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トヨタ・7

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トヨタ7ターボ

トヨタ7(トヨタセブン)は、トヨタ自動車とよたじどうしゃ工業こうぎょうげんトヨタ自動車とよたじどうしゃ)のワークス・チーム使用しようした座席ざせきレーシングカー。「7」の名称めいしょうは、当時とうじ国際こくさい自動車じどうしゃ連盟れんめい(FIA)競技きょうぎ車両しゃりょう分類ぶんるいにおいて座席ざせきレーシングカーがC部門ぶもんだい7グループであることによる。

1968ねんがた(3リットルNA)、1969ねんがた(5リットルNA)、1970ねんがた(5リットルターボと5リットルNA)の3世代せだいがあり、いずれもヤマハ発動機やまははつどうきトヨタグループ企業きぎょうとの共同きょうどう開発かいはつである。

背景はいけい

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トヨタは量産りょうさんしゃむすびつくツーリングカーGTカーのレースを重視じゅうししていたため、本格ほんかくてきなレーシングカーの開発かいはつには消極しょうきょくてきであった。しかし、メーカーの威信いしんけたとしいち日本にっぽんグランプリでは、1966ねんだい3かい日本にっぽんグランプリより国内外こくないがいスポーツカー[1]出場しゅつじょうするようになった。トヨタはこのレースに市販しはんしゃベースの2000GT投入とうにゅうしたものの、プリンス・R380(プロトタイプ)やポルシェ・906公認こうにん生産せいさん)といったレース専用せんようのスポーツカーには太刀打たちうちできなかった。草創そうそうともいうべきこの時期じき国内こくないのモータースポーツのがりや技術ぎじゅつ開発かいはつ競争きょうそう激化げきかにあわせ、トヨタは自社じしゃはつのレーシングカーとなるトヨタ7を開発かいはつすることになる。

おおくの市販しはんしゃプロジェクトをかかえていたトヨタはレーシングカー開発かいはつ人員じんいん余裕よゆうがなく[2]、2000GTの開発かいはつ協力きょうりょく関係かんけいにあったヤマハ発動機やまははつどうきふたたむことになった。トヨタこう製品せいひん企画きかくのレース部門ぶもん(のちのだい7技術ぎじゅつ)が基本きほん構想こうそう立案りつあんし、ヤマハ研究けんきゅう設計せっけい製造せいぞう担当たんとう、トヨタこうのワークスチーム(チーム・トヨタ)がレース活動かつどうおこなうという体制たいせいであった[2]。ヤマハは研究けんきゅうようフォード・GT40購入こうにゅう。1969ねん以降いこうはヤマハが新設しんせつした袋井ふくろいテストコース拠点きょてん開発かいはつおこなわれた。また1967ねんにトヨタ傘下さんかとなったダイハツ工業だいはつこうぎょうも、風洞ふうどう施設しせつ貸与たいよや5.0リッターターボの共同きょうどう開発かいはつなどで参加さんかしている[3]

3リットル7(415S)

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1968ねんにデビューした初代しょだいトヨタ7は社内しゃないコード415Sばれる。1967ねんはる開発かいはつ計画けいかくがスタートし、同年どうねん8がつにヤマハがわ具体ぐたいてき開発かいはつ作業さぎょうがスタート[4]。1968ねん1がつに1号車ごうしゃ完成かんせいした[5]

1968ねん日本にっぽんグランプリで参加さんか許容きょようされる座席ざせきレーシングカー選択せんたくされた。シャーシはツインチューブしきアルミニウムせいモノコック採用さいようした。当時とうじ最先端さいせんたん技術ぎじゅつ挑戦ちょうせんしたというよりも、短時間たんじかん製作せいさくできるという理由りゆうから選択せんたくしたものであった[6]ちいさな構造こうぞうぶつをリベットでつなぎわせる形式けいしきだったが、走行そうこうちゅう負荷ふかによりリベットがゆるんでシャシー剛性ごうせいちるという問題もんだい発生はっせい[7]補強ほきょうかさねたために重量じゅうりょう超過ちょうかというハンディをうことになった。専用せんようVがた8気筒きとうエンジンが完成かんせいするまでは2000GTの直列ちょくれつ6気筒きとうエンジンを搭載とうさいしてテストをおこなったため、ドライバーズシートが前方ぜんぽうりに位置いちしている。サスペンションは2000GTのレイアウトを流用りゅうようし、リアのダンパーユニットをアッパーウィッシュボーンよりも上部じょうぶ配置はいちしたのが特徴とくちょうであった。ギアボックスはZFせいの5そくMT

