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アレクサンダー・ハミルトン

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
アレクザンダー・ハミルトンから転送てんそう
アレクサンダー・ハミルトン
Alexander Hamilton
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく初代しょだい財務ざいむ長官ちょうかん
任期にんき
1789ねん9がつ11にち – 1795ねん1がつ31にち
大統領だいとうりょうジョージ・ワシントン
後任こうにんしゃオリヴァー・ウォルコット
連合れんごう会議かいぎ代議員だいぎいん
ニューヨークしゅう選出せんしゅつ
任期にんき
1788ねん – 1789ねん
憲法けんぽう制定せいてい会議かいぎ代議員だいぎいん
ニューヨークしゅう選出せんしゅつ
任期にんき
1787ねん – 1787ねん
ニューヨークしゅう議会ぎかい代議員だいぎいん
ニューヨークぐん選出せんしゅつ
任期にんき
1787ねん – 1788ねん
アナポリス会議かいぎ代議員だいぎいん
ニューヨークしゅう選出せんしゅつ
任期にんき
1786ねん – 1786ねん
連合れんごう会議かいぎ代議員だいぎいん
ニューヨークしゅう選出せんしゅつ
任期にんき
1782ねん – 1783ねん
個人こじん情報じょうほう
生誕せいたん (1755-01-11) 1755ねん1がつ11にち または 1757ねん
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国おうこく ネイビスとう現在げんざいセントクリストファー・ネイビス
死没しぼつ1804ねん7がつ12にち(47さい または 49さい
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
ニューヨークしゅう ニューヨーク
政党せいとう 連邦れんぽうとう
配偶はいぐうしゃエリザベス・スカイラー・ハミルトン
子供こどもフィリップ
アンジェリカ
アレクサンダー
ジェームズ・アレクサンダー
ジョン・チャーチ
ウィリアム・スティーブン
エリザ・ハミルトン・ホリー
フィリップ(リトル・フィル)
専業せんぎょう軍人ぐんじん, 弁護士べんごし, 資本しほん, 政治せいじ哲学てつがくしゃ
宗教しゅうきょう米国べいこくせい公会こうかい
署名しょめい
兵役へいえき経験けいけん
所属しょぞくこく ニューヨーク植民しょくみん(1775ねん発足ほっそく
ニューヨークしゅう(1776ねん発足ほっそく
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく(1777ねん発足ほっそく
所属しょぞく組織そしき ニューヨーク植民しょくみん砲兵ほうへい中隊ちゅうたい
大陸たいりくぐん
アメリカ合衆国陸軍の旗 アメリカ陸軍りくぐん
ぐんれき1775ねん – 1776ねん民兵みんぺい
1776ねん – 1781ねん
1798ねん – 1800ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう任官にんかん
中尉ちゅうい砲兵ほうへい
最終さいしゅう階級かいきゅう
合衆国がっしゅうこく陸軍りくぐん少将しょうしょうアメリカ陸軍りくぐんさい先任せんにん士官しかん
戦闘せんとうアメリカ独立どくりつ戦争せんそう
ハーレムハイツのたたか
ホワイト・プレインズのたたか
トレントンのたたか
プリンストンのたたか
モンマスのたたか
ヨークタウンのたたか
擬似ぎじ戦争せんそう

アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton, 1755ねん1がつ11にち - 1804ねん7がつ12にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく建国けんこくちち1人ひとり日本語にほんごではアレキサンダー・ハミルトンアレグザンダー・ハミルトンとも表記ひょうきされる。政治せいじ憲法けんぽう思想家しそうか哲学てつがくしゃであり、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく初期しょき外交がいこうのリーダーであった。アメリカ独立どくりつ戦争せんそうさいにはそう司令しれいかんジョージ・ワシントン副官ふっかん砲兵ほうへい将校しょうこう陸軍りくぐん中佐ちゅうさ)をつとめた。

1787ねんフィラデルフィア憲法けんぽう制定せいてい会議かいぎ発案はつあんしゃで、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽう実際じっさい起草きそうしゃアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽうコメンタリーの古典こてんザ・フェデラリスト』のしゅ執筆しっぴつしゃふる英国えいこくほう思想しそうほう支配しはい」にもとづくコモン・ローした憲法けんぽうした、立憲りっけん主義しゅぎ著名ちょめい思想家しそうかである。司法しほうによる違憲いけん立法りっぽう審査しんさけん制度せいど理論りろんは、ハミルトンによる。英国えいこくアクトンきょうは、ハミルトンを「バークえる世界せかい随一ずいいち天才てんさい」と評価ひょうかをしている。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく初代しょだい財務ざいむ長官ちょうかん在任ざいにん1789ねん9月11にち - 1795ねん1がつ31にち)。陸軍りくぐん少将しょうしょう連邦れんぽうとう党首とうしゅ。1801ねん米国べいこく最古さいこ日刊にっかんニューヨーク・ポストかみバンク・オブ・ニューヨーク創業そうぎょうした。1804ねん対立たいりつするアーロン・バーとの決闘けっとう死去しきょ、49さいだった。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

