(Translated by https://www.hiragana.jp/)
川野辺氏 - Wikipedia コンテンツにスキップ

川野辺かわのべ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

川野辺かわのべ(かわのべし)は、日本にっぽん氏族しぞく

川野辺かわのべとは

[編集へんしゅう]

川野辺かわのべ関東かんとう豪族ごうぞく常陸ひたちこく那珂なかぐんから久慈くじぐんにかけて勢力せいりょくった武家ぶけである。本姓ほんせい藤原ふじわら家系かけい藤原ふじわらきた川辺かわべ左大臣さだいじん藤原ふじわらさかなめいながれをみ、平将門たいらのまさかど征伐せいばつした鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん藤原ふじわらしげるきょう末裔まつえいにあたる那珂なか一門いちもん常陸ひたち守護しゅごだいとして水戸みと一帯いったい勢力せいりょくった江戸えど佐竹さたけ宿老しゅくろう輩出はいしゅつした川井かわい、さらに平沢ひらさわ戸村とむらなどは川野辺かわのべ同族どうぞくである[1]家紋かもんじゅうろくきくいちまるどもえまるけんへんくえまるまるおうぎ[2]

川野辺かわのべ常陸ひたちこく北部ほくぶ(常陸ひたち大宮おおみや野口平のぐちだいらしろ)を中心ちゅうしん勢力せいりょくゆうした。その祖先そせんたずねればせいこよみ2ねん991ねん藤原ふじわらしげるきょう子孫しそん藤原ふじわらとおるただしあに藤原ふじわらとおるのべ太田郷おおたごう地頭じとう)とともに常陸ひたちこくうつり、寛治かんじ4ねんごろ(1090ねんころ)、つうじきがはじめてこの川野辺かわのべきょう)に野口のぐちしろ築城ちくじょうし、川辺かわべ大夫たいふ名乗なのったという。川野辺かわのべ成立せいりつするのはつうじきからよんだい那珂なか通泰みちやす次男じなん珂資あきら川野辺かわのべしょうしたことにはじまる[3]

御前山ごぜんやまむら郷土きょうど』によればこの野口のぐちじょうはそのむかし川野辺かわのべきょうつくられたことから川野辺かわのべじょうともいい、東西とうざい150あいだ南北なんぼく50あいだほどの規模きぼゆうした。西北せいほくそらほりめぐらされ、いちほりほりかまえ、ひがし馬場ばばがあり、みなみさんななめーとる四方しほう平垣へいがきかこ士卒しそつてき来襲らいしゅうそなえたという。築城ちくじょうつうじき嫡男ちゃくなん那珂なかとおる川野辺かわのべ大夫たいふ名乗なのじょう継承けいしょうした。その嫡男ちゃくなん通重みちしげ那珂なか彦次郎ひこじろうまたはかわ野辺のべ彦次郎ひこじろうとも名乗なのり、那珂なか川野辺かわのべ名字みょうじ併用へいようしていたとられる。その那珂なかとおるけんあり、嫡男ちゃくなん 通泰みちやす珂城にうつり、那珂なかせい継承けいしょう次男じなんあかり川野辺かわのべとなり、川野辺かわのべしろおよ出丸でまるかんもりした[4]

たてたけし2ねん1335ねん)に足利尊氏あしかがたかうじ後醍醐天皇ごだいごてんのう対立たいりつし、南北なんぼくあさ時代じだい突入とつにゅうすると、川野辺かわのべ次郎じろう親子おやこ南朝なんちょうかたとしてへいこし、きた朝方あさがた常陸ひたち守護しゅご 佐竹さたけ貞義さだよしはらやぶった。その北畠きたばたけ顕家あきいえにしたがって京都きょうとのぼり、その足利尊氏あしかがたかうじたたかった。これらの功績こうせきにより後醍醐天皇ごだいごてんのうより「きくもん」を拝領はいりょうしたが、きくもんをそのまま使用しようすることははばかれることから、じゅうろくきくいちあらためていえ名誉めいよとしたとされる[5]

那珂なかぐん西金さいがね高井たかいひとし川野辺かわのべ

[編集へんしゅう]

