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天海てんかい

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天海あまみ僧正そうじょうから転送てんそう
南光なんこうぼう 天海てんかい
天文てんもん5ねん1536ねん)? - 寛永かんえい20ねん10月2にち1643ねん11月13にち
天海てんかいぞう木村きむらりょうみがくさんはなわ王寺おうじくら
法名ほうみょう 天海てんかい
ごうきむつよし名号みょうごうさわきむつよし
院号いんごう さとしらくいん
諡号しごう 慈眼じげん大師だいし
尊称そんしょう 南光なんこうぼう
生地きじ 陸奥みちのくこく
宗派しゅうは 天台宗てんだいしゅう
寺院じいん 寛永寺かんえいじ
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喜多きたいん山門さんもんまえにある銅像どうぞう

天海てんかい(てんかい、天文てんもん5ねん1536ねん)? - 寛永かんえい20ねん10月2にち1643ねん11月13にち))は、安土あづち桃山ももやま時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきにかけての天台宗てんだいしゅうそう大僧正だいそうじょう尊号そんごう南光なんこうぼうなんこうぼう院号いんごうさとしらくいんちらくいん諡号しごう慈眼じげん大師だいしじげんだいし

徳川とくがわ家康いえやす側近そっきんとして、江戸えど幕府ばくふ初期しょき朝廷ちょうてい政策せいさく宗教しゅうきょう政策せいさくふか関与かんよした。

生涯しょうがい

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天海あまみ出自しゅつじ

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ひがし叡山えいざん開山かいさん慈眼じげん大師だいし縁起えんぎ』に「陸奥みちのく国会こっかいぐん高田たかださとにてきゅうひ。あしめい修理しゅうり大夫たいふひらもりだか一族いちぞく」としるされていることから、三浦みうら一族いちぞくであるあしめい出自しゅつじで、陸奥みちのくこくまれたとされる。しかしどう縁起えんぎには「ぞくことじんのとひしかど、氏姓しせい行年ぎょうねんわすれていさしず」とあり、天海あまみみずからの出自しゅつじ弟子でしたちにかたらなかったとある。また、「将軍しょうぐん義澄よしずみすえ御子みこといへるにんはべり」と足利あしかが将軍しょうぐん落胤らくいんせつ同時どうじせられている。ては姿すがたえてのこった明智あけち光秀みつひでであるというせつまである(天海あまみ=明智あけち光秀みつひでせつ[1]

須藤すとうひかりあきらは、しょ文献ぶんけん比較ひかく検討けんとうにより、あしめい女婿じょせいである船木ふなき兵部ひょうぶしょう輔景こう息子むすこであると結論けつろんづけている[2]

生年せいねん

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天海あまみ生年せいねんははっきりしていないが、100さい以上いじょう長命ちょうめいであったとわれる。

小槻おおづくこうあきら日記にっきこうあきら宿やど祢日』には、天海あまみ寛永かんえい9ねん4がつ17にち1632ねん6月4にち)に日光にっこう東照宮とうしょうぐう薬師堂やくしどう法華経ほけきょうまん供養くよう導師どうしおこなった記事きじがあるが、天海あまみはこのとき97さいかぞどし)であったという。これにしたがうと生年せいねん天文てんもん5ねん1536ねん)と推定すいていされ、没年ぼつねんは107さいかぞどし108さい)となる。このほか『 上杉うえすぎ将士しょうししょじょう』によるえいただし7ねん1510ねん)のほか、とおるろく3ねん1530ねん)、天文てんもん11ねん1542ねん)、天文てんもん23ねん1554ねん)といったせつがある。しかしこれらは比較的ひかくてき信頼しんらいひく史料しりょうっているとされている[3]須藤すとうひかりあきらは12しゅ生年せいねんせつ比較ひかく検討けんとうしたうえで、天文てんもん5ねんせつ妥当だとうとしている[2]

ぜん半生はんせい

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先述せんじゅつのように陸奥みちのく国会こっかい出身しゅっしんつたえられているが前半ぜんはんせいについてはよくわかっていない[4]

