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日記にっき

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
古記こきろくから転送てんそう
にち戦争せんそう出征しゅっせいした兵士へいしいた日記にっき

日記にっき(にっき)は、個人こじん日々ひび出来事できごと記録きろくした文書ぶんしょである。たんなる記録きろくとしてあつかわれるものから、文学ぶんがくとしてあつかわれるものまで、その内容ないよう様々さまざまである。ある人物じんぶつ生涯しょうがいにわたってしるされるような長期ちょうきにわたるものから、あるたびたび日記にっき航海こうかい日誌にっし)、ある職務しょくむ日報にっぽう)、ある事件じけんなどのあいだだけしるされた短期たんきのものまで、期間きかん分量ぶんりょう様々さまざまであり、西洋せいよう東洋とうようわず、世界せかいてき存在そんざいする。

日記にっき文学ぶんがく

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日記にっきかれるおも契機けいきひとつとして、たび記録きろくがある(これが書物しょもつにまとめられると紀行きこうぶんとなる)。仕事しごとであれ、私的してき所用しょようであれ、戦争せんそうへの従軍じゅうぐんであれ、特別とくべつ出来事できごと内容ないよう見聞けんぶん心覚こころおぼえをしるしたものとして日記にっきかれた。古代こだいローマのカエサルガリア征服せいふく経過けいかしるした『ガリア戦記せんき』がその有名ゆうめいれいである。

日本にっぽんでも、遣唐使けんとうし随行ずいこう日誌にっしなど、たび日記にっき紀行きこう)の伝統でんとうふるく、円仁えんにんの『入唐にっとう求法ぐほう巡礼じゅんれいぎょう』のように世界せかいてき著名ちょめい紀行きこうが、9世紀せいきまれている。

平安へいあん時代じだい、9世紀せいきまつ日本にっぽんでは、国家こっか体制たいせい変化へんかのもと、儀式ぎしきした政務せいむのために王朝おうちょう貴族きぞくたちは、そと日記にっきなど国家こっか記録きろくとはべつ私的してき日記にっき作成さくせいはじめる。この貴族きぞくたちの日記にっき作成さくせい流行りゅうこうをもとに、女性じょせいたちの回想かいそうろくてき日記にっき文学ぶんがくまれてきたとかんがえるべきであろう。その背景はいけいには、仮名かめい文学ぶんがく成熟せいじゅく浄土じょうどきょう発展はってんによる内省ないせいてき思考しこう深化しんかなどがみとめられる。紀貫之きのつらゆきの『土佐とさ日記にっき』をはじめとして『蜻蛉とんぼ日記にっき』、『紫式部むらさきしきぶ日記にっき』、『和泉式部いずみしきぶ日記にっき』、『更級さらしな日記にっき』、『讃岐典侍さぬきのすけ日記にっき』などの平安へいあん時代じだい女流じょりゅう日記にっきや『べん内侍ないし日記にっき』、『十六夜いざよい日記にっき』などがその代表だいひょうれいである。

男性だんせい貴族きぞく日記にっきおおくは漢文かんぶんかれており、歴史れきしがく用語ようごとして漢文かんぶん日記にっきともばれるが、近年きんねんこれら儀式ぎしきのための先例せんれいのプールやマニュアルとして作成さくせいされた日記にっきを「王朝おうちょう日記にっき」としてあらたに概念がいねんする学説がくせつされている(参考さんこう文献ぶんけん松薗まつぞの2006)。

中世ちゅうせいまでは、王朝おうちょう貴族きぞく公家くげ)・僧侶そうりょにほぼかぎられていた日記にっきも、中世ちゅうせいまつから近世きんせいはいると、階層かいそうてき多様たようし、量的りょうてきにも格段かくだん増加ぞうかしていく。

近代きんだいはいると、西洋せいよう個人こじん主義しゅぎなどの影響えいきょうけ、プライベートの個人こじんてき秘密ひみつ吐露とろするためにかれたものもてくる。石川いしかわ啄木たくぼくの『マ字まじ日記にっき』などである。実体じったい私小説ししょうせつ、またはフィクションであっても、表現ひょうげん手段しゅだんとして日記にっき形式けいしきりることもある。

今日きょうでは、Weblogブログ)やインターネットうえのレンタル日記にっきサイトにおいて、特定とくてい多数たすうんでもらうことを前提ぜんていとして、おおくの公開こうかい日記にっきかれている。

なお、「日記にっき文学ぶんがく」というかたり使つかわれはじめたのは昭和しょうわはいってからのことで、書名しょめいとしては池田いけだ亀鑑きかんによる1928ねんの『宮廷きゅうてい女流じょりゅう日記にっき文学ぶんがく』がはじめてである[1]

日本人にっぽんじん日記にっき

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かわもりこうぞうは「日記にっきについて」という文章ぶんしょうで、「わたしたちが日記にっきをつけておいてよかったとおもうのは、自分じぶんふる日記にっきむとき」であり、そのことによって「自分じぶん人生じんせいについておおくのことを反省はんせいさせる」とべている。

多田ただ道太郎みちたろう加藤かとう秀俊ひでとし対談たいだんによる「日記にっき思想しそう序説じょせつ」では、日本人にっぽんじん日記にっききとよくいわれる理由りゆうとして個人こじんてき会話かいわ下手へたなことや、欧米おうべい諸国しょこくことなり、よるまえかみたいするいのがないことなどがげられている。ドナルド・キーンは『ひゃくだい過客かかく日記にっきにみる日本人にっぽんじんー』の序文じょぶんで、戦場せんじょう遺棄いきされた日本にっぽんへい日記にっき翻訳ほんやくする職務しょくむ経験けいけんからたっせられた結論けつろんひとつは、「日記にっきけるという行為こういが、日本にっぽん伝統でんとうなかにあまりにも確固かっこたる地位ちいめている」という。

日本にっぽんにおける日記にっき

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近代きんだい以前いぜん日本にっぽん史料しりょう代表だいひょうてきなものとしてげられるのが、古文書こもんじょ日記にっき中心ちゅうしんとする記録きろくるいである。

