かわいたはな

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
かわいたはな
作者さくしゃ 石原いしはら慎太郎しんたろう
くに 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
ジャンル 短編たんぺん小説しょうせつ
発表はっぴょう形態けいたい 雑誌ざっし掲載けいさい
初出しょしゅつ情報じょうほう
初出しょしゅつ新潮しんちょう1958ねん6がつごう
初出しょしゅつ題名だいめいかわいたはな
刊本かんぽん情報じょうほう
刊行かんこうかわいたはな
出版しゅっぱんもと 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしんしゃ
出版しゅっぱん年月日ねんがっぴ 1959ねん11月
ウィキポータル 文学ぶんがく ポータル 書物しょもつ
テンプレートを表示ひょうじ

かわいたはな』(かわいたはな)は、石原いしはら慎太郎しんたろう短編たんぺん小説しょうせつであり、ほんさく原作げんさくとして1964ねん昭和しょうわ39ねん3月1にち公開こうかいされた篠田しのだ正浩まさひろ監督かんとく池部いけべりょう主演しゅえんによる日本にっぽん映画えいがである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

初出しょしゅつは『新潮しんちょう1958ねん6がつごうで、題名だいめいは『かわいたはな』だった。石原いしはらはこの作品さくひんについて、「「かわいたはな」は、わたしトリスタンとイゾルデ物語ものがたりである。かかる不毛ふもうあいこそ、あいけるもっと現代げんだいてき典型てんけいわたしおもう。それをってみずからのあいる、かかる主人公しゅじんこうたちのいたましいさかしさを、我々われわれはたして人間にんげん真実しんじつ知恵ちえとはいえるであろうか」と解説かいせつしている[1]。また、「「かわいたはな」の主人公しゅじんこうわたしもっとあいするタイプの人間像にんげんぞうである。現代げんだいける精神せいしん頽廃たいはい荒廃こうはいときとしてかかるロマネスクな人間にんげんつくる」ともべている[2]

あらすじ[編集へんしゅう]

ヤクザの村木むらきさんねん刑期けいきえて世間せけんへともどってきた。しかしかれっていたのは退屈たいくつらしだった。くみ事務所じむしょも、むかしおんなも、とくになにわらないが、そのことがむしろ面白おもしろくなかった。しかもこうそうなかよごしたにもかかわらず、あらそいはすでに手打てうちとなっており、いまは手柄てがらにすらかぞえられていない。

村木むらき空虚くうきょおもいをいたまま賭場とばかおし、そこで見慣みなれないわかおんな冴子さえこ姿すがたつける。にそぐわない雰囲気ふんいきうつくしいおんなだがきもわっていてつづけ、をさらっていく。しかしくみのものにくと、彼女かのじょ素性すじょうだれ伝手つてなのかもからないという。

関心かんしんをいだいた村木むらき冴子さえここえをかけ、危険きけん賭博とばくかれている彼女かのじょしんなかにも、らすことの出来できない退屈たいくつと、破滅はめつ願望がんぼう巣食すくっていることをる。なりもよく、高級こうきゅうなスポーツカーをまわし、ゆたかならしをおもわす人々ひとびとかこまれている冴子さえこだったが、けっしてたされているようにはえず、しんなか自分じぶんつうじるものがあるのではないかと村木むらきかんじていた。

よりおおきなけがしたいとのぞ冴子さえこれ、よそのくみ仕切しき賭場とば勝負しょうぶいど二人ふたりだったが、そこで危険きけんにおいをただよわす(よう)というおとこ出会であう。けば香港ほんこんがえりのはぐれしゃで、ころしや麻薬まやくなどのあぶないうわさ事欠ことかかないおとこであるという。しかしあろうことか冴子さえこはそのおとこへとちかづいていき、麻薬まやくにもし、村木むらきのもとからはなれていく。冴子さえこたいする屈折くっせつしたあいつよめていく村木むらきだったが、そんなときぐみ同士どうしこうそうあらたに勃発ぼっぱつし、これにみずか決意けついかためたかれは、さがした冴子さえこれて、その目前もくぜん殺人さつじん遂行すいこうしてみせる。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

