マリオン・G・デーンホフ

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マリオン・ヘッダ・イルゼ・グレーフィン・フォン・デーンホフ
Marion Hedda Ilse Gräfin von Dönhoff
マリオン・グレーフィン・デーンホフ(1971ねん10がつ17にち写真しゃしん連邦れんぽう公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう
生誕せいたん (1909-12-02) 1909ねん12月2にち
プロイセンの旗 プロイセン王国おうこくフリードリヒシュタインじょうドイツばん
死没しぼつ (2002-03-11) 2002ねん3月11にち(92さいぼつ
ドイツの旗 ドイツクロットルフじょうドイツばん (ラインラント=プファルツしゅうフリーゼンハーゲンドイツばん)
国籍こくせき ドイツの旗 ドイツ
別名べつめい マリオン・グレーフィン・デーンホフ
マリオン・フォン・デーンホフ
教育きょういく 博士はかせ
出身しゅっしんこう フランクフルト大学だいがく
バーゼル大学だいがく
職業しょくぎょう 著作ちょさくジャーナリスト
活動かつどう期間きかん 1946ねん - 2002ねん
雇用こようしゃディー・ツァイト新聞しんぶんしゃ
代表だいひょうさくうしなわれた栄光えいこう ― プロシアの悲劇ひげき
肩書かたが 政治せいじ問題もんだい担当たんとう編集へんしゅうちょう経営けいえい責任せきにんしゃ
おや アウグスト・フォン・デーンホフドイツばんはく
親戚しんせき ハインリヒ・グラーフ・フォン・レーンホフ=シュタインオルトドイツばん - 義兄ぎけい
フリードリヒ・デーンホフドイツばん - またおい
受賞じゅしょう ドイツ書籍しょせき協会きょうかい平和へいわしょう
4つの自由じゆうしょう (言論げんろん表現ひょうげん自由じゆう)
ハインリヒ・ハイネしょうドイツばん
ハンブルク名誉めいよ市民しみんほか
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マリオン・ヘッダ・イルゼ・グレーフィン・フォン・デーンホフMarion Hedda Ilse Gräfin von Dönhoff1909ねん12月2にち - 2002ねん3月11にち)は、ひがしプロイセン貴族きぞく家系かけいまれたドイツ著作ちょさくはんナチ運動うんどう一環いっかんとしてヒトラー暗殺あんさつ計画けいかく参加さんか1946ねんの『ディー・ツァイト創刊そうかん参加さんかし、政治せいじ問題もんだい担当たんとう編集へんしゅうちょう経営けいえい責任せきにんしゃとしてどう紙上しじょう東側ひがしがわ諸国しょこくとの和解わかいうったつづけた。ソ連それんぐんひがしプロイセン侵攻しんこうともな住民じゅうみん避難ひなん逃亡とうぼうとその苦難くなんえがいた『もうだれくちにしない名前なまえ』(邦題ほうだいうしなわれた栄光えいこう ― プロシアの悲劇ひげき』)のほか、冷戦れいせん執筆しっぴつした東西とうざい和解わかいかんする著作ちょさくぶつによりドイツ書籍しょせき協会きょうかい平和へいわしょうなどおおくのしょう受賞じゅしょうした。

背景はいけい[編集へんしゅう]

デーンホフ伯爵はくしゃく[編集へんしゅう]

アレクサンダー・ドゥンカードイツばんさく《フリードリヒシュタインじょう》(1857-1883ねんごろ)