日記にっき日次にちじ(ひなみき。日々ひび行動こうどう事件じけん日次にちじってきついでゆくものでれきともしょうす)と別記べっき特定とくてい事柄ことがらについて詳細しょうさい記録きろくのこすためかれたもの)に大別たいべつできるが、日本にっぽん主流しゅりゅう日次にちじであった[2][3]。その最古さいこのものは、日本書紀にほんしょき引用いんようされた伊吉いきちれん博徳ひろのりしょ(7世紀せいきまつごろ遣唐使けんとうしわたりとう)、しゃく日本にっぽん引用いんようされたやす宿やど智徳ちとく日記にっき調しらべれん淡海たんかい日記にっきかず珥部くんしゅ(すべて7世紀せいきまつごろみずのえさるらん従軍じゅうぐん)とされる[2]

現象げんしょうてきには、ろく国史こくし編纂へんさんえた10世紀せいき以後いごに、朝廷ちょうてい政務せいむ行事ぎょうじ儀式ぎしき進行しんこうし、それらを殿上てんじょう日記にっきそと日記にっきなどのおおやけ日記にっき記録きろくする一方いっぽう、それらをうえきょうなどの立場たちば運営うんえい指導しどうする廷臣ていしん皇族こうぞくたちのあいだで、次第しだい習慣しゅうかんしていったものとかんがえられ、初期しょきのものとして、たとえば、宇多うた醍醐だいご村上むらかみ3だいの「さんだい」などの天皇てんのう日記にっき重明しげあき親王しんのうの『吏部おう』などの皇族こうぞく日記にっき藤原ふじわら忠平ちゅうへいの『さだしんおおやけ』、藤原ふじわらみのるよりゆきの『きよしまきこう』、藤原ふじわらの『きゅうれき』(きゅうじょう殿御とのご)など上級じょうきゅう貴族きぞく日記にっきられている。平安へいあん中期ちゅうき以降いこうは、摂関せっかん小野おのみやりゅう勧修寺かんしゅうじりゅう藤原ふじわらこうとうながれたいらなどが代々だいだいおおくの日記にっきのこしており、本来ほんらい儀式ぎしきのためのメモであった実用じつようひんとしての日記にっきが、12世紀せいきはいると「いえ」の日記にっきいえ形成けいせい)し、さらにべつ機能きのう付加ふかされ、なか下級かきゅうかんじんふくおおくの貴族きぞくたちによってしるされることになったとかんがえられる。なか下級かきゅうかんじん家柄いえがら代々だいだい当主とうしゅいえ所持しょじするいえとくに「日記にっきいえ」としょうした(『こんかがみ』など。また、実際じっさいには天皇てんのう摂関せっかんにも「日記にっきいえ」としての要素ようそがあった)。

今日きょうつたわる公家くげ日記にっき書名しょめいおおくは没後ぼつごけられたものであり、執筆しっぴつしゃ自身じしんは「私記しき」(藤原ふじわらみのるよりゆききよしまきこう』・藤原ふじわらぼう春記はるき』など)や「こよみ」(藤原ふじわらみのるしょう右記うき』など、ちゅうこよみ日記にっきしるしたことによる)などとれいおおかった。みずか命名めいめいした日記にっき名称めいしょう後世こうせいつたわるのは、こう奈良なら天皇てんのう天聴てんちょうしゅう』や中院なかのいんとおるしゅう塵芥じんかい』など少数しょうすうである。おおくは執筆しっぴつしゃいみな偏旁へんぼうってかさねたり、諡号しごう官職かんしょく姓氏せいし居所きょしょやこれらをわせたものが、後世こうせいひとによって命名めいめいされた。1つの日記にっき複数ふくすう名称めいしょうもちいられる事例じれいおおく、藤原ふじわらみのる日記にっきかれが「“小野おの宮家みやけ”の“右府うふ右大臣うだいじん)”」であったということから、『しょう右記うき』・『』という名称めいしょう並存へいそんし、さら祖父そふじつよりゆきの『きよしまきこう』の別称べっしょう水心みずごころ』より、『ぞく水心みずごころ』ともばれている。また、平信へいしんはん日記にっきは、かれいみなへんからった『ひとしゃ』(しんひとはんくるま)と兵部ひょうぶきょう官職かんしょくいみないちわせた『へいはん』、さらに「ほらいん地区ちくめい)にたいら」という意味いみの『ひらほら』という呼称こしょう併称へいしょうされた。

当時とうじかみ貴重きちょうであったために、日記にっきちゅうれきなどのこよみ余白よはく裏側うらがわ記載きさいしたり、反故ほごになったかみ裏側うらがわもちいられたれい紙背しはい文書ぶんしょ)がおおい。また、これを上手うま利用りようしたものとして、伏見ふしみみやさだなり親王しんのうの『日記にっき』のようにみずからの和歌わか連歌れんが書付かきつけうら日記にっきしるしてうた日記にっき両方りょうほう保存ほぞんはかろうとしたれい万里小路まりこうじぼうの『けん内記ないき』のように出来事できごと関連かんれんしてりされた手紙てがみ文書ぶんしょ裏側うらがわにその出来事できごとかんする日記にっきつづったれいもある。また、日記にっき著者ちょしゃ後日ごじつになってあらためて文書ぶんしょ整理せいりして清書せいしょしたれい(『こうじょうどおり』・『へいはん』など)もある。なお、子孫しそん日記にっき書写しょしゃ清書せいしょするれいもあったが、その場合ばあい重要じゅうようとはおもわれない部分ぶぶん省略しょうりゃくされる場合ばあいはあるものの、原文げんぶん忠実ちゅうじつ書写しょしゃされることがおおく、写本しゃほんあいだ異同いどうおおきくはない。また、著者ちょしゃあるいは子孫しそん日記にっき内容ないよう検索けんさくするために目録もくろく作成さくせいしたり、分野ぶんやごとにけた「部類ぶるい」とばれるべつほん作成さくせいすることもある。なお、藤原ふじわらみのるよりゆきの『きよしまきこう』の「部類ぶるい」を作成さくせいするさいまご藤原公任ふじわらのきんとう原本げんぽんりしてしまったために全巻ぜんかん紙屑かみくずしてしまうという出来事できごとがあり、従兄弟いとこ藤原ふじわらみのる激怒げきどしたという逸話いつわがある。当時とうじ、「部類ぶるい作成さくせいには一旦いったん写本しゃほん作成さくせいして、その写本しゃほんりするのが常識じょうしきとされ、おおやけにんがそれにしたがわず原本げんぽん破損はそんさせたためにじつ激怒げきどさせたのであるが、実際じっさいには日記にっき裁断さいだんされてつくられたとみられる掛軸かけじくじょう(「古筆切こひつぎれ」)も存在そんざいしており、その過程かてい散逸さんいつした日記にっきすくなくなかったとされている。

