(Translated by https://www.hiragana.jp/)
中家住宅 (大阪府熊取町) - Wikipedia コンテンツにスキップ

中家ちゅうか住宅じゅうたく (大阪おおさか熊取くまとりまち)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
中家ちゅうか住宅じゅうたく

外観がいかん (2021ねん11月)
所在地しょざいち 大阪おおさか泉南せんなんぐん熊取くまとりまち五門西ごもんにし1-11-18
位置いち

北緯ほくい3424ふん2.8びょう 東経とうけい13520ふん54.4びょう / 北緯ほくい34.400778 東経とうけい135.348444 / 34.400778; 135.348444座標ざひょう: 北緯ほくい3424ふん2.8びょう 東経とうけい13520ふん54.4びょう / 北緯ほくい34.400778 東経とうけい135.348444 / 34.400778; 135.348444

中家住宅の位置(大阪府内)
中家住宅
中家ちゅうか住宅じゅうたく
大阪おおさか府内ふない位置いち地図熊取くまとり町内ちょうない位置いち
類型るいけい 庄屋しょうやおも
形式けいしき構造こうぞう 入母屋いりもやづくり茅葺かやぶ
建築けんちくねん 江戸えど時代じだい前期ぜんき
テンプレートを表示ひょうじ

中家ちゅうか住宅じゅうたく(なかけじゅうたく)は、大阪おおさか泉南せんなんぐん熊取くまとりまち所在しょざいする民家みんか江戸えど時代じだい初期しょき建築けんちく豪農ごうのういえで、おも表門おもてもんからもんくに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。

概要がいよう[編集へんしゅう]

もと個人こじん所有しょゆうだったが、平成へいせい6ねん熊取くまとりまち所有しょゆうとなり、一般いっぱん公開こうかいされている。

現在げんざいおも表門おもてもんからもんのこるのみであるが[1]江戸えど時代じだい後期こうきいにしえによると、現在げんざいでもひろ敷地しきちであるが、かつてはの敷地しきちはるかにおおきく、表門おもてもんさんあいだやくもん[ちゅう 1])の位置いち現状げんじょうよりも、もっと手前てまえにあり表門おもてもんはいると、ひろ土間どまおもがある。おもつまめん表門おもてもんただしたいし、おも東側ひがしがわには別棟べつむね式台しきだい[ちゅう 2]玄関げんかん客殿きゃくでん書院しょいん)がある。西側にしがわには組物くみものがあるこうとうもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい)があり、客殿きゃくでん書院しょいん)につうじる賓客ひんきゃくようもんとして利用りようされていた。またほかにも、長屋門ながやもんさとぞうなどの付属ふぞくおおち、建物たてもの背後はいごにはほりがあるなど、往時おうじ中家ちゅうかおおきな屋敷やしきかまえがしるされている[2]

中家ちゅうか略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

ちゅう熊取くまとりたにげん熊取くまとりまち)にある由緒ゆいしょある家柄いえがらで、平安へいあん時代じだいには、こう白河しらかわ法皇ほうおう熊野くまの行幸ぎょうこう[ちゅう 3]さいり、行宮あんぐうとした旧家きゅうかである[3]中家ちゅうか家紋かもんは、その行幸ぎょうこうさいに、中家ちゅうかつくったあまふり献上けんじょうしたところ、法皇ほうおうよろこび、あまふり家紋かもんとするようにとったことで「どもえ」とさだめたとされる[3]。また、家名かめいの「なか」は、ぜんきゅうねんやく(1051~62)で、源頼義みなもとのよりよしらととも奥州おうしゅうかった高瀬たかせきよし原武はらたけもりあといだ嫡男ちゃくなんもりはるが、「なか」とあらためたことにはじまるとされ、もりはる嫡男ちゃくなんもりしげる左近さこん将監しょうげんにんじられ、ちゅう代々だいだい左近さこん」を名乗なのっている[3]

室町むろまち時代じだいから戦国せんごく時代じだいころに、紀伊きいこく根来寺ねごろじはいり、根来寺ねごろじ一子いっしいんなりしんいん子弟していおくふかつながりをつことで、その勢力せいりょく背景はいけいひろ和泉いずみこく紀伊きいこく北部ほくぶおよ田畑たはたあつめたり、こうじ販売はんばい権利けんりち、この地方ちほうにおける経済けいざいてき政治せいじてきりょく郷士ごうしという存在そんざいとなっている[3][4]。なお、なりしんいん院主いんじゅであった根来ねごろ盛重もりしげ徳川とくがわちょくしん[ちゅう 4]として、関ヶ原せきがはらたたか大坂おおさかじん活躍かつやくし、のちに徳川とくがわ旗本はたもととなっている[3][4]