マリオン・G・デーンホフは1909ねん12月2にちひがしプロイセンのケーニヒスベルクげんロシア連邦れんぽうカリーニングラード)からやく20キロのところにあるフリードリヒシュタインじょうドイツばん中心ちゅうしんとする所領しょりょうゆうする貴族きぞく家系かけいまれた。デーンホフはドーンいえ、レーンドルフならひがしプロイセンの地主じぬし貴族きぞくユンカー)であり、始祖しそは、ヴェストファーレン貴族きぞくであったことが確認かくにんされている[1]ちちアウグスト・フォン・デーンホフドイツばんはく (1845–1920) はプロイセン貴族きぞくいん世襲せしゅう議員ぎいんははマリーア・フォン・レーペル (1869-1940) はフリードリヒ3せい (ドイツ皇帝こうてい)ヴィクトリアつかえる女官にょかんであり、マリオンは8にん兄弟きょうだい姉妹しまい末子まっしである[2][3][4]ちちアウグストはデーンホフ本拠ほんきょであるフリードリヒシュタイン所領しょりょう6,681ヘクタールを世襲せしゅう財産ざいさん(フィデイコミス)として相続そうぞくした。デーンホフ1666ねんから所有しょゆうしていたフリードリヒシュタインじょうおう部屋へやそなえたロココ建築けんちく壮麗そうれいしろかんであったが[4]、これは、もともと、フリードリヒ大王だいおうひがしプロイセン視察しさつ旅行りょこうよう宿営しゅくえいしょとして使用しようしたためであり、地主じぬし貴族きぞくの「領主りょうしゅかん」ではなく「しろかん」とばれたのもこのためである[1]。だが、だいいち大戦たいせんインフレーション経営けいえい逼迫ひっぱくした。戦地せんちから帰還きかんした長男ちょうなんハインリヒは、ボルヒャースドルフとオッテンハーゲンの2つの農場のうじょう(2,500ヘクタール)を売却ばいきゃくし、経営けいえい維持いじした。だい大戦たいせんでハインリヒが徴兵ちょうへいされ、1942ねん11月に戦死せんしすると、次男じなんディーターがフリードリヒシュタイン所領しょりょうぎ、ソ連それんぐん進撃しんげきせまるなか、なおも国防こくぼうぐん指定してい農場のうじょう経営けいえいしゃとして、農林のうりんぎょう生産せいさんせい維持いじつとめた[1]

はんナチ運動うんどう - 7がつ20日はつか事件じけん[編集へんしゅう]

マリオンは、あにハインリヒの結婚けっこん、しばらくのあいだプロイシッシュ・ホランドぐんドイツばん所領しょりょう管理かんりしていたが、ハインリヒが徴兵ちょうへいされたときにフリードリヒシタインにもどっていた。次兄じけいディーターはレーンドルフのカーリーンと結婚けっこんしたが、カーリーンのあにハインリヒ(ハインリヒ・グラーフ・フォン・レーンホフ=シュタインオルトドイツばんは、レーンドルフ伯爵はくしゃく本拠ほんきょシュタインオルト(げんポーランドシュティノルト英語えいごばん所領しょりょうを1936ねん相続そうぞくしたどう所領しょりょう最後さいご所有しょゆうしゃである。1944ねん7がつ20日はつかクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐たいさ敢行かんこうしたヒトラー暗殺あんさつ計画けいかく7がつ20日はつか事件じけんヴァルキューレ作戦さくせん)の舞台ぶたいひとつ、マウアーヴァルト陸軍りくぐんそう司令しれい英語えいごばんげんポーランドのマメルキ英語えいごばん)はシュタインオルト所領しょりょうないにあり、ハインリヒはこの暗殺あんさつ計画けいかく加担かたんし、同年どうねん9がつ4にちプレッツェンゼー刑務所けいむしょ英語えいごばん絞首刑こうしゅけいしょされた。また、マリオンが個人こじんてき協力きょうりょくもとめたドーナのハイリンリヒ(ハインリヒ・グラーフ・ツー・ドーナ=シュロビッテンドイツばん)もまた、プレッツェンゼー刑務所けいむしょ処刑しょけいされた。さらに、1926ねんから1933ねんまでデーンホフ森林しんりん管理人かんりにんつとめたクルト・フォン・プレッテンベルクドイツばん男爵だんしゃく暗殺あんさつ計画けいかく準備じゅんびかかわったためによく45ねんゲシュタポ逮捕たいほされ、自白じはくして仲間なかま危険きけんにさらすわりに投身とうしん自殺じさつした[5]。マリオン・デーンホフは、フォン・プレッテンベルクが彼女かのじょ思考しこう判断はんだんおおきな影響えいきょうあたえたとかたっている[6]。シュタウフェンベルクを中心ちゅうしんとするこうした有力ゆうりょく貴族きぞくはんナチ運動うんどうにおいて、マリオン・デーンホフはおも連絡れんらくがかり担当たんとうし、重要じゅうよう文書ぶんしょ伝達でんたつのためにひがしプロイセンとベルリンあいだした。シュタウフェンベルクらの処刑しょけい仲間なかま次々つぎつぎ逮捕たいほ処刑しょけいされ、彼女かのじょもゲシュタポに逮捕たいほされた。前年ぜんねんから彼女かのじょ活動かつどううたがいをったナチスとう叔父おじが、郵便ゆうびんきょく彼女かのじょ発送はっそうする郵便ゆうびんぶつ宛先あてさきめておくようたのんでいたからである。だが、彼女かのじょは、きびしい尋問じんもんけたのち釈放しゃくほうされた[7][2]