江藤えとうあつしはこの作品さくひんについて、「一見いっけん風俗ふうぞく小説しょうせつてきであるが、作者さくしゃ少々しょうしょう稚気ちきめいたペダントリイの合間あいまに、そらはし電光でんこうのように時々ときどき異様いよう緊張きんちょうがうかびあがってるのをのがしてはならない」と解説かいせつしている[3]

佐古さこ純一郎じゅんいちろうは、「登場とうじょうする太陽たいようぶし若者わかものたちは、「しめつけるようなのどかわき」をおぼえているのだ。それはもはやたんなる喪失そうしつ感覚かんかくんでかたずけられる問題もんだいではなくて、たましいかわ問題もんだいなのである」とひょうしている[4]

映画えいが[編集へんしゅう]

かわいたはな
Pale Flower
監督かんとく 篠田しのだ正浩まさひろ
脚本きゃくほん 馬場ばばとう篠田しのだ正浩まさひろ
原作げんさく 石原いしはら慎太郎しんたろう
出演しゅつえんしゃ 池部いけべりょう
加賀かがまりこ
音楽おんがく 武満たけみつとおる
撮影さつえい 小杉こすぎ正雄まさお
編集へんしゅう 杉原すぎはら
製作せいさく会社かいしゃ 文芸ぶんげいプロダクションにんじんくらぶ
配給はいきゅう 松竹しょうちく
公開こうかい 1964ねん3月1にち
上映じょうえい時間じかん 96ふん
製作せいさくこく 日本の旗 日本にっぽん
言語げんご 日本語にほんご
テンプレートを表示ひょうじ

1964ねん昭和しょうわ39ねん3月1にち公開こうかいされた[5]白黒しろくろワイド、96ふん製作せいさく文芸ぶんげいプロダクションにんじんくらぶ[6]配給はいきゅう松竹しょうちく

制作せいさく[編集へんしゅう]

映画えいがあたって、原作げんさくしゃ石原いしはら監督かんとく篠田しのだに、「自信じしんのあるきな作品さくひんだ」「下手へたなものつくって、オレのきなおんな凌辱りょうじょくするような真似まねはしないでほしい」とねんしていたが、完成かんせい試写ししゃさいには、自身じしん小説しょうせつ映画えいがなかで「最高さいこうだ」とべ、以降いこう意気投合いきとうごうした。しかしほん作品さくひん完成かんせい一時いちじぞうとなり、8ヶ月かげつになってようやく公開こうかいされるはこびとなった[7]

プロデューサーをつとめた文芸ぶんげいプロダクションにんじんくらぶ代表だいひょう取締役とりしまりやく若槻わかつきしげる試写ししゃてからモントリオール映画えいがさいのため出国しゅっこくしたが、8がつ帰国きこくしたところ、空港くうこう出迎でむかえた社員しゃいんに「オクラですよ」とわれ、おどろいて製作せいさく本部ほんぶちょう白井しらいくと、「あの映画えいが作品さくひんとしてはいいが、大船おおふなカラーじゃない」「きゃくがおどろく」と説明せつめいされ、「そんなことははじめからわかっていたじゃないか」とおもったという。また白井しらいからは、「併映へいえいする適当てきとう作品さくひんがない、ということも理由りゆうひとつ」とわれた[8]

小倉おぐら真美まみ取材しゅざい篠田しのだ監督かんとくは、「いちしょにかける映画えいががないというのが会社かいしゃがわ理由りゆうです」とわらいながらこたえたという[7]

1989ねんだいアンケートによる日本にっぽん映画えいがベスト150」(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう発表はっぴょう)ではだい85にランキングされている。

2011ねん平成へいせい23ねん)5がつ17にちえいだい"Pale Flower"としてDVDとブルーレイがクライテリオン・コレクションから全米ぜんべい発売はつばいされた。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

市川いちかわおきは、「原作げんさくのもつ、簡潔かんけつだが、強烈きょうれつはん社会しゃかいてき主張しゅちょうを、篠田しのだ監督かんとくは、そのフォトジェニックな画面がめん映像えいぞうしてせた。今年ことし日本にっぽん映画えいがた、収穫しゅうかくひとつといえよう」とひょうしている[9]

