5にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2015ねん7がつ26にち閲覧えつらん
  4. ^ 港湾こうわん区域くいき面積めんせき”. 北海道ほっかいどう開発かいはつきょく. 2016ねん3がつ5にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2015ねん7がつ26にち閲覧えつらん
  5. ^ かくみなとべつ水深すいしんべつ岸壁がんぺき延長えんちょう、バースすう”. 北海道ほっかいどう開発かいはつきょく. 2013ねん4がつ7にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2015ねん7がつ26にち閲覧えつらん
  6. ^ a b 函館はこだてこう統計とうけい年報ねんぽう 2017, p. 7.
  7. ^ 函館はこだてこう統計とうけい年報ねんぽう 2017, p. 20.
  8. ^ 函館はこだてこう統計とうけい年報ねんぽう 2013, p. 1.
  9. ^ a b c 函館はこだてこう要覧ようらん 2014.
  10. ^ 函館はこだてこう港湾こうわん計画けいかく 2005, p. 1.
  11. ^ 利用りようじょうきょう”. 函館はこだてこう港町みなとちょうとうコンテナヤード. 2019ねん7がつ15にち閲覧えつらん
  12. ^ a b 函館はこだて, pp. 350–351通説つうせつへんだい1かん だい3へん 古代こだい中世ちゅうせい近世きんせい
  13. ^ 福山ふくやま
  14. ^ 函館はこだて概要がいよう” (PDF). 函館はこだて. 2015ねん7がつ9にち閲覧えつらん
  15. ^ 函館はこだて, pp. 331–332通説つうせつへんだい1かん だい3へん 古代こだい中世ちゅうせい近世きんせい
  16. ^ 函館はこだて, pp. 332–333通説つうせつへんだい1かん だい3へん 古代こだい中世ちゅうせい近世きんせい
  17. ^ 函館はこだて, pp. 334–335通説つうせつへんだい1かん だい3へん 古代こだい中世ちゅうせい近世きんせい
  18. ^ しん記録きろく
  19. ^ a b 函館はこだて, pp. 335–336通説つうせつへんだい1かん だい3へん 古代こだい中世ちゅうせい近世きんせい
  20. ^ 函館はこだて, pp. 336–339通説つうせつへんだい1かん だい3へん 古代こだい中世ちゅうせい近世きんせい
  21. ^ 函館はこだて, pp. 347–348通説つうせつへんだい1かん だい3へん 古代こだい中世ちゅうせい近世きんせい
  22. ^ 津軽つがる一統かずのりこころざし
  23. ^ 函館はこだて, pp. 356–358通説つうせつへんだい1かん だい3へん 古代こだい中世ちゅうせい近世きんせい
  24. ^ 北海ほっかい随筆ずいひつ
  25. ^ 函館はこだて, pp. 376–379通説つうせつへんだい1かん だい3へん 古代こだい中世ちゅうせい近世きんせい
  26. ^ a b c d e 函館はこだて, pp. 562–563通説つうせつへんだい2かん だい4へん ばこかんから近代きんだい都市とし函館はこだて
  27. ^ 函館はこだて, pp. 448–449通説つうせつへんだい1かん だい3へん 古代こだい中世ちゅうせい近世きんせい
  28. ^ 函館はこだて, pp. 450–451通説つうせつへんだい1かん だい3へん 古代こだい中世ちゅうせい近世きんせい
  29. ^ 『ペリー艦隊かんたい日本にっぽん遠征えんせい
  30. ^ a b 函館はこだて, pp. 609–611通説つうせつへんだい1かん だい3へん 古代こだい中世ちゅうせい近世きんせい
  31. ^ 函館はこだて, pp. 624–625通説つうせつへんだい1かん だい3へん 古代こだい中世ちゅうせい近世きんせい
  32. ^ 函館はこだて, pp. 709–711通説つうせつへんだい2かん だい4へん ばこかんから近代きんだい都市とし函館はこだて
  33. ^ 函館はこだてこう改良かいりょう施設しせつぐん船入ふないり防波堤ぼうはていだい1ごういぬいドック)”. 土木どぼく学会がっかい. 2015ねん7がつ28にち閲覧えつらん
  34. ^ a b 函館はこだて, pp. 9–10通説つうせつへんだい3かん だい5へんだい函館はこだて」そのひかりかげ
  35. ^ a b c 開港かいこう150周年しゅうねんむかえた函館はこだてこう 2009.
  36. ^ 函館はこだて, pp. 507–508通説つうせつへんだい3かん だい5へんだい函館はこだて」そのひかりかげ
  37. ^ a b 函館はこだて, pp. 476通説つうせつへんだい4かん だい6へん 戦後せんご函館はこだてあゆ
  38. ^ 函館はこだて, pp. 36–38通説つうせつへんだい4かん だい6へん 戦後せんご函館はこだてあゆ
  39. ^ 函館はこだて, pp. 28–29通説つうせつへんだい4かん だい6へん 戦後せんご函館はこだてあゆ
  40. ^ a b c d 函館はこだて国際こくさい水産すいさん海洋かいよう都市とし構想こうそうかか産官学さんかんがく連携れんけい促進そくしん方策ほうさく考察こうさつ 2004, p. 6.
  41. ^ 汽船きせん洞爺とうやまる遭難そうなん事件じけん”. 海難かいなん審判しんぱんしょ. 2015ねん7がつ28にち閲覧えつらん
  42. ^ 函館はこだて, pp. 474–475通説つうせつへんだい4かん だい6へん 戦後せんご函館はこだてあゆ
  43. ^ みどりしま”. 北海道ほっかいどう開発かいはつきょく函館はこだて開発かいはつ建設けんせつ. 2015ねん10がつ7にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2015ねん7がつ28にち閲覧えつらん
  44. ^ みなとオアシス函館はこだて”. 北海道ほっかいどう開発かいはつきょく. 2019ねん7がつ15にち閲覧えつらん
  45. ^ 函館はこだて国際こくさい水産すいさん海洋かいよう総合そうごう研究けんきゅうセンター”. 函館はこだて国際こくさい水産すいさん海洋かいよう都市とし推進すいしん機構きこう. 2015ねん7がつ27にち閲覧えつらん
  46. ^ 臨港りんこう道路どうろ開通かいつう 物流ぶつりゅう効率こうりつ渋滞じゅうたい解消かいしょう期待きたい”. 函館はこだてみちみなみ地域ちいきポータルサイト e-HAKODATE (2017ねん3がつ26にち). 2017ねん4がつ1にち閲覧えつらん
  47. ^ 函館はこだてこう 若松わかまつとう”. 北海道ほっかいどう開発かいはつきょく函館はこだて開発かいはつ建設けんせつ. 2019ねん7がつ14にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]