学業がくぎょう[編集へんしゅう]

デーンホフのはんナチ運動うんどうは、これ以前いぜん学生がくせい時代じだいからはじまっていた。1932ねんにフランクフルト大学だいがくげんヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学だいがくフランクフルト・アム・マイン)に入学にゅうがく経済けいざいがく専攻せんこう共産きょうさん主義しゅぎグループと活動かつどうともにした彼女かのじょは「あか伯爵はくしゃく令嬢れいじょう」とばれていた。のちに「わたし共産きょうさん主義しゅぎしゃよりはリベラルだけれど、あのころ本気ほんきでナチズム打倒だとう目指めざしていたのは共産きょうさん主義しゅぎしゃだけだった」と回想かいそうしている[8]。1933ねんヒトラー内閣ないかく成立せいりつするとスイスうつみ、バーゼル大学だいがく編入へんにゅう。ここでも抵抗ていこう運動うんどう参加さんかした。博士はかせ論文ろんぶん指導しどう教官きょうかん経済けいざい学者がくしゃエドガー・ザリーンドイツばんユダヤじんであった[8]博士はかせ論文ろんぶんマルクス主義まるくすしゅぎ哲学てつがくについてこうとしていたが、ザリーンにデーンホフ歴史れきしについてくようすすめられた。「ひがしドイツ大所たいしょりょう創設そうせつ管理かんり ― フリードリヒシュタインの財産ざいさんドイツ騎士きしだん時代じだいから農奴のうど解放かいほうまで」とだいするこの論文ろんぶん東欧とうおう経済けいざいにおける重要じゅうよう研究けんきゅうとされている[4]

赤軍せきぐんひがしプロイセン侵攻しんこう[編集へんしゅう]

うしなわれたフリードリヒシュタインじょう (1927ねん)

こののちオックスフォおっくすふぉド大学どだいがくで6かげつあいだまなび、所領しょりょう管理かんりのためにひがしプロイセンにもどったのは1938ねんのことである。1944ねんのヒトラー暗殺あんさつ計画けいかく失敗しっぱいしたのち、1945ねん1がつソ連それん赤軍せきぐんひがしプロイセンに侵攻しんこうひがしプロイセン攻勢こうせい)。デーンホフはフリードリヒシュタインじょう土地とちて、うまって一人ひとり西側にしがわへの逃亡とうぼう開始かいしした。てつくさむさのなか、2せんキロを6週間しゅうかんかけてはしつづけ、ハンブルクにたどりいた。1962ねん出版しゅっぱんされおおくの言語げんご翻訳ほんやくされた『もうだれくちにしない名前なまえ』(邦題ほうだいうしなわれた栄光えいこう ― プロシアの悲劇ひげき』)には、住民じゅうみんあわただしくれた土地とちはら様子ようすが、その苦難くなんとともにえがかれている。こののちソ連それん・ポーランドに併合へいごうされてうしなった祖国そこくたいするあいを、デーンホフは、「おそらく、最大さいだいあいは、所有しょゆうすることなくあいすること」と表現ひょうげん[7]、50ねんにもなお、「わたし祖国そこくひがしプロイセン。なぜなら、うしなわれた風景ふうけい自然しぜん動物どうぶつたちがこいしいから」とかたっている[3]

