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つつみ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
つつみこう肅公
つつみ拯像
つつみ拯のはか入口いりくちごうこえ
つつみ拯のはか
つつみ拯のほこら彫像ちょうぞう
つつみ拯にふんした京劇きょうげき役者やくしゃ

つつみ(ほう じょう、咸平2ねん2がつ15にち999ねん3月5にち)- よしみゆう7ねん5月24にち1062ねん7がつ3にち))は、中国ちゅうごくきたそう政治せいじまれひとしおくりなこう粛。いおりしゅうごうこえけん出身しゅっしんつつみこうつつみまちせいつつみ青天せいてんともばれ、中華ちゅうかけんでは子供こどもから老人ろうじんまで、あらゆる世代せだいられた人物じんぶつである。

生涯しょうがい

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人物じんぶつ

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つつみ拯の生涯しょうがいは、きたそう歴史れきしの3ぶんの1以上いじょうめるきたそう真宗しんしゅうじんむねの2だい67ねん治世ちせいかさなる。在位ざいい期間きかんは、真宗しんしゅうが26ねん(997ねん - 1022ねん)、ひとしむねが42ねん(1022ねん - 1063ねん)である。

真宗しんしゅう在位ざいいわかころで、故郷こきょうごうこえ学問がくもんはげんでいた。つつみ拯が活動かつどうした時期じき大半たいはんじんむね治世ちせいである。じんむねいぬいきょう元年がんねん(1022ねん)に13さい即位そくいしたが、りゅうふとしきさき政治せいじ実権じっけんにぎっていた。明道みょうどう2ねん(1033ねん)にりゅうふとしきさき逝去せいきょしたのちひとしむね親政しんせいおこない、よしみゆう8ねん(1063ねん)に崩御ほうぎょする。

つつみ拯はじんむねてんきよし5ねん(1027ねん)に、29さい科挙かきょ試験しけん進士しんし合格ごうかくたてあきらけん県知事けんちじ)に任命にんめいされる。しかし、両親りょうしん高齢こうれいであるために故郷こきょうはなれようとせず、かん辞職じしょくする。両親りょうしん世話せわをし、その死後しごふくしたことなどで、その孝行こうこうぶりは故郷こきょうれわたった。けいゆう3ねん(1036ねん)、つつみ拯は38さいときふたた仕官しかんし、てんちょうけんとなった。その順調じゅんちょう昇進しょうしんし、よしみゆう6ねん(1061ねん)にきゅうごとちゅうれいろうちゅうさんつかさ使枢密すうみつ副使ふくしにまでのぼめた。よしみゆう7ねん(1062ねん)に病没びょうぼつれい尚書しょうしょ追贈ついぞうされている。

つつみ拯のおも事跡じせき

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つつみ拯はじんむね時代じだいつかえ、科挙かきょ試験しけん進士しんし及第きゅうだいし、だいひょうごとたてあきらけん枢密すうみつ副使ふくしにまでのぼめた。そのあいだやく26ねんすうおおくのしょくている。

つつみ拯については、そうだいかれた「ひとしそう実録じつろくつつみ拯附でん」ともとだいかれた『そうふみつつみ拯伝[1]の2つの歴史れきししょがあるが、両者りょうしゃとも記載きさい比較的ひかくてき簡単かんたんなものである。このうち正史せいしである『そうつつみ拯伝によれば、つつみ拯がみぎ司郎しろうちゅうとして開封かいふういん代理だいりつとめていたころきわめて厳格げんかくで、権力けんりょくがあった宮中きゅうちゅう貴族きぞく宦官かんがんですらおそれずに賄賂わいろ摘発てきはつしたので、非常ひじょうおそれられたという。民衆みんしゅうからは「つつみ拯がわらとき黄河こうがときだ(めったにない)」とか、「関節かんせつ賄賂わいろいたらず、閻魔えんまつつみ公有こうゆうり」(閻魔えんまつつみさんがいるかぎ賄賂わいろ通用つうようしない)など、子供こどもでもつつめ拯のことをっており、大変たいへん人気にんきがあったという。また、政府せいふ高官こうかんになっても庶民しょみん時代じだいおな生活せいかつをしており、れをつくらず、賄賂わいろだんじてらなかったという。これらのはなし歴史れきしてき事実じじつとしてみとめられている。

