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アポロ15ごう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
アポロ15ごう
計画けいかくめい Apollo 15
宇宙船うちゅうせんめい 司令しれい機械きかいせん: エンデバー
つき着陸ちゃくりくせん: ファルコン
乗員じょういんすう 3めい
発射はっしゃ日時にちじ 1971ねん7がつ26にち
13:34:00 (UTC)
ケネディ宇宙うちゅうセンター39ばんA発射はっしゃだい
月面げつめん着陸ちゃくりく 1971ねん7がつ30にち
22:16:29 (UTC)
ハドレーだに北緯ほくい2607ふん55びょう99 東経とうけい338ふん01びょう90)
月面げつめんせんがい活動かつどう時間じかん LMじょう待機たいき: 33ふん07びょう
1かい: 6あいだ32ふん42びょう
2かい: 7あいだ12ふん14びょう
3かい: 4あいだ49ふん50びょう
合計ごうけい: 18あいだ34ふん46びょう
司令しれいせんがい活動かつどう時間じかん 39ふん07びょう
月面げつめん滞在たいざい時間じかん 66あいだ54ふん53.9びょう
標本ひょうほん採集さいしゅうりょう 77 kg
着水ちゃくすい日時にちじ 1971ねん8がつ7にち
20:45:53 (UTC)
北緯ほくい2613ふん 西経せいけい15813ふん
合計ごうけい時間じかん 12にち07あいだ11ふん53びょう
つき周回しゅうかいすう 74しゅう
つき周回しゅうかい時間じかん 145あいだ12ふん41びょう68
宇宙船うちゅうせん質量しつりょう 司令しれい機械きかいせん: 30,370 kg
つき着陸ちゃくりくせん: 16,430 kg
ひだりから:デイヴィッド・スコットアルフレッド・ウォーデンジェームズ・アーウィン

アポロ15ごうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくアポロ計画けいかくにおける4度目どめ月面げつめん着陸ちゃくりく飛行ひこうである。アメリカの有人ゆうじん宇宙うちゅう飛行ひこうは、これで8かい連続れんぞく成功せいこうおさめた。また月面げつめんしゃ使用しようし、よりなが期間きかん月面げつめん滞在たいざいして科学かがくてき探査たんさ重点じゅうてんく、いわゆるJ計画けいかくはじめてこの飛行ひこうおこなわれた。

発射はっしゃ1971ねん7がつ26にち帰還きかん8がつ7にちだった。NASAは15ごうを、それまでにおこなわれたなかもっと成功せいこうした有人ゆうじん宇宙うちゅう飛行ひこうであったと表明ひょうめいした[1]

着陸ちゃくりくせん「ファルコン」は、月面げつめんじょうあめうみなかの「Palus Putredinus(腐敗ふはい沼地ぬまち)」とばれる地域ちいきにあるハドリーさんった。デイヴィッド・スコット(David Scott)船長せんちょうジェームズ・アーウィン(James Irwin)着陸ちゃくりくせん操縦そうじゅう月面げつめんで3日間にちかんごし、18.5あいだふねがい活動かつどうで77キログラム (170ポンド)のサンプルを採集さいしゅうした。またこの飛行ひこうでははじめて月面げつめんしゃ使用しようされ、それまでの徒歩とほによる探査たんさよりもはるかにとおくまで着陸ちゃくりくせんからはなれることを可能かのうにした。一方いっぽう司令しれいせん「エンデバー」の操縦そうじゅうアルフレッド・ウォーデン(Alfred Worden)はつき上空じょうくう周回しゅうかいしながら、機械きかいせん科学かがく機器きき搭載とうさい区画くかく(Science Instrument Module, SIM)に収納しゅうのうされているパノラマカメラガンマ線がんません分光ぶんこうけい地図ちず作成さくせいよう写真しゃしんレーザー高度こうどけい質量しつりょう分析ぶんせきなどを使用しようしてつき表面ひょうめんとその環境かんきょうかんする詳細しょうさい探査たんさをし、さらに飛行ひこう最終さいしゅう段階だんかいではアポロ計画けいかくはつとなる小型こがた衛星えいせい放出ほうしゅつおこなった。

15ごう当初とうしょ目的もくてき完遂かんすいしたものの、計画けいかく終了しゅうりょうにスコットたちが飛行ひこう記念きねんした切手きってをめぐってある人物じんぶつ非公式ひこうしき金銭きんせんてき取引とりひきをしていたことがあかるみにて、かれらの名誉めいよはいささかきずつくことになった。皮肉ひにくなことにこの飛行ひこうはじめて月面げつめんしゃ使用しようしたことでのち記念きねん切手きって発行はっこうされたが、これはマーキュリー計画けいかくでアメリカはつ有人ゆうじん宇宙うちゅう飛行ひこうおこなわれてからの10年間ねんかんでの数少かずすくないれいのひとつであった。

搭乗とうじょういん

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地位ちい 飛行ひこう
船長せんちょう デイヴィッド・スコット(David Scott)
さんかい宇宙うちゅう飛行ひこう
司令しれいせん操縦そうじゅう アルフレッド・ウォーデン(Alfred Worden)
一回いっかい宇宙うちゅう飛行ひこう
つき着陸ちゃくりくせん操縦そうじゅう ジェームズ・アーウィン(James Irwin)
一回いっかい宇宙うちゅう飛行ひこう

飛行ひこうたちは3にんとも空軍くうぐん出身しゅっしんであり、また全員ぜんいんミシガン大学だいがく名誉めいよ学位がくいまたは修士しゅうし学位がくい授与じゅよされていた。スコットが名誉めいよ学位がくい授与じゅよされたのは1971ねんはるで、発射はっしゃの1ヶ月かげつまえのことだった。かれはかつてミシガン大学だいがく在籍ざいせきしていたが、陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうからの招待しょうたいけたためにどう大学だいがく中退ちゅうたいしていた。飛行ひこうたちは陸軍りくぐんまたは海軍兵学校かいぐんへいがっこう学業がくぎょうおこなっていた。