『ディー・ツァイト』[編集へんしゅう]

創刊そうかん[編集へんしゅう]

1946ねん、ハンブルクで社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎのドイツ知識ちしきじんによる週刊しゅうかん新聞しんぶん『ディー・ツァイト』が創刊そうかんされた。デーンホフはこのげから参加さんかしている。きっかけは英国えいこくぐん占領せんりょう地帯ちたい司令しれいかんおくった2ほん記事きじ(ナチスの国家こっか社会しゃかい主義しゅぎかんする記事きじ、ドイツ民主みんしゅ主義しゅぎ国家こっか建設けんせつのためにこうじるべき手段しゅだんについてろんじた記事きじ)であった[8]

「カール・シュミットがめるか、わたしめるかしかない」[編集へんしゅう]

以後いご、デーンホフは92さいくなるまで『ディー・ツァイト』ささげることになるが、1ねんほど『ディー・ツァイト』をはなれ、ロンドン本拠ほんきょく『オブザーバー寄稿きこうしていた時期じきがある。『ディー・ツァイト』が、ワイマール政権せいけんからナチス政権せいけんにかけてそのイデオロギーささえた法学ほうがくしゃカール・シュミット記事きじ掲載けいさいした1954ねんのことである。デーンホフは「シュミットがめるか、わたしめるかしかない」と妥協だきょうゆるさない態度たいどしめしたが、経営けいえい責任せきにんしゃ3にんのうち2にん決定けっていによりシュミットの記事きじ掲載けいさいされた。彼女かのじょのちに、「最悪さいあく場合ばあい編集へんしゅうがシュミットとはないのをもつことはみとめたが、かれ記事きじかせるわけにはいかなかった。わたしだいさん帝国ていこく(ナチス・ドイツ政権せいけんしたで、「ハイル・ヒトラー」とわない(ナチスしき敬礼けいれいをしない)というような最低限さいていげん原則げんそくまもとおしたのとおなじだ」とかたっている[8]よく55ねん戦時せんじちゅうはんナチズムにより英国えいこく亡命ぼうめいしていた政治せいじドイツキリスト教きりすときょう民主みんしゅ同盟どうめい)のゲルト・ブツェリウスドイツばん経営けいえい責任せきにんしゃ就任しゅうにんしたときにデーンホフは『ディー・ツァイト』もど[4]同年どうねん政治せいじ担当たんとう編集へんしゅう委員いいん、1968ねん編集へんしゅうちょう就任しゅうにんした。

東西とうざい和解わかい[編集へんしゅう]

特権とっけん階級かいきゅうまれそだったことで祖国そこく人間にんげん尊厳そんげん自由じゆう感覚かんかくはぐくまれたという彼女かのじょジャーナリズムみちえらんだのは、こうした基本きほんてき権利けんりうばわれたみなみアフリカ、中東ちゅうとう東欧とうおう人々ひとびとについてきたいという気持きもちからであり、同時どうじにまた、「(ずべきナチス・ドイツではなく)まともなドイツをきずくこと、良質りょうしつ新聞しんぶんつくること」を個人こじんてき信条しんじょうとしていた彼女かのじょは、『ディー・ツァイト』紙上しじょうで「ドイツが国際こくさいてき信頼しんらい回復かいふくするためには、国家こっかおよび他国たこくとの関係かんけい根本こんぽんてき構築こうちくなおさなければならない」とうったつづけた[7]

