(Translated by https://www.hiragana.jp/)
吉志部神社 - Wikipedia コンテンツにスキップ

吉志きし神社じんじゃ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉志きし神社じんじゃ

焼失しょうしつまえ拝殿はいでん
所在地しょざいち 大阪おおさか吹田すいた岸部北きしべきた4丁目ちょうめ18-1
位置いち 北緯ほくい3447ふん1.7びょう 東経とうけい13531ふん51.8びょう / 北緯ほくい34.783806 東経とうけい135.531056 / 34.783806; 135.531056 (吉志きし神社じんじゃ)座標ざひょう: 北緯ほくい3447ふん1.7びょう 東経とうけい13531ふん51.8びょう / 北緯ほくい34.783806 東経とうけい135.531056 / 34.783806; 135.531056 (吉志きし神社じんじゃ)
主祭しゅさいしん てんあきらすめらぎ大神だいじんゆたか受大しん八幡はちまん大神おおがみ盞嗚大神だいじん稲荷いなり大神だいじん春日かすが大神おおがみ住吉すみよし大神おおがみ蛭子えびす大神おおがみ
社格しゃかくひとし きゅう村社そんしゃ
創建そうけん つてたかしかみ天皇てんのう御代みよ
本殿ほんでん様式ようしき ななあいだしゃ流造ながれづくり
おも神事しんじ どんじ
地図ちず
吉志部神社の位置(大阪府内)
吉志部神社
吉志きし神社じんじゃ
テンプレートを表示ひょうじ

吉志きし神社じんじゃ(きしべじんじゃ)は、大阪おおさか吹田すいた岸部北きしべきたにある神社じんじゃきゅう社格しゃかく村社そんしゃ千里せんり丘陵きゅうりょう南西なんせい位置いちするむらさき金山かなやま公園こうえんとして整備せいびされたむらさき金山かなやまエリアの一角いっかく鎮座ちんざする。

祭神さいじん

[編集へんしゅう]

主祭しゅさいしん - 中央ちゅうおうてんあきらすめらぎ大神だいじんゆたか受大しん [ちゅう 1]ひだり八幡はちまん大神おおがみ盞嗚大神だいじん稲荷いなり大神だいじんみぎ春日かすが大神おおがみ住吉すみよし大神おおがみ蛭子えびす大神おおがみ

しゃでん

[編集へんしゅう]
吉志きし神社じんじゃしゃでんによればたかしかみ天皇てんのう御代みよ大和やまと瑞籬みずがき [ちゅう 2]よりかみ奉遷ほうせんしてこのまつったのがそうまつといわれています。

中央ちゅうおう てんあきらすめらぎ太神おおが ゆたか受大しん

祭神さいじんひだり  八幡はちまんだい菩薩ぼさつ 祇園ぎおん牛頭ごず天王てんのう 稲荷いなり大明神だいみょうじん

  みぎ  春日かすが大明神だいみょうじん 住吉すみよし大明神だいみょうじん  恵比寿えびす三郎さぶろう

鎮座ちんざされています。

明治めいじ3ねん神仏しんぶつ分離ぶんりとき吉志きし神社じんじゃあらたまりましたが当初とうしょ太神おおがかん呼稱こしょうななしゃ明神みょうじんはちしゃ明神みょうじんともしょうされ世々せぜあつ崇敬すうけいされてきました。

神社じんじゃ創建そうけん以来いらいたびたび兵火へいかとく応仁おうにんらんでは社殿しゃでんがことごとく焼失しょうしつするなどしましたが、その都度つど再建さいけんされたといいます。いま本殿ほんでん慶長けいちょう15ねんしんくによりこの渡来とらいしたといわれる難波なんば吉志きし一族いちぞく子孫しそん吉志きしいち兄弟きょうだい勧進かんじんにより再建さいけんされたとつたえられています。桃山ももやまふうつくりをよくのこした華麗かれいなもので平成へいせい5ねん8がつこく重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされました。