平安へいあん時代じだいには公家くげふかいつながりのあった僧侶そうりょ日記にっき登場とうじょうし、中世ちゅうせいはいると寺社じしゃ日記にっき発生はっせいするようになる。寺院じいん日記にっきとしては『東寺とうじ執行しっこう日記にっき』・『大乗だいじょういん寺社じしゃ雑事ざつじ』・『多聞たもんいん日記にっき』、神社じんじゃ日記にっきとしては『鶴岡つるおか社務しゃむ日記にっき』・『春日しゅんじつしゃ記録きろく』・『祇園ぎおん執行しっこう日記にっき』などがある。さら鎌倉かまくら時代じだいには武家ぶけ日記にっき出現しゅつげんし、『吾妻あづまきょう』は近年きんねんでは御家人ごけにんなどの日記にっき集成しゅうせいしてつくった記録きろくしゅうであったとかんがえられている。武家ぶけ日記にっき公家くげ僧侶そうりょのそれよりもつたわるかずすくないものの、室町むろまち時代ときよ蜷川にながわ親元ちかもと親元おやもと日記にっき』や相良さがらただしにんせいにん』、だいたてしょう大館おおだてつねきょう日記にっき』、戦国せんごく時代じだいから江戸えど時代じだい初期しょきにかけての上井かみいさとしけん上井かみいさとしけんにちちょう』や梅津うめづ政景まさかげ梅津うめづ政景まさかげ日記にっき』などすぐれた日記にっきつたわっている。

江戸えど時代じだいはいると、学者がくしゃ庶民しょみん商人しょうにん名主なぬしなど)のあいだにも日記にっき風習ふうしゅうひろまり、武家ぶけ日記にっきとともにおおのこされるようになった。

1895ねん10がつ博文ひろぶみかん懐中かいちゅう日記にっきを、1896ねん当用とうよう日記にっき発売はつばいした[4]

日本にっぽんおも日記にっき

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ぜん近代きんだい

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近代きんだい以前いぜん日本にっぽんおも日記にっきにはつぎのようなものがある。

きん現代げんだい

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日本にっぽんきん現代げんだいのものとしては、つぎのようなものがある。

また、はらたかし佐藤さとう栄作えいさく日記にっきは、政治せいじ資料しりょうとして没後ぼつご公刊こうかんされている。

日本にっぽん以外いがい国々くにぐに日記にっき

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ヨーロッパ・アメリカの日記にっき

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フランス

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ベアトリス・ディディエ日記にっきろん』(松籟しょうらいしゃ、1984ねん、32ページ)によれば、「都市とし市民しみん階級かいきゅう勃興ぼっこう」である15世紀せいき以降いこう日記にっき数多かずおお出現しゅつげんするとあるが以下いかのようにわずかながら14世紀せいき段階だんかいのものも存在そんざいしている。また、むかしのフランスでは"livre de raison (raisons)"(ここでのlivreは「台帳だいちょう」、raisonは「勘定かんじょう」の意味いみ)というものもあって、元々もともと出納すいとうちょう(あるいは大福帳だいふくちょう)であるが、それにくわえて家長かちょう身内みうち冠婚葬祭かんこんそうさいについて記録きろくしたり、自分じぶんかんがえを記載きさいするものであった。したのニコラ=ヴェルソリ(Nicolas-Versori)の家族かぞく日誌にっしも"livre de raison (raisons)"である。

  • ジャン=ルフェーブルの日記にっき(1380ねん - 1390ねん
    シャルル5せいつかえた聖職せいしょくしゃ日記にっき
  • パリいち市民しみん日記にっきフランス語ふらんすごばん』(『パリの住人じゅうにん日記にっき』)(ぬし不明ふめい、1405ねん - 1449ねん
    バチカン法王ほうおうちょう図書館としょかん写本しゃほんのこる。渡辺わたなべ一夫かずお[5]堀越ほりこし孝一こういち[6] によって紹介しょうかいされている。堀越ほりこしによれば、ぬしラテン語らてんごするもののノートルダムの聖職せいしょくしゃでもパリ大学だいがく関係かんけいしゃでもないという。
  • ジャン=ル=ロベールの日記にっき(15世紀せいきなかごろ?)(Les Mémoriaux de Jean le Robert)(※ Mémoriauxは「覚書おぼえがき」)
    ぬしはカンブレのせいオベールだい修道院しゅうどういん院長いんちょう。この日記にっき存在そんざいについては、フェーブル書物しょもつ歴史れきしじょう筑摩書房ちくましょぼう)の118ページでれられている。
  • ジャン=ド=ロワの日記にっき(1460ねん - 1483ねん)(Journal de Jean de Roye
  • ジャン=バリオンの日記にっき(1510年代ねんだい?)
    法務省ほうむしょう関係かんけい一種いっしゅ記録きろく簿ぬし書記官しょきかんデュプラの秘書ひしょ
  • ニコラ=ヴェルソリの家族かぞく日誌にっし(1519ねん - 1530ねん
    ぬしはパリ高等法院こうとうほういんきの弁護士べんごし
  • 『フランソワ治世ちせいのパリのいち市民しみん日記にっき』(1516ねん - 1536ねん
    これも渡辺わたなべ一夫かずお解説かいせつがある[7]
  • ピエール=ド=レトワールフランス語ふらんすごばん『アンリさんせい治世ちせいのための日記にっき』(1574ねん - 1589ねん