彼女かのじょ政党せいとうから独立どくりつした立場たちばつらぬいたが、思想しそうてきにはドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとうちかかった。コンラート・アデナウアー首相しゅしょうが1955ねん提唱ていしょうしたハルシュタイン原則げんそくしめされるように、東側ひがしがわ諸国しょこくとの和解わかいなど到底とうていかんがえられなかった時代じだいに、彼女かのじょはこれを断固だんことして主張しゅちょうした人物じんぶつとくに1952ねん3がつにアデナウアーがスターリンからの「ドイツをさい統一とういつし、中立ちゅうりつする」との提案ていあん一蹴いっしゅうしたとき、この判断はんだん間違まちがっていると主張しゅちょうした数少かずすくない人物じんぶつ一人ひとりであった[4]。また、1959ねん掲載けいさいされた「民衆みんしゅうをもてあそぶな」とだいする記事きじでは、政権せいけん延命えんめいのためにルートヴィヒ・エアハルトをほとんど実権じっけんのない連邦れんぽう大統領だいとうりょうえようとしたアデナウアーを批判ひはんし、辞任じにんもとめた。東西とうざいドイツの和解わかい熱心ねっしん支持しじしていたデーンホフにとって、アデナウアーは「はんプロイセン意識いしきつよく」、「ベルリンがふたたびドイツの首都しゅとになることなどけっしてない」とかんがえる「権威けんい主義しゅぎもの」であった[8]

ディー・ツァイトしゃ

1969ねん首相しゅしょう就任しゅうにんしたヴィリー・ブラント東側ひがしがわ諸国しょこくとの関係かんけい正常せいじょう目指めざした東方とうほう外交がいこうしたとき、デーンホフはこれを全面ぜんめんてき支持しじした。彼女かのじょは『ディー・ツァイト』が東側ひがしがわ諸国しょこくについて大々的だいだいてきげることを約束やくそくし、みずからポーランド問題もんだいせんもん調査ちょうさ執筆しっぴつした[4]。デーンホフはオーデル・ナイセせん1945ねんポツダム会談かいだんにより暫定ざんていてき設定せっていされたドイツ・ポーランドの国境こっきょうせん)は廃止はいしすべきであると主張しゅちょうつづけ、1970ねんに、ブラント首相しゅしょうから、オーデル・ナイセせんをドイツ・ポーランドの国境こっきょうとして確認かくにんするワルシャワ条約じょうやく調印ちょういんしきへの参加さんかもとめられたがことわった。「二度にど戦争せんそうこさないためにはやむをないこと」とかんがえる一方いっぽうで、まだこの現実げんじつれることができなかったからである。ブラントはこのわりに、彼女かのじょもとめにおうじて『ディー・ツァイト』に「プロイセンのはかささげる十字架じゅうじか」とだいする記事きじ発表はっぴょうした[8]

1971ねん冷戦れいせん東西とうざい和解わかいかんする著作ちょさくぶつによりドイツ書籍しょせき協会きょうかい平和へいわしょうけた。ジャーナリストのヘラ・ピック英語えいごばんは、「ドイツはマリオン・デーンホフからはかれない恩恵おんけいけている。彼女かのじょはドイツのしんをとらえ、報道ほうどうかいにおいて女性じょせいたか地位ちいめるのがまだきわめてまれであった時代じだいガラスの天井てんじょうやぶった女性じょせいであり、それだけに一層いっそう彼女かのじょ業績ぎょうせきかがやかしい」とひょうしている[7]。1972ねん経営けいえい責任せきにんしゃ就任しゅうにんしん編集へんしゅうちょうには『ドイツの将来しょうらい ― その文化ぶんか政治せいじ経済けいざい』の共著きょうちょしゃテオ・ゾンマードイツばん就任しゅうにんした。よく73ねんにはもと連邦れんぽう首相しゅしょうヘルムート・シュミット共同きょうどう経営けいえい責任せきにんしゃとして参加さんかした。デーンホフは2002ねんに92さいくなるまで経営けいえい責任せきにんしゃつとめた。

