(Translated by https://www.hiragana.jp/)
君臣共治 - Wikipedia コンテンツにスキップ

君臣くんしんども

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

君臣くんしんども(くんしんきょうち)は、日本にっぽんにおける朝廷ちょうてい天皇てんのうせい)の統治とうち正統せいとうせい規定きていするじょうとなえられた理論りろんであり、てんあきら大神おおがみおよ天孫てんそん瓊瓊きねみこと子孫しそんである天皇てんのうのみが統治とうちおこなうものではなく、天皇てんのうとともにかみみことのりけたかみ々の子孫しそんである臣下しんか共同きょうどうして日本にっぽん統治とうちし、そのための組織そしき朝廷ちょうていであるというかんがかたである。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

古語こご拾遺しゅうい』には、天孫てんそん降臨こうりんさいぐんしんが瓊瓊きねみこととともにかみみことのりけ、それにしたがって代々だいだい瓊瓊きねとうとおよびその子孫しそんつかえて朝廷ちょうていにおける役職やくしょくいできたとく。『日本書紀にほんしょき』においても孝徳天皇こうとくてんのうしたみことのり大化たいか2ねん3がつ甲子きのえねじょう)において、君主くんしゅとして万民ばんみんおさめることは「ひとせいむべからず」として君主くんしゅ独裁どくさい否定ひていし、しんつばさ(たすけ)をて倶におさめることではじめてかみてんあきらだいかぐ皇祖こうそしん)のまもる(まもり)のちからられるとしている。これらの主張しゅちょう日本にっぽん神国しんこくであり、そのくに統治とうちするのはかみによってさだめられた君臣くんしんども組織そしきこそが朝廷ちょうていであり、これにしたがわないものかみさからうものとして神罰しんばつけ、朝廷ちょうてい擁護ようご尊重そんちょうするもの神慮しんりょによって統治とうち参画さんかくすることがゆるされるとした。そして、朝廷ちょうてい天皇てんのう臣下しんか(この場合ばあいは、ぐんしん子孫しそんである豪族ごうぞく貴族きぞくす)による統裁とうさい合議ごうぎ統治とうちおこなわれることが基本きほん原則げんそくとされた。

したがって君臣くんしんども円滑えんかつすすめるためには、臣下しんかのみならず君主くんしゅである天皇てんのうにも皇祖こうそ神意しんい相応ふさわしい資格しかく必要ひつようであるとかんがえられるようになった。『かんしょう』では、天皇てんのう世襲せしゅうであるためには適格てきかくではない天皇てんのう出現しゅつげんすることがあり、それをおぎなうために臣下しんか補佐ほさやくいた。だが、それでも国王こくおうもあまりにわろくならせきゅうぬ(「あくおう」が出現しゅつげんする)事態じたいとなった場合ばあいには臣下しんかかみわって天皇てんのう退位たいいさせて皇統こうとう永続えいぞくはか必要ひつようしょうじるとした。ただし、著者ちょしゃ慈円じえん摂関せっかん出身しゅっしんであり、天皇てんのう退位たいいはか資格しかくゆうする補佐ほさやく摂関せっかんであるというかんがえをいていた。これは最初さいしょ関白かんぱくであった藤原基経ふじわらのもとつね陽成ようぜい天皇てんのう退位たいいさせた故事こじ念頭ねんとうにおいて、公家くげ社会しゃかい反対はんたいって挙兵きょへいおこなおうとする後鳥羽上皇ごとばじょうこう牽制けんせいしようとかんがえたもので、実際じっさい後鳥羽上皇ごとばじょうこう承久じょうきゅうらんこして鎌倉かまくら幕府ばくふやぶれて配流はいるされると、慈円じえんおいである藤原ふじわらたかしただしちょとされる『ろくだいかちごと』によって後鳥羽上皇ごとばじょうこうは「あくおう」として規定きていされることとなった。もっとも慈円じえんは「あくおう」である天皇てんのう退位たいいできるのは摂関せっかんであるとかんがえており、たいら政権せいけんによるうけたまわ政変せいへん今回こんかい承久じょうきゅうらんともな上皇じょうこう配流はいるおよ仲恭天皇ちゅうきょうてんのう廃位はいいを「謀叛ぼうほん」としてとらえてつよ反発はんぱつしている。つづいて『かみすめらぎ正統せいとう』は、それに「正統せいとう(しょうとう)」概念がいねんんだ。これは皇位こうい継承けいしょうもまた神意しんいもとづいてさだめられるもので、神意しんいはんした天皇てんのうは「正統せいとう」の資格しかくうしなって皇統こうとう断絶だんぜつもしくは子孫しそん皇位こうい継承けいしょうできない事態じたいおちいることとなり、結果けっかてきに「正統せいとう」に相応ふさわしい天皇てんのう系統けいとう代々だいだい天皇てんのう嫡流ちゃくりゅうになるというかんがえである。したがって、天皇てんのう嫡男ちゃくなんであっても神意しんいにそぐわなければ「正統せいとう」として皇位こうい子孫しそんつたえることは出来できないとした。これは、著者ちょしゃ北畠きたばたけ親房ちかふさ大覚寺だいかくじみつる本来ほんらい嫡流ちゃくりゅうとされたこう二条天皇にじょうてんのうけい対立たいりつする後醍醐天皇ごだいごてんのうつかえていたことと関係かんけいしており、天皇てんのう嫡流ちゃくりゅう決定けってい血縁けつえんじょうの嫡庶を重視じゅうししつつも、神意しんいかなわなければ地位ちい変動へんどうきる(亀山天皇かめやまてんのうこう嵯峨天皇さがてんのう嫡男ちゃくなんではなく、後醍醐天皇ごだいごてんのうこう宇多天皇うだてんのう嫡男ちゃくなんではないが、神意しんいかな行動こうどうつとめていれば後醍醐天皇ごだいごてんのう子孫しそんが「正統せいとう」の地位ちいることが可能かのうになる)というものであった。

