ジャージーの戦 たたか い (英 えい : Battle of Jersey )は、アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう 中 なか の1781年 ねん 1月 がつ 6日 にち に,
フランス軍 ぐん がジャージー を侵略 しんりゃく し、アメリカの船舶 せんぱく に与 あた えられていたイギリス からの脅威 きょうい を除 のぞ こうとした試 こころ みだった。ジャージーはイギリスによる私 わたし 掠 かすめ 船 せん の基地 きち として使 つか われていた。フランスはアメリカの同盟 どうめい 国 こく としてこの戦争 せんそう に参入 さんにゅう し、ジャージー島 とう を支配 しはい するために遠征 えんせい 軍 ぐん を派遣 はけん した。この遠征 えんせい は最終 さいしゅう 的 てき に失敗 しっぱい し、その指揮 しき 官 かん フィリップ・ド・ルルクール男爵 だんしゃく は戦闘 せんとう で受 う けた傷 きず がもとで死 し んだ。
ジャージーはフランス海岸 かいがん から僅 わず か14マイル (22 km) しか離 はな れておらず、フランスの海軍 かいぐん 基地 きち があるブレスト へ海上 かいじょう から補給 ほきゅう する主要 しゅよう 経路 けいろ 沿 ぞ いにあったので、イギリスとフランスが戦争 せんそう をする時 とき には常 つね に戦略 せんりゃく 的 てき に重要 じゅうよう な位置 いち となっていた。数多 かずおお い私 わたし 掠 かすめ 船 せん が島 しま から出撃 しゅつげき し、フランスの商船 しょうせん には脅威 きょうい となっていた。ジャージーの私 わたし 掠 かすめ 船 せん はアメリカ大陸 あめりかたいりく 沿岸 えんがん でもイギリス海軍 かいぐん を支援 しえん する活動 かつどう を行 おこな っていた。フランス政府 せいふ はこの脅威 きょうい を無 な くすことにした。さらに当時 とうじ 、ジブラルタル が包囲 ほうい 戦 せん の最中 さいちゅう にあった。当時 とうじ のイギリスの新聞 しんぶん に拠 よ ると、ジャージーへの攻撃 こうげき はイギリスの注意 ちゅうい をジブラルタルから逸 そ らし、包囲 ほうい 戦 せん から軍事 ぐんじ 資源 しげん を割 さ かせる意図 いと があった。
イギリス政府 せいふ はジャージーの軍事 ぐんじ 的 てき 重要 じゅうよう 性 せい に気付 きづ いており、この島 しま を強固 きょうこ に要塞 ようさい 化 か するよう命令 めいれい を出 だ していた。砲台 ほうだい 、砦 とりで および稜 りょう 堡が海岸 かいがん を巡 めぐ って建設 けんせつ されていた。地元民 じもとみん 兵隊 へいたい であるジャージー島民 とうみん 兵隊 へいたい は3,000名 めい ほどの民兵 みんぺい を5個 こ 連隊 れんたい に編成 へんせい していた。これには砲兵 ほうへい 隊 たい と竜騎兵 りゅうきへい 隊 たい も含 ふく まれていた。これにイギリス正規 せいき 軍 ぐん 第 だい 95、第 だい 83各 かく 歩兵 ほへい 連隊 れんたい と第 だい 78スコットランド連隊 れんたい 、さらに約 やく 700名 めい の「アンバリッド」(半 はん 退役 たいえき の予備 よび 役 やく )で補 おぎな われ、総 そう 勢力 せいりょく は約 やく 9,250名 めい になっていた。海軍 かいぐん 力 りょく である「ジャージー戦隊 せんたい 」もこの島 しま を基地 きち としていたが、この侵略 しんりゃく があったときはオランダ に対 たい する巡航 じゅんこう に出 で ていた。
セント・ヘリアにある銘板 めいばん 、警鐘 けいしょう を発 はっ したエドワード・コームの家 いえ を示 しめ している