1973ねんごうこえつつみ拯とその親族しんぞくの6墳墓ふんぼ出土しゅつどした。その墓誌ぼしめいによってある程度ていどそうとう記述きじゅつおぎなうことが期待きたいされたが、不完全ふかんぜん明確めいかく部分ぶぶんもあった[2]

つつみこう故事こじきよしかん文化ぶんか

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生前せいぜんから庶民しょみん人気にんきがあったつつみ拯であるが、没後ぼつごその名声めいせいはさらにたかまり、とくみなみそうもと以来いらいつつみこう故事こじ伝説でんせつ)はひろかたつたえられた。結果けっか庶民しょみん崇拝すうはいされる特異とくい人物じんぶつぞうつくげられ、後世こうせい人々ひとびとつたえられてった。つつみ拯はしんかん清廉せいれん潔白けっぱく官吏かんり)の典型てんけいとされ社会しゃかいしんかん文化ぶんかをもたらしたが、その故事こじちゅうには正史せいしそうとうにない逸話いつわおお歴史れきしてき事実じじつかどうかというてん疑問ぎもんされている。

そう以外いがいられるそうだい記事きじ下記かきられている[3]

  • 沈括(しん かつ、1030ねん - 1094ねんせんゆめけい筆談ひつだんまきじゅう 謬誤 譎詐つつみこう粛尹きょう」のじょう[4]。このはなしは『棠陰ごと』91の出典しゅってん
  • じょたび[5]『卻掃へん[6]まきちゅうつつみこう粛公いんきょう也」のじょう[7]
  • 彭乗[8]墨客ぼっかく揮犀』[9]まきいち 冒頭ぼうとう[10]
  • 司馬しばひかり『涑水記聞きぶんまきじゅうよしみゆうななねんがつからしひつじ」のじょう[11]つつみ薨去こうきょ記事きじと『そう』にある評判ひょうばん
  • かつらまんさかえ[12] せん棠陰ごと』(刊行かんこう1211ねん?、もとはんけい)の46「つつみうしわり」、91「こう粛杖吏」はつつみ拯の逸話いつわであるが、前者ぜんしゃおおくの故事こじ伝説でんせつなか唯一ゆいいつそうつつみ拯伝の最初さいしょにある逸話いつわであり、この事案じあん事実じじつとされている。後者こうしゃは沈括『ゆめけい筆談ひつだん』からの収録しゅうろく

ひろつたわった「つつみこう故事こじ

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いかなる社会しゃかいにおいてもおおくの場合ばあい活躍かつやくした人物じんぶつ著名ちょめいであっても、死後しごにはその存在そんざい人々ひとびと記憶きおくからうすれてゆくのが自然しぜんである。ごく一部いちぶ人物じんぶつのみ、後世こうせい人々ひとびと関心かんしんけ、さらに名前なまえひろれわたることがある。つつみ拯の場合ばあい在世ざいせい当時とうじでも庶民しょみんから人気にんき信任しんにん)をていたが、最後さいご官位かんい枢密すうみつ副使ふくしどまりであった。没後ぼつごしばらくして、中国ちゅうごく歴史れきしじょうもっと有名ゆうめい清廉せいれん潔白けっぱく官吏かんりとしてられるようになりおおくの伝説でんせつ出来上できあがった。

没後ぼつご190ねんほどみなみそう末期まっききむもとこうといせんぞくえびすけんこころざしまきいち 4 「つつみおんなとくよめ」のじょう[13]では、つつみ拯が生前せいぜん正直しょうじきであったので没後ぼつご冥界めいかい役所やくしょつかさどっているというはなしになっている。

そして、そうはじめだいには講談こうだん種本たねほんである「はなしほん」、古典こてん地方ちほうげきの「おどけぶん」や「雑劇ざつげき」「(こしし)」、あきらしんだいにはかたもの一種いっしゅである「ばなし」や「白話はくわ小説しょうせつ」「公案こうあん小説しょうせつ中国語ちゅうごくごばんなどにより、特色とくしょくある文化ぶんか現象げんしょうとして形成けいせいされる。

