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パドヴァ

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パードヴァから転送てんそう
パドヴァ
Padova
パドヴァの風景
行政ぎょうせい
くに イタリアの旗 イタリア
しゅう ヴェネト州の旗 ヴェネト
けん大都市だいとし パドヴァ
CAP郵便ゆうびん番号ばんごう 35100
市外しがい局番きょくばん 049
ISTATコード 028060
識別しきべつコード G224
分離ぶんり集落しゅうらく #行政ぎょうせい区画くかく参照さんしょう
隣接りんせつコムーネ #隣接りんせつコムーネ参照さんしょう
公式こうしきサイト リンク
人口じんこう
人口じんこう 207112 にん (2023-01-01 [1])
人口じんこう密度みつど 2,230.6 にん/km2
文化ぶんか
住民じゅうみん呼称こしょう padovaniまたはpatavini
守護しゅご聖人せいじん パドヴァのせいアントーニオ (Sant'Antonio di Padova) と せいプロズドチモ (San Prosdocimo) とせいジュスティーナ (Santa Giustina) と せいダニエーレ (San Daniele)
祝祭日しゅくさいじつ 6月13にち
地理ちり
座標ざひょう 北緯ほくい4524ふん23びょう 東経とうけい1152ふん40びょう / 北緯ほくい45.40639 東経とうけい11.87778 / 45.40639; 11.87778座標ざひょう: 北緯ほくい4524ふん23びょう 東経とうけい1152ふん40びょう / 北緯ほくい45.40639 東経とうけい11.87778 / 45.40639; 11.87778
標高ひょうこう 12 (8 - 21) [2] m
面積めんせき 92.85 [3] km2
パドヴァの位置(イタリア内)
パドヴァ
パドヴァの位置いち
パドヴァ県におけるコムーネの領域
パドヴァけんにおけるコムーネの領域りょういき 地図
イタリアの旗 ポータル イタリア
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パドヴァ: Padova ( 音声おんせいファイル))は、イタリア共和きょうわこくヴェネトしゅうにある都市としで、その周辺しゅうへん地域ちいきふく人口じんこうやく21まんにん基礎きそ自治体じちたいコムーネ)。パドヴァけんけん経済けいざい通信つうしんのハブである。

パドヴァ人口じんこうはヴェネトしゅうだい3である。ヴェネツィアなどをふくむパドヴァ=ヴェネツィア都市としけん人口じんこうはおよそ160まんにんである。

名称めいしょう

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標準ひょうじゅんイタリア以外いがいでは以下いか名称めいしょうつ。

日本語にほんご文献ぶんけんでは「パドヴァ」のほか「パドバ」「パードヴァ」などと表記ひょうきされるほか、ヴェネツィア名称めいしょう由来ゆらいする「パドア」、英語えいご名称めいしょう由来ゆらいする「パドゥア」ももちいられる。

地理ちり

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パドヴァけん概略がいりゃく

位置いちひろがり

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パドヴァはバッキリョーネがわほとりにあり、ヴィチェンツァから東南東とうなんとうへ31km、州都しゅうとヴェネツィアから西にしへ34km、ロヴィーゴからきたへ38kmの距離きょりにある[4]

隣接りんせつコムーネ

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隣接りんせつコムーネは以下いかとおり。括弧かっこないのVEはヴェネツィアけん所属しょぞくしめす。

地勢ちせい

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かつてパドヴァ市内しないながれていたブレンタがわは、いま北部ほくぶ地区ちくをかすってながれていく。農業のうぎょうはヴェネツィア平野へいやおこなわれている。パドヴァの南西なんせいには、マルクス・アンナエウス・ルカヌスマルティアリスペトラルカウーゴ・フォスコロパーシー・ビッシュ・シェリーらがたたえたエウガネイ丘陵きゅうりょうひろがる。

ひろいコムーネ広場ひろばからつうじる、アーケードのあるとおりの密集みっしゅうしたネットワーク、そしてかつてはふる城壁じょうへき周囲しゅういほりのようにかこんでいたバッキリョーネがわ英語えいごばん多数たすう支流しりゅうには、おおくのはしがかけられている。

気候きこう分類ぶんるい地震じしん分類ぶんるい

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パドヴァにおけるイタリアの気候きこう分類ぶんるい (itおよびは、zona E, 2383 GGである[5]。 また、イタリアの地震じしんリスク階級かいきゅう (itでは、zona 3 (sismicità bassa)分類ぶんるいされる[6]