エンジンはアルミニウム合金ごうきんせいの2,986 cc・90Vがた8気筒きとうNADOHC2バルブの61Eがた開発かいはつした。当時とうじインディカーレースで活躍かつやくしていたフォード・DOHCコンペティションをモデルとし、Vバンクない排気はいきというレイアウトを採用さいようした。3リットルエンジンを選択せんたくしたのは、1968ねんから発効はっこうするメイクス国際こくさい選手権せんしゅけん参加さんかクラス制限せいげん[8]うながしたもので、日本にっぽんグランプリで結果けっかしたのち、将来しょうらいてきにはヨーロッパの耐久たいきゅうレースに参戦さんせんしたいという意志いしがあったという[9]。また、開発かいはつ初期しょきセンチュリーのエンジンブロックの流用りゅうよう検討けんとうされていたという経緯けいいもある[10]日本電装にほんでんそう開発かいはつしたインジェクターきっぱなしの連続れんぞく噴射ふんしゃしき公称こうしょう出力しゅつりょくは330 PS / 8,500 rpm[6]だが、実際じっさいはそこまでたっしておらず、シャーシの重量じゅうりょうぞうもあってパワー不足ふそくなやまされた。その開発かいはつにより、最終さいしゅうてきには出力しゅつりょく328 PS / 8,000 rpm、最大さいだいトルク30.8 mkg / 6,400 rpmがられたと報告ほうこくされている[6]。なお、アメリカのピート・ブロック依頼いらいした試作しさくしゃ「JP6(社内しゃない呼称こしょう400S)」に搭載とうさいしてのテストもおこなわれた[11]

ボディはロードスターで、カウルは繊維せんい強化きょうかプラスチックせい。シェイクダウンはテスト結果けっかにあわせてフロントノーズの形状けいじょう変更へんこう、オーバーフェンダーやリアスポイラー追加ついかなどのモディファイがおこなわれた(耐久たいきゅうレースに出場しゅつじょうするときはヘッドライトを装着そうちゃくした)。エンジンカウルはエキゾーストパイプおおかくすタイプと、エキゾーストパイプが上部じょうぶ露出ろしゅつしたタイプの2種類しゅるい併用へいようした。

5リットルニュー7(474S)

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1969ねん登場とうじょうした2代目だいめ(ニュー7)は社内しゃないコード474Sばれる。1968ねん5がつ日本にっぽんグランプリ直後ちょくご開発かいはつがスタートし、同年どうねん7がつにヤマハが具体ぐたいてき開発かいはつ作業さぎょう着手ちゃくしゅ[12]。1969ねん3がつまつに1号車ごうしゃ完成かんせいした[13]

シャーシは問題もんだいおおかったモノコックから、コンベンショナルな鋼管こうかんスペースフレーム変更へんこう走行そうこうにパイプない圧縮あっしゅく空気くうき充填じゅうてんし、フレームのひびれがないか検査けんさした。リアサスペンションは一般いっぱんてきな4リンクとされたが、初代しょだいよりもステアリングがおもく、つよアンダーステア傾向けいこうしめした[14]ラジエーターはフロントからシャーシのりょうサイドへ移設いせつされ、エアインテークはカウル上面うわつら(コクピットりょうわき)に開口かいこうされた(シャパラル先鞭せんべんをつけたサイドラジエーターは、当時とうじとしては目新めあたらしい設計せっけいであった)。ギアボックスはZFからヒューランド5そく変更へんこう