たてたけし3ねん1336ねん)1がつ南北なんぼくあさたたかいで、南朝なんちょうそう大将たいしょう 楠木くすのきただし楠木くすのき正成まさしげおい)が、南朝なんちょう荘園しょうえんがあった常陸ひたちこく入部にゅうぶし、瓜連うりづらしろ拠点きょてんとしたため、みなみ朝方あさがた同心どうしんする那珂なか川野辺かわのべ一門いちもんもこの楠木くすのきとうとともに1年間ねんかんきた朝方あさがた佐竹さたけおよ周辺しゅうへんしょ勢力せいりょくはげしくたたかった[6]

しかし、楠木くすのきただししたがたたかった惣領そうりょう那珂なかとおるたつ川野辺かわのべは、のべもと元年がんねん1336ねん)、どく松峰まつみねにおけるたたかいできた朝方あさがたやぶれ、きた朝方あさがた木村きむら二郎じろう大夫たいふ義昌よしまさ手勢てぜいによりめられていき、那珂なか川野辺かわのべ平沢ひらさわ戸村とむらなど一族いちぞくほとんどは自刃じじんして滅亡めつぼううものの[7]那珂なかとおるたつである那珂なか通泰みちやす川野辺かわのべこうけいが、久慈川くじがわをさかのぼり山方やまがたまち秘境ひきょう高井たかいひとし」に家系かけいたもつことができた。宗家そうけ那珂なか通泰みちやすはその佐竹さたけ軍門ぐんもんくだり、足利あしかがかたぞくして石見いわみこくたたかいにて軍功ぐんこうげる一方いっぽう川野辺かわのべはそのままみなみ朝方あさがたとしてたたかった。鎮の 次郎じろう九州きゅうしゅう菊地きくち武直たけなおぞくしてこうてるものの、吉野よしのにてにしたという。次郎じろう つうみなみ朝方あさがたとして常陸ひたちこくにあったが、その 通弘みちひろだいいたってきた朝方あさがた佐竹さたけよしあつしり、佐竹さたけ家臣かしんとなったとされる。そのよんせい 隆義たかよしだい久慈くじぐん西金さいがねんだとされる[8]

久慈くじぐん盛金もりがね川野辺かわのべ

[編集へんしゅう]

なお、べつによれば、川野辺かわのべにはいえ那珂なか通重みちしげよんせい 川辺かわべ左衛門尉さえもんのじょうどおりあさとする家系かけいがあるとされる。つうあさ川野辺かわのべ下野しもの守昭もりあきどおりといって、承久じょうきゅうらんにて鎌倉かまくら幕府ばくふかたとして武功ぶこうげたため、執権しっけん北条ほうじょうよしときより鎌倉かまくら居住きょじゅうゆるされたという[9]。そのよんせい 小四郎こしろうちゅうどおりたてたけし3ねん(1336ねん)にみなみ朝方あさがたについた那珂なかとおるたつしたがい、久慈くじはらにて戦功せんこうげて恩賞おんしょうたまわったとされる[9]。そのちゅうどおり しん兵衛ひょうえちゅうけい増井ますい一本松いっぽんまつにて生害しょうがいするものの、家系かけい存続そんぞくし、その 新太郎しんたろうけいだかだい佐竹さたけぞくしたという。ちゅうどおり大炊おおいかいりゅうとおるといい、たかしどおり女子じょし江戸えど家臣かしん 三村みつむら源内げんないしたとされる。しかし、たかしどおりには男子だんしがなく常陸ひたち守護しゅごだい 小野崎おのざき三河みかわまもる通茂みちしげ次男じなん 丹後たんごもりあさたかし養子ようしむかえるという。あさたかし父方ちちかた 小野崎おのざき川野辺かわのべ同様どうよう藤原ふじわらしげるさとりゅう守護しゅごだいつとめる名家めいかであり、あさたかしはは川井かわい肥前ひぜんもり忠次ただつぐおんなであり、その川井かわい川野辺かわのべ同様どうよう那珂なか本家ほんけとする同族どうぞくであった。なお、あさたかし没後ぼつご、その常陸太田ひたちおおた浄光寺じょうこうじ埋葬まいそうされたといわれ、そのあと信濃しなのまもるあさゆきいだ[9]信濃しなのまもるあさゆき佐竹さたけ宗家そうけ義治よしはる佐竹さたけよししゅん同族どうぞく 山入やまいりよしたたかったさい宗家そうけかたについて武功ぶこうげ、そのしゅうまかいあさなお佐竹さたけよしあつししたがい、部垂へだれじょうにて佐竹さたけ宗家そうけ叛旗はんきひるがえした宇留野うるの義元よしもとめにくわわった[9]あさなお長男ちょうなん 内記ないき重行しげゆき天正てんしょう18ねん1590ねん12月19にち佐竹さたけ義重よししげしたがい、川野辺かわのべ同族どうぞくでもある守護しゅごだい 江戸えど但馬たじま守重もりしげどおりめて手柄てがらて、感状かんじょうたまわったものの、佐竹さたけ義宣よしのぶ関ヶ原せきがはらたたか西にしぐんがわについたせめわれ、出羽でわこく秋田あきたてんふうとなると浪人ろうにんし、久慈くじぐん盛金もりがね邑に居住きょじゅうしたとされる。重行しげき女子じょし佐竹さたけ一門いちもん 小田野おだの大和やまと守義もりよしあつしとつぎ、重行しげきあと長男ちょうなん主税しゅぜい宣行のぶゆきいだ。重行しげき次男じなん 四郎しろう左衛門さえもん同所どうしょ分家ぶんけした[9]

