火薬 かやく 事件 じけん (かやくじけん、英 えい : Gunpowder Incident )は、アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう の最初 さいしょ 期 き にバージニア植民 しょくみん 地 ち 総督 そうとく ダンモア卿 きょう ジョン・マーレイ と、愛国 あいこく 者 しゃ を率 ひき いるパトリック・ヘンリー の民兵 みんぺい 隊 たい との間 あいだ の紛争 ふんそう である。1775年 ねん 4月 がつ 20日 はつか 、この日 ひ はアメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう の開戦 かいせん を告 つ げたレキシントン・コンコードの戦 たたか い の1日 にち 後 ご だったが、まだバージニアにまでその報 しら せは届 とど いていなかった。ダンモア卿 きょう はウィリアムズバーグ の火薬 かやく 庫 こ からイギリス海軍 かいぐん の艦船 かんせん に火薬 かやく を移 うつ すよう命 めい じた。
ダンモアのこの動 うご きは土地 とち の政情 せいじょう 不安 ふあん に火 ひ をつけ、民兵 みんぺい 隊 たい が植民 しょくみん 地中 ちちゅう に集結 しゅうけつ し始 はじ めた。パトリック・ヘンリーが民兵 みんぺい の小 しょう 部隊 ぶたい を率 ひき いてウィリアムズバーグに向 む かい、火薬 かやく を戻 もど させて植民 しょくみん 地 ち の管轄 かんかつ 下 か に置 お こうとした。この事件 じけん はヘンリーに330ポンドが支払 しはら われ、武力 ぶりょく 衝突 しょうとつ なしに解決 かいけつ された。ダンモアは自分 じぶん の安全 あんぜん が脅 おびや かされていると感 かん じ取 と り、イギリス海軍 かいぐん の艦船 かんせん に逃亡 とうぼう したので、イギリス によるバージニア植民 しょくみん 地 ち の支配 しはい が終 お わった。
1774年 ねん にイギリスの議会 ぎかい による「耐 た え難 がた き諸法 しょほう 」と呼 よ ばれる一連 いちれん の法律 ほうりつ が植民 しょくみん 地 ち で執行 しっこう されるようになった時 とき 、イギリス領 りょう 北 きた アメリカの植民 しょくみん 地 ち では武装 ぶそう 衝突 しょうとつ の危険 きけん 性 せい が高 たか まり始 はじ めた。植民 しょくみん 地 ち 側 がわ は、ボストン茶会 ちゃかい 事件 じけん の後 のち で法律 ほうりつ による懲罰 ちょうばつ 的 てき な処置 しょち の対象 たいしょう になっていたマサチューセッツ湾 わん 植民 しょくみん 地 ち を中心 ちゅうしん に結束 けっそく し、1774年 ねん 9月 がつ には第 だい 一 いち 次 じ 大陸 たいりく 会議 かいぎ を組織 そしき 化 か した[1] 。この会議 かいぎ の間 あいだ に火薬 かやく 警鐘 けいしょう と呼 よ ばれることになる民兵 みんぺい の蜂起 ほうき 事件 じけん の報 しら せが届 とど いた。9月初旬 しょじゅん 、マサチューセッツの総督 そうとく を兼 か ねていたイギリス軍 ぐん のトマス・ゲイジ 将軍 しょうぐん がチャールズタウン (現在 げんざい のサマービル)にあった火薬 かやく 庫 こ から火薬 かやく を除去 じょきょ させたことに対 たい して、暴力 ぼうりょく 事件 じけん が起 お こったという誤 あやま った噂 うわさ に反応 はんのう したニューイングランド 全土 ぜんど の民兵 みんぺい がその地域 ちいき に集結 しゅうけつ した[2] [3] 。この事件 じけん の結果 けっか として起 お こったことは、大陸 たいりく 会議 かいぎ が各 かく 植民 しょくみん 地 ち の防衛 ぼうえい のために民兵 みんぺい 隊 たい を組織 そしき 化 か するよう呼 よ びかけたことだった[3] 。またイギリス側 がわ では植民 しょくみん 地 ち 担当 たんとう 大臣 だいじん のダートマス卿 きょう が植民 しょくみん 地 ち の総督 そうとく 達 たち にその軍需 ぐんじゅ 物資 ぶっし を確保 かくほ するよう助言 じょげん し、火薬 かやく 保管 ほかん 量 りょう を増 ふ やすための輸入 ゆにゅう を禁 きん じた[4] 。
