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くだ書院しょいん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
くだ書院しょいん

1956ねんごろ
所在地しょざいち 大阪おおさか泉南せんなんぐん熊取くまとりまち大久保中おおくぼなか2丁目ちょうめ1ばん1
位置いち

北緯ほくい3424ふん6.8びょう 東経とうけい13520ふん38.0びょう / 北緯ほくい34.401889 東経とうけい135.343889 / 34.401889; 135.343889座標ざひょう: 北緯ほくい3424ふん6.8びょう 東経とうけい13520ふん38.0びょう / 北緯ほくい34.401889 東経とうけい135.343889 / 34.401889; 135.343889

降井家書院の位置(大阪府内)
降井家書院
くだ書院しょいん
大阪おおさか府内ふない位置いち地図 熊取くまとり町内ちょうない位置いち
類型るいけい 庄屋しょうや書院しょいん
形式けいしき構造こうぞう 木造もくぞうよせとうづくりかや
建築けんちくねん 江戸えど時代じだい前期ぜんき
文化財ぶんかざい くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい
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くだ書院しょいん(ふるいけしょいん)は、大阪おおさか泉南せんなんぐん熊取くまとりまちにある民家みんか江戸えど時代じだい初期しょき建築けんちく推定すいていされ、くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。個人こじん所有しょゆう物件ぶっけんのため、常時じょうじ公開こうかいおこなわれておらず、としに1のみ一般いっぱん公開こうかいされている[1]

概要がいよう

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くだつたわる天保てんぽう6ねん1835ねん)に作成さくせいされた舗図によると、くだ邸宅ていたくは、かつて2500つぼ敷地しきちがあり、書院しょいん広間ひろま台所だいどころ土蔵どぞう厩舎きゅうしゃ射場いば馬場ばばがあった。書院しょいんは、江戸えど時代じだい初期しょきてられた、よせとうづくりかや数奇屋すきやふうれた書院造しょいんづくりで、8たたみ上段じょうだんあいだと12じょうつぎ構成こうせいされ、西にしのぞく3ぽうたたみじきいれがわ[ちゅう 1]、まわりに縁側えんがわめぐらされている。むら庄屋しょうやなどを巡回じゅんかいするはん役人やくにん接客せっきゃくという特別とくべつ機能きのうがあり、おもとは別棟べつむねかまえられている。もと現在げんざい位置いちよりもすこみなみにあり、もと広間ひろま接続せつぞくしていたが、明治めいじすえおも一部いちぶ改築かいちくしたさいに現在げんざい位置いち移動いどうしている[2]。おおよそ建築けんちく状態じょうたいをとどめ、江戸えど時代じだい熊取くまとりたにげん熊取くまとりまち)のだい庄屋しょうや生活せいかつうかがうことができる貴重きちょう歴史れきしてき建造けんぞうぶつであり[1]くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。

くだ略歴りゃくれき

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戦国せんごく時代じだい以前いぜん和泉いずみこくげん大阪おおさか南部なんぶ地域ちいき)における、農村のうそん基盤きばんさむらい和泉いずみ36郷士ごうしがあり、動乱どうらんつづなかで、それぞれの郷士ごうし各自かくじ領域りょういきない勢力せいりょくたもちながら、それぞれがむすびついいたとかんがえられている[3]熊取くまとりにも門村かどむら甲田こうたくだの3いえ郷士ごうし存在そんざいし、門村かどむらとは中家ちゅうかのことで、このなかからは、片桐かたぎりつかえたもの徳川とくがわ家康いえやすつか旗本はたもとになった根来ねごろ盛重もりしげ輩出はいしゅつしている。ちゅう熊取くまとりたにげん熊取くまとりまち)・五門ごもんみ、その代々だいだい岸和田きしわだはんだい庄屋しょうやつとめる。また、くだくだ太夫たゆう織田おだ信長のぶなが配下はいかとなり、もう利家としいえ水軍すいぐん木津川きづがわこうたたか討死うちじにしたが、ちゅう左近さこん次男じなん養子ようしとなりいでいる[3]