彼女かのじょはほぼ50ねんにわたって『ディー・ツァイト』に記事きじ発表はっぴょうつづけ、すくなくともしゅういち非常ひじょうくわしい情報じょうほう提供ていきょうするなが記事きじき、ほとんどはたらめであった。一方いっぽうで、著書ちょしょ発表はっぴょうし、取材しゅざい奔走ほんそうし、戦後せんご主要しゅよう立役者たてやくしゃ会談かいだんし、また、社会しゃかい活動かつどう環境かんきょう保全ほぜん活動かつどうにもんでいた[7]

晩年ばんねん死去しきょ[編集へんしゅう]

戦時せんじちゅう、フリードリヒシュタインじょう保管ほかんされたのち行方ゆくえ不明ふめいになり、デーンホフによって復元ふくげんされたカントぞう

1988ねん、ケーニヒスベルク(ロシア連邦れんぽうカリーニングラードしゅう)を再訪さいほうした。プロイセン王国おうこく哲学てつがくしゃケーニヒスベルク大学だいがく哲学てつがく教授きょうじゅであったイマヌエル・カント銅像どうぞうどう大学だいがく構内こうないてるためである。ドイツ古典こてん主義しゅぎ彫刻ちょうこくクリスチャン・ダニエル・ラウホドイツばん制作せいさくしたはら作品さくひんばくげきそなえてフリードリヒシュタインじょう移動いどうし、ソ連それんぐん攻撃こうげき直前ちょくぜん地中ちちゅうめられたのだが、戦後せんご行方ゆくえ不明ふめいになっていた。石膏せっこう模型もけいのこっていたため、デーンホフはハラルト・ハーケドイツばん復元ふくげん依頼いらいしたのである[8]

同年どうねんにはまた、『ひがしプロイセンでごしたども時代じだい』を発表はっぴょうし、英語えいごフランス語ふらんすごほかすうこく翻訳ほんやくされた。回想かいそうろくであり、歴史れきし政治せいじ直接ちょくせつ言及げんきゅうするものではないが、「ナチズム、戦争せんそう民族みんぞくたいするにくしみによってドイツのみならず西欧せいおう文明ぶんめいこうむったはかれない損失そんしつ」、「永遠えいえんうしなわれた東欧とうおう」をらしめるものと評価ひょうかされた[3][4]

よく89ねんにはまたおい作家さっかフリードリヒ・デーンホフドイツばんとともに旧東きゅうとうプロイセンの所領しょりょうおとずれたが、「もうなにも、まったくなにのこっていなかった。瓦礫がれきひとつすらのこっていなかった」[4]。フリードリヒは彼女かのじょ没後ぼつご彼女かのじょの40年間ねんかん写真しゃしん文章ぶんしょう編集へんしゅうし、『たび心象しんしょう』とだいして出版しゅっぱんした。 1999ねん彼女かのじょが90さいむかえたとき、ポーランドじんとドイツじんとも彼女かのじょ誕生たんじょういわい、オーデル・ナイセせんえるという象徴しょうちょうてき行為こういにより彼女かのじょ長年ながねんゆめかなえた[7]

2002ねんに92さい死去しきょつつしふか厳格げんかくで、結婚けっこんすることもどもをもつこともなく、みずからの政治せいじてき信条しんじょうと『ディー・ツァイト』にささげた女性じょせいとして記憶きおくされることになった[8]

1998ねん彫刻ちょうこくマンフレート・ジーレ=ヴィッセルドイツばんがデーンホフのあたまぞう制作せいさくした。生誕せいたん100ねんの2009ねんにはデーンホフのプロフィールのある10ユーロ硬貨こうか発売はつばいされた。ハンブルクのブランケネセ地区ちくにあるヴィルヘーデン・ギムナジウムは2009ねんマリオン・デーンホフ・ギムナジウムドイツばん改名かいめいされた。ドイツ書籍しょせき協会きょうかい平和へいわしょうのほか、おおくのしょう受賞じゅしょうしている(以下いか参照さんしょう)。

受賞じゅしょう栄誉えいよ[編集へんしゅう]