龍興寺りゅうこうじにてずいふうしょうして出家しゅっけしたのち、14さい下野げやこく宇都宮うつのみや粉河寺こかわでらすめらぎしゅん師事しじして天台宗てんだいしゅうまな近江おうみこく比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ園城寺おんじょうじ大和やまとこく興福寺こうふくじなどでがくふかめたという[よう出典しゅってん]もとかめ2ねん1571ねん)、織田おだ信長のぶながにより比叡山ひえいざんうと武田たけだ信玄しんげん招聘しょうへいけて甲斐かいこく移住いじゅうする[よう出典しゅってん]。そのあしめい盛氏もりうじ招聘しょうへいけて黒川くろかわじょう若松わかまつしろ)の稲荷いなりどうじゅうし、さらに上野うえのこく長楽寺ちょうらくじ天正てんしょう16ねん1588ねん)に武蔵むさしこく無量寿寺むりょうことぶきじきたいん現在げんざい埼玉さいたまけん川越かわごえ。のちの喜多きたいん)にうつり、天海てんかい名乗なのったとされる[よう出典しゅってん]

喜多きたいん住持じゅうじ

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天海あまみとしての足跡あしあと明瞭めいりょうとなるのは、無量寿寺むりょうことぶきじきたいんてからである。このとき江戸崎えどさき不動院ふどういん住持じゅうじ兼任けんにんしていた。浅草寺せんそうじ史料しりょうによれば北条きたじょうめのさい天海あまみ浅草寺せんそうじ住職じゅうしょくただごうとともに徳川とくがわ家康いえやすじんまくにいたとする。これからは、天海あまみはそもそも家康いえやすのために関東かんとうおもむいたことがうかがえる。

ごううみのちけて、天海あまみきたいん住職じゅうしょくとなったのは慶長けいちょう4ねん1599ねん)のことである。その天海あまみ家康いえやす参謀さんぼうとして朝廷ちょうていとの交渉こうしょうとう役割やくわりになう。慶長けいちょう12ねん1607ねん)に比叡山ひえいざん探題たんだい執行しっこうめいぜられ、南光なんこうぼうじゅうして延暦寺えんりゃくじ再興さいこうかかわった。ただし、つじ達也たつやは、天海あまみ慶長けいちょう14ねん1609ねん)から家康いえやすもちいられたとしている[3]。このとしけん僧正そうじょうにんぜられた。

また慶長けいちょう17ねん1612ねん)に無量寿寺むりょうことぶきじきたいん再建さいけん着手ちゃくしゅし、寺号じごう喜多きたいんあらた関東かんとう天台てんだい本山ほんざんとする。慶長けいちょう18ねん1613ねん)には家康いえやすより日光にっこうさん貫主かんしゅ拝命はいめいし、ほんぼう光明院こうみょういん再興さいこうする。大坂おおさかじん発端ほったんとなった方広寺ほうこうじかねめい事件じけんにもふかかかわったとされる[5][6]

後半こうはんせい

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元和がんわ2ねん1616ねん)、危篤きとくとなった家康いえやすかみごう葬儀そうぎかんする遺言ゆいごん同年どうねん4がつ大僧正だいそうじょうとなった天海あまみらにたくす。家康いえやすにはかみごうめぐ以心崇伝すうでん本多ほんだ正純まさずみらとあらそう。天海あまみは「権現ごんげん」としてみずからの宗教しゅうきょうである山王さんのう一実かずみ神道しんとうまつることを主張しゅちょうし、崇伝すうでん家康いえやすかみごうを「明神みょうじん」として古来こらいよりの吉田よしだ神道しんとうまつるべきだと主張しゅちょうした。2だい将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただ諮問しもんたいし、天海あまみは、豊臣とよとみ秀吉ひでよし豊国とよくに大明神だいみょうじんかみごうおくられたのち豊臣とよとみ滅亡めつぼうかんがえると、明神みょうじん不吉ふきつであると提言ていげんしたことで家康いえやすかみごうは「あずまあきらだい権現ごんげん」と決定けっていされ家康いえやす遺体いたい久能山くのうざんから日光にっこうさん改葬かいそうした。

その3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつつかえ、寛永かんえい元年がんねん1624ねん)にはにんおか寛永寺かんえいじ創建そうけんする。江戸えど都市とし計画けいかくにもかかわり、陰陽いんようどう風水ふうすいもとづいた江戸えど鎮護ちんご構想こうそうする[1]