予備よび搭乗とうじょういん

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地位ちい 飛行ひこう
船長せんちょう リチャード・ゴードン Jr.(Richard F. Gordon, Jr.)
司令しれいせん操縦そうじゅう ヴァンス・ブランド(Vance D. Brand)
つき着陸ちゃくりくせん操縦そうじゅう ハリソン・シュミット(Harrison Schmitt)

シュミットは「グループ4」とばれる、アポロ計画けいかくのために選出せんしゅつされた科学かがくしゃ中心ちゅうしんとする宇宙うちゅう飛行ひこうのメンバーの一人ひとりであった。グループ4からつきったのはかれだけで、1972ねん17ごう飛行ひこうした。

支援しえん飛行ひこう

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  • ゴードン・フラートン(C. Gordon Fullerton)
  • ジョセフ・アレン(Joseph P. Allen)
  • ロバート・パーカー(Robert A. Parker)
  • カール・ゴードン・ヘナイズ(Karl Gordon Henize)

飛行ひこう主任しゅにん

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  • ジェリー・グリフィン(Gerry Griffin)、金色きんいろチーム主任しゅにん
  • ミルトン・ウィンドラー(Milton Windler)、栗色くりいろチーム主任しゅにん
  • グリン・ランネイ(Glynn Lunney)、くろチーム主任しゅにん
  • ジーン・クランツ(Gene Kranz)、しろチーム主任しゅにん

しょ数値すうち

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  • 質量しつりょう
    • 発射はっしゃ重量じゅうりょう:2,945,816 kg
    • 宇宙船うちゅうせんそう重量じゅうりょう:46,782 kg
      • 司令しれい機械きかいせん重量じゅうりょう:30,354 kg、うち司令しれいせん5840 kg、機械きかいせん24,523 kg
      • 着陸ちゃくりくせん重量じゅうりょう:16,428 kg、うえ昇段しょうだん月面げつめんからの発射はっしゃ重量じゅうりょう4,951 kg
  • 地球ちきゅう周回しゅうかい回数かいすう出発しゅっぱつ3しゅう帰還きかんやく1しゅう
  • つき周回しゅうかい回数かいすう:74しゅう

地球ちきゅう周回しゅうかい待機たいき軌道きどう

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司令しれい機械きかいせん着陸ちゃくりくせんのドッキング

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ふねがい活動かつどう

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  • スコットりつ哨船がい活動かつどう司令しれいせんとのドッキングトンネルからかおし、月面げつめん観察かんさつするふねがい活動かつどう
  • たて開始かいし7がつ31にち 00:16:49 UTC
  • たて終了しゅうりょう:7がつ31にち 00:49:56 UTC
  • 時間じかん:33ふん07びょう
  • スコットおよびアーウィンだい1かいせんがい活動かつどう
  • だい1かいせんがい活動かつどう開始かいし:7がつ31にち 13:12:17 UTC
  • だい1かいせんがい活動かつどう終了しゅうりょう:7がつ31にち 19:45:59 UTC
  • 時間じかん:6あいだ32ふん42びょう
  • スコットおよびアーウィンだい2かいせんがい活動かつどう
  • だい2かいせんがい活動かつどう開始かいし8がつ1にち 11:48:48 UTC
  • だい2かいせんがい活動かつどう終了しゅうりょう:8がつ1にち 19:01:02 UTC
  • 時間じかん:7あいだ12ふん14びょう
  • スコットおよびアーウィンだい3かいせんがい活動かつどう
  • だい3かいせんがい活動かつどう開始かいし:8がつ2にち 08:52:14 UTC
  • だい3かいせんがい活動かつどう終了しゅうりょう:8がつ2にち 13:42:04 UTC
  • 時間じかん:4あいだ49ふん50びょう
  • ウォーデン – (アーウィンがたて哨し)地球ちきゅう中継ちゅうけいするだい4かいせんがい活動かつどう
  • だい4かいせんがい活動かつどう開始かいし8がつ5にち 15:31:12 UTC
  • だい4かいせんがい活動かつどう終了しゅうりょう:8がつ5にち 16:10:19 UTC
  • 時間じかん:0あいだ39ふん07びょう

計画けいかく訓練くんれん

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ニューメキシコ地質ちしつがくてき探査たんさ訓練くんれんをするスコット船長せんちょう。1971ねん3月19にち

スコット船長せんちょうらは、アポロ12ごうでは予備よび搭乗とうじょういんつとめていた。かれらは全員ぜんいん空軍くうぐん出身しゅっしんであり、全員ぜんいん海軍かいぐん出身しゅっしんだったほん搭乗とうじょういんたちとはライバルしん発揮はっきしたが、同時どうじ協力きょうりょく関係かんけいにあった。

15ごう当初とうしょは12ごう13ごう14ごう同様どうようH計画けいかくとして飛行ひこうする予定よていだったが、NASAは1970ねん9月2にち、アポロ計画けいかくを17ごうまでで終了しゅうりょうすることを発表はっぴょうした。このため15ごう計画けいかく効果こうか最大限さいだいげんたかめるべく、J計画けいかくとして飛行ひこうすることとなった。

これにより15ごう訓練くんれんも、いくつかのてん変更へんこうくわえられることになった。そのなかの1つが地質ちしつがくてき探査たんさ訓練くんれんであった。地質ちしつがく探査たんさはそれ以前いぜんにもおこなわれていたが、15ごうはじめてこのてんもっとたか優先ゆうせん飛行ひこうとなった。スコットとアーウィンは、カリフォルニア工科こうか大学だいがく地質ちしつ学者がくしゃとく先カンブリア時代せんかんぶりあじだい専門せんもんであるレオン・シルバー(Leon Silver)ととも訓練くんれんをすることになった。シルバーは宇宙うちゅう飛行ひこうのハリソン・シュミットから、NASAが以前いぜんやとっていた講師こうしわりをやらないかと打診だしんされていた。かれ年代ねんだい測定そくていほうなかでもウランなまり崩壊ほうかいする過程かてい計測けいそくすることでいし年代ねんだい特定とくていする手法しゅほう改善かいぜんで、1950年代ねんだいおおきな貢献こうけんをしていたのである。