また、幕末ばくまつには、久慈くじ盛金もりがねむらさとただし 川野辺かわのべ太一たいち衛門えもんのり天狗てんぐとうらんにて榊原さかきばら新左衛門しんざえもんひきいる天狗てんぐとうくみしてたたかったとされ、幕府ばくふかた捕縛ほばくされたという。太一たいち衛門えもんはその慶応けいおう2ねん1866ねん7がつ1にち武蔵むさしこく川越かわごえはん江戸えどつくだとうにて獄死ごくししている。また、このとき太一たいち衛門えもん同族どうぞくである久慈くじぐん金村かなむら義民ぎみん 河野こうのあたりかいよし四郎次しろうじ盛義もりよし天狗てんぐとう与党よとうとしてとらえられ、江戸えどつくだとうにて獄死ごくし死後しごさんめい靖国神社やすくにじんじゃ合祀ごうしされた[10]

系譜けいふ

[編集へんしゅう]

以下いか那珂なかぐん西金さいがね高井たかいひとし川野辺かわのべ系図けいず出典しゅってんは『那珂なか系図けいずおよび『川野辺かわのべ系図けいず』などによる[11]

系譜けいふ 鎮守ちんじゅ将軍しょうぐん藤原ふじわらしげるきょうせいまご 太田おおた大夫たいふ伊勢いせもりしたがえおおやけどおり-川辺かわべ大夫たいふどおりただし那珂なか太郎たろうどおり(那珂なか)―彦次郎ひこじろう通重みちしげ弥次やじろうどおりけん五郎ごろう通泰みちやす―◎川野辺かわのべ大夫たいふあきら川野辺かわのべ大夫たいふもとどおり宮内みやうちしょう輔資鎮(のべもと元年がんねんどく松峰まつみね自刃じじん)―次郎じろうつう(正平しょうへいねん九州きゅうしゅう菊地きくち武重たけしげしたがい、こう吉野よしの戦死せんし)-通弘みちひろ(佐竹さたけよしあつしり、穴沢あなざわむ)―兵部ひょうぶしょう輔通よしたかしよし左京さきょう隆義たかよし天文てんもん14ねん西金さいがねじゅうす)

なお、以下いか久慈くじぐん盛金もりがね川野辺かわのべ系譜けいふである[8]

