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中山なかやま神社じんじゃ (下関しものせき)

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中山なかやま神社じんじゃ

神門から境内を見る。
鳥居とりい拝殿はいでん

地図
所在地しょざいち 山口やまぐちけん下関しものせき綾羅木本あやらぎほんまちなな丁目ちょうめ10ばん18ごう
位置いち 北緯ほくい340ふん24.1びょう 東経とうけい13055ふん3.1びょう / 北緯ほくい34.006694 東経とうけい130.917528 / 34.006694; 130.917528座標ざひょう: 北緯ほくい340ふん24.1びょう 東経とうけい13055ふん3.1びょう / 北緯ほくい34.006694 東経とうけい130.917528 / 34.006694; 130.917528
主祭しゅさいしん 中山なかやま忠光ただみつ明治天皇めいじてんのうてんあきらすめらぎ大神だいじん
社格しゃかくひとし きゅうけんしゃ
創建そうけん 1865ねん慶応けいおう元年がんねん)11月
例祭れいさい 5月だい2土曜日どようびよく日曜日にちようび中山なかやま忠光ただみつ誕生たんじょうちなむ)
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中山なかやま神社じんじゃ(なかやまじんじゃ)は、山口やまぐちけん下関しものせきにある神社じんじゃ長門ながとこく北浦きたうら総社そうじゃ)。

概要がいよう[編集へんしゅう]

幕末ばくまつ尊王そんのう攘夷じょうい立場たちば活動かつどうし、1864ねん元治もとはる元年がんねん)に暗殺あんさつされた公家くげ中山なかやま忠光ただみつ祭神さいじんとしてまつられている。また、境内けいだいには忠光ただみつ墳墓ふんぼくに史跡しせき)がある。このほか、明治天皇めいじてんのうおよびてんあきらすめらぎ大神だいじん祭神さいじんとしてまつられている。

主祭しゅさいしんである忠光ただみつ国家こっかおもいて活動かつどうしていたことから、国家こっか安穏あんのんひいては家内かない安全あんぜん厄除やくよけなどの崇敬すうけいけている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

1865ねん慶応けいおう元年がんねん)、忠光ただみつ鎮魂ちんこんのため豊浦とようらはん長州ちょうしゅうはんささえはん)が墳墓ふんぼのある場所ばしょ社殿しゃでん建立こんりゅうし「中山ちゅうざんしゃ」としょうしたことをもって創立そうりつとされている。

近代きんだい社格しゃかく制度せいどにおけるきゅう社格しゃかくけんしゃだが、1935ねんには別格べっかくかんぬさしゃ昇格しょうかくする機運きうんもあった。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

  • 1865ねん慶応けいおう元年がんねん)11月 - 豊浦とようらはんによって中山なかやましゃとして創立そうりつ
  • 1875ねん明治めいじ8ねん)7がつ - 祭祀さいしおよび修繕しゅうぜんなどが官費かんぴ支給しきゅうとなる。
  • 1886ねん明治めいじ19ねん)2がつ - しゃごうはいし、招魂しょうこんしゃとなる。
  • 1886ねん明治めいじ19ねん)5がつ - 社地しゃちを、墳墓ふんぼ東側ひがしがわ500mの位置いち分離ぶんり
  • 1923ねん大正たいしょう12ねん)5がつ - 社地しゃちを、墳墓ふんぼ隣接りんせつする位置いち現在地げんざいち)にうつす。
  • 1928ねん昭和しょうわ3ねん)5がつ17にち - 遷座せんざさい実施じっしよく18にちしゃごう中山なかやま神社じんじゃとし、けんしゃれっせられる。
  • 1995ねん平成へいせい7ねん) - 明治天皇めいじてんのうおよびてんあきらすめらぎ大神おおがみあらたに祭神さいじんとしてまつられる。

建造けんぞうぶつなど[編集へんしゅう]