関根せきねひろしは、「わたしには、ホーム・ドラマ一種いっしゅうつった。松竹しょうちく重役じゅうやくが、家風かふうわないというので、オクラにしたといういわくつきの作品さくひんだが、こんなにおやあまったれている映画えいが危険きけんするとは、重役じゅうやくがない」とひょうした[10]

スタッフ[編集へんしゅう]

キャスト[編集へんしゅう]

ひだりから池部いけべりょう加賀かがまりこ藤木ふじきたかし

エピソード[編集へんしゅう]

  • 音楽おんがくは、武満たけみつとおる担当たんとうしているが、タイトルバックにながれるテーマきょくのぞき、げきちゅうにはほとんど音楽おんがく使用しようされていない。武満たけみつは、賭場とばひび花札はなふださつおとにインスパイアされ、テーマきょくつくったという。[12]また、テーマきょく使つかわれている電子でんしおんわか高橋たかはしゆう担当たんとうしたという。[11]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 石原いしはら慎太郎しんたろう石原いしはら慎太郎しんたろう文庫ぶんこ2』(1965ねん河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ
  2. ^ 石原いしはら慎太郎しんたろう殺人さつじん教室きょうしつ』〈角川かどかわ文庫ぶんこ〉(1962ねん角川書店かどかわしょてん
  3. ^ 江藤えとうあつし解説かいせつ」(『完全かんぜん遊戯ゆうぎ』〈新潮しんちょう文庫ぶんこ〉1960ねん新潮社しんちょうしゃ
  4. ^ 佐古さこ純一郎じゅんいちろう「『かわいたはな』について」(『戦後せんご文学ぶんがくろん』1963ねん昌美まさみ出版しゅっぱんしゃ) - 太字ふとじ部分ぶぶん原文げんぶん傍点ぼうてん箇所かしょ、「かたずけ」はママ。
  5. ^ かわいたはな日本にっぽん映画えいが情報じょうほうシステム 2021ねん5がつ21にち閲覧えつらん
  6. ^ 若槻わかつきしげる『スターと日本にっぽん映画えいがかい』(さんいち書房しょぼう、1968ねん)179ぺーじ、および本編ほんぺんのクレジットによる。日本にっぽん映画えいがデータベースなどでは、松竹しょうちく製作せいさく記載きさいがあるがあやまり。
  7. ^ a b 小倉おぐら真美まみ日本にっぽん映画えいがわかみとるな 松竹しょうちく映画えいがかわいたはな」をめぐって オクラになったのが不思議ふしぎ」(『キネマ旬報きねまじゅんぽう』1964ねん3がつごう
  8. ^ 映画えいがかわいたはな」がるまで――城戸きど社長しゃちょうさい登場とうじょう松竹しょうちくしん路線ろせん」(『週刊しゅうかん現代げんだい』1964ねん3がつごう
  9. ^ 市川いちかわおき日本にっぽん映画えいが批評ひひょう かわいたはな」(『キネマ旬報きねまじゅんぽう』1964ねん4がつごう
  10. ^ 関根せきねひろし特集とくしゅう・「すなおんな批判ひはん ホームドラマだい批判ひはん――勅使河原てしがわらすなおんな」・篠田しのだ正浩まさひろかわいたはな」・ズルリーニ「家族かぞく日誌にっし」 」(『映画えいが芸術げいじゅつ』1964ねん4がつごう
  11. ^ a b c 村川むらかわ すぐる 『日本にっぽん映画えいが音楽おんがくかたる 早坂はやさか文雄ふみおから武満たけみつとおるまで ―篠田しのだ正浩まさひろ講演こうえんかい記録きろく―』 城西国際大学じょうさいこくさいだいがく メディア学部がくぶ紀要きようだい17かんだい5ごう(9ページ)
  12. ^ 村川むらかわ すぐる 『日本にっぽん映画えいが音楽おんがくかたる 早坂はやさか文雄ふみおから武満たけみつとおるまで ―篠田しのだ正浩まさひろ講演こうえんかい記録きろく―』 城西国際大学じょうさいこくさいだいがく メディア学部がくぶ紀要きようだい17かんだい5ごう(8ページ)

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]