歴史れきし

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アルティナーテもん
ウンベルト1せいどお

古代こだい

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パドヴァはきたイタリア最古さいこ都市としであると主張しゅちょうしている。伝承でんしょうによれば、すくなくともウェルギリウスの『アエネイス』にかれた時代じだいからあったといい、自身じしん繁栄はんえいした中世ちゅうせいコムーネ時代じだい証拠しょうこさい発見はっけんされた。それによると、トロヤ王子おうじアンテノールἈντήνωρ)によって紀元前きげんぜん1183ねんにパドヴァはつくられた。アンテノポスは、パフラゴニア英語えいごばんアナトリア黒海こっかい沿岸えんがん地方ちほう)からイタリアにヴェネティじんひきいて建設けんせつ支援しえんした。は1274ねん巨大きょだいいしサルコファガス発掘はっくつし、これらがアンテノポスの遺骸いがいとされると表明ひょうめいした。

共和きょうわせいローマからパタウィウムPatavium)としてられていたパドヴァには、アドリア・ヴェネティひとんでいた。かれらはウマの飼育しいくとヒツジからとる羊毛ようもうられていた。アドリア・ヴェネティじんおとこたちはカンナエでローマじんたたかった。パタウィウムは紀元前きげんぜん45ねんからローマのムニキピウムとなった。パタウィウムは、すぐに無数むすう戦闘せんとう要員よういんあつめられるほど強力きょうりょくであった。近郊きんこうにあるアーバノは、歴史れきしリウィウス生誕せいたんとされている。パドヴァではガイウス・ウァレリウス・フラックスアスコニウス・ペディアヌス英語えいごばんプブリウス・パエトゥスまれた。

パドヴァ地域ちいきをキリスト教化きょうかしたのはせいプロスドキムス英語えいごばんであったとされる。かれはパドヴァ初代しょだい司教しきょうとしてふかうやまわれた。

古代こだい後期こうき

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古代こだい後期こうき以後いごのパドヴァは、イタリア北東ほくとうおおくの都市としがそうであったのとおな過程かてい辿たどった。

パドヴァは452ねんアッティラ指揮しきするフンぞく侵攻しんこうけた。つぎにはゴートぞくオドアケルテオドリック支配しはいけた。しかしゴート戦争せんそうあいだの540ねんに、ひがしマ帝国まていこく従属じゅうぞくした。パドヴァはその再度さいどトーティラによって略奪りゃくだつ破壊はかいされるが、568ねんひがしローマ将軍しょうぐんナルセスによって帝国ていこくりょう復帰ふっきした。そのロンゴバルドぞく支配しはいけた。

601ねん、パドヴァはロンゴバルドおうアギルルフ英語えいごばんたい反乱はんらんこした。12ねんおよんだなが血塗ちぬられた包囲ほうい戦後せんご、アギルルフおうによって略奪りゃくだつされかれた。古代こだいのパドヴァは消滅しょうめつしてしまった。古代こだい円形えんけい演技えんぎじょう遺跡いせきと、一部いちぶはし基礎きそ部分ぶぶんが、ローマ時代じだいから現代げんだいまでのこっている。パドヴァ市民しみん丘陵きゅうりょう地帯ちたいのがれ、廃墟はいきょなか細々こまごまらすためにもどってきた。年代ねんだいによれば、支配しはい階級かいきゅうはラグーナのために見捨みすてた。アギルルフの蛮行ばんこうからの復興ふっこうはたやすくなく、ロンゴバルドのつぎフランク王国おうこくきたイタリアの覇者はしゃとなっても、パドヴァはかつての栄光えいこうせたちいさなまちぎなかった。

フランク支配しはい教会きょうかい主権しゅけん

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828ねんエクス=ラ=シャペル議会ぎかいで、パドヴァのふくまれるフリウリ地方ちほうにあるおおやけりょう辺境へんきょうこうりょうは4つに分割ぶんかつされ、そのひとつがパドヴァおおやけりょうとなった。

きたイタリア都市としカトリック教会きょうかい主権しゅけんしたにあった時代じだい、パドヴァは非常ひじょう重要じゅうようとも活発かっぱつだともみられていなかった。叙任じょにんけん闘争とうそうつうじた政策せいさく一般いっぱんてき傾向けいこうは、皇帝こうてい優位ゆういであり教会きょうかいではなかった。司教しきょう大半たいはんをドイツじんめていた。中世ちゅうせい最盛さいせいだい事件じけんは、899ねんきたマジャールぞくのパドヴァ略奪りゃくだつである。パドヴァがこの痛手いたでからなおるまでなんねんもかかった。