江戸えど時代じだいには岸和田きしわだはん藩主はんしゅ松平まつだいらかんしげるときには郷士ごうし代官だいかんにんぜられ、藩主はんしゅ岡部おかべせんしょうになってからは「ななにん庄屋しょうや」の筆頭ひっとうをつとめ、代々だいだい岸和田きしわだはんだい庄屋しょうやとして年貢ねんぐ徴収ちょうしゅう年寄としより組頭くみがしら決定けっていなど、熊取くまとりたにむら行政ぎょうせい全般ぜんぱんにない、熊取くまとり谷内たにうちには400せきえる石高こくだかゆうし、さんじゅうけん前後ぜんこうの「家中いえじゅう」とよんじゅうけんあまりの「うちしゅ[ちゅう 5]」をかかえていた。元禄げんろく5ねん(1692ねん)には岸和田きしわだはん藩札はんさつ発行はっこう札元ふだもとにんじられ、はん経済けいざいにも貢献こうけんする家柄いえがらになっている[3]

近世きんせいにおいては、江戸えど時代じだい末期まっきに25だい当主とうしゅちゅうみず雲斎うんさい(1807ねん~1871ねん)は思想家しそうか明治めいじ時代じだいには28だい当主とうしゅなか辰之助たつのすけ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん輩出はいしゅつしている[3]

ななにん庄屋しょうや[編集へんしゅう]

岸和田きしわだはんむら々の支配しはい円滑えんかつすすめるため、「ななにん庄屋しょうや」とよばれるはん領内りょうないの、むら々におおきな影響えいきょうりょく有力ゆうりょく農民のうみん庄屋しょうやなかから、経済けいざいてき政治せいじてきりょくのあるななにん選出せんしゅつし、むら々へのれの伝達でんたつむら々からのうったえをりまとめるなどの利害りがい調整ちょうせい行政ぎょうせいてき役割やくわりたさせた。はんにとっては、むら々を仕切しき役人やくにんでありながら、村人むらびと立場たちばからすればむら代表だいひょうという両方りょうほう立場たちばわせ存在そんざいであった[5]ななにん庄屋しょうや格式かくしきとして、はん武士ぶし特権とっけんともいえる苗字みょうじ帯刀たいとうやり脇差わきざし帷子かたびら登城とじょうするさい衣服いふくとして羽織はおりはかま正装せいそうかみしもなどの、武士ぶし武具ぶぐ着衣ちゃくいまであたえている。さらに藩主はんしゅへの拝謁はいえつ岸和田きしわだ城内じょうのうちへの登城とじょうじゅんめられるなど、村役人むらやくにんなかでも別格べっかく位置付いちづけられていた[5]

ななにん庄屋しょうやのうち、熊取くまとりたに中家ちゅうかくだ権威けんいは、岸和田きしわだはんないにおいては大変たいへんおもく、とは別格べっかく存在そんざいであり、「熊取くまとり両人りょうにん」ともばれる中世ちゅうせい武士ぶしてき性格せいかくつよくもつ土豪どごうばれる地元じもとらす武士ぶし同等どうとう存在そんざいであり、両家りょうけきょう熊取くまとりたに庄屋しょうや歴任れきにんした[6][7]熊取くまとりたに運営うんえいはこの「熊取くまとり両人りょうにん」にまかされており、その職務しょくむとして、「岸和田きしわだきょう会所かいしょ[ちゅう 6]」にめたり、むら庄屋しょうや補佐ほさをする庄屋しょうや、また年貢ねんぐ統括とうかつ熊取くまとりたに15ケ村かそん年寄としより組頭くみがしら決定けっていけん村人むらびと騒動そうどう調停ちょうてい裁判さいばんけん権限けんげんゆだねられていた。熊取くまとりたに五門ごもん紺屋こんや野田のだ小垣内おがいとみや大浦おおうら下高田しもたかたの1700せきちゅうが、大久保おおくぼ朝代あさよ成合なりあい上高田かみたかだ小谷おたにななやまの1700いしくだ担当たんとうし、はんからの布達ふたつむらからはんへのとどけもすべて「熊取くまとり両人りょうにん」をとおしておこなわれていた[6]文政ぶんせい12ねん1829ねん)からすう年間ねんかん、「熊取くまとり両人りょうにん」2いえはんりょう全体ぜんたいりしきるだい庄屋しょうやとなったが、天保てんぽう年間ねんかん1831ねん - 1845ねん)にはななにん庄屋しょうや制度せいど再開さいかいし、廃藩置県はいはんちけんにより岸和田きしわだはん解体かいたいされる明治めいじ4ねん1871ねん)までつづいた。[7]

中家ちゅうか文書ぶんしょ[編集へんしゅう]

