(Translated by https://www.hiragana.jp/)
アポロ7号 - Wikipedia コンテンツにスキップ

アポロ7ごう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
Apollo 7
7ごう司令しれい船内せんないからテレビの中継ちゅうけい映像えいぞうおく飛行ひこうたち
徽章きしょう
ミッションの情報じょうほう
ミッションめい Apollo 7
司令しれいせん CM-101
機械きかいせん SM-101
質量しつりょう 司令しれい機械きかいせん 14,781 kg
乗員じょういんすう 3 めい
コールサイン 司令しれいせん:
Apollo 7
打上うちあ サターンIB SA-205
発射はっしゃだい フロリダしゅうケープカナベラル空軍くうぐん基地きち
LC-34発射はっしゃだい
打上うちあ日時にちじ 1968ねん10月11にち
15:02:45 UTC
着陸ちゃくりくまたは着水ちゃくすい日時にちじ 1968ねん10がつ22にち
11:11:48 UTC
27° 38' N - 64° 09' W
ミッション期間きかん 10日とおか20あいだ9ふん3びょう
周回しゅうかいすう 163しゅう
遠地点えんちてん 297 km
きん地点ちてん 231 km
公転こうてん周期しゅうき 89.78 ふん
軌道きどう傾斜けいしゃかく 31.63
乗員じょういん写真しゃしん
ひだりから:アイズル、シラー、カニンガム

アポロ7ごうは、1968ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくによって実行じっこうされた有人ゆうじん宇宙うちゅう飛行ひこう計画けいかくである。アポロ計画けいかくにおいて、飛行ひこう宇宙うちゅうおくるのはこれがはじめてのことであった。また1967ねん発生はっせいした、さんにん宇宙うちゅう飛行ひこういのちうばったアポロ1ごう火災かさい事故じこのち、アメリカが有人ゆうじん宇宙うちゅう飛行ひこう計画けいかく再開さいかいして地球ちきゅう周回しゅうかいてい軌道きどううえ人間にんげんおくるのも、これがはじめてであった。アポロはつ有人ゆうじん宇宙うちゅう飛行ひこうはAS-204の計画けいかく番号ばんごうてられていたアポロ1ごうおこなうはずだったが、わりに7ごうが、1ごうおこな予定よていであった任務にんむぐこととなった。船長せんちょうウォルター・シラー司令しれいせん操縦そうじゅうドン・エイゼルつき着陸ちゃくりくせん操縦そうじゅうウォルター・カニンガムであった。

この計画けいかくは「Cタイプミッション」とばれるもので、1ごう火災かさい事故じこののち大幅おおはば設計せっけい見直みなおされた「ブロック2」とばれるアポロ司令しれい機械きかいせん飛行ひこう搭乗とうじょうさせ、11日間にちかん地球ちきゅう周回しゅうかい飛行ひこう試験しけんおこなうものであった。またサターンIBがたロケット使つかっていちさんにん飛行ひこう宇宙うちゅうおくり、さらに宇宙うちゅう空間くうかんからアメリカ全土ぜんどテレビ中継ちゅうけいおこなうのも、これがはじめてのこころみだった。

7ごうは1968ねん10月11にち、フロリダしゅうケープカナベラル空軍くうぐん基地きちだい34発射はっしゃ施設しせつからげられた。飛行ひこうちゅう管制かんせいかん飛行ひこう関係かんけい一時いちじ険悪けんあく状態じょうたいおちいったものの、技術ぎじゅつてきれば計画けいかく完全かんぜん成功裏せいこうり終了しゅうりょうし、NASAはこの2ヶ月かげつおこなわれる予定よていであったつき周回しゅうかいするアポロ8ごう計画けいかく実行じっこうへの自信じしんふかめることとなった。しかしながら3にん乗組のりくみいんたちの宇宙うちゅう飛行ひこうとしてのキャリアは、1968ねん10がつ22にち大西おおにしひろしうえ着水ちゃくすいした瞬間しゅんかんわりをげた。またケープカナベラル空軍くうぐん基地きちからつぎ有人ゆうじん宇宙船うちゅうせんげられたのは56ねんBoe-CFT2024ねん6月5にちげ)である。