コムーネの非常ひじょう事態じたい

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表面ひょうめんで、いくつもの重要じゅうよう出来事できごときたことは、パドヴァの後世こうせい発展はってんのための形成けいせいであることを証明しょうめいしていた。

11世紀せいき初頭しょとう、パドヴァ市民しみん通常つうじょう議会ぎかいまたは立法りっぽう議会ぎかい、クレデンツァ(credenza)または執行しっこう委員いいんから構成こうせいされる組織そしきをつくった。

12世紀せいき市民しみんはバッキリョーネがわとブレンタがわ水運すいうんけんをめぐってヴェネツィア=ヴィチェンツァと戦争せんそう状態じょうたいとなった。これは、同盟どうめいしゃもとめずとも自力じりきたたかえるほどのちからをパドヴァがたくわえていたことを意味いみした。

有力ゆうりょく貴族きぞくであるカンポザンピエーロいえエステ、ダ・ロマーノ台頭たいとうはじめ、パドヴァ地域ちいき分割ぶんかつした。みずからの自由じゆうまもるためにパドヴァ市民しみん自分じぶんたちでポデスタイタリアばん英語えいごばん行政ぎょうせい長官ちょうかん)をえらぶことを余儀よぎなくされた。かれらの最初さいしょ選択せんたくで、エステ一員いちいんえらばれた。1174ねん大火たいかがパドヴァを破壊はかいくした。これで事実じじつじょう再建さいけんはじまった。

ドゥオモ

ロンバルディア同盟どうめいどう時代じだいかい進撃しんげきが、パドヴァを強化きょうかするのをたすけた。結果けっか、1236ねんにパドヴァと周辺しゅうへん都市としで、神聖しんせいローマ皇帝こうていフリードリヒ2せいみずからの専制せんせいてき代理人だいりにんとしてエッツェリーノ3せい・ダ・ロマーノ英語えいごばんかれ住民じゅうみんたいおそろしい暴行ぼうこう日常にちじょうてきっていた)を擁立ようりつするのに少々しょうしょう困難こんなんともなうことをった。教皇きょうこうアレクサンデル4せいのため、エッツェリーノは市民しみんながすことなく1256ねん6がつ免職めんしょくした。

パドヴァは平穏へいおん繁栄はんえい時代じだい謳歌おうかした。聖人せいじんまつだい聖堂せいどう建設けんせつはじまった。パドヴァはヴィチェンツァをも支配しはいにおいた。パドヴァ大学だいがくは1222ねん創立そうりつされ、13世紀せいき繁栄はんえいした。

13世紀せいきのパドヴァの発展はってんが、ヴェローナ領主りょうしゅカングランデ1せい・デッラ・スカラ英語えいごばんとの対立たいりつを、最終さいしゅうてきにもたらした。1311ねん、パドヴァはヴェローナを譲渡じょうとしなければならなかった。

1318ねんヤコポ1せい・ダ・カッラーラ英語えいごばんがパドヴァ領主りょうしゅえらばれた。1318ねんから1405ねんまで、かがやかしいカッラーラ出身しゅっしんの9にんがパドヴァ領主りょうしゅとなった(1328ねんから1337ねんまでスカリジェリ事実じじつじょう支配しはい、そして1388ねんから1390ねんまでジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ支配しはいした時期じきのぞく)。カッラーラ時代じだいは、定期ていきてき戦争せんそうのために安息あんそくのないなが時代じだいであった。1387ねん、パドヴァにやとわれたジョン・ホークウッドが、ジョヴァンニ・オルデラッフィ英語えいごばんひきいるヴェローナとたたかったカスタニャーロのたたか英語えいごばん勝利しょうりした。

カッラーラ時代じだいは、ヴィスコンティ強大きょうだいと、ヴェネツィア共和きょうわこく重要じゅうようせいしたことでついに終焉しゅうえんむかえた。

ヴェネツィア支配しはい

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1405ねんにパドヴァはヴェネツィア共和きょうわこくり、その本土ほんど属領ぞくりょうドミニ・ディ・テッラフェールマイタリアばん英語えいごばん)にまれた。それは1797ねんにヴェネツィア共和きょうわこく滅亡めつぼうするまでつづいた。

