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西欧せいおう服飾ふくしょく (16世紀せいき)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

16世紀せいき西欧せいおう服飾ふくしょく(せいおうのふくしょく)では、16世紀せいきフランス中心ちゅうしんとする西にしヨーロッパ地域ちいき服装ふくそうあつかう。

特徴とくちょう

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16世紀せいきはヨーロッパにおける近世きんせいはじまりにたる時代じだいである。16世紀せいきはいって、それまでの領主りょうしゅたいする領民りょうみんから国家こっかたいする国民こくみんというように、国家こっかたいする帰属きぞく意識いしき徐々じょじょ認識にんしきされていく。このころのファッションにかんして「ドイツふう」「イタリアふう」「フランスふう」「スペインふう」「トルコふう」というように、国名こくめいかんしたスタイルが貴族きぞく日記にっき小説しょうせつにひんぱんにられるようになっている。

外交がいこうかんバルダッサーレ・カスティリオーネは、各国かっこくのファッションが宮廷きゅうていみだれるなかで、貴顕きけんひとにふさわしい服装ふくそうとして、「フランスふう」は仰々ぎょうぎょうしく「ドイツふう」は簡素かんそすぎるからいずれにしてもイタリアじんによって手直てなおしされたものがよいとべている。さらに色彩しきさいかんしては、普段ふだん使づかいのファッションとしてはいた暗色あんしょくがよいとして、「スペインふう」の色彩しきさいすすめている。ここから、フランスでは華美かびドイツでは簡素かんそスペインではいた印象いんしょうイタリアでは当時とうじもっとも洗練せんれんされた服装ふくそうけられていたことがかる。

一方いっぽうアウクスブルクのファイト・コンラート・シュバルツは「われわれドイツじん服装ふくそうかんしてさるとえらぶところはなかった。」とドイツ国内こくない外国がいこくふう服装ふくそうがもてはやされた様子ようすえがいている。ドイツふうのいでたちについては、ヘンリー8せい仮面かめん舞踏ぶとうかいけた「ドイツふう仮装かそう」がながいズボンであったと記録きろくされており、イタリアからドイツに帰還きかんする役人やくにん日記にっきにプールポアンを「ドイツふう」にみじか仕立したてなおしたとあることから、みじかいプールポアンとながいズボンが特徴とくちょうおもわれる。1547ねんにパウルス・ベハイムはイタリアへのたび支度じたくにプラス・フォワーズ(ニッカーボッカーのようなもの)をたせようとする母親ははおやたいして、イタリアでそんな恰好かっこうをすると安物やすもののようにられるからやめてほしいとたのんでおり、ドイツの服装ふくそうはイタリアじんからすると野暮やぼったくえたらしい。

スペインモードがヨーロッパを席巻せっけんしてから、フランスはスペインモードをさらに極端きょくたんにして、椅子いすすわれないようなズボンやさらのような襟飾えりかざりをけた。イタリアはスペインふう衣装いしょう大胆だいたんにデコルテに仕立したてるなど自分じぶんたちの流儀りゅうぎ完全かんぜんにはゆずらなかった。

16世紀せいきなかば、スペインがアメリカ大陸あめりかたいりく版図はんとひろ太陽たいようしずまぬ帝国ていこくばれる巨大きょだい領土りょうど領有りょうゆうすることになる。新大陸しんたいりくぎんにより、スペインはヨーロッパの経済けいざい支配しはいする。当時とうじ西にしヨーロッパでもスペインの服装ふくそうさかんにまねたのだが、おおくの場合ばあい、スペインふう衣装いしょう使つかわれる豪華ごうか生地きじ装飾そうしょくひんはイタリアで生産せいさんされていた。ジェノバのエマニュエル・リッチオというだい商人しょうにん1538ねんに2347まい高価こうか生地きじをフランスおう持参じさんして無税むぜい特権とっけんあたえられた。ビロードサテン、ダマスク経糸たていと緯糸よこいといろえて繻子しゅす綾織あやおりちゅう東風こち模様もようりだした高級こうきゅう絹地きぬじ。このころにはさらに金糸きんしなどをよくりこむようになっている。緞子どんす)、タフタ、カムロ(カシミヤした絹織物きぬおりもの)などはイタリアがほとんどの生産せいさんになっていた。そのため、スペインファッションの流行りゅうこう直接ちょくせつにはスペインにとみをもたらさなかった。

一方いっぽう、フランスではファッション産業さんぎょうがもたらすとみ注目ちゅうもくされていた。フランソワ1せい敵国てきこくイタリアをすることをふせ目的もくてき贅沢ぜいたくもの着用ちゃくようすることを規制きせいする一方いっぽうで、イタリアからまねいた職人しょくにんリヨン工場こうじょうでの技術ぎじゅつ指導しどうにあたらせた。イタリアしょ都市としもフランスからのきや産業さんぎょうスパイを警戒けいかいして、職人しょくにん移動いどう制限せいげんするなどの対策たいさくをとった。

このころ、トリコット(メリヤス)の靴下くつしただい流行