当初とうしょシルバーは、ほん搭乗とうじょういん予備よび搭乗とうじょういんたちをアリゾナニューメキシコ様々さまざま学問がくもんてき研究けんきゅう用地ようちれてき、普通ふつう地質ちしつがく授業じゅぎょうのような訓練くんれんをするつもりだったが、発射はっしゃちかづくにつれてその訓練くんれんはより現実げんじつちかいものになっていった。飛行ひこうたちはふねがい活動かつどう使用しようする生命せいめい維持いじ装置そうち模型もけい背負せおい、テントにいるCAPCOM(宇宙船うちゅうせん連絡れんらくいん)たちとウォーキートーキー会話かいわした(CAPCOMは宇宙船うちゅうせんとの交信こうしん担当たんとうする管制かんせいかんで、同僚どうりょう宇宙うちゅう飛行ひこうつとめる。また通常つうじょうは、飛行ひこうたちとの会話かいわかれらしかすることができない)。さらにCAPCOMには、飛行ひこうたちの発言はつげん地質ちしつがくというかれらにとって不案内ふあんない分野ぶんやでの表現ひょうげん翻訳ほんやくするための補助ほじょとして、地質ちしつ学者がくしゃのグループがともなっていた。

ハドリーやまへの着陸ちゃくりくは1970ねん9がつ決定けっていした。着陸ちゃくりく地点ちてん選考せんこう委員いいんかいは、候補こうほをハドリーきれみぞとマリウス(Marius)クレーターの2つにしぼっていた。マリウスのちかくには、おそらくは溶岩ようがんドームおもわれるひくしょうおか数多かずおおくあった。スコット船長せんちょう最終さいしゅうてき決定けっていけんこそなかったものの、候補こうほ選定せんていにはおおきな発言はつげんけんっていた。かれにとってはハドリーやま選択せんたくした理由りゆう明確めいかくで、「探検たんけんするには最高さいこう場所ばしょ」だったからであった。

一方いっぽう司令しれいせん操縦そうじゅうのウォーデンはちが訓練くんれんんでいた。かれエジプトまれの地質ちしつ学者がくしゃファルー・エルバズ(Farouk El-Baz)と行動こうどうともにし、司令しれいせんつき周回しゅうかいする状況じょうきょうして飛行機ひこうき訓練くんれん上空じょうくうび、そらから眼下がんかとおぎる月面げつめん地形ちけい観測かんそくすることにおいてたか技術ぎじゅつ習得しゅうとくした。

主要しゅよう任務にんむ

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発射はっしゃからつき遷移せんい軌道きどうまで

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15ごう発射はっしゃ。1971ねん7がつ26にち

15ごうは1971ねん7がつ26にち午前ごぜん934ふんべい東部とうぶ標準時ひょうじゅんじ)、フロリダしゅうケープ・カナベラルケネディ宇宙うちゅうセンターから発射はっしゃされた。げの途中とちゅうサターン5がたロケットだい1だんS-ICロケットエンジンは、1だんはなされたあとも4秒間びょうかんにわたって噴射ふんしゃつづけた。このときだい2だんS-II排気はいきガスはS-ICの遠隔えんかく操作そうさ機器きき直撃ちょくげきしていたので、まかり間違まちがえばだい1だんだい2だん衝突しょうとつしてげが中止ちゅうしされるところであった。このような不具合ふぐあいはあったものの、だい3だんS-IVB宇宙船うちゅうせん無事ぶじ地球ちきゅう周回しゅうかい軌道きどう到達とうたつした。発射はっしゃから2あいだ、S-IVBのエンジンがさい点火てんかされ15ごう地球ちきゅう周回しゅうかい軌道きどうはなつきへの遷移せんい軌道きどうへと投入とうにゅうされた[2]

発射はっしゃから2にち宇宙船うちゅうせんつき裏側うらがわ通過つうかした。そこで機械きかいせん推進すいしんエンジン(Service Propulsion System, SPS)が6分間ふんかんにわたって噴射ふんしゃされ、宇宙船うちゅうせんだい1段階だんかいつき周回しゅうかい軌道きどう投入とうにゅうされた。きんつきてん通過つうかしたとき、着陸ちゃくりくせんをハドリーさん降下こうかさせるための適正てきせい軌道きどう修正しゅうせいすべくSPSエンジンが再度さいど点火てんかされた[2]

着陸ちゃくりく

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15ごうは7がつ30にちつき周回しゅうかい軌道きどう到達とうたつした。初日しょにちのほとんどは、そのひかえている着陸ちゃくりくせん降下こうか準備じゅんびついやされた。準備じゅんび完了かんりょうすると司令しれい機械きかいせんとのはなしがこころみられたが、ハッチの気密きみつ部分ぶぶんからわずかながら酸素さんそれていることが確認かくにんされたことから作業さぎょう一時いちじ中断ちゅうだんされた。地上ちじょうからの指示しじ点検てんけんおこなわれ、司令しれいせん操縦そうじゅうのウォーデンがハッチのなおしをおこなうと酸素さんそれがまったことから、2あいだおくれで作業さぎょう再開さいかいされた[3]。スコットとアーウィンが降下こうか準備じゅんびつづける一方いっぽうでウォーデンは司令しれいせんのこり、上空じょうくうからの月面げつめん観測かんそくおこなうために高度こうどげ、数日すうじつ同僚どうりょうたちの帰還きかんそなえた[4][ALSJ 1]