イタリア

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根占ねじめけんじいち「イタリア・ルネサンス日記にっき西欧せいおう古記こきろくかたるもの―」(別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん事典じてんシリーズ『日本にっぽん歴史れきし古記こきろく総覧そうらん上巻じょうかん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1989ねん11月。根占ねじめけんじいち『ルネサンス精神せいしんへのたびそうぶんしゃ、2009ねん所収しょしゅう)によれば、近代きんだい西欧せいおう日記にっき起源きげんは、もともと帳簿ちょうぼであった、リコルダンツェあるいはリコルディ(いずれも「回想かいそう」の)とよばれる、14世紀せいきから16世紀せいきにかけてかれた私的してき覚書おぼえがきにあるといわれる。それらは、13世紀せいきまつ市民しみんであり商人しょうにん随時ずいじめておいたいえ記録きろく(または会社かいしゃ収支しゅうし決算けっさん帳簿ちょうぼ)にはじまり、しゅとして土地とち金銭きんせんにまつわる記事きじ、すなわち不動産ふどうさん売買ばいばい賃貸借ちんたいしゃくかね一般いっぱんてきりや日々ひびしょ経費けいひ記録きろくされるとともに、家族かぞく出生しゅっしょう結婚けっこん死亡しぼう日時にちじなどかしるされた。婚姻こんいん記事きじこん関係かんけいし、財産ざいさん相続そうぞく関係かんけいする製紙せいし記録きろくとともに経済けいざいてき意味合いみあいがつよいものである。しかし、当時とうじから算術さんじゅつてきめた筆致ひっちのそれらの帳簿ちょうぼにまったく個人こじんてきおぼえが記入きにゅうされはじめ、つぎ世紀せいきはじめには、自分じぶんちをしるしているものが、ここに自伝じでんてき要素ようそ芽生めばえがうかがえるという。

  • ロドヴィコ=ディ=アンブロジオの日記にっき(14世紀せいき後半こうはん?)
    ぬしは、マルケしゅうファブリアーノの製紙せいし業者ぎょうしゃ。この日記にっき存在そんざいについては、フェーブル書物しょもつ歴史れきしじょう筑摩書房ちくましょぼう)の79ページでれられている。
  • ラーポ・ニッコリーニの日記にっき(1379ねん - ?)
    フィレンツェひと先祖せんぞはコンラート出身しゅっしん封建ほうけん貴族きぞく
  • ジョバンニ・モレッリの日記にっき(14世紀せいき後半こうはん? - 15世紀せいきはじめ)
    フィレンツェの羊毛ようもう組合くみあいぞくしていた有力ゆうりょく商人しょうにん。「心理しんりてきふか分析ぶんせきがなされ、文学ぶんがく作品さくひんにまでたかめられたかんのあるその覚書おぼえがきは、全体ぜんたいとしていえみずからの歴史れきしかたるとともに、体験たいけん裏打うらうちされた知恵ちえ垂示すいししようとする」(根占ねじめ
  • グレゴリオ・ダーティの『秘密ひみつ帳簿ちょうぼ』(1384ねん - 1427ねん
    フィレンツェ(真偽しんぎ不明ふめい)の絹織物きぬおりものしょう組合くみあい一員いちいんで、みずか会社かいしゃこした。先祖せんぞにも覚書おぼえがきがあることられ、かれ日記にっきにはべつ帳簿ちょうぼ参照さんしょうするようにという指示しじえるように別記べっきてきなものが作成さくせいされていたことがわかる。
  • 『ランドゥッチの日記にっき』(1450ねん - 1542ねん
    ルカ=ランドゥッチはフィレンツェの菜種なたね商人しょうにん(1516ねんぼつ)。この日記にっき日本にっぽん紹介しょうかいした中森なかもり義宗よしむね安保あんぽだいゆうによるあとがき(近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ)によれば、「じゅうよん世紀せいきのフィレンツェ商人しょうにんによる出納すいとう簿近代きんだいヨーロッパの日記にっきのそもそもの淵源えんげんといわれる」のであり、それらは当然とうぜん経済けいざい活動かつどう記載きさい中心ちゅうしんであるが、とき政治せいじてき社会しゃかいてき事件じけんしるしたものがふくまれ、そういった日記にっき中世ちゅうせいまつからルネサンスにかけてのフィレンツェにおおいことが指摘してきされている。
  • 『パオロ=サントニーノのたび日記にっき』(1485ねん - 1487ねん
    ぬしはイタリアの名門めいもんデ=サンクトニス出身しゅっしん司教しきょう書記しょきから、そう大司教だいしきょう事務じむ局長きょくちょう出世しゅっせ、1510ねん以前いぜん死去しきょした。舟田ふなだ詠子えいこわけ中世ちゅうせいひがしアルプスたび日記にっき』(筑摩書房ちくましょぼう)。
  • アゴスティーノ=ラピーニの日記にっき(16世紀せいき前半ぜんはん
    『ランドゥッチの日記にっき』を出版しゅっぱんしたイオードコ・デル・バディーアの序文じょぶんれられている。内容ないよう不明ふめい

イギリス

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中野なかのえら(「日記にっき文学ぶんがく文学ぶんがく日記にっき」 )によれば、日記にっき(diary)というかたり英語えいご文献ぶんけんにおける初出しょしゅつ文芸ぶんげい復興ふっこうの1581ねんであり、元来がんらい丸太まるた意味いみであったlogというかたりに、航海こうかい日誌にっし意味いみくわわったのもほぼおなごろであるとのことである。さらに日記にっき発生はっせいについて「日記にっき人間にんげん記録きろくとして明確めいかく出現しゅつげんするのが、近代きんだいじん誕生たんじょうおなじくしていることに意味いみがあろう。自分じぶんでものをて、自分じぶん意思いしき、その結果けっかについては自分じぶん責任せきにんをとるといった習慣しゅうかん発生はっせいおおきな関係かんけいがあるといわねばならない。したがって日記にっきをつける行為こうい自我じが覚醒かくせいとも密接みっせつ関連かんれんうのである」とべられている。

