アポロ7号 ごう は、1968年 ねん にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく によって実行 じっこう された有人 ゆうじん 宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 計画 けいかく である。アポロ計画 けいかく において、飛行 ひこう 士 し を宇宙 うちゅう に送 おく るのはこれが初 はじ めてのことであった。また1967年 ねん に発生 はっせい した、三 さん 人 にん の宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 士 し の命 いのち を奪 うば ったアポロ1号 ごう の火災 かさい 事故 じこ の後 のち 、アメリカが有人 ゆうじん 宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 計画 けいかく を再開 さいかい して地球 ちきゅう 周回 しゅうかい 低 てい 軌道 きどう 上 うえ に人間 にんげん を送 おく るのも、これが初 はじ めてであった。アポロ初 はつ の有人 ゆうじん 宇宙 うちゅう 飛行 ひこう はAS-204の計画 けいかく 番号 ばんごう を当 あ てられていたアポロ1号 ごう が行 おこな うはずだったが、代 か わりに7号 ごう が、1号 ごう が行 おこな う予定 よてい であった任務 にんむ を引 ひ き継 つ ぐこととなった。船長 せんちょう はウォルター・シラー 、司令 しれい 船 せん 操縦 そうじゅう 士 し はドン・エイゼル 、月 つき 着陸 ちゃくりく 船 せん 操縦 そうじゅう 士 し はウォルター・カニンガム であった。
この計画 けいかく は「Cタイプミッション」と呼 よ ばれるもので、1号 ごう の火災 かさい 事故 じこ ののち大幅 おおはば に設計 せっけい を見直 みなお された「ブロック2」と呼 よ ばれるアポロ司令 しれい ・機械 きかい 船 せん に飛行 ひこう 士 し を搭乗 とうじょう させ、11日間 にちかん の地球 ちきゅう 周回 しゅうかい 飛行 ひこう の試験 しけん を行 おこな うものであった。またサターンIB型 がた ロケット を使 つか って一 いち 度 ど に三 さん 人 にん の飛行 ひこう 士 し を宇宙 うちゅう に送 おく り、さらに宇宙 うちゅう 空間 くうかん からアメリカ全土 ぜんど にテレビ中継 ちゅうけい を行 おこな うのも、これが初 はじ めての試 こころ みだった。
7号 ごう は1968年 ねん 10月11日 にち 、フロリダ州 しゅう のケープカナベラル空軍 くうぐん 基地 きち 第 だい 34発射 はっしゃ 施設 しせつ から打 う ち上 あ げられた。飛行 ひこう 中 ちゅう 、管制 かんせい 官 かん と飛行 ひこう 士 し の関係 かんけい は一時 いちじ 険悪 けんあく な状態 じょうたい に陥 おちい ったものの、技術 ぎじゅつ 的 てき に見 み れば計画 けいかく は完全 かんぜん に成功裏 せいこうり に終了 しゅうりょう し、NASA はこの2ヶ月 かげつ 後 ご に行 おこな われる予定 よてい であった月 つき を周回 しゅうかい するアポロ8号 ごう の計画 けいかく 実行 じっこう への自信 じしん を深 ふか めることとなった。しかしながら3人 にん の乗組 のりくみ 員 いん たちの宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 士 し としてのキャリアは、1968年 ねん 10月 がつ 22日 にち に大西 おおにし 洋 ひろし 上 うえ に着水 ちゃくすい した瞬間 しゅんかん に終 お わりを告 つ げた。またケープカナベラル空軍 くうぐん 基地 きち から次 つぎ に有人 ゆうじん 宇宙船 うちゅうせん が打 う ち上 あ げられたのは56年 ねん 後 ご のBoe-CFT (2024年 ねん 6月5日 にち 打 う ち上 あ げ)である。