系譜けいふ どおりじゅう四世川野辺左衛門尉従五位下通朝―新三郎しんざぶろう下野しもの守昭もりあきどおり承久じょうきゅうらんにて幕府ばくふかたとしてこうあり。北条ほうじょうよしより鎌倉かまくら居住きょじゅうゆるされる)―那珂なか五郎左衛門ごろうざえもんしゅうどおり太郎左衛門たろうざえもん詮房あきふさ
太郎たろうしん太夫たゆうちゅうかい小四郎こしろうちゅうどおり久慈くじはら合戦かっせんみなみ朝方あさがたとして佐竹さたけ貞義さだよしやぶこうあり)―しん兵衛ひょうえちゅうけい増井ましい一本松いっぽんまつ生害しょうがい)―新太郎しんたろうけいだか佐竹さたけぞくす)=大炊おおいあたまたかしどおり小野崎おのざき通茂みちしげ)
―二郎じろう左衛門さえもん丹後たんごもりあさたかし信濃しなのまもるあさゆき佐竹さたけよししゅんたす大山おおやま孫根まごね金砂きんしゃさん合戦かっせんこうあり)―しゅうまかいあさひさし内記ないき重行しげき江戸えど但馬たじまもりめにてこう佐竹さたけてんふう随行ずいこうせず久慈くじぐん盛金もりがねむ)
―主税しゅぜい宣行のぶゆき

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 藤原ふじわらしげるきょうについては野口のぐちみのるちょ伝説でんせつ将軍しょうぐん 藤原ふじわらしげるきょう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん2001ねん)5ぺーじ以下いか安木やすぎ三郎さぶろうちょ藤原ふじわらしげるきょう将軍しょうぐん』(牧歌ぼっかしゃ2006ねん)14ぺーじ以下いか参照さんしょう
  2. ^ 日本にっぽん家紋かもん研究けんきゅうかいへん家紋かもんでわかるあなたの祖先そせん 茨城いばらきけん北部ほくぶ地方ちほう』(日本にっぽん家紋かもん研究けんきゅうかい2001ねん)15ぺーじじゅうろくきくいちもんについては日本にっぽん家紋かもん研究けんきゅうかいへん家紋かもんでわかるあなたの祖先そせん 茨城いばらきけん南部なんぶ地方ちほう』(日本にっぽん家紋かもん研究けんきゅうかい、2001ねん)20ぺーじ参照さんしょう
  3. ^ 太田おおたあきらしる上田うえだ萬年かずとし三上みかみさん監修かんしゅう姓氏せいし家系かけいだい辞典じてん だい1かん』(角川書店かどかわしょてん1934ねん)1662ぺーじおよび1671ぺーじ参照さんしょう石川いしかわゆたかちょ南朝なんちょう秘録ひろく 那珂なかどおりたつ常陸ひたち豪族ごうぞく』(いばらきタイムズしゃ1968ねん) 38ぺーじおよび41ぺーじ参照さんしょう
  4. ^ 石川いしかわゆたか前掲ぜんけいしょ(いばらきタイムズしゃ、1968ねん) 39ぺーじ~40ぺーじ参照さんしょう
  5. ^ 大内おおうち政之まさゆきかいちょ新編しんぺん金砂きんしゃ戦国せんごく』(筑波つくば書林しょりん1993ねん)114ぺーじ参照さんしょう
  6. ^ このとききた朝方あさがた常陸ひたち守護しゅごしょく 佐竹さたけ貞義さだよしそう大将たいしょうとして佐竹さたけよしふゆ馬場ばば景義かげよし大内おおうち與五郎よごろう義高よしたか小野崎おのざきまさしどおり岡部おかべ六郎ろくろう大夫たいふせんたかし二階堂にかいどう五郎ごろう、そして足利あしかが家人かじん後藤ごとう七郎しちろうもとあきら、さらに石川いしかわ中務なかつかさかい伊賀いが三郎さぶろう盛光もりみつ木田きだ九郎くろう小川おがわ時長ときなが長倉ながくら遠江とおとうみ守義もりよし、そして木村きむら二郎じろう大夫たいふ義昌よしまさなど佐竹さたけ一門いちもん足利あしかが家人かじん周辺しゅうへん国人くにびと領主りょうしゅ構成こうせいされていた。大内おおうち政之まさゆきかい前掲ぜんけいしょ筑波つくば書林しょりん、1993ねん)95ぺーじ参照さんしょう
  7. ^ 石川いしかわゆたか前掲ぜんけいしょ(いばらきタイムズしゃ、1968ねん) 35ぺーじ大内おおうち政之まさゆきかい前掲ぜんけいしょ筑波つくば書林しょりん、1993ねん)46ぺーじ参照さんしょう
  8. ^ a b 大内おおうち政之まさゆきかい前掲ぜんけいしょ筑波つくば書林しょりん、1993ねん)114ぺーじ、115ぺーじ参照さんしょう
  9. ^ a b c d e 大内おおうち政之まさゆきかい前掲ぜんけいしょ筑波つくば書林しょりん、1993ねん)115ぺーじ参照さんしょう
  10. ^ 徳川とくがわぞう水戸みとはん史料しりょうへん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん1970ねんまきじゅうきゅう928ぺーじ参照さんしょう明田あけた鉄男てつおへん幕末ばくまつ維新いしんぜん殉難じゅんなんしゃ名鑑めいかん1』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ1986ねん)423ぺーじには川野辺かわのべ太一たいち衛門えもんのりとある。なお、かわ野辺のべ四郎次しろうじ久慈くじぐん金村かなむら百姓ひゃくしょういみな盛義もりよしという。天狗てんぐとうぞくし、とらえられる。慶応けいおう2ねん(1866ねん6月21にち江戸えどつくだとう獄死ごくし享年きょうねん53。没後ぼつご靖国神社やすくにじんじゃ合祀ごうしされる。また、河野こうのあたりかい久慈くじぐん金村かなむら百姓ひゃくしょうでありいみなという。天狗てんぐとうぞくすもとらえられ、武蔵むさしかわえつから江戸えどつくだとううつされ慶応けいおう2ねん(1866ねん6月23にち獄死ごくし享年きょうねん27(25とも)これらりょうめいについては明田あけた鉄男てつお前掲ぜんけいしょ新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ1986ねん)422ぺーじくわしい。
  11. ^ 石川いしかわゆたか前掲ぜんけいしょ(1968ねん、いばらきタイムズしゃ) 33ぺーじおよび35ぺーじ大内おおうち政之まさゆきかい前掲ぜんけいしょ筑波つくば書林しょりん、1993ねん)114ぺーじ、115ぺーじ参照さんしょう

