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けいこういんしゅん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
けいこういん しゅん
時代じだい 昭和しょうわ時代じだい - 平成へいせい時代じだい
生誕せいたん (1903-03-12) 1903ねん3月12にち
日本の旗 日本にっぽん三重みえけん伊勢いせ
死没しぼつ (1990-03-20) 1990ねん3がつ20日はつか(87さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん三重みえけん伊勢いせ
かみごう けいこういんしゅん大人おとないのち
官位かんい したがえろく
主君しゅくん 昭和しょうわ天皇てんのう上皇じょうこう
氏族しぞく けいこういん
父母ちちはは ちちけいこういんけいはは清水しみずウタ
兄弟きょうだい 敏子としこ治子はるこ利彰としあきしゅん
配偶はいぐうしゃ けいこういん澄江すみえ饗庭あえばひかり寿ことぶきさんじょ
親戚しんせき 二条にじょうひとしけい祖父そふ
二条にじょうただし麿まろ伯父おじ
じょう弼基従弟じゅうてい神宮じんぐうだい宮司ぐうじ
けいこういんおい霧島きりしま神宮じんぐう宮司ぐうじ[* 1]
奉職ほうしょく神社じんじゃ 日光にっこう東照宮とうしょうぐう(1928ねん - 1937ねん
鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう(1937ねん - 1938ねん
熱田あつた神宮じんぐう(1938ねん - 1942ねん
愛知あいちけん護國ごこく神社じんじゃ(1941ねん - 1942ねん
結城ゆうき神社じんじゃ(1942ねん - 1944ねん
伊勢神宮いせじんぐう(1944ねん - 1990ねん
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けいこういん しゅん(けいこういん しゅん、明治めいじ36ねん1903ねん3月12にち[1] - 平成へいせい2ねん1990ねん3がつ20日はつか[2])は、昭和しょうわ時代じだいから平成へいせい時代じだいにかけての日本にっぽん神職しんしょく伊勢神宮いせじんぐう大宮おおみやつかさ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

庶子しょしまれて[編集へんしゅう]

1903ねん明治めいじ36ねん)、三重みえけんまれた[1]生母せいぼ京都きょうと士族しぞくせき女性じょせい清水しみずウタである[3]けいこういん伊勢神宮いせじんぐう式年しきねん遷宮せんぐう再興さいこう尽力じんりょくしたけいこういん院主いんじゅ遺跡いせきいだけいこういんみつる維新いしんおこしたいえである。ちちけい二条にじょうひとしけい息子むすこであることから[4]しゅんかまあしちょく男系だんけいおとこ子孫しそんにあたる[注釈ちゅうしゃく 1]しゅんは、けい最初さいしょ息子むすこではあったが庶子しょしであったため家督かとくぐことはく、のちに分家ぶんけする[3]

1916ねん大正たいしょう5ねん)、三重みえ県立けんりつだいよん中学校ちゅうがっこう入学にゅうがく[5]同級生どうきゅうせいにはのちに日本にっぽん代表だいひょうする映画えいが監督かんとくとなる小津おつあん二郎じろうがいた[5]1927ねん昭和しょうわ2ねん)3がつ神宮じんぐうすめらぎがくかんだい1ほん卒業そつぎょうした[1][6]

東照宮とうしょうぐう祠官しかん時代じだい[編集へんしゅう]

神宮じんぐうすめらぎがくかん卒業そつぎょう同年どうねんちゅう日光にっこう東照宮とうしょうぐう赴任ふにん[7]よく1928ねん昭和しょうわ3ねん)にはどうみやぬしてんにんじられた[1]すうねん同級生どうきゅうせい小津おつから「おれ今度こんど撮影さつえいするんだが陽明ようめいもんまえでやらせろ」(のあたるいえ, p. 116)とわれ、開門かいもんまえに『じょうさん』のワンシーンを撮影さつえいさせた[8]開門かいもん時間じかん以外いがいひとれるのは規則きそく違反いはんであったが[9]、「東照宮とうしょうぐう宣伝せんでん」という解釈かいしゃくもって、藤巻ふじまき正之まさゆき宮司ぐうじからはすこしかられたのみであった[10]

しょしゃ転任てんにんして[編集へんしゅう]

1937ねん昭和しょうわ12ねん)、鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう禰宜ねぎ就任しゅうにんした[1]1938ねん昭和しょうわ13ねん4がつ16にち熱田あつた神宮じんぐうけん宮司ぐうじにんじられ[1][11][注釈ちゅうしゃく 2]5月16にちにははじめての叙位じょいとしてせいななじょされた[12]