アレクサンダー・ハミルトン
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく10ドル紙幣しへい(SERIES 2004A)。アレクサンダー・ハミルトンの肖像しょうぞうは、1805ねん画家がかジョン・トランブルえがいたものをもとにしている。

ちと初期しょき経歴けいれき[編集へんしゅう]

ハミルトンはえいりょう西にしインド諸島しょとうネイビスとうまれる。父親ちちおやはスコットランドの地主じぬしよんなんだが、ハミルトンがまれたときはカリブ海かりぶかいちいさなしまいち商人しょうにんにすぎず、しかものち破産はさん零落れいらくしていく。はははフランスのユグノー子孫しそんという。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくの「建国けんこくちち」たちはみな成功せいこうした入植にゅうしょくしゃからの名門めいもん富裕ふゆうそうだしであったが、ほこるべき家柄いえがら内縁ないえん関係かんけい両親りょうしんあいだまれたハミルトンは例外れいがいともえる存在そんざいであった。

1768ねんあにとともに孤児こじとなり、ニューヨーク商人しょうにんのクルーガーとビークマン所有しょゆうセント・クロイとうにあるみせはたらきはじめ、4ねんには店主てんしゅわってみせまかされることもあり、その経営けいえい能力のうりょくたか評価ひょうかされていた。1771ねんにセント・クロイとう発行はっこうされている新聞しんぶん自作じさく掲載けいさいされ、文才ぶんさい片鱗へんりんしめす。その翌年よくねんに、ハリケーン来襲らいしゅうほうじた手紙てがみ新聞しんぶん記者きしゃすぐれた文章ぶんしょうとしてみとめられ、『ザ・ロイヤル・ダニッシュ・アメリカン・ガゼット』掲載けいさいされた。店主てんしゅ親類しんるい縁者えんじゃ援助えんじょにより、1773ねんよりニューヨークのキングズカレッジ(げんコロンビア大学ころんびあだいがく)に入学にゅうがくし、行政ぎょうせいがく政治せいじがくまなぶかたわら、歴史れきし文学ぶんがく政治せいじ哲学てつがくなどのひろ分野ぶんやにわたる読書どくしょはじめた。この偶然ぐうぜん幸運こううんまずしいいち苦学くがくせいぎなかったハミルトンはみずからの天賦てんぷざい発揮はっきできる好機こうきてんからさずかったのである。

1774ねんサミュエル・シーバリーの大陸たいりく会議かいぎ非難ひなん反駁はんばくした論文ろんぶん大陸たいりく会議かいぎ措置そちかんするてき中傷ちゅうしょうたいし、その措置そち全面ぜんめんてき擁護ようごす』を公刊こうかん。これは独立どくりつ革命かくめいかんしてハミルトンが執筆しっぴつした最初さいしょ公的こうてき文書ぶんしょである。1775ねん2がつ、さらに大陸たいりく会議かいぎ擁護ようごし、愛国あいこく見解けんかい表明ひょうめいした『その農民のうみん見解けんかい論駁ろんばくす』を公刊こうかん同年どうねん6がつ、『ケベックほうかんする所見しょけん』を発表はっぴょうし、イギリス本国ほんごく植民しょくみん支配しはいつよめるためにカナダのカトリック教徒きょうと利用りようする計画けいかくがあることを批判ひはん。10月、大衆たいしゅう印刷いんさつ業者ぎょうしゃへの暴行ぼうこう非難ひなん

