(Translated by https://www.hiragana.jp/)
火薬事件 - Wikipedia コンテンツにスキップ

火薬かやく事件じけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
火薬かやく事件じけん

火薬かやく除去じょきょさせられた火薬かやく
戦争せんそうアメリカ独立どくりつ戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1775ねん4がつ20日はつか
場所ばしょバージニア植民しょくみんウィリアムズバーグ
結果けっか:イギリスぐん水兵すいへい火薬かやく除去じょきょ
民兵みんぺい蜂起ほうき平和へいわてき解散かいさん
交戦こうせん勢力せいりょく
アメリカ独立どくりつ戦争せんそう

火薬かやく事件じけん(かやくじけん、えい: Gunpowder Incident)は、アメリカ独立どくりつ戦争せんそう最初さいしょバージニア植民しょくみん総督そうとくダンモアきょうジョン・マーレイと、愛国あいこくしゃひきいるパトリック・ヘンリー民兵みんぺいたいとのあいだ紛争ふんそうである。1775ねん4がつ20日はつか、このはアメリカ独立どくりつ戦争せんそう開戦かいせんげたレキシントン・コンコードのたたかの1にちだったが、まだバージニアにまでそのしらせはとどいていなかった。ダンモアきょうウィリアムズバーグ火薬かやくからイギリス海軍かいぐん艦船かんせん火薬かやくうつすようめいじた。

ダンモアのこのうごきは土地とち政情せいじょう不安ふあんをつけ、民兵みんぺいたい植民しょくみん地中ちちゅう集結しゅうけつはじめた。パトリック・ヘンリーが民兵みんぺいしょう部隊ぶたいひきいてウィリアムズバーグにかい、火薬かやくもどさせて植民しょくみん管轄かんかつこうとした。この事件じけんはヘンリーに330ポンドが支払しはらわれ、武力ぶりょく衝突しょうとつなしに解決かいけつされた。ダンモアは自分じぶん安全あんぜんおびやかされているとかんり、イギリス海軍かいぐん艦船かんせん逃亡とうぼうしたので、イギリスによるバージニア植民しょくみん支配しはいわった。

背景はいけい

[編集へんしゅう]

1774ねんイギリスの議会ぎかいによる「がた諸法しょほう」とばれる一連いちれん法律ほうりつ植民しょくみん執行しっこうされるようになったときイギリスりょうきたアメリカの植民しょくみんでは武装ぶそう衝突しょうとつ危険きけんせいたかまりはじめた。植民しょくみんがわは、ボストン茶会ちゃかい事件じけんのち法律ほうりつによる懲罰ちょうばつてき処置しょち対象たいしょうになっていたマサチューセッツわん植民しょくみん中心ちゅうしん結束けっそくし、1774ねん9がつにはだいいち大陸たいりく会議かいぎ組織そしきした[1]。この会議かいぎあいだ火薬かやく警鐘けいしょうばれることになる民兵みんぺい蜂起ほうき事件じけんしらせがとどいた。9月初旬しょじゅん、マサチューセッツの総督そうとくねていたイギリスぐんトマス・ゲイジ将軍しょうぐんチャールズタウン現在げんざいのサマービル)にあった火薬かやくから火薬かやく除去じょきょさせたことにたいして、暴力ぼうりょく事件じけんこったというあやまったうわさ反応はんのうしたニューイングランド全土ぜんど民兵みんぺいがその地域ちいき集結しゅうけつした[2][3]。この事件じけん結果けっかとしてこったことは、大陸たいりく会議かいぎかく植民しょくみん防衛ぼうえいのために民兵みんぺいたい組織そしきするようびかけたことだった[3]。またイギリスがわでは植民しょくみん担当たんとう大臣だいじんのダートマスきょう植民しょくみん総督そうとくたちにその軍需ぐんじゅ物資ぶっし確保かくほするよう助言じょげんし、火薬かやく保管ほかんりょうやすための輸入ゆにゅうきんじた[4]

1775ねん初期しょき、バージニアの人々ひとびと民兵みんぺいたい組織そしきはじめ、それを武装ぶそうさせ装備そうびさせるために軍需ぐんじゅ物資ぶっし武器ぶき銃弾じゅうだんおよび火薬かやく)をもとめてまわった。植民しょくみん総督そうとくのダンモアきょう自分じぶんおさめる植民しょくみんでの政情せいじょう不安ふあんて、民兵みんぺいたいから軍需ぐんじゅ物資ぶっしうばおうとかんがえた[4]。パトリック・ヘンリーが3月23にちだいバージニア会議かいぎで「わたし自由じゆうを、しからずんばを」という演説えんぜつおこなったときになって、ダンモアは「この場所ばしょにある火薬かやく火薬かやく除去じょきょしたほう賢明けんめいだ」とかんがえた[5]。イギリスぐん火薬かやく警鐘けいしょうのちでバージニアから部隊ぶたいげていたが、チェサピークわんのバージニアがわ水域すいいきにはイギリス海軍かいぐん艦船かんせんすうせきのこっていた。4月19にち、ダンモアはひそかにイギリス水兵すいへい1個いっこ中隊ちゅうたいをウィリアムズバーグにれてきて総督そうとく邸宅ていたく宿泊しゅくはくさせた。ダンモアはつづいてHMSマグダレン指揮しきかんであるヘンリー・コリンズ艦長かんちょうにウィリアムズバーグの火薬かやくから火薬かやく除去じょきょするようめいじた[6]