名誉めいよ博士はかせバーミンガム大学だいがくコロンビア大学ころんびあだいがくジョじょジタウン大学じたうんだいがく、カリーニングラード州立しゅうりつ大学だいがく (げんイマニュエル・カント・バルト連邦れんぽう大学だいがく英語えいごばん(1999ねん) ほか多数たすう

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

  • Entstehung und Bewirtschaftung eines ostdeutschen Großbetriebes. Die Friedrichstein-Güter von der Ordenszeit bis zur Bauernbefreiung (ひがしドイツ大所たいしょりょう創設そうせつ管理かんり ― フリードリヒシュタインの財産ざいさん:ドイツ騎士きしだん時代じだいから農奴のうど解放かいほうまで), 1935 - バーゼル大学だいがく提出ていしゅつ博士はかせ論文ろんぶん
  • In Memoriam 20. Juli 1944. Den Freunden zum Gedächtnis (1944ねん7がつ20日はつか回想かいそうろくともおもに). Privatdruck Hamburg 1945
  • Namen, die keiner mehr nennt. Ostpreußen, Menschen und Geschichten, 1962; (新版しんぱん) Diederichs, Düsseldorf/Köln , 1971
  • Die Bundesrepublik in der Ära Adenauer. Kritik und Perspektiven (アデナウアー時代じだい連邦れんぽう共和きょうわこく批判ひはん展望てんぼう), Rowohlt, Reinbek 1963
  • Reise in ein fernes Land: Bericht über Kultur, Wirtschaft und Politik in der DDR. Nannen, Hamburg 1964; (改訂かいてい新版しんぱん) Weit ist der Weg nach Osten. Deutsche Verlags-Anstalt, München 1985 - ルドルフ・ワルター・レオンハルトドイツばん、テオ・ゾンマー共著きょうちょ
    • ドイツの将来しょうらい ― その文化ぶんか政治せいじ経済けいざい片岡かたおかあきらやく弘文こうぶんどう (フロンティア・ブックス)、1965ねん
  • Deutsche Außenpolitik von Adenauer bis Brandt (アデナウアーからブラントまでのドイツ外交がいこう政策せいさく). Hoffmann und Campe, Hamburg 1970; (新版しんぱん) 1982
  • Menschen, die wissen, worum es geht. Politische Schicksale 1916–1976 (これがどういうことなのかわかっている人々ひとびと政治せいじてき運命うんめい1916-1976 ). Hoffmann und Campe, Hamburg 1976
  • Von gestern nach übermorgen (昨日きのうから明後日みょうごにちまで). Albrecht Knaus, München 1981; (新版しんぱん) 1996
  • Amerikanische Wechselbäder. Beobachtungen und Kommentare aus vier Jahrzehnten (アメリカのシャトルバス ― 40年間ねんかん観察かんさつ解説かいせつ). Deutsche Verlags Anstalt, München 1983
  • Preußen. Maß und Maßlosigkeit (プロイセン ― 節度せつど過度かど). btb, München, 1987; (新版しんぱん) 2002
  • Kindheit in Ostpreußen (ひがしプロイセンにおけるども時代じだい). btb, München 1988; (新版しんぱん) 1998
  • Gestalten unserer Zeit: Politische Porträts (我々われわれ時代じだい人物じんぶつ政治せいじ肖像しょうぞう). Goldmann, München 1990; (新版しんぱん) 2000
  • Versöhnung: Polen und Deutsche. Die schwierige Versöhnung. Betrachtungen aus drei Jahrzehnten (和解わかい ― ポーランドと東西とうざいドイツ ― 困難こんなん和解わかい:30年間ねんかん考察こうさつ). Goldmann. München 1991; (新版しんぱん) 1998 - フライムート・ドゥーヴェドイツばん共編きょうへん
  • Weil das Land sich ändern muß. Manifest I (なぜならば、このくにわらなければならないから ― 宣言せんげんI). Rowohlt, Reinbek 1992
  • Weil das Land Versöhnung braucht. Manifest II (なぜならば、このでは和解わかい必要ひつようだから ― 宣言せんげんII). Rowohlt, Reinbek 1992
  • Im Wartesaal der Geschichte. Vom Kalten Krieg zur Wiedervereinigung (歴史れきし待合室まちあいしつで ― 冷戦れいせんから和解わかいへ). Deutsche Verlags Anstalt München 1993
  • Um der Ehre Willen. Erinnerungen an die Freunde vom 20. Juli (名誉めいよのために ― 7がつ20日はつかともおも), Siedler, Berlin 1994
  • Zivilisiert den Kapitalismus. Grenzen der Freiheit (資本しほん主義しゅぎ教化きょうかする ― 自由じゆう限界げんかい). Droemer Knaur, München 1997; (新版しんぱん) 1999
  • Der Effendi wünscht zu beten. Reisen in die vergangene Fremde (いのりをもとめる ― 異国いこく過去かこへのたび), Siedler, Berlin 1998
  • Menschenrecht und Bürgersinn (人権じんけん市民しみんけん), Droemer Knaur, München 1999; (新版しんぱん) 2002
  • Macht und Moral. Was wird aus der Gesellschaft? (権力けんりょく道徳どうとく社会しゃかいはどうなるのか), Kiepenheuer & Witsch, Köln 2000
  • Deutschland, deine Kanzler. Die Geschichte der Bundesrepublik 1949–1999 (あなたかた首相しゅしょうはドイツ ― 連邦れんぽう共和きょうわこく歴史れきし1949-1999), Siedler, Berlin 1999
  • Vier Jahrzehnte politischer Begegnungen (政治せいじ会談かいだんの40ねん). Orbis, München 2001
  • Was mir wichtig war. Letzte Aufzeichnungen und Gespräche (わたしにとって重要じゅうようだったこと ― 最後さいご記録きろく対談たいだん). Siedler, Berlin 2002
  • Ritt durch Masuren, aufgeschrieben 1941 (マズールィをける ― 1941ねん著作ちょさく), Rautenberg. Troisdorf 2002
  • Ein wenig betrübt, Ihre Marion. Marion Gräfin Dönhoff und Gerd Bucerius. Ein Briefwechsel aus fünf Jahrzehnten (マリオンはすこかなしい ― マリオン・グレーフィン・デーンホフとゲルト・ブツェリウス ― 50年間ねんかん往復おうふく書簡しょかん), Siedler, Berlin 2003
  • Reisebilder. Fotografien und Texte aus vier Jahrzehnten (たび心象しんしょう ― 40年間ねんかん写真しゃしん文章ぶんしょう). Hoffmann und Campe, Hamburg 2004 - フリードリヒ・デーンホフ編集へんしゅう