ちゅうに、約数やくすうせんてん中世ちゅうせい以降いこう古文書こもんじょのこる。そのおおくは室町むろまち時代じだい田地でんちうりけんだが、明治めいじ時代じだいまでの歴史れきしてき価値かちたか文書ぶんしょおおのこ[3][8]

住宅じゅうたく詳細しょうさい[編集へんしゅう]

おも構造こうぞう[9][10][11]

  • 木造もくぞう入母屋いりもやづくりつまいれ
  • かやむねのみほん瓦葺かわらぶき
  • 桁行けたゆき:24.5 m、梁間はりま:16.1m。
  • 周囲しゅういよんめんほん瓦葺かわらぶきひさしづけ
  • 西にしめんおよひがしめんほん瓦葺かわらぶき突出とっしゅつ附属ふぞくする。
  • 北面ほくめん突出とっしゅつ - 桁行けたゆき:9.1 m、梁間はりま:5.9 m、入母屋いりもやづくりほん瓦葺かわらぶき
おも建立こんりゅう年代ねんだい江戸えど時代じだい初期しょきかんがえられている。おも正面しょうめんつまめんには、中家ちゅうかの「みぎさんともえおおきな家紋かもんがあり、土間どまは、近畿きんき地方ちほう民家みんかとしては最大さいだいきゅうのものをゆうする。構式構造こうぞう[ちゅう 7]土間どまはしら省略しょうりゃくおお居室きょしつがあり、土間どま台所だいどころおおきくし、踏込ふみこみがある納戸なんど座敷ざしきまわりにはくえたがえさん間取まどりがある。その形態けいたい古式こしき様相ようそうといえ、泉南せんなん地方ちほう和歌山わかやまけん紀ノ川きのかわ周辺しゅうへんおお分布ぶんぷする。

表門おもてもん構造こうぞう

かつて広大こうだい敷地しきちゆうしていたため、現在げんざい位置いちよりも、もっと外側そとがわてられていた。

からもん構造こうぞう

おも西にしめんしてち、客殿きゃくでんかう賓客ひんきゃくようもんとして利用りようされていた。

文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい[編集へんしゅう]

建造けんぞうぶつ
  • 中家ちゅうか住宅じゅうたく(大阪おおさか泉南せんなんぐん熊取くまとりまち) 表門おもてもんおよからもん 2むね - 指定してい年月日ねんがっぴ:1964ねん昭和しょうわ39ねん)5がつ29にち[12]

公開こうかい情報じょうほう[編集へんしゅう]

見学けんがく申込もうしこ不要ふようで、直接ちょくせつ現地げんち[13]

  • 営業えいぎょう時間じかん - 10:00~16:30(入館にゅうかんは16:00まで)
  • 料金りょうきん無料むりょう
  • 休館きゅうかん
    • 1、2、8がつは、つき - 金曜日きんようび祝日しゅくじつのぞく)
    • 上記じょうきがつ以外いがいは、水曜日すいようび祝日しゅくじつ場合ばあい翌日よくじつ
    • 年末年始ねんまつねんし (12月29にち~1がつ3にち)

中家ちゅうか住宅じゅうたく文化ぶんか活動かつどう発表はっぴょうとして利用りよう可能かのう

  • 絵画かいが写真しゃしんなどの作品さくひん展示てんじかい音楽おんがくかい演劇えんげき、おちゃかいなどの発表はっぴょうかいでの利用りよう可能かのう
  • 有料ゆうりょう申込もうしこ必要ひつよう詳細しょうさい外部がいぶリンク・中家ちゅうか住宅じゅうたく利用りよう案内あんない 参照さんしょう

交通こうつうアクセス[編集へんしゅう]

周辺しゅうへん施設しせつ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 2ほんほんはしら背後はいごに2ほんひかばしらてた切妻きりづま屋根やねもん前方ぜんぽう敷地しきち外側そとがわ)にほんはしらほん後方こうほう敷地しきち内側うちがわ)にひかばしら2ほんけい4ほん切妻きりづま屋根やねささえ、屋根やね中心ちゅうしんむねが、ほんはしらひかばしら中間ちゅうかん位置いちせず、やや前方ぜんぽうるため、前方ぜんぽうほんはしら2ほんが、ひかばしらよりもふとく、加重かじゅうおおささえる構造こうぞうになっている。 入母屋いりもや屋根やねひらとうもんふう屋根やね場合ばあいもある。
  2. ^ 玄関げんかん土間どまゆか段差だんさおおきい場合ばあい設置せっちされるいたのこと。 元々もともとは、武家ぶけ屋敷やしきで、来客らいきゃくしゃ地面じめんりることなく、 かごれるようにもうけられたいたであった。
  3. ^ 熊野くまの信仰しんこうによる熊野くまの参詣さんけい
  4. ^ 直属ちょくぞく家臣かしん
  5. ^ 使用人しようにん家来けらいなど。
  6. ^ 岸和田きしわだ城内じょうのうち勘定かんじょうしょ一角いっかくにあり、はん地方ちほう支配しはいにな役割やくわりがある。ななにん庄屋しょうやせいが、はん庄屋しょうやせいちがうところは、問題もんだいしょうじた場合ばあい管轄かんかつする行政ぎょうせい存在そんざいせず、岸和田きしわだきょう会所かいしょ参集さんしゅうし、合意ごうい形成けいせいはか合議ごうぎめていたことである。
  7. ^ はしらたばなどの垂直すいちょくざいりょうけたなどの水平すいへいざいじくぐみつく構造こうぞうほう従来じゅうらいからある日本にっぽん木造もくぞう建築けんちくもこの形式けいしき改造かいぞう解体かいたい比較的ひかくてき容易よういで、おおきな開口かいこうをとることができる。
  8. ^ もん正面しょうめんおよび背面はいめん屋根やね唐破風からはふもん