火薬かやく除去じょきょ

[編集へんしゅう]
八角はっかくがたをしたウィリアムズバーグ火薬かやくのスケッチ

4がつ20にちよる、イギリス海兵かいへいたいがウィリアムズバーグ火薬かやくって、15たるはん火薬かやく総督そうとく荷車にぐるまみ、ジェームズがわかぶHMSマグダレンむべくクォーターパス道路どうろ東端ひがしばたまではこんだ。このうごきがおこなわれているあいだまちみんつかり、民衆みんしゅう警鐘けいしょうらした。地元じもと民兵みんぺい現場げんばあつまり、うま使つかものたち植民しょくみん地中ちちゅうにその事件じけんまわった。ダンモアは予防よぼう処置しょちとしてその従僕じゅうぼくたちマスケットじゅう武装ぶそうさせており、あつまった群衆ぐんしゅう総督そうとく官邸かんていおそうのをさまたげたのは、バージニア植民しょくみん議会ぎかい議長ぎちょうであるペイトン・ランドルフはじ愛国あいこくてき指導しどうしゃたち冷静れいせいもとめるびかけだった[6]市政しせい委員いいんかい火薬かやく植民しょくみん財産ざいさんであり、イギリス国王こくおうのものではないと主張しゅちょうして、火薬かやく返還へんかん要求ようきゅうした。ダンモアは、うわさのある奴隷どれい蜂起ほうきのときに火薬かやく捕獲ほかくされることをふせぐために移動いどうさせたのであり、あともどすことになるとべて、要求ようきゅうこばんだ。このことで集結しゅうけつした群衆ぐんしゅう納得なっとくさせたようにおもわれ、群衆ぐんしゅう平和へいわてき解散かいさんした[7]

しかし、ウィリアムズバーグでの動揺どうようつづいており、それが田園でんえんにまでひろがった。ふたたあつまった群衆ぐんしゅう愛国あいこくてき指導しどうしゃ説得せっとく散開さんかいしたのち、ダンモアはいかりをおぼえ、4がつ22にちにはもし攻撃こうげきされたならば、「奴隷どれいたいして解放かいほう宣言せんげんし、ウィリアムズバーグ灰燼かいじんさせる」と警告けいこくした[6]。またウィリアムズバーグ議員ぎいんには、ダンモアが「かつてバージニアのみんのためいたたかった」が、「かみにかけて、かれらとたたかうこともできることをせてやる」ともげた。


4がつ29にちまでに田園でんえん動員どういんされた民兵みんぺいたいは、レキシントンとコンコードで戦闘せんとうおこなわれたことをった。フレデリックスバーグには700にんちかもの結集けっしゅうし、首都しゅとウィリアムズバーグにけて行軍こうぐんするまえ事態じたい評価ひょうかするための使者ししゃ派遣はけんすることにした。ペイトン・ランドルフは暴力ぼうりょく反対はんたいすることをつたえ、バージニア民兵みんぺいたい指揮しきかんながつとめたジョージ・ワシントン同意どういした。かれらの助言じょげん反応はんのうしてフレデリックスバーグの民兵みんぺいたい僅差きんさによる票決ひょうけつによって行軍こうぐんめた[8]。しかし、植民しょくみんほか地域ちいき民兵みんぺいたいはウィリアムズバーグにけて行軍こうぐんした。パトリック・ヘンリーが指揮しきするハノーバーぐん民兵みんぺいたいは5月2にち票決ひょうけつでウィリアムズバーグへの行軍こうぐんめた。ヘンリーは、バージニアの王室おうしつ税務局ぜいむきょく収税しゅうぜいかんであるリチャード・コービンのいえちいさな中隊ちゅうたい派遣はけんし、国庫こっこから火薬かやく代金だいきんはらわさせるように仕向しむけた。やく150めいになったハノーバーぐん民兵みんぺいたいのこりはウィリアムズバーグへ行軍こうぐんし、5月3にちにはからやく15マイル (24 km) の地点ちてん到着とうちゃくした[9]。この、ダンモアの家族かぞくはウィリアムズバーグを脱出だっしゅつして、ヨークかわ沿いにあるダンモアの狩猟しゅりょうよう小屋こやであるポートベロにむかい、そこからヨークかわ停泊ていはくしていたHMSフォーイーうつった[10]