フランス軍 ぐん は、ジャージーへの攻撃 こうげき が資源 しげん の無駄遣 むだづか いであり、成功 せいこう したとしてもその支配 しはい は長続 ながつづ きしないことを心配 しんぱい していたが、政府 せいふ はフィリップ・ド・ルルクール男爵 だんしゃく が提出 ていしゅつ した作戦 さくせん を承認 しょうにん した。ド・ルルクールは冒険 ぼうけん 家 か でありフランス軍 ぐん の大佐 たいさ だった。フランス国王 こくおう ルイ16世 せい はド・ルルクールがジャージーの首都 しゅと セント・ヘリアを占領 せんりょう すれば直 す ぐに、将軍 しょうぐん の位 い とコルドンルージュ勲章 くんしょう を与 あた えることを約束 やくそく した[ 1] 。副 ふく 司令 しれい 官 かん はプリンス・エミールというインド の王子 おうじ であり、インドでの戦争 せんそう でイギリスに連 つ れて来 きた られ、他 た のフランス捕虜 ほりょ と共 とも にフランスに送 おく られてからはフランス軍 ぐん に従軍 じゅうぐん していた。イギリス軍 ぐん のある軍人 ぐんじん がエミールについて「彼 かれ は全 まった く野蛮 やばん 人 じん のように見 み え、その会話 かいわ もそうである。もし我々 われわれ の運命 うんめい が彼 かれ にかかるならば、最 もっと も不愉快 ふゆかい なことになるだろう。彼 かれ はフランスの将軍 しょうぐん にあらゆるものを荒 あ らしまわり、町 まち には火 ひ をつけて血 ち に訴 うった えるよう助言 じょげん した」と記 しる していた。
公式 こうしき にはこの遠征 えんせい 隊 たい は民間 みんかん のものだった。しかし資金 しきん 、装備 そうび 、輸送 ゆそう 手段 しゅだん および兵士 へいし は政府 せいふ が提供 ていきょう した。政府 せいふ はこの作戦 さくせん に関与 かんよ していることを隠 かく すために、数 すう 百 ひゃく 名 めい の正規 せいき 兵 へい にド・ルルクールの部隊 ぶたい に「脱走 だっそう 」を命 めい じることまでしていた。
1781年 ねん 1月 がつ 5日 にち 、5個 こ 師団 しだん 約 やく 2,000名 めい の遠征 えんせい 隊 たい が出発 しゅっぱつ した。1月6日 にち はジャージーにおける「オールド・クリスマス・ナイト」を祝 いわ っている時 とき であり、フランス軍 ぐん は探知 たんち されずに上陸 じょうりく できた。先 ま ず800名 めい の部隊 ぶたい がグルービルのラロックに上陸 じょうりく し、守備 しゅび 隊 たい に気付 きづ かれずにその横 よこ を通 とお り過 す ぎた。あるフランス軍 ぐん 士官 しかん は守備 しゅび 隊 たい の下 した で睡眠 すいみん までとったが、守備 しゅび 兵 へい はフランス軍 ぐん の物音 ものおと に気付 きづ かなかったとすら言 い っていた。ここの守備 しゅび 兵 へい は戦闘 せんとう 後 ご に審判 しんぱん に付 ふ され、酒 さけ を飲 の むためにその持 も ち場 ば を離 はな れていたことが分 わ かった。フランス軍 ぐん 第 だい 1師団 しだん はその夜 よる の大半 たいはん をそこに留 とど まっていた。400名 めい の第 だい 2師団 しだん は上陸 じょうりく するときに岩場 いわば で完全 かんぜん に失 うしな われた。第 だい 3師団 しだん 600名 めい を乗 の せた船 ふね は本隊 ほんたい と離 はな れてしまい、合流 ごうりゅう できなかった。第 だい 4師団 しだん 200名 めい は翌朝 よくあさ 早 はや くにラロックに上陸 じょうりく した。島 しま に上陸 じょうりく したフランス軍 ぐん の総勢 そうぜい は約 やく 1,000名 めい となり、戦闘 せんとう に投入 とうにゅう できると考 かんが えていた勢力 せいりょく の半分 はんぶん になった[ 1] 。
1781年 ねん 1月 がつ 6日 にち 朝 あさ の6時 じ から7時 じ 、第 だい 1師団 しだん は町 まち の大半 たいはん が眠 ねむ っている間 あいだ に市場 いちば にキャンプを設営 せつえい した。8時 じ 頃 ごろ 、フランス軍 ぐん 偵察 ていさつ 隊 たい がル・マノワール・ド・ラ・モットにあった知事 ちじ 官舎 かんしゃ で眠 ねむ っていたモーゼス・コルベット知事 ちじ を急襲 きゅうしゅう した。ド・ルルクールは、数 すう 千 せん のフランス軍 ぐん がジャージーを占領 せんりょう したことをコルベットに理解 りかい させ、もし守備 しゅび 隊 たい が降伏 ごうぶく しなければ町 まち を焼 や き、住民 じゅうみん を襲 おそ うと脅 おど した。コルベットは事情 じじょう が掴 つか めぬままに降伏 ごうぶく した。コルベットは王立 おうりつ 広場 ひろば の王立 おうりつ 裁判所 さいばんしょ ビルに連 つ れて行 い かれ、エリザベス城 じょう [ 2] の指揮 しき 官 かん マルキャスター大尉 たいい とセントピーター兵舎 へいしゃ の24歳 さい の少佐 しょうさ フランシス・ピアソンにも降伏 ごうぶく を命令 めいれい するように仕向 しむ けられた。
