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アポロ15号 ごう
計画 けいかく 名 めい
Apollo 15
宇宙船 うちゅうせん 名 めい
司令 しれい 機械 きかい 船 せん : エンデバー月 つき 着陸 ちゃくりく 船 せん : ファルコン
乗員 じょういん 数 すう
3名 めい
発射 はっしゃ 日時 にちじ
1971年 ねん 7月 がつ 26日 にち 13:34:00 (UTC )ケネディ宇宙 うちゅう センター 39番 ばん A発射 はっしゃ 台 だい
月面 げつめん 着陸 ちゃくりく
1971年 ねん 7月 がつ 30日 にち 22:16:29 (UTC)ハドレー谷 だに (北緯 ほくい 26度 ど 07分 ふん 55秒 びょう 99 東経 とうけい 3度 ど 38分 ふん 01秒 びょう 90)
月面 げつめん 船 せん 外 がい 活動 かつどう 時間 じかん
LM上 じょう 待機 たいき : 33分 ふん 07秒 びょう 1回 かい 目 め : 6時 じ 間 あいだ 32分 ふん 42秒 びょう 2回 かい 目 め : 7時 じ 間 あいだ 12分 ふん 14秒 びょう 3回 かい 目 め : 4時 じ 間 あいだ 49分 ふん 50秒 びょう 合計 ごうけい : 18時 じ 間 あいだ 34分 ふん 46秒 びょう
司令 しれい 船 せん 外 がい 活動 かつどう 時間 じかん
39分 ふん 07秒 びょう
月面 げつめん 滞在 たいざい 時間 じかん
66時 じ 間 あいだ 54分 ふん 53.9秒 びょう
標本 ひょうほん 採集 さいしゅう 量 りょう
77 kg
着水 ちゃくすい 日時 にちじ
1971年 ねん 8月 がつ 7日 にち 20:45:53 (UTC)北緯 ほくい 26度 ど 13分 ふん 西経 せいけい 158度 ど 13分 ふん
合計 ごうけい 時間 じかん
12日 にち 07時 じ 間 あいだ 11分 ふん 53秒 びょう
月 つき 周回 しゅうかい 数 すう
74周 しゅう
月 つき 周回 しゅうかい 時間 じかん
145時 じ 間 あいだ 12分 ふん 41秒 びょう 68
宇宙船 うちゅうせん 質量 しつりょう
司令 しれい 機械 きかい 船 せん : 30,370 kg月 つき 着陸 ちゃくりく 船 せん : 16,430 kg
左 ひだり から:デイヴィッド・スコット 、アルフレッド・ウォーデン 、ジェームズ・アーウィン
アポロ15号 ごう はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のアポロ計画 けいかく における4度目 どめ の月面 げつめん 着陸 ちゃくりく 飛行 ひこう である。アメリカの有人 ゆうじん 宇宙 うちゅう 飛行 ひこう は、これで8回 かい 連続 れんぞく で成功 せいこう を収 おさ めた。また月面 げつめん 車 しゃ を使用 しよう し、より長 なが い期間 きかん 月面 げつめん に滞在 たいざい して科学 かがく 的 てき 探査 たんさ に重点 じゅうてん を置 お く、いわゆるJ計画 けいかく が初 はじ めてこの飛行 ひこう で行 おこな われた。
発射 はっしゃ は1971年 ねん 7月 がつ 26日 にち 、帰還 きかん は8月 がつ 7日 にち だった。NASA は15号 ごう を、それまでに行 おこな われた中 なか で最 もっと も成功 せいこう した有人 ゆうじん 宇宙 うちゅう 飛行 ひこう であったと表明 ひょうめい した[1] 。
着陸 ちゃくりく 船 せん 「ファルコン」は、月面 げつめん 上 じょう 雨 あめ の海 うみ の中 なか の「Palus Putredinus(腐敗 ふはい の沼地 ぬまち )」と呼 よ ばれる地域 ちいき にあるハドリー山 さん に降 お り立 た った。デイヴィッド・スコット (David Scott)船長 せんちょう とジェームズ・アーウィン (James Irwin)着陸 ちゃくりく 船 せん 操縦 そうじゅう 士 し は月面 げつめん で3日間 にちかん を過 す ごし、18.5時 じ 間 あいだ の船 ふね 外 がい 活動 かつどう で77キログラム (170ポンド )のサンプルを採集 さいしゅう した。またこの飛行 ひこう では初 はじ めて月面 げつめん 車 しゃ が使用 しよう され、それまでの徒歩 とほ による探査 たんさ よりもはるかに遠 とお くまで着陸 ちゃくりく 船 せん から離 はな れることを可能 かのう にした。一方 いっぽう で司令 しれい 船 せん 「エンデバー」の操縦 そうじゅう 士 し アルフレッド・ウォーデン(Alfred Worden)は月 つき 上空 じょうくう を周回 しゅうかい しながら、機械 きかい 船 せん の科学 かがく 機器 きき 搭載 とうさい 区画 くかく (Science Instrument Module, SIM)に収納 しゅうのう されているパノラマカメラ 、ガンマ線 がんません 分光 ぶんこう 計 けい 、地図 ちず 作成 さくせい 用 よう 写真 しゃしん 機 き 、レーザー高度 こうど 計 けい 、質量 しつりょう 分析 ぶんせき 器 き などを使用 しよう して月 つき の表面 ひょうめん とその環境 かんきょう に関 かん する詳細 しょうさい な探査 たんさ をし、さらに飛行 ひこう の最終 さいしゅう 段階 だんかい ではアポロ計画 けいかく で初 はつ となる小型 こがた 衛星 えいせい の放出 ほうしゅつ を行 おこな った。
15号 ごう は当初 とうしょ の目的 もくてき を完遂 かんすい したものの、計画 けいかく 終了 しゅうりょう 後 ご にスコットたちが飛行 ひこう を記念 きねん した切手 きって をめぐってある人物 じんぶつ と非公式 ひこうしき に金銭 きんせん 的 てき な取引 とりひき をしていたことが明 あか るみに出 で て、彼 かれ らの名誉 めいよ はいささか傷 きず つくことになった。皮肉 ひにく なことにこの飛行 ひこう は初 はじ めて月面 げつめん 車 しゃ を使用 しよう したことで後 のち に記念 きねん 切手 きって が発行 はっこう されたが、これはマーキュリー計画 けいかく でアメリカ初 はつ の有人 ゆうじん 宇宙 うちゅう 飛行 ひこう が行 おこな われてからの10年間 ねんかん での数少 かずすく ない例 れい のひとつであった。
飛行 ひこう 士 し たちは3人 にん とも空軍 くうぐん の出身 しゅっしん であり、また全員 ぜんいん がミシガン大学 だいがく で名誉 めいよ 学位 がくい または修士 しゅうし 学位 がくい を授与 じゅよ されていた。スコットが名誉 めいよ 学位 がくい を授与 じゅよ されたのは1971年 ねん 春 はる で、発射 はっしゃ の1ヶ月 かげつ 前 まえ のことだった。彼 かれ はかつてミシガン大学 だいがく に在籍 ざいせき していたが、陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう からの招待 しょうたい を受 う けたために同 どう 大学 だいがく を中退 ちゅうたい していた。飛行 ひこう 士 し たちは陸軍 りくぐん または海軍兵学校 かいぐんへいがっこう で学業 がくぎょう を行 おこな っていた。
シュミットは「グループ4」と呼 よ ばれる、アポロ計画 けいかく のために選出 せんしゅつ された科学 かがく 者 しゃ を中心 ちゅうしん とする宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 士 し のメンバーの一人 ひとり であった。グループ4から月 つき に行 い ったのは彼 かれ だけで、1972年 ねん の17号 ごう で飛行 ひこう した。