ストットとアーウィンはただちにハドリーやまけて降下こうかはじめた。降下こうか開始かいしからすうふん着陸ちゃくりくせんファルコンがピッチオーバー(姿勢しせい徐々じょじょ垂直すいちょく状態じょうたいにすること)して着陸ちゃくりく地点ちてんへのアプローチにはいったとき、ファルコンはまだ目標もくひょう地点ちてんから6キロメートルもひがしにいたため、スコットは急遽きゅうきょ飛行ひこう経路けいろ変更へんこうした。7月30にち 2216ふん29びょう(UTC)、15ごうはハドリーさん到着とうちゃくした。着陸ちゃくりく地点ちてんは、当初とうしょ目標もくひょうからわずかすうひゃくメートルしかはなれていなかった。アポロ11ごうでは、アームストロング船長せんちょうらは着陸ちゃくりく直後ちょくご興奮こうふんしてねむれなかったためただちにふねがい活動かつどう開始かいししたが、15ごうでは翌日よくじつそなえて休息きゅうそくすることを選択せんたくした。かれらはこののち、それ以前いぜんのどの飛行ひこうよりもなが時間じかん月面げつめん滞在たいざいし、3かいにわたってふねがい活動かつどうをしなければならなかったため、睡眠すいみんのリズムをくずしたくなかったのである。ただし就寝しゅうしんするまえ、スコットは船内せんない減圧げんあつして上部じょうぶにあるドッキングようハッチをひらき、そこからかおして周囲しゅうい写真しゃしん撮影さつえいをした(たて哨船がい活動かつどう[4][ALSJ 1][ALSJ 2]

月面げつめん

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星条旗せいじょうきまえ敬礼けいれいするアーウィン飛行ひこう。1971ねん8がつ1にち
15ごう採集さいしゅうしたカンランせき玄武岩げんぶがん

かれらが就寝しゅうしんしているあいだヒューストン管制かんせいセンターでは酸素さんそがゆっくりとだが、確実かくじつれていることをずっと検知けんちしていた。宇宙船うちゅうせん搭載とうさいされているコンピューターから遠隔えんかく測定そくていでデータをすことは、そのよる電力でんりょく節約せつやくのために限度げんどがあり、管制かんせいセンターは飛行ひこうたちをこさなければ正確せいかく原因げんいん特定とくていすることができなかった。結局けっきょくスコットとアーウィンは予定よていよりも1あいだはやこされ、酸素さんそれの原因げんいん尿にょう浄化じょうか装置そうちのバルブの1つが「ひらく」になっていたからであることをめた。問題もんだい解決かいけつ飛行ひこうたちはふねがい活動かつどう準備じゅんびはじめた[ALSJ 3]

4あいだ、スコットとアーウィンは史上しじょう7番目ばんめと8番目ばんめ月面げつめんった人間にんげんとなった。2人ふたり着陸ちゃくりくせん格納庫かくのうこから月面げつめんしゃすと、最初さいしょふねがい活動かつどう目的もくてきであるハドリーきれみぞえんにあるエルボー(Elbow)クレーターへとかった。着陸ちゃくりくせんもどると、「アポロ月面げつめん実験じっけん装置そうちぐん(Apollo Lunar Surface Experiments Package, ALSEP)」を展開てんかいした。だい1かいせんがい活動かつどうは、およそ6あいだはん終了しゅうりょうした[4][ALSJ 4]

2にち目標もくひょう地点ちてんはモンス・ハドレイ・デルタ(Mons Hadley Delta)とばれる小山こやまで、りょうはそこでアペニン山脈さんみゃく周辺しゅうへんにあるクレーターでいし採集さいしゅうした。またこのときかれらはアポロ計画けいかくのちもっと有名ゆうめいになる、サンプル番号ばんごう15415ばん通称つうしょう創世そうせいいし(ジェネシス・ロック)」を発見はっけんした。着陸ちゃくりくせんもどってからも、スコットは前日ぜんじつ苦労くろうしたALSEP設置せっち場所ばしょでのボーリング作業さぎょうんだ。土質どしつ力学りきがくてき実験じっけんおこなったのち2人ふたり月面げつめん星条旗せいじょうき着陸ちゃくりくせん帰還きかんした。だい2かいせんがい活動かつどうは7あいだ12ふん終了しゅうりょうした[4][ALSJ 4]

最後さいごとなるだい3にちふねがい活動かつどうでは、ふたたびハドレーきれみぞえん探索たんさくした。今回こんかい着陸ちゃくりく地点ちてんのすぐ北西ほくせいにある場所ばしょ目標もくひょうだった。着陸ちゃくりくせんのそばにもどると、スコットはテレビカメラのまえ実験じっけん披露ひろうした。おな重力じゅうりょくじょうなかにあるものは、(空気くうき抵抗ていこうがなければ)質量しつりょう大小だいしょうかかわらずおな速度そくど落下らっかするという落体らくたい法則ほうそく実証じっしょうしようとしたのである。スコットは両手りょうて羽根はねとハンマーをち、同時どうじはなした。空気くうき抵抗ていこうけない月面げつめんじょうでは、両者りょうしゃ落体らくたい法則ほうそくどおり同時どうじ月面げつめん落下らっかした。そのスコットは月面げつめんしゃ着陸ちゃくりくせんからはなれた場所ばしょ移動いどうさせた。このあと管制かんせいかん地上ちじょうからの遠隔えんかく操作そうさ月面げつめんしゃ搭載とうさいされているテレビカメラをうごかし、着陸ちゃくりくせん離陸りりくする場面ばめん撮影さつえいするというのである。さらにかれは、宇宙うちゅう飛行ひこう慰霊いれい月面げつめんいた。その表面ひょうめんには、1971ねん当時とうじまでにいのちとしたソ連それんアメリカ宇宙うちゅう飛行ひこうたちの名前なまえきざまれていた。だい3かいせんがい活動かつどうは4あいだ50ふん終了しゅうりょうした[4][ALSJ 4]

ふねがい活動かつどう総計そうけい時間じかんは18.5あいだで、採集さいしゅうしたサンプルは合計ごうけいやく77キログラム(170ポンド)であった[ALSJ 4]

地球ちきゅうへの帰還きかん

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パラシュート2ほんのみをひらいて太平洋たいへいよう着水ちゃくすいする15ごう。1971ねん8がつ7にち