このチームはもともと、アポロ1号 ごう のバックアップ・クルーだった。
予備 よび 搭乗 とうじょう 員 いん [ 編集 へんしゅう ]
トーマス・スタッフォード 、(ジェミニ6-A号 ごう , ジェミニ9-A号 ごう , アポロ10号 ごう , アポロ・ソユーズテスト計画 けいかく )、船長 せんちょう
ジョン・ヤング 、(ジェミニ3号 ごう , ジェミニ10号 ごう , アポロ10号 ごう , アポロ16号 ごう , STS-1 , STS-9 )、司令 しれい 船 せん パイロット
ユージン・サーナン 、(ジェミニ9-A号 ごう , アポロ10号 ごう , アポロ17号 ごう )、月 つき 着陸 ちゃくりく 船 せん パイロット
アポロ7号 ごう の発射 はっしゃ
7号 ごう は試験 しけん 飛行 ひこう であり、アポロ計画 けいかく 遂行 すいこう への自信 じしん を構築 こうちく するためのものであった。1967年 ねん の火災 かさい 事故 じこ の後 のち 、司令 しれい 船 せん は大幅 おおはば に設計 せっけい を見直 みなお された。新型 しんがた 宇宙船 うちゅうせん の、いわば慣 な らし運転 うんてん とも言 い えるこの地球 ちきゅう 周回 しゅうかい 飛行 ひこう の指揮 しき をとったのは、マーキュリー 、ジェミニ 、アポロの三 みっ つの有人 ゆうじん 宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 計画 けいかく すべてに搭乗 とうじょう した経験 けいけん を持 も つ唯一 ゆいいつ の飛行 ひこう 士 し である、ウォルター・シラーであった[1] 。
搭乗 とうじょう 員 いん たちは生命 せいめい 維持 いじ 装置 そうち ・推進 すいしん システム・誘導 ゆうどう および制御 せいぎょ システムの試験 しけん を、この「オープンミッション」と呼 よ ばれる期間 きかん 中 ちゅう に行 おこな うことになっていた。オープンミッションとは、各 かく 試験 しけん は合格 ごうかく と判定 はんてい された後 のち もさらに延長 えんちょう して行 おこな われることがあり、最大 さいだい 11日 にち まで軌道 きどう 上 じょう にとどまるというものであった[2] 。7号 ごう は地球 ちきゅう 周回 しゅうかい 低 てい 軌道 きどう を飛行 ひこう し、月 つき 着陸 ちゃくりく 船 せん を使用 しよう しないものであったため、発射 はっしゃ 用 よう のロケットにはより大型 おおがた で強力 きょうりょく なサターン5型 がた ロケット ではなく、サターンIBが使用 しよう された[3] 。
マーキュリー計画 けいかく とジェミニ計画 けいかく で宇宙船 うちゅうせん 発射 はっしゃ チームの責任 せきにん 者 しゃ を務 つと めたのは、マクドネル・エアクラフト 社 しゃ の技術 ぎじゅつ 者 しゃ ギュンター・ウェント (Guenter Wendt) で、発射 はっしゃ の際 さい の宇宙船 うちゅうせん の状態 じょうたい に関 かん するすべての責任 せきにん を負 お っていた。彼 かれ はシラーたち宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 士 し の尊敬 そんけい と信頼 しんらい を勝 か ち得 え ていた[4] が、宇宙船 うちゅうせん 製作 せいさく の契約 けいやく 企業 きぎょう がマクドネル社 しゃ からロックウェル・インターナショナル 社 しゃ に変更 へんこう されたことにより、アポロ1号 ごう においてはウェントは責任 せきにん 者 しゃ ではなくなっていた[5] 。だがシラーはウェントをアポロ計画 けいかく の発射 はっしゃ チームの責任 せきにん 者 しゃ に復活 ふっかつ させることを断固 だんこ として望 のぞ んでいたため、上司 じょうし のドナルド・スレイトン に対 たい し、マクドネル社 しゃ からウェントを引 ひ き抜 ぬ くようロックウェル社 しゃ を説得 せっとく してほしいとかけあった。