ゴードン・フラートン(C. Gordon Fullerton)
ジョセフ・アレン(Joseph P. Allen)
ロバート・パーカー(Robert A. Parker)
カール・ゴードン・ヘナイズ(Karl Gordon Henize)
ジェリー・グリフィン(Gerry Griffin)、金色 きんいろ チーム主任 しゅにん
ミルトン・ウィンドラー(Milton Windler)、栗色 くりいろ チーム主任 しゅにん
グリン・ランネイ(Glynn Lunney)、黒 くろ チーム主任 しゅにん
ジーン・クランツ (Gene Kranz )、白 しろ チーム主任 しゅにん
質量 しつりょう :
発射 はっしゃ 重量 じゅうりょう :2,945,816 kg
宇宙船 うちゅうせん 総 そう 重量 じゅうりょう :46,782 kg
司令 しれい ・機械 きかい 船 せん 重量 じゅうりょう :30,354 kg、うち司令 しれい 船 せん 5840 kg、機械 きかい 船 せん 24,523 kg
着陸 ちゃくりく 船 せん 重量 じゅうりょう :16,428 kg、上 うえ 昇段 しょうだん の月面 げつめん からの発射 はっしゃ 時 じ 重量 じゅうりょう 4,951 kg
地球 ちきゅう 周回 しゅうかい 回数 かいすう :出発 しゅっぱつ 時 じ 3周 しゅう 、帰還 きかん 時 じ 約 やく 1周 しゅう
月 つき 周回 しゅうかい 回数 かいすう :74周 しゅう
司令 しれい ・機械 きかい 船 せん と着陸 ちゃくりく 船 せん のドッキング[ 編集 へんしゅう ]
スコット – 立 りつ 哨船外 がい 活動 かつどう (司令 しれい 船 せん とのドッキングトンネルから顔 かお を出 だ し、月面 げつめん を観察 かんさつ する船 ふね 外 がい 活動 かつどう )
立 たて 哨開始 かいし :7月 がつ 31日 にち 00:16:49 UTC
立 たて 哨終了 しゅうりょう :7月 がつ 31日 にち 00:49:56 UTC
時間 じかん :33分 ふん 07秒 びょう
スコットおよびアーウィン – 第 だい 1回 かい 船 せん 外 がい 活動 かつどう
第 だい 1回 かい 船 せん 外 がい 活動 かつどう 開始 かいし :7月 がつ 31日 にち 13:12:17 UTC
第 だい 1回 かい 船 せん 外 がい 活動 かつどう 終了 しゅうりょう :7月 がつ 31日 にち 19:45:59 UTC
時間 じかん :6時 じ 間 あいだ 32分 ふん 42秒 びょう
スコットおよびアーウィン – 第 だい 2回 かい 船 せん 外 がい 活動 かつどう
第 だい 2回 かい 船 せん 外 がい 活動 かつどう 開始 かいし :8月 がつ 1日 にち 11:48:48 UTC
第 だい 2回 かい 船 せん 外 がい 活動 かつどう 終了 しゅうりょう :8月 がつ 1日 にち 19:01:02 UTC
時間 じかん :7時 じ 間 あいだ 12分 ふん 14秒 びょう
スコットおよびアーウィン – 第 だい 3回 かい 船 せん 外 がい 活動 かつどう
第 だい 3回 かい 船 せん 外 がい 活動 かつどう 開始 かいし :8月 がつ 2日 にち 08:52:14 UTC
第 だい 3回 かい 船 せん 外 がい 活動 かつどう 終了 しゅうりょう :8月 がつ 2日 にち 13:42:04 UTC
時間 じかん :4時 じ 間 あいだ 49分 ふん 50秒 びょう
ウォーデン – (アーウィンが立 たて 哨し)地球 ちきゅう に中継 ちゅうけい する第 だい 4回 かい 船 せん 外 がい 活動 かつどう
第 だい 4回 かい 船 せん 外 がい 活動 かつどう 開始 かいし :8月 がつ 5日 にち 15:31:12 UTC
第 だい 4回 かい 船 せん 外 がい 活動 かつどう 終了 しゅうりょう :8月 がつ 5日 にち 16:10:19 UTC
時間 じかん :0時 じ 間 あいだ 39分 ふん 07秒 びょう
ニューメキシコ で地質 ちしつ 学 がく 的 てき 探査 たんさ の訓練 くんれん をするスコット船長 せんちょう 。1971年 ねん 3月19日 にち
スコット船長 せんちょう らは、アポロ12号 ごう では予備 よび 搭乗 とうじょう 員 いん を務 つと めていた。彼 かれ らは全員 ぜんいん 空軍 くうぐん 出身 しゅっしん であり、全員 ぜんいん が海軍 かいぐん 出身 しゅっしん だった本 ほん 搭乗 とうじょう 員 いん たちとはライバル心 しん を発揮 はっき したが、同時 どうじ に良 よ い協力 きょうりょく 関係 かんけい にあった。
15号 ごう は当初 とうしょ は12号 ごう 、13号 ごう 、14号 ごう と同様 どうよう にH計画 けいかく として飛行 ひこう する予定 よてい だったが、NASAは1970年 ねん 9月2日 にち 、アポロ計画 けいかく を17号 ごう までで終了 しゅうりょう することを発表 はっぴょう した。このため15号 ごう は計画 けいかく の効果 こうか を最大限 さいだいげん に高 たか めるべく、J計画 けいかく として飛行 ひこう することとなった。
これにより15号 ごう の訓練 くんれん も、いくつかの点 てん で変更 へんこう が加 くわ えられることになった。その中 なか の1つが地質 ちしつ 学 がく 的 てき 探査 たんさ の訓練 くんれん であった。地質 ちしつ 学 がく の探査 たんさ はそれ以前 いぜん にも行 おこな われていたが、15号 ごう は初 はじ めてこの点 てん に最 もっと も高 たか い優先 ゆうせん 度 ど を置 お く飛行 ひこう となった。スコットとアーウィンは、カリフォルニア工科 こうか 大学 だいがく の地質 ちしつ 学者 がくしゃ で特 とく に先カンブリア時代 せんかんぶりあじだい の専門 せんもん 家 か であるレオン・シルバー(Leon Silver)と共 とも に訓練 くんれん をすることになった。シルバーは宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 士 し のハリソン・シュミットから、NASAが以前 いぜん に雇 やと っていた講師 こうし の代 か わりをやらないかと打診 だしん されていた。彼 かれ は年代 ねんだい 測定 そくてい 法 ほう 、中 なか でもウラン が鉛 なまり に崩壊 ほうかい する過程 かてい を計測 けいそく することで石 いし の年代 ねんだい を特定 とくてい する手法 しゅほう の改善 かいぜん で、1950年代 ねんだい に大 おお きな貢献 こうけん をしていたのである。