前年ぜんねん日本にっぽんグランプリでシボレーせい5.5リットルエンジンを搭載とうさいする日産にっさん・R381やぶれたことから、エンジン排気はいきりょうを4,986 ccまで拡大かくだいした79Eがたエンジン(90Vがた8気筒きとうDOHC4バルブ)が開発かいはつされた。当時とうじ量販りょうはんされはじめたフォーミュラ1ようフォード・コスワース・DFVエンジン手本てほんとし(実物じつぶつ入手にゅうしゅしたのは基本きほん設計せっけい終了しゅうりょう[12])、エキゾーストが一般いっぱんてきなバンクがい排気はいき変更へんこうされ、インジェクターが定時ていじ噴射ふんしゃしき変更へんこうされた。1969ねん日本にっぽんグランプリではエンジン上部じょうぶインダクションポッド追加ついかされた。公称こうしょう出力しゅつりょくは530 PS / 7,600 rpmで最大さいだいトルク53 mkg / 5,600 rpm、ベンチテストでは最終さいしゅうてきに584 PS / 8,400 rpm、53.07 mkg / 6,500 rpmを記録きろくした[12]。なお、3リットル7とおなじく、エンジン完成かんせいまではシボレー5.8リットルVがた8気筒きとうエンジンを搭載とうさいしてテスト走行そうこうおこなった[9]

当初とうしょ、ボディはロングテールのクーペとして開発かいはつされた。474Sの完成かんせいまえには、415Sに試作しさくボディをそうしてテストをおこなっており、袋井ふくろいでのテストちゅう福澤ふくさわ幸雄ゆきお事故死じこししたときにはこのロングテール3リットル7をドライブしていた[15][9](チーム・トヨタのリーダーだった細谷ほそや四方よもひろしも、1週間しゅうかんほどまえ谷田部やたべテストコースでこの車両しゃりょうはしらせたとべている[16])。しかし、重量じゅうりょうえることにくわえ、ドライバーから「視界しかいわるい」という不満ふまんたため、ショートテールのロードスターへとさい設計せっけいされた。ボディカウルはトヨタが当時とうじ業務ぎょうむ提携ていけいむすんでいたダイハツ工業だいはつこうぎょう風洞ふうどう施設しせつ実験じっけんされ、曲面きょくめんてきな415Sよりも直線ちょくせんてきなデザインとなった。

このとし、FIAが安全あんぜんめんからいちウィングの使用しよう禁止きんししたため、日本にっぽんグランプリではリアスポイラーをけていたが、11月におこなわれただい2かいワールドチャレンジカップ・富士ふじ200マイルレース(通称つうしょう日本にっぽんCan-Am」)はルール適用てきようがいだったため、いちまいいた大判おおばんリアウィングを装着そうちゃくした。このリアウィングは骨組ほねぐみにバルサもちいて軽量けいりょうしたもので、1970ねんの3代目だいめでも使用しようされた。

5リットル7ターボ(578A)

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1970ねん登場とうじょうした3代目だいめ社内しゃないコード578Aばれる。剛性ごうせい強化きょうか軽量けいりょうくわえて、国産こくさんはつきゅうしきターボチャージャー)レースエンジンを搭載とうさいした。1970ねん1がつから開発かいはつはじまり、同年どうねん5がつには1号車ごうしゃ完成かんせいした[17]製作せいさく費用ひようは1だい2おくえんといわれる[18]

シャシ先代せんだいおなじくスペースフレームだが、フレームの材質ざいしつクロムモリブデンこうから特殊とくしゅアルミ合金ごうきん変更へんこうほかにも「-100 kgの軽量けいりょう[19]」を目標もくひょうとして、サスペンションアームやドライブシャフトなど各所かくしょチタンマグネシウム合金ごうきん使用しようした。コクピット後方こうほうのバルクヘッドにエンジンをボルトめし、サブフレームで補強ほきょうするセミ・ストレスメンバーしきとした結果けっか車体しゃたいねじ剛性ごうせいは474Sのやく2ばいとなり[20]、エンジンまわりがシンプルになることで、サイドラジエーターの気流きりゅう通過つうか改善かいぜんされるというメリットもあった。474Sは左右さゆう両側りょうがわともラジエーターだったが、578Aではみぎがラジエーター、ひだりオイルクーラーとされた[21]。サスペンションを改良かいりょうした結果けっか操縦そうじゅう特性とくせい安定あんていしてニュー7よりもコントロールしやすくなった[18]トランスミッションとクラッチはアイシン精機あいしんせいきげん:アイシン)の国産こくさんせいとなり、ギアボックスケーシングは軽量けいりょうのためマグネシウム合金ごうきんせいとされた。