カンブレー同盟どうめい戦争せんそう時代じだい、1509ねん支配しはいしゃ事実じじつじょうわった時期じきがある。1508ねん10がつ10日とおか教皇きょうこう大使たいし、フランス王国おうこくかみきよしマ帝国まていこく、スペイン王国おうこくはんヴェネツィア共和きょうわこくのカンブレー同盟どうめい締結ていけつした。その同意どうい内容ないようは、イタリアにおけるヴェネツィアりょう完全かんぜん解体かいたい条約じょうやく調印ちょういんこくあいだでの分割ぶんかつであった。皇帝こうていマクシミリアン1せいはヴェローナとその領土りょうどくわえてパドヴァをることになった。1509ねん帝国ていこくぐんによってわずかすう週間しゅうかんでパドヴァは陥落かんらくした。ヴェネツィアぐん素早すばや奪還だっかんし、帝国ていこくぐん包囲ほういせんにパドヴァをまもくことに成功せいこうした。

パドヴァは、文民ぶんみんであるポデスタイタリアばん英語えいごばんと、軍人ぐんじんである隊長たいちょうつとめる2人ふたりのヴェネツィア貴族きぞくによって統治とうちされた。どちらも16ヶ月かげつ任期にんきであった。これらの統治とうちしゃのもと、大小だいしょう議会ぎかい自治じち政府せいふ実務じつむたしつづけ、パドヴァほう施行しこうした。国庫こっこ2人ふたり出納すいとうかん管理かんりした。5ねんごとに、パドヴァ市民しみん地元じもと貴族きぞく一人ひとりをヴェネツィアへ公使こうし(nuncio、ヌンチオ英語えいごばん)として派遣はけんした。公使こうしとなった貴族きぞくはヴェネツィアにみ、まれ故郷こきょう問題もんだいつめていた。

ヴェネツィアは、パドヴァをあたらしい城壁じょうへき防衛ぼうえい強化きょうかした。そこにはながのこもん一連いちれんがあった。

トロンコ・マエストロ・リヴィエーラ。水路すいろ沿いの歩道ほどう
ラジオーネ
1817ねんごろえがかれたシニョーリ広場ひろば

オーストリア支配しはい

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1797ねん、ヴェネツィア共和きょうわこくカンポ・フォルミオ条約じょうやく地図ちずじょうからされると、パドヴァはオーストリア帝国ていこく割譲かつじょうされた。1814ねんにナポレオンが退位たいいすると、ロンバルド=ヴェネト王国おうこく一部いちぶとなった。

オーストリアは、きたイタリアの進歩しんぽてき集団しゅうだん人気にんきがなかった。パドヴァでは1848ねん革命かくめい学生がくせい暴動ぼうどうとなり、2がつ8にちには大学だいがくとペドロッキ・カッフェ(世界せかい最大さいだいのカフェ)が、学生がくせいとパドヴァ一般いっぱん市民しみんてき味方みかたわかれた戦闘せんとうとなった。

オーストリア支配しはいで、パドヴァは産業さんぎょう発展はってんはじめた。最初さいしょ鉄道てつどう軌道きどう、パドヴァ=ヴェネツィアせんが1845ねん建設けんせつされた。

1866ねん、コニッグラッツのたたかいで、イタリアはきゅうヴェネツィア共和きょうわ国領こくりょうとヴェネトののこりからオーストリアを機会きかいた。これらの領土りょうどイタリア王国おうこく併合へいごうされた。

イタリア支配しはい

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1866ねんのイタリア併合へいごうで、パドヴァはきたイタリアのまずしい地域ちいき中心ちゅうしんとなり、1960年代ねんだいまではヴェネト地方ちほうでもあった。これにもかかわらず、経済けいざいてきにも社会しゃかいてきにもつづく10年間ねんかん繁栄はんえいし、工業こうぎょう発展はってんし、重要じゅうよう農業のうぎょう市場いちば重要じゅうよう文化ぶんか技術ぎじゅつ中心ちゅうしん(パドヴァ大学だいがく)となった。には主要しゅよう指揮しきけんおおくの連隊れんたいかかえた。

20世紀せいき

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1915ねん5がつ24にち、イタリアはだいいち世界せかい大戦たいせん参戦さんせん、パドヴァはイタリアぐん主要しゅよう基地きちえらばれた。国王こくおうヴィットーリオ・エマヌエーレ3せいそう司令しれいかんカドルナ戦時せんじちゅうパドヴァで生活せいかつした。1917ねんあきカポレットのたたかでイタリアが退しりぞけられると、前線ぜんせんピアーヴェがわえられた。これはパドヴァから50km,60kmであり、はオーストリアほう兵隊へいたいからの射程しゃていないはいった。しかしイタリアぐん司令しれい退却たいきゃくしなかった。すうにわたって砲撃ほうげきされた(およそ100にん市民しみんくなった)。わすれられない功績こうせきは、パドヴァ近郊きんこうのサン・ペラジョじょう飛行場ひこうじょうからウィーンへガブリエーレ・ダンヌンツィオ飛行ひこうしたことである。