本殿ほんでん形式けいしき大阪おおさかした唯一ゆいいつななあいだしゃ流造ながれづくりりで屋根やねひのきがわきとし、正面しょうめん千鳥ちどり破風はふおよのき唐破風からはふかまえています。はしらあいだかざりは動植物どうしょくぶつをあしらった比較的ひかくてきおおきなはかまた多用たようされほぼ全体ぜんたい極彩色ごくさいしょくほどこされるとう華麗かれい社殿しゃでんとなっています。またひさしにじはりあたまぬき海老えびにじはりしゃはなとうさまうずまず彩色さいしきえがいていることも特徴とくちょうひとつです。吉志きし神社じんじゃ本殿ほんでんせんこくほどこさないうず鼻先はなさき彫刻ちょうこくとう素朴そぼくさがみられ、こうした特徴とくちょう手法しゅほうからは有力ゆうりょく庇護ひごしゃによらずにいとなまれた状況じょうきょううかがえます。小規模しょうきぼながら類例るいれいすくないななあいだしゃ装飾そうしょくせいゆたかにたくみにまとめていて、近世きんせい初頭しょとうごうむら社会しゃかい一端いったんうかがわせる建築けんちくとして評価ひょうかたかものです。

吉志きし神社じんじゃ

歴史れきし

[編集へんしゅう]

創建そうけんのことはふるすぎてほとんどわかっていないが、おそらく平安へいあん時代じだいにはすでにあったとおもわれる。当地とうち周辺しゅうへん吉志きしさとばれ、古来こらいからひと居住きょじゅうした地域ちいきであり、奈良なら時代じだいさかのぼかわら須恵すえいたかまあと遺跡いせき吉志きしかわらかまあとくに指定してい史跡しせき)がみられる。

しゃでんでは、たかしかみ天皇てんのう時代じだい大和やまとこく瑞籬みずがき(しきみずがき)より奉遷ほうせんしてまつったのが当社とうしゃはじまりであるという。当初とうしょ大神宮だいじんぐうばれていた[1]。こうして当社とうしゃ朝鮮半島ちょうせんはんとうしんからの渡来とらいじんといわれる安部あべ難波なんば吉志きし一族いちぞくによって代々だいだいにわたって守護神しゅごじんとして崇敬すうけいされたという[1]

応仁おうにんらんでことごとく焼失しょうしつしたが、本殿ほんでんあとには奇跡きせきてき神鏡しんきょうのみがのこされていたという[1]村人むらびとたちによってその神鏡しんきょうふたた奉祀ほうしされ、文明ぶんめいもと1469ねん)に本殿ほんでん再建さいけんされた。天文てんもん3ねん1534ねん)には中興ちゅうこうされている[1]

江戸えど時代じだいになると、祭神さいじんてんあきらすめらぎ大神だいじん主神しゅしんとしたななはしらとなり、当社とうしゃななしゃ明神みょうじんばれるようになった[1]。その慶長けいちょう15ねん1610ねん)8がつ28にち吉志きし一族いちぞく末裔まつえいであり、三好みよし長慶ちょうけいまごであるという吉志きし弥一やいち衛門えもんじょうとそのおとうと吉志きし次郎じろうみぎ衛門えもんじょういち兄弟きょうだいによって勧進かんじんされ、あじしたげん大阪おおさか摂津せっつ)の大工だいくによって本殿ほんでん再建さいけんされている[1]。そのさい社殿しゃでん再建さいけんしようと勧進かんじんおこなっていたいち熱意ねつい将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただにもこえ、いたく感動かんどうした秀忠ひでただ京都きょうと方広寺ほうこうじ工事こうじざいをもって社殿しゃでん造営ぞうえいする許可きょかあたえるとともに、そのろうをねぎらっている[1]