現存げんそんする英語えいごかれた日記にっきもっとふるいものという。ぬしは1537ねんまれ、9さいちちヘンリー8せいあとぎ、15さい死去しきょ

  • ウィリアム・ダグデイルの日記にっき(17世紀せいき前半ぜんはん?、45年間ねんかんにわたる日記にっき
  • ジョン・イーブリン日記にっき(17世紀せいき?、43年間ねんかんにわたる日記にっき
  • サミュエル・ピープス日記にっき(1660ねん - 1669ねん
    1633ねんまれ。ちち仕立屋したてやであるが、親類しんるいには職人しょくにん医者いしゃ弁護士べんごし商人しょうにんなどがおり、ロンドンの中産ちゅうさん階級かいきゅう家柄いえがらである。本人ほんにんケンブリッジ大学けんぶりっじだいがく卒業そつぎょう大蔵省おおくらしょう下役したやくじんであるとともに姻戚いんせき政治せいじエドワード・モンタギュの家令かれいのような役目やくめもはたしていた。くわしくは、臼田うすだあきら『ピープスめられた日記にっき』(岩波書店いわなみしょてん参照さんしょう全文ぜんぶん日本語にほんごやく国文こくぶんしゃから臼田うすだやくにより刊行かんこう
  • 『ニュルンベルグの死刑しけい執行しっこうじんフランツ親方おやかた日記にっき』(1573ねん - 1615ねん
    日本語にほんごやくには、藤代ふじしろ幸一こういちわけ『フランツ・シュミット ある首斬くびき役人やくにん日記にっき』(白水しろみずしゃ)がある。

その

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西洋せいよう日記にっきにはつぎのようなものがある。

中国ちゅうごく日記にっき

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中国ちゅうごく日記にっきは、直接的ちょくせつてき間接かんせつてき日本にっぽん日記にっき出現しゅつげん影響えいきょうあたえた。以下いか玉井たまいみゆきすけ日記にっき文学ぶんがく概説がいせつ』、曾沢太吉たきち「『日記にっき』ははたして中国ちゅうごくからの借用しゃくようか」(『国語こくご国文学こくぶんがく』27-10)による。

中国ちゅうごくにおける「日記にっき」のかたりはつは、こうかん時代じだい活躍かつやくした学者がくしゃおうたかしあらわした『ろん』のまきじゅうさん効力こうりょくへんに「おっとぶん儒之りょく於儒せいきょうぶん吏乎、しかのうきょけんこも上書うわがき日記にっき也、のう上書うわがき記者きしゃぶん儒也」とあるものである。ここにみえる「日記にっき」について、玉井たまいは「学者がくしゃ研究けんきゅうため資料しりょう蒐集しゅうしゅうしてこれ整理せいり記述きじゅつしたもの」として、後代こうだい中国ちゅうごくにおいてしゅとして日記にっきばれた「学者がくしゃ研究けんきゅうため抄録しょうろくしたしょおよ門下もんか修学しゅうがくするため記録きろくしたしょさら村塾そんじゅくおい童蒙どうもうする教科書きょうかしょごときもの」の起源きげんとされている。玉井たまいによれば、以後いご中国ちゅうごくにおいて日記にっきってあらわされた作品さくひんは、これらのもののほか随筆ずいひつ紀行きこうるい中心ちゅうしんであり、日次にちじとしての日記にっき日本にっぽん比較ひかくしてきわめてかずすくないという。

実際じっさい作品さくひんのこされはじめるのは、「日記にっき」のかたり出現しゅつげんからやくせんねん以上いじょうたったそうだい以後いごのようである。とく日次にちじとしての日記にっきもっとふるいものは、そうだい詩人しじん黄庭堅おうていけんの『むべしゅうじょう』で、かれ没年ぼつねんであるたかしやすし4ねん(1105ねん正月しょうがつ元日がんじつからぼっするまえつきである8がつ29にちまでの日記にっきである。いでもとかくたかしすず日記にっきで、至大しだい元年がんねん(1308ねん)8がつ27にちから翌年よくねん10がつ30にちまでの日記にっきである。以後いご明代あきよでは「にちしょれきよる必記」と冒頭ぼうとうしるされた馮夢ただしかいゆきどう日記にっきにちはな味水あじみのき日記にっきなどがあり、これらはいずれも1ねん乃至ないし10すうねんくらいの比較的ひかくてきみじかいものがおおい。しんだいになると、残存ざんそんすう増加ぞうかするとともに生涯しょうがいにわたってしるされる大部たいぶのものも出現しゅつげんしてくる。

中国ちゅうごくでは、しゅうだいまでさかのぼれるかは疑問ぎもんにしてもかなりふる時代じだいから、国家こっか諸侯しょこうなどには、その言行げんこう記録きろくするせんもん官職かんしょく史官しかん)が設置せっちされていた。起居ききょちゅうとは、そのような史官しかんによって記録きろくされた皇帝こうてい言行げんこう記録きろくであり、天命てんめいけた皇帝こうてい天子てんし)のうごきはそのまま天下てんか国家こっかうごきであるとする中国ちゅうごく古来こらい思想しそうが、その作成さくせい背景はいけいである。国家こっか制度せいどとしてはずいとう時代じだい完成かんせいした。現存げんそん最古さいこのものは明代あきよまんれきたいあきら天啓てんけいさんだいのものであり、それらは日次にちじ形態けいたいをとっている。ただし平安へいあん時代じだいには、一部いちぶ日本にっぽんにも伝来でんらいしていたらしく、平安へいあん中期ちゅうき作成さくせいされた『日本にっぽん国見くにみざい書目しょもくろく』には、起居ききょちゅうという項目こうもくに「すすむ起居ききょちゅうさんじゅうかん・「だいから起居ききょちゅうさんかんがあげられている。