91Eがたエンジンは5リットルの79Eがたをベースにして、ギャレット・エアリサーチGarrett AiResearchせいディーゼルエンジンようターボチャージャーを2装着そうちゃくした。ヤマハの研究けんきゅう課長かちょうわたりおうしたさい、ドイツの技術ぎじゅつしゃミハエル・マイ(Michael May)からターボ機構きこう紹介しょうかいされ、使用しよう契約けいやくむすんで採用さいようした[22]。1968ねんインディ500ではターボエンジンしゃはつ優勝ゆうしょうしていたが、ターボラグなどの問題もんだいから耐久たいきゅうレースでのポテンシャルはまだ未知数みちすうだった。スロットルはスライドしきからバタフライしき変更へんこうインタークーラー装備そうびされていない。公称こうしょう出力しゅつりょくは800 PS / 8,000 rpmだが、これは「嘘八百うそはっぴゃく」ということわざになぞらえてひかえめに発表はっぴょうした数値すうちであり、じつ走行そうこうでは850馬力ばりき以上いじょうていたという[23]細谷ほそやは「実際じっさいは1,000馬力ばりきていたはずです[24]」とかたっている)。テストでは最高さいこうそく363 km/hを記録きろくしたというが、燃費ねんぴは800 m/リットルしかなく、けい250リットルの燃料ねんりょうタンクを搭載とうさいしていた[25]

また、79Eがたエンジンをしんシャーシに搭載とうさいしたNAばん製作せいさくされた。こちらはエキゾーストが上方かみがたうつされている。

ボディはラジエーターインテークが側面そくめんうつり、NACAダクトふうわったのが特徴とくちょうそらりょく安定あんていせいたかめるためノーズがダルな形状けいじょうになり、フロントフェンダーにバックミラーがまれた。繊維せんい強化きょうかプラスチック裏地うらじにカーボンを格子こうしじょう接着せっちゃくし、当時とうじ最新さいしん素材そざいだった炭素たんそ繊維せんい強化きょうかプラスチックとしたことで、カウルのあつみを従来じゅうらい半分はんぶんの1 mm程度ていどにまでうすくすることができた[20]

細谷ほそやはターボ仕様しようについて「5そくでもホイールスピンするほどトルクがあるので、ステアリングできっかけさえつくればマシンのきを自由自在じゆうじざいえられたんです[16]」「(ターボラグは)はやめにスロットルをむなどのテクニックで充分じゅうぶんカバーできたんです[16]」と説明せつめいし、「これまでかぞれないくらいおおくのくるまってきましたが、あれは間違まちがいなく最高さいこうのものでした[16]」とかたっている。