1941ねん昭和しょうわ16ねん8がつ2にち愛知あいちけん護國ごこく神社じんじゃ社司しゃし兼任けんにんした[13]1942ねん昭和しょうわ17ねん3月19にち熱田あつた神宮じんぐうけん宮司ぐうじ愛知あいちけん護國ごこく神社じんじゃ社司しゃしから結城ゆうき神社じんじゃ宮司ぐうじ転任てんにんした[14][15][注釈ちゅうしゃく 3]

神宮じんぐう祠官しかんとして[編集へんしゅう]

神宮じんぐう禰宜ねぎ[編集へんしゅう]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)、伊勢神宮いせじんぐう禰宜ねぎ転任てんにん[1]高等官こうとうかんろくとうじょされた[16]。さらに1946ねん昭和しょうわ21ねん)1がつには高等官こうとうかんとう陞叙しょうじょした[16]神宮じんぐうつかさちょういては、同年どうねん2がつ3にち文化ぶんか課長かちょう就任しゅうにんした[17][注釈ちゅうしゃく 4]1956ねん昭和しょうわ31ねん)6がつには秘書ひしょ課長かちょう就任しゅうにん[19][注釈ちゅうしゃく 5]、のち秘書ひしょ部長ぶちょう昇進しょうしんした[19]

神宮じんぐう禰宜ねぎつとめるかたわら、すめらぎがくかん再興さいこうにも尽力じんりょくした。1946ねん昭和しょうわ21ねん11月16にち五十鈴いすずかい常任じょうにん理事りじ就任しゅうにんした[21]

1962ねん昭和しょうわ37ねん1がつ10日とおかすめらぎがくかん後援こうえんかい三重みえけん本部ほんぶ結成けっせい総会そうかい神宮じんぐう祭主さいしゅしょくしゃきゅうけいこういん)でひらかれ、しゅん禰宜ねぎとして櫻井さくらい勝之かつゆきすすむ禰宜ねぎとも出席しゅっせきした[22]同年どうねん3月23にちには学校がっこう法人ほうじん理事りじ教授きょうじゅはつかおごうかいひらかれ、これには常任じょうにん理事りじとして出席しゅっせきした[23]

1963ねん昭和しょうわ38ねん6月1にち同年どうねん4がつ開校かいこうしたすめらぎがくかん高等こうとう学校がっこう保護ほごしゃかい結成けっせいされ、その初代しょだい会長かいちょう就任しゅうにんした[24]1964ねん昭和しょうわ39ねん5月17にち保護ほごしゃ総会そうかいにてけいこういん会長かいちょう再任さいにん[25]1965ねん昭和しょうわ40ねん5月15にち総会そうかいでも会長かいちょうしょく留任りゅうにんすることが決定けっていした[26]

1971ねん昭和しょうわ46ねん12月24にち学校がっこう法人ほうじん皇學館大学こうがくかんだいがく常任じょうにん理事りじ就任しゅうにんした[27]

神宮じんぐうしょう宮司ぐうじ[編集へんしゅう]

けいこういん二条にじょう関係かんけい系図けいず
 
 
二条にじょうひとしけい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
二条にじょうただし麿まろ
 
けいこういんけい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
じょう弼基
 
けいこういんしゅん
実父じっぷ実子じっし優先ゆうせんした。

1974ねん昭和しょうわ49ねん5月31にちちちけいわば極官きょっかんであった伊勢神宮いせじんぐうしょう宮司ぐうじにんじられ、神社じんじゃ本庁ほんちょう理事りじとなった[1][19][28]6月5にち前任ぜんにん田中たなか喜芳きよしとも宮殿きゅうでん鳳凰ほうおうあいだ」で昭和しょうわ天皇てんのう拝謁はいえつした[29]昭和しょうわ天皇てんのうへは同年どうねん11月8にち式年しきねん遷宮せんぐう神宮じんぐう参拝さんぱいや、よく1975ねん昭和しょうわ50ねん10月25にち訪米ほうべい帰国きこく奉告ほうこく参拝さんぱいさいにも、徳川とくがわ宗敬むねよしだい宮司ぐうじとも拝謁はいえつした[30]