くだおな熊取くまとりたににある中家ちゅうかならび、この地域ちいき豪族ごうぞくで、江戸えど時代じだい岸和田きしわだはん郷士ごうし代官だいかんななにん庄屋しょうやをつとめ、代々だいだい岸和田きしわだはんだい庄屋しょうやとして年貢ねんぐ徴収ちょうしゅう年寄としより組頭くみがしら決定けっていなど、熊取くまとりたにむら行政ぎょうせい全般ぜんぱんになっていた。貞享ていきょう2とし1685ねん)には、岸和田きしわだはん藩札はんさつ発行はっこう札元ふだもとにんじられ、はん経済けいざいにも貢献こうけんする家柄いえがらとなっている[2]

ななにん庄屋しょうや

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岸和田きしわだはんむら々の支配しはい円滑えんかつすすめるため、「ななにん庄屋しょうや」とよばれるはん領内りょうないの、むら々におおきな影響えいきょうりょく有力ゆうりょく農民のうみん庄屋しょうやなかから、経済けいざいてき政治せいじてきりょくのあるななにん選出せんしゅつし、むら々へのれの伝達でんたつむら々からのうったえをりまとめるなどの利害りがい調整ちょうせい行政ぎょうせいてき役割やくわりたさせた。はんにとっては、むら々を仕切しき役人やくにんでありながら、村人むらびと立場たちばからすればむら代表だいひょうという両方りょうほう立場たちばわせ存在そんざいであった[4]ななにん庄屋しょうや格式かくしきとして、はん武士ぶし特権とっけんともいえる苗字みょうじ帯刀たいとうやり脇差わきざし帷子かたびら登城とじょうするさい衣服いふくとして羽織はおりはかま正装せいそうかみしもなどの、武士ぶし武具ぶぐ着衣ちゃくいまであたえている。さらに藩主はんしゅへの拝謁はいえつ岸和田きしわだ城内じょうのうちへの登城とじょうじゅんめられるなど、村役人むらやくにんなかでも別格べっかく位置付いちづけられていた[4]

ななにん庄屋しょうやのうち、熊取くまとりたにくだ中家ちゅうか権威けんいは、岸和田きしわだはんないにおいては大変たいへんおもく、とは別格べっかく存在そんざいであり、「熊取くまとり両人りょうにん」ともばれる中世ちゅうせい武士ぶしてき性格せいかくつよくもつ土豪どごうばれる地元じもとらす武士ぶし同等どうとう存在そんざいであり、両家りょうけきょう熊取くまとりたに庄屋しょうや歴任れきにんした[3][5]熊取くまとりたに運営うんえいはこの「熊取くまとり両人りょうにん」にまかされており、その職務しょくむとして、「岸和田きしわだきょう会所かいしょ[ちゅう 2]」にめたり、むら庄屋しょうや補佐ほさをする庄屋しょうや、また年貢ねんぐ統括とうかつ熊取くまとりたに15ケ村かそん年寄としより組頭くみがしら決定けっていけん村人むらびと騒動そうどう調停ちょうてい裁判さいばんけん権限けんげんゆだねられていた。熊取くまとりたに大久保おおくぼ朝代あさよ成合なりあい上高田かみたかだ小谷おたにななやまの1700いしくだが、五門ごもん紺屋こんや野田のだ小垣内おがいとみや大浦おおうら下高田しもたかたの1700せきちゅう担当たんとうし、はんからの布達ふたつむらからはんへのとどけもすべて「熊取くまとり両人りょうにん」をとおしておこなわれていた[3]文政ぶんせい12ねん1829ねん)からすう年間ねんかん、「熊取くまとり両人りょうにん」2いえはんりょう全体ぜんたいりしきるだい庄屋しょうやとなったが、天保てんぽう年間ねんかん1831ねん - 1845ねん)にはななにん庄屋しょうや制度せいど再開さいかいし、廃藩置県はいはんちけんにより岸和田きしわだはん解体かいたいされる明治めいじ4ねん1871ねん)までつづいた[5]

書院しょいん詳細しょうさい

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書院しょいん構造こうぞう形式けいしき[2][6]

  • いちじゅう[ちゅう 3]よせとうづくり
  • かや葺、むねのみほん瓦葺かわらぶき
  • 桁行けたゆき15.894 m、梁間はりま8.209 m
  • 北面ほくめん桁行けたゆき5.976 m、梁間はりま0.8 mの縁側えんがわしがあり、あさ瓦葺かわらぶきひさしく。