着陸ちゃくりくから2にちと18あいだ、ファルコンのうえ昇段しょうだん月面げつめんから離陸りりくし、軌道きどうじょう待機たいきするウォーデンが司令しれい機械きかいせんとのランデブーさいドッキングをおこなった。採集さいしゅうしたサンプルや様々さまざま物品ぶっぴん司令しれいせんうつえたのち着陸ちゃくりくせんはなされ地震じしん観測かんそくのため故意こい月面げつめん衝突しょうとつさせられた。さん飛行ひこうはそのつき周回しゅうかい軌道きどうじょうからさらなる月面げつめん観測かんそくおこない、小型こがた衛星えいせい放出ほうしゅつした。すべての任務にんむ完了かんりょうすると、軌道きどうから脱出だっしゅつするためSPSエンジンを点火てんかした[2]

翌日よくじつ地球ちきゅうへの帰路きろで、ウォーデンはふか宇宙うちゅうでのふねがい活動かつどうおこなった。このたね活動かつどうおこなわれるのは史上しじょうはじめてのことで、目的もくてき月面げつめん滞在たいざいちゅう自動じどう撮影さつえいした写真しゃしんフィルム(カセット2、5,500まい相当そうとう)を機械きかいせんのSIM(科学かがく機器きき搭載とうさい区画くかく)から回収かいしゅうすることにあった[5]。このわりにかれらはアポロ計画けいかくにおける宇宙うちゅう最長さいちょう滞在たいざい記録きろく樹立じゅりつし、アポロ計画けいかくもっとなが宇宙うちゅうにいた飛行ひこうたちとなった[6]

よく8がつ7にち機械きかいせんはなされ司令しれいせん大気圏たいきけんさい突入とつにゅうした。着水ちゃくすいさい、3ほんパラシュートのうち1ほんひらかなかったが、着水ちゃくすい必要ひつようなのは2ほんだけであったため問題もんだいはなかった(1ほん予備よびとして用意よういされていた)。12にちと7あいだ11ふん53びょうにわたる任務にんむ完了かんりょうし、飛行ひこうたちはきた太平洋たいへいようじょう回収かいしゅうせんオキナワ収容しゅうようされた[2][4]

機器きき

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宇宙船うちゅうせん

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15ごう司令しれい機械きかいせんは、CSM-112とばれるモデルを使用しようしていた。ふねめいは「エンデバー」で、由来ゆらいイギリス帆船はんせんエンデバーごうであった。また着陸ちゃくりくせんLM-10は空軍くうぐん士官しかん学校がっこう象徴しょうちょうするとりにちなんで「ファルコン(ハヤブサ)」とづけられた。もし15ごうがH計画けいかくとして飛行ひこうしていれば司令しれい機械きかいせんにはCSM-111が、着陸ちゃくりくせんにはLM-9が使用しようされることになっていた。CSM-111は1975ねんアポロ・ソユーズテスト計画けいかく使用しようされたが、LM-9は結局けっきょく使つかわれることはなく、現在げんざい[いつ?]はケネディ宇宙うちゅうセンターの来訪らいほうしゃ施設しせつ展示てんじされている。

15ごう科学かがく機器きき搭載とうさい区画くかく(SIM)

さい突入とつにゅう、3ほんあるパラシュートのうちの1ほん展開てんかいしたのちにもつれてしまったが、安全あんぜん着水ちゃくすいするには2ほんあれば十分じゅうぶんだった。エンデバーは無事ぶじ帰還きかんし、すべての任務にんむ成功裏せいこうり終了しゅうりょうした。

司令しれいせんのSIMが宇宙うちゅう使用しようされるのは今回こんかいはじめてのことであり、ケネディ宇宙うちゅうセンターの技術ぎじゅつしゃたちは最初さいしょ時点じてんからおおくの問題もんだいかかえていた。その最大さいだい原因げんいんは、SIMは重力じゅうりょく状態じょうたい使用しようするように設計せっけいされているにもかかわらず、整備せいび試験しけん地上ちじょうの1G状況じょうきょうおこなわざるをないという事実じじつにあった。たとえばガンマ線がんません分光ぶんこうけい質量しつりょう分析ぶんせきながさ7.5メートルの支持しじぼうさきりつけられており、試験しけんさいにはレールのうえ移動いどうさせて重力じゅうりょく状態じょうたい再現さいげんしようとしたのだが、あまりうまくはいかなかった。すべての機器きき宇宙船うちゅうせんおさめようとすると、今度こんどはデータのストリーミング同期どうきしないという問題もんだい発生はっせいしたため、技術ぎじゅつしゃらは設計せっけい変更へんこう最終さいしゅうてき試験しけんおこなうことをのぞんだ。またガンマ線がんません分光ぶんこうけい試験しけんをするさいには、半径はんけい10マイル(16キロメートル)以内いないにいるすべてのくるまのエンジンを停止ていしさせなければならなかった。

着陸ちゃくりくせんについては、うえ昇段しょうだん下降かこうだん両方りょうほう燃料ねんりょう酸化さんかざいのタンクの容量ようりょうやされ、また下降かこうだんロケットエンジンノズル延長えんちょうされた。さらに太陽たいよう電池でんち追加ついかしたことにより、電力でんりょく増強ぞうきょうされた。これらの改造かいぞうにより、着陸ちゃくりくせんそう重量じゅうりょうはそれまでよりも4,000ポンド(1,800キログラム)えて36,000ポンド(16,000キログラム)になった。

司令しれいせんエンデバーは、2016ねん現在げんざい[7]オハイオしゅうデイトンライト・パターソン空軍くうぐん基地きちにある国立こくりつアメリカ空軍くうぐん博物館はくぶつかん展示てんじされている。

月面げつめんしゃ

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月面げつめんしゃ製作せいさくボーイング担当たんとうし、1969ねん5がつから開発かいはつつづけられた。5フィート×20インチ(1.5×0.5メートル)にたたむことが可能かのうで、着陸ちゃくりくせんにはその状態じょうたい収納しゅうのうされている。乾燥かんそう重量じゅうりょうは460ポンド(209キログラム)、飛行ひこう機器きき搭載とうさいしたときの重量じゅうりょうは1,500ポンド(700キログラム)である。かく車輪しゃりん電気でんきモーターにより独立どくりつして駆動くどうし、それぞれが4ぶんの1馬力ばりき(200W)を発揮はっきする。運転うんてんりょう飛行ひこうともできることになっているが、実際じっさいにはつね船長せんちょう運転うんてんする。最高さいこう速度そくど時速じそく6から8マイル(10~12キロメートル)で、これによりはじめて飛行ひこう着陸ちゃくりくせんからとおはなれた場所ばしょ移動いどうし、科学かがく実験じっけんのための十分じゅうぶん時間じかんつことが可能かのうになった[8]