その邦訳ほうやく

  • 「ベトナムのかげなかで ― 列強れっきょう政策せいさくとアジアの弾力だんりょくせい」『国際こくさい情勢じょうせい資料しりょう特集とくしゅう内閣ないかく情報じょうほう調査ちょうさしつ監修かんしゅう内外ないがい情勢じょうせい調査ちょうさかいへん、1966ねん11月、3-16ぺーじ[11]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 加藤かとう房雄ふさおドイツ農村のうそん社会しゃかい苦闘くとう終焉しゅうえんひがしプロイセンの世襲せしゅう財産ざいさん所領しょりょう事例じれいそくして」『廣島大學ひろしまだいがく經濟けいざい論叢ろんそうだい38かんだい2ごう広島大学ひろしまだいがく経済けいざい学会がっかい、2014ねん11月28にち、47-63ぺーじ 
  2. ^ a b “Marion Countess Dönhoff” (英語えいご). The Telegraph. (2002ねん3がつ14にち). ISSN 0307-1235. https://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/1387647/Marion-Countess-Donhoff.html 2019ねん7がつ2にち閲覧えつらん 
  3. ^ a b c Livre “Une enfance en Prusse-orientale. 1909-1945”” (フランス語ふらんすご). www.noblesseetroyautes.com. Noblesse & Royautés (2019ねん1がつ14にち). 2019ねん7がつ2にち閲覧えつらん
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参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]