搭乗とうじょういん[編集へんしゅう]

このチームはもともと、アポロ1ごうのバックアップ・クルーだった。

予備よび搭乗とうじょういん[編集へんしゅう]

支援しえん飛行ひこう[編集へんしゅう]

主要しゅよう任務にんむ[編集へんしゅう]

発射はっしゃ以前いぜん[編集へんしゅう]

アポロ7ごう発射はっしゃ

7ごう試験しけん飛行ひこうであり、アポロ計画けいかく遂行すいこうへの自信じしん構築こうちくするためのものであった。1967ねん火災かさい事故じこのち司令しれいせん大幅おおはば設計せっけい見直みなおされた。新型しんがた宇宙船うちゅうせんの、いわばらし運転うんてんともえるこの地球ちきゅう周回しゅうかい飛行ひこう指揮しきをとったのは、マーキュリージェミニ、アポロのみっつの有人ゆうじん宇宙うちゅう飛行ひこう計画けいかくすべてに搭乗とうじょうした経験けいけん唯一ゆいいつ飛行ひこうである、ウォルター・シラーであった[1]

搭乗とうじょういんたちは生命せいめい維持いじ装置そうち推進すいしんシステム・誘導ゆうどうおよび制御せいぎょシステムの試験しけんを、この「オープンミッション」とばれる期間きかんちゅうおこなうことになっていた。オープンミッションとは、かく試験しけん合格ごうかく判定はんていされたのちもさらに延長えんちょうしておこなわれることがあり、最大さいだい11にちまで軌道きどうじょうにとどまるというものであった[2]。7ごう地球ちきゅう周回しゅうかいてい軌道きどう飛行ひこうし、つき着陸ちゃくりくせん使用しようしないものであったため、発射はっしゃようのロケットにはより大型おおがた強力きょうりょくサターン5がたロケットではなく、サターンIBが使用しようされた[3]

マーキュリー計画けいかくとジェミニ計画けいかく宇宙船うちゅうせん発射はっしゃチームの責任せきにんしゃつとめたのは、マクドネル・エアクラフトしゃ技術ぎじゅつしゃギュンター・ウェント (Guenter Wendt) で、発射はっしゃさい宇宙船うちゅうせん状態じょうたいかんするすべての責任せきにんっていた。かれはシラーたち宇宙うちゅう飛行ひこう尊敬そんけい信頼しんらいていた[4] が、宇宙船うちゅうせん製作せいさく契約けいやく企業きぎょうがマクドネルしゃからロックウェル・インターナショナルしゃ変更へんこうされたことにより、アポロ1ごうにおいてはウェントは責任せきにんしゃではなくなっていた[5]。だがシラーはウェントをアポロ計画けいかく発射はっしゃチームの責任せきにんしゃ復活ふっかつさせることを断固だんことしてのぞんでいたため、上司じょうしドナルド・スレイトンたいし、マクドネルしゃからウェントをくようロックウェルしゃ説得せっとくしてほしいとかけあった。一方いっぽうでウェントもロしゃたいしてひそかにロビー活動かつどうをして、自分じぶん勤務きんむ夜勤やきんから日勤にっきん変更へんこうしてもらったりしていた。このような背景はいけいもあり、アポロ計画けいかくではウェントが発射はっしゃチームの責任せきにんしゃ復活ふっかつすることとなった[5]発射はっしゃさい飛行ひこうたちが宇宙船うちゅうせんのハッチがまる直前ちょくぜんるのはウェントのかおだった。またエイゼルは7ごう発射はっしゃ直後ちょくごに、無線むせんとおして「ギュンター・ウェントはどこにいるんだ? (I vonder vere Guenter Vendt? = I wonder where Gunter Vendt?)」と、ドイツなまりの英語えいご冗談じょうだんったりしていた[5]

軌道きどうじょうでの作業さぎょう[編集へんしゅう]

