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馬場 ばば 辰猪 たつい
馬場 ばば 辰猪 たつい (ばば たつい、嘉 よしみ 永 ひさし 3年 ねん 5月15日 にち (1850年 ねん 6月24日 にち ) - 明治 めいじ 21年 ねん (1888年 ねん )11月1日 にち )は、日本 にっぽん の武士 ぶし (土佐 とさ 藩 はん 士 し )、思想家 しそうか 、政論 せいろん 家 か 。民権 みんけん 思想家 しそうか として藩閥 はんばつ 政府 せいふ と対立 たいりつ 、最 もっと も急進 きゅうしん 的 てき で国粋 こくすい 的 てき な『國友 くにとも 会 かい 』を組織 そしき した人物 じんぶつ 。諱 いみな は氏 し 保 ほ (うじやす)、通称 つうしょう として辰猪 たつい を称 しょう す。
嘉 よしみ 永 なが 3年 ねん (1850年 ねん )、土佐 とさ 藩士 はんし ・馬場 ばば 来 らい 八 はち (小姓 こしょう 組 ぐみ 格 かく 、のち馬 うま 廻 まわり 役 やく )の二男 じなん として土佐 とさ 国 こく 高知 こうち 城 じょう 下中島 しもなかしま 町 まち に生 う まれる。藩校 はんこう 「文武 ぶんぶ 館 かん 」で学 まな び、江戸 えど 留学 りゅうがく の藩 はん 命 いのち を受 う けて慶応 けいおう 2年 ねん (1866年 ねん )、鉄砲 てっぽう 洲 しゅう にあった中津 なかつ 藩 はん 邸 やしき の福沢 ふくさわ 塾 じゅく (後 ご の慶應義塾 けいおうぎじゅく )で政治 せいじ 史 し 、経済 けいざい 学 がく を学 まな ぶ。その後 ご 、長崎 ながさき に赴 おもむ いて長崎 ながさき 英語 えいご 伝習 でんしゅう 所 しょ にてオランダ人 じん 宣教師 せんきょうし グイド・フルベッキ に英語 えいご を習 なら う。明治 めいじ 2年 ねん (1869年 ねん )、慶應義塾 けいおうぎじゅく に戻 もど り、のちに教師 きょうし も務 つと める。明治 めいじ 3年 ねん 7月 がつ 12日 にち (1870年 ねん 8月 がつ 8日 にち )、土佐 とさ 藩 はん の留学生 りゅうがくせい として真辺 まなべ 正 ただし 精 せい 、国澤 くにさわ 新九郎 しんくろう 、深尾 ふかお 貝 かい 作 さく 、松井 まつい 正水 まさみ らとイギリス に留学 りゅうがく し、海軍 かいぐん や法学 ほうがく について学 まな ぶ。師 し の福沢 ふくさわ 諭吉 ゆきち からは、「帰国 きこく 後 ご は、我 わ がネーションのデスチニーを御 ご 担当 たんとう 成 な られたく、祈 いの り奉 まつ り候 こう 」と絶大 ぜつだい な期待 きたい を寄 よ せられていた。馬場 ばば は明治 めいじ 初期 しょき の最 もっと も祝福 しゅくふく された新 しん 知識 ちしき 人 じん であり、日本 にっぽん の将来 しょうらい のために広 ひろ く西欧 せいおう の精神 せいしん を学 まな び取 と り、同時 どうじ に日本 にっぽん の現状 げんじょう に対 たい する西欧 せいおう の理解 りかい を求 もと めようという使命 しめい 感 かん に充 み たされていた。出身 しゅっしん 藩 はん の垣根 かきね を取 と り払 はら うべく、小野 おの 梓 あずさ と「日本人 にっぽんじん 学生 がくせい 会 かい 」を組織 そしき するが、明治 めいじ 7年 ねん (1874年 ねん )に帰国 きこく 。翌年 よくねん 、岩倉 いわくら 使節 しせつ 団 だん の一員 いちいん として再 ふたた び渡 わたり 英 すぐる し、イギリス滞在 たいざい 中 ちゅう に政府 せいふ 留学生 りゅうがくせい となる。