もっとはやつつみこう故事こじ文学ぶんがく領域りょういきまでませたのが、そうだいひろ民衆みんしゅう人気にんきのあった「せつ唱」とばれる、かたりとうたをあわせた芸能げいのうから発展はってんした「説話せつわ」であった。そうだいには、都市とし経済けいざい文化ぶんか繁栄はんえいしており、きたそう開封かいふうみなみそう臨安のような大都市だいとしでは、役人やくにんから商人しょうにん職人しょくにんなど幅広はばひろ階層かいそう人々ひとびとあつまり、雑劇ざつげき舞踏ぶとうはなしほん発達はったつをみた。そのなかでも「はなしほん」は、おもに「小説しょうせつ」と、歴史れきし物語ものがたりである「こう」にかれ、小説しょうせつこうより内容ないようみじか題材だいざいはばひろい。小説しょうせつには妖怪ようかい伝説でんせつ神仙しんせん妖術ようじゅつ公案こうあん事件じけん裁判さいばんもの)などがあり[14]そうだい撰述せんじゅつされた「公案こうあん小説しょうせつ」は10へんほどがつたわっている[15]

つつみこう公案こうあん小説しょうせつは「合同ごうどう文字もじ[16]」と「三現身包龍図断冤[17][18]」の2へんがあるが、いずれもそうだい刊本かんぽん残存ざんそんせず明代あきよ編纂へんさんされたろくじゅういえ小説しょうせつさんことはくなどに採録さいろくされたものである。

もとだい小説しょうせつなどよりも演劇えんげきもときょく)がさかんになり、えんじられた演目えんもくなか公案こうあん題材だいざいにした作品さくひん公案こうあんげきが18種類しゅるい残存ざんそんしており、そのうち以下いかの11種類しゅるいつつみこう関連かんれんである。

  • せきかんきょうつつみまちせいさんかん蝴蝶こちょうゆめ
  • せきかんきょうつつみまちせいさとし魯斎ろう
  • ていのべだまつつみまちせいさとしかんにわはな
  • 武漢ぶかんしんつつみまちせいさとし賺生きんかく
  • 行道ぎょうどうつつみまちせいさとしかんはいたけなわ
  • 作者さくしゃ不明ふめいつつみまちせいひねしゅうせりまい
  • 作者さくしゃ不明ふめいつつみりゅうさとし賺合どう文字もじ
  • 作者さくしゃ不明ふめいかみやつだい開封かいふう
  • 作者さくしゃ不明ふめい「玎玎璫璫ぼんおに
  • 瑞卿ずいきょうおうがつえいもとよるとめ鞋記」
  • 作者さくしゃ不明ふめいちょうせんがえころせつま

このように、もとだいかれた公案こうあんげきの6わりほどをつつみこうものがめている理由りゆうとしては、当時とうじから各地かくちひろつたえられ民衆みんしゅうあたえた影響えいきょうおおきかったため、と推測すいそくされている。これらのげきでは、つつみこう公平こうへいほう仕切しきるだけでなく、どのような悪人あくにんにもかい、そのうえ計略けいりゃくにも機知きちんでいる人物じんぶつとしてえがかれている。11種類しゅるい公案こうあんげきなか処刑しょけいされた人物じんぶつは11にんであり、皇族こうぞく1めい官僚かんりょう3めい、その盗賊とうぞく商人しょうにんなどがいる。処刑しょけいされた罪人ざいにん以外いがいでは、流刑りゅうけい財産ざいさん没収ぼっしゅう免職めんしょくとなった人物じんぶつが10にん以上いじょうかぞえる。このように幅広はばひろ階層かいそうにわたって処罰しょばつされているのは、当時とうじ時代じだい背景はいけいかかわっているとかんがえられる。当時とうじ民族みんぞくモンゴル王朝おうちょうであり、社会しゃかい矛盾むじゅんたいして民衆みんしゅうはげしく反応はんのうする時代じだいであった。それにたいする民衆みんしゅう期待きたいする役人やくにんぞうとして、つつみこう反映はんえいされたとかんがえられる。

明代あきよになると、公案こうあん小説しょうせつ流行りゅうこうおおくの公案こうあん小説しょうせつしゅう編纂へんさんされたが、まんれき年間ねんかん(1573ねん - 1620ねん以降いこう作品さくひんから採録さいろく編纂へんさんされたものが『りゅう公案こうあん』(通称つうしょうつつみ公案こうあん』)とされる。成立せいりつねんかんしては天啓てんけいたかしただし年間ねんかん(1621ねん - 1644ねん)に雕版されたものが最早もはや推定すいていされており、正確せいかく成立せいりつねんしょう。『りゅう公案こうあん』に採録さいろくされた公案こうあん小説しょうせつは、『ひゃくいえ公案こうあん[19]から48のり(51かい)、『しょうけい公案こうあん[20]から12のり、『りつじょう公案こうあん[21]から13のり[22]、『れんあきら公案こうあん中国語ちゅうごくごばん[23]から22のりめいあいだ断獄だんごくたん12のり、その出所しゅっしょ不明ふめい3のりけい100のりで、これらの作品さくひん文章ぶんしょうを刪削、裁判官さいばんかんつつめ拯に変更へんこう、あるいはつつみ拯を追加ついか登場とうじょうさせて『りゅう公案こうあん』としたものである[24]。このため文章ぶんしょう評価ひょうかひく[25]