紫衣しえ事件じけんなどでつみけたもの特赦とくしゃねがることもしばしばであり、大久保おおくぼ忠隣ただちか福島ふくしま正則まさのり徳川とくがわ忠長ただながなどの赦免しゃめんねがている。これははなわ王寺おうじみや特赦とくしゃねが慣例かんれいのもととなったという[3]ほりただしよせ柳生やぎゅう宗矩むねのりとも沢庵たくあん宗彭そうほう赦免しゃめんにも奔走ほんそうした。寛永かんえい20ねん(1643ねん)に108さいぼっしたとされる[4]。その5ねんに、朝廷ちょうていより慈眼じげん大師だいしごう追贈ついぞうされた。

天海あまみ生前せいぜん日本にっぽんでの一切経いっさいきょう大蔵経だいぞうきょう)の印刷いんさつ出版しゅっぱん企図きと[4]慶安けいあん元年がんねん1648ねん)には、天海あまみ着手ちゃくしゅした『寛永寺かんえいじばん天海てんかいばん大蔵経だいぞうきょう』が、幕府ばくふ支援しえんにより完成かんせいした。天海あまみによるこれらの経典きょうてん出版しゅっぱん日本にっぽん印刷いんさつ文化ぶんか史上しじょうもっと重要じゅうよう業績ぎょうせきひとつとわれている[4]天海あまみ作製さくせいさせた膨大ぼうだい木製もくせい活字かつじ天海あまみ版木はんぎ活字かつじ)は26まん以上いじょう現存げんそんしている[4]

廟所びょうしょ

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天海てんかいぞう

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日光にっこう神橋しんきょうちかくには1976ねん昭和しょうわ51ねん)に彫刻ちょうこく倉沢くらさわみのるにより制作せいさくされた「天海あまみ大僧正だいそうじょう銅像どうぞう」がある[7]

天海あまみ江戸えど設計せっけい

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この項目こうもくはそうとなえている研究けんきゅうしゃ一人ひとりいるというだけであり、おおくのコンセンスをられているわけではないということに留意りゅういされたい。

関ケ原せきがはらたたかいに勝利しょうりした家康いえやすは、慶長けいちょう8ねん(1603ねん)に幕府ばくふひらくにあたり、天海あまみ助言じょげん参考さんこうにしながら、江戸えどえらんだとされる[1]天海あまみ家康いえやすいのちにより伊豆いずから下総しもふさまで関東かんとう地相ちそう調しらべ、古代こだい中国ちゅうごく陰陽いんようぎょうせつにある「よんかみ相応そうおう」のかんがえをもとに、江戸えど幕府ばくふ本拠地ほんきょちてきしていると結論けつろんくだしたとされる[1]

よんかみ相応そうおう」とは、ひがしかわながれ、西にしひくさんどうはしり、みなみみずうみうみがあり、きたたかやまがある土地とちさかえるとかんがえられたものである。天海あまみは、ひがし隅田川すみだがわ西にし東海道とうかいどうきた富士山ふじさんみなみ江戸えどわんがあったことから、江戸えどよんかみ相応そうおうにかなうとかんがえたとされる[1]。 なお、富士山ふじさん実際じっさいには「きた」(きた)から112ずれているが、天海あまみはじめとする当時とうじ江戸えど人々ひとびとは、富士山ふじさんをあえてきたとみたてて、江戸えどよんかみ相応そうおうにかなうとみなしたという[1]江戸城えどじょう大手おおてもんきが「きた」からずれているのも、富士山ふじさんを「きた」とみなしたためだとされる[1]

また、天海あまみは、江戸えどにある上野うえの本郷ほんごう小石川こいしかわ牛込うしごめこうじまち麻布あざぶ白金はっきんの7つの台地だいち突端とったん延長線えんちょうせんまじわるに、江戸城えどじょう本丸ほんまるくよう助言じょげんしたとされる[1]陰陽いんようどう知識ちしきにより、地形ちけい中心ちゅうしん周辺しゅうへんあつまることをねらったとされる[1]