小型こがた衛星えいせい

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小型こがた衛星えいせい展開てんかい概念がいねん

小型こがた衛星えいせいPFS-1は、SIMからつき周回しゅうかい軌道きどう放出ほうしゅつされた。おも目的もくてきプラズマ宇宙うちゅうせんおよびつき磁場じば環境かんきょう調査ちょうさし、つき重力じゅうりょくじょう地図ちず作成さくせいすることであった。とくにプラズマ、エネルギー粒子りゅうし強度きょうど、ベクトル磁場じば測定そくていには重点じゅうてんき、衛星えいせい速度そくどこう精度せいど追跡ついせきすることを容易よういにした。衛星えいせいせられた基本きほんてき要求ようきゅうは、つき周回しゅうかい軌道きどうじょうのどこからでも磁場じば宇宙うちゅうせんのデータがられることであった[8]つき地球ちきゅうから38まんキロメートル(地球ちきゅう半径はんけいの60ばい)の距離きょりをほぼ円形えんけい軌道きどうえがいて周回しゅうかいしているため、衛星えいせい惑星わくせいあいだ空間くうかんから様々さまざま領域りょういきいたるまでの地球ちきゅう磁気圏じきけんめぐることができた。PFS-1は1971ねん8がつ4にちから1973ねん1がつまでデータをおくつづけた。

後年こうねん多数たすうつき周回しゅうかい衛星えいせい軌道きどう調査ちょうさした結果けっか科学かがくしゃたちはつき周回しゅうかいてい軌道きどう不安定ふあんていなものであることを発見はっけんするにいたった。PFS-1は幸運こううんなことに、4種類しゅるいあるつき凍結とうけつ軌道きどうちかくに放出ほうしゅつされた。当時とうじ技術ぎじゅつしゃたちはまったらなかったことなのだが、この軌道きどうじょうでは衛星えいせい半永久はんえいきゅうてきつき周回しゅうかいつづけることができた[9]

衛星えいせい放出ほうしゅつつき軌道きどうでの飛行ひこうたちの最後さいご任務にんむで、地球ちきゅう帰還きかんのためのエンジン噴射ふんしゃの1あいだまえおこなわれた。アポロ16ごうでも、実質じっしつてきまった同一どういつ衛星えいせい放出ほうしゅつされた。

発射はっしゃ

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15ごうげたSA-510は10かい発射はっしゃされたサターン5がたロケットで、ペイロード拡張かくちょうするため飛行ひこう軌道きどうやロケット本体ほんたいにいくつかの改良かいりょうがなされていた。まず発射はっしゃ方向ほうこうはこれまでよりもみなみり(方位ほういかく80~100)にけられ、待機たいき軌道きどう高度こうども166キロメートル(90うみさと)にげられた。これらの変更へんこうによりペイロードは1,100ポンド(500 キログラム)増加ぞうかした。また予備よび燃料ねんりょうらされ、さらにだい1だんS-ICをだい2だんS-IIからはなすためのぎゃく噴射ふんしゃロケットのかずも8ほんから4ほんにされた。ただしぎゃく噴射ふんしゃロケットと、だい1だんF-1の中央ちゅうおうエンジンの燃焼ねんしょう時間じかん延長えんちょうされた(詳細しょうさいについてはサターン5がたロケット参照さんしょうのこと)。またS-IIについても、pogo振動しんどうおさえるための改良かいりょうがなされた[8]

すべての機器ききまれたのち、サターン5がたロケットは39A発射はっしゃだい搬送はんそうされた。1971ねんの6がつ下旬げじゅんから7がつ上旬じょうじゅんにかけて発射はっしゃだい整備せいびとうすくなくとも4かいにわたってかみなり直撃ちょくげきけたが、損傷そんしょうはわずかなものだった。

宇宙うちゅうふく

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15ごう以前いぜん宇宙うちゅうふくでは、生命せいめい維持いじ酸素さんそ供給きょうきゅうおよび二酸化炭素にさんかたんそ除去じょきょ)・冷却れいきゃくすい通信つうしんケーブルの3系統けいとうをまとめたコードが2ほん並行へいこうしてつながれていた。このタイプのものはつきかなかった飛行ひこうふくめて、すべてのアポロ計画けいかく船長せんちょう着陸ちゃくりくせん操縦そうじゅう着用ちゃくようしていたが、15ごうではA7LBというしん方式ほうしき宇宙うちゅうふく採用さいようされた。A7LBではコードの接合せつごう三角形さんかっけいになり、着脱ちゃくだつようファスナー右肩みぎかたからひだりしりにかけてななめに配置はいちされ(これまでは上下じょうげ配置はいちされていた)、腰部ようぶ屈伸くっしんするようになった。これによって飛行ひこうをかがめたり月面げつめんしゃせきすわったりすることが可能かのうになり、さらに生命せいめい維持いじ装置そうち長期間ちょうきかん月面げつめん活動かつどうができるように改良かいりょうされた。一方いっぽう司令しれいせん操縦そうじゅうはそれまでは接合せつごうが3つあるタイプのものを使用しようしていたが、15ごうでは冷却れいきゃくすい接合せつごうがない、それ以前いぜん月面げつめん活動かつどう使つかわれていたきゅうタイプのものを着用ちゃくようした。これは司令しれいせん操縦そうじゅうふか宇宙うちゅうでのふねがい活動かつどうをして、SIMからフィルムの回収かいしゅう作業さぎょうをするためであった[8]

醜聞しゅうぶん

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国立こくりつ航空こうくう宇宙うちゅう博物館はくぶつかん展示てんじされているスコットの宇宙うちゅうふく
15ごうのロビンスメダル(Robbins Medallion)