1976ねん昭和しょうわ51ねん3月2にち徳川とくがわだい宮司ぐうじ退任たいにんし、じょう弼基後任こうにんだい宮司ぐうじ就任しゅうにんした[31]しゅん二条にじょうだい宮司ぐうじ従兄じゅうけいたり、だいしょう宮司ぐうじ従兄弟いとこ同士どうしつとめることになった(関係かんけい系図けいず参照さんしょう)。

このとき皇學館大学こうがくかんだいがくは、1982ねん昭和しょうわ57ねん)に創立そうりつひゃく周年しゅうねんむかえるため、それに関連かんれんするしょ事業じぎょうおこなわれていた。創立そうりつひゃく周年しゅうねん記念きねん刊行かんこうぶつ神宮じんぐう古典こてんせき影印えいいんくさむらかん』にいては、二条にじょうだい宮司ぐうじとも顧問こもんつらねた[32]。また、1980ねん昭和しょうわ55ねん7がつ7にち創立そうりつひゃく周年しゅうねん記念きねん講堂こうどう地鎮祭じちんさい来賓らいひんとしてじょう大宮おおみやつかさとも出席しゅっせきした[33]

1981ねん昭和しょうわ56ねん)2がつ、50ねん以上いじょうちょうきにわた神明しんめい奉仕ほうし功労こうろうもって、神社じんじゃ本庁ほんちょう長老ちょうろう称号しょうごう鳩杖はとづえおくられた[1][19]

1985ねん昭和しょうわ60ねん6月24にち二条にじょうだい宮司ぐうじわって勅使ちょくし参向さんこう神社じんじゃ宮司ぐうじ33めいとも昭和しょうわ天皇てんのう拝謁はいえつした[34]8がつ28にち二条にじょうだい宮司ぐうじかえりかそけした[35][36]

また、しょう宮司ぐうじ時代じだいには一色いっしょく神社じんじゃ社名しゃめいがく揮毫きごうした[* 2]

神宮じんぐうだい宮司ぐうじ[編集へんしゅう]

1985ねん昭和しょうわ60ねん10月7にち推薦すいせん上申じょうしん昭和しょうわ天皇てんのう承認しょうにんしたことにより、しゅん神社じんじゃ本庁ほんちょう理事りじして伊勢神宮いせじんぐうだい宮司ぐうじ昇任しょうにんした[1][19][35][37][注釈ちゅうしゃく 6]神宮じんぐういてしょう宮司ぐうじからだい宮司ぐうじへの昇進しょうしん異例いれいのことであった[19]以降いこう毎年まいとし6がつには、だい宮司ぐうじとして勅使ちょくし参向さんこう神社じんじゃ宮司ぐうじ33めいとも昭和しょうわ天皇てんのう拝謁はいえつした[注釈ちゅうしゃく 7]

1987ねん昭和しょうわ62ねん)には、青森あおもりにある善知鳥うとう神社じんじゃせい遷座せんざ1180ねんさい記念きねんして、とくはからって神宮じんぐうらくに「善知鳥うとうまい(うとうまい)」を制作せいさくさせたが、これは青森あおもり永久えいきゅう安寧あんねいねがい、善知鳥うとう(うとう)というとり親子おやこ情愛じょうあい表現ひょうげんしたまいである[* 3]

1988ねん昭和しょうわ63ねん)4がつちょう疾患しっかんにより入院にゅういん手術しゅじゅつ一時いちじ恢復かいふくした[19]10月27にちだい宮司ぐうじとして健康けんこうじょう理由りゆうによる鷹司たかつかさ和子かずこ神宮じんぐう祭主さいしゅ退任たいにん池田いけだ厚子あつこしん神宮じんぐう祭主さいしゅ奉戴ほうたいもう[42]よく10月28にち昭和しょうわ天皇てんのう体調たいちょうくずしていたなかでこれを承認しょうにんし、同日どうじつ池田いけだ厚子あつこ祭主さいしゅ就任しゅうにんした[42]

1989ねん平成へいせい元年がんねん11月3にち病体びょうたい鞭打むちうって宇治橋うじばしわたりはじめしき奉仕ほうししたが、ふたた入院にゅういんすることになった[19]

1990ねん平成へいせい2ねん3月12にち午前ごぜん150ふん入院にゅういんさき日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃ山田やまだ病院びょういんにて、だい宮司ぐうじ在任ざいにんちゅうのまま87さいかそけした[2][19]家族かぞく密葬みっそうおこなわれたのち、4がつ24にち細川ほそかわ護貞もりさだ神社じんじゃ本庁ほんちょうすべ葬儀そうぎ委員いいんちょうとなり、三重みえ県営けんえい体育館たいいくかんにてかみ宮司ぐうじちょうそうときぎょうされた[2][19]かみごうけいこういんしゅん大人おとないのち(けいこういんしゅんうしのみこと)[43]