もと現在げんざい位置いちよりもすこみなみにあり、もと広間ひろま接続せつぞくしていたが、明治めいじまつおも一部いちぶ改築かいちくしたさいに現在げんざい位置いち移動いどうさせている[2]数奇屋すきやふうれた書院造しょいんづくりで、8じょう上段じょうだんあいだ、12じょうつぎたたみじきにゅうがわ[ちゅう 1]縁側えんがわ構成こうせいされる。上段じょうだんあいだには、ゆかあいだちがだな[ちゅう 4]書院しょいんがあり、天井てんじょう長押なげし[ちゅう 5]内法うちのり(うちのり)長押なげし[ちゅう 6]き、つぎとの境界きょうかい彫刻ちょうこくほどこした欄間らんまく。ゆかあいだちがだな壁面へきめんに、があり、つぎとの間仕切まじきふすま障子しょうじなどが建築けんちく当初とうしょのものとみとめられている。つぎは、面皮めんぴばしら[ちゅう 7]使つかわれ、いれがわとのあいだ鴨居かもいじょうたけ格子こうしまどもうけている。えん[ちゅう 8]縁側えんがわ[ちゅう 9]改変かいへんしたことがみとめられるが、おおよそ建築けんちく当初とうしょ規模きぼのこ[6]

現在げんざい西側にしがわみなみりにおも連続れんぞくするわた廊下ろうか文化財ぶんかざい指定していがい建物たてもの)が接続せつぞくする。

建立こんりゅう以来いらい修理しゅうりれきあきらかではないが、1955ねん昭和しょうわ30ねんおこなわれた尾根おねあし葺替のさい文政ぶんせい13ねん1830ねん)、1869ねん明治めいじ2ねん)、1884ねん明治めいじ17ねん)、1908ねん明治めいじ41ねん)の屋根やねむねさつ発見はっけんされている[6]

昭和しょうわ52ねん修理しゅうり[6]
  • 修理しゅうり期間きかん1977ねん昭和しょうわ52ねん)1がつ1にち - 1978ねん昭和しょうわ53ねん)3がつ31にち
  • そう工費こうひ:37451098えん
おも修理しゅうり箇所かしょ
  • 屋根やねの葺替 - トラック10だいぶんうみヨシ[ちゅう 10]使用しよう
  • 壁画へきがふすま補修ほしゅう
  • 北側きたがわ地盤じばんゆる改善かいぜん建物たてもの傾斜けいしゃ改修かいしゅう
  • ゆかあいだ北側きたがわ風呂ふろ便所べんじょはな

文化財ぶんかざい

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くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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建造けんぞうぶつ
  • くだ書院しょいん 舗図 1じょう - 指定してい年月日ねんがっぴ1952ねん昭和しょうわ27ねん)3がつ29にち[7]
1949ねん昭和しょうわ24ねん)4がつ13にち重要じゅうよう美術びじゅつひん認定にんていされ、1952ねん重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされた。建立こんりゅう以来いらい修理しゅうり経歴けいれきあきらかではないが、おおよそ建築けんちく当初とうしょのままであり、江戸えど時代じだい豪族ごうぞく生活せいかつ一端いったんうかがうことができる書院造しょいんづくり歴史れきしてき建造けんぞうぶつである。またつけ舗図は、天保てんぽう6ねん作成さくせいされており、江戸えど時代じだい豪族ごうぞくていかまえを詳細しょうさいることができる貴重きちょう資料しりょうである[6]

熊取くまとりまち指定してい文化財ぶんかざい

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天然記念物てんねんきねんぶつ
  • くだのくろがねもち 1ほん - 指定してい年月日ねんがっぴ1996ねん平成へいせい8ねん)3がつ13にち[8]
のべとおる2ねん1745ねん)『先代せんだいこうよりどころりゃくちょちゅうもりあきらに、くだに「もちのき」が存在そんざいしていたことがしるされ、個人こじん所有しょゆう年代ねんだい判明はんめいする樹木じゅもくとしては貴重きちょうである[8]

利用りよう情報じょうほう

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  • 民間みんかん所有しょゆう建築けんちくぶつのため、常時じょうじ公開こうかいおこなわれておらず、毎年まいとし11がつ初旬しょじゅん土曜日どようび日曜日にちようび午前ごぜんちゅうのみ、特別とくべつ公開こうかい予定よていとなっている[8]
  • 駐車ちゅうしゃじょうなし