ランデブー実験じっけんさい撮影さつえいされた、だいだんロケットS-IVBみぎじょう保護ほごパネルが、のものとおな角度かくどひらいていないことに注目ちゅうもく

宇宙船うちゅうせん軌道きどう投入とうにゅうされ、だいだんロケットS-IVBから分離ぶんりされたのち飛行ひこうたちは姿勢しせい制御せいぎょようロケットを噴射ふんしゃして宇宙船うちゅうせんきを180反転はんてんさせ、S-IVBを目標もくひょうにしてランデブードッキングのシミュレーションをおこなった。つき飛行ひこうさいには、このときに着陸ちゃくりくせんとのドッキングがおこなわれる。ところがこのとき、保護ほごパネルのひとつが正規せいきの45位置いちまでひらききっていなかった。管制かんせいかんのトム・スタッフォード (Tom Stafford) はこのとき、ジェミニ9ごう発生はっせいしたたような事態じたいおもしていた。ドッキング訓練くんれんのためにげられていた無人むじんのアジェナ衛星えいせいのフェアリングが完全かんぜんひらききっていなかったため、ドッキングが実施じっしできなかったのである。実際じっさいつき飛行ひこうのときにこのような事態じたい発生はっせいしたら、着陸ちゃくりくせん格納庫かくのうこから抽出ちゅうしゅつするのが困難こんなんになるのは明白めいはくだった (着陸ちゃくりくせんはこの保護ほごパネルのなか格納かくのうされる)。このため8ごうからは、パネルは完全かんぜん分離ぶんりして投棄とうきされるように仕様しよう変更へんこうされた[6]

宇宙船うちゅうせん機器ききるいおよびすべての作業さぎょうなに問題もんだいもなく進行しんこうした。またアポロ宇宙船うちゅうせんつき軌道きどう投入とうにゅうしたり、あるいはつき軌道きどうから地球ちきゅう帰還きかんするさい重要じゅうよう役割やくわりたす機械きかいせんしゅエンジン (Service Propulsion System, SPS。機械きかいせん推進すいしんシステム) は合計ごうけい8かい燃焼ねんしょう試験しけんおこない、推力すいりょく誤差ごさは1パーセント以内いないおさまった。

サターンIBロケットは非常ひじょうにスムーズに発射はっしゃされたのにたいし、SPSは最初さいしょ噴射ふんしゃした瞬間しゅんかんはげしいれを発生はっせいした。しん準備じゅんびができていなかったシラー船長せんちょうは「ヤバダバドゥー! (Yabbadabbadoo!)」と、原始げんし家族かぞくフリントストーン真似まねして奇声きせいはっした。エイゼル飛行ひこうはこのときの様子ようすを、「本当ほんとううしろからとばされたようだった」とべた[7]

アポロ宇宙船うちゅうせんは、それ以前いぜんのマーキュリー宇宙船うちゅうせんやジェミニ宇宙船うちゅうせんくらべるとかなり大型おおがたのもので、飛行ひこうたちは船内せんないをある程度ていど移動いどうすることができた (マーキュリーとジェミニでは、飛行ひこう座席ざせきしばりつけられてほとんど身動みうごきできなかった)。そのため当初とうしょは、飛行ひこううごくと宇宙船うちゅうせん姿勢しせい安定あんていさせるのが困難こんなんになるのではないかと懸念けねんされていたが、それは杞憂きゆうぎなかった。飛行ひこうたちは、重力じゅうりょく環境かんきょうからだうごかすのは「しんじられないほど簡単かんたんだ」と報告ほうこくした。また胎児たいじのようにまるまった姿勢しせい睡眠すいみんをとるのは窮屈きゅうくつ苦痛くつういるものであるため、Exer-Genieというストレッチ器具きぐ用意よういされていた[6]

さらにかれらにはもうひとつ、宇宙船うちゅうせんないからはじめて全米ぜんべいにテレビ中継ちゅうけいをするという任務にんむがあった。1963ねんゴードン・クーパー飛行ひこうがマーキュリー9ごうでスロースキャンカメラを使つかって映像えいぞうおくったことはあったが、テレビで放映ほうえいされることはなかった[8]中継ちゅうけい飛行ひこうにち正午しょうご予定よていされていたが、シラーはこれがランデブー実験じっけん阻害そがいするのではないかと懸念けねんしていた[9]