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 中家ちゅうか住宅じゅうたく観光かんこうスポット・体験たいけん”. 大阪おおさか公式こうしき観光かんこう情報じょうほう OSAKAINFO / 大阪おおさか観光かんこうきょく. 2022ねん7がつ4にち閲覧えつらん
  2. ^ 重要じゅうよう文化財ぶんかざい 中家ちゅうか住宅じゅうたく” (PDF). 一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん くまとりにぎわい観光かんこう協会きょうかい 事務じむきょく. 2022ねん7がつ2にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f g h ちゅう歴史れきし”. 熊取くまとりまち. 2022ねん7がつ3にち閲覧えつらん
  4. ^ a b 公益社こうえきしゃだん法人ほうじん 日本にっぽん観光かんこう振興しんこう協会きょうかい: “観光かんこう資源しげん調査ちょうさおよ保護ほご思想しそう普及ふきゅう高揚こうようきゅう中林なかばやし綿布めんぷ工場こうじょう保存ほぞん活用かつよう調査ちょうさ報告ほうこくしょ”. 日本にっぽん財団ざいだん図書館としょかん日本にっぽん財団ざいだん. 2022ねん7がつ2にち閲覧えつらん
  5. ^ a b 岸和田きしわだはんななにん庄屋しょうや”. 貝塚かいづか市役所しやくしょ 教育きょういく 社会しゃかい教育きょういく 文化財ぶんかざい担当たんとう. 2022ねん7がつ2にち閲覧えつらん
  6. ^ a b 公益社こうえきしゃだん法人ほうじん 日本にっぽん観光かんこう振興しんこう協会きょうかい: “観光かんこう資源しげん調査ちょうさおよ保護ほご思想しそう普及ふきゅう高揚こうようきゅう中林なかばやし綿布めんぷ工場こうじょう保存ほぞん活用かつよう調査ちょうさ報告ほうこくしょ”. 日本にっぽん財団ざいだん図書館としょかん日本にっぽん財団ざいだん. 2022ねん7がつ2にち閲覧えつらん
  7. ^ a b 岸和田きしわだはんななにん庄屋しょうや(しちにんじょうや) ”. 貝塚かいづか市役所しやくしょ 教育きょういく 社会しゃかい教育きょういく 文化財ぶんかざい担当たんとう. 2022ねん7がつ2にち閲覧えつらん
  8. ^ 重要じゅうよう文化財ぶんかざい 中家ちゅうか住宅じゅうたく”. 一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん くまとりにぎわい観光かんこう協会きょうかい 事務じむきょく. 2022ねん10がつ11にち閲覧えつらん
  9. ^ 中家ちゅうか住宅じゅうたく(大阪おおさか泉南せんなんぐん熊取くまとりまち)”. 文化ぶんか遺産いさんオンライン / 文化庁ぶんかちょう. 2022ねん7がつ3にち閲覧えつらん
  10. ^ 中家ちゅうか住宅じゅうたくについて”. 熊取くまとりまち. 2022ねん7がつ3にち閲覧えつらん
  11. ^ 重要じゅうよう文化財ぶんかざいちゅうとレンガかん大阪おおさかあちこち” (PDF). 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん 大阪おおさか市町村しちょうそん振興しんこう協会きょうかい. 2022ねん7がつ4にち閲覧えつらん
  12. ^ 中家ちゅうか住宅じゅうたく(大阪おおさか泉南せんなんぐん熊取くまとりまち)”. くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース / 文化庁ぶんかちょう. 2022ねん7がつ2にち閲覧えつらん
  13. ^ 見学けんがくのご案内あんない”. 熊取くまとりまち. 2022ねん7がつ4にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]