江戸城えどじょう場所ばしょ決定けっていしたのち藤堂とうどう高虎たかとららが中心ちゅうしんとなって江戸城えどじょうほり設計せっけいおこなわれたが、天海あまみは、実務じつむてき作業さぎょう工程こうていとは次元じげんことにする、思想しそう宗教しゅうきょうてきめん設計せっけいかかわっていたとされる[1]江戸城えどじょう工事こうじ寛永かんえい17ねん(1640ねん)にわるが、その途中とちゅう設計せっけいしゃくなっていったなかで、天海あまみはなお存命ぞんめいしており、江戸えど都市とし計画けいかく初期しょきから完成かんせいまで、50ねんちかかかわったとされる[1]

天海あまみは、江戸城えどじょう内部ないぶうずくるわしきという「の」のがた構造こうぞうにすることや、しろかこ螺旋らせんじょうの「の」のがたることなどを助言じょげんしたとされる[1]。「の」のがた構造こうぞうは、しろ中心ちゅうしん時計とけいまわりでまち拡大かくだいしていくことを意図いとしたものとされるが、に、てきしろちかづけにくくする、火災かさい発生はっせい類焼るいしょうひろがるのをふせぐ、物資ぶっしふね運搬うんぱんしやすくする、ほり工事こうじにより土砂どしゃ海岸かいがんてに利用りようする、などのメリットがあったとされる[1]

天海あまみは、江戸城えどじょう北東ほくとう南西なんせい方角ほうがくにある「鬼門きもん」・「裏鬼門うらきもん」を重視じゅうしして、鬼門きもん鎮護ちんごするための工夫くふうらしたとされる[1]天海あまみは、江戸城えどじょう北東ほくとう寛永寺かんえいじきずき、住職じゅうしょくつとめた。寛永寺かんえいじ寺号じごうひがし叡山えいざん」はひがし比叡山ひえいざん意味いみするが、天海あまみは、平安京へいあんきょう鬼門きもんまもった比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじならって、寛永寺かんえいじがわに、近江おうみ琵琶湖びわこおもわせるにんきずき、琵琶湖びわこ竹生島ちくぶしまならって、いけ中之島なかのしま弁財天べざいてんまつるなどし、寛永寺かんえいじが、比叡山ひえいざんおな役割やくわりたすようねらったとされる[1]

上記じょうきほか天海あまみは、寛永かんえい4ねん(1627ねん)には、寛永寺かんえいじとなり上野うえの東照宮とうしょうぐう建立こんりゅうし、家康いえやすまつり、もともと現在げんざい東京とうきょう千代田ちよだ大手町おおてまち付近ふきんにあった神田かんだ神社じんじゃ現在げんざい湯島ゆしまうつし、幕府ばくふ祈願きがんしょとした浅草寺せんそうじ家康いえやすあずまあきらだい権現ごんげんとしてまつ[注釈ちゅうしゃく 2]など、江戸城えどじょう鬼門きもん鎮護ちんごあつくしたとされる[1]

また、江戸城えどじょう南西なんせい裏鬼門うらきもん)についても、その方角ほうがくにある増上寺ぞうじょうじに2だい将軍しょうぐんである徳川とくがわ秀忠ひでただほうむったうえで徳川とくがわ菩提寺ぼだいじとし、さらに、おな方角ほうがくに、日枝ひえ神社じんじゃ日吉ひよし大社たいしゃからぶんまつ)をうつすなどして、鎮護ちんご意図いとしたとされる[1]

神田かんだ神社じんじゃ神田かんださい浅草あさくさ神社じんじゃさんしゃさい日枝ひえ神社じんじゃ山王さんのうさいは、江戸えどさん大祭たいさいとされるが、それらのまつりは、天海あまみにより、江戸城えどじょう鬼門きもん裏鬼門うらきもんきよしめる意味いみづけもされていたとされる[1]江戸城えどじょう位置いちは、寛永寺かんえいじ神田かんだ神社じんじゃ増上寺ぞうじょうじむす直線ちょくせんと、浅草寺せんそうじ日枝ひえ神社じんじゃむす直線ちょくせんとが交差こうさする地点ちてんにあったとされ、天海あまみ鬼門きもん裏鬼門うらきもん鎮護ちんご非常ひじょう重視じゅうししていたことがうかがわれるとされる[1]