宇宙うちゅうでの「反乱はんらん[編集へんしゅう]

アポロ宇宙船うちゅうせん比較的ひかくてきひろ船内せんないはジェミニにくらべるとより快適かいてきなものではあったが、11日間にちかん飛行ひこう搭乗とうじょういんたちにとってけっして有益ゆうえきなものではなく、結果けっかてきかれらの飛行ひこうとしての経歴けいれき終止符しゅうしふたせるものとなった。

シラーとの確執かくしつは、飛行ひこう主任しゅにん発射はっしゃ決定けっていしたときからはじまっていた。管制かんせいかんはロケットが上昇じょうしょうしていく初期しょき段階だんかいで、まんいち問題もんだい発生はっせいして飛行ひこう中止ちゅうしするにはけっして理想りそうてき状態じょうたいではなかったにもかかわらず発射はっしゃ決断けつだんしたのである。

軌道きどう到達とうたつすると、ひろ船室せんしつ飛行ひこうたちに宇宙うちゅうをもたらした。これは宇宙うちゅう開発かいはつ初期しょきのころのせま宇宙船うちゅうせんでは問題もんだいとはならなかったものだった。またかれらは食事しょくじのメニュー、とくこうエネルギー補給ほきゅうのデザートに不満ふまんっていた。さらにゴミ収集しゅうしゅうシステムはあつかいづらく (使用しようするのに30ふんかかった)、悪臭あくしゅうはっした。しかしながらもっとおおきな問題もんだいは、シラーがひどい鼻風邪はなかぜをひいたことであった。そのためかれ管制かんせいセンターからの要求ようきゅうにイライラするようになり、飛行ひこうたちも管制かんせいかんに「口答くちごたえ」をしはじめた。以下いか管制かんせいセンターが船内せんないのテレビカメラのスイッチをれるように要求ようきゅうしたさいわされた会話かいわである。

飛行ひこう9にち、シラーが船長せんちょうせきまえにあるランデブーようまどからそとながめる様子ようす

シラーくんはこの飛行ひこう計画けいかく余計よけいなことをふたくわえた。小便しょうべんふねがい排出はいしゅつすることもそうだ。そして我々われわれいまここにっているのは新型しんがた乗物のりものだ。そしてわたし現時点げんじてん確実かくじつえるのは、テレビ (中継ちゅうけい) がなん議論ぎろんすすめることもなくランデブーのちにまでずれむだろうということだ。
管制かんせいかん (ジャック・スワイガート)  : もう一度いちどってくれ。
シラー了解りょうかい
管制かんせいかん1 (ドナルド・スレイトン) :アポロ7ごう、こちらは管制かんせいかん1だ。
シラー了解りょうかい
管制かんせいかん1:このけん我々われわれのすべてが合意ごういしたのは、スイッチをつけることだ。
シラー:(……) 7ごう二人ふたり司令しれいかんとだな。
管制かんせいかん1:この特別とくべつ行為こういについて我々われわれ合意ごういしたのは、スイッチをオンにすることだ。行為こういはテレビ撮影さつえいにはともなわない。我々われわれはまだこれ (テレビ撮影さつえい) をする義務ぎむがあるとおもうんだ。
シラー我々われわれはまだ機器ききしていないし、セッティングをする機会きかいもなかった。現時点げんじてん我々われわれはまだ食事しょくじっていないし、おまけにおれ風邪かぜをひいているんだ。こんなやりかたでスケジュールを台無だいなしにするのは拒否きょひする[10]