1775年 ねん 初期 しょき 、バージニアの人々 ひとびと は民兵 みんぺい 隊 たい を組織 そしき し始 はじ め、それを武装 ぶそう させ装備 そうび させるために軍需 ぐんじゅ 物資 ぶっし (武器 ぶき 、銃弾 じゅうだん および火薬 かやく )を求 もと めて回 まわ った。植民 しょくみん 地 ち 総督 そうとく のダンモア卿 きょう は自分 じぶん の治 おさ める植民 しょくみん 地 ち での政情 せいじょう 不安 ふあん を見 み て、民兵 みんぺい 隊 たい から軍需 ぐんじゅ 物資 ぶっし を奪 うば おうと考 かんが えた[4] 。パトリック・ヘンリーが3月23日 にち の第 だい 二 に 次 じ バージニア会議 かいぎ で「私 わたし に自由 じゆう を、然 しか らずんば死 し を」という演説 えんぜつ を行 おこな ったときになって、ダンモアは「この場所 ばしょ にある火薬 かやく 庫 こ の火薬 かやく を除去 じょきょ した方 ほう が賢明 けんめい だ」と考 かんが えた[5] 。イギリス軍 ぐん は火薬 かやく 警鐘 けいしょう の後 のち でバージニアから部隊 ぶたい を引 ひ き上 あ げていたが、チェサピーク湾 わん のバージニア側 がわ 水域 すいいき にはイギリス海軍 かいぐん の艦船 かんせん が数 すう 隻 せき 残 のこ っていた。4月19日 にち 、ダンモアは密 ひそ かにイギリス水兵 すいへい の1個 いっこ 中隊 ちゅうたい をウィリアムズバーグに連 つ れてきて総督 そうとく 邸宅 ていたく に宿泊 しゅくはく させた。ダンモアは続 つづ いてHMSマグダレン の指揮 しき 官 かん であるヘンリー・コリンズ艦長 かんちょう にウィリアムズバーグの火薬 かやく 庫 こ から火薬 かやく を除去 じょきょ するよう命 めい じた[6] 。
八角 はっかく 形 がた をしたウィリアムズバーグ火薬 かやく 庫 こ のスケッチ
4月 がつ 20日 にち 夜 よる 、イギリス海兵 かいへい 隊 たい がウィリアムズバーグ火薬 かやく 庫 こ に行 い って、15樽 たる 半 はん の火薬 かやく を総督 そうとく の荷車 にぐるま に積 つ み、ジェームズ川 がわ に浮 う かぶHMSマグダレン に積 つ み込 こ むべくクォーターパス道路 どうろ の東端 ひがしばた まで運 はこ んだ。この動 うご きが行 おこな われている間 あいだ に町 まち の民 みん に見 み つかり、民衆 みんしゅう は警鐘 けいしょう を鳴 な らした。地元 じもと の民兵 みんぺい が現場 げんば に集 あつ まり、馬 うま を使 つか う者 もの 達 たち が植民 しょくみん 地中 ちちゅう にその事件 じけん を触 ふ れ回 まわ った。ダンモアは予防 よぼう 処置 しょち としてその従僕 じゅうぼく 達 たち にマスケット銃 じゅう で武装 ぶそう させており、群 む れ集 あつ まった群衆 ぐんしゅう が総督 そうとく 官邸 かんてい を襲 おそ うのを妨 さまた げたのは、バージニア植民 しょくみん 地 ち 議会 ぎかい の議長 ぎちょう であるペイトン・ランドルフ を初 はじ め愛国 あいこく 的 てき 指導 しどう 者 しゃ 達 たち の冷静 れいせい 化 か を求 もと める呼 よ びかけだった[6] 。市政 しせい 委員 いいん 会 かい が火薬 かやく は植民 しょくみん 地 ち の財産 ざいさん であり、イギリス国王 こくおう のものではないと主張 しゅちょう して、火薬 かやく の返還 へんかん を要求 ようきゅう した。ダンモアは、噂 うわさ のある奴隷 どれい 蜂起 ほうき のときに火薬 かやく が捕獲 ほかく されることを防 ふせ ぐために移動 いどう させたのであり、後 あと で戻 もど すことになると述 の べて、要求 ようきゅう を拒 こば んだ。このことで集結 しゅうけつ した群衆 ぐんしゅう を納得 なっとく させたように思 おも われ、群衆 ぐんしゅう は平和 へいわ 的 てき に解散 かいさん した[7] 。