しょもと

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年度ねんど 1968ねん 1969ねん 1970ねん
シャーシ 開発かいはつコード 415S 474S 578A
構造こうぞう アルミモノコック 鋼管こうかんスペースフレーム アルミスペースフレーム
変速へんそく ZF・5DS-25(5だんMT) ヒューランド・LG600(5だんMT) アイシン・SR-5S(5だんMT)
クラッチ ボーグ&ベック ボーグ&ベック アイシン
ブレーキ ガーリング
ガーリング
全長ぜんちょう 4,020 mm 3,750 mm
全幅ぜんぷく 1,720 mm 1,880 mm 2,040 mm
ぜんこう 850 mm 840 mm
前後ぜんごトレッド 1,440 / 1,440 mm 1,468 / 1,480 mm
ホイールベース 2,330 mm 2,300 mm 2,350 mm
重量じゅうりょう 680 kg 620 kg
エンジン 開発かいはつコード 61E 79E 91E
排気はいきりょう 2,986 cc 4,986 cc 4,986 cc
ボア×ストローク 83×69 102×76 102×76
型式けいしき 90Vがた8気筒きとう 90・Vがた8気筒きとう 90・Vがた8気筒きとう
吸気きゅうき 自然しぜん吸気きゅうき 自然しぜん吸気きゅうき
どうべん DOHC・2バルブ DOHC・4バルブ DOHC・4バルブ
燃料ねんりょう供給きょうきゅう 日本電装にほんでんそう燃料ねんりょう噴射ふんしゃ 日本電装にほんでんそう燃料ねんりょう噴射ふんしゃ 日本電装にほんでんそう燃料ねんりょう噴射ふんしゃ
最大さいだい出力しゅつりょく 330 PS / 8,500 rpm以上いじょう 530 PS / 7,600 rpm 800 PS / 8,000 rpm
最大さいだいトルク 53 mkg / 5,600 rpm 74 mkg / 7,600 rpm
タイヤ ホイール 神戸製鋼所こうべせいこうしょ・15in 神戸製鋼所こうべせいこうしょ・15 in 神戸製鋼所こうべせいこうしょ・15 in
タイヤ
  • グッドイヤー
  • ファイアストン
ファイアストン

活動かつどう履歴りれき

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1968ねん

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トヨタは1967ねんだい4かい日本にっぽんグランプリ欠場けつじょうし、翌年よくねん大会たいかいけて3リットル7(415S)の開発かいはつすすめた。1968ねん2がつ3にち鈴鹿すずかサーキットにて2000GTのエンジンを搭載とうさいしてシェイクダウンおこない、2がつなかばより61Eがたエンジンを搭載とうさい。3月より日本にっぽんグランプリの舞台ぶたいとなる富士ふじスピードウェイでテストをかさね、本番ほんばんおな走行そうこう距離きょり模擬もぎレースもおこなった。

5月3にち1968ねん日本にっぽんグランプリにはチーム・トヨタの4だいがエントリー。ドライバーごとにボディカラーがけられ、細谷ほそや四方よもひろしあかふなひろししろ大坪おおつぼ善男よしおがクリームしょく福澤ふくさわ幸雄ゆきおがダークグリーンだった。予選よせん福沢ふくさわの6最高さいこうで、テストのベストラップよりも2びょうおそい1ふん56びょうだいだった。決勝けっしょうでも5リットルきゅうマシンのペースについていけず、大坪おおつぼの8(5しゅうおくれ)がさい上位じょういという惨敗ざんぱいわった。

6月26にちには記念きねんすべきだいいちかい鈴鹿すずか1000kmで、福沢ふくさわ幸雄ゆきお津々しんしん友彦ともひこぐみが7の公式こうしきレースはつ優勝ゆうしょうげた。また同月どうげつ全日本ぜんにほん鈴鹿すずか自動車じどうしゃレース大会たいかいでも1-3独占どくせんたす(細谷ほそや優勝ゆうしょう)。その国内こくない耐久たいきゅうレースに積極せっきょくてき出場しゅつじょうして勝利しょうりかさねた。11月23にち日本にっぽんCan-Am(ワールドチャレンジカップ富士ふじ200マイルレース)には5だい出場しゅつじょう。アメリカから来日らいにちしただい排気はいきりょうしゃ相手あいてに、福沢ふくさわのドライブで4入賞にゅうしょう健闘けんとうした。

1969ねん

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5リットルニュー7(474S)の登場とうじょうまではきゅう415Sでのレースを継続けいぞくした。2月12にちのテストちゅう福沢ふくさわ事故死じこし前述ぜんじゅつ)、4がつ富士ふじ500kmではあらたにワークスりした川合かわいみのるはつ優勝ゆうしょうした。

474Sは3がつ27にちよりテストを開始かいしし、5月にはクローズドボディからオープンへ改装かいそうされた。7月22にち全日本ぜんにほん富士ふじ1000kmにて実戦じっせん投入とうにゅうされ、ふな/大坪おおつぼぐみがデビューウィンをかざった。日本にっぽんグランプリの前哨ぜんしょうせんとされたNETスピードカップでも、日産にっさん・R381(自社じしゃせい5リットルVがた12気筒きとう)をやぶってワンツーフィニッシュした。