1776ねん3がつ14にちニューヨーク植民しょくみん砲兵ほうへい中隊ちゅうたい指揮しきする大尉たいい任命にんめいされ、独立どくりつ戦争せんそう従軍じゅうぐん幾多いくた会戦かいせん参加さんかして軍人ぐんじんとしてもすぐれた才能さいのう発揮はっきした。1777ねんからジョージ・ワシントンそう司令しれいかん副官ふっかん任命にんめいされ、中佐ちゅうさとして軍務ぐんむ奔走ほんそうするかたわら、ヒュームホッブズなどの読書どくしょ研究けんきゅうつとめた。1778ねんに『プブリウス書簡しょかん』を新聞しんぶん紙上しじょう発表はっぴょうし、軍需ぐんじゅひん納入のうにゅうをめぐる不正ふせい事件じけん摘発てきはつし、大陸たいりく会議かいぎ欠陥けっかんもあわせて批判ひはんする。1779ねん12月から翌年よくねんの3がつにかけて、独立どくりつ運動うんどう指導しどうしゃ書簡しょかんをおくり、そのなかですでに合衆国がっしゅうこく銀行ぎんこう設立せつりつ構想こうそうてている。1781ねん7がつ12にちから4かいにわたって連載れんさいされた論文ろんぶん大陸たいりく主義しゅぎしゃ』では、強力きょうりょく中央ちゅうおう政府せいふ樹立じゅりつ必要ひつよういた。10月14にちヨークタウン陥落かんらく陣頭じんとう指揮しきをとり、10ばん堡塁ほうるいをおとし勝利しょうりしている。

軍務ぐんむかれ1782ねんから弁護士べんごし開業かいぎょう目指めざし、ブラックストーングロティウス、プッフェンドルフについて勉強べんきょうする。4月18にちから新聞しんぶん掲載けいさいされた『大陸たいりく主義しゅぎしゃ』の続編ぞくへんで、通商つうしょう規制きせい必要ひつようく。7月22にちにニューヨークくに大陸たいりく会議かいぎ議員ぎいん選出せんしゅつされ、そこで大陸たいりく会議かいぎ課税かぜいけん強化きょうか提唱ていしょう。1784ねん1がつからの『フォーションからの書簡しょかん』で、ニューヨークくににおけるイギリス忠誠ちゅうせいへの不当ふとう処置しょち批判ひはんした。

1786ねんニューヨークくに議会ぎかいにより、アナポリス会議かいぎ委員いいん選出せんしゅつされ、フィラデルフィアにあたらしい議会ぎかい開催かいさいするようかくくに要望ようぼうした声明せいめいぶん起草きそう。1787ねん3がつニューヨークくに議会ぎかいにより憲法けんぽう制定せいてい会議かいぎ連合れんごう規約きやく改正かいせいのための特別とくべつ会議かいぎフィラデルフィア憲法けんぽう制定せいてい会議かいぎ)への代表だいひょうとして派遣はけんされ、9月17にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽう草稿そうこう作成さくせいし、ついで憲法けんぽう草案そうあん署名しょめいをする。10月27にちからジェームズ・マディソンジョン・ジェイ協力きょうりょくして翌年よくねん5がつ28にちまでに『ザ・フェデラリスト論文ろんぶん執筆しっぴつ新聞紙しんぶんし上等じょうとう発表はっぴょうして、合衆国がっしゅうこく憲法けんぽう批准ひじゅん促進そくしんした。1789ねん9がつ11にち、ワシントン内閣ないかく財務ざいむ長官ちょうかん任命にんめいされる。

1790ねんから1791ねんまでにハミルトンによって連邦れんぽう議会ぎかい提出ていしゅつされた報告ほうこくしょは、《おおやけ信用しんよう》《占有せんゆう》《蒸留じょうりゅう酒税しゅぜい》《国立こくりつ銀行ぎんこう》《貨幣かへい鋳造ちゅうぞうしょ設立せつりつ》《製造せいぞうぎょう》とじつ多種たしゅ多様たよう一方いっぽう「マリア・レイノルズ事件じけん」で不倫ふりん暴露ばくろされたり、公債こうさい操作そうさによる不当ふとう利益りえき獲得かくとく疑惑ぎわくりざたされ、トーマス・ジェファーソンをはじめとする政敵せいてきとの確執かくしつつよまる。1792ねんにハミルトンが主導しゅどうして導入どうにゅうした蒸留じょうりゅう酒税しゅぜいによって、1794ねん発生はっせいしたウィスキーぜい反乱はんらんにおいては、もろしゅう民兵みんぺいたいからなる1まん2000の連邦れんぽうぐん文民ぶんみん顧問こもんとして帯同たいどうし、鎮圧ちんあつする。イギリスとの妥協だきょう一環いっかんとして1795ねんむすばれたジェイ条約じょうやく正当せいとうせいを『カミュラス』論文ろんぶん擁護ようごし、連邦れんぽう議会ぎかい批准ひじゅんさせた。このとし財務ざいむ長官ちょうかん辞任じにんしている。1798ねんから陸軍りくぐん検閲けんえつ総監そうかんとして、あたらしく編成へんせいされた連邦れんぽうぐん軍制ぐんせい兵制へいせい確立かくりつ遂行すいこう。1803ねんには弁護士べんごしとしての名声めいせい最高潮さいこうちょうたっした。