しかし、ウィリアムズバーグでの動揺 どうよう は続 つづ いており、それが田園 でんえん 部 ぶ にまで広 ひろ がった。再 ふたた び集 あつ まった群衆 ぐんしゅう が愛国 あいこく 的 てき 指導 しどう 者 しゃ の説得 せっとく で散開 さんかい した後 のち 、ダンモアは怒 いか りを覚 おぼ え、4月 がつ 22日 にち にはもし攻撃 こうげき されたならば、「奴隷 どれい に対 たい して解放 かいほう を宣言 せんげん し、ウィリアムズバーグ市 し を灰燼 かいじん に帰 き させる」と警告 けいこく した[6] 。またウィリアムズバーグ市 し の議員 ぎいん には、ダンモアが「かつてバージニアの民 みん のためい戦 たたか った」が、「神 かみ にかけて、彼 かれ らと戦 たたか うこともできることを見 み せてやる」とも告 つ げた。
4月 がつ 29日 にち までに田園 でんえん 部 ぶ で動員 どういん された民兵 みんぺい 隊 たい は、レキシントンとコンコードで戦闘 せんとう が行 おこな われたことを知 し った。フレデリックスバーグ には700人 にん 近 ちか い者 もの が結集 けっしゅう し、首都 しゅと ウィリアムズバーグに向 む けて行軍 こうぐん する前 まえ に事態 じたい を評価 ひょうか するための使者 ししゃ を派遣 はけん することにした。ペイトン・ランドルフは暴力 ぼうりょく に反対 はんたい することを伝 つた え、バージニア民兵 みんぺい 隊 たい の指揮 しき 官 かん を長 なが く務 つと めたジョージ・ワシントン も同意 どうい した。彼 かれ らの助言 じょげん に反応 はんのう してフレデリックスバーグの民兵 みんぺい 隊 たい は僅差 きんさ による票決 ひょうけつ によって行軍 こうぐん を止 と めた[8] 。しかし、植民 しょくみん 地 ち の他 ほか の地域 ちいき の民兵 みんぺい 隊 たい はウィリアムズバーグに向 む けて行軍 こうぐん した。パトリック・ヘンリーが指揮 しき するハノーバー郡 ぐん の民兵 みんぺい 隊 たい は5月2日 にち の票決 ひょうけつ でウィリアムズバーグへの行軍 こうぐん を決 き めた。ヘンリーは、バージニアの王室 おうしつ 税務局 ぜいむきょく 収税 しゅうぜい 官 かん 補 ほ であるリチャード・コービンの家 いえ に小 ちい さな中隊 ちゅうたい を派遣 はけん し、国庫 こっこ から火薬 かやく の代金 だいきん を払 はら わさせるように仕向 しむ けた。約 やく 150名 めい になったハノーバー郡 ぐん 民兵 みんぺい 隊 たい の残 のこ りはウィリアムズバーグへ行軍 こうぐん し、5月3日 にち には市 し から約 やく 15マイル (24 km) の地点 ちてん に到着 とうちゃく した[9] 。この日 ひ 、ダンモアの家族 かぞく はウィリアムズバーグを脱出 だっしゅつ して、ヨーク川 かわ 沿 ぞ いにあるダンモアの狩猟 しゅりょう 用 よう 小屋 こや であるポートベロに向 むか い、そこからヨーク川 かわ に停泊 ていはく していたHMSフォーイー に移 うつ った[10] 。
コービンは自宅 じたく に居 お らず、ダンモアと会見 かいけん するためにウィリアムズバーグに居 い た[9] 。ヘンリーはコービンの義理 ぎり の息子 むすこ で植民 しょくみん 地 ち 会議 かいぎ の愛国 あいこく 者 しゃ 議員 ぎいん であるカーター・ブラクストン から市内 しない に入 はい らないよう助言 じょげん され、その間 あいだ にブラクストンが馬 うま で町 まち に入 はい って代金 だいきん 支払 しはらい の交渉 こうしょう を行 おこな った[11] 。