一方 いっぽう でウェントもロ社 しゃ に対 たい して密 ひそ かにロビー活動 かつどう をして、自分 じぶん の勤務 きんむ を夜勤 やきん から日勤 にっきん に変更 へんこう してもらったりしていた。このような背景 はいけい もあり、アポロ計画 けいかく ではウェントが発射 はっしゃ チームの責任 せきにん 者 しゃ に復活 ふっかつ することとなった[5] 。発射 はっしゃ の際 さい 、飛行 ひこう 士 し たちが宇宙船 うちゅうせん のハッチが閉 し まる直前 ちょくぜん に見 み るのはウェントの顔 かお だった。またエイゼルは7号 ごう の発射 はっしゃ 直後 ちょくご に、無線 むせん を通 とお して「ギュンター・ウェントはどこにいるんだ? (I vonder vere Guenter Vendt? = I wonder where Gunter Vendt?)」と、ドイツ 訛 なま りの英語 えいご で冗談 じょうだん を言 い ったりしていた[5] 。
軌道 きどう 上 じょう での作業 さぎょう [ 編集 へんしゅう ]
ランデブー 実験 じっけん の際 さい に撮影 さつえい された、第 だい 二 に 段 だん ロケットS-IVB 。右 みぎ 上 じょう の保護 ほご パネルが、他 た のものと同 おな じ角度 かくど に開 ひら いていないことに注目 ちゅうもく 。
宇宙船 うちゅうせん が軌道 きどう に投入 とうにゅう され、第 だい 二 に 段 だん ロケットS-IVB から分離 ぶんり された後 のち 、飛行 ひこう 士 し たちは姿勢 しせい 制御 せいぎょ 用 よう ロケットを噴射 ふんしゃ して宇宙船 うちゅうせん の向 む きを180度 ど 反転 はんてん させ、S-IVBを目標 もくひょう にしてランデブー とドッキング のシミュレーションを行 おこな った。月 つき 飛行 ひこう の際 さい には、このときに着陸 ちゃくりく 船 せん とのドッキングが行 おこな われる。ところがこのとき、保護 ほご パネルの一 ひと つが正規 せいき の45度 ど の位置 いち まで開 ひら ききっていなかった。管制 かんせい 官 かん のトム・スタッフォード (Tom Stafford) はこのとき、ジェミニ9号 ごう で発生 はっせい した似 に たような事態 じたい を思 おも い出 だ していた。ドッキング訓練 くんれん のために打 う ち上 あ げられていた無人 むじん のアジェナ衛星 えいせい のフェアリングが完全 かんぜん に開 ひら ききっていなかったため、ドッキングが実施 じっし できなかったのである。実際 じっさい の月 つき 飛行 ひこう のときにこのような事態 じたい が発生 はっせい したら、着陸 ちゃくりく 船 せん を格納庫 かくのうこ から抽出 ちゅうしゅつ するのが困難 こんなん になるのは明白 めいはく だった (着陸 ちゃくりく 船 せん はこの保護 ほご パネルの中 なか に格納 かくのう される)。このため8号 ごう からは、パネルは完全 かんぜん に分離 ぶんり して投棄 とうき されるように仕様 しよう が変更 へんこう された[6] 。
宇宙船 うちゅうせん の機器 きき 類 るい およびすべての作業 さぎょう は何 なに の問題 もんだい もなく進行 しんこう した。またアポロ宇宙船 うちゅうせん を月 つき 軌道 きどう に投入 とうにゅう したり、あるいは月 つき 軌道 きどう から地球 ちきゅう に帰還 きかん する際 さい に重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たす機械 きかい 船 せん の主 しゅ エンジン (Service Propulsion System, SPS。機械 きかい 船 せん 推進 すいしん システム) は合計 ごうけい 8回 かい の燃焼 ねんしょう 試験 しけん を行 おこな い、推力 すいりょく の誤差 ごさ は1パーセント以内 いない に収 おさ まった。