10がつ10日とおか1969ねん日本にっぽんグランプリには外国がいこくじんすけやトヨタ自販じはんけいドライバーもくわえた5だい体制たいせいでエントリー。カラーリングは白地しろじいろちがいのストライプで、細谷ほそや/久木ひさきとめ博之ひろゆきあか)、川合かわいあお)、高橋たかはしはれくに/ふなむらさき)、蟹江かにえ光正みつまさ/見崎みさき清志きよし(オレンジ)、ヴィック・エルフォード/高橋たかはし利昭としあき(ダークグリーン)。予選よせん久木ひさきとめの4最高さいこうで、ポールポジションの日産にっさん・R382(6リットルVがた12気筒きとうエンジン)から4びょうけられた。決勝けっしょうもR382ぜい独走どくそうし、後方こうほうでトヨタとポルシェがあらそ展開てんかいとなり、川合かわいが3(1しゅうおくれ)を獲得かくとくした。この2年間ねんかん日産にっさん陣営じんえいが(開発かいはつおくれもあって)ぎりぎりまでうちかくしたのにたいし、トヨタは充分じゅうぶん事前じぜん準備じゅんびをもって日本にっぽんグランプリへのぞんだものの、本番ほんばんでは性能せいのうせつけられる結果けっかわった。

11月23にちだい2かい日本にっぽんCan-Amには3だいの474Sと1だいのマクラーレン・トヨタ(後述こうじゅつ)がエントリーし、川合かわいの474Sが優勝ゆうしょうした。

1970ねん

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6がつはじめに7ターボ(578A)のシェイクダウンをおこない、さっそく袋井ふくろいのコースレコードを4びょう短縮たんしゅくした[20]。しかし6がつ8にち日産にっさん日本にっぽんグランプリ出場しゅつじょう発表はっぴょうし、日本にっぽんグランプリ主催しゅさいしゃ日本にっぽん自動車じどうしゃ連盟れんめい(JAF)も大会たいかい中止ちゅうし決定けっていした。そのはアメリカのCan-Amシリーズ参戦さんせん目指めざして開発かいはつ続行ぞっこうし、7がつ26にち富士ふじ1000kmレースの前座ぜんざでは川合かわい(ターボ、あか)、細谷ほそや(ターボ、オレンジ)、久木ひさきとめ(NA、あお)の3だいがデモランをおこなった。

8がつ26にちにはトヨタの社内しゃない委員いいんかいでCan-Am参戦さんせん認可にんかされた。しかし、当日とうじつ午後ごご鈴鹿すずかサーキットでテストちゅう川合かわいみのる事故死じこしし、プロジェクトは水泡すいほうかえした。日産にっさんR383にツインターボを搭載とうさいしてCan-Amに参戦さんせんするつもりだったが、トヨタと同様どうよう計画けいかく中止ちゅうしとなった。Can-Amシリーズでは1972ねんにポルシェがターボエンジンを搭載とうさいする917/10K投入とうにゅうして圧勝あっしょうする。もしトヨタや日産にっさんのCan-Am計画けいかく中止ちゅうしにならなければ、ポルシェとのターボパワー競争きょうそう実現じつげんしていたはずだった。