管制かんせいセンターと飛行ひこうたちの関係かんけい悪化あっかさせることになったさらなる原因げんいんは、シラーがくりがえし「大気圏たいきけんさい突入とつにゅうはヘルメットをかぶらないでおこなうべきだ」との見解けんかい表明ひょうめいしたことだった (マーキュリー計画けいかくやジェミニ計画けいかくでは、飛行ひこう最後さいごまでヘルメットを着用ちゃくようしていた)。かれらは風邪かぜふく鼻腔びこう圧力あつりょくたかまっていることにより、鼓膜こまくれるかもしれないという危険きけんせい認識にんしきしていた。そのためさい突入とつにゅう最中さいちゅうしつ圧力あつりょくたかまってきたら、はなをつまんでいきき、圧力あつりょく均等きんとうできるようにすることをのぞんでいたのである。アポロで使用しようされるヘルメットはそれ以前いぜんのものとはちがい、可動かどうがたのバイザーがついていない「金魚鉢きんぎょばち」のような構造こうぞうであったため、ヘルメットをかぶっていてはこの行為こういをすることは不可能ふかのうであった。しかしながらシラーは、飛行ひこうちゅうはヘルメットは安全あんぜんじょう理由りゆうから着用ちゃくようしておくようにとくりがえ指示しじされていた。このけんかんして管制かんせいセンターとわされた最後さいご会話かいわでは、シラーが命令めいれい馬鹿ばかにして無視むししたような態度たいどをとったことにたいして明確めいかく説明せつめいをするよう、管制かんせいかんもとめていた。

管制かんせいかん1 (スレイトン):よろしい。わたしおもうに、きみ我々われわれがヘルメットを着用ちゃくようしないでさい突入とつにゅうするということにまった経験けいけんがないということを、はっきりと理解りかいすべきだ。
シラー:それをうなら、ヘルメットを着用ちゃくようして帰還きかんした経験けいけんだってないだろう。
管制かんせいかん:それについては、我々われわれはすでに十分じゅうぶん経験けいけんんでいるんだ。そうだろう。
シラー:もしオープンがたのバイザーをしていれば、おれもそれにしたがっていただろうさ。
管制かんせいかん:オーケー。なぜオープンがたのヘルメットをせていなかったかについては、着陸ちゃくりくするまでにゆっくり議論ぎろんする準備じゅんびをしていればいい。いずれにしてもいまからメットを着用ちゃくようしないでさい突入とつにゅうこころみるのはおそすぎる。
シラー:それは承服しょうふくしかねる。そこにいる連中れんちゅう我々われわれいまかぶっているメットを自分じぶんけてみたことなんてないだろう。
管制かんせいかん:そうだな。
シラーおれたちは今朝けさつけたんだ。
管制かんせいかん:それはかっている。我々われわれ唯一ゆいいつ懸念けねんしているのは、着陸ちゃくりくのことだ。たしかに我々われわれさい突入とつにゅうかんして十分じゅうぶんかんがえていなかった。だが、いまはそれがネックなんだ。そして我々われわれきみにルールをやぶってほしくないんだ。
シラー:そうかい、ありがとよ。
管制かんせいかん以上いじょう[11]

このような会話かいわは、エイゼルとカニンガムを将来しょうらいてき飛行ひこう計画けいかくからはじき結果けっかとなった (シラーはすでにNASAから引退いんたいすることを表明ひょうめいしていた)[6]

大気圏たいきけんさい突入とつにゅうおよびその評価ひょうか[編集へんしゅう]

着水ちゃくすいてん北緯ほくい2732ふん 西経せいけい6404ふん / 北緯ほくい27.533 西経せいけい64.067 / 27.533; -64.067バミューダ諸島しょとう南南西なんなんせい200海里かいり (370 km)、回収かいしゅうせんエセックス北方ほっぽう7 nmi (13 km)であった[6]