コービンは自宅じたくらず、ダンモアと会見かいけんするためにウィリアムズバーグに[9]。ヘンリーはコービンの義理ぎり息子むすこ植民しょくみん会議かいぎ愛国あいこくしゃ議員ぎいんであるカーター・ブラクストンから市内しないはいらないよう助言じょげんされ、そのあいだにブラクストンがうままちはいって代金だいきん支払しはらい交渉こうしょうおこなった[11]よく5がつ4にち、ヘンリーは火薬かやく代金だいきんとして裕福ゆうふくなプランテーション所有しょゆうしゃ署名しょめいした330ポンドの為替かわせ手形てがたった(かれ王室おうしつ勘定かんじょうからの支払しはらいもう拒否きょひした)[8]。ヘンリーはそのフィラデルフィア開催かいさいされるだい大陸たいりく会議かいぎのバージニア代表だいひょうとして出席しゅっせきするためにバージニアをはなれ、そのかねを「大陸たいりく会議かいぎているバージニア代議員だいぎいんだん」にわたすことを約束やくそくした[12]。5月6にち、ダンモアはヘンリーが330ポンドを恐喝きょうかつうばったとして告訴こくそすることを発表はっぴょうし、市民しみんには如何いかなる方法ほうほうでもヘンリーを支援しえんすることをきんじた[8]。ヘンリーはいくつかのぐんから保護ほごもうけ、フィラデルフィアにむかうことができるよう、メリーランド植民しょくみんとの国境こっきょうまで数個すうこ民兵みんぺい中隊ちゅうたい護衛ごえいされてった[11]

事件じけんのち

[編集へんしゅう]
ダンモアきょう肖像しょうぞうジョシュア・レノルズ、1765ねん

この事件じけんでヘンリーの評判ひょうばんがり、ダンモアの人気にんき低下ていかした[11][13]。ダンモアの家族かぞくは5月12にち誠実せいじつしるしとしてウィリアムズバーグに短期間たんきかんもどったが、ダンモアと植民しょくみん議会ぎかいとの関係かんけい悪化あっかつづけた。6月8にち、ダンモアとその家族かぞく真夜中まよなか総督そうとく官邸かんていからし、HMSフォーイー艦上かんじょうすまいにした[14]。このとき植民しょくみん議会ぎかいはイギリスのノースきょう内閣ないかくによる植民しょくみん分割ぶんかつしようという提案ていあんである和解わかい決議けつぎあん審議しんぎしていた。ダンモアの逃亡とうぼうのちでは、議会ぎかいもこの提案ていあん拒否きょひした[15]

ダンモアは活発かっぱつ植民しょくみん支配しはいもどそうとするこころみをつづけたが、12月のグレートブリッジのたたかでイギリスぐん大敗たいはいしたのちは、襲撃しゅうげき作戦さくせん低調ていちょうになり、1776ねん8がつには完全かんぜん植民しょくみん放棄ほうきした[16]。バージニアの政府せいふず1775ねん7がつだいさんバージニア会議かいぎ選出せんしゅつされた安全あんぜん委員いいんかいあといだ。1776ねん7がつにパトリック・ヘンリーが独立どくりつこくバージニアくに初代しょだい知事ちじになった[17]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ Russell, pp. 45–46
  2. ^ Richmond, p. 6
  3. ^ a b Russell, p. 48
  4. ^ a b Selby and Higginbotham, p. 1
  5. ^ Williamson, p. 54
  6. ^ a b c Russell, p. 52
  7. ^ Selby and Higginbotham, p. 2
  8. ^ a b c Russell, p. 53
  9. ^ a b Selby and Higginbotham, p. 4
  10. ^ Kibler, J. Luther (April 1931). “Numerous Errors in Wilstach's 'Tidewater Virginia' Challenge Criticism”. The William and Mary Quarterly, 2nd Ser. (Omohundro Institute of Early American History and Culture) 11 (2): 152–156. doi:10.2307/1921010. http://jstor.org/stable/1921010. 
  11. ^ a b c Selby and Higginbotham, p. 5
  12. ^ Vaughan, p. 88
  13. ^ Vaughan, p. 89
  14. ^ Selby and Higginbotham, pp. 41–43
  15. ^ Selby and Higginbotham, p. 44
  16. ^ Russell, pp. 68–76
  17. ^ Selby and Higginbotham, pp. 52,121

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • Richmond, Robert P (1971). Powder Alarm 1774. Princeton, NJ: Auerbach. ISBN 9780877690733. OCLC 162197 
  • Russell, David Lee (2000). The American Revolution in the Southern colonies. Jefferson, NC: McFarland. ISBN 9780786407835. OCLC 248087936. https://books.google.co.jp/books?id=5DFy0eWaPxIC&pg=PA72&lpg=PA72&redir_esc=y&hl=ja 
  • Selby, John E; Higginbotham, Don (2007). The Revolution in Virginia, 1775–1783. Williamsburg, VA: Colonial Williamsburg. ISBN 9780879352332. OCLC 124076712. https://books.google.co.jp/books?id=WfCBYZs_jIMC&pg=PA62&redir_esc=y&hl=ja 
  • Vaughan, David (1997). Give Me Liberty: the Uncompromising Statesmanship of Patrick Henry. Nashville, TN: Cumberland House Publishing. ISBN 9781888952223. OCLC 36372369 

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]

座標ざひょう: 北緯ほくい3716ふん15びょう 西経せいけい7642ふん25びょう / 北緯ほくい37.27083 西経せいけい76.70694 / 37.27083; -76.70694