交通こうつうアクセス

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ a b 縁側えんがわ座敷ざしきあいだにある通路つうろのこと。おもひととおるための廊下ろうかとしての役割やくわりたし、縁側えんがわおなじようにあつかわれるが、いれがわ自体じたい室内しつない相当そうとうする。書院造しょいんづくりにおいては広縁ひろえんとされる。
  2. ^ 岸和田きしわだ城内じょうのうち勘定かんじょうしょ一角いっかくにあり、はん地方ちほう支配しはいにな役割やくわりがある。ななにん庄屋しょうやせいが、はん庄屋しょうやせいちがうところは、問題もんだいしょうじた場合ばあい管轄かんかつする行政ぎょうせい存在そんざいせず、岸和田きしわだきょう会所かいしょ参集さんしゅうし、合意ごうい形成けいせいはか合議ごうぎめていたことである。
  3. ^ 内部ないぶ階数かいすう関係かんけいなく屋根やねじゅうなりがひと
  4. ^ 和室わしつゆかあいだわきつくられたたなで、2まい、または3まいたなばん上下じょうげ左右さゆうにずらしてけたたな
  5. ^ 天井てんじょうたか場合ばあいや、部屋へや格式かくしきしたいときに使つか長押なげし
  6. ^ 内法うちのり長押なげし欄間らんま鴨居かもいのあいだの長押なげし
  7. ^ すり丸太まるたかわが4すみのこっている状態じょうたい面皮めんぴとよび、そのはしら面皮めんぴばしらという。 はしらかく自然しぜんまるみをのこし、4めんでハツリ仕上しあげをし、木目もくめしたはしらで、しゅとして茶室ちゃしつなど数寄屋造すきやづくはしらとして使つかわれる。
  8. ^ 軒下のきしたつくられるが、かべがなくあまざらしになってしまう部屋へや外部がいぶにある縁側えんがわのこと。
  9. ^ 軒下のきしたにあり、部屋へやつづきの建物たてもの内部ないぶ縁側えんがわのこと。
  10. ^ 塩分えんぶんたいせいがあり汽水域すいいきにも植生しょくせいする。

出典しゅってん

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  1. ^ a b くだ書院しょいん”. 熊取くまとりまち生涯しょうがい学習がくしゅう推進すいしん. 2022ねん7がつ2にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d 熊取くまとりまち教育きょういく委員いいんかい設置せっち現地げんち案内あんないばんによる
  3. ^ a b c d 公益社こうえきしゃだん法人ほうじん 日本にっぽん観光かんこう振興しんこう協会きょうかい: “観光かんこう資源しげん調査ちょうさおよ保護ほご思想しそう普及ふきゅう高揚こうようきゅう中林なかばやし綿布めんぷ工場こうじょう保存ほぞん活用かつよう調査ちょうさ報告ほうこくしょ”. 日本にっぽん財団ざいだん図書館としょかん日本にっぽん財団ざいだん. 2022ねん7がつ2にち閲覧えつらん
  4. ^ a b 岸和田きしわだはんななにん庄屋しょうや”. 貝塚かいづか市役所しやくしょ 教育きょういく 社会しゃかい教育きょういく 文化財ぶんかざい担当たんとう. 2022ねん7がつ2にち閲覧えつらん
  5. ^ a b 岸和田きしわだはんななにん庄屋しょうや(しちにんじょうや) ”. 貝塚かいづか市役所しやくしょ 教育きょういく 社会しゃかい教育きょういく 文化財ぶんかざい担当たんとう. 2022ねん7がつ2にち閲覧えつらん
  6. ^ a b c d e 熊取くまとりまち教育きょういく委員いいんかい: “民家みんか こく指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい くだ書院しょいん” (PDF). 一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん くまとりにぎわい観光かんこう協会きょうかい 事務じむきょく. 2022ねん7がつ2にち閲覧えつらん
  7. ^ くだ書院しょいん国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい建造けんぞうぶつ”. くにののデータベース / 文化庁ぶんかちょう. 2022ねん7がつ2にち閲覧えつらん
  8. ^ a b c まち指定してい文化財ぶんかざい”. 熊取くまとりまち生涯しょうがい学習がくしゅう推進すいしん文化ぶんか振興しんこうグループ). 2022ねん7がつ4にち閲覧えつらん

参考さんこう資料しりょう

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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