きよしだいになると長編ちょうへんあきらかい小説しょうせつ中国語ちゅうごくごばん隆盛りゅうせいをきわめる。つつみ拯をあつかった小説しょうせつとしてはみちこう年間ねんかん(1821ねん - 1850ねん)の講釈こうしゃくいしだまこん中国語ちゅうごくごばんいた侠義小説しょうせつさん』が、もっと有名ゆうめいなものである。

伝説でんせつひろまるにつれ、つつみこう道教どうきょう信仰しんこうにおいて閻魔えんま同一どういつだとかんがえられるようになり、あちこちにつつみこうまつびょうてられるようになった。

みず滸伝との関連かんれん

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きたそう時代じだいりょうかねなど北方ほっぽう民族みんぞくおびやかされた時代じだいみなみそうへと亡命ぼうめい政権せいけんが遷った激動げきどう時代じだいであった。そこで王族おうぞく宮廷きゅうてい腐敗ふはい悪役あくやくもととなり、それらにきびしく抗議こうぎした義侠ぎきょうしんあふれる個性こせいてきものたちは非常ひじょう人気にんきがあった。 それらの集大成しゅうたいせいみず滸伝であり、このつつみ拯であったといえよう。ここで注意ちゅういすべきは民族みんぞく悪役あくやくたりえなかったことである。民衆みんしゅうはあくまで内政ないせいなかでの腐敗ふはい悪役あくやく見出みいだしていたことである。

テレビドラマ『つつみ青天せいてん

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つつみ拯といえば、中華ちゅうかけんでは子供こどもから年寄としよりまでだれでも人物じんぶつであり、絶大ぜつだい人気にんきほこっており、徳川とくがわ光圀みつくにを「黄門こうもんさま」と日本にっぽんぶように、尊敬そんけいをこめてつつみこうつつみさん)とばれる。その人気にんきぶりはしょかずらあきらせきはねけをとらないものである。

その人気にんきは1993ねん台湾たいわんのTVドラマ『つつみ青天せいてん中国語ちゅうごくごばん』による部分ぶぶんおおきい。これは、めい判官ほうがんつつみ拯が公正こうせい無私むしなさ容赦ようしゃなく悪人あくにんさばき、民衆みんしゅうたすけるというお約束やくそく展開てんかいをもつ、勧善懲悪かんぜんちょうあくぶつ時代じだいげきである。日本にっぽんえば水戸黄門みとこうもん大岡おおおか越前えちぜん遠山とおやまきむさんなどに相当そうとうする存在そんざいである。「大岡おおおか政談せいだん」の「しばられ地蔵じぞう」はつつみ故事こじもとであるとされる。また、つつみ拯はくろかおがく三日月みかづききずがあるという特徴とくちょうてき容姿ようしそなえ、これはつみたいして秋霜烈日しゅうそうれつじつであることを象徴しょうちょうする。テーマきょくやすによる「しん鴛鴦えんおう蝴蝶こちょうゆめ」もだいヒットした。

これは京劇きょうげき影響えいきょうがあるともわれ、一度いちどればわすれられない姿すがたといえる。ドラマのなかでのつつみ拯は権力けんりょくくっすることなく、罪人ざいにん皇族こうぞく大臣だいじんといえどもさばきをくだす。さらに私情しじょうはさむこともなく、自分じぶんおいであってもさばき、正義せいぎつらぬいている。このドラマの原作げんさくといっても差支さしつか存在そんざいが、きよしだいかれたたけ小説しょうせつさん』である。TVドラマ『つつみ青天せいてん』は、この『さん』をもとにして登場とうじょう人物じんぶつ設定せっていされている。

また、このドラマをもとにした公認こうにんファミリーコンピュータようゲーム『つつみ青天せいてん(Judge Bao)』『しんつつみ青天せいてんⅡ(Impartial Judge)』もられていた(おもに、台湾たいわん中国ちゅうごく、タイなどで出回でまわっていた。許可きょかをとっているかは不明ふめい)。韓国かんこくではこのドラマをもとにしたプラモデルやCMもあった。