留学 りゅうがく 中 ちゅう 、1873年 ねん 出版 しゅっぱん の『ELEMENTARY GRAMMAR OF THE JAPANESE LANGUAGE WITH EASY PROGRESSIVE EXERCISES』(日本語 にほんご 文典 ぶんてん )の序文 じょぶん にて、森 もり 有礼 ありのり の国語 こくご 英語 えいご 化 か 論 ろん を批判 ひはん し、日本語 にほんご 論争 ろんそう などのちに「国語 こくご 国字 こくじ 問題 もんだい 」とよばれるものに発展 はってん し、大槻 おおつき 文彦 ふみひこ の『言 げん 海 うみ 』や前島 まえじま 密 ひそか らの漢字 かんじ 論 ろん などと共 とも に「国語 こくご 」以前 いぜん の日本語 にほんご 論争 ろんそう の先駆 さきが けとなった。1875年 ねん 10月 がつ ロンドンで『The English in Japan : what a Japanese thought and thinks about them』を刊行 かんこう 。1876年 ねん 9月 がつ ロンドンで『The Treaty between Japan and England』(日 にち 英 えい 条約 じょうやく 論 ろん )刊行 かんこう 。不平等 ふびょうどう 条約 じょうやく が英国 えいこく の名誉 めいよ を傷付 きずつ けているとし、平等 びょうどう 条約 じょうやく の制定 せいてい を訴 うった える。ミドルテンプルの法学 ほうがく 院 いん で星 ほし 亨 とおる と共 とも に学 まな んだが、馬場 ばば のような知的 ちてき エリートを嫌 きら う星 ほし とはそりが合 あ わず、その出会 であい は議論 ぎろん の果 は ての掴 つか み合 あ いの喧嘩 けんか に終 お わり、それきり交際 こうさい は無 な かったという。日本人 にっぽんじん 初 はつ のバリスタ(法廷 ほうてい 弁護士 べんごし )資格 しかく 取得 しゅとく 者 しゃ となった星 ほし をよそに、馬場 ばば はバリスタ取得 しゅとく 課程 かてい 修了 しゅうりょう を放棄 ほうき している。その後 ご 、フランス にも赴 おもむ いた。イギリス留学 りゅうがく 中 ちゅう 、土佐 とさ 藩 はん イギリス留学生 りゅうがくせい らの団長 だんちょう を務 つと める真辺 まなべ 正 ただし 精 せい と決闘 けっとう を行 おこな い、真辺 まなべ を負傷 ふしょう させている。明治 めいじ 11年 ねん (1878年 ねん )に帰国 きこく 。この留学 りゅうがく で辰猪 たつい の思想 しそう の中核 ちゅうかく となる言論 げんろん 思想 しそう の自由 じゆう 、「公 おおやけ 議 ぎ 輿論 よろん 」の重要 じゅうよう さを学 まな んだ。
同 おな じ土佐 とさ 出身 しゅっしん で、共 とも に英国 えいこく 留学 りゅうがく した小野 おの 梓 あずさ や中江 なかえ 兆民 ちょうみん らと共 とも に『朝野 あさの 新聞 しんぶん 』などで民権 みんけん 思想 しそう を日本 にっぽん に紹介 しょうかい し、共存 きょうぞん 同 どう 衆 しゅう を結成 けっせい 、交詢社 こうじゅんしゃ の活動 かつどう に参加 さんか 。政府 せいふ により共存 きょうぞん 同 どう 衆 しゅう が抑圧 よくあつ され、末広 すえひろ 重恭 しげやす らとともに「国友 くにとも 会 かい 」などの組織 そしき を立 た ち上 あ げる。