(Translated by https://www.hiragana.jp/)
谷津田陽一 - Wikipedia コンテンツにスキップ

たに津田つだ陽一よういち

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

たに津田つだ 陽一よういち(やつだ よういち、1951ねん5月4にち- )は、日本にっぽんもと競輪けいりん選手せんしゅ現役げんえき時代じだい日本にっぽん競輪けいりん選手せんしゅかい福島ふくしま支部しぶ所属しょぞく日本にっぽん競輪けいりん学校がっこう当時とうじだい25期生きせい同期どうきには荒川あらかわ秀之助ひでのすけやまふじ浩三こうぞうらがいる。息子むすこ谷津田やつだしょうわれ(83)も競輪けいりん選手せんしゅ福島ふくしまけん双葉ふたばぐん双葉ふたばまち在住ざいじゅう[1][2]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

福島ふくしまけん出身しゅっしんだが、競輪けいりん選手せんしゅとしての最初さいしょ登録とうろく神奈川かながわであり、小田原おだわら競輪けいりんじょうをホームバンクとしていた。師匠ししょう往年おうねんめいマーカーとしてもられた力石りきいし岩夫いわお。デビューせん1967ねん9月15にちのホーム・小田原おだわらむかえ1ちゃくだった。しかし上記じょうき荒川あらかわらと比較ひかくするとやや出世しゅっせおくれ、はじめて特別とくべつ競輪けいりん現在げんざいのGI)の決勝けっしょうへとこますすめたのは1973ねん競輪けいりんさい(4ちゃく)であった。その特別とくべつ競輪けいりんでは常時じょうじ出場しゅつじょうはたすもこれといって特筆とくひつすべき成績せいせきおさめられなかった。

ところが1977ねん突然とつぜん開花かいか高松宮たかまつのみやはい決勝けっしょうでは、2センターで中野なかの浩一こういちめくりを金網かなあみスレスレまでげた岩崎いわさき誠一せいいち(2ちゃく失格しっかく)のプレーがあったとはいえ、見事みごとGIはつ制覇せいははたし、つづオールスター競輪けいりん千葉ちば競輪けいりんじょう決勝けっしょうでも、直線ちょくせん一気いっきびて優勝ゆうしょうはた特別とくべつ競輪けいりん連覇れんぱげた。

自力じりき兼備けんびのスピードは中野なかの時代じだいはいってからもトップクラスで、位置いち固執こしつせず自在じざい仕掛しかけでびてくるあし中野なかの菅田すげた吉井よしい若手わかてじくになる特別とくべつ競輪けいりん準決勝じゅんけっしょうでもつね波乱はらん不気味ぶきみさをゆうしていた。 1980ねんとく好調こうちょう年頭ねんとう立川たちかわ鳳凰ほうおうしょう中野なかのやぶって優勝ゆうしょうしたのをはじ上半期かみはんきだけで5かい記念きねん制覇せいは中野なかのの1おくえん達成たっせいレースとなった松戸まつど記念きねんでも鈴木すずき正彦まさひこ番手ばんてからんだ中野なかののちくらいからび8ぶんの1輪差わさまで肉薄にくはくしている。

師匠ししょうなみだしてよろこんだ[編集へんしゅう]

谷津田やつだといえば、師匠ししょう力石りきいしとの関係かんけい有名ゆうめいである。力石りきいし谷津田やつだにことのほかきびしくせっし、場合ばあいによっては鉄拳てっけんさなかったという。また谷津田やつだはじめて記念きねん制覇せいはしたときも力石りきいしまったよろこばなかったという。しかし、谷津田やつだみやはいせいしたときにはだいよろこびし、「よくやった!」とはじめて谷津田やつだねぎらった。力石りきいし自身じしん特別とくべつ競輪けいりん決勝けっしょうにおいては最高さいこうで2ちゃく経験けいけん1955ねん全国ぜんこく争覇そうは競輪けいりん)はあるが、優勝ゆうしょうはできなかった。自分じぶんができなかったことを谷津田やつだがよくはたしてくれた、というおもいがねぎらいの言葉ことばあらわれたのだろうとわれている。またこれで谷津田やつだくしたのか、つづくオールスターも制覇せいはすることになった。

現役げんえき晩年ばんねん[編集へんしゅう]

現役げんえき晩年ばんねんには郷里きょうりである福島ふくしまけんもどり、また息子むすこはた競輪けいりん選手せんしゅ目指めざしていたこともあって、双葉ふたばまち自宅じたくかまえた。自宅じたく敷地しきちには練習れんしゅう道場どうじょうかまえ、そこで競輪けいりん選手せんしゅ目指めざ若者わかもの指導しどうするようになった[1]谷津田やつだ練習れんしゅうグループからははたわれのほか、GIタイトルホルダーでもあり北京ぺきんロンドンりょう大会たいかい自転車じてんしゃ競技きょうぎトラックレース日本にっぽん代表だいひょうでもあった渡邉わたなべ一成いっせいら10めい競輪けいりん選手せんしゅそだげた[1][2]

1992ねん5月28にち小松島こまつしま競輪けいりんじょうにて通算つうさん500しょう達成たっせい

2002ねん7がつ31にち選手せんしゅ登録とうろくしょうじょ通算つうさん戦績せんせき591しょう。なお、1976ねん以降いこうのみにかぎると、1928せん302しょう優勝ゆうしょう30かい(うちGI2かい)。

現役げんえき引退いんたい[編集へんしゅう]

引退いんたいもそのまま双葉ふたばまちらしていたが、2011ねん発生はっせいした東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさいによる福島ふくしまだいいち原子力げんしりょく発電はつでんしょ事故じこ影響えいきょう避難ひなん指示しじされ、それからながらくのあいだ避難ひなん生活せいかついられた。その2022ねん1がつより帰還きかんけた準備じゅんび宿泊しゅくはくつづけ、8がつ30にちけでようやく避難ひなん指示しじ解除かいじょされた。現在げんざいつまひきいぬらしている[1][2]

おも獲得かくとくタイトル[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]