乗組のりくみいん管制かんせいかんあいだ問題もんだい発生はっせいしたものの、新型しんがた司令しれい機械きかいせん飛行ひこう試験しけんをするという計画けいかく自体じたい成功裏せいこうり終了しゅうりょうし、このわずか2ヶ月かげつ予定よていされていた8ごうつき周回しゅうかい飛行ひこうすすめることとなった[12]。7ごうはアポロ計画けいかくにおいて、ケープケネディ空軍くうぐん基地きちの34ばん発射はっしゃふくあい施設しせつからげられた唯一ゆいいつ事例じれいであった[ちゅう 1]。そののアポロ計画けいかくスカイラブ計画けいかくおよびアポロ・ソユーズテスト計画けいかくは、すべてケネディ宇宙うちゅうセンターちかくにある39ばん発射はっしゃふくあい施設しせつからげられた[3]。34ばん施設しせつは1969ねん余分よぶんなものであるとしてこわされることが決定けっていし、7ごう20世紀せいきにおいてケープ・カナヴェラルからげられた最後さいご有人ゆうじん飛行ひこうとなった[3]。2014ねん現在げんざいにおいて、当時とうじ乗組のりくみいん存命ぞんめいしているのはカニンガムだけである。エイゼルは1987ねん、シラーは2007ねん死去しきょしている[1][12]

7ごうのこしたもの[編集へんしゅう]

評価ひょうか[編集へんしゅう]

2008ねん10がつ、NASAのマイケル・グリフィン (Michael D. Griffin) 長官ちょうかんはアポロ7ごう乗組のりくみいんたちにたいし、アポロ計画けいかく多大ただい貢献こうけんをしたとしてNASA功労賞こうろうしょう (NASA's Distinguished Service Medal) を授与じゅよした。かれらはアポロ計画けいかくとスカイラブ計画けいかくにおいて、どうしょうさずかっていない唯一ゆいいつ飛行ひこうたちであった。カニンガムはすでに逝去せいきょしているほか飛行ひこうおよびニール・アームストロング (Neil Armstrong)、ウィリアム・アンダース (Bill Anders)、アラン・ビーン (Alan Bean) などのアポロ計画けいかくほか飛行ひこうたちを代表だいひょうして受賞じゅしょうした。管制かんせいセンターのぜん飛行ひこう指揮しきかんクリストファー・クラフト (Christopher C. Kraft, Jr.) は、かつては計画けいかくにおいて飛行ひこうたちと対立たいりつしたが、祝福しゅくふくのビデオメッセージをおくって以下いかのようにべた。

我々われわれはかつてあなたにつらときあたえたが、あなたはそれを見事みごとけ、それ以来いらいじつにすばらしくごしてきたられた…。わたし素直すなおに、ほこりをめてあなたを友人ゆうじんばせていただきたい[12]。」

宇宙船うちゅうせん現在げんざい[編集へんしゅう]

航空こうくう開拓かいたくしゃ博物館はくぶつかん (The Frontiers of Flight Museum) に展示てんじされている7ごう司令しれいせん

1969ねん1がつ、7ごう司令しれいせんリチャード・ニクソン大統領だいとうりょう就任しゅうにんしきのパレードで、NASAのものとして展示てんじされた。この司令しれいせんは30ねんちかくものあいだカナダオンタリオしゅうオタワにあるカナダ科学かがく技術ぎじゅつ博物館はくぶつかんに、シラーが宇宙うちゅうふくとともに2ねんごとの契約けいやく更新こうしん賃貸ちんたいされていた。2003ねん11月、ワシントンD.C.スミソニアン博物館はくぶつかんはスティーブン・アドヴァー・ヘイジーセンター (Steven F. Udvar-Hazy Center) に新規しんきてられた別館べっかん展示てんじするため、司令しれいせん返却へんきゃくしてもらった。現在げんざいテキサスしゅうダラスダラス・ラブフィールド空港くうこう隣接りんせつする航空こうくう開拓かいたくしゃ博物館はくぶつかん展示てんじされている。

計画けいかく記章きしょう[編集へんしゅう]

7ごう記章きしょうは、SPSエンジンを噴射ふんしゃしている司令しれいせん機械きかいせんえがいている。その噴射ふんしゃ軌跡きせき地球ちきゅうめぐっており、地球ちきゅう周回しゅうかい飛行ひこうする計画けいかく目的もくてき象徴しょうちょうしている。南太平洋みなみたいへいようじょうにはローマ数字すうじで「VII」とえがかれ、さらに下部かぶくろいふちりのなかには飛行ひこう名前なまえしるされている。デザインをしたのは、ロックウェル・インターナショナルしゃのアレン・スティーブンス (Allen Stevens) であった[13]