正徳まさのり3ねん1713ねん)に拝殿はいでんぬさ殿どの再建さいけんし、せい遷宮せんぐうおこなったさいあらたにゆたか受大しんし、はちしゃ明神みょうじん鎮守ちんじゅはちしゃばれるようになった[1]天保てんぽう4ねん1833ねん)には本殿ほんでんくつがえてられ、幕末ばくまつには拝殿はいでんえられている[1]

1870ねん明治めいじ3ねん)に神仏しんぶつ分離ぶんりおこなわれたさい吉志きし神社じんじゃ名称めいしょうあらためている[1]。その村社そんしゃれっせられた。

大正たいしょう時代じだいには拝殿はいでんかみもん転用てんようされ、あらたにてられた拝殿はいでんぬさ殿どの本殿ほんでんくつがえ一体化いったいかさせられた[1]

慶長けいちょう15ねん(1610ねん)に建立こんりゅうされた本殿ほんでんは「ななあいだしゃ流造ながれづくり」というめずらしい形式けいしきで、吹田すいた市内しないでは最古さいこ木造もくぞう建築けんちくぶつとして1993ねん平成へいせい5ねん)8がつ17にち重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していけた。ただし全体ぜんたいくつがえおおわれており、通常つうじょうることができない状態じょうたいだった[1]

しかし、2008ねん平成へいせい20ねん)5がつ23にち午前ごぜん415ふんごろ発生はっせいした放火ほうかられる火災かさいにより、本殿ほんでん焼失しょうしつした。この結果けっか同年どうねん9がつ8にち重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定してい解除かいじょされた[1]犯人はんにんはいまだ検挙けんきょされていない。

2008ねん平成へいせい20ねん)5がつ25にち神社じんじゃ責任せきにん役人やくにん氏子うじこ総代そうだいにより、火災かさい現場げんば調査ちょうさ焼失しょうしつした本殿ほんでんあとのすぐ前方ぜんぽうかり殿しんがり早急そうきゅう建設けんせつし、その文化庁ぶんかちょう指示しじながら焼失しょうしつまえ同様どうようななあいだしゃ社殿しゃでんくつがえふくめて再建さいけんすることが決議けつぎされた。かり本殿ほんでん同年どうねん7がつ着工ちゃっこうし、9月に完成かんせいした。つづ本殿ほんでん拝殿はいでん再建さいけん翌々年よくよくねん2010ねん平成へいせい22ねん)1がつ大谷大学おおたにだいがく客員きゃくいん教授きょうじゅ櫻井さくらい敏雄としお監修かんしゅうのもと、金剛こんごうぐみ施工しこうにより着工ちゃっこうし、2011ねん平成へいせい23ねん)5がつ22にちあたらしい本殿ほんでん拝殿はいでん完成かんせいした[1]

当社とうしゃ背後はいごにあるむらさき金山かなやま一帯いったいむらさき金山かなやま公園こうえんとして整備せいびされており、園内えんないには吉志きし古墳こふん吉志きしかわらかまあと吹田すいた市立しりつ博物館はくぶつかんがある。

釈迦しゃか遊猟ゆうりょう事件じけん

[編集へんしゅう]

当社とうしゃうらにある釈迦しゃかカモ猟場りょうばであったが、あみ使つかったりょうのみがゆるされ、じゅう使用しよう禁止きんしされていた。1880ねん明治めいじ13ねん来日らいにちちゅうだったプロイセン王国おうこくドイツ帝国ていこく)のハインリヒ王子おうじ皇子おうじがおしのびでこのにカモりょうて、このおきてらずカモをじゅうったため、附近ふきん住民じゅうみんなぐられる事件じけんきた。