翌 よく 5月 がつ 4日 にち 、ヘンリーは火薬 かやく の代金 だいきん として裕福 ゆうふく なプランテーション所有 しょゆう 者 しゃ が署名 しょめい した330ポンドの為替 かわせ 手形 てがた を受 う け取 と った(彼 かれ は王室 おうしつ 勘定 かんじょう からの支払 しはらい の申 もう し出 で を拒否 きょひ した)[8] 。ヘンリーはその後 ご フィラデルフィア で開催 かいさい される第 だい 二 に 次 じ 大陸 たいりく 会議 かいぎ のバージニア代表 だいひょう として出席 しゅっせき するためにバージニアを離 はな れ、その金 かね を「大陸 たいりく 会議 かいぎ に出 で ているバージニア代議員 だいぎいん 団 だん 」に渡 わた すことを約束 やくそく した[12] 。5月6日 にち 、ダンモアはヘンリーが330ポンドを恐喝 きょうかつ で奪 うば ったとして告訴 こくそ することを発表 はっぴょう し、市民 しみん には如何 いか なる方法 ほうほう でもヘンリーを支援 しえん することを禁 きん じた[8] 。ヘンリーは幾 いく つかの郡 ぐん から保護 ほご の申 もう し出 で を受 う け、フィラデルフィアに向 むか うことができるよう、メリーランド植民 しょくみん 地 ち との国境 こっきょう まで数個 すうこ 民兵 みんぺい 中隊 ちゅうたい に護衛 ごえい されて行 い った[11] 。
ダンモア卿 きょう の肖像 しょうぞう 画 が 、ジョシュア・レノルズ 画 が 、1765年 ねん
この事件 じけん でヘンリーの評判 ひょうばん が上 あ がり、ダンモアの人気 にんき は低下 ていか した[11] [13] 。ダンモアの家族 かぞく は5月12日 にち に誠実 せいじつ の印 しるし としてウィリアムズバーグに短期間 たんきかん 戻 もど ったが、ダンモアと植民 しょくみん 地 ち 議会 ぎかい との関係 かんけい は悪化 あっか を続 つづ けた。6月8日 にち 、ダンモアとその家族 かぞく は真夜中 まよなか に総督 そうとく 官邸 かんてい から逃 に げ出 だ し、HMSフォーイー の艦上 かんじょう を住 すま いにした[14] 。この時 とき 植民 しょくみん 地 ち 議会 ぎかい はイギリスのノース卿 きょう 内閣 ないかく による植民 しょくみん 地 ち を分割 ぶんかつ しようという提案 ていあん である和解 わかい 決議 けつぎ 案 あん を審議 しんぎ していた。ダンモアの逃亡 とうぼう の後 のち では、議会 ぎかい もこの提案 ていあん を拒否 きょひ した[15] 。
ダンモアは活発 かっぱつ に植民 しょくみん 地 ち の支配 しはい を取 と り戻 もど そうとする試 こころ みを続 つづ けたが、12月のグレートブリッジの戦 たたか い でイギリス軍 ぐん が大敗 たいはい した後 のち は、襲撃 しゅうげき 作戦 さくせん も低調 ていちょう になり、1776年 ねん 8月 がつ には完全 かんぜん に植民 しょくみん 地 ち を放棄 ほうき した[16] 。バージニアの政府 せいふ は先 ま ず1775年 ねん 7月 がつ の第 だい 三 さん バージニア会議 かいぎ で選出 せんしゅつ された安全 あんぜん 委員 いいん 会 かい が跡 あと を継 つ いだ。1776年 ねん 7月 がつ にパトリック・ヘンリーが独立 どくりつ 国 こく バージニア邦 くに の初代 しょだい 知事 ちじ になった[17] 。
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^ Richmond, p. 6
^ a b Russell, p. 48
^ a b Selby and Higginbotham, p. 1
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座標 ざひょう : 北緯 ほくい 37度 ど 16分 ふん 15秒 びょう 西経 せいけい 76度 ど 42分 ふん 25秒 びょう / 北緯 ほくい 37.27083度 ど 西経 せいけい 76.70694度 ど / 37.27083; -76.70694