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ジャージーのたたか

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ジャージーのたたか

「ピアソン少佐しょうさ戦死せんし」、ジョン・シングルトン・コプリー
戦争せんそうアメリカ独立どくりつ戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1781ねん1がつ6にち
場所ばしょジャージー、セント・ヘリア
結果けっかイギリスぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
フランス王国フランス王国おうこく グレートブリテン王国グレート・ブリテン王国おうこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
フランス王国フィリップ・ド・ルルクール英語えいごばん男爵だんしゃく  グレートブリテン王国の旗フランシス・ピアソン英語えいごばん少佐しょうさ 
戦力せんりょく
1400めい 2000めい以上いじょう
損害そんがい
戦死せんし 86めい
負傷ふしょう 72めい
捕虜ほりょ 456めい
戦死せんし 16めい
負傷ふしょう 65めい
アメリカ独立どくりつ戦争せんそう

ジャージーのたたかえい: Battle of Jersey)は、アメリカ独立どくりつ戦争せんそうなか1781ねん1がつ6にちに, フランスぐんジャージー侵略しんりゃくし、アメリカの船舶せんぱくあたえられていたイギリスからの脅威きょういのぞこうとしたこころみだった。ジャージーはイギリスによるわたしかすめせん基地きちとして使つかわれていた。フランスはアメリカの同盟どうめいこくとしてこの戦争せんそう参入さんにゅうし、ジャージーとう支配しはいするために遠征えんせいぐん派遣はけんした。この遠征えんせい最終さいしゅうてき失敗しっぱいし、その指揮しきかんフィリップ・ド・ルルクール男爵だんしゃく戦闘せんとうけたきずがもとでんだ。

侵略しんりゃく動機どうき

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ジャージーはフランス海岸かいがんからわずか14マイル (22 km) しかはなれておらず、フランスの海軍かいぐん基地きちがあるブレスト海上かいじょうから補給ほきゅうする主要しゅよう経路けいろ沿いにあったので、イギリスとフランスが戦争せんそうをするときにはつね戦略せんりゃくてき重要じゅうよう位置いちとなっていた。数多かずおおわたしかすめせんしまから出撃しゅつげきし、フランスの商船しょうせんには脅威きょういとなっていた。ジャージーのわたしかすめせんアメリカ大陸あめりかたいりく沿岸えんがんでもイギリス海軍かいぐん支援しえんする活動かつどうおこなっていた。フランス政府せいふはこの脅威きょういくすことにした。さらに当時とうじジブラルタル包囲ほういせん最中さいちゅうにあった。当時とうじのイギリスの新聞しんぶんると、ジャージーへの攻撃こうげきはイギリスの注意ちゅういをジブラルタルかららし、包囲ほういせんから軍事ぐんじ資源しげんかせる意図いとがあった。

ジャージーの防御ぼうぎょ

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イギリス政府せいふはジャージーの軍事ぐんじてき重要じゅうようせい気付きづいており、このしま強固きょうこ要塞ようさいするよう命令めいれいしていた。砲台ほうだいとりでおよびりょう堡が海岸かいがんめぐって建設けんせつされていた。地元民じもとみん兵隊へいたいであるジャージー島民とうみん兵隊へいたいは3,000めいほどの民兵みんぺいを5連隊れんたい編成へんせいしていた。これには砲兵ほうへいたい竜騎兵りゅうきへいたいふくまれていた。これにイギリス正規せいきぐんだい95、だい83かく歩兵ほへい連隊れんたいだい78スコットランド連隊れんたい、さらにやく700めいの「アンバリッド」(はん退役たいえき予備よびやく)でおぎなわれ、そう勢力せいりょくやく9,250めいになっていた。海軍かいぐんりょくである「ジャージー戦隊せんたい」もこのしま基地きちとしていたが、この侵略しんりゃくがあったときはオランダたいする巡航じゅんこうていた。

フランスぐん作戦さくせん

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セント・ヘリアにある銘板めいばん警鐘けいしょうはっしたエドワード・コームのいえしめしている

フランスぐんは、ジャージーへの攻撃こうげき資源しげん無駄遣むだづかいであり、成功せいこうしたとしてもその支配しはい長続ながつづきしないことを心配しんぱいしていたが、政府せいふはフィリップ・ド・ルルクール男爵だんしゃく提出ていしゅつした作戦さくせん承認しょうにんした。ド・ルルクールは冒険ぼうけんでありフランスぐん大佐たいさだった。フランス国王こくおうルイ16せいはド・ルルクールがジャージーの首都しゅとセント・ヘリアを占領せんりょうすればぐに、将軍しょうぐんとコルドンルージュ勲章くんしょうあたえることを約束やくそくした[1]ふく司令しれいかんはプリンス・エミールというインド王子おうじであり、インドでの戦争せんそうでイギリスにれてきたられ、のフランス捕虜ほりょともにフランスにおくられてからはフランスぐん従軍じゅうぐんしていた。イギリスぐんのある軍人ぐんじんがエミールについて「かれまった野蛮やばんじんのようにえ、その会話かいわもそうである。もし我々われわれ運命うんめいかれにかかるならば、もっと不愉快ふゆかいなことになるだろう。かれはフランスの将軍しょうぐんにあらゆるものをらしまわり、まちにはをつけてうったえるよう助言じょげんした」としるしていた。