この問題もんだい日本にっぽんとドイツの外交がいこう問題もんだい発展はってんする。ヨーロッパの強国きょうこくであったドイツにたいし、明治維新めいじいしんからもなくいまだ国力こくりょく未熟みじゅく当時とうじ日本にっぽん政府せいふてい姿勢しせいてっし、事件じけん処理しょりした警察官けいさつかん8めい免職めんしょく、さらに事件じけん関係かんけいしゃ謝罪しゃざいさせることで解決かいけつはかった。ドイツがわへの謝罪しゃざいしき当社とうしゃ境内けいだいおこなわれ、関係かんけいしゃ一同いちどう礼服れいふくかためた吹田すいたむら村長そんちょうが、王子おうじまえ謝罪しゃざいぶんげるというものであった。参道さんどうには見物人けんぶつにんひとだかりをつくったという。さらに政府せいふは、事件じけん処理しょり詳細しょうさいれて世論せろんから軟弱なんじゃく外交がいこう非難ひなんけるのをおそれ、報道ほうどう統制とうせい事件じけん隠蔽いんぺいした。このけん記事きじにしようとしたある新聞しんぶん記者きしゃ逮捕たいほされ、禁固刑きんこけいにされた。やく10ねん大津おおつ事件じけん前例ぜんれいともいえる、明治めいじ前期ぜんき日本にっぽん外交がいこう一幕ひとまくであった[2]

考証こうしょう

[編集へんしゅう]

しゃでんにみえる「たかしかみ天皇てんのう御代みよ大和やまと瑞籬みずがき笠縫かさぬい志貴しきけんすわ神社じんじゃ付近ふきんげん奈良ならけん桜井さくらい金屋かなや))より」は、たかしかみ天皇てんのう皇女おうじょゆたか鍬入くわいれひめいのち大和やまと瑞籬みずがき奉祀ほうしした時期じき符合ふごうする。しかし、吉志きし神社じんじゃへの遷宮せんぐうについての詳細しょうさい記録きろく記紀ききなどの所伝しょでんにはえない。そもそも遷宮せんぐう自体じたい詳細しょうさい記録きろくがないため、真偽しんぎのほどは不明ふめいである。かり吉志きし神社じんじゃ遷宮せんぐうがあった場合ばあい笠縫かさぬい邑の志貴しきけんすわ神社じんじゃ付近ふきんから笠山かさやま荒神こうじんみやげん奈良ならけん桜井さくらいかさ)に遷宮せんぐうするまでのあいだであろう。吉志きし神社じんじゃいにしえめいである「ふと神宮じんぐうしゃ」はやまとひめいのち奉祀ほうしした近江おうみこく大神宮だいじんぐうしゃげん滋賀しがけん甲賀こうが土山つちやままち鮎河あゆかわ周辺しゅうへん)とおなじであることからたかしかみ天皇てんのう御代みよには「太神おおがかんしゃ」(げん吉志きし神社じんじゃ)が存在そんざいしていた可能かのうせいがある。

創建そうけん当初とうしょかみてんあきら大神だいじんのみ

[編集へんしゅう]