しかしながら、出自しゅつじのハンディは初代しょだい大統領だいとうりょうジョージ・ワシントンというのちたてあと、ハミルトンの人生じんせいくらいものにしていく。連邦れんぽうとう党首とうしゅでありながら、大統領だいとうりょうになる政治せいじ状況じょうきょうまれず、また政治せいじてき判断はんだん往年おうねんするどさはなく迷走めいそう迷路めいろおちいったようであった。

マリア・レイノルズ事件じけんとアーロン・バーとの対立たいりつ[編集へんしゅう]

アレクサンダー・ハミルトンとアーロン・バーの決闘けっとう(1804ねん

ハミルトンは1794ねんにマリア・レイノルズ事件じけんでその名声めいせいきずつき、政治せいじてきダメージをけることとなる。マリアのおっとジェームズはハミルトンとマリアとの性的せいてき関係かんけいみとめていたにもかかわらず、ハミルトンを恐喝きょうかつ金銭きんせん要求ようきゅうした。ジェームズ・レイノルズは偽造ぎぞうつみ逮捕たいほされたとき、ジェームズ・モンローはじめとするすうめいリパブリカンとういん連絡れんらくった。かれらはハミルトンのもとおとずれマリアとの関係かんけいいただしたが、ハミルトンは関係かんけいみとめながらも無罪むざいであることを強調きょうちょうした。モンローはこと詳細しょうさい公表こうひょうしないことを約束やくそくしたが、トーマス・ジェファーソンにはそのつもりがなかった。ハミルトンは情事じょうじ公表こうひょういられ、それは家族かぞくおよび支持しじしゃ衝撃しょうげきあたえた。うわさされた不義ふぎによるモンローとの決闘けっとうぜん上院じょういん議員ぎいんアーロン・バーによってけられた。

皮肉ひにくにもバーはのマリア・レイノルズの離婚りこん訴訟そしょうにおいて、いくつかの疑問ぎもん提示ていじすることでハミルトンを元気げんきづけた。しかしながら、ハミルトンとバーのニューヨーク法曹界ほうそうかいにおける関係かんけいは、憎悪ぞうおであった。実際じっさいかれらの家族かぞくはしばしば関係かんけいすることがあった。バーが1791ねん上院じょういん議員ぎいんせんでハミルトンの義父ぎふフィリップ・スカイラーやぶったとき、ハミルトンはバーをおとしいれるための秘密ひみつ工作こうさくはじめた。

ハミルトンの1795ねん財務ざいむ長官ちょうかん辞任じにんおおやけ活動かつどうからの引退いんたいとはならなかった。弁護士べんごしぎょう再開さいかいでハミルトンは政界せいかいたいしてアドバイザーおよび友人ゆうじんとして関係かんけいたもっていた。ハミルトンはワシントンの退任たいにん演説えんぜつ影響えいきょうおよぼしていたとかんがえられている。ハミルトンと、ワシントンの後任こうにんジョン・アダムズとの関係かんけい緊張きんちょうしていた。連邦れんぽうとう大統領だいとうりょう候補こうほとしてアダムズの指名しめいさまたげようとするハミルトンの工作こうさくとう分割ぶんかつし、1800ねん大統領だいとうりょうせんでジェファーソンのリパブリカン党員とういん勝利しょうり寄与きよした。

ジェファーソンの大統領だいとうりょう就任しゅうにん、バーではなくハミルトンの起用きよう選択せんたくしたことはバーにたいするハミルトンの最初さいしょ打撃だげきだった。バーは1804ねんにニューヨークしゅう知事ちじせん連邦れんぽうとうから出馬しゅつばしようとしたが、無所属むしょぞく候補こうほとして出馬しゅつばした。ある新聞しんぶんがチャールズ・D・クーパーのハミルトンによるものとおもわれる「卑劣ひれつ見解けんかい」を掲載けいさいした。政治せいじてき名誉めいよ回復かいふく機会きかいかんがえたバーはハミルトンにたいして謝罪しゃざい要求ようきゅうした。ハミルトンはバーが新聞しんぶん言及げんきゅうした事実じじつ証明しょうめいできなかったとして要求ようきゅう拒絶きょぜつした。