当初 とうしょ シルバーは、本 ほん 搭乗 とうじょう 員 いん と予備 よび 搭乗 とうじょう 員 いん たちをアリゾナ やニューメキシコ の様々 さまざま な学問 がくもん 的 てき 研究 けんきゅう 用地 ようち に連 つ れて行 い き、普通 ふつう の地質 ちしつ 学 がく の授業 じゅぎょう のような訓練 くんれん をするつもりだったが、発射 はっしゃ が近 ちか づくにつれてその訓練 くんれん はより現実 げんじつ に近 ちか いものになっていった。飛行 ひこう 士 し たちは船 ふね 外 がい 活動 かつどう で使用 しよう する生命 せいめい 維持 いじ 装置 そうち の模型 もけい を背負 せお い、テントにいるCAPCOM(宇宙船 うちゅうせん 連絡 れんらく 員 いん )たちとウォーキートーキー で会話 かいわ した(CAPCOMは宇宙船 うちゅうせん との交信 こうしん を担当 たんとう する管制 かんせい 官 かん で、同僚 どうりょう の宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 士 し が務 つと める。また通常 つうじょう は、飛行 ひこう 士 し たちとの会話 かいわ は彼 かれ らしかすることができない)。さらにCAPCOMには、飛行 ひこう 士 し たちの発言 はつげん を地質 ちしつ 学 がく という彼 かれ らにとって不案内 ふあんない な分野 ぶんや での表現 ひょうげん に翻訳 ほんやく するための補助 ほじょ として、地質 ちしつ 学者 がくしゃ のグループが伴 ともな っていた。
ハドリー山 やま への着陸 ちゃくりく は1970年 ねん 9月 がつ に決定 けってい した。着陸 ちゃくりく 地点 ちてん の選考 せんこう 委員 いいん 会 かい は、候補 こうほ 地 ち をハドリー裂 きれ 溝 みぞ とマリウス(Marius)クレーター の2つに絞 しぼ っていた。マリウスの近 ちか くには、おそらくは溶岩 ようがん ドーム と思 おも われる低 ひく い小 しょう 丘 おか が数多 かずおお くあった。スコット船長 せんちょう は最終 さいしゅう 的 てき な決定 けってい 権 けん こそなかったものの、候補 こうほ 地 ち の選定 せんてい には大 おお きな発言 はつげん 権 けん を持 も っていた。彼 かれ にとってはハドリー山 やま を選択 せんたく した理由 りゆう は明確 めいかく で、「探検 たんけん するには最高 さいこう の場所 ばしょ 」だったからであった。
一方 いっぽう で司令 しれい 船 せん 操縦 そうじゅう 士 し のウォーデンは違 ちが う訓練 くんれん を積 つ んでいた。彼 かれ はエジプト 生 う まれの地質 ちしつ 学者 がくしゃ ファルー・エルバズ(Farouk El-Baz)と行動 こうどう を共 とも にし、司令 しれい 船 せん が月 つき を周回 しゅうかい する状況 じょうきょう を模 も して飛行機 ひこうき で訓練 くんれん 地 ち の上空 じょうくう を飛 と び、空 そら から眼下 がんか を通 とお り過 す ぎる月面 げつめん の地形 ちけい を観測 かんそく することにおいて高 たか い技術 ぎじゅつ を習得 しゅうとく した。
15号 ごう の発射 はっしゃ 。1971年 ねん 7月 がつ 26日 にち
15号 ごう は1971年 ねん 7月 がつ 26日 にち 午前 ごぜん 9時 じ 34分 ふん (米 べい 東部 とうぶ 標準時 ひょうじゅんじ )、フロリダ州 しゅう ケープ・カナベラル のケネディ宇宙 うちゅう センター から発射 はっしゃ された。打 う ち上 あ げの途中 とちゅう でサターン5型 がた ロケット 第 だい 1段 だん S-IC のロケットエンジン は、1段 だん 目 め が切 き り離 はな されたあとも4秒間 びょうかん にわたって噴射 ふんしゃ を続 つづ けた。このとき第 だい 2段 だん S-II の排気 はいき ガスはS-ICの遠隔 えんかく 操作 そうさ の機器 きき を直撃 ちょくげき していたので、まかり間違 まちが えば第 だい 1段 だん と第 だい 2段 だん が衝突 しょうとつ して打 う ち上 あ げが中止 ちゅうし されるところであった。このような不具合 ふぐあい はあったものの、第 だい 3段 だん S-IVB と宇宙船 うちゅうせん は無事 ぶじ に地球 ちきゅう 周回 しゅうかい 軌道 きどう に到達 とうたつ した。発射 はっしゃ から2時 じ 間 あいだ 後 ご 、S-IVBのエンジンが再 さい 点火 てんか され15号 ごう は地球 ちきゅう 周回 しゅうかい 軌道 きどう を離 はな れ月 つき への遷移 せんい 軌道 きどう へと投入 とうにゅう された[2] 。
発射 はっしゃ から2日 にち 後 ご 、宇宙船 うちゅうせん は月 つき の裏側 うらがわ を通過 つうか した。そこで機械 きかい 船 せん の推進 すいしん エンジン(Service Propulsion System, SPS)が6分間 ふんかん にわたって噴射 ふんしゃ され、宇宙船 うちゅうせん は第 だい 1段階 だんかい の月 つき 周回 しゅうかい 軌道 きどう に投入 とうにゅう された。近 きん 月 つき 点 てん を通過 つうか したとき、着陸 ちゃくりく 船 せん をハドリー山 さん に降下 こうか させるための適正 てきせい な軌道 きどう に修正 しゅうせい すべくSPSエンジンが再度 さいど 点火 てんか された[2] 。
15号 ごう は7月 がつ 30日 にち に月 つき 周回 しゅうかい 軌道 きどう に到達 とうたつ した。初日 しょにち のほとんどは、その後 ご に控 ひか えている着陸 ちゃくりく 船 せん 降下 こうか の準備 じゅんび に費 つい やされた。準備 じゅんび が完了 かんりょう すると司令 しれい ・機械 きかい 船 せん との切 き り離 はな しが試 こころ みられたが、ハッチの気密 きみつ 部分 ぶぶん から僅 わず かながら酸素 さんそ が漏 も れていることが確認 かくにん されたことから作業 さぎょう は一時 いちじ 中断 ちゅうだん された。地上 ちじょう からの指示 しじ で点検 てんけん が行 おこな われ、司令 しれい 船 せん 操縦 そうじゅう 士 し のウォーデンがハッチの締 し め直 なお しを行 おこな うと酸素 さんそ の漏 も れが止 と まったことから、2時 じ 間 あいだ 遅 おく れで作業 さぎょう が再開 さいかい された[3] 。スコットとアーウィンが降下 こうか の準備 じゅんび を続 つづ ける一方 いっぽう でウォーデンは司令 しれい 船 せん に残 のこ り、上空 じょうくう からの月面 げつめん 観測 かんそく を行 おこな うために高度 こうど を上 あ げ、数日 すうじつ 後 ご の同僚 どうりょう たちの帰還 きかん に備 そな えた[4] [ALSJ 1] 。
ストットとアーウィンはただちにハドリー山 やま に向 む けて降下 こうか を始 はじ めた。降下 こうか 開始 かいし から数 すう 分 ふん 後 ご 、着陸 ちゃくりく 船 せん ファルコンがピッチオーバー(姿勢 しせい を徐々 じょじょ に垂直 すいちょく 状態 じょうたい にすること)して着陸 ちゃくりく 地点 ちてん へのアプローチに入 はい ったとき、ファルコンはまだ目標 もくひょう 地点 ちてん から6キロメートルも東 ひがし にいたため、スコットは急遽 きゅうきょ 飛行 ひこう 経路 けいろ を変更 へんこう した。7月30日 にち 22時 じ 16分 ふん 29秒 びょう (UTC)、15号 ごう はハドリー山 さん に到着 とうちゃく した。着陸 ちゃくりく 地点 ちてん は、当初 とうしょ の目標 もくひょう からわずか数 すう 百 ひゃく メートルしか離 はな れていなかった。アポロ11号 ごう では、アームストロング 船長 せんちょう らは着陸 ちゃくりく 直後 ちょくご は興奮 こうふん して眠 ねむ れなかったためただちに船 ふね 外 がい 活動 かつどう を開始 かいし したが、15号 ごう では翌日 よくじつ に備 そな えて休息 きゅうそく することを選択 せんたく した。彼 かれ らはこの後 のち 、それ以前 いぜん のどの飛行 ひこう よりも長 なが い時間 じかん 月面 げつめん に滞在 たいざい し、3回 かい にわたって船 ふね 外 がい 活動 かつどう をしなければならなかったため、睡眠 すいみん のリズムを崩 くず したくなかったのである。ただし就寝 しゅうしん する前 まえ 、スコットは船内 せんない を減圧 げんあつ して上部 じょうぶ にあるドッキング用 よう ハッチを開 ひら き、そこから顔 かお を出 だ して周囲 しゅうい の写真 しゃしん 撮影 さつえい をした(立 たて 哨船外 がい 活動 かつどう )[4] [ALSJ 1] [ALSJ 2] 。