明治 めいじ 12年 ねん (1879年 ねん )から同 どう 13年 ねん (1880年 ねん )頃 ごろ 、共存 きょうぞん 同 どう 衆 しゅう の金子 かねこ 堅太郎 けんたろう ・島田 しまだ 三郎 さぶろう らと共 とも に『私 わたし 擬 なずらえ 憲法 けんぽう 意見 いけん 』を起草 きそう した。法律 ほうりつ 学 がく による啓蒙 けいもう 活動 かつどう に従事 じゅうじ し、国友 くにとも 会 かい を基盤 きばん に自由 じゆう 民権 みんけん 運動 うんどう の理論 りろん 的 てき 指導 しどう 者 しゃ となった。明治 めいじ 12年 ねん (1879年 ねん )、交詢社 こうじゅんしゃ 創設 そうせつ 委員 いいん として社則 しゃそく 規則 きそく などに参画 さんかく し、明治 めいじ 14年 ねん (1881年 ねん )、明治 めいじ 義 ぎ 塾 じゅく (三菱 みつびし 商業 しょうぎょう 学校 がっこう )創立 そうりつ に参加 さんか した。有司 ゆうし 専制 せんせい を直接 ちょくせつ 批判 ひはん せず、民心 みんしん を改革 かいかく し不 ふ 覊独立 どくりつ にして、社会 しゃかい 共同 きょうどう の公益 こうえき を経営 けいえい する力量 りきりょう を備 そな えた「国民 こくみん 」の創造 そうぞう を目指 めざ した。しかしその穏健 おんけん な活動 かつどう も明治 めいじ 13年 ねん の集会 しゅうかい 条例 じょうれい の拡大 かくだい 解釈 かいしゃく により妨 さまた げられ、政府 せいふ との対決 たいけつ の前面 ぜんめん に押 お し出 だ され自由党 じゆうとう 結成 けっせい に参加 さんか 。明治 めいじ 14年 ねん の自由党 じゆうとう 結党 けっとう 大会 たいかい で、後藤 ごとう 象二 しょうじ 郎 ろう に次 つ ぐ副 ふく 議長 ぎちょう に選出 せんしゅつ されて議事 ぎじ 運営 うんえい に当 あ たり、常 つね 議員 ぎいん となる。明治 めいじ 15年 ねん (1882年 ねん )6月 がつ 、『自由 じゆう 新聞 しんぶん 』を創刊 そうかん して主筆 しゅひつ となり、「社会 しゃかい の改良 かいりょう を希望 きぼう し、国家 こっか の大難 だいなん を排 はい す」革命 かくめい の必然 ひつぜん を説 と く。同年 どうねん 9月 がつ 板垣 いたがき 退助 たいすけ の外遊 がいゆう を批判 ひはん するが、板垣 いたがき から自由 じゆう 新聞 しんぶん 社員 しゃいん (主筆 しゅひつ )・党 とう 常 つね 議員 ぎいん を解任 かいにん され、離党 りとう 、演説 えんぜつ 会 かい を主催 しゅさい する。
明治 めいじ 16年 ねん (1883年 ねん )、警視総監 けいしそうかん ・樺山 かばやま 資 し 紀 き から東京 とうきょう での政治 せいじ 演説 えんぜつ の禁止 きんし を申 もう し渡 わた される(6ヶ月 かげつ 間 あいだ )。その後 ご は著作 ちょさく 活動 かつどう に入 はい るが、加波山 かばさん 事件 じけん に関 かん して「露 ろ 国 こく 虚無 きょむ 党 とう の利器 りき と称 しょう する所 ところ のダイナマイト 」に着目 ちゃくもく し、明治 めいじ 18年 ねん (1885年 ねん )11月21日 にち に横浜 よこはま ・山手 やまて のモリソン商會 しょうかい で「ダイナマイトは売 う っているか」と尋 たず ねたため、密偵 みってい に発見 はっけん され検挙 けんきょ 。爆発 ばくはつ 物 ぶつ 取締 とりしまり 罰則 ばっそく 違反 いはん に問 と われて、大石 おおいし 正巳 まさみ と共 とも に逮捕 たいほ される。