後任こうにんだい宮司ぐうじには久邇くに邦昭くにあき5月15にち就任しゅうにん[44]しゅん祖先そせんおなじように準備じゅんびんでいただい61かい神宮じんぐう式年しきねん遷宮せんぐう1993ねん平成へいせい5ねん)にときぎょうした。

けいこういんしゅん奨学しょうがくきん[編集へんしゅう]

しゅんいちねんさい終了しゅうりょうつま澄江すみえ皇學館大学こうがくかんだいがく寄付きふきんおくった[19]。これを基金ききんとして1992ねん平成へいせい4ねん4がつ1にち、「けいこういんしゅん奨学しょうがくきん(けいこういんしゅんしょうがくきん)」が創設そうせつされたが、これは神職しんしょく課程かてい履修りしゅうしゃちゅう優秀ゆうしゅうしゃの3年生ねんせいおよび4年生ねんせいかく1めいたいして、年額ねんがく10まんえん給付きゅうふおこなうものである[45][46]

2016ねん平成へいせい28ねん)12月には皇室こうしつ制度せいど学者がくしゃつじ󠄀博仁ひろひと受賞じゅしょうした[* 4]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

  • 趣味しゅみはスポーツである[1]
  • ぶた経営けいえいする「若柳わかやなぎ」のは、しゅんがこれをあたえたという[* 1]

栄典えいてん[編集へんしゅう]

位階いかい

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 系譜けいふとしては、藤原鎌足ふじわらのかまたり─1.とう─2.房前ふさざき─3.だて─4.うち麻呂まろ─5.ふゆ─6.長良ながら─7.もとけい─8.忠平ちゅうへい─9.─10.けん─11.道長みちなが─12.頼通よりみち─13.─14.どおり─15.忠実ちゅうじつ─16.ちゅうどおり─17.九条くじょうけん─18.りょうけい─19.道家みちや─20.二条にじょうりょう─21.兼基かねもと─22.道平どうたいら─23.良基よしもと─24.─25.もちもと─26.どおり─27.せい─28.なおもと─29.いんぼう─30.はれりょう─31.鷹司たかつかさ信房のぶふさ─32.しんじなお─33.きょうひらた─34.九条くじょうけんはれ─35.輔実─36.こうきょう─37.じょうそうはじめ─38.治孝はるたか─39.ひとししん─40.ひとしけい─41.けいこういんけい─42.しゅんつづく。すなわちしゅんかまあしの42せいにあたる。
  2. ^ 前任ぜんにん熱田あつた神宮じんぐうけん宮司ぐうじ杉村すぎむらかおるは、豊榮ほうえい神社じんじゃ野田のだ神社じんじゃ宮司ぐうじとなった[11]
  3. ^ 同日どうじつ空席くうせきとなった熱田あつた神宮じんぐうけん宮司ぐうじおよび愛知あいちけん護國ごこく神社じんじゃ社司しゃしには、篠田しのだ康雄やすお就任しゅうにんした[14][15]篠田しのだはのちに熱田あつた神宮じんぐう宮司ぐうじつとめる。
  4. ^ 退任たいにんしょうだが1947ねん昭和しょうわ22ねん)5がつ段階だんかいではまだこの役職やくしょくいていることがかる[18]
  5. ^ 退任たいにんしょうだが1959ねん昭和しょうわ34ねん)7がつから1961ねん昭和しょうわ36ねん)11月のあいだはこの役職やくしょくいていることがかる[20]
  6. ^ 後任こうにんしょう宮司ぐうじには神宮じんぐう教学きょうがく研究けんきゅういんはたかけ正浩まさひろクボタ社長しゃちょうはたかけ大輔だいすけちち)が10月11にち任命にんめいされ[35]同日どうじつ午後ごごしゅんはたかけ宮殿きゅうでん鳳凰ほうおうあいだ」で昭和しょうわ天皇てんのう拝謁はいえつした[38]
  7. ^ 1986ねん昭和しょうわ61ねん6がつ10日とおか[39]1987ねん昭和しょうわ62ねん6月9にち[40]1988ねん昭和しょうわ63ねん6月7にち[41]