星条旗 せいじょうき の前 まえ で敬礼 けいれい するアーウィン飛行 ひこう 士 し 。1971年 ねん 8月 がつ 1日 にち
15号 ごう が採集 さいしゅう したカンラン石 せき 玄武岩 げんぶがん
彼 かれ らが就寝 しゅうしん している間 あいだ 、ヒューストン の管制 かんせい センターでは酸素 さんそ がゆっくりとだが、確実 かくじつ に漏 も れていることをずっと検知 けんち していた。宇宙船 うちゅうせん に搭載 とうさい されているコンピューターから遠隔 えんかく 測定 そくてい でデータを読 よ み出 だ すことは、その夜 よる は電力 でんりょく 節約 せつやく のために限度 げんど があり、管制 かんせい センターは飛行 ひこう 士 し たちを起 お こさなければ正確 せいかく な原因 げんいん を特定 とくてい することができなかった。結局 けっきょく スコットとアーウィンは予定 よてい よりも1時 じ 間 あいだ 早 はや く起 お こされ、酸素 さんそ 漏 も れの原因 げんいん は尿 にょう 浄化 じょうか 装置 そうち のバルブの1つが「開 ひらく 」になっていたからであることを突 つ き止 と めた。問題 もんだい 解決 かいけつ 後 ご 、飛行 ひこう 士 し たちは船 ふね 外 がい 活動 かつどう の準備 じゅんび を始 はじ めた[ALSJ 3] 。
4時 じ 間 あいだ 後 ご 、スコットとアーウィンは史上 しじょう 7番目 ばんめ と8番目 ばんめ に月面 げつめん に降 お り立 た った人間 にんげん となった。2人 ふたり は着陸 ちゃくりく 船 せん の格納庫 かくのうこ から月面 げつめん 車 しゃ を取 と り出 だ すと、最初 さいしょ の船 ふね 外 がい 活動 かつどう の目的 もくてき 地 ち であるハドリー裂 きれ 溝 みぞ の縁 えん にあるエルボー(Elbow)クレーター へと向 む かった。着陸 ちゃくりく 船 せん に戻 もど ると、「アポロ月面 げつめん 実験 じっけん 装置 そうち 群 ぐん (Apollo Lunar Surface Experiments Package, ALSEP)」を展開 てんかい した。第 だい 1回 かい 船 せん 外 がい 活動 かつどう は、およそ6時 じ 間 あいだ 半 はん で終了 しゅうりょう した[4] [ALSJ 4] 。
2日 にち 目 め の目標 もくひょう 地点 ちてん はモンス・ハドレイ・デルタ(Mons Hadley Delta)と呼 よ ばれる小山 こやま で、両 りょう 名 な はそこでアペニン山脈 さんみゃく 周辺 しゅうへん にあるクレーターで石 いし を採集 さいしゅう した。またこのとき彼 かれ らはアポロ計画 けいかく で後 のち に最 もっと も有名 ゆうめい になる、サンプル番号 ばんごう 15415番 ばん 、通称 つうしょう 「創世 そうせい 記 き の石 いし (ジェネシス・ロック)」を発見 はっけん した。着陸 ちゃくりく 船 せん に戻 もど ってからも、スコットは前日 ぜんじつ 苦労 くろう したALSEP設置 せっち 場所 ばしょ でのボーリング 作業 さぎょう に取 と り組 く んだ。土質 どしつ 力学 りきがく 的 てき 実験 じっけん を行 おこな った後 のち 、2人 ふたり は月面 げつめん に星条旗 せいじょうき を立 た て着陸 ちゃくりく 船 せん に帰還 きかん した。第 だい 2回 かい 船 せん 外 がい 活動 かつどう は7時 じ 間 あいだ 12分 ふん で終了 しゅうりょう した[4] [ALSJ 4] 。
最後 さいご となる第 だい 3日 にち 目 め の船 ふね 外 がい 活動 かつどう では、再 ふたた びハドレー裂 きれ 溝 みぞ の縁 えん を探索 たんさく した。今回 こんかい は着陸 ちゃくりく 地点 ちてん のすぐ北西 ほくせい にある場所 ばしょ が目標 もくひょう だった。着陸 ちゃくりく 船 せん のそばに戻 もど ると、スコットはテレビカメラの前 まえ で実験 じっけん を披露 ひろう した。同 おな じ重力 じゅうりょく 場 じょう の中 なか にある物 もの は、(空気 くうき 抵抗 ていこう がなければ)質量 しつりょう の大小 だいしょう に関 かか わらず同 おな じ速度 そくど で落下 らっか するという落体 らくたい の法則 ほうそく を実証 じっしょう しようとしたのである。スコットは両手 りょうて に羽根 はね とハンマーを持 も ち、同時 どうじ に手 て を離 はな した。空気 くうき 抵抗 ていこう を受 う けない月面 げつめん 上 じょう では、両者 りょうしゃ は落体 らくたい の法則 ほうそく どおり同時 どうじ に月面 げつめん に落下 らっか した。その後 ご スコットは月面 げつめん 車 しゃ を着陸 ちゃくりく 船 せん から離 はな れた場所 ばしょ に移動 いどう させた。このあと管制 かんせい 官 かん が地上 ちじょう からの遠隔 えんかく 操作 そうさ で月面 げつめん 車 しゃ に搭載 とうさい されているテレビカメラを動 うご かし、着陸 ちゃくりく 船 せん が離陸 りりく する場面 ばめん を撮影 さつえい するというのである。さらに彼 かれ は、宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 士 し 慰霊 いれい 碑 ひ を月面 げつめん に置 お いた。その表面 ひょうめん には、1971年 ねん 当時 とうじ までに命 いのち を落 お としたソ連 それん とアメリカ の宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 士 し たちの名前 なまえ が刻 きざ まれていた。第 だい 3回 かい 船 せん 外 がい 活動 かつどう は4時 じ 間 あいだ 50分 ふん で終了 しゅうりょう した[4] [ALSJ 4] 。
船 ふね 外 がい 活動 かつどう の総計 そうけい 時間 じかん は18.5時 じ 間 あいだ で、採集 さいしゅう したサンプルは合計 ごうけい で約 やく 77キログラム(170ポンド)であった[ALSJ 4] 。
パラシュート2本 ほん のみを開 ひら いて太平洋 たいへいよう に着水 ちゃくすい する15号 ごう 。1971年 ねん 8月 がつ 7日 にち
着陸 ちゃくりく から2日 にち と18時 じ 間 あいだ 後 ご 、ファルコンの上 うえ 昇段 しょうだん は月面 げつめん から離陸 りりく し、軌道 きどう 上 じょう で待機 たいき するウォーデンが乗 の る司令 しれい ・機械 きかい 船 せん とのランデブー と再 さい ドッキングを行 おこな った。採集 さいしゅう したサンプルや様々 さまざま な物品 ぶっぴん を司令 しれい 船 せん に移 うつ し替 か えた後 のち 、着陸 ちゃくりく 船 せん は切 き り離 はな され地震 じしん 観測 かんそく のため故意 こい に月面 げつめん に衝突 しょうとつ させられた。三 さん 飛行 ひこう 士 し はその後 ご も月 つき 周回 しゅうかい 軌道 きどう 上 じょう からさらなる月面 げつめん の観測 かんそく を行 おこな い、小型 こがた 衛星 えいせい を放出 ほうしゅつ した。すべての任務 にんむ が完了 かんりょう すると、軌道 きどう から脱出 だっしゅつ するためSPSエンジンを点火 てんか した[2] 。