登場とうじょう人物じんぶつ

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レギュラーじん

  • つつみ拯 - 開封かいふう一応いちおう主人公しゅじんこう
  • てんあきら - くま武芸ぶげいひいおもんじる性格せいかくから「みなみ侠」ともばれる。皇帝こうていから「ねこ」の称号しょうごうたまわり、御前ごぜんよんひん帯刀たいとう護衛ごえいにんじられる。つつみ拯の部下ぶか。ドラマでは武芸者ぶげいしゃとして出番でばんおおい。
  • 公孫こうそんさく - つつみ拯の参謀さんぼうやく。もとは科挙かきょ落第生らくだいせいであるが天才てんさいてき頭脳ずのう事件じけん推理すいりする。つつみ拯の部下ぶかであるがつつみ拯やまわりから公孫こうそん先生せんせいばれている。
  • 王朝おうちょううまかんちょうりゅうちょうとら - もと山賊さんぞくの4人組にんぐみつつみ拯の部下ぶかであり、つつみ拯の護衛ごえい事件じけん捜査そうさをする。けい執行しっこう担当たんとうしている。

じゅんレギュラー

  • じんむね - きたそうだいよんだい皇帝こうていちょうただし。「たぬきねこかわ太子たいし」の主人公しゅじんこうえる存在そんざい
  • 龐吉 - 悪役あくやくむすめじんむねであり、きたそうたい馬鹿ばか息子むすこつつめ拯に処刑しょけいされっている。
  • じょうおう - 悪役あくやくすめらぎ叔であり、皇帝こうてい虎視眈々こしたんたんねらっている。
  • はく玉堂きょくどう - にしきねずみばれねずみおとうと文武両道ぶんぶりょうどうおもんじるが陰険いんけん残忍ざんにんてんあきら好敵手こうてきしゅ陰険いんけん残忍ざんにんだが正義せいぎ味方みかた。『さん』では非業ひごうげている。

1974ねん台湾たいわん中華ちゅうかでんだいによる『つつみ青天せいてん中国語ちゅうごくごばん』が最初さいしょのテレビドラマであり、350まで放送ほうそうされた。その1993ねんふたたびドラマきむちょうぐんつつみ拯をえんじ、これが中華ちゅうかけんだいヒットする。236製作せいさくされ、東南とうなんアジアでもだいヒットする。その香港ほんこんテレビ局てれびきょく綫電しゅうでんでも類似るいじ作品さくひん続々ぞくぞく製作せいさくされ、つつみ拯をあつかった作品さくひん中華ちゅうかけん定番ていばん時代じだいげきとなる。