公式こうしきにはこの遠征えんせいたい民間みんかんのものだった。しかし資金しきん装備そうび輸送ゆそう手段しゅだんおよび兵士へいし政府せいふ提供ていきょうした。政府せいふはこの作戦さくせん関与かんよしていることをかくすために、すうひゃくめい正規せいきへいにド・ルルクールの部隊ぶたいに「脱走だっそう」をめいじることまでしていた。

1781ねん1がつ5にち、5師団しだんやく2,000めい遠征えんせいたい出発しゅっぱつした。1月6にちはジャージーにおける「オールド・クリスマス・ナイト」をいわっているときであり、フランスぐん探知たんちされずに上陸じょうりくできた。ず800めい部隊ぶたいがグルービルのラロックに上陸じょうりくし、守備しゅびたい気付きづかれずにそのよことおぎた。あるフランスぐん士官しかん守備しゅびたいした睡眠すいみんまでとったが、守備しゅびへいはフランスぐん物音ものおと気付きづかなかったとすらっていた。ここの守備しゅびへい戦闘せんとう審判しんぱんされ、さけむためにそのはなれていたことがかった。フランスぐんだい1師団しだんはそのよる大半たいはんをそこにとどまっていた。400めいだい2師団しだん上陸じょうりくするときに岩場いわば完全かんぜんうしなわれた。だい3師団しだん600めいせたふね本隊ほんたいはなれてしまい、合流ごうりゅうできなかった。だい4師団しだん200めい翌朝よくあさはやくにラロックに上陸じょうりくした。しま上陸じょうりくしたフランスぐん総勢そうぜいやく1,000めいとなり、戦闘せんとう投入とうにゅうできるとかんがえていた勢力せいりょく半分はんぶんになった[1]

前哨ぜんしょうせん

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セント・ヘリアでのフランスぐん

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1781ねん1がつ6にちあさの6から7だい1師団しだんまち大半たいはんねむっているあいだ市場いちばにキャンプを設営せつえいした。8ごろ、フランスぐん偵察ていさつたいがル・マノワール・ド・ラ・モットにあった知事ちじ官舎かんしゃねむっていたモーゼス・コルベット知事ちじ急襲きゅうしゅうした。ド・ルルクールは、すうせんのフランスぐんがジャージーを占領せんりょうしたことをコルベットに理解りかいさせ、もし守備しゅびたい降伏ごうぶくしなければまちき、住民じゅうみんおそうとおどした。コルベットは事情じじょうつかめぬままに降伏ごうぶくした。コルベットは王立おうりつ広場ひろば王立おうりつ裁判所さいばんしょビルにれてかれ、エリザベスじょう[2]指揮しきかんマルキャスター大尉たいいとセントピーター兵舎へいしゃの24さい少佐しょうさフランシス・ピアソンにも降伏ごうぶく命令めいれいするように仕向しむけられた。

イギリスぐん準備じゅんび

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ピアソン少佐しょうさ

イギリスぐん民兵みんぺいはモンテ・ペンデュ(現在げんざいはウェストマウントとばれている)に集結しゅうけつし、2,000めい兵士へいし掌握しょうあくしたピアソン少佐しょうさおかのぼって攻撃こうげきける決断けつだんをした。市場いちばにキャンプをっていたフランスぐんまち大砲たいほう捕獲ほかくして市場いちばから様々さまざま方向ほうこうけてえ、かってくるイギリスぐんめられるようにした。しかし、フランスぐん榴弾りゅうだんほうつけられなかった。イギリスぐんはフランスぐん目撃もくげきした人々ひとびとから、その勢力せいりょくが800めいか900めいぎないことをった。フランスぐんはコルベットをエリザベスじょうおくって降伏ごうぶくすすめたが拒絶きょぜつされた[3]つづいてこのしろからフランスぐんかって大砲たいほうはなち、2、3にん兵士へいしころした。

だい78スコットランド連隊れんたいがモン・ド・ラ・ビル(現在げんざいのリージェントとりでがあるところ)をおさえるよう派遣はけんされ、フランスぐん逃亡とうぼうしようとしたときにその退路たいろおさえられるようにした。ピアソン少佐しょうさだい78連隊れんたいがそこにいた頃合ころあいはかり、配下はいか部隊ぶたいおかのぼってフランスぐん攻撃こうげきけるよう命令めいれいした。しかしイギリスぐんはそのおか停止ていしさせられた。ド・ルルクールがコルベットを派遣はけんして降伏ごうぶく条件じょうけんつたえさせ、イギリスぐん署名しょめいしなければフランスぐんが30ふん以内いないまちらすことをつたえさせたからだった。イギリスぐんはその勢力せいりょく優勢ゆうせいだったのでそのもう拒否きょひし、だい83歩兵ほへい連隊れんたいとグルービルのひがし連隊れんたい一部いちぶもこれにならった。ド・ルルクールがこの回答かいとうったとき、「かれらが降伏ごうぶくしたくないのだから、わたしににたということだ」とったとつたえられている。