書籍しょせき出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 神道しんとう人名じんめい辞典じてん, p. 432.
  2. ^ a b c 神宮じんぐう年表ねんぴょう, p. 273.
  3. ^ a b 人事じんじ興信録こうしんろく』9はん, p. ケ1.
  4. ^ 平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい下巻げかん, p. 319.
  5. ^ a b のあたるいえ, p. 112.
  6. ^ 皇學館大学こうがくかんだいがくひゃくさんじゅうねん資料しりょうへんいち, p. 1067.
  7. ^ のあたるいえ, p. 116.
  8. ^ のあたるいえ, p. 117.
  9. ^ のあたるいえ, pp. 116–117.
  10. ^ のあたるいえ, pp. 117–118.
  11. ^ a b 官報かんぽうだい3385ごう, p. 699.
  12. ^ a b 官報かんぽうだい3426ごう, p. 295.
  13. ^ てい愛知あいちけん護國ごこく神社じんじゃ年表ねんぴょう, p. 46.
  14. ^ a b 官報かんぽうだい4557ごう, p. 588.
  15. ^ a b てい愛知あいちけん護國ごこく神社じんじゃ年表ねんぴょう, p. 53.
  16. ^ a b 戦後せんご神道しんとうかいの羣像』, p. 37, 「けいこういんしゅん」.
  17. ^ 戦後せんご神道しんとうかいの羣像』, pp. 37–38, 「けいこういんしゅん」.
  18. ^ 皇學館大学こうがくかんだいがくひゃくさんじゅうねん資料しりょうへん, p. 926.
  19. ^ a b c d e f g h i j k 戦後せんご神道しんとうかいの羣像』, p. 38, 「けいこういんしゅん」.
  20. ^ 皇學館大学こうがくかんだいがくひゃくさんじゅうねん資料しりょうへん, p. 1138, 1251.
  21. ^ 皇學館大学こうがくかんだいがくひゃくさんじゅうねん総説そうせつへん, p. 223.
  22. ^ 皇學館大学こうがくかんだいがくひゃくさんじゅうねん資料しりょうへん, p. 1280.
  23. ^ 皇學館大学こうがくかんだいがくひゃくさんじゅうねん資料しりょうへん, p. 1313.
  24. ^ 皇學館大学こうがくかんだいがくひゃくさんじゅうねん総説そうせつへん, p. 657.
  25. ^ 皇學館大学こうがくかんだいがくひゃくさんじゅうねん総説そうせつへん, p. 661.
  26. ^ 皇學館大学こうがくかんだいがくひゃくさんじゅうねん総説そうせつへん, p. 664.
  27. ^ 皇學館大学こうがくかんだいがくひゃくさんじゅうねん総説そうせつへん, p. 396.
  28. ^ 神宮じんぐう年表ねんぴょう, p. 265.
  29. ^ 昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろくだいじゅうろく, p. 63.
  30. ^ 昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろくだいじゅうろく, p. 124, 344.
  31. ^ 神宮じんぐう年表ねんぴょう, p. 266.
  32. ^ 皇學館大学こうがくかんだいがくひゃくさんじゅうねん資料しりょうへんさん, p. 781.
  33. ^ 皇學館大学こうがくかんだいがくひゃくさんじゅうねん資料しりょうへんさん, p. 616.
  34. ^ 昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろくだいじゅうはち, p. 212.
  35. ^ a b c 神宮じんぐう年表ねんぴょう, p. 270.
  36. ^ 平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい下巻げかん, p. 321.
  37. ^ 昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろくだいじゅうはち, p. 252.
  38. ^ 昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろくだいじゅうはち, p. 254.
  39. ^ 昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろくだいじゅうはち, p. 355.
  40. ^ 昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろくだいじゅうはち, p. 490.
  41. ^ 昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろくだいじゅうはち, p. 614.
  42. ^ a b 昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろくだいじゅうはち, p. 676.
  43. ^ a b 『誄詞・神葬しんそうさいさい, p. 608, 「けいこういんしゅん大人おとないのちじゅうねんさい」.
  44. ^ 神宮じんぐう年表ねんぴょう, p. 274.
  45. ^ 皇學館大学こうがくかんだいがくひゃくさんじゅうねん総説そうせつへん, p. 796–797.
  46. ^ 皇學館大学こうがくかんだいがくひゃくさんじゅうねん年表ねんぴょうへん写真しゃしんへん, p. 386.

