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尾崎おざき雅彦まさひこ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
獲得かくとくメダル
ぎん 1980 ブザンソン プロ・スプリント

尾崎おざき 雅彦まさひこ(おざき まさひこ、1958ねん2がつ5にち - )は日本にっぽん競輪けいりん選手せんしゅかい東京とうきょう支部しぶ在籍ざいせきしていたもと競輪けいりん選手せんしゅ東京とうきょう出身しゅっしん日本にっぽん競輪けいりん学校がっこうだい39期生きせい師匠ししょう父親ちちおやである尾崎おざき幸雄ゆきお松戸まつど競輪けいりんじょうをホームバンクとしていた。

経歴けいれき

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京北けいほく高等こうとう学校がっこう中退ちゅうたい日本にっぽん競輪けいりん学校がっこう受験じゅけんし、学科がっか技能ぎのう試験しけんとも合格ごうかく入学にゅうがくする。競輪けいりん学校がっこう同期どうきには、「ウルフ」としょうされた広島ひろしま所属しょぞく木村きむら一利かずとしがいた。デビューせん1977ねん5月5にち京王けいおうかく競輪けいりんじょうはつ勝利しょうり同日どうじつ

1979ねん日本にっぽん選手権せんしゅけん競輪けいりん決勝けっしょうせん立川たちかわ競輪けいりんじょう)では、断然だんぜん人気にんき中野なかの浩一こういちをはじめ菅田すげたじゅん高橋たかはし健二けんじ当時とうじ自力じりきがた相手あいてにマークの山口やまぐち健治けんじれて果敢かかんげ、中野なかのめく不発ふはつみ、山口やまぐち優勝ゆうしょうをもたらしたいちせんだったが、当時とうじ中野なかのちからでねじせられる選手せんしゅというのはまずいないのではないかという状況じょうきょうなか、5ちゃくやぶれたとはいえ、尾崎おざきはしりはたか評価ひょうかされた。

1980ねん世界せかい選手権せんしゅけんのスクラッチ(現在げんざい個人こじんスプリント)代表だいひょうとなり、準決勝じゅんけっしょうジョルダーノ・トリニーやぶり、決勝けっしょうでは一本いっぽんほんと、ともに先行せんこうさくってるも中野なかのにストレートでやぶぎんメダル。

そして1981ねん1982ねん高松宮たかまつのみやはいではとも予選よせん3連勝れんしょう優勝ゆうしょう王手おうてをかけるなど、このころからGI決勝けっしょうせん常連じょうれんかおとなり、また競走きょうそう得点とくてんとうではつね上位じょういトップ3につらねるなど、尾崎おざき競輪けいりんかい屈指くっし実力じつりょく選手せんしゅとして君臨くんりんするようになった。しかしなぜかここまでおおきなタイトルにはえんがなく、82ねんみやはい決勝けっしょうでは優勝ゆうしょう目前もくぜんとなりながらもゴール寸前すんぜん後方こうほうから猛然もうぜんんできた伊藤いとう豊明とよあきわされてしまった。

だが1983ねんみやはい決勝けっしょうでは、完全かんぜん優勝ゆうしょうねら中野なかの浩一こういち梨野なしのえいじんしでバック・3かく番手ばんて通過つうか、グランドスラム達成たっせい絶対ぜったい有利ゆうりながれになったが、ここで山口やまぐち健治けんじはなった捨身しゃしんめくりを中野なかのりにってわずかにいたインをき、先頭せんとうでゴールをなみだ特別とくべつはつ優勝ゆうしょうたした。その記念きねんでは抜群ばつぐんつよさをほこり、しん意味いみ中野なかの井上いのうえ茂徳しげのり最大さいだいのライバルとされたこともあった。ところが尾崎おざきフラワーラインという一大いちだいグループないきずな大事だいじにしすぎるあまり、肝心かんじんなところであまさをすケースがすくなくなかった。

1984ねん競輪けいりんさい決勝けっしょうでは人気にんき中心ちゅうしんとなりながらも目標もくひょうきよししま彰一しょういち勝負しょうぶしょ中野なかの浩一こういちめくりのまえうごけず、やぶれた。

1985ねんKEIRINグランプリでも上位じょうい人気にんき一角いっかくされたが、ジャンで正攻法せいこうほう位置いちにいたきよししま中野なかの猛然もうぜんはたきにたところ、そのうごきに尾崎おざき反応はんのうして一旦いったん中野なかのそとかせてしまうというプレーをせたというのに、中野なかの最終さいしゅうバックでめくりをはなったさいにはぎゃくなにもできなかった。

1992ねんみやはい決勝けっしょうでは、げる神山かみやま雄一郎ゆういちろう当時とうじ自力じりきちゅう)の番手ばんてにつけながらも、インでねばった滝澤たきざわただしこう怪物かいぶつ時代じだいかげりがしたころでこれが最後さいごのタイトル)に番手ばんてうばわれ、結果けっか滝澤たきざわ優勝ゆうしょうをさらわれてしまった。結局けっきょく尾崎おざき獲得かくとくしたタイトルは上記じょうきの83ねんみやはいだけ。総合そうごうりょくというてんにおいて中野なかの双璧そうへきされたことがあった尾崎おざきにしては少々しょうしょう物足ものたりないといえる。

ほかにもタイトルのチャンスはいくつかあったが、とくしかったのはだい40かい日本にっぽん選手権せんしゅけん千葉ちば)で、あかばんのこり2しゅう)で東京とうきょうラインきよししま彰一しょういち当時とうじ先行せんこうりょくかいBIG3)-尾崎おざき-山口やまぐち健治けんじ絶好ぜっこう番手ばんてさい周回しゅうかい浮上ふじょうしたが、インの本田ほんだ晴美はるみ当時とうじ自力じりきがた選手せんしゅ)にねばられてになり、2コーナーでけた。尾崎おざき当時とうじから自力じりき選手せんしゅたてあし先行せんこうめくり・み)はつよかったが、よこあしり)には多少たしょう不安ふあんがあり、それを象徴しょうちょうしたレースであった。吉井よしい秀仁ひでひと同様どうようあししつだった。比較ひかくすると山口やまぐち健治けんじよこあし抜群ばつぐん尾崎おざき、-山口やまぐち吉井よしい-山口やまぐちならぶといコンビだった。山口やまぐちのように自力じりきがた選手せんしゅからみにうまく転向てんこうできていれば、タイトルをもう1~2れたとかもしれない。

またプレッシャーによわく、フアンのあいだからは惑星わくせい人気にんきがあるとあっさりけたり、人気にんきがないときに2ちゃくまで入線にゅうせんとか)とばれ人気にんきわりには車券しゃけんいにくいこと有名ゆうめいだった。また、マスクくてかいプリンスばれていた。

もっとも、尾崎おざきは40さいぎてもSきゅう活躍かつやくし、引退いんたいねんとなった2005ねん12月26にち時点じてんにおいてもSきゅう2はん在籍ざいせきしていた。次期じき2006ねん1月~7がつ)もS2が確定かくていしていたが、夫人ふじん実家じっか寺院じいんであったことがえんとなり、かねてからそのしょくはなしていたこともあったことから、現役げんえき引退いんたいすることになった。

おも獲得かくとくタイトル

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競走きょうそうスタイル

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全盛期ぜんせいきは「げよし、めくりよし、みよし」という三拍子さんびょうしそろった自在じざいせいあししつほこっており、またあまいマスクであったことも手伝てつだってプリンスというニックネームをつけられた。現役げんえき晩年ばんねんにも、目標もくひょう選手せんしゅ不発ふはつさいには自分じぶんめくりをつこともあった。

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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