サターンIBロケットは非常 ひじょう にスムーズに発射 はっしゃ されたのに対 たい し、SPSは最初 さいしょ に噴射 ふんしゃ した瞬間 しゅんかん に激 はげ しい揺 ゆ れを発生 はっせい した。心 しん の準備 じゅんび ができていなかったシラー船長 せんちょう は「ヤバダバドゥー! (Yabbadabbadoo!)」と、原始 げんし 家族 かぞく フリントストーン を真似 まね して奇声 きせい を発 はっ した。エイゼル飛行 ひこう 士 し はこのときの様子 ようす を、「本当 ほんとう に後 うし ろから蹴 け とばされたようだった」と述 の べた[7] 。
アポロ宇宙船 うちゅうせん は、それ以前 いぜん のマーキュリー宇宙船 うちゅうせん やジェミニ宇宙船 うちゅうせん に比 くら べるとかなり大型 おおがた のもので、飛行 ひこう 士 し たちは船内 せんない をある程度 ていど 移動 いどう することができた (マーキュリーとジェミニでは、飛行 ひこう 士 し は座席 ざせき に縛 しば りつけられてほとんど身動 みうご きできなかった)。そのため当初 とうしょ は、飛行 ひこう 士 し が動 うご くと宇宙船 うちゅうせん の姿勢 しせい を安定 あんてい させるのが困難 こんなん になるのではないかと懸念 けねん されていたが、それは杞憂 きゆう に過 す ぎなかった。飛行 ひこう 士 し たちは、無 む 重力 じゅうりょく の環境 かんきょう で体 からだ を動 うご かすのは「信 しん じられないほど簡単 かんたん だ」と報告 ほうこく した。また胎児 たいじ のように丸 まる まった姿勢 しせい で睡眠 すいみん をとるのは窮屈 きゅうくつ で苦痛 くつう を強 し いるものであるため、Exer-Genieというストレッチ器具 きぐ が用意 ようい されていた[6] 。
さらに彼 かれ らにはもう一 ひと つ、宇宙船 うちゅうせん 内 ない から初 はじ めて全米 ぜんべい にテレビ中継 ちゅうけい をするという任務 にんむ があった。1963年 ねん にゴードン・クーパー 飛行 ひこう 士 し がマーキュリー9号 ごう でスロースキャンカメラを使 つか って映像 えいぞう を送 おく ったことはあったが、テレビで放映 ほうえい されることはなかった[8] 。中継 ちゅうけい は飛行 ひこう 二 に 日 にち 目 め の正午 しょうご に予定 よてい されていたが、シラーはこれがランデブー実験 じっけん を阻害 そがい するのではないかと懸念 けねん していた[9] 。
宇宙 うちゅう での「反乱 はんらん 」[ 編集 へんしゅう ]
アポロ宇宙船 うちゅうせん の比較的 ひかくてき 広 ひろ い船内 せんない はジェミニに比 くら べるとより快適 かいてき なものではあったが、11日間 にちかん の飛行 ひこう は搭乗 とうじょう 員 いん たちにとって決 けっ して有益 ゆうえき なものではなく、結果 けっか 的 てき に彼 かれ らの飛行 ひこう 士 し としての経歴 けいれき に終止符 しゅうしふ を打 う たせるものとなった。
シラーとの確執 かくしつ は、飛行 ひこう 主任 しゅにん が発射 はっしゃ を決定 けってい したときから始 はじ まっていた。管制 かんせい 官 かん はロケットが上昇 じょうしょう していく初期 しょき の段階 だんかい で、万 まん が一 いち 問題 もんだい が発生 はっせい して飛行 ひこう を中止 ちゅうし するには決 けっ して理想 りそう 的 てき な状態 じょうたい ではなかったにもかかわらず発射 はっしゃ を決断 けつだん したのである。