1ねん、パドヴァへの危機ききのぞかれた。1918ねん10がつ下旬げじゅん、イタリアぐんヴィットリオ・ヴェネトのたたか決定的けっていてき勝利しょうりげた(まさにカポレットのたたかいでの敗退はいたいから1ねんであった)。オーストリアぐん自滅じめつした。1918ねん11月3にち、パドヴァのヴィッラ・ジュスティで、オーストリア=ハンガリー帝国ていこくがイタリアへ降伏ごうぶくする、ヴィラ・ジュスティ休戦きゅうせん協定きょうていむすばれた。

戦争せんそうあいだ産業さんぎょう強力きょうりょく推進すいしんされ、これが戦後せんごさらなる発展はってん基盤きばんをパドヴァにあたえた。大戦たいせんすう年間ねんかんかり労働ろうどうしゃ上流じょうりゅう階級かいきゅう衝突しょうとつ当時とうじ猛烈もうれつであったとしてもパドヴァは歴史れきしてき市街しがいそと発展はってんし、拡張かくちょう人口じんこう増加ぞうかした。

イタリア内外ないがいおおくのでそうであったように、パドヴァは戦後せんごすぐにおおきな社会しゃかいてき混乱こんらん経験けいけんした。はストライキと衝突しょうとつながされ、工場こうじょう野外やがい占有せんゆうされてしまっていた。退役たいえき軍人ぐんじんたちは、ふたた市民しみん生活せいかつもどることに格闘かくとうしていた。市民しみんおおくがあらたな政治せいじみちファシズム支持しじした。イタリアのほかのコムーネと同様どうよう、パドヴァでのファシストとうはすぐに繁栄はんえい保護ほごしゃはん革命かくめい権威けんいとしてむかえられた。は、最大さいだいきゅうのファシスト全体ぜんたい集会しゅうかいおこなわれたの1つで、出席しゅっせきしたムッソリーニ演説えんぜつを30まんにん観衆かんしゅういたとつたえられている

典型てんけいてきなファシスト建築けんちくであるあたらしい建物たてものが、市内しないでそびえった。それらの建物たてものは、スパラート広場ひろば周辺しゅうへん鉄道てつどうえき市役所しやくしょ新館しんかん大学だいがく建物たてものであるボー宮殿きゅうでん一部いちぶに、現在げんざいられる。

1943ねん9がつ8にちだい世界せかい大戦たいせんでのイタリア降伏ごうぶくともない、パドヴァはナチス・ドイツ傀儡かいらいイタリア社会しゃかい共和きょうわこく一部いちぶとなった。にはしん国家こっか公共こうきょう教育きょういくしょうぐん軍用ぐんよう空港くうこうかれた。レジスタンス運動うんどうは、しんファシスト政権せいけん、そしてナチス支配しはいでも非常ひじょう活発かっぱつであった。レジスタンスのリーダーの一人ひとりは、パドヴァ大学だいがくふく総長そうちょうコンチェット・マルケージであった。

パドヴァは連合れんごうこくがわ戦闘せんとうによってすうばくげきけた。もっと被弾ひだんしたのは、鉄道てつどうえきとアルチェッラ地区ちく北部ほくぶであった。これらのばくげき最中さいちゅうマンテーニャフレスコ所蔵しょぞうしていた、うつくしいエレミターニ教会きょうかい付属ふぞく礼拝れいはいどう破壊はかいされた(教会きょうかいがドイツぐん本部ほんぶ隣接りんせつしていたためえとなった)。一部いちぶ美術びじゅつ史家しか戦時せんじちゅうイタリア最大さいだい文化ぶんかてき損失そんしつとみなしている。

1945ねん4がつ28にち、パドヴァはついにパルチザンとイギリスぐんによって解放かいほうされた。ちいさなイギリス連邦れんぽう戦争せんそう墓地ぼち西部せいぶにあり、これらのぐん犠牲ぎせいしゃ埋葬まいそうしている。

大戦たいせんきたイタリアの最貧さいひん地方ちほうからヴェネト地方ちほうだっしたのを反映はんえいして、パドヴァは急速きゅうそく発展はってんした。現在げんざいパドヴァをふくむヴェネトはイタリア国内こくない有数ゆうすう裕福ゆうふくかつ活発かっぱつ地方ちほうである。

行政ぎょうせい

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行政ぎょうせい区画くかく

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パドヴァには以下いか分離ぶんり集落しゅうらく(フラツィオーネ)がある。