計画けいかく終了しゅうりょう飛行ひこうたちとNASAの名誉めいよは、スコットがあるドイツひと切手きって収集しゅうしゅうわした金銭きんせんてきなやりとりがあかるみにたことによってよごされることとなった[10]かれはウォルター・アイアーマン(H. Walter Eiermann)という人物じんぶつから、記念きねん切手きってひそかにつきまでってくようにちかけられていた。アイアーマンはNASAの職員しょくいん宇宙うちゅう飛行ひこうのグループと、おおくの専門せんもんてきかつ社会しゃかいてきなつながりをっている人物じんぶつだった。スコットは依頼いらいこたえ、公認こうにん初日しょにちカバー398まい宇宙うちゅうふくひそませ、月面げつめんでの休憩きゅうけい時間じかんちゅう封筒ふうとうりつけ、さらにみずからの署名しょめいまでしていたのである(当初とうしょは400まいってくはずだったが、ふうをするさいに2まい破損はそんしてしまったため破棄はきされていた)。アイアーマンはこのうちの100まいり、飛行ひこうたちにそれぞれ7,000ドル銀行ぎんこう預金よきんかたち支払しはらうことを約束やくそくした。さらにアポロ計画けいかく終了しゅうりょうするまではけっしてこの切手きってのことを宣伝せんでんしたり他者たしゃ売却ばいきゃくしたりすることはないともちかったのだが、そのこの100まいはアイアーマンからヘルマン・ジーガー(Hermann Sieger)という業者ぎょうしゃわたされ、かれがドイツ国内こくないでこれを1,500ドルで売買ばいばいはじめたことによって問題もんだい発覚はっかくした。この事実じじつあかるみにたとき、NASAはただちにのこりの298まい飛行ひこうから没収ぼっしゅうした。さらにスコットらもアイアーマンから金銭きんせんてき報酬ほうしゅうらないことにめたが、宇宙うちゅう飛行ひこうたちの倫理りんりかんについてはかく方面ほうめんから疑問ぎもんこえげかけられた。15ごうかぎらず、飛行ひこう私的してき物品ぶっぴん宇宙うちゅうってき、のちに「おみやげ」というかたち金銭きんせんてき報酬ほうしゅうるという行為こういは、以前いぜんから慣習かんしゅうしていたことがこの事件じけんあきらかになったからである。のちにアーウィンは著書ちょしょなかで、「自分じぶん子供こども大学だいがく学費がくひはらうためにこの取引とりひきおうじたのだ」とべた[11][ようページ番号ばんごう]

また15ごうについては、もうひと論議ろんぎ事件じけん飛行ひこう終了しゅうりょうこった。スコットらはポール・ヴァン・ヘイドンク(Paul Van Hoeydonck)というベルギーじん彫刻ちょうこくに、宇宙うちゅう開発かいはつ促進そくしんのためにいのちうしなったアメリカとソビエトの宇宙うちゅう飛行ひこうたちを追悼ついとうするためのしょうぞうつくるように依頼いらいしていた。宇宙うちゅう飛行ひこう慰霊いれいばれたこのぞうは、だい3かいせんがい活動かつどう終了しゅうりょうさいべいソの14めい飛行ひこうきざんだ銘板めいばんとともに月面げつめんしゃよこかれた。だがこの時点じてんではられていなかったことなのだが、ソ連それん史上しじょうはじめて選出せんしゅつした20めい宇宙うちゅう飛行ひこうのうち、2めいは15ごう飛行ひこうよりもまえにすでに死亡しぼうしていたのである。ヴァレンティン・ボンダレンコ(Valentin Bondarenko)は1961ねん3がつ鉄道てつどう事故じこで、グリゴリー・ネリュボフ(Grigori Nelyubov)も1966ねん2がつ鉄道てつどう事故じこいのちとしていた(ネリュボフの死因しいん公式こうしきには事故じことされているが、実際じっさいには泥酔でいすい状態じょうたい列車れっしゃかれたもので自殺じさつられている。ソ連それん宇宙うちゅう飛行ひこうのイメージがきずつくことをおそれたため、ながらく自殺じさつ事実じじつ隠蔽いんぺい事故じこ死亡しぼうしたことにしていた)[12]したがって、この2めい月面げつめんかれた銘板めいばんにはかれていなかった。慰霊いれいはテレビカメラがされているあいだ月面げつめんかれた。スコットがこのあいだなにをやっていたのかは、アーウィンしからないことであった。またスコットは管制かんせいかんたいしては月面げつめんしゃ周囲しゅうい清掃せいそう作業さぎょうおこなっていると報告ほうこくしていたので、地球ちきゅうでもかれ行動こうどうよしもなかった。飛行ひこうらはヘイドンクにたいし、このしょうぞう複製ふくせいつくらないということで同意どういしていたのだが、飛行ひこう終了しゅうりょうかれらが記者きしゃ会見かいけんでこの追悼ついとう行為こういのことをあきらかにすると、国立こくりつ航空こうくう宇宙うちゅう博物館はくぶつかん展示てんじようしょうぞう複製ふくせいつくってほしいと依頼いらいしてきた。さらにはヘイドンクも同意どういやぶって複製ふくせいつくり、広告こうこくしたりしたのだが、NASAからの圧力あつりょく販売はんばいげた。のちにNASAが15ごう最終さいしゅう報告ほうこくしょをまとめたとき、この公認こうにんしょうぞうについてはなにもコメントしていなかった。