トヨタ7ようエンジン搭載とうさいしゃ

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  • 1969ねん5がつだい1かいJAFグランプリでは3リットル7のE61がたエンジンをプライベーターのたきレーシング供給きょうきゅうし、ブラバム中古ちゅうこF2シャーシに搭載とうさいする「タキ・スペシャル」が2だい出走しゅっそうする予定よていだった(ドライバーは田中たなか健二郎けんじろう長谷見はせみ昌弘まさひろ)。しかし、イギリスの取引とりひきさきであるフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズウィリアムズ前身ぜんしん)からシャーシが1だいしか納入のうにゅうされず、準備じゅんび不足ふそくのため出場しゅつじょう断念だんねんした[26]。このけんについて、タキ・レーシングは「オートスポーツにおびの広告こうこくした。
  • 同年どうねん11がつだい2かい日本にっぽんCan-Amには、ノーマルのトヨタ7(474S)にくわえて、比較ひかく研究けんきゅうよう購入こうにゅうしたマクラーレン・M12シャーシに5リットルニュー7の79Eがたエンジンを搭載とうさいした「マクラーレン・トヨタ」が1だい参戦さんせんした(ドライバーはふなひろし)。ふなはのちにニュー7のシャーシ剛性ごうせいひくさ、ステアリングのおもさを指摘してきし、「マクラーレンのシャーシだったら日本にっぽんGPでてたとおも[27]」とべている。細谷ほそやも「正直しょうじきうと、5リッターモデルよりもはしりやすかったですね(笑)。非常ひじょう完成かんせいされたマシーンという印象いんしょうけました[16]」とかたっている。
  • 1970ねんの「だい17かい東京とうきょうモーターショー」では、トヨタ7のエンジンをんだコンセプトカー「トヨタ・EX-7」[28]展示てんじおこなわれた。エンジンは5.0 LのV8であるが、自然しぜん吸気きゅうきの450馬力ばりき大幅おおはばにデチューンされた。

保存ほぞんじょうきょう

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初代しょだいの3リットル7(415S)は14だい製作せいさくされ、使用しよう全車ぜんしゃ廃棄はいき処分しょぶんとされた[29]

2代目だいめの5リットル7(474S)は12だい製作せいさくされ、川合かわいがドライブした日本にっぽんCan-Am優勝ゆうしょうしゃのみが現存げんそんし、その廃棄はいき処分しょぶんとされた[30]。2007ねんレストアされてはつ走行そうこうした。

3代目だいめの5リットル7(578A)は6だい製作せいさくされ、1号車ごうしゃはテスト廃棄はいき川合かわいの5号車ごうしゃ事故じこ車両しゃりょうとして警察けいさつ押収おうしゅうされた[31]のこる4だいのうち2号車ごうしゃ(ターボ)はオランダにレンタルされ、3号車ごうしゃ(ターボ)・4号車ごうしゃ(NA)・6号車ごうしゃ(ターボ)は国内こくないにある[31]トヨタくら記念きねんかんとう保管ほかんされていたが、トヨタ博物館はくぶつかん開館かいかんともなって同館どうかんうつされた。そのレストアがすすみ、2002ねんグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードにNAしゃ、2003ねんどうイベントにターボしゃ登場とうじょうした。578Aしゃ実戦じっせん走行そうこういにもかかわらず、その大胆だいたんなスタイルから人気にんきたかく、前述ぜんじゅつのイベント走行そうこうのほかゲームの「グランツーリスモ」シリーズにも登場とうじょう[32]玩具おもちゃ模型もけいおお知名度ちめいどたかい。

国内こくないにある車両しゃりょうは、そののイベントなどでもデモ走行そうこうおこなっている。2008ねんおこなわれた「ドライブ王国おうこく2008 in SUGO」では、2000GTやスポーツ800とともにクラシックカーパレードというかたち走行そうこうした。