  • 社殿しゃでん - 1928ねん昭和しょうわ3ねん)5がつ建立こんりゅうむら青年せいねんだん奉仕ほうしによって建立こんりゅうされた。
    • 本殿ほんでん - さんあいだしゃりゅうづくり。
    • ぬさ殿どの - 切妻きりづまづく
    • 拝殿はいでん - 入母屋いりもやづく
    • 饌所 - 切妻きりづまづくり。
    • 回廊かいろう - 1987ねん昭和しょうわ62ねん)10がつ建立こんりゅう切妻きりづまづくり。
    • 神門ごうど - 1990ねん平成へいせい2ねん建立こんりゅう切妻きりづまづくり。
  • 宝物殿ほうもつでん - 1996ねん平成へいせい8ねん建設けんせつ
  • 墳墓ふんぼ - 中山なかやま忠光ただみつはか。はじめは暗殺あんさつである現在げんざい下関しものせき豊北とよきたまち田耕たすき埋葬まいそうされたが、幕府ばくふ広島ひろしま検死けんしおこなうためにかえして経由けいゆ下関しものせきまで輸送ゆそうちゅうよるけたため、人目ひとめくことから当地とうち埋葬まいそうされた。墓碑銘ぼひめい藤原ふじわら忠光ただみつしるされている。中山ちゅうざん藤原ふじわら
  • 中山なかやま忠光ただみつ朝臣あそんいのち辞世じせい - 1934ねん昭和しょうわ9ねん)10がつ建立こんりゅう
  • 境内けいだい摂社せっしゃ - あいしんさとししゃ後述こうじゅつ)。
  • 武道館ぶどうかん社務しゃむしょなど。

祭事さいじ[編集へんしゅう]

  • れい大祭たいさい - 5月のだい2土曜日どようびよく日曜日にちようび実施じっし忠光ただみつ誕生たんじょう旧暦きゅうれき4がつ13にち新暦しんれき5月18にち)にちなむ。剣道けんどう相撲すもう大会たいかいなどが開催かいさいされる。
  • あみ曳祭 - 8がつだい1土曜日どようび実施じっし御輿みこし地区ちく一巡いちじゅんするほか、地曳網じびきあみ神事しんじおこなわれる。
  • 夏越なごしさい - もう曳祭の翌日よくじつ実施じっしつみけがれきよめる。
  • ぐりさい命日めいにち墓前ぼぜんさい - 11月8にち忠光ただみつ命日めいにち)に実施じっしぐりそなえて祭事さいじおこなう(この忠光ただみつぐりくえしたという由来ゆらいによる)。

あいしんさとししゃ[編集へんしゅう]

あいしんさとししゃ

1988ねん昭和しょうわ63ねん造営ぞうえい祭神さいじんあいしんさとし溥傑(あいしんかくらふけつ、清朝せいちょう最後さいご皇帝こうていだったあいしんさとし溥儀ふぎおとうと)と、つま嵯峨さがひろし(さがひろ、中山なかやま忠光ただみつ曾孫そうそん)および2人ふたり長女ちょうじょあいしんさとしとしせい( - えいせい)。ひろし遺言ゆいごんにしたがって当地とうちまつられている。

通常つうじょう社殿しゃでんひがしきまたはみなみきにてられるが、同社どうしゃ社殿しゃでん中国ちゅうごく大陸たいりくかって西向にしむきにてられている。また、中山なかやま神社じんじゃ宝物殿ほうもつでんには溥傑の次女じじょ嫮生(こせい)などから寄託きたくされたゆかりのしな展示てんじされている。

交通こうつう[編集へんしゅう]

鉄道てつどう

路線ろせんバス

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 長門ながとこく北浦きたうら総社そうじゃ 中山なかやま神社じんじゃ - 中山なかやま神社じんじゃ(パンフレット、2008ねん9がつ入手にゅうしゅ
  • 中山なかやま神社じんじゃ七不思議ななふしぎ - 中山なかやま神社じんじゃ(パンフレット、2008ねん9がつ入手にゅうしゅ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]