天海あまみは、江戸えど鎮護ちんごするため、陰陽いんようどう以外いがい方法ほうほう利用りようし、主要しゅよう街道かいどうと「の」のがたほりとが交差点こうさてんであり、城門じょうもん見張みはりしょがある要所ようしょに、平将門たいらのまさかどまつった神社じんじゃづか設置せっちしたとされる[1]将門まさかどくびづか奥州おうしゅうどうつうじる大手門おおてもん将門まさかどどうまつ神田かんだ神社じんじゃうえしゅうどうつうじる神田かんだ橋門はしかど将門まさかどまつ鳥越とりこし神社じんじゃ奥州おうしゅうどうつうじる浅草橋あさくさばしもん将門まさかどあしまつ久土くど八幡やはた神社じんじゃ中山道なかせんどうつうじる牛込うしごめもん将門まさかどよろいまつあぶみ神社じんじゃ甲州こうしゅうどうつうじる四谷よつやもん将門まさかどかぶとまつかぶと神社じんじゃ東海道とうかいどうつうじる虎ノ門とらのもんかれたとされる[1]天海あまみは、将門まさかどれいを、江戸えどまち街道かいどうとの出入口でいりぐちまつることで、街道かいどうから邪気じゃきはいむのをふせぐようねらったとされる[1]

天海あまみかんする逸話いつわ

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天海あまみぜん半生はんせいかんする史料しりょうがほとんどいもののかなりの長寿ちょうじゅであり、大師だいしごうおくられるほどの高僧こうそうになった。また機知きちんだ人物じんぶつであり、当意即妙とういそくみょう言動げんどう周囲しゅうい人々ひとびと感銘かんめいさせた。そのためかれには様々さまざま逸話いつわがある。

  • 徳川とくがわ幕府ばくふはやし鵞峰めいじて『ぞく本朝ほんちょうどおりかん』を編纂へんさんするさい上杉うえすぎから献上けんじょうされた報告ほうこくしょ上杉うえすぎ将士しょうししょじょう』によると、天海あまみ天文てんもん23ねん1554ねん)に信濃しなのこくおこなわれた川中島かわなかじまたたかやまうえから見物けんぶつしたという。このとき天海あまみ武田たけだ信玄しんげん上杉うえすぎ謙信けんしんじか太刀打たちうちするのをたがのち信玄しんげんくと「あれは影武者かげむしゃだ」とこたえられたという。ただし、この史料しりょうはこのとき天海あまみが45さいだったことになっていることや実在じつざいうたがわれている宇佐美うさみ定行さだゆき上杉うえすぎじゅうしょうかぞえられているなど不自然ふしぜんてんおおい。
  • 天海あまみ名古屋なごや病気びょうきになったさい江戸えどから医者いしゃかったが、箱根はこね医者いしゃ行列ぎょうれつ松明たいまつ大雨おおあめえてしまった。すると無数むすうきつねあらわれ、狐火きつねびをともしてみちらしたという[3]
  • あるとき将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつからかき拝領はいりょうした。天海あまみはこれをべるとたねをていねいにつつんでふところれた。家光いえみつがどうするのかとくと「ってかえってえます」とこたえた。「ひゃくさいになろうという老人ろうじん無駄むだなことを」と徳川とくがわ家光いえみつがからかうと、「天下てんかおさめようというひとがそのように性急せいきゅうではいけません」とこたえた。すうねん徳川とくがわ家光いえみつ天海あまみからかき献上けんじょうされた。家光いえみつがどこのかきかとくと「先年せんねん拝領はいりょうしましたかきたねをつけました」とこたえたという[3]
  • 関ヶ原せきがはらたたか天海あまみ参加さんかしていたというはなしがある。関ケ原せきがはらまち歴史れきし民俗みんぞく資料しりょうかん所蔵しょぞうする『関ヶ原せきがはら合戦かっせん屏風びょうぶ』にえがかれた家康いえやす本陣ほんじんには、天海あまみであるとされる、鎧兜よろいかぶと姿すがたの「南光なんこうぼう」という人物じんぶつ配置はいちされている[8]。この屏風びょうぶ彦根城ひこねじょう博物館はくぶつかん所蔵しょぞうする江戸えど時代じだい後期こうき狩野かのさだしんえがいた屏風びょうぶ模写もしゃしたものであるが、彦根城ひこねじょう博物館はくぶつかんのものには「南光なんこうぼう」と記載きさいされていない。
  • だい坂城さかき建物たてもの利用りようした博物館はくぶつかん大阪城おおさかじょう天守閣てんしゅかくは、天海あまみ所用しょよう伝承でんしょうがある甲冑かっちゅう所蔵しょぞうしている。
  • 天海あまみは、徳川とくがわ秀忠ひでただ家光いえみつにそれぞれ長寿ちょうじゅ秘訣ひけつうたんでおくっている。徳川とくがわ秀忠ひでただたいしては「長命ちょうめいは、粗食そしょく正直しょうじきにち毎日まいにち風呂ふろはいること)、陀羅尼だらに(おけい)、時折ときおり、ご下風かふう)あそばさるべし」、短気たんき好色こうしょく徳川とくがわ家光いえみつたいしては「ながく、つとめはかたく、いろうすく、しょくほそうして、しんひろかれ」というものである。