戦闘せんとう

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ジャージーのたたかいがおこなわれた王立おうりつ広場ひろば現在げんざい姿すがた

攻撃こうげきはじまった。グランデ・ルーにいたイギリスぐんにはだい78連隊れんたい、セントローレンス大隊だいたい南東なんとう連隊れんたいおよびサンジャン中隊ちゅうたいなどがふくまれていた。だい95歩兵ほへい連隊れんたい民兵みんぺいたいのこりはべつ街路がいろすすんだ。イギリスぐんまちちゅうでの戦闘せんとうにはかずおおぎたので、のちにその3ぶんの1もればフランスぐんたおすのに十分じゅうぶんだったと兵士へいしもいた。おおくのイギリスへい混乱こんらんしており、じゅうはな機会きかいく、そらかって発砲はっぽうしてじゅうそらにした。

フランスぐん抵抗ていこう短時間たんじかんのものであり、戦闘せんとう大半たいはんは15分間ふんかんほどのものだった。フランスぐん配置はいちかせていた大砲たいほうを1か2発砲はっぽうさせただけだった。イギリスぐんはグランデ・ルーで市場いちば真向まむかいに榴弾りゅうだんほうえ、あるイギリスへい記憶きおくれば、その榴弾りゅうだんほう砲弾ほうだんはなたれるごとにが「フランスぐん周囲しゅういすべさらった」。ピアソン少佐しょうさだい95歩兵ほへい連隊れんたいはアベニュー・デュ・マルシェの方向ほうこう前進ぜんしんした。イギリスぐん勝利しょうりおさめようというまさにそのときに、ピアソン少佐しょうさ心臓しんぞうにマスケット銃弾じゅうだんけて戦死せんしした。それでもその部隊ぶたい戦闘せんとうつづけた。ド・ルルクールが負傷ふしょうしたときにフランスへいたたかうことをあきらめ、その武器ぶきして逃亡とうぼうはじめた。しかし市場いちば建屋たきのや到着とうちゃくしたものはそこから発砲はっぽうつづけた。

ド・ルルクールはコルベットをつうじて、フランスぐんはラロックに2大隊だいたい砲兵ほうへい中隊ちゅうたいがいることをイギリスぐんつたえさせた。らロックはまちから15ぶん行程こうていないにあった。イギリスぐんはそこに勢力せいりょくが200めいらずであることをっていたのでひるまなかった。だい83連隊れんたい近衛このえ擲弾へい45めいが140めいのフランスへい対抗たいこうしているところにひがし連隊れんたい一部いちぶ到着とうちゃくし、そのはフランスぐんやぶれて70めい捕虜ほりょになり、30めい戦死せんしまたは負傷ふしょうした。フランスぐんのこ部隊ぶたい田園でんえんけて散開さんかいせん辿たどりついたが、そのあいだ捕獲ほかくされたものもいた。

たたかいののち

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1781ねん民兵みんぺいたい再演さいえん。2007ねん1がつ6にち記念きねん式典しきてんおこなわれたときの写真しゃしん右手みぎてにはド・ルルクール男爵だんしゃくんだレリエ医師いしいえがある。現在げんざいはピアソンというパブになっている。

結果けっか

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イギリスぐんはそのに600めい捕虜ほりょつかまえ、イングランド送致そうちした。イギリスぐん損失そんしつやく30めい戦死せんししたことだった。ド・ルルクールは負傷ふしょうし、翌日よくじつんだ。

イギリスぐんなか裏切うらぎものがいたという評判ひょうばんがあった。ド・ルルクールは要塞ようさいとう大砲たいほうなどの配置はいち所有しょゆうしており、ジャージーに友人ゆうじんなければここにることもなかっただろうとわれた。フランスぐんはイギリス正規せいきぐん民兵みんぺいたい勢力せいりょくやそれを指揮しきする指揮しきかん名前なまえまでを正確せいかくっていた。ド・ルルクールの行李こうりつかった文書ぶんしょにはジャージーの住人じゅうにんル・ゲイトという名前なまえしるされており、ル・ゲイトはのち容疑ようぎしゃとも逮捕たいほされた。

この戦闘せんとうしままもりをかためるために海岸かいがん周辺しゅうへんに30かしょとう建設けんせつされた。

絵画かいが

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ジョン・シングルトン・コプリーが「ピアソン少佐しょうさ戦死せんし」という劇的げきてき場面ばめん絵画かいが制作せいさくした[4]。この絵画かいが現在げんざいテート・ギャラリーおさめられ[5]、ジャージーの10ポンド紙幣しへい採用さいようされている。

脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい4910ふん57びょう 西経せいけい206ふん27びょう / 北緯ほくい49.18238 西経せいけい2.10749 / 49.18238; -2.10749