  • Altichiero, Arcella, Bassanello, Brusegana, Camin, Chiesanuova, Forcellini, Guizza, Madonna Pellegrina, Mandria, Montà, Mortise, Paltana, Ponte di Brenta, Ponterotto, Pontevigodarzere, Sacra Famiglia, Salboro, Santa Croce-Città Giardino, Stanga, Terranegra, Torre, Voltabarozzo, Voltabrusegana

名所めいしょ

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文化ぶんか

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ボー宮殿きゅうでん。パドヴァ大学だいがくぞくする

パドヴァは、1222ねん創立そうりつパドヴァ大学だいがくなが有名ゆうめいである。ヴェネツィア支配しはいで、パドヴァ大学だいがくリフォルマトーリ・デッロ・ストゥディオ・ディ・パドヴァイタリアばんRiformatori dello Studio di Padova)とばれた3にん貴族きぞくらによって管理かんりされた。教授きょうじゅ卒業生そつぎょうせい名簿めいぼながかがやかしい。ピエトロ・ベンボスペローネ・スペローニ英語えいごばんヴェサリウスコペルニクスファロピウスファブリツィオ・ダクアペンデンテガリレオ・ガリレイピエトロ・ポンポナッツィレジナルド・ポールフランシス・ウォルシンガムジョゼフ・ジュストゥス・スカリジェ英語えいごばんトルクァート・タッソらである。大学だいがくは、1594ねんにつくられた最古さいこ解剖かいぼう教室きょうしつをもつ。

パドヴァ大学だいがく世界せかい最古さいこ植物しょくぶつえんつ。治療ちりょうようハーブをそだてるため大学だいがく医学部いがくぶ付属ふぞくにした。希少きしょう植物しょくぶつ重要じゅうようなコレクションをいまつ。

美術びじゅつ史上しじょうのパドヴァは、学術がくじゅつ同様どうよう重要じゅうようである。大学だいがく存在そんざいおおくの多様たよう芸術げいじゅつきつけたのである。ジョットフラ・フィリッポ・リッピドナテッロふくまれる。そして地元じもと芸術げいじゅつなかから、フランチェスコ・スクァルチォーネ門下もんか出身しゅっしん偉大いだいアンドレア・マンテーニャ頭角とうかくあらわした。

パドヴァは、16世紀せいき活躍かつやくした建築けんちくアンドレーア・パッラーディオ生誕せいたんでもある。かれはパドヴァ、ヴェネツィア、ヴィチェンツァ、トレヴィーゾヴィッレ(ville、カントリー・ハウス)をてた。これらの建築けんちくぶつは18世紀せいきから19世紀せいきまで頻繁ひんぱん模倣もほうされた。探検たんけんジョヴァンニ・バッティスタ・ベルツォーニもパドヴァまれである。

著名ちょめい彫刻ちょうこくアントニオ・カノーヴァは、最初さいしょ作品さくひんをパドヴァで製作せいさくした。プラート・デッラ・ヴァッレのぞうがそれにあたる(現在げんざい野外やがいにはカノーヴァさく彫像ちょうぞうのコピーがかれ、本物ほんもの市立しりつ美術館びじゅつかんかれている)。

パドヴァでもっと生活せいかつかかわりある場所ばしょひとつは、アントニアヌム(Antonianum)である。プラート・デッラ・ヴァッレのなかえられた、サンタントーニオ教会きょうかい植物しょくぶつえんは、イエズスかい神父しんぷらによって1897ねんにつくられ、2002ねんまでそこに維持いじされていた。だい世界せかい大戦たいせんちゅう、イエズスかいのメッソーリ・ロンカーリャの指揮しきのもと、ここははんナチス・レジスタンスの本拠地ほんきょちであった。じつに、メッソーリの死後しごのこり、2004ねんにイエズスかいによって売却ばいきゃくされた。

ウィリアム・シェークスピアは、『じゃじゃうまならし』の舞台ぶたいをパドヴァとしている。

フレスコ

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世界遺産 パドヴァの14世紀せいきのフレスコぐん
イタリア
ジョットによるスクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画『東方三博士の礼拝』、1305年頃
英名えいめい Padua’s fourteenth-century fresco cycles
ふつめい Cycles de fresques du XIVe siècle à Padoue
面積めんせき 19.96 ha
緩衝かんしょう地帯ちたい 530 ha)
登録とうろく区分くぶん 文化ぶんか遺産いさん
登録とうろく基準きじゅん (2)
登録とうろくねん 2021ねん
公式こうしきサイト 世界せかい遺産いさんセンター英語えいご
使用しよう方法ほうほう表示ひょうじ