バーとハミルトンの決闘けっとうは、さんねんまえにハミルトンの息子むすこフィリップが父親ちちおや名誉めいよまもるために決闘けっとうおこなやぶれた場所ばしょおなニュージャージーしゅうウィホーケンいわだなうえで1804ねん7がつ11にちおこなわれることとなった。ハミルトンは息子むすこから決闘けっとう反対はんたいしたが、決闘けっとう夜明よあけにはじまりバーはハミルトンのしも胸部きょうぶった。ハミルトンの銃弾じゅうだんはバーからはずれたともわれるし、じゅう点火てんかしなかったともわれる。ハミルトンは翌日よくじつ死去しきょし、マンハッタンのトリニティ教会きょうかい墓地ぼち埋葬まいそうされた。バーはハミルトンにたいする殺人さつじんとその反逆はんぎゃく裁判さいばんでニューヨークから逃亡とうぼうし、1836ねん死去しきょした。

ハミルトン哲学てつがく[編集へんしゅう]

人間にんげんかん[編集へんしゅう]

ハミルトンの人間にんげんかんおおきく影響えいきょうしたのはスコットランド哲学てつがくであり、とりわけデイヴィッド・ヒュームのそれは決定的けっていてきなほどであった。ハミルトンの政治せいじ制度せいどにかかわる主要しゅよう論文ろんぶん基調きちょうとなっている「あらゆる人間にんげん悪人あくにんである」は、ヒュームの『人間にんげん本性ほんしょうろん』からであるのはうまでもない。かくしてハミルトンが、デモクラシー危険きけんして(直接ちょくせつ選挙せんきょ原則げんそく禁止きんしなど)それに制限せいげん制度せいどづくりを提唱ていしょうしたのである。アダム・スミス影響えいきょうもかなりつよい。

連邦れんぽう主義しゅぎ[編集へんしゅう]

ハミルトンは、統一とういつされた中央ちゅうおう政府せいふゆうする必要ひつようがあるとかんがえていた。また、後述こうじゅつする近代きんだいてき資本しほん主義しゅぎ基盤きばん連邦れんぽう政府せいふによってたつものとした。連邦れんぽう主義しゅぎ参照さんしょうのこと。このかんがえは、現在げんざい民主党みんしゅとう基本きほん思想しそうひとつを構成こうせいしている。

ほう思想しそう[編集へんしゅう]

ハミルトンのほう思想しそうは、英国えいこく思想しそうにおけるにんほう思想しそう総合そうごうして形成けいせいされている。それは、エドワード・コークきょうの『英国えいこくほう提要ていよう』『判例はんれいしゅう』とブラックストンの『イギリスほう釈義しゃくぎ』である。ハミルトンの出世しゅっせさくである20さいのときの『反駁はんばくされた農民のうみん』でもアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく古典こてんとなった『ザ・フェデラリスト』でも、ブラックストンからの引用いんようおおい。[よう出典しゅってん]

ハミルトンは、17世紀せいき初頭しょとうふる英国えいこくほう思想しそうにもとづき、国王こくおうなし、貴族きぞくなしの政体せいたいにおいて、コモン・ロー精神せいしんほう支配しはい」を制度せいどできるよう、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽう起草きそうした。[よう出典しゅってん]アメリカにおける立憲りっけん主義しゅぎ創始そうししゃである。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽうは、成文せいぶん憲法けんぽうてん誕生たんじょうであった。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽうジョン・マーシャル判決はんけつ(1803ねん)をつうじて司法しほう違憲いけん立法りっぽう審査しんさけんを「発明はつめい」したが、それはハミルトンがいた『ザ・フェデラリスト』のだい78へんその法理ほうり依拠いきょした。ハミルトンは、それを、コークきょう英国えいこく王座おうざ裁判所さいばんしょ主席しゅせき判事はんじ)の1610ねん判決はんけつや、コークの『ほう支配しはい』『コモン・ロー制定せいていほうたいする優位ゆうい』などから着想ちゃくそうした。

なお、ハミルトンは、シャルル・ド・モンテスキューの『ほう精神せいしん』から三権分立さんけんぶんりつまなんだ。

政府せいふよっつのはしら[編集へんしゅう]