マクラーレン・トヨタはオリジナルスタイルにもどされ、1970ねん黒沢くろさわレーシングに売却ばいきゃくされ、1971ねんには酒井さかいレーシングに、そして、現在げんざいはニュージーランドのブルース・マクラーレン・トラストのメンバーの手元てもとにあり、ヒストリックカーレースなどで活躍かつやくちゅうである。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 公認こうにん生産せいさんスポーツカー (A部門ぶもんだい4グループ) およびプロトタイプ・スポーツカー (B部門ぶもんだい6グループ)
  2. ^ a b 檜垣ひがき、「カーグラフィック」2003ねん6がつごう、173ぺーじ
  3. ^ ベストカー 12がつ26にちごう 194-196ページ『よみがえったDAIHATSU P5』 平成へいせい30ねん12月26にち 講談社こうだんしゃかん
  4. ^ 檜垣ひがき「カーグラフィック」2003ねん8がつごう、184ぺーじ
  5. ^ 檜垣ひがき「カーグラフィック」2003ねん6がつごう、174-175ぺーじ
  6. ^ a b c 檜垣ひがき、「カーグラフィック」2003ねん6がつごう、175ぺーじ
  7. ^ 吉川よしかわ「ノスタルジックヒーロー」2007ねん6がつごう、70-71ぺーじ
  8. ^ 公認こうにん生産せいさんスポーツカーはだい6からだい12まで (エンジン排気はいきりょう1.0リットルちょうから5.0リットルまで)、プロトタイプ・スポーツカーはだい6からだい11まで (どう3.0リットルまで)
  9. ^ a b c 檜垣ひがき「カーグラフィック」2003ねん8がつごう、186ぺーじ
  10. ^ 檜垣ひがき「カーグラフィック」2003ねん6がつごう、174ぺーじ
  11. ^ 吉川よしかわ「ノスタルジックヒーロー」2007ねん4がつごう、71ぺーじ
  12. ^ a b c 檜垣ひがき「カーグラフィック」2003ねん8がつごう、187ぺーじ
  13. ^ 檜垣ひがき「カーグラフィック」2003ねん8がつごう、188ぺーじ
  14. ^ 桂木かつらぎ、168ぺーじ
  15. ^ 桂木かつらぎ、151ぺーじ
  16. ^ a b c d e 檜垣ひがき「カーグラフィック」2003ねん10がつごう、173ぺーじ
  17. ^ 桂木かつらぎ、223・229ぺーじ
  18. ^ a b 桂木かつらぎ、229ぺーじ
  19. ^ 檜垣ひがき「カーグラフィック」2003ねん10がつごう、169ぺーじ
  20. ^ a b c 檜垣ひがき「カーグラフィック」2003ねん10がつごう、171ぺーじ
  21. ^ 吉川よしかわ「ノスタルジックヒーロー」2007ねん12がつごう、70ぺーじ
  22. ^ 檜垣ひがき「カーグラフィック」2003ねん10がつごう、170ぺーじ
  23. ^ 桂木かつらぎ、228ぺーじ
  24. ^ 『レーシングオン』464ごう、30ぺーじ
  25. ^ 『レーシングオン』464ごう、32ぺーじ
  26. ^ 『レーシングオン 2009ねん4がつごうどおりごう437、三栄書房さんえいしょぼう、2009ねん、52-53ぺーじ
  27. ^ 『ノスタルジックヒーロー 2011ねん12がつごう』、芸文社げいぶんしゃ、2011ねん、94ぺーじ
  28. ^ Looking into the future: Toyota EX-7 concept - THE OFFICIAL BLOG OF TOYOTA GB(SEPTEMBER 19, 2014)2019ねん1がつ25にち閲覧えつらん
  29. ^ 吉川よしかわ「ノスタルジックヒーロー」2007ねん6がつごう、73ぺーじ
  30. ^ 吉川よしかわ「ノスタルジックヒーロー」2007ねん10がつごう、72ぺーじ
  31. ^ a b 吉川よしかわ「ノスタルジックヒーロー」2008ねん2がつごう、70-71ぺーじ
  32. ^ グランツーリスモ4グランツーリスモ5グランツーリスモ (PSP)グランツーリスモ6収録しゅうろく(2020ねん現在げんざい)。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 桂木かつらぎ洋二ようじ激闘げきとう '60年代ねんだい日本にっぽんグランプリ』グランプリ出版しゅっぱん、1995ねん
  • 桧垣ひがき和夫かずお「スポーツカープロファイルシリーズIII トヨタ7 PART I〜III」『カーグラフィック』2003ねん6がつごう/2003ねん8がつごう/2003ねん10がつごう二玄社にげんしゃ
  • 吉川よしかわしん「トヨタ7 その開発かいはつから撤退てったいまで 1〜5かい」『ノスタルジックヒーロー』2007ねん4がつごう/2007ねん6がつごう/2007ねん8がつごう/2007ねん10がつごう/2007ねん12がつごう/2008ねん2がつごう芸文社げいぶんしゃ
  • Racing On 特集とくしゅういにしえ日本にっぽんグランプリ』どおりごう464、三栄書房さんえいしょぼう、2013ねん

関連かんれん項目こうもく

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