市内しないジョット・ディ・ボンドーネによるスクロヴェーニ礼拝れいはいどうフレスコをはじめとして、グアリエント・ディ・アルポイタリアばんジュスト・デ・メナブオイイタリアばんアルティキエーロ・ダ・ゼーヴィオヤコポ・アヴァンツィイタリアばんヤコポ・ダ・ヴェローナイタリアばんらによる14世紀せいきのフレスコぐんパドヴァの14世紀せいきのフレスコぐん英語えいごばん)は2021ねん世界せかい遺産いさん登録とうろくされた[7]

登録とうろく基準きじゅん

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この世界せかい遺産いさん世界せかい遺産いさん登録とうろく基準きじゅんのうち、以下いか条件じょうけんたし、登録とうろくされた(以下いか基準きじゅん世界せかい遺産いさんセンター公表こうひょう登録とうろく基準きじゅんからの翻訳ほんやく引用いんようである)。

  • (2) ある期間きかんつうじてまたはある文化ぶんかけんにおいて、建築けんちく技術ぎじゅつ記念きねんてき芸術げいじゅつ都市とし計画けいかく景観けいかんデザインの発展はってんかんし、人類じんるい価値かち重要じゅうよう交流こうりゅうしめすもの。

統計とうけい

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2007ねん、パドヴァの人口じんこうは210,301にんで、そのうち47.1%が男性だんせい、52.9%が女性じょせいであった。18さい以下いか若年じゃくねんそうは14.87%、年金ねんきん生活せいかつしゃは23.72%であった(全国ぜんこく平均へいきんでは、若年じゃくねんそうが18.06%、年金ねんきん生活せいかつしゃが19.94%)。パドヴァ住民じゅうみん平均へいきん年齢ねんれいは45さいだった(全国ぜんこく平均へいきんは42さい)。2002ねんから2007ねんの5年間ねんかんで、パドヴァ人口じんこうは2.21%増加ぞうかした(国内こくないでは3.85%の上昇じょうしょう[8]。パドヴァの出生しゅっしょうりつは、1000にんたいして8.49であった(国内こくない平均へいきんは9.45にん)。

2006ねん調査ちょうさで、人口じんこうの90.66%がイタリアじんであった。最大さいだい移民いみん集団しゅうだんヨーロッパ諸国しょこく出身しゅっしんしゃルーマニアモルドバアルバニア)で、5.14%、サハラ以南いなん出身しゅっしんしゃ1.08%、ひがしアジア1.04%である。現在げんざい、パドヴァでまれる新生児しんせいじ5にんのうち1にんは、外国がいこくじん両親りょうしんつ。パドヴァはカトリック教会きょうかい優勢ゆうせいである。しかし、移民いみんのため一部いちぶには正教会せいきょうかいイスラム教いすらむきょうヒンドゥーきょう信徒しんともいる[9][10]

領事館りょうじかん

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以下いか国々くにぐに領事館りょうじかん開設かいせつされている。

経済けいざい

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パドヴァの工業こうぎょう地帯ちたいは1946ねんにつくられ、東部とうぶにある。現在げんざい、ヨーロッパ最大さいだいきゅう工業こうぎょう地帯ちたいひとつとされる。ここには1300しゃ工場こうじょうがあり、5まんにん雇用こようされている。ヨーロッパのどこからもパドヴァへ商品しょうひん到着とうちゃくする。そして世界中せかいじゅうとくにアジアへおくられていく。工業こうぎょう地帯ちたいには2つの主要しゅよう鉄道てつどうえき、3つのトラック・ターミナル、2つの高速こうそく道路どうろくち、それらと連結れんけつしたサービス部門ぶもん、ホテル、郵便ゆうびんきょくがある。

交通こうつう

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市内しないはしるトランスロール

自動車じどうしゃ

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自動車じどうしゃでは、3つの高速こうそく道路どうろアウトストラーダ)、A4ブレシア=パドヴァ(ヴェローナからブレンナーとうげインスブルックバイエルンミラノスイスへ)、A4パドヴァ=ヴェネツィア(ヴェネツィア、ベッルーノ)、A13ボローニャ=パドヴァ(フェッラーラ、ボローニャ)がある。自由じゆうどう出入口でいりぐち周辺しゅうへんに20箇所かしょ以上いじょうあり、後背こうはい町村ちょうそん地区ちくとつながっている。