ハミルトンの著作ちょさく全体ぜんたいながれる、政府せいふかんする、ハミルトンがつよもとめる、その要件ようけんつぎよっつのはしらにまとめられる。

  1.  騎士きしどうてき倫理りんりにたつ政府せいふ。すなわち, dignity(威厳いげん)& grace(高雅こうが), intellectuality(知的ちてきせい), pride(矜持きょうじ)、justice(正義まさよし), morality(道徳どうとくせい)。[よう出典しゅってん]
  2.  活力かつりょくちたつよくエネルギッシュな政府せいふ(strong&energetic)。政府せいふのweakness(意志いし信念しんねん強靭きょうじんせい指導しどうりょく欠如けつじょ)は、国民こくみん侮蔑ぶべつまねく/倫理りんり道徳どうとくせい顕現けんげんできない/智慧ちえまれない。[よう出典しゅってん]
  3.  国民こくみんからのrespect&trust(尊敬そんけい信頼しんらい)を獲得かくとくした政府せいふ。これが国民こくみんへの強権きょうけん発動はつどう不用ふようにして国民こくみん自由じゆう擁護ようごする。[よう出典しゅってん]
  4.  国家こっかませる智慧ちえさくをもつ政府せいふ[よう出典しゅってん]

外交がいこう哲学てつがく[編集へんしゅう]

実質じっしつてき初代しょだい外務がいむ大臣だいじんであったハミルトンが新生しんせい国家こっかである米国べいこくたいして、えずいた外交がいこう心得こころえは、つぎ徳性とくせいであった。すなわち、外交がいこう国益こくえき完遂かんすいするものだが、[よう出典しゅってん]

  1. 外国がいこくから何時いつもrespect(尊敬そんけい)されdisgrace(侮蔑ぶべつ)をけないこと。[よう出典しゅってん]
  2. justice(道義どうぎ)/honor(名誉めいよ)/honest(正直しょうじき)/character(品性ひんせい)をうしなわないこと。[よう出典しゅってん]

政治せいじ倫理りんり[編集へんしゅう]

ハミルトンは政治せいじにおける倫理りんり道徳どうとく宗教しゅうきょう信仰しんこう重視じゅうししたが、それを凝集ぎょうしゅうてきうったえたひとつは、初代しょだい大統領だいとうりょうジョージ・ワシントンさんせん辞退じたい引退いんたいする決意けつい表明ひょうめいでもあった、ハミルトンが代筆だいひつした『告別こくべつ』(1796ねん9がつ)であろう。ここでハミルトンは以下いかのようにべた。[よう出典しゅってん]

  • 美徳びとくもしくは道徳どうとくせいは、民選みんせん政府せいふいてはならない源泉げんせんである、とはまったくの真理しんりである」[よう出典しゅってん]
  • 国民こくみんてき道徳どうとく宗教しゅうきょうてき原理げんり排除はいじょしても維持いじできるとは、あたまかんがえても、経験けいけんからしても、おもえない」[よう出典しゅってん]

そして、この倫理りんり道徳どうとく国策こくさく根本こんぽんとするのは、ハミルトンがアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく財政ざいせい制度せいど創設そうせつ整備せいびしていくさいにも、また独立どくりつ戦争せんそう借金しゃっきん全額ぜんがく額面がくめんどおり弁済べんさいするさいにも(『おおやけ信用しんようについてだいいち報告ほうこくしょ』、1790ねん1がつ)、つらぬいた。1792ねんの『財源ざいげん制度せいど擁護ようごIII』でハミルトンは「道徳どうとく正義せいぎかんする確立かくりつしているルールは、個人こじん同様どうよう国家こっかにも適用てきようされる。よって…国家こっかもまたその約束やくそくまもり、契約けいやくたし、かく国民こくみん財産ざいさんけん尊重そんちょうすべきある。そうしなければ、社会しゃかい政府せいふ関係かんけいして、ぜんあく、あるいは正義せいぎ正義せいぎ差別さべつするすべての思考しこう終焉しゅうえんさせる」といている。なお、『おおやけ信用しんようについてだい報告ほうこくしょ』は1795ねん1がつである。

ハミルトン外交がいこう[編集へんしゅう]

パセーイクがわ大滝おおたきのそばにてられたハミルトンの銅像どうぞう

ハミルトンは、13くに人口じんこうやく270まんにん)が独立どくりつするにたって、大国たいこくである英国えいこく人口じんこう2,000まん)とフランス人口じんこう2,700まん)の係争けいそう戦争せんそうまれないよう、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくモンロー主義しゅぎ起源きげんとなった、外国がいこくとは極力きょくりょく関係かんけいしない“無関係むかんけい主義しゅぎ”というべき「中立ちゅうりつ外交がいこう新生しんせい小国しょうこくであるアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく外交がいこうにおける国是こくぜとした。が、それはあくまでも、建国けんこく初期しょき国力こくりょく国内外こくないがい情勢じょうせい判断はんだんしての、一時いちじてき便宜べんぎてきなものであった。