異説いせつ

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たから

その出自しゅつじ曖昧あいまいさもあり小説しょうせつとうてくるせつとして天海あまみ足利あしかが将軍家しょうぐんけ12だい足利あしかが義晴よしはるというせつ明智あけち光秀みつひでどう一人物いちじんぶつというせつがある。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ いみなおかすのみならず、豊臣とよとみため当家とうけ呪詛じゅそするにたりといふこと天海あまみ一人かずと閑室に召れたりしときみつつげまつりといふ」
  2. ^ なお、浅草寺せんそうじあずまあきらしゃさとしなが19ねん(1642ねん)に焼失しょうしつした。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 宮元みやもと健次けんじ (2013ねん3がつ28にち). 江戸えど大都市だいとしにした天海あまみは、なに仕掛しかけたのか”. PHPビジネスオンライン衆知しゅうち. http://shuchi.php.co.jp/article/1389 
  2. ^ a b 須藤すとうひかりあきら大僧正だいそうじょう天海てんかい冨山とやまぼう大正たいしょう5ねん[ようページ番号ばんごう]
  3. ^ a b c d e つじ達也たつや日本にっぽん歴史れきし 江戸えど開府かいふ中公ちゅうこう文庫ぶんこ
  4. ^ a b c d e ひがし叡山えいざん寛永寺かんえいじ”. 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん. 2019ねん10がつ28にち閲覧えつらん
  5. ^ たいとくいん殿御とのご実紀みきまき廿にじゅうななより[注釈ちゅうしゃく 1]
  6. ^ 戦国せんごくこぼればなし現在げんざい学者がくしゃ受難じゅなん時代じだい戦国せんごく時代じだい重要じゅうようだった知識ちしきじんたち!(渡邊わたなべ大門おおもん)”. Yahoo!ニュース (2020ねん10がつ5にち). 2020ねん12月22にち閲覧えつらん
  7. ^ 日光にっこうウォーキングガイド” (PDF). 日光にっこう観光かんこう協会きょうかい. 日光にっこうたびナビ. 2021ねん12月4にち閲覧えつらん
  8. ^ 絵画かいがえがかれた関ヶ原せきがはら合戦かっせん 関ヶ原せきがはら合戦かっせん400ねん記念きねん戦国せんごくはく」-情報じょうほう・デザインミュージアム-

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 根岸ねぎし鎮衛みみ岩波いわなみ文庫ぶんこ ぜん3さつ長谷川はせがわつよしこうちゅう、1991ねん)- 江戸えど時代じだい随筆ずいひつ南光なんこうぼう天海あまみについての逸話いつわ収録しゅうろく
  • けいむろ文雄ふみお日本にっぽん名僧めいそう15 政界せいかいしるべしゃ 天海あまみ崇伝すうでん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2004ねん
  • 川越かわごえ市立しりつ博物館はくぶつかん へん徳川とくがわ家康いえやす天海あまみ大僧正だいそうじょう家康いえやす神格しんかく天海あまみ川越かわごえ市立しりつ博物館はくぶつかん特別とくべつてん 家康いえやすぼつよんひゃくねん記念きねん特別とくべつてん〉、2017ねん 
  • 須藤すとうひかりあきら大僧正だいそうじょう天海てんかい冨山とやまぼう、1916ねん NDLJP:943602

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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