計画けいかく記章きしょう

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15ごう飛行ひこうは3めいとも現役げんえきのアメリカ空軍くうぐん軍人ぐんじんであったため、全員ぜんいん海軍かいぐん軍人ぐんじんだった12ごう航海こうかいちゅう帆船はんせんをテーマにしていたのとおなじように、記章きしょう空軍くうぐんをモチーフにしている。円形えんけい記章きしょうなかでは、とりあらわあかしろあおせん月面げつめんのハドリーきれみぞ上空じょうくう飛行ひこうしている。そのすぐうしろには、15をあらわローマ数字すうじのXVが、クレーターのせんかれている。全体ぜんたいあおあかせんかこまれ、そのあいだしろおびなかには飛行ひこうたちの名前なまえしるされている。スコットはエミリオ・プッチ (Emilio Pucci) というファッションデザイナーにこの記章きしょう制作せいさく依頼いらいした。プッチのあんでは当初とうしょ形態けいたい四角しかくだったが、飛行ひこうらの意見いけんにより円形えんけいあらためられ、さらにいろあおみどりだったのを愛国あいこくてきあかしろあお変更へんこうされた。ウォーデンによればそれぞれのとりかく飛行ひこうあらわしているそうで、いちばんじょうにあるしろ司令しれいせん操縦そうじゅうであるかれに、あおはスコットに、あかはアーウィンに対応たいおうしているとのことである。飛行ひこう番号ばんごうは、NASAは算用さんよう数字すうじあらわすべきだとつよ主張しゅちょうしていたが、記章きしょうではローマ数字すうじあらわされた[13]

宇宙うちゅうからの痕跡こんせき確認かくにん

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15ごう着陸ちゃくりくするさい下降かこうだん排気はいきガスによって月面げつめん形成けいせいされた円形えんけい痕跡こんせきは、2008ねん日本にっぽんつき探査たんさ衛星えいせいかぐや撮影さつえいした画像がぞう比較ひかく分析ぶんせきによって確認かくにんされた。この画像がぞうは15ごう司令しれいせんから撮影さつえいされたものともよく一致いっちし、アポロ計画けいかく終了しゅうりょうして以来いらい月面げつめんのこされた痕跡こんせき宇宙うちゅうから撮影さつえいしたはじめてのれいとなった[14]

映像えいぞう

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大衆たいしゅう文化ぶんかでの表現ひょうげん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 1971 Year in Review: Apollo 14 and 15”. UPI.com. United Press International (1971ねん). 2013ねん7がつ19にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d Apollo 15 Flight Journal”. Apollo 15 Flight Journal. NASA. 2011ねん7がつ20日はつか時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2011ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  3. ^ 一時いちじ酸素さんそれる」『中國ちゅうごく新聞しんぶん昭和しょうわ46ねん8がつ3にち夕刊ゆうかん.1めん
  4. ^ a b c d e f Wade, Mark. “Apollo 15”. Encyclopedia Astronautica. 2011ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  5. ^ 宇宙うちゅう遊泳ゆうえい成功せいこう 帰還きかん軌道きどうはじめて」『中國ちゅうごく新聞しんぶん昭和しょうわ46ねん8がつ6にち 1めん
  6. ^ Day 11: Worden's EVA Day”. Apollo 15 Flight Journal. NASA. 2011ねん6がつ29にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2011ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  7. ^ “Apollo 15 Command Module” (英語えいご). National Museum of the US Air Force™. https://www.nationalmuseum.af.mil/Visit/Museum-Exhibits/Fact-Sheets/Display/Article/197685/apollo-15-command-module/ 2018ねん8がつ28にち閲覧えつらん 
  8. ^ a b c d Apollo 15 Press Kit” (PDF). Washington, D.C.: NASA (1971ねん7がつ15にち). 2011ねん7がつ21にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2011ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  9. ^ Bell, Trudy E. (2006ねん11月6にち). “Bizarre Lunar Orbits”. Science@NASA. NASA. 2012ねん12月9にち閲覧えつらん。 “つき重力じゅうりょくかたより(mascon)は、ほとんどのてい周回しゅうかい衛星えいせい軌道きどう不安定ふあんていなものにしている。…50から60マイル上空じょうくう周回しゅうかいする衛星えいせいは、masconの影響えいきょうにより前後ぜんご左右さゆうられる。その正確せいかく方向ほうこうりのつよさは衛星えいせい軌道きどうによってことなる。搭載とうさいされているロケットで定期ていきてき軌道きどう修正しゅうせいしなければ、てい軌道きどうやく60マイル、100キロメートル以下いか)に放出ほうしゅつされたほとんどの衛星えいせい最終さいしゅうてきには月面げつめん激突げきとつすることになる。…衛星えいせい半永久はんえいきゅうてきつき周回しゅうかいつづけることができる「凍結とうけつ軌道きどう」はいくつかあって、軌道きどう傾斜けいしゃかくが27、50、76、86のときに発生はっせいする—最後さいごのものはほとんどがつきょくちかくをとおることになる。比較的ひかくてき長期間ちょうきかんがつ周回しゅうかいした15ごう小型こがた衛星えいせいPFS-1の軌道きどうは28で、凍結とうけつ軌道きどうひとつにちかいものだったが、16ごうのPFS-2はわずか11だった。
  10. ^ Patterson, Thom (2011ねん7がつ27にち). “Apollo's most controversial mission”. Light Years (CNN). http://lightyears.blogs.cnn.com/2011/07/27/apollos-most-controversial-mission/ 2011ねん7がつ27にち閲覧えつらん 
  11. ^ Irwin & Emerson 1973
  12. ^ Apollo Lunar Surface Journal
  13. ^ Worden & French 2011, pp. 144–145
  14. ^ "The 'halo' area around Apollo 15 landing site observed by Terrain Camera on SELENE(KAGUYA)" (Press release). Chōfu, Tokyo: JAXA. 20 May 2008. 2013ねん7がつ19にち閲覧えつらん
  15. ^ Experiment: Light Flashes Experiment Package (Apollo light flash moving emulsion detector)”. Astromaterials Research and Exploration Science Directorate. NASA. 2013ねん7がつ17にち閲覧えつらん

アポロ月面げつめんジャーナル

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  1. ^ a b Landing at Hadley”. Apollo 15 Lunar Surface Journal. NASA (1996ねん). 2011ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  2. ^ Stand-Up EVA”. Apollo 15 Lunar Surface Journal. NASA (1996ねん). 2011ねん7がつ14にち閲覧えつらん
  3. ^ Wake-up for EVA-1”. Apollo 15 Lunar Surface Journal. NASA (1996ねん). 2011ねん7がつ18にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d Jones, Eric M. (1995ねん). “Mountains of the Moon”. Apollo 15 Lunar Surface Journal. NASA. 2011ねん6がつ28にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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