翌年 よくねん 6月 がつ 2日 にち 、公判 こうはん で無罪 むざい 判決 はんけつ を受 う けた後 のち 、6月12日 にち 、大石 おおいし とともに日本 にっぽん を立 た ち、アメリカ に亡命 ぼうめい する。(大石 おおいし はその後 ご 帰国 きこく し、憲政 けんせい 党内 とうない 閣 かく の大臣 だいじん などを歴任 れきにん 。)アメリカでは「日本 にっぽん の監獄 かんごく 」など、精力 せいりょく 的 てき に政府 せいふ 批判 ひはん の新聞 しんぶん 投稿 とうこう や講演 こうえん を行 おこな う。駐米 ちゅうべい 公使 こうし としてアメリカにいた陸奥 むつ 宗光 むねみつ を訪 たず ね、帰国 きこく を促 うなが される。
しかし病苦 びょうく と貧苦 ひんく に耐 た え切 き れず、遺作 いさく となった「日本 にっぽん の政情 せいじょう 」を書 か き上 あ げ、明治 めいじ 21年 ねん (1888年 ねん )11月、肺結核 はいけっかく と肺炎 はいえん のためフィラデルフィア のペンシルヴァニア大学 だいがく 病院 びょういん で死去 しきょ 。享年 きょうねん 38。最期 さいご を看取 みと ったのは、岩崎 いわさき 久弥 ひさや と林 はやし 民雄 たみお だった。辰猪 たつい の墓 はか は、ウッドランド墓地 ぼち にある。上野 うえの の寛永寺 かんえいじ 谷中 たになか 墓地 ぼち にも、墓碑 ぼひ がある。
井上 いのうえ 痴 ち 遊 ゆう によれば、演説 えんぜつ の巧 たく みなことこの人 ひと 以上 いじょう のものはなく、三 さん 時 じ 間 あいだ も四 よん 時 じ 間 あいだ も立 た ち続 つづ けに捲 まく し立 た てる雄弁 ゆうべん は実 じつ に偉 えら いものであり、民衆 みんしゅう の前 まえ に雄弁 ゆうべん 法 ほう の研究 けんきゅう を公 おおやけ にしたのは馬場 ばば が最初 さいしょ であったという。真 しん に西洋 せいよう の学説 がくせつ として自由 じゆう の理 り を釈 しゃく 説 せつ したのも最初 さいしょ であったが、惜 お しいかな漢学 かんがく の力 ちから に乏 とぼ しく著書 ちょしょ に見 み るべきものは残 のこ っていないという。(『国会 こっかい 開設 かいせつ と政党 せいとう 秘話 ひわ 上 うえ 』
明治 めいじ 29年 ねん (1896年 ねん )11月2日 にち 、谷中 たになか 天王寺 てんのうじ で辰猪 たつい の没後 ぼつご 8周年 しゅうねん 祭 さい が催 もよお され、福沢 ふくさわ 諭吉 ゆきち 、荘田 しょうだ 平五郎 へいごろう 、金子 かねこ 堅太郎 けんたろう 、田口 たぐち 卯吉 うきち 、渡辺 わたなべ 洪 ひろし 基 もと 、中上川 なかみがわ 彦次郎 ひこじろう 、矢野 やの 文雄 ふみお 、尾崎 おざき 行雄 ゆきお 、犬 いぬ 養 やしなえ 毅 あつし 、中江 なかえ 兆民 ちょうみん 、大石 おおいし 正巳 まさみ ら福沢 ふくさわ に連 つら なる140名 めい ほどが参列 さんれつ した[ 3] 。
『日本語 にほんご 文典 ぶんてん 初歩 しょほ 』(滞 とどこお 英 えい 中 ちゅう の1873年 ねん 9月 がつ にロンドンで刊行 かんこう )(An Elementary Grammar of the Japanese Language )
『日本 にっぽん におけるイギリス人 じん 』
『日 にち 英 えい 条約 じょうやく 改正 かいせい 論 ろん 』
『雄弁 ゆうべん 法 ほう 』
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