翌日 よくじつ 、地球 ちきゅう への帰路 きろ で、ウォーデンは深 ふか 宇宙 うちゅう での船 ふね 外 がい 活動 かつどう を行 おこな った。この種 たね の活動 かつどう が行 おこな われるのは史上 しじょう 初 はじ めてのことで、目的 もくてき は月面 げつめん 滞在 たいざい 中 ちゅう に自動 じどう 撮影 さつえい した写真 しゃしん フィルム(カセット2個 こ 、5,500枚 まい 相当 そうとう )を機械 きかい 船 せん のSIM(科学 かがく 機器 きき 搭載 とうさい 区画 くかく )から回収 かいしゅう することにあった[5] 。この日 ひ の終 お わりに彼 かれ らはアポロ計画 けいかく における宇宙 うちゅう 最長 さいちょう 滞在 たいざい 記録 きろく を樹立 じゅりつ し、アポロ計画 けいかく で最 もっと も長 なが く宇宙 うちゅう にいた飛行 ひこう 士 し たちとなった[6] 。
翌 よく 8月 がつ 7日 にち 、機械 きかい 船 せん が切 き り離 はな され司令 しれい 船 せん は大気圏 たいきけん に再 さい 突入 とつにゅう した。着水 ちゃくすい の際 さい 、3本 ほん のパラシュート のうち1本 ほん が開 ひら かなかったが、着水 ちゃくすい に必要 ひつよう なのは2本 ほん だけであったため問題 もんだい はなかった(1本 ほん は予備 よび として用意 ようい されていた)。12日 にち と7時 じ 間 あいだ 11分 ふん 53秒 びょう にわたる任務 にんむ を完了 かんりょう し、飛行 ひこう 士 し たちは北 きた 太平洋 たいへいよう 上 じょう で回収 かいしゅう 船 せん オキナワ に収容 しゅうよう された[2] [4] 。
15号 ごう の司令 しれい ・機械 きかい 船 せん は、CSM-112と呼 よ ばれるモデルを使用 しよう していた。船 ふね 名 めい は「エンデバー」で、由来 ゆらい はイギリス の帆船 はんせん エンデバー号 ごう であった。また着陸 ちゃくりく 船 せん LM-10は空軍 くうぐん 士官 しかん 学校 がっこう を象徴 しょうちょう する鳥 とり にちなんで「ファルコン(ハヤブサ )」と名 な づけられた。もし15号 ごう がH計画 けいかく として飛行 ひこう していれば司令 しれい ・機械 きかい 船 せん にはCSM-111が、着陸 ちゃくりく 船 せん にはLM-9が使用 しよう されることになっていた。CSM-111は1975年 ねん にアポロ・ソユーズテスト計画 けいかく で使用 しよう されたが、LM-9は結局 けっきょく 使 つか われることはなく、現在 げんざい [いつ? ] はケネディ宇宙 うちゅう センターの来訪 らいほう 者 しゃ 施設 しせつ に展示 てんじ されている。
15号 ごう の科学 かがく 機器 きき 搭載 とうさい 区画 くかく (SIM)
再 さい 突入 とつにゅう 後 ご 、3本 ほん あるパラシュートのうちの1本 ほん が展開 てんかい した後 のち にもつれてしまったが、安全 あんぜん に着水 ちゃくすい するには2本 ほん あれば十分 じゅうぶん だった。エンデバーは無事 ぶじ に帰還 きかん し、すべての任務 にんむ は成功裏 せいこうり に終了 しゅうりょう した。
司令 しれい 船 せん のSIMが宇宙 うちゅう で使用 しよう されるのは今回 こんかい が初 はじ めてのことであり、ケネディ宇宙 うちゅう センターの技術 ぎじゅつ 者 しゃ たちは最初 さいしょ の時点 じてん から多 おお くの問題 もんだい を抱 かか えていた。その最大 さいだい の原因 げんいん は、SIMは無 む 重力 じゅうりょく の状態 じょうたい で使用 しよう するように設計 せっけい されているにもかかわらず、整備 せいび や試験 しけん は地上 ちじょう の1G の状況 じょうきょう 下 か で行 おこな わざるを得 え ないという事実 じじつ にあった。たとえばガンマ線 がんません 分光 ぶんこう 計 けい や質量 しつりょう 分析 ぶんせき 器 き は長 なが さ7.5メートルの支持 しじ 棒 ぼう の先 さき に取 と りつけられており、試験 しけん の際 さい にはレールの上 うえ を移動 いどう させて無 む 重力 じゅうりょく 状態 じょうたい を再現 さいげん しようとしたのだが、あまりうまくはいかなかった。すべての機器 きき を宇宙船 うちゅうせん に収 おさ めようとすると、今度 こんど はデータのストリーミング が同期 どうき しないという問題 もんだい が発生 はっせい したため、技術 ぎじゅつ 者 しゃ らは設計 せっけい の変更 へんこう と最終 さいしゅう 的 てき な試験 しけん を行 おこな うことを望 のぞ んだ。またガンマ線 がんません 分光 ぶんこう 計 けい の試験 しけん をする際 さい には、半径 はんけい 10マイル (16キロメートル)以内 いない にいるすべての車 くるま のエンジンを停止 ていし させなければならなかった。
着陸 ちゃくりく 船 せん については、上 うえ 昇段 しょうだん と下降 かこう 段 だん の両方 りょうほう で燃料 ねんりょう と酸化 さんか 剤 ざい のタンクの容量 ようりょう が増 ふ やされ、また下降 かこう 段 だん のロケットエンジン のノズル が延長 えんちょう された。さらに太陽 たいよう 電池 でんち を追加 ついか したことにより、電力 でんりょく が増強 ぞうきょう された。これらの改造 かいぞう により、着陸 ちゃくりく 船 せん の装 そう 重量 じゅうりょう はそれまでよりも4,000ポンド(1,800キログラム)増 ふ えて36,000ポンド(16,000キログラム)になった。
司令 しれい 船 せん エンデバーは、2016年 ねん 現在 げんざい [7] はオハイオ州 しゅう デイトン のライト・パターソン空軍 くうぐん 基地 きち にある国立 こくりつ アメリカ空軍 くうぐん 博物館 はくぶつかん に展示 てんじ されている。
月面 げつめん 車 しゃ の製作 せいさく はボーイング が担当 たんとう し、1969年 ねん 5月 がつ から開発 かいはつ が続 つづ けられた。5フィート ×20インチ (1.5×0.5メートル)に折 お り畳 たた むことが可能 かのう で、着陸 ちゃくりく 船 せん にはその状態 じょうたい で収納 しゅうのう されている。乾燥 かんそう 重量 じゅうりょう は460ポンド(209キログラム)、飛行 ひこう 士 し と機器 きき を搭載 とうさい したときの重量 じゅうりょう は1,500ポンド(700キログラム)である。各 かく 車輪 しゃりん は電気 でんき モーター により独立 どくりつ して駆動 くどう し、それぞれが4分 ぶん の1馬力 ばりき (200W )を発揮 はっき する。運転 うんてん は両 りょう 飛行 ひこう 士 し ともできることになっているが、実際 じっさい には常 つね に船長 せんちょう が運転 うんてん する。最高 さいこう 速度 そくど は時速 じそく 6から8マイル(10~12キロメートル)で、これにより初 はじ めて飛行 ひこう 士 し は着陸 ちゃくりく 船 せん から遠 とお く離 はな れた場所 ばしょ に移動 いどう し、科学 かがく 実験 じっけん のための十分 じゅうぶん な時間 じかん を持 も つことが可能 かのう になった[8] 。