しゃでんによると「創建そうけん当時とうじゆたか受大しんのぞななはしらをおまつりし、ななしゃ明神みょうじんばれていたのですが、正徳まさのり3ねん1713ねん)のせい遷宮せんぐうさいゆたか受大しんした」とある。しかしながら八幡はちまん大神おおがみ応神天皇おうじんてんのう)はたかしかみ天皇てんのうの5だい子孫しそんにあたり、創建そうけんには存在そんざいしない。住吉すみよし大神おおがみ応神天皇おうじんてんのうはは神功じんぐう皇后こうごうとのつながりがふか住吉すみよし大神おおがみまつ住吉すみよし大社たいしゃげん大阪おおさか大阪おおさか住吉すみよし)が神功しんこう皇后こうごう御代みよ創建そうけんされている。このことから住吉すみよし大神おおがみは、八幡はちまん大神おおがみとも後世こうせい合祀ごうししたものであろう。盞嗚大神だいじん嵯峨天皇さがてんのう大同だいどう5ねん810ねん)1がつに「もと戔嗚みことすなわ皇国こうこくほんおもなり、ゆえ日本にっぽん総社そうじゃあがたまいしなり」として「日本にっぽん総社そうしゃ」のごうたてまつられて以降いこう全国ぜんこく奉祀ほうしされるようになった。蛭子えびす大神おおがみ信奉しんぽう平安へいあん時代じだい末期まっき流行りゅうこうし、全国ぜんこくのえびす神社じんじゃ総本山そうほんざんである西宮にしのみや神社じんじゃげん兵庫ひょうごけん西宮にしのみや)もこのころ創建そうけんされている。稲荷いなり大神だいじんはた信奉しんぽうするかみであり、はた応神天皇おうじんてんのう御代みよ渡来とらい帰化きかした。そのはた和銅わどう年間ねんかん708ねん - 715ねん)に創建そうけんした伏見ふしみ稲荷いなり大社たいしゃ全国ぜんこく稲荷いなり神社じんじゃ総本山そうほんざんである。春日かすが大神おおがみ藤原ふじわら氏神うじがみであり、藤原ふじわら大化たいか改新かいしん以降いこうさかえた。平安へいあん時代じだい初期しょき藤原ふじわら淀川よどがわ北岸ほくがん一帯いったい自家じか荘園しょうえんとしたため、この地域ちいきふるくからあったおおくの神社じんじゃ藤原ふじわら氏神うじがみ合祀ごうしされた。この結果けっか現在げんざいでは淀川よどがわ北岸ほくがんのほとんどの神社じんじゃ春日しゅんじつしんまつっている。吹田すいた地域ちいき元々もともと物部ものべ一族いちぞくである吹田すいた開墾かいこん所有しょゆうしており、吉志きし神社じんじゃ春日しゅんじつしんもこの一帯いったい藤原ふじわら荘園しょうえんとなったとき合祀ごうししたものであろう。以上いじょう創建そうけん当時とうじより奉祀ほうししていたとするななはしらななしゃ明神みょうじん)のうち、てんあきら大神おおがみのぞろくはしらはすべて後世こうせいかみであることから、吉志きし神社じんじゃ創建そうけん当初とうしょ祭神さいじんてんあきら大神だいじんのみである。

境内けいだい

[編集へんしゅう]

末社まっしゃ

[編集へんしゅう]
  • 大川おおかわ神社じんじゃ
  • 御霊みたましゃ
  • 愛宕あたごみや大国たいこくぬしかみことかみ天水てんすいぶんしん

文化財ぶんかざい

[編集へんしゅう]

くに指定してい史跡しせき

[編集へんしゅう]
  • 吉志きしかわらかまあと - 所有しょゆうしゃ吉志きし神社じんじゃ吹田すいた

吹田すいた指定してい無形むけい民俗みんぞく文化財ぶんかざい

[編集へんしゅう]
  • 吉志きし神社じんじゃのどんじ - 特殊とくしゅ神事しんじ指定してい吉志きし神社じんじゃどんじ保存ほぞんかい

祭事さいじ

[編集へんしゅう]

吉志きし神社じんじゃでは、とし2かいはるあきれい大祭たいさいもよおされ、鳥居とりい附近ふきんには露店ろてんる。また菊花きっか献上けんじょうさい例年れいねん10がつもよおされ、境内けいだいには地元じもときく愛好あいこうかいそだてたきくならぶ。

交通こうつう

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ ゆたか受大しん慶長けいちょう15ねん1610ねん)の再建さいけん合祀ごうし
  2. ^ 瑞籬みずがき(みずがき)は日本書紀にほんしょき記載きさいされているたかしかみ天皇てんのう王朝おうちょう磯城しき瑞籬みずがきみやであるとおもわれる。

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 吉志きし神社じんじゃホームページ 由緒ゆいしょ歴史れきし
  2. ^ 吹田すいたへん郷土きょうど吹田すいた歴史れきし」より 

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]