ずいから以後いご中国ちゅうごく歴代れきだい王朝おうちょうでは、これら歴代れきだい皇帝こうてい起居ききょちゅうなどを材料ざいりょうとして実録じつろく天子てんしいちだい事蹟じせき編年体へんねんたい記録きろくしたもの)が編纂へんさんされ、さらにつぎ王朝おうちょうとき正史せいしにまとめられた。日本にっぽんでも、たん書物しょもつとしての起居ききょちゅうばかりでなく、律令りつりょう制度せいどその様々さまざま文物ぶんぶつ移入いにゅうとともに中国ちゅうごく歴史れきし編纂へんさん方法ほうほうまなび、国家こっか組織そしき整備せいびともない、国史こくし編纂へんさんにも着手ちゃくしゅはじめた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 平安へいあん時代じだいおとこ日記にっき倉本くらもと一宏かずひろ角川かどかわ選書せんしょれい6ねん、p11
  2. ^ a b 平安へいあん時代じだいおとこ日記にっき倉本くらもと一宏かずひろ角川かどかわ選書せんしょれい6ねん、p14
  3. ^ 日次にちじコトバンク
  4. ^ 博文ひろぶみかんじゅうねん
  5. ^ 渡辺わたなべ一夫かずお乱世らんせい日記にっき』、講談社こうだんしゃ、1958。どう著作ちょさくしゅう9、筑摩書房ちくましょぼう、1977所収しょしゅう
  6. ^ 堀越ほりこし孝一こういち日記にっきのなかのパリ』、TBCブリタニカ
  7. ^ 渡辺わたなべ一夫かずお泰平たいへい日記にっき』、白水しろみずしゃ、1961。どう著作ちょさくしゅう9、筑摩書房ちくましょぼう、1977所収しょしゅう