小型 こがた 衛星 えいせい 展開 てんかい の概念 がいねん 図 ず
小型 こがた 衛星 えいせい PFS-1は、SIMから月 つき 周回 しゅうかい 軌道 きどう に放出 ほうしゅつ された。主 おも な目的 もくてき はプラズマ 、宇宙 うちゅう 線 せん および月 つき の磁場 じば 環境 かんきょう を調査 ちょうさ し、月 つき の重力 じゅうりょく 場 じょう の地図 ちず を作成 さくせい することであった。特 とく にプラズマ、エネルギー粒子 りゅうし の強度 きょうど 、ベクトル磁場 じば の測定 そくてい には重点 じゅうてん を置 お き、衛星 えいせい の速度 そくど を高 こう 精度 せいど で追跡 ついせき することを容易 ようい にした。衛星 えいせい に課 か せられた基本 きほん 的 てき な要求 ようきゅう は、月 つき 周回 しゅうかい 軌道 きどう 上 じょう のどこからでも磁場 じば や宇宙 うちゅう 線 せん のデータが得 え られることであった[8] 。月 つき は地球 ちきゅう から38万 まん キロメートル(地球 ちきゅう 半径 はんけい の60倍 ばい )の距離 きょり をほぼ円形 えんけい の軌道 きどう を描 えが いて周回 しゅうかい しているため、衛星 えいせい は惑星 わくせい 間 あいだ 空間 くうかん から様々 さまざま な領域 りょういき に至 いた るまでの地球 ちきゅう の磁気圏 じきけん を巡 めぐ ることができた。PFS-1は1971年 ねん 8月 がつ 4日 にち から1973年 ねん 1月 がつ までデータを送 おく り続 つづ けた。
後年 こうねん 、多数 たすう の月 つき 周回 しゅうかい 衛星 えいせい の軌道 きどう を調査 ちょうさ した結果 けっか 、科学 かがく 者 しゃ たちは月 つき 周回 しゅうかい 低 てい 軌道 きどう は不安定 ふあんてい なものであることを発見 はっけん するに至 いた った。PFS-1は幸運 こううん なことに、4種類 しゅるい ある月 つき の凍結 とうけつ 軌道 きどう の近 ちか くに放出 ほうしゅつ された。当時 とうじ の技術 ぎじゅつ 者 しゃ たちは全 まった く知 し らなかったことなのだが、この軌道 きどう 上 じょう では衛星 えいせい は半永久 はんえいきゅう 的 てき に月 つき を周回 しゅうかい し続 つづ けることができた[9] 。
衛星 えいせい 放出 ほうしゅつ は月 つき 軌道 きどう での飛行 ひこう 士 し たちの最後 さいご の任務 にんむ で、地球 ちきゅう 帰還 きかん のためのエンジン噴射 ふんしゃ の1時 じ 間 あいだ 前 まえ に行 おこな われた。アポロ16号 ごう でも、実質 じっしつ 的 てき に全 まった く同一 どういつ の衛星 えいせい が放出 ほうしゅつ された。
15号 ごう を打 う ち上 あ げたSA-510は10回 かい 目 め に発射 はっしゃ されたサターン5型 がた ロケットで、ペイロード を拡張 かくちょう するため飛行 ひこう 軌道 きどう やロケット本体 ほんたい にいくつかの改良 かいりょう がなされていた。まず発射 はっしゃ 方向 ほうこう はこれまでよりも南 みなみ 寄 よ り(方位 ほうい 角 かく 80~100度 ど )に向 む けられ、待機 たいき 軌道 きどう の高度 こうど も166キロメートル(90海 うみ 里 さと )に下 さ げられた。これらの変更 へんこう によりペイロードは1,100ポンド(500 キログラム)増加 ぞうか した。また予備 よび 燃料 ねんりょう も減 へ らされ、さらに第 だい 1段 だん S-ICを第 だい 2段 だん S-IIから引 ひ き離 はな すための逆 ぎゃく 噴射 ふんしゃ ロケットの数 かず も8本 ほん から4本 ほん にされた。ただし逆 ぎゃく 噴射 ふんしゃ ロケットと、第 だい 1段 だん F-1の中央 ちゅうおう エンジンの燃焼 ねんしょう 時間 じかん は延長 えんちょう された(詳細 しょうさい についてはサターン5型 がた ロケット を参照 さんしょう のこと)。またS-IIについても、pogo振動 しんどう を抑 おさ えるための改良 かいりょう がなされた[8] 。
すべての機器 きき が組 く み込 こ まれた後 のち 、サターン5型 がた ロケットは39A発射 はっしゃ 台 だい に搬送 はんそう された。1971年 ねん の6月 がつ 下旬 げじゅん から7月 がつ 上旬 じょうじゅん にかけて発射 はっしゃ 台 だい の整備 せいび 塔 とう は少 すく なくとも4回 かい にわたって雷 かみなり の直撃 ちょくげき を受 う けたが、損傷 そんしょう はわずかなものだった。
15号 ごう 以前 いぜん の宇宙 うちゅう 服 ふく では、生命 せいめい 維持 いじ (酸素 さんそ の供給 きょうきゅう および二酸化炭素 にさんかたんそ の除去 じょきょ )・冷却 れいきゃく 水 すい ・通信 つうしん ケーブルの3系統 けいとう をまとめたコードが2本 ほん 並行 へいこう して繋 つな がれていた。このタイプのものは月 つき に行 い かなかった飛行 ひこう も含 ふく めて、すべてのアポロ計画 けいかく で船長 せんちょう と着陸 ちゃくりく 船 せん 操縦 そうじゅう 士 し が着用 ちゃくよう していたが、15号 ごう ではA7LBという新 しん 方式 ほうしき の宇宙 うちゅう 服 ふく が採用 さいよう された。A7LBではコードの接合 せつごう 部 ぶ が三角形 さんかっけい になり、着脱 ちゃくだつ 用 よう のファスナー が右肩 みぎかた から左 ひだり 尻 しり にかけて斜 なな めに配置 はいち され(これまでは上下 じょうげ に配置 はいち されていた)、腰部 ようぶ が屈伸 くっしん するようになった。これによって飛行 ひこう 士 し は身 み をかがめたり月面 げつめん 車 しゃ の席 せき に座 すわ ったりすることが可能 かのう になり、さらに生命 せいめい 維持 いじ 装置 そうち も長期間 ちょうきかん の月面 げつめん 活動 かつどう ができるように改良 かいりょう された。一方 いっぽう で司令 しれい 船 せん 操縦 そうじゅう 士 し はそれまでは接合 せつごう 部 ぶ が3つあるタイプのものを使用 しよう していたが、15号 ごう では冷却 れいきゃく 水 すい の接合 せつごう 部 ぶ がない、それ以前 いぜん の月面 げつめん 活動 かつどう で使 つか われていた旧 きゅう タイプのものを着用 ちゃくよう した。これは司令 しれい 船 せん 操縦 そうじゅう 士 し が深 ふか 宇宙 うちゅう での船 ふね 外 がい 活動 かつどう をして、SIMからフィルムの回収 かいしゅう 作業 さぎょう をするためであった[8] 。
国立 こくりつ 航空 こうくう 宇宙 うちゅう 博物館 はくぶつかん に展示 てんじ されているスコットの宇宙 うちゅう 服 ふく
15号 ごう のロビンスメダル(Robbins Medallion)