軌道 きどう に到達 とうたつ すると、広 ひろ い船室 せんしつ は飛行 ひこう 士 し たちに宇宙 うちゅう 酔 よ い をもたらした。これは宇宙 うちゅう 開発 かいはつ の初期 しょき のころの狭 せま い宇宙船 うちゅうせん では問題 もんだい とはならなかったものだった。また彼 かれ らは食事 しょくじ のメニュー、特 とく に高 こう エネルギー補給 ほきゅう のデザートに不満 ふまん を持 も っていた。さらにゴミ収集 しゅうしゅう システムは扱 あつか いづらく (使用 しよう するのに30分 ふん かかった)、悪臭 あくしゅう を発 はっ した。しかしながら最 もっと も大 おお きな問題 もんだい は、シラーがひどい鼻風邪 はなかぜ をひいたことであった。そのため彼 かれ は管制 かんせい センターからの要求 ようきゅう にイライラするようになり、他 た の飛行 ひこう 士 し たちも管制 かんせい 官 かん に「口答 くちごた え」をし始 はじ めた。以下 いか は管制 かんせい センターが船内 せんない のテレビカメラのスイッチを入 い れるように要求 ようきゅう した際 さい に交 か わされた会話 かいわ である。
飛行 ひこう 9日 にち 目 め 、シラーが船長 せんちょう 席 せき の前 まえ にあるランデブー用 よう 窓 まど から外 そと を眺 なが める様子 ようす 。
シラー :君 くん はこの飛行 ひこう 計画 けいかく に余計 よけい なことを二 ふた つ付 つ け加 くわ えた。小便 しょうべん を船 ふね 外 がい に排出 はいしゅつ することもそうだ。そして我々 われわれ が今 いま ここに持 も っているのは新型 しんがた の乗物 のりもの だ。そして私 わたし が現時点 げんじてん で確実 かくじつ に言 い えるのは、テレビ (中継 ちゅうけい ) が何 なん ら議論 ぎろん を進 すす めることもなくランデブー の後 のち にまでずれ込 こ むだろうということだ。
管制 かんせい 官 かん (ジャック・スワイガート ) : もう一度 いちど 言 い ってくれ。
シラー :了解 りょうかい 。
管制 かんせい 官 かん 1 (ドナルド・スレイトン ) :アポロ7号 ごう 、こちらは管制 かんせい 官 かん 1だ。
シラー :了解 りょうかい 。
管制 かんせい 官 かん 1 :この件 けん で我々 われわれ のすべてが合意 ごうい したのは、スイッチをつける事 こと だ。
シラー :(……) 7号 ごう の二人 ふたり の司令 しれい 官 かん とだな。
管制 かんせい 官 かん 1 :この特別 とくべつ な行為 こうい について我々 われわれ が合意 ごうい したのは、スイッチをオンにすることだ。他 た の行為 こうい はテレビ撮影 さつえい には伴 ともな わない。我々 われわれ はまだこれ (テレビ撮影 さつえい ) をする義務 ぎむ があると思 おも うんだ。
シラー :我々 われわれ はまだ機器 きき を取 と り出 だ していないし、セッティングをする機会 きかい もなかった。現時点 げんじてん で我々 われわれ はまだ食事 しょくじ を取 と っていないし、おまけに俺 おれ は風邪 かぜ をひいているんだ。こんなやり方 かた でスケジュールを台無 だいな しにするのは拒否 きょひ する[10] 。
管制 かんせい センターと飛行 ひこう 士 し たちの関係 かんけい を悪化 あっか させることになったさらなる原因 げんいん は、シラーがくり返 がえ し「大気圏 たいきけん 再 さい 突入 とつにゅう はヘルメットをかぶらないで行 おこな うべきだ」との見解 けんかい を表明 ひょうめい したことだった (マーキュリー計画 けいかく やジェミニ計画 けいかく では、飛行 ひこう 士 し は最後 さいご までヘルメットを着用 ちゃくよう していた)。彼 かれ らは風邪 かぜ で副 ふく 鼻腔 びこう の圧力 あつりょく が高 たか まっていることにより、鼓膜 こまく が破 わ れるかもしれないという危険 きけん 性 せい を認識 にんしき していた。そのため再 さい 突入 とつにゅう の最中 さいちゅう に鼓 こ 室 しつ の圧力 あつりょく が高 たか まってきたら、鼻 はな をつまんで息 いき を抜 ぬ き、圧力 あつりょく を均等 きんとう 化 か できるようにすることを望 のぞ んでいたのである。