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 明田あけた鉄男てつおへん幕末ばくまつ維新いしんぜん殉難じゅんなんしゃ名鑑めいかん1』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1986ねんISBN 4404013353
  • 石川いしかわゆたかちょ南朝なんちょう秘録ひろく 那珂なかどおりたつ常陸ひたち豪族ごうぞく』(いばらきタイムズしゃ、1968ねん)
  • 大内おおうち政之まさゆきかいちょ新編しんぺん金砂きんしゃ戦国せんごく』(筑波つくば書林しょりん、1993ねん
  • 太田おおたあきらちょ上田うえだ萬年かずとし三上みかみさん監修かんしゅう姓氏せいし家系かけいだい辞典じてん だい3かん』(角川書店かどかわしょてん、1934ねん
  • 徳川とくがわ家蔵かぞう水戸みとはん史料しりょうへん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1970)
  • 日本にっぽん家紋かもん研究けんきゅうかいへん家紋かもんでわかるあなたの祖先そせん 茨城いばらきけん北部ほくぶ地方ちほう』(日本にっぽん家紋かもん研究けんきゅうかい、2001ねん
  • 日本にっぽん家紋かもん研究けんきゅうかいへん家紋かもんでわかるあなたの祖先そせん 茨城いばらきけん南部なんぶ地方ちほう』(日本にっぽん家紋かもん研究けんきゅうかい、2001ねん
  • 野口のぐちみのるちょ伝説でんせつ将軍しょうぐん 藤原ふじわらしげるきょう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2001ねんISBN 4642077790
  • 安木やすぎ三郎さぶろうちょ藤原ふじわらしげるきょう将軍しょうぐん』(牧歌ぼっかしゃ、2006ねんISBN 4434074369

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

川野辺かわのべ関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

常陸ひたちこくしゅうきょうりゅう藤原ふじわらぞく

[編集へんしゅう]