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きよしまきこう

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水心みずごころから転送てんそう

きよしまきこう(せいしんこうき)とは、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき関白かんぱくつとめた藤原ふじわらみのるよりゆき日記にっき。「きよしまきこう」はじつよりゆき諡号しごうで、そのへんより水心みずごころ(すいしんき)、邸宅ていたく名称めいしょうから小野おのみや(おののみやき)ともしょうした。もっとも、これらの名称めいしょうじつよりゆきぼつ呼称こしょうであり、じつよりゆき本人ほんにんたんに「私記しき」としょうしていた(これは、当時とうじ貴族きぞく自己じこ日記にっきもちいた一般いっぱんてき名称めいしょうである)。

じつよりゆきは、儀礼ぎれいについてふか研究けんきゅうしたことでられ、のち小野おのみやりゅうばれるかれとする流派りゅうは根本こんぽん資料しりょうとなる宮中きゅうちゅう儀礼ぎれい慣習かんしゅうかんする記述きじゅつ多数たすうふくまれていたとわれている。だが、まごおおやけにんが『きよしまきこう』の記述きじゅつ内容ないよう分野ぶんやべつにまとめた「部類ぶるい」を作成さくせいするさいに『きよしまきこう』の原本げんぽんりしてしまったために全巻ぜんかん紙屑かみくずしてしまうという出来事できごとがあり、所有しょゆうしゃであり従兄弟いとこじつ激怒げきどしたという逸話いつわがある(『しょう右記うき寛仁かんじん4ねん8がつ18にち1020ねん9月8にちじょう万寿まんす2ねん7がつ7にち1025ねん8がつ3にちじょうどう5ねん7がつ1にち1028ねん7がつ25にちじょう)。さらおおやけにん作成さくせいした「部類ぶるい」の一部いちぶおおやけにんむすめ婿むこきょうどおりいえかれたときに火災かさい焼失しょうしつ(『しょう右記うき長和ながわ4ねん4がつ13にち1015ねん5月3にちじょう)した。そののこりとされる6かんは、そうただし(『ちゅう右記うき』の著者ちょしゃ)が小野おの宮家みやけあらわなかから材木ざいもくえにゆずけ、のち白河しらかわ法皇ほうおうされたものの、そうただしたんに「私記しき」としるしてあったしょが『きよしまきこう』とづかなかったため、ゆずったと主張しゅちょうするあらわなか事実無根じじつむこんとするそうただしあいだ紛争ふんそうになったとされる。のちにこの6かん散逸さんいつしてしまったために、今日きょうにはつたわっていない。

なお、おおやけにん著書ちょしょ北山きたやましょう』には「私記しき」と注記ちゅうきされた引用いんよう部分ぶぶんがあり、これは『きよしまきこう』からの引用いんようであるとかんがえられている。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • もも裕行ひろゆき「『北山きたやましょう』と『きよしまきこう』」(もり克己かつみ博士はかせ古稀こき記念きねん対外たいがい関係かんけい政治せいじ文化ぶんか所収しょしゅう 1974ねんもも裕行ひろゆき古記こきろく研究けんきゅうじょう(『もも裕行ひろゆき著作ちょさくしゅう』4)さいろく 1988ねん

関連かんれん項目こうもく

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  1. ^ 便宜上べんぎじょう現存げんそん部分ぶぶんが866ねん以降いこうはじまる古記こきろくとした。
  2. ^ 便宜上べんぎじょう現存げんそん部分ぶぶんが1086ねん以降いこうはじまる古記こきろくとした。