1793ねん2がつえいふつ戦争せんそう勃発ぼっぱつさいし、ヨーロッパからとお活用かつようして「中立ちゅうりつ」の選択せんたく国益こくえきとしたハミルトンではあったが、一般いっぱん理論りろんとしては、屈辱くつじょくてき平和へいわ受諾じゅだくには断固だんこ反対はんたいであった。「中立ちゅうりつ」のためにも強力きょうりょく軍事ぐんじりょく保持ほじ必要ひつようであることをうったえた。

  • 他国たこく野心やしんとか敵意てきいたいしてアメリカをまも能力のうりょく連邦れんぽう政府せいふからうばってしまうべきでない」(『ザ・フェデラリスト』だい34へん
  • 国家こっかとは絶対ぜったいてき不名誉ふめいよたいしては意気地いくじなく屈従くつじゅうしてはならない(けんけ)」(1790ねん、ワシントンへの献策けんさくレター)。

1798ねんナポレオン・ボナパルト革命かくめいフランスとの戦争せんそうという危機きき到来とうらいのなかで、常備じょうび陸軍りくぐん創設そうせつ強力きょうりょく海軍かいぐんりょくフリゲート12せき建設けんせつ国論こくろんをまとめたのもハミルトンであった。このときの7ほん論考ろんこうが『見解けんかい (The Stand)、1798ねん3~4がつ』である。そして、ハミルトンは、陸軍りくぐん大将たいしょうそう司令しれいかんのワシントンにぐ、陸軍りくぐん少将しょうしょうとなった。なお、この本格ほんかくてきべいふつ全面ぜんめん戦争せんそうは、ナポレオンの譲歩じょうほ回避かいひされた。また、この『見解けんかい』で、革命かくめいフランスがくるったイデオロギー信条しんじょうもとづく侵略しんりゃく野望やぼうけんでドグマを強制きょうせいせんとしていると、エドマンド・バーク同様どうよう評価ひょうかフランス革命かくめいたいしてしめした。

ハミルトンの経済けいざい政策せいさく[編集へんしゅう]

ハミルトンのアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくへの貢献こうけんは、憲法けんぽう政治せいじ制度せいどばかりでなく、新生しんせい国家こっか財政ざいせい金融きんゆう貨幣かへい通商つうしょう産業さんぎょう政策せいさく基礎きそ未来みらいとともに整備せいびしたことである。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく経済けいざいにとって不可欠ふかけつであったはつ連邦れんぽう中央ちゅうおう銀行ぎんこう(1791~1811ねん)の設立せつりつはつアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく造幣局ぞうへいきょく設置せっちによるはつのドル硬貨こうか発行はっこう(1792ねん)は、ハミルトン一人ひとり成果せいかであったといってよい。

なぜなら、この中央ちゅうおう銀行ぎんこう設立せつりつには、閣僚かくりょうトーマス・ジェファーソン大物おおもの政治せいじのマディソンがはげしく反対はんたいしていた。日頃ひごろ協力きょうりょくしゃのランドルフもこれには否定ひていてきで、大統領だいとうりょうのワシントンすらではなかったが、それほどの抵抗ていこうをも排除はいじょ達成たっせいたした。ハミルトンなくしては、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく空中くうちゅう分解ぶんかい消滅しょうめつしてしまっていただろうし、20世紀せいき以降いこう世界せかいてきだい国家こっか成長せいちょうすることなどまんいちにもありえなかっただろう。このワシントンを最後さいご瞬間しゅんかん翻意ほんいさせた、またアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽう解釈かいしゃくにとって重要じゅうよう法理ほうりろんとして後世こうせいのこった、ハミルトンの大統領だいとうりょうあて意見いけんしょが「国立こくりつ銀行ぎんこう設立せつりつかんする法律ほうりつ合憲ごうけんせい」(1791ねん2がつ23にち)である。このようにアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽうは、憲法けんぽう解釈かいしゃくおもにハミルトンとこのハミルトンを崇拝すうはいする連邦れんぽう最高さいこう裁判所さいばんしょ首席しゅせき判事はんじジョン・マーシャルゆだねることによって、“アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくきた憲法けんぽう”として長寿ちょうじゅかがやきをもつものとなった。

