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高倉たかくらのぼる

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高倉たかくら のぼる(たかくら のぼる、1932ねん10月15にち- )は、日本にっぽん競輪けいりん選手せんしゅかい埼玉さいたま支部しぶ所属しょぞくしていたもと競輪けいりん選手せんしゅ日本にっぽん競輪けいりん学校がっこうができるまえ選手せんしゅ登録とうろくされたぜん選手せんしゅ登録とうろく番号ばんごうは851)。埼玉さいたまけん出身しゅっしん競輪けいりん初期しょきめいレーサーとしてきざんだ。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

天才てんさい高倉たかくら[編集へんしゅう]

1951ねん8がつ、ホームバンクの大宮おおみや競輪けいりんじょう開催かいさいされただい1かい全国ぜんこく都道府県とどうふけん対抗たいこう争覇そうは競輪けいりん全国ぜんこく都道府県とどうふけん選抜せんばつ競輪けいりん)の6000メートル競走きょうそうはつ特別とくべつ競輪けいりん現在げんざいのGI)制覇せいはたし、同年どうねん10がつ大阪おおさか中央ちゅうおう競輪けいりんじょう開催かいさいされただい5かい全国ぜんこく争覇そうは競輪けいりん日本にっぽん選手権せんしゅけん競輪けいりん)では、1ちゃく入線にゅうせん高橋たかはしひさし失格しっかくによるがりながらも優勝ゆうしょうたす。ちなみにこの当時とうじ高倉たかくらは18さいであったが、現在げんざいもなお日本にっぽん選手権せんしゅけん競輪けいりんにおける最年少さいねんしょう優勝ゆうしょう記録きろく保持ほじしている。

よく1952ねん高倉たかくらさらなるかい進撃しんげきつづける。同年どうねん5がつ開催かいさいされただい6かい全国ぜんこく争覇そうは競輪けいりん川崎かわさき競輪けいりんじょう)では完全かんぜん優勝ゆうしょうたし、どう大会たいかい連覇れんぱ達成たっせいつづく6がつ開催かいさいされた高松宮たかまつのみや同妃どうひ賜杯しはい高松宮たかまつのみや記念きねんはい競輪けいりん)でも完全かんぜん優勝ゆうしょうたした。そして、つづく8がつ福岡ふくおか競輪けいりんじょう開催かいさいされただい3かい全国ぜんこく都道府県とどうふけん対抗たいこう争覇そうは競輪けいりん6000メートル競走きょうそうでも優勝ゆうしょうたし、史上しじょうはつ特別とくべつ競輪けいりん3連覇れんぱ達成たっせいした。

わずか2ねんあいだに5つのタイトルを奪取だっしゅ。ファンやマスコミのあいだからは天才てんさい高倉たかくらともてはやされた。またルックスも抜群ばつぐんだったことから、女性じょせいの「おっかけ」まで出現しゅつげんしたという。またこのとし賞金しょうきんおう(3,743,000えん)にもかがやいた。しかしながら、高倉たかくら栄光えいこう時代じだい事実じじつじょうここまでであった。

数々かずかずのエピソードと転落てんらく[編集へんしゅう]

高倉たかくらといえば、いま伝説でんせつともいうべきエピソードがきない。

当時とうじ競輪けいりんでは「普通ふつう競走きょうそう」という、競走きょうそう種目しゅもくがあった。ようは「トップき」という、風圧ふうあつ犠牲ぎせいになる選手せんしゅ必要ひつようであったレース形態けいたいであったが、高倉たかくらはトップをいてなおかつってったことがあった。トップをいた選手せんしゅ最後さいご力尽ちからつき、集団しゅうだんからおおきくはなされてすえでゴールするかたちになるのが普通ふつうであるというにもかかわらずである。しかもそうしたケースはいちではなかったという。この高倉たかくら対抗たいこうできる選手せんしゅといえば、「燕返つばめがえし」の異名いみょうほこった山本やまもと清治きよじであり、1951ねんのGIタイトルは山本やまもとが3つ(高松宮たかまつのみや賜杯しはい全国ぜんこく争覇そうは競輪けいりん競輪けいりんさい)、高倉たかくら上記じょうきの2つと、ほぼ2人ふたりでタイトルをった。

一方いっぽう高倉たかくらのそうしたつよさへの対抗たいこうさくとしてされたといわれるのが、「弾丸だんがん熊坂くまさか」のニックネームをつ、東京とうきょう熊坂くまさか克己かつみ最初さいしょったとわれる「かく先行せんこう」、つまりいまでいう「めくり」であった。強靭きょうじんあしほこ高倉たかくら正攻法せいこうほうからそのままペースけされるとあしないが、当時とうじとしては奇襲きしゅう戦法せんぽうともわれた2コーナーからのダッシュせんめば高倉たかくら最後さいご力尽ちからつきてしまうだろうというかんがえから発案はつあんされたものとわれている。すると、熊坂くまさかほかするどいダッシュりょくっていた松本まつもと勝明かつあきや、松本まつもと一緒いっしょ練習れんしゅうすることでメキメキと頭角とうかくあらわしはじめた中井なかい光雄みつおしばたあいだいついてきた。

にもかかわらずその成績せいせきるわなくなったばかりか、私生活しせいかつめんでもみだれがしょうはじめ、トップから転落てんらくしてしまった。1954ねんだい7かい全国ぜんこく都道府県とどうふけん対抗たいこう争覇そうは競輪けいりん高松たかまつ競輪けいりんじょう)の2000メートル競走きょうそうでこそ優勝ゆうしょうたしたが、これが高倉たかくらつかんだ最後さいごのGIタイトルとなってしまった。以後いご一般いっぱんせんなどの下位かいレベルのレースでは時折ときおり往時おうじつよさを発揮はっきしたものの、トップクラスでは通用つうようしなくなってしまった。1978ねん引退いんたい通算つうさん勝利しょうりすうは739しょうであった。

もっとも、高倉たかくら自身じしん最盛さいせいころ世界せかい自転車じてんしゃ選手権せんしゅけん出場しゅつじょうしたいというゆめっていて、全国ぜんこく競輪けいりん施行しこうしゃ協議きょうぎかい発行はっこうしていた会報かいほう、「PR+S」誌上しじょうにて、世界せかい舞台ぶたいにおいて自分じぶんはしりをためしたかったとべている。また全盛期ぜんせいき高倉たかくらるファンや関係かんけいしゃからも、高倉たかくらつよさは驚愕きょうがくだったというこえもいまだかれ、いまもなお、伝説でんせつのレーサーとしょうされている。

1980ねん大宮公園おおみやこうえん散策さんさくちゅうにドロボーのさけごえいて追跡ついせきさえ久々ひさびさ新聞しんぶん登場とうじょうした。内容ないよう各紙かくし一様いちようもと競輪けいりん選手せんしゅ快足かいそくぶりをてたものだった。

おもね佐田さた哲也てつやはエッセイに埼玉さいたま若手わかて選手せんしゅいたはなしとして、高倉たかくらのぼるちぶれて大宮公園おおみやこうえんでホームレスをしているといた。直後ちょくごにある競輪けいりん関係かんけいもよおしで高倉たかくらのぼる遭遇そうぐうしてべつのエッセイで訂正ていせいした。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]