ピアソン少佐 しょうさ
イギリス軍 ぐん と民兵 みんぺい はモンテ・ペンデュ(現在 げんざい はウェストマウントと呼 よ ばれている)に集結 しゅうけつ し、2,000名 めい の兵士 へいし を掌握 しょうあく したピアソン少佐 しょうさ は丘 おか を登 のぼ って攻撃 こうげき を掛 か ける決断 けつだん をした。市場 いちば にキャンプを張 は っていたフランス軍 ぐん は町 まち の大砲 たいほう を捕獲 ほかく して市場 いちば から様々 さまざま な方向 ほうこう に向 む けて据 す え、向 む かってくるイギリス軍 ぐん を止 と められるようにした。しかし、フランス軍 ぐん は榴弾 りゅうだん 砲 ほう を見 み つけられなかった。イギリス軍 ぐん はフランス軍 ぐん を目撃 もくげき した人々 ひとびと から、その勢力 せいりょく が800名 めい か900名 めい に過 す ぎないことを知 し った。フランス軍 ぐん はコルベットをエリザベス城 じょう に送 おく って降伏 ごうぶく を勧 すす めたが拒絶 きょぜつ された[ 3] 。続 つづ いてこの城 しろ からフランス軍 ぐん に向 む かって大砲 たいほう を放 はな ち、2、3人 にん の兵士 へいし を殺 ころ した。
第 だい 78スコットランド連隊 れんたい がモン・ド・ラ・ビル(現在 げんざい のリージェント砦 とりで がある所 ところ )を抑 おさ えるよう派遣 はけん され、フランス軍 ぐん が逃亡 とうぼう しようとした時 とき にその退路 たいろ を抑 おさ えられるようにした。ピアソン少佐 しょうさ は第 だい 78連隊 れんたい がそこに付 つ いた頃合 ころあい を見 み はかり、配下 はいか の部隊 ぶたい に丘 おか に登 のぼ ってフランス軍 ぐん に攻撃 こうげき を掛 か けるよう命令 めいれい した。しかしイギリス軍 ぐん はその丘 おか で停止 ていし させられた。ド・ルルクールがコルベットを派遣 はけん して降伏 ごうぶく 条件 じょうけん を伝 つた えさせ、イギリス軍 ぐん が署名 しょめい しなければフランス軍 ぐん が30分 ふん 以内 いない に町 まち を荒 あ らすことを伝 つた えさせたからだった。イギリス軍 ぐん はその勢力 せいりょく が優勢 ゆうせい だったのでその申 もう し出 で を拒否 きょひ し、第 だい 83歩兵 ほへい 連隊 れんたい とグルービルの東 ひがし 連隊 れんたい の一部 いちぶ もこれに倣 なら った。ド・ルルクールがこの回答 かいとう を受 う け取 と ったとき、「彼 かれ らが降伏 ごうぶく したくないのだから、私 わたし は死 し にに来 き たということだ」と言 い ったと伝 つた えられている。
ジャージーの戦 たたか いが行 おこな われた王立 おうりつ 広場 ひろば の現在 げんざい の姿 すがた
攻撃 こうげき が始 はじ まった。グランデ・ルーにいたイギリス軍 ぐん には第 だい 78連隊 れんたい 、セントローレンス大隊 だいたい 、南東 なんとう 連隊 れんたい およびサンジャン中隊 ちゅうたい などが含 ふく まれていた。第 だい 95歩兵 ほへい 連隊 れんたい と民兵 みんぺい 隊 たい の残 のこ りは別 べつ の街路 がいろ を進 すす んだ。イギリス軍 ぐん は街 まち 中 ちゅう での戦闘 せんとう には数 かず が多 おお 過 す ぎたので、後 のち にその3分 ぶん の1も居 い ればフランス軍 ぐん を倒 たお すのに十分 じゅうぶん だったと言 い う兵士 へいし もいた。多 おお くのイギリス兵 へい は混乱 こんらん しており、銃 じゅう を放 はな つ機会 きかい も無 な く、空 そら に向 む かって発砲 はっぽう して銃 じゅう を空 そら にした。