通貨つうかかんするハミルトンの主張しゅちょうは『造幣局ぞうへいきょく設立せつりつかんする報告ほうこくしょ』(1791ねん1がつ28にち)にある。じゅん農業のうぎょうこくであった新生しんせい小国しょうこくであるアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくを、産業さんぎょう資本しほんをつくり母国ぼこく英国えいこくしのだい産業さんぎょう国家こっか発展はってんさせるというハミルトンの「国家こっかひゃくねんけい」は、1791ねん12月に議会ぎかい財務ざいむ長官ちょうかんめい提出ていしゅつした『製造せいぞうぎょうかんする報告ほうこくしょ』にある。実際じっさいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく産業さんぎょう国家こっかとして爆発ばくはつてき発展はってんをしはじめたのは19世紀せいきすえであり、英国えいこくいたのはだいいち世界せかい大戦たいせんであった。

2006ねんに、ブッシュ政権せいけん経済けいざい政策せいさく対抗たいこうするあんとしてブルッキングス研究所けんきゅうじょにより発表はっぴょうされた「ハミルトン・プロジェクト」は、米国べいこく初代しょだい財務ざいむ長官ちょうかんのハミルトンにちなんでづけられた[1]オバマ大統領だいとうりょう就任しゅうにん演説えんぜつはこのハミルトン・プロジェクトをもとにしている。

著作ちょさく[編集へんしゅう]

  • THE PAPERS OF ALEXANDER HAMILTON, Vol.1 - 25, COLUMBIA UNIVERSITY PRESS, 1961 - 1977.
  • THE WORKS OF ALEXANDER HAMILTON, Vol.1 - 12, SCHOLAR PRESS, 1971.
  • Hamilton: Writings, Library of America, 2001.
  • 『ザ・フェデラリスト』(ハミルトンほかちょ福村ふくむら出版しゅっぱん
  • 製造せいぞうぎょうかんする報告ほうこくしょ』(ハミルトンちょ田島たじまめぐみほかやく未來社みらいしゃ

ハミルトンをあつかった作品さくひん[編集へんしゅう]

伝記でんき[編集へんしゅう]

  • Alexander Hamilton: A Biography by Forrest McDonald, 1979.
  • The Young Hamilton: A Biography by James Thomas Flexner, 1997.
  • Alexander Hamilton, American by Richard Brookhiser, 1999.
  • Duel: Alexander Hamilton, Aaron Burr, and the Future of America by Thomas Fleming, 2000.
  • Alexander Hamilton and the Persistence of Myth by Stephen F. Knott, 2002.
  • Alexander Hamilton: A Life by Willard Sterne Randall, 2003.
  • ロン・チャーナウ『アレグザンダー・ハミルトンでん‐アメリカを近代きんだい国家こっかにつくりげた天才てんさい政治せいじじょうなかした日経にっけいBPしゃ、2005ねん

舞台ぶたい[編集へんしゅう]

  • ハミルトン』(2015ねん) - ブロードウェイ・ミュージカル

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ハミルトンプロジェクトまんばんむくい、2006ねん04がつ23にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • CLINTON ROSSITER, ALEXANDER HAMILTON AND THE CONSTITUION, HARCOURT/BRACE & WORLD, 1964.
  • 田島たじまめぐみ『ハミルトン体制たいせい研究けんきゅう序説じょせつ建国けんこく初期しょきアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく経済けいざい』(未來社みらいしゃ、1984ねん
  • 中野なかの勝郎かつろう『アメリカ連邦れんぽう体制たいせい確立かくりつ‐ハミルトンと共和きょうわせい』(東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1993ねん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
新設しんせつ
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく財務ざいむ長官ちょうかん
Served under: ジョージ・ワシントン

1789ねん9月11にち - 1795ねん1がつ31にち
次代じだい
オリヴァー・ウォルコット
ぐんしょく
先代せんだい
ジョージ・ワシントン
アメリカ陸軍りくぐんさい先任せんにん士官しかん
1799ねん12月14にち - 1800ねん6月15にち
次代じだい
ジェームズ・ウィルキンソン英語えいごばん
先代せんだい
トーマス・H・カッシング代行だいこう
アメリカ陸軍りくぐん総監そうかん
1798ねん7がつ18にち - 1800ねん6がつ15にち
次代じだい
トーマス・H・カッシング(代行だいこう