アポロで使用 しよう されるヘルメットはそれ以前 いぜん のものとは違 ちが い、可動 かどう 型 がた のバイザーがついていない「金魚鉢 きんぎょばち 」のような構造 こうぞう であったため、ヘルメットをかぶっていてはこの行為 こうい をすることは不可能 ふかのう であった。しかしながらシラーは、飛行 ひこう 中 ちゅう はヘルメットは安全 あんぜん 上 じょう の理由 りゆう から着用 ちゃくよう しておくようにとくり返 がえ し指示 しじ されていた。この件 けん に関 かん して管制 かんせい センターと交 か わされた最後 さいご の会話 かいわ では、シラーが命令 めいれい を馬鹿 ばか にして無視 むし したような態度 たいど をとったことに対 たい して明確 めいかく な説明 せつめい をするよう、管制 かんせい 官 かん が求 もと めていた。
管制 かんせい 官 かん 1 (スレイトン) :よろしい。私 わたし が思 おも うに、君 きみ は我々 われわれ がヘルメットを着用 ちゃくよう しないで再 さい 突入 とつにゅう するということに全 まった く経験 けいけん がないということを、はっきりと理解 りかい すべきだ。
シラー :それを言 い うなら、ヘルメットを着用 ちゃくよう して帰還 きかん した経験 けいけん だってないだろう。
管制 かんせい 官 かん :それについては、我々 われわれ はすでに十分 じゅうぶん な経験 けいけん を積 つ んでいるんだ。そうだろう。
シラー :もしオープン型 がた のバイザーをしていれば、俺 おれ もそれに従 したが っていただろうさ。
管制 かんせい 官 かん :オーケー。なぜオープン型 がた のヘルメットを載 の せていなかったかについては、着陸 ちゃくりく するまでにゆっくり議論 ぎろん する準備 じゅんび をしていればいい。いずれにしても今 いま からメットを着用 ちゃくよう しないで再 さい 突入 とつにゅう を試 こころ みるのは遅 おそ すぎる。
シラー :それは承服 しょうふく しかねる。そこにいる連中 れんちゅう は我々 われわれ が今 いま かぶっているメットを自分 じぶん で着 つ けてみたことなんてないだろう。
管制 かんせい 官 かん :そうだな。
シラー :俺 おれ たちは今朝 けさ つけたんだ。
管制 かんせい 官 かん :それは分 わ かっている。我々 われわれ が唯一 ゆいいつ 懸念 けねん しているのは、着陸 ちゃくりく のことだ。確 たし かに我々 われわれ は再 さい 突入 とつにゅう に関 かん して十分 じゅうぶん に考 かんが えていなかった。だが、今 いま はそれがネックなんだ。そして我々 われわれ は君 きみ にルールを破 やぶ ってほしくないんだ。
シラー :そうかい、ありがとよ。
管制 かんせい 官 かん :以上 いじょう だ[11] 。
このような会話 かいわ は、エイゼルとカニンガムを将来 しょうらい 的 てき な飛行 ひこう 計画 けいかく からはじき出 だ す結果 けっか となった (シラーはすでにNASAから引退 いんたい することを表明 ひょうめい していた)[6] 。
大気圏 たいきけん 再 さい 突入 とつにゅう およびその後 ご の評価 ひょうか [ 編集 へんしゅう ]
着水 ちゃくすい 点 てん は北緯 ほくい 27度 ど 32分 ふん 西経 せいけい 64度 ど 04分 ふん / 北緯 ほくい 27.533度 ど 西経 せいけい 64.067度 ど / 27.533; -64.067 、バミューダ諸島 しょとう の南南西 なんなんせい 200海里 かいり (370 km)、回収 かいしゅう 船 せん エセックス の北方 ほっぽう 7 nmi (13 km)であった[6] 。