参考さんこう文献ぶんけん

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日本にっぽん漢文かんぶん日記にっき関連かんれん

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総説そうせつ
  1. 萩野はぎの由之よしゆき記録きろく異同いどうこう』(九州大学きゅうしゅうだいがく萩野はぎの文庫ぶんこ所蔵しょぞう、1882)
  2. 星野ほしのひさし歴世れきせい記録きろくこう」(『史学しがく雑誌ざっし』1-6へん、1909、史学しがくくさむらせつだい一再いっさいろく
  3. 和田わだ英松ひでまつ皇室こうしつ御撰ぎょせん研究けんきゅう』(明治めいじ書院しょいん、1933)
  4. 和田わだ英松ひでまつ本朝ほんちょう書籍しょせき目録もくろく考証こうしょう』(明治めいじ書院しょいん、1936)
  5. 高橋たかはし隆三りゅうぞう史籍しせき解題かいだい』(雄山閣ゆうざんかく、1938、『だい日本にっぽん講座こうざさいろく
  6. 宮内庁くないちょうしょりょうへん図書としょりょう典籍てんせき解題かいだい 歴史れきしへん』(やしなえとくしゃ、1950)
  7. 宮内庁くないちょうしょりょうへん図書としょりょう典籍てんせき解題かいだい ぞく歴史れきしへん』(やしなえとくしゃ、1951)
  8. 花田はなた雄吉ゆうきち陽明ようめい文庫ぶんこ所蔵しょぞう日記にっき」(『日本にっぽん歴史れきし』105、1957)
  9. 橋本はしもと義彦よしひこほかへん日本にっぽん歴史れきし古記こきろく総覧そうらんじょうした新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1989・1990、ISBN 440401788XISBN 4404017898
  10. 日本にっぽん日記にっき総覧そうらん』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1994)
  11. 飯倉いいくらはれたけし日本にっぽんしょう百科ひゃっか 古記こきろく』(東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1998、ISBN 4490203624
叢書そうしょ解題かいだい
  1. 史料しりょう大観たいかん解題かいだい哲学てつがく書院しょいん、1898-1900)
  2. 史料しりょう大成たいせい解題かいだい内外ないがい書籍しょせき日本電気にほんでんき通信つうしん出版しゅっぱん、1934-1944、臨川りんせん書店しょてんより再刊さいかん
  3. 東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょへんだい日本にっぽん古記こきろく解題かいだい岩波書店いわなみしょてん、1952-)
  4. ぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかいへんぐんしょ解題かいだい』(つづけぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1960-1967)
  5. ぞくぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかいへん史料しりょう纂集解題かいだいつづけぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1968-)
  6. 宮内庁くないちょうしょりょうへん図書としょりょうくさむらかん解題かいだいやしなえとくしゃ明治めいじ書院しょいん、1962-)
  7. 陽明ようめい叢書そうしょ解題かいだい思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、1989)
逸文いつぶん
  1. 和田わだ英松ひでまつ国書こくしょ逸文いつぶん』(もり克己かつみ非売品ひばいひん、1940、しんてい増補ぞうほ 国書こくしょ逸文いつぶん国書こくしょ逸文いつぶん研究けんきゅうかい国書刊行会こくしょかんこうかいより再刊さいかん、1995、ISBN 4336036950
  2. 国書こくしょ逸文いつぶん研究けんきゅうかい国書こくしょ逸文いつぶん研究けんきゅう』1-30(1978-1997、ISSN 0387-0669
  3. 木本きもと好信よしのぶ平安朝へいあんちょう日記にっき記録きろく研究けんきゅう: その逸文いつぶん史料しりょう』(株式会社かぶしきがいしゃみつわ、1980)
  4. ところいさお『三代御記逸文集成』(国書刊行会こくしょかんこうかい、1982)
  5. 木本きもと好信よしのぶこう逸文いつぶん集成しゅうせい』(国書刊行会こくしょかんこうかい、1985)
  6. 木本きもと好信よしのぶ平安朝へいあんちょうかんじん逸文いつぶん研究けんきゅう』(さくらかえでしゃ、1987、ISBN 427302148X
  7. ところいさお先生せんせい還暦かんれき記念きねんかいへん 『国書こくしょ逸文いつぶん研究けんきゅう』(臨川りんせん書店しょてん、2001、ISBN 4653037566
年表ねんぴょう
  1. 小泉こいずみ安次郎やすじろう日本にっぽん史籍しせき年表ねんぴょう』(弘文こうぶんかん、1903-04)
  2. 古代こだいから近世きんせいまでの主要しゅよう日記にっきひょう」(坂本さかもと太郎たろう監修かんしゅう日本にっぽんしょう辞典じてん』、山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1957)
  3. 日記にっきひょう」(高柳たかやなぎひかり寿ことぶき竹内たけうちさんへん角川かどかわ日本にっぽん辞典じてん』、角川書店かどかわしょてん、1966)
  4. 新田にった英治えいじ史籍しせき年表ねんぴょう」(中世ちゅうせいのみ、『中世ちゅうせいハンドブック』、近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1973)
  5. 飯倉いいくらはれたけし史籍しせき年表ねんぴょう」(『日本にっぽん総覧そうらんだいいちかん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1983)
  6. 斎木さいき一馬かずま歴代れきだい主要しゅよう日記にっき一覧いちらん」(『日本にっぽん総覧そうらんだいいちかん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1983)
  7. 皆川みなかわかんいち記録きろく年表ねんぴょう」(『国史こくしだい辞典じてんだいよんかん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1984、ISBN 4642005048
  8. 皆川みなかわかんいち記録きろく目録もくろく」(『国史こくしだい辞典じてんだいよんかん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1984、ISBN 4642005048
辞典じてん項目こうもく
  1. 山本やまもと信哉のぶや記録きろく」(『日本にっぽん文学ぶんがくだい辞典じてん』、新潮社しんちょうしゃ、1932-35)
  2. 玉井たまいみゆきすけ記録きろく」(『増補ぞうほ改訂かいてい 日本にっぽん文学ぶんがくだい辞典じてん』、新潮社しんちょうしゃ、1950-52)
  3. もも裕行ひろゆき記録きろく」(『世界せかい歴史れきし事典じてん』、平凡社へいぼんしゃ、1951-55)
  4. 橋本はしもと義彦よしひこ記録きろく」(『国史こくしだい辞典じてんだいよんかん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1984、ISBN 4642005048
  5. 土田つちたただし日記にっき」(『日本にっぽん古典こてん文学ぶんがくだい辞典じてんだいよんかん岩波書店いわなみしょてん、1983-85、ISBN 4000800647
研究けんきゅうしょ単行本たんこうぼん
  1. 玉井たまいみゆきすけ日記にっき文学ぶんがく概説がいせつ』(目黒めぐろ書店しょてん、1945、国書刊行会こくしょかんこうかいより再刊さいかん、1983)
  2. 山中やまなかひろし平安へいあん時代じだい古記こきろく貴族きぞく文化ぶんか』(思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、1988、ISBN 4784208577
  3. もも裕行ひろゆき古記こきろく研究けんきゅうじょうした(『もも裕行ひろゆき著作ちょさくしゅう』4・5、思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、1988-89、ISBN 4784205209ISBN 4784205489
  4. 斎木さいき一馬かずま古記こきろく研究けんきゅうじょうした(『斎木さいき一馬かずま著作ちょさくしゅう』1・ 2、吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1989、ISBN 4642012915ISBN 4642012923
  5. 斎木さいき一馬かずま記録きろくがく概論がいろん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1990、ISBN 4642072861
  6. 松薗まつぞのひとし日記にっきいえ: 中世ちゅうせい国家こっか記録きろく組織そしき』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん 、1997、ISBN 4642027572
  7. 木本きもと好信よしのぶ平安朝へいあんちょうかんじん記録きろく研究けんきゅう』(おうふう、2000、ISBN 4273031566
  8. 加納かのう重文しげふみ明月めいげつ片雲へんうんし: 公家くげ日記にっき世界せかい』(風間かざま書房しょぼう、2002、ISBN 4759913327
  9. 高橋たかはし秀樹ひでき古記こきろく入門にゅうもん』(東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2005、ISBN 4490205678
  10. 松薗まつぞのひとし王朝おうちょう日記にっきろん』(叢書そうしょ歴史れきしがく研究けんきゅう法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく、2006、ISBN 4588250523
論文ろんぶんしゅう
  1. 史学しがくかいへん本邦ほんぽう史学しがく論叢ろんそうじょうした冨山とやまぼう、1939)
  2. 岩橋いわはし小弥太こやた博士はかせ頌寿記念きねんかいへん日本にっぽん史籍しせき論集ろんしゅうじょうした吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1969)
  3. 高橋たかはし隆三りゅうぞう先生せんせい喜寿きじゅ記念きねんかいへん古記こきろく研究けんきゅう』(つづけぐんしょ類従るいじゅう完成かんせいかい、1970)
  4. 山中やまなかひろしへん古記こきろく日記にっきじょうした思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、1993、ISBN 478420752XISBN 4784207538
  5. 五味ごみ文彦ふみひこへん日記にっき中世ちゅうせいむ』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1998、ISBN 464202767X
概説がいせつてき研究けんきゅう論文ろんぶん
  1. 星野ほしのひさし歴世れきせい記録きろくこう」(『史学しがく雑誌ざっしいちろくへん、1871)
  2. 黒板こくばん勝美かつみくに日記にっき沿革えんかくべて馬琴ばきんおきな日記にっき鈔におよぶ」(饗庭あえば篁村こうそんへん馬琴ばきん日記にっき鈔』ぶん會堂かいどう書店しょてん、1911、のちに『虚心きょしん文集ぶんしゅうだいろくかん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1941所収しょしゅう
  3. 黒板こくばん勝美かつみ記録きろく研究けんきゅう」(『国史こくし研究けんきゅう総説そうせつへんぶん會堂かいどう書店しょてん、1913)
  4. 和田わだ英松ひでまつ日記にっきいて」(『史学しがく雑誌ざっし』24-10 、1913)
  5. 和田わだ英松ひでまつ平安朝へいあんちょうける日記にっき研究けんきゅう」(『日本にっぽん文学ぶんがく講座こうざ』10、新潮社しんちょうしゃ、1927)
  6. 三浦みうらあまねぎょう日本にっぽん史学しがく概説がいせつ」(『日本にっぽん研究けんきゅうだいかん岩波書店いわなみしょてん、1928)
  7. 田山たやま信郎のぶお記録きろくとく平安朝へいあんちょう日記にっきいて—」(『岩波いわなみ講座こうざ日本にっぽん歴史れきし』、1934。のち学会がっかいへん本邦ほんぽう史学しがく論叢ろんそうじょう増補ぞうほさいろく、1939)
  8. 岩橋いわはし小弥太こやた公家くげ日記にっき」(『日本にっぽん文学ぶんがく講座こうざ』5、改造かいぞうしゃ、1934)
  9. 山本やまもと信哉のぶや記録きろく研究けんきゅう」(『ふみえん』11-34 、1937)
  10. 馬杉ますぎ太郎たろう史料しりょうとしての日記にっきとく公家くげ日記にっきについて—」(『歴史れきし公論こうろん』7-11、1938)
  11. 斎木さいき一馬かずま日本にっぽん古記こきろくがく提唱ていしょう」(『日本にっぽん歴史れきし』 9、1947、のちに『古記こきろく研究けんきゅうじょう(『斎木さいき一馬かずま著作ちょさくしゅう』1) 吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1989)
  12. 山中やまなかひろし漢文かんぶん記録きろくとしての日記にっき」(『国文学こくぶんがく解釈かいしゃく鑑賞かんしょう』19-1、1954)
  13. 小島こじま小五郎こごろう儀式ぎしき公家くげ日記にっきとの関係かんけい平安朝へいあんちょう日記にっき流行りゅうこうかんするいち考察こうさつ—」(『史学しがく研究けんきゅう』55、1954)
  14. 石田いしだよしさだ漢文かんぶん日記にっきについて」(『国語こくご国文学こくぶんがく』402 、1957)
  15. 岩橋いわはし小弥太こやた記録きろく概説がいせつ」(『上代じょうだい史籍しせき研究けんきゅうだいしゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1958)
  16. 林屋はやしや辰三郎たつさぶろう日記にっき伝統でんとう」(『思想しそう科学かがく』47、1966)
  17. もも裕行ひろゆき古記こきろくれいひろえ」(高橋たかはし隆三りゅうぞう先生せんせい喜寿きじゅ記念きねんかいへん古記こきろく研究けんきゅう』、1970)
  18. くらいふじ邦生くにお漢文かんぶん日記にっき研究けんきゅう序説じょせつ」(『中世ちゅうせい文芸ぶんげい』50、1972)
  19. 山中やまなかひろし公事こうじ生活せいかつ記録きろく」 『国文学こくぶんがく解釈かいしゃく鑑賞かんしょう』37-4、1972、のちに「日記にっき本質ほんしつ」として『平安へいあん人物じんぶつこころざし東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1974におぎなえていさいろく
  20. 山中やまなかひろし日記にっき記録きろく」(『鑑賞かんしょう日本にっぽん古典こてん文学ぶんがくだい10かん王朝おうちょう日記にっき』、角川書店かどかわしょてん、1975)
  21. 土田つちたただし鎮「古代こだい史料しりょうろん 記録きろく」(『岩波いわなみ講座こうざ日本にっぽん歴史れきし別巻べっかん岩波書店いわなみしょてん、1976)
  22. 斎木さいき一馬かずま古文書こもんじょ古記こきろく」(『日本にっぽん古文書こもんじょがく講座こうざ』1、雄山閣ゆうざんかく、1978)
  23. 橋本はしもと義彦よしひこ古代こだい記録きろく」(『日本にっぽん古文書こもんじょがく講座こうざ』2、雄山閣ゆうざんかく、1978)
  24. 斎木さいき一馬かずま日記にっきとその遺品いひん」(『文化財ぶんかざい講座こうざ日本にっぽん美術びじゅつ 16 古文書こもんじょ』、だいいち法規ほうき、1979)
  25. 村井むらい康彦やすひこわたし日記にっき登場とうじょう」(『国語こくご国文学こくぶんがく』64-11 、1987)
  26. 吉岡よしおか真之まさゆき平安へいあん貴族きぞくはなぜ日記にっきをつけたか。」(『争点そうてん日本にっぽん歴史れきしさん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1991)
  27. 松薗まつぞのひとし日記にっきろん」(『歴史れきし評論ひょうろん』525、1994)