鉄道てつどう

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パドヴァにはおおくの鉄道てつどうえきがある。最大さいだいパドヴァ中央ちゅうおうえきで、16番線ばんせんまであるイタリア有数ゆうすう巨大きょだいえきである。パドヴァからいちにち450ほん電車でんしゃ出発しゅっぱつする。年間ねんかん2000まんにん以上いじょう乗客じょうきゃく利用りようする。そのえきポンテ・ディ・ブレンタえきイタリアばん、パドヴァ・サン・ラッツァーロえきパドヴァ・カンポ・マルテえきイタリアばんである。ミラノとヴェネツィアへかう高速こうそく鉄道てつどうもある。ミラノへは1あいだ51ふん、ヴェネツィアへは20ふんける。

空港くうこう

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パドヴァは、ヴェネツィア、ヴェローナ、トレヴィーゾ、ボローニャの各地かくち空港くうこうちかい。パドヴァ空港くうこうはもはや定期ていき便びん運行うんこうされていない。しかしパドヴァにはイタリア国内こくないに4箇所かしょある地域ちいき管制かんせいセンターのうち1つがある。

およそ50kmはなれたヴェネツィアが、もっとちか海港かいこうである。

公共こうきょう交通こうつう

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都市とし公共こうきょう交通こうつうには、バス、タクシーとともに、あらたに導入どうにゅうされたトランスロールゴムタイヤトラム)がバス道路どうろはしる。

中心ちゅうしんは、住民じゅうみん許可きょか車両しゃりょうのぞ自動車じどうしゃ一部いちぶしている。地区ちく周辺しゅうへんには駐車ちゅうしゃじょう数カ所すうかしょある。また中心ちゅうしん一部いちぶとおりと広場ひろば歩道ほどう制限せいげんがあり、歩行ほこうしゃ自転車じてんしゃ許可きょかされている。

パドヴァにはおよそ40のバス路線ろせんがある。どのトラムにもバスにも監視かんしカメラがあり、GPS管理かんりしている。

スポーツ

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プロサッカークラブであるカルチョ・パドヴァ本拠ほんきょである。ホームスタジアムはスタディオ・エウガネオ。2017-18シーズンはセリエC(3リーグ)にぞくしている。

ラグビーチームのペトラルカ・パドヴァは、1970ねんから1987ねんまで11かい国内こくない優勝ゆうしょうかぞえる。

また、バレーボールクラブのパッラヴォーロ・パドヴァがある。

姉妹しまい都市とし

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人物じんぶつ

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著名ちょめい出身しゅっしんしゃ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Popolazione residente per sesso, età e stato civile al 1° gennaio 2023” (イタリア). 国立こくりつ統計とうけい研究所けんきゅうじょ(ISTAT). 2023ねん12月24にち閲覧えつらんメニューでVista per singola areaを選択せんたく。Ripartizione:Nord-est, Regione:Veneto, Provincia:Padova, Comune:Padova を選択せんたく
  2. ^ 国立こくりつ統計とうけい研究所けんきゅうじょ(ISTAT). “Tavola: Popolazione residente - Padova (dettaglio loc. abitate) - Censimento 2001.” (イタリア). 2013ねん9がつ3にち閲覧えつらん
  3. ^ 国立こくりつ統計とうけい研究所けんきゅうじょ(ISTAT). “Tavola: Superficie territoriale (Kmq) - Padova (dettaglio comunale) - Censimento 2001.” (イタリア). 2013ねん9がつ3にち閲覧えつらん
  4. ^ 地図ちずじょうで2地点ちてん方角ほうがく方位ほうい距離きょり調しらべる”. 2016ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  5. ^ Tabella dei gradi/giorno dei Comuni italiani raggruppati per Regione e Provincia”. しん技術ぎじゅつエネルギー環境かんきょうきょく(ENEA) (2011ねん3がつ1にち). 2017ねん1がつ1にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2020ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  6. ^ classificazione sismica aggiornata al aprile 2023” (xls). https://rischi.protezionecivile.gov.it/it/sismico/attivita/classificazione-sismica/. イタリア市民しみん保護ほごきょく. 2023ねん12月16にち閲覧えつらん
  7. ^ Padua’s fourteenth-century fresco cycles” (英語えいご). UNESCO World Heritage Centre. 2023ねん5がつ18にち閲覧えつらん
  8. ^ Bilancio demografico”. demo.istat.it. 2023ねん5がつ18にち閲覧えつらん
  9. ^ Bilancio demografico popolazione straniera”. demo.istat.it. 2023ねん5がつ18にち閲覧えつらん
  10. ^ [1]