乗組 のりくみ 員 いん と管制 かんせい 官 かん の間 あいだ に問題 もんだい は発生 はっせい したものの、新型 しんがた 司令 しれい ・機械 きかい 船 せん の飛行 ひこう 試験 しけん をするという計画 けいかく 自体 じたい は成功裏 せいこうり に終了 しゅうりょう し、このわずか2ヶ月 かげつ 後 ご に予定 よてい されていた8号 ごう の月 つき 周回 しゅうかい 飛行 ひこう を押 お し進 すす めることとなった[12] 。7号 ごう はアポロ計画 けいかく において、ケープケネディ空軍 くうぐん 基地 きち の34番 ばん 発射 はっしゃ 複 ふく 合 あい 施設 しせつ から打 う ち上 あ げられた唯一 ゆいいつ の事例 じれい であった[注 ちゅう 1] 。その後 ご のアポロ計画 けいかく とスカイラブ計画 けいかく およびアポロ・ソユーズテスト計画 けいかく は、すべてケネディ宇宙 うちゅう センター の近 ちか くにある39番 ばん 発射 はっしゃ 複 ふく 合 あい 施設 しせつ から打 う ち上 あ げられた[3] 。34番 ばん 施設 しせつ は1969年 ねん に余分 よぶん なものであるとして取 と り壊 こわ されることが決定 けってい し、7号 ごう は20世紀 せいき においてケープ・カナヴェラルから打 う ち上 あ げられた最後 さいご の有人 ゆうじん 飛行 ひこう となった[3] 。2014年 ねん 現在 げんざい において、当時 とうじ の乗組 のりくみ 員 いん で存命 ぞんめい しているのはカニンガムだけである。エイゼルは1987年 ねん 、シラーは2007年 ねん に死去 しきょ している[1] [12] 。
2008年 ねん 10月 がつ 、NASAのマイケル・グリフィン (Michael D. Griffin) 長官 ちょうかん はアポロ7号 ごう の乗組 のりくみ 員 いん たちに対 たい し、アポロ計画 けいかく に多大 ただい な貢献 こうけん をしたとしてNASA功労賞 こうろうしょう (NASA's Distinguished Service Medal) を授与 じゅよ した。彼 かれ らはアポロ計画 けいかく とスカイラブ計画 けいかく において、同 どう 賞 しょう を授 さず かっていない唯一 ゆいいつ の飛行 ひこう 士 し たちであった。カニンガムはすでに逝去 せいきょ している他 ほか の飛行 ひこう 士 し およびニール・アームストロング (Neil Armstrong)、ウィリアム・アンダース (Bill Anders)、アラン・ビーン (Alan Bean) などのアポロ計画 けいかく の他 ほか の飛行 ひこう 士 し たちを代表 だいひょう して受賞 じゅしょう した。管制 かんせい センターの前 ぜん 飛行 ひこう 指揮 しき 官 かん クリストファー・クラフト (Christopher C. Kraft, Jr.) は、かつては計画 けいかく において飛行 ひこう 士 し たちと対立 たいりつ したが、祝福 しゅくふく のビデオメッセージを送 おく って以下 いか のように述 の べた。
「我々 われわれ はかつてあなたに辛 つら い時 とき を与 あた えたが、あなたはそれを見事 みごと に切 き り抜 ぬ け、それ以来 いらい 実 じつ にすばらしく過 す ごして来 きた られた…。私 わたし は素直 すなお に、誇 ほこ りを込 こ めてあなたを友人 ゆうじん と呼 よ ばせていただきたい[12] 。」
宇宙船 うちゅうせん の現在 げんざい [ 編集 へんしゅう ]
航空 こうくう 開拓 かいたく 者 しゃ 博物館 はくぶつかん (The Frontiers of Flight Museum) に展示 てんじ されている7号 ごう の司令 しれい 船 せん