ドラマ[編集へんしゅう]

7ごう計画けいかく一部いちぶは1998ねんに、「地球ちきゅうから宇宙うちゅうへ (From the Earth to the Moon)」というテレビのシリーズのなかで、「発射はっしゃだいはなれた (We Have Cleared the Tower.)」というタイトルでドラマされた。「アポロ7ごう記録きろく (The Log of Apollo 7)」という16じゅうろくミリフィルム撮影さつえいされたドキュメンタリー映画えいがはデジタル復元ふくげんされ、YouTube閲覧えつらんすることが可能かのうである[14]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 空軍くうぐん基地きち当初とうしょはケープ・カナベラルと命名めいめいされていたが、1963ねん11月のケネディ大統領だいとうりょう暗殺あんさつ直後ちょくごジョンソン大統領だいとうりょうによってケープ・ケネディと改名かいめいされた。「カナヴェラル (Canaveral) の名称めいしょうは1973ねんもともどされた

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b Watkins, Thomas (2007ねん5がつ3にち). “Astronaut Walter Schirra dies at 84”. Valley Morning Star. Associated Press (Harlingen, Texas). http://www.valleymorningstar.com/news/latest_news/article_b5ab61b9-cbe9-5db5-b76f-8cfd89096919.html 2013ねん10がつ4にち閲覧えつらん 
  2. ^ Karrens, Ed (Announcer) (1968ねん). “1968 Year in Review: 1968 in Space”. UPI.com. United Press International (E. W. Scripps). http://www.upi.com/Archives/Audio/Events-of-1968/1968-in-Space 2013ねん7がつ6にち閲覧えつらん 
  3. ^ a b c Portree, David S. F. (2013-09-16). “A Forgotten Rocket: The Saturn IB”. Wired (New York: Condé Nast). http://www.wired.com/wiredscience/2013/09/a-forgotten-rocket-the-saturn-ib/ 2013ねん10がつ4にち閲覧えつらん. 
  4. ^ Pearlman, Robert Z. (2010ねん5がつ3にち). “Guenter Wendt, 86, 'Pad Leader' for NASA's moon missions, dies”. collectSPACE. Robert Pearlman. 2014ねん6がつ12にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c Farmer & Hamblin 1970, pp. 51–54
  6. ^ a b c d Wade, Mark. “Apollo 7”. Encyclopedia Astronautica. 2008ねん10がつ24にち閲覧えつらん
  7. ^ Apollo 7 Mission Report” (PDF). NASA. pp. 5–158 (1968ねん12月1にち). 2014ねん7がつ11にち閲覧えつらん
  8. ^ Steven-Boniecki 2010, pp. 55–58
  9. ^ “Schirra rules no telecast”. The Windsor Star. United Press International (Windsor, Ontario): p. 1. (1968ねん10がつ12にち). https://news.google.com/newspapers?id=UjQ_AAAAIBAJ&sjid=cVEMAAAAIBAJ&dq=apollo%207%20television%20broadcast&pg=1799%2C3226547 2013ねん10がつ6にち閲覧えつらん 
  10. ^ Apollo 7 Air-to-Ground Voice Transcriptions” (PDF). NASA. pp. 117–118. 2008ねん10がつ24にち閲覧えつらん
  11. ^ Apollo 7 Air-to-Ground Voice Transcriptions” (PDF). NASA. p. 1170. 2008ねん10がつ24にち閲覧えつらん
  12. ^ a b c Pearlman, Robert Z. (2008ねん10がつ20日はつか). “First Apollo flight crew last to be honored”. collectSPACE. Robert Pearlman. 2014ねん6がつ12にち閲覧えつらん
  13. ^ Hengeveld, Ed (2008ねん5がつ20日はつか). “The man behind the Moon mission patches”. collectSPACE. Robert Pearlman. 2013ねん7がつ6にち閲覧えつらん "A version of this article was published concurrently in the British Interplanetary Society's Spaceflight magazine." (June 2008; pp. 220–225).
  14. ^ The Log of Apollo 7 - YouTube

画像がぞう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]