計画 けいかく 終了 しゅうりょう 後 ご 、飛行 ひこう 士 し たちとNASAの名誉 めいよ は、スコットがあるドイツ 人 ひと の切手 きって 収集 しゅうしゅう 家 か と交 か わした金銭 きんせん 的 てき なやりとりが明 あか るみに出 で たことによって汚 よご されることとなった[10] 。彼 かれ はウォルター・アイアーマン(H. Walter Eiermann)という人物 じんぶつ から、記念 きねん 切手 きって を密 ひそ かに月 つき まで持 も って行 い くように持 も ちかけられていた。アイアーマンはNASAの職員 しょくいん や宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 士 し のグループと、多 おお くの専門 せんもん 的 てき かつ社会 しゃかい 的 てき なつながりを持 も っている人物 じんぶつ だった。スコットは依頼 いらい に応 こた え、非 ひ 公認 こうにん の初日 しょにち カバー 398枚 まい を宇宙 うちゅう 服 ふく に潜 ひそ ませ、月面 げつめん での休憩 きゅうけい 時間 じかん 中 ちゅう に封筒 ふうとう に貼 は りつけ、さらに自 みずか らの署名 しょめい までしていたのである(当初 とうしょ は400枚 まい を持 も って行 い くはずだったが、封 ふう をする際 さい に2枚 まい が破損 はそん してしまったため破棄 はき されていた)。アイアーマンはこのうちの100枚 まい を受 う け取 と り、飛行 ひこう 士 し たちにそれぞれ7,000ドル を銀行 ぎんこう 預金 よきん の形 かたち で支払 しはら うことを約束 やくそく した。さらにアポロ計画 けいかく が終了 しゅうりょう するまでは決 けっ してこの切手 きって のことを宣伝 せんでん したり他者 たしゃ に売却 ばいきゃく したりすることはないとも誓 ちか ったのだが、その後 ご この100枚 まい はアイアーマンからヘルマン・ジーガー(Hermann Sieger)という業者 ぎょうしゃ に渡 わた され、彼 かれ がドイツ国内 こくない でこれを1,500ドルで売買 ばいばい し始 はじ めたことによって問題 もんだい が発覚 はっかく した。この事実 じじつ が明 あか るみに出 で たとき、NASAはただちに残 のこ りの298枚 まい を飛行 ひこう 士 し から没収 ぼっしゅう した。さらにスコットらもアイアーマンから金銭 きんせん 的 てき な報酬 ほうしゅう を受 う け取 と らないことに決 き めたが、宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 士 し たちの倫理 りんり 観 かん については各 かく 方面 ほうめん から疑問 ぎもん の声 こえ が投 な げかけられた。15号 ごう に限 かぎ らず、飛行 ひこう 士 し が私的 してき に物品 ぶっぴん を宇宙 うちゅう に持 も って行 い き、後 のち に「おみやげ」という形 かたち で金銭 きんせん 的 てき な報酬 ほうしゅう を受 う け取 と るという行為 こうい は、以前 いぜん から慣習 かんしゅう 化 か していたことがこの事件 じけん で明 あき らかになったからである。後 のち にアーウィンは著書 ちょしょ の中 なか で、「自分 じぶん は子供 こども の大学 だいがく の学費 がくひ を払 はら うためにこの取引 とりひき に応 おう じたのだ」と述 の べた[11] [要 よう ページ番号 ばんごう ] 。
また15号 ごう については、もう一 ひと つ論議 ろんぎ を呼 よ ぶ事件 じけん が飛行 ひこう 終了 しゅうりょう 後 ご に起 お こった。スコットらはポール・ヴァン・ヘイドンク(Paul Van Hoeydonck)というベルギー人 じん の彫刻 ちょうこく 家 か に、宇宙 うちゅう 開発 かいはつ の促進 そくしん のために命 いのち を失 うしな ったアメリカとソビエトの宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 士 し たちを追悼 ついとう するための小 しょう 像 ぞう を作 つく るように依頼 いらい していた。宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 士 し 慰霊 いれい 碑 ひ と呼 よ ばれたこの像 ぞう は、第 だい 3回 かい 船 せん 外 がい 活動 かつどう 終了 しゅうりょう の際 さい 、米 べい ソの14名 めい の飛行 ひこう 士 し の名 な を刻 きざ んだ銘板 めいばん とともに月面 げつめん 車 しゃ の横 よこ に置 お かれた。だがこの時点 じてん では知 し られていなかったことなのだが、ソ連 それん が史上 しじょう 初 はじ めて選出 せんしゅつ した20名 めい の宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 士 し のうち、2名 めい は15号 ごう の飛行 ひこう よりも前 まえ にすでに死亡 しぼう していたのである。ヴァレンティン・ボンダレンコ(Valentin Bondarenko)は1961年 ねん 3月 がつ に鉄道 てつどう 事故 じこ で、グリゴリー・ネリュボフ(Grigori Nelyubov)も1966年 ねん 2月 がつ に鉄道 てつどう 事故 じこ で命 いのち を落 お としていた(ネリュボフの死因 しいん は公式 こうしき には事故 じこ とされているが、実際 じっさい には泥酔 でいすい 状態 じょうたい で列車 れっしゃ に轢 ひ かれたもので自殺 じさつ と見 み られている。ソ連 それん は宇宙 うちゅう 飛行 ひこう 士 し のイメージが傷 きず つくことを恐 おそ れたため、長 なが らく自殺 じさつ の事実 じじつ を隠蔽 いんぺい し事故 じこ で死亡 しぼう したことにしていた)[12] 。従 したが って、この2名 めい の名 な は月面 げつめん に置 お かれた銘板 めいばん には書 か かれていなかった。慰霊 いれい 碑 ひ はテレビカメラが消 け されている間 あいだ に月面 げつめん に置 お かれた。スコットがこの間 あいだ 何 なに をやっていたのかは、アーウィンしか知 し らないことであった。またスコットは管制 かんせい 官 かん に対 たい しては月面 げつめん 車 しゃ の周囲 しゅうい で清掃 せいそう 作業 さぎょう を行 おこな っていると報告 ほうこく していたので、地球 ちきゅう でも彼 かれ の行動 こうどう を知 し る由 よし もなかった。飛行 ひこう 士 し らはヘイドンクに対 たい し、この小 しょう 像 ぞう の複製 ふくせい は作 つく らないということで同意 どうい していたのだが、飛行 ひこう 終了 しゅうりょう 後 ご に彼 かれ らが記者 きしゃ 会見 かいけん でこの追悼 ついとう 行為 こうい のことを明 あき らかにすると、国立 こくりつ 航空 こうくう 宇宙 うちゅう 博物館 はくぶつかん が展示 てんじ 用 よう の小 しょう 像 ぞう の複製 ふくせい を作 つく ってほしいと依頼 いらい してきた。さらにはヘイドンクも同意 どうい を破 やぶ って複製 ふくせい を作 つく り、広告 こうこく を出 だ したりしたのだが、NASAからの圧力 あつりょく で販売 はんばい は取 と り下 さ げた。後 のち にNASAが15号 ごう の最終 さいしゅう 報告 ほうこく 書 しょ をまとめたとき、この非 ひ 公認 こうにん の小 しょう 像 ぞう については何 なに もコメントしていなかった。