フランス軍 ぐん の抵抗 ていこう は短時間 たんじかん のものであり、戦闘 せんとう の大半 たいはん は15分間 ふんかん ほどのものだった。フランス軍 ぐん は配置 はいち に付 つ かせていた大砲 たいほう を1度 ど か2度 ど 発砲 はっぽう させただけだった。イギリス軍 ぐん はグランデ・ルーで市場 いちば の真向 まむ かいに榴弾 りゅうだん 砲 ほう を据 す え、あるイギリス兵 へい の記憶 きおく に拠 よ れば、その榴弾 りゅうだん 砲 ほう の砲弾 ほうだん が放 はな たれる毎 ごと にが「フランス軍 ぐん の周囲 しゅうい を全 すべ て浚 さら った」。ピアソン少佐 しょうさ と第 だい 95歩兵 ほへい 連隊 れんたい はアベニュー・デュ・マルシェの方向 ほうこう に前進 ぜんしん した。イギリス軍 ぐん が勝利 しょうり を収 おさ めようというまさにその時 とき に、ピアソン少佐 しょうさ が心臓 しんぞう にマスケット銃弾 じゅうだん を受 う けて戦死 せんし した。それでもその部隊 ぶたい は戦闘 せんとう を続 つづ けた。ド・ルルクールが負傷 ふしょう した時 とき にフランス兵 へい は戦 たたか うことを諦 あきら め、その武器 ぶき を投 な げ出 だ して逃亡 とうぼう を始 はじ めた。しかし市場 いちば の建屋 たきのや に到着 とうちゃく した者 もの はそこから発砲 はっぽう を続 つづ けた。
ド・ルルクールはコルベットを通 つう じて、フランス軍 ぐん はラロックに2個 こ 大隊 だいたい と砲兵 ほうへい 中隊 ちゅうたい がいることをイギリス軍 ぐん に伝 つた えさせた。らロックは町 まち から15分 ぶん の行程 こうてい 内 ない にあった。イギリス軍 ぐん はそこに居 い る勢力 せいりょく が200名 めい 足 た らずであることを知 し っていたので怯 ひる まなかった。第 だい 83連隊 れんたい の近衛 このえ 擲弾兵 へい 45名 めい が140名 めい のフランス兵 へい に対抗 たいこう しているところに東 ひがし 連隊 れんたい の一部 いちぶ が到着 とうちゃく し、その後 ご はフランス軍 ぐん が敗 やぶ れて70名 めい が捕虜 ほりょ になり、30名 めい が戦死 せんし または負傷 ふしょう した。フランス軍 ぐん の残 のこ り部隊 ぶたい は田園 でんえん 部 ぶ を抜 ぬ けて散開 さんかい し船 せん に辿 たど りついたが、その間 あいだ に捕獲 ほかく された者 もの もいた。
1781年 ねん の民兵 みんぺい 隊 たい の再演 さいえん 。2007年 ねん 1月 がつ 6日 にち の記念 きねん 式典 しきてん で行 おこな われたときの写真 しゃしん 。右手 みぎて にはド・ルルクール男爵 だんしゃく が死 し んだレリエ医師 いし の家 いえ がある。現在 げんざい はピアソンというパブになっている。
イギリス軍 ぐん はその日 ひ に600名 めい の捕虜 ほりょ を捕 つか まえ、イングランド に送致 そうち した。イギリス軍 ぐん の損失 そんしつ は約 やく 30名 めい が戦死 せんし したことだった。ド・ルルクールは負傷 ふしょう し、翌日 よくじつ に死 し んだ。
イギリス軍 ぐん の中 なか に裏切 うらぎ り者 もの がいたという評判 ひょうばん があった。ド・ルルクールは要塞 ようさい 、塔 とう 、大砲 たいほう などの配置 はいち 図 ず を所有 しょゆう しており、ジャージーに友人 ゆうじん が居 い なければここに来 く ることもなかっただろうと言 い われた。フランス軍 ぐん はイギリス正規 せいき 軍 ぐん と民兵 みんぺい 隊 たい の勢力 せいりょく やそれを指揮 しき する指揮 しき 官 かん の名前 なまえ までを正確 せいかく に知 し っていた。ド・ルルクールの行李 こうり に見 み つかった文書 ぶんしょ にはジャージーの住人 じゅうにん ル・ゲイトという名前 なまえ が記 しる されており、ル・ゲイトは後 のち に他 た の容疑 ようぎ 者 しゃ と共 とも に逮捕 たいほ された。
この戦闘 せんとう 後 ご 、島 しま の守 まも りを固 かた めるために海岸 かいがん 周辺 しゅうへん に30か所 しょ の塔 とう が建設 けんせつ された。
ジョン・シングルトン・コプリーが「ピアソン少佐 しょうさ の戦死 せんし 」という劇的 げきてき 場面 ばめん の絵画 かいが を制作 せいさく した[ 4] 。この絵画 かいが は現在 げんざい テート・ギャラリー に収 おさ められ[ 5] 、ジャージーの10ポンド紙幣 しへい に採用 さいよう されている。
座標 ざひょう : 北緯 ほくい 49度 ど 10分 ふん 57秒 びょう 西経 せいけい 2度 ど 06分 ふん 27秒 びょう / 北緯 ほくい 49.18238度 ど 西経 せいけい 2.10749度 ど / 49.18238; -2.10749