関連かんれん書籍しょせき

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脚注きゃくちゅう出典しゅってん

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  1. ^ そうまきさんひゃくじゅうろく 列傳れつでんだいななじゅう ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:そうふみ/まき316
  2. ^ ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:そう樞密すうみつ副使ふくしおくれい尚書しょうしょこう肅包こうはかめい
  3. ^ さんてっ(ねがやまとおる、1964ねん下関しものせきまれる。山口大学やまぐちだいがく人文学部じんぶんがくぶちょう)《『りゅう公案こうあん編纂へんさん意圖いと中国ちゅうごく文学ぶんがく論集ろんしゅう 九州大学きゅうしゅうだいがく中国ちゅうごく文学ぶんがくかい出版しゅっぱん (14), p110-141, 1985-12 pdf 。p.130。
  4. ^ ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:ゆめけい筆談ひつだん/まき22
  5. ^ じょ、じょ たく、なま没年ぼつねんしょうあつしりつ
  6. ^ きゃくそうへん。
  7. ^ ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:卻掃へん/まきちゅう
  8. ^ 彭乗、ほう じょう、985ねん - 1049ねんけんえきしゅう華陽かようけんひと
  9. ^ ぼくかくきさい。
  10. ^ ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:墨客ぼっかく揮犀/まき01
  11. ^ ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:涑水記聞きぶん/まき10
  12. ^ かつらよろずさかえ、けい ばんえい、なま没年ぼつねんしょうゆめきょう(むきょう)、あきらしゅう慈渓けんひと。『そう』に伝記でんきなし。
  13. ^ 1251ねん以降いこう刊行かんこうとされる。(高津たかつたかし 2018, p. 29-30) に「つつみおんなとくよめ」がある。ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:ぞくえびすけんこころざし/卷一けんいち#つつみおんなとくよめ
  14. ^ 魯迅ろじんが『中国ちゅうごく小説しょうせつりゃく』で分類ぶんるいこころみている。ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:中國ちゅうごく小說しょうせつりゃく
  15. ^ その代表だいひょうさくに『錯斬ちぇやすし』(明代あきよ『醒世つねげんだい33かんじゅう五貫戲言成巧禍』として収録しゅうろくされている。冒頭ぼうとう原注げんちゅうそうほんさく錯斬ちぇやすし」(そうほん佚書いっしょ)。日本語にほんごやくとしては《そうもとあきら通俗つうぞく小説しょうせつせん》 1970ねん いれ義高よしたか やくじゅうかん冗談じょうだんからおもわぬわざわいいをまねいたこと』 平凡社へいぼんしゃ 中国ちゅうごく古典こてん文学ぶんがく大系たいけい だい25かん p.223-238、ISBN 978-4582312256 。)
    『簡帖和尚おしょう』(明代あきよの『きよし平山ひらやまどうばなしほん』にだい2として、また『古今ここん小説しょうせつ』にもだい35かん『簡帖そうたくみかたすめらぎはじめつま』として収録しゅうろくされている。日本語にほんごやくとしては《そうもとあきら通俗つうぞく小説しょうせつせん》 1970ねん いれ義高よしたか やくぶんよこせし和尚おしょうのこと』 中国ちゅうごく古典こてん文学ぶんがく大系たいけい だい25かん p.377-389 )などがあるが、これらはつつみこう公案こうあんではない。
  16. ^ きよし平山ひらやまどうばなしほん』にだい4として収録しゅうろくされている。日本語にほんごやくとしては《そうもとあきら通俗つうぞく小説しょうせつせん》 1970ねん いれ義高よしたか やく証文しょうもん物語ものがたり中国ちゅうごく古典こてん文学ぶんがく大系たいけい だい25かん p.402-406 。
  17. ^ おなじく明代あきよの『警世けいせい通言つうげん』にだい13かんとして収録しゅうろくされている。日本語にほんごやくはない。
  18. ^ 都賀つが庭鐘ていしょうえい草紙ぞうしだいはちへん白水しろうずおう売卜ばいぼく直言ちょくげんしめはなし』は比較的ひかくてき原作げんさく忠実ちゅうじつ翻案ほんあんとされる。佐藤さとう深雪みゆき、「都賀つが庭鐘ていしょう奇談きだん : 〔白水しろうずおう売卜ばいぼく直言ちょくげんしめはなし」 『日本にっぽん文学ぶんがく』 1980ねん 29かん 4ごう p.50-61, doi:10.20620/nihonbungaku.29.4_50
  19. ^ 銭塘ぜんども散人さんじんやすぐう 編纂へんさん。『ぞうぞうつつみりゅうばんひゃくいえ公案こうあんウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:ひゃくいえ公案こうあん
  20. ^ きょうみなみ蹄正やすし静子しずこなかただしちょくあわうす ていウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:しょうけい公案こうあん
  21. ^ きむりょうひねだましゅう せんこうウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:古今ここんりつじょう公案こうあん
  22. ^ うち10のりは『しょうけい公案こうあん』と重複じゅうふく
  23. ^ 山人さんじんおおせとめあまりぞう へんじゅつウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:れんあきらばん公案こうあん
  24. ^ 《『りゅう公案こうあん編纂へんさん意圖いと》p.110-116 。ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:つつみ公案こうあん
  25. ^ 魯迅ろじんは、『中国ちゅうごく小説しょうせつりゃくだいじゅうななへん 清之きよゆき俠義小説しょうせつ及公あん で『りゅう公案こうあん』について「文意ぶんいはなはつたなく、けだし僅に文字もじを識るものところ」と酷評こくひょうしている。ウィキソースのロゴ 中国語ちゅうごくごばんウィキソースほん記事きじ関連かんれんした原文げんぶんがあります:中國ちゅうごく小說しょうせつりゃく/だいじゅうななへん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 高津たかつたかしぞくえびすけんこころざしやく稿こういち」『鹿しかだい史学しがくだい64/65かん鹿児島大学かごしまだいがく、23-37ぺーじ、2018ねん3がつCRID 1050564288841850112hdl:10232/00030063ISSN 0451-1913https://hdl.handle.net/10232/00030063 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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