15号 ごう の飛行 ひこう 士 し は3名 めい とも現役 げんえき のアメリカ空軍 くうぐん の軍人 ぐんじん であったため、全員 ぜんいん が海軍 かいぐん 軍人 ぐんじん だった12号 ごう が航海 こうかい 中 ちゅう の帆船 はんせん をテーマにしていたのと同 おな じように、記章 きしょう も空軍 くうぐん をモチーフにしている。円形 えんけい の記章 きしょう の中 なか では、鳥 とり を表 あらわ す赤 あか と白 しろ と青 あお の線 せん が月面 げつめん のハドリー裂 きれ 溝 みぞ の上空 じょうくう を飛行 ひこう している。そのすぐ後 うし ろには、15を表 あらわ すローマ数字 すうじ のXVが、クレーターの線 せん で書 か かれている。全体 ぜんたい は青 あお と赤 あか の線 せん で囲 かこ まれ、その間 あいだ の白 しろ い帯 おび の中 なか には飛行 ひこう 士 し たちの名前 なまえ が記 しる されている。スコットはエミリオ・プッチ (Emilio Pucci) というファッションデザイナーにこの記章 きしょう の制作 せいさく を依頼 いらい した。プッチの案 あん では当初 とうしょ は形態 けいたい は四角 しかく だったが、飛行 ひこう 士 し らの意見 いけん により円形 えんけい に改 あらた められ、さらに色 いろ も青 あお と緑 みどり だったのを愛国 あいこく 的 てき な赤 あか と白 しろ と青 あお に変更 へんこう された。ウォーデンによればそれぞれの鳥 とり も各 かく 飛行 ひこう 士 し を表 あらわ しているそうで、いちばん上 じょう にある白 しろ は司令 しれい 船 せん 操縦 そうじゅう 士 し である彼 かれ に、青 あお はスコットに、赤 あか はアーウィンに対応 たいおう しているとのことである。飛行 ひこう 番号 ばんごう は、NASAは算用 さんよう 数字 すうじ で表 あらわ すべきだと強 つよ く主張 しゅちょう していたが、記章 きしょう ではローマ数字 すうじ で表 あらわ された[13] 。
15号 ごう が着陸 ちゃくりく する際 さい 、下降 かこう 段 だん の排気 はいき ガスによって月面 げつめん に形成 けいせい された円形 えんけい の痕跡 こんせき は、2008年 ねん に日本 にっぽん の月 つき 探査 たんさ 衛星 えいせい かぐや が撮影 さつえい した画像 がぞう の比較 ひかく 分析 ぶんせき によって確認 かくにん された。この画像 がぞう は15号 ごう の司令 しれい 船 せん から撮影 さつえい されたものともよく一致 いっち し、アポロ計画 けいかく が終了 しゅうりょう して以来 いらい 、月面 げつめん に残 のこ された痕跡 こんせき を宇宙 うちゅう から撮影 さつえい した初 はじ めての例 れい となった[14] 。
Apollo 15
月面 げつめん 車 しゃ 操縦 そうじゅう 訓練 くんれん -
地上 ちじょう で
月面 げつめん 車 しゃ の
操縦 そうじゅう 訓練 くんれん をするスコットとアーウィン(2.57
MB ,
ogg /
Theora format)
15号 ごう の発射 はっしゃ - 発射 はっしゃ 30秒 びょう 前 まえ から40秒 びょう 後 ご まで(1.29 MB, ogg/Theora format)
着陸 ちゃくりく 船 せん とのドッキング - 着陸 ちゃくりく 船 せん ファルコンとドッキングする司令 しれい 船 せん エンデバー(3.03 MB, ogg/Theora format)
着陸 ちゃくりく 船 せん から離 はな れる司令 しれい 船 せん - 切 き り離 はな し後 ご 、ファルコンから撮影 さつえい されるエンデバー(3.05 MB, ogg/Theora format)
月面 げつめん 着陸 ちゃくりく - 着陸 ちゃくりく 船 せん 操縦 そうじゅう 士 し の位置 いち から見 み たハドレー山 やま への着陸 ちゃくりく 。高度 こうど 5,000フィート(1,500m)から撮影 さつえい 開始 かいし (5.47 MB, ogg/Theora format)
月面 げつめん 車 しゃ からの映像 えいぞう - 走行 そうこう 中 ちゅう の月面 げつめん 車 しゃ から撮影 さつえい した16mm じゅうろくみり フィルムの映像 えいぞう (3.26 MB, ogg/Theora format)
ハンマーと羽根 はね の落下 らっか 実験 じっけん - ガリレオの理論 りろん が正 ただ しいことを実証 じっしょう するスコット(1.38 MB, ogg/Theora format)
月面 げつめん からの離陸 りりく – 月面 げつめん 車 しゃ のカメラで撮影 さつえい した離陸 りりく の場面 ばめん (2.31 MB, ogg/Theora format)
月面 げつめん からの離陸 りりく - 着陸 ちゃくりく 船 せん 操縦 そうじゅう 士 し の位置 いち から見 み た月面 げつめん からの離陸 りりく (1.18 MB, ogg/Theora format)
船 ふね 外 がい 活動 かつどう をするウォーデン – SIMからフィルムのカセットを回収 かいしゅう するために船 ふね 外 がい 活動 かつどう をするウォーデン(2.81 MB, ogg/Theora format)
着水 ちゃくすい - 15号 ごう の着水 ちゃくすい (3.67 MB, ogg/Theora format)
15
号 ごう の
飛行 ひこう 士 し たちが
月 つき に
向 む かう
途中 とちゅう で
目撃 もくげき した
閃光 せんこう の
原因 げんいん を
調査 ちょうさ するために、
ローレンス・バークレー国立 こくりつ 研究所 けんきゅうじょ で
行 おこな われた
加速器 かそくき からの
高 こう エネルギー
粒子 りゅうし を
使用 しよう しての
実験 じっけん 。この
現象 げんしょう を
追究 ついきゅう する
実験 じっけん は、15、16、17
号 ごう およびスカイラブの
船内 せんない でも
行 おこな われた。
閃光 せんこう 実験 じっけん 機器 きき (
閃光 せんこう の
数 かず を
数 かぞ えている
研究 けんきゅう 員 いん が
頭部 とうぶ につけている
箱 はこ )は、16、17
号 ごう の
飛行 ひこう 中 ちゅう にも
使用 しよう された
[15] 。
^ a b “Landing at Hadley ”. Apollo 15 Lunar Surface Journal . NASA (1996年 ねん ). 2011年 ねん 7月 がつ 14日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Stand-Up EVA ”. Apollo 15 Lunar Surface Journal . NASA (1996年 ねん ). 2011年 ねん 7月 がつ 14日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Wake-up for EVA-1 ”. Apollo 15 Lunar Surface Journal . NASA (1996年 ねん ). 2011年 ねん 7月 がつ 18日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b c d Jones, Eric M. (1995年 ねん ). “Mountains of the Moon ”. Apollo 15 Lunar Surface Journal . NASA. 2011年 ねん 6月 がつ 28日 にち 閲覧 えつらん 。
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