だが、実際じっさい歴史れきしながれにおいて、よりおおきな変化へんかせたのは臣下しんかほうであった。古代こだいにおいては、しん朝廷ちょうていつかえて人民じんみん支配しはいする豪族ごうぞくおよびそのである貴族きぞく階層かいそうのみをすとかんがえられてきた。だが、次第しだい武士ぶし台頭たいとうするようになり、武家ぶけ棟梁とうりょうとしてあおがれた軍事ぐんじ貴族きぞく幕府ばくふひらき、武士ぶし幕府ばくふとおして君臣くんしんども参画さんかくするようになる。『かんしょう』や『かみすめらぎ正統せいとう』が非難ひなんした武士ぶしによる天皇てんのう廃立はいりつ武士ぶしがわかられば、武士ぶしこそが治者ちしゃとして「あくおう」を排斥はいせきして「正統せいとう」を擁護ようごする立場たちば自覚じかくさせるにいたった。幕府ばくふ崩壊ほうかい成立せいりつした明治めいじ政府せいふは、大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうによって表面ひょうめんじょう君臣くんしんども否定ひていして天皇てんのう万世ばんせい一系いっけい神聖しんせい不可侵ふかしん定義ていぎしたが、中正ちゅうせいもとめた天皇てんのう親政しんせいろん排除はいじょするという複雑ふくざつ経緯けいい辿たどった。かずつじ哲郎てつろう論文ろんぶん日本にっぽん古来こらい伝統でんとう明治維新めいじいしん歪曲わいきょくについて」(1959ねん)のなか明治維新めいじいしん天皇てんのうせい伝統でんとう否定ひていして「天皇てんのう軍人ぐんじん」をすすめたと批判ひはんしたが、実際じっさい明治維新めいじいしんすすめた王政おうせい復古ふっこ旧来きゅうらい朝廷ちょうていのありかた否定ひてい(「朝廷ちょうてい解体かいたい」)して、皇位こうい継承けいしょう法制ほうせいすすめた(これは皇位こうい継承けいしょう安定あんていすすめたが、一方いっぽう君臣くんしんども原則げんそくにおいて存在そんざいしていた天皇てんのうにも資格しかくゆうするという概念がいねん排除はいじょすることになった)。一連いちれん矛盾むじゅん天皇てんのう主権しゅけんはんしないかたちろんじたのが天皇てんのう機関きかんせつであった。そして、主権しゅけん在民ざいみんさだめた日本国にっぽんこく憲法けんぽう制定せいていにおいてもその根拠こんきょを「君臣くんしんども」にもとめる(1946ねん8がつ24にち衆議院しゅうぎいんにおけるきた昤吉賛成さんせい意見いけん)など、近世きんせいきん現代げんだいいたるまで影響えいきょうあたえた。

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 河内かわうちさち輔「朝廷ちょうてい再建さいけん運動うんどう朝廷ちょうてい幕府ばくふ体制たいせい成立せいりつ」(所収しょしゅう:『日本にっぽん中世ちゅうせい朝廷ちょうてい幕府ばくふ体制たいせい』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2007ねんISBN 978-4-642-02863-9

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]