サイト出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b だい18かいすきやれん例会れいかい(26ねんなつ例会れいかい)”. 江戸えど東京とうきょう野菜やさい通信つうしん (2014ねん8がつ10日とおか). 2020ねん9がつ22にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2022ねん4がつ30にち閲覧えつらん
  2. ^ 一色いっしょく神社じんじゃ”. 神宮じんぐうじゅん (2011ねん5がつ3にち). 2013ねん12月14にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2022ねん5がつ11にち閲覧えつらん
  3. ^ 御朱印ごしゅいんちょう授与じゅよのおらせ”. 善知鳥うとう神社じんじゃ 参拝さんぱいのすゝめ (2020ねん11月18にち). 2020ねん11月18にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2022ねん4がつ30にち閲覧えつらん
  4. ^ つじ博仁ひろひと”. researchmap. 科学かがく技術ぎじゅつ振興しんこう機構きこう. 2022ねん4がつ22にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2022ねん4がつ30にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

参考さんこう図書としょ[編集へんしゅう]

  • 人事じんじ興信録こうしんろく人事じんじ興信所こうしんじょへん(9はん)、人事じんじ興信所こうしんじょ、1931ねん 
  • 神道しんとう人名じんめい辞典じてん神社じんじゃ新報しんぽうしゃへん神社じんじゃ新報しんぽうしゃ、1986ねんISBN 4-915265-56-0 
  • 中学ちゅうがく時代じだい同窓生どうそうせい奥山おくやま正次まさつぐろうけいこういんしゅん中井なかいじょさん」『のあたるいえ小津おつやすろうとともに』井上いのうえ和男かずお編著へんちょ、フィルムアートしゃ、1993ねん、112-126ぺーじ 
  • 平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい下巻げかんかすみ会館かいかんへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1996ねん 
  • てい愛知あいちけん護國ごこく神社じんじゃ年表ねんぴょう岩本いわもとのり三郎さぶろう愛知あいちけん護國ごこく神社じんじゃ〈旌忠叢書そうしょ6〉、2001ねん 
  • 神宮じんぐう年表ねんぴょう神宮じんぐうつかさちょうへんえびすひかりさち出版しゅっぱん、2005ねんISBN 978-4-90090-151-3 
  • 『誄詞・神葬しんそうさいさいえびすひかりさち出版しゅっぱん最新さいしん祝詞のりと選集せんしゅうだい3かん〉、2011ねんISBN 978-4-86403-050-2 
  • 皇學館大学こうがくかんだいがくひゃくさんじゅうねん総説そうせつへんかん編纂へんさん委員いいんかいへん学校がっこう法人ほうじんすめらぎがくかん、2012ねん 
  • 皇學館大学こうがくかんだいがくひゃくさんじゅうねん資料しりょうへんいちかん編纂へんさん委員いいんかいへん学校がっこう法人ほうじんすめらぎがくかん、2013ねん 
  • 皇學館大学こうがくかんだいがくひゃくさんじゅうねん資料しりょうへんかん編纂へんさん委員いいんかいへん学校がっこう法人ほうじんすめらぎがくかん、2014ねん3がつ31にち 
  • 皇學館大学こうがくかんだいがくひゃくさんじゅうねん資料しりょうへんさんかん編纂へんさん委員いいんかいへん学校がっこう法人ほうじんすめらぎがくかん、2014ねん3がつ31にち 
  • 皇學館大学こうがくかんだいがくひゃくさんじゅうねん年表ねんぴょうへん写真しゃしんへんかん編纂へんさん委員いいんかいへん学校がっこう法人ほうじんすめらぎがくかん、2014ねん12月25にち 
  • けいこういんしゅん」『戦後せんご神道しんとうかいの羣像』藤本ふじもとよりゆきせいしる神社じんじゃ新報しんぽうしゃへん神社じんじゃ新報しんぽうしゃ、2016ねん、37-38ぺーじISBN 978-4-908128-09-7 
  • 昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろくだいじゅうろく宮内庁くないちょうへん東京書籍とうきょうしょせき、2018ねん3がつ30にちISBN 978-4-487-74416-9 
  • 昭和しょうわ天皇てんのう実録じつろくだいじゅうはち宮内庁くないちょうへん東京書籍とうきょうしょせき、2018ねん3がつ30にちISBN 978-4-487-74418-3 

行政ぎょうせい文書ぶんしょ[編集へんしゅう]

  • 官報かんぽうだい3385ごう、1938ねん4がつ18にち 
  • 官報かんぽうだい3426ごう、1938ねん6がつ7にち 
  • 官報かんぽうだい4557ごう、1942ねん3がつ20日はつか