1969年 ねん 1月 がつ 、7号 ごう の司令 しれい 船 せん はリチャード・ニクソン 大統領 だいとうりょう 就任 しゅうにん 式 しき のパレードで、NASAの出 だ し物 もの として展示 てんじ された。この司令 しれい 船 せん は30年 ねん 近 ちか くもの間 あいだ 、カナダ のオンタリオ州 しゅう オタワ にあるカナダ科学 かがく 技術 ぎじゅつ 博物館 はくぶつかん に、シラーが着 き た宇宙 うちゅう 服 ふく とともに2年 ねん ごとの契約 けいやく 更新 こうしん で賃貸 ちんたい されていた。2003年 ねん 11月、ワシントンD.C. のスミソニアン博物館 はくぶつかん はスティーブン・アドヴァー・ヘイジーセンター (Steven F. Udvar-Hazy Center) に新規 しんき に建 た てられた別館 べっかん に展示 てんじ するため、司令 しれい 船 せん を返却 へんきゃく してもらった。現在 げんざい はテキサス州 しゅう ダラス のダラス・ラブフィールド空港 くうこう に隣接 りんせつ する航空 こうくう 開拓 かいたく 者 しゃ 博物館 はくぶつかん に展示 てんじ されている。
計画 けいかく の記章 きしょう [ 編集 へんしゅう ]
7号 ごう の記章 きしょう は、SPSエンジンを噴射 ふんしゃ している司令 しれい 船 せん と機械 きかい 船 せん を描 えが いている。その噴射 ふんしゃ の軌跡 きせき は地球 ちきゅう を巡 めぐ っており、地球 ちきゅう を周回 しゅうかい 飛行 ひこう する計画 けいかく の目的 もくてき を象徴 しょうちょう している。南太平洋 みなみたいへいよう 上 じょう にはローマ数字 すうじ で「VII」と描 えが かれ、さらに下部 かぶ の黒 くろ いふち取 と りの中 なか には飛行 ひこう 士 し の名前 なまえ が記 しる されている。デザインをしたのは、ロックウェル・インターナショナル社 しゃ のアレン・スティーブンス (Allen Stevens) であった[13] 。
7号 ごう の計画 けいかく の一部 いちぶ は1998年 ねん に、「地球 ちきゅう から宇宙 うちゅう へ (From the Earth to the Moon)」というテレビのシリーズの中 なか で、「発射 はっしゃ 台 だい を離 はな れた (We Have Cleared the Tower.)」というタイトルでドラマ化 か された。「アポロ7号 ごう の記録 きろく (The Log of Apollo 7)」という16 じゅうろく ミリフィルム で撮影 さつえい されたドキュメンタリー映画 えいが はデジタル復元 ふくげん され、YouTube で閲覧 えつらん することが可能 かのう である[14] 。
^ 空軍 くうぐん 基地 きち は当初 とうしょ はケープ・カナベラルと命名 めいめい されていたが、1963年 ねん 11月のケネディ大統領 だいとうりょう の暗殺 あんさつ 直後 ちょくご にジョンソン大統領 だいとうりょう によってケープ・ケネディと改名 かいめい された。「カナヴェラル (Canaveral) の名称 めいしょう は1973年 ねん に元 もと に戻 もど された
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^ The Log of Apollo 7 - YouTube
水上 すいじょう での脱出 だっしゅつ 訓練 くんれん をする飛行 ひこう 士 し たち
軌道 きどう 上 じょう を漂 ただよ う7号 ごう の第 だい 2段 だん ロケット (S-IVB)
遠距離 えんきょり から撮影 さつえい したS-IVB
7号 ごう が撮影 さつえい したフロリダ半島 はんとう
帰還 きかん 後 ご 、ヘリコプターにホイスト (釣 つ り上 あ げ) される飛行 ひこう 士 し たち
空母 くうぼ エセックスで歓迎 かんげい を受 う ける飛行 ひこう 士 し たち
帰還 きかん 後 ご 、エセックス上 じょう で記念 きねん 撮影 さつえい をする飛行 ひこう 士 し たち
ロケット発射 はっしゃ 試験 しけん 緊急 きんきゅう 脱出 だっしゅつ 用 よう ロケット試験 しけん 模擬 もぎ 宇宙船 うちゅうせん 試験 しけん 無人 むじん 試験 しけん 低 てい 軌道 きどう 地球 ちきゅう 周回 しゅうかい 飛行 ひこう 月 つき 周回 しゅうかい 飛行 ひこう /月面 げつめん 着陸 ちゃくりく (*)