西洋せいよう関係かんけい

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  1. ベアトリス・ディディエ『日記にっきろん』(松籟しょうらいしゃ、1987)
  2. グスタフ・ルネ・ホッケ『ヨーロッパの日記にっき』(2さつぐみ法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょく、1991)
  3. 根占ねじめけんじいち『ルネサンス精神せいしんへのたびだい7しょうそうぶんしゃ、2009)

日記にっき一般いっぱんかんする論考ろんこう

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  1. 人生じんせい読本とくほん 日記にっき』(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1979)
  2. 歴史れきし読本とくほんスペシャル 「日記にっき」がかた歴史れきしてき瞬間しゅんかん』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1988)
  3. 大原おおはら富枝とみえへん日本にっぽんめい随筆ずいひつ別巻べっかん28 日記にっき』(作品社さくひんしゃ、1993)
  4. 特集とくしゅう日本にっぽん近代きんだいむ「日記にっき大全たいぜん」』(月刊げっかんAsahi、1993ねん1がつごう
  5. 歴史れきし読本とくほん特別とくべつ増刊ぞうかんだい21ごう) 『日本にっぽん日記にっき総覧そうらん』(新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1994)
  6. 立松たてまつ和平わへいへん『こころにひび日記にっき』(法研ほうけん、1995)
  7. 紀田きだ順一郎じゅんいちろう日記にっき虚実きょじつ』(新潮しんちょう選書せんしょ、1988、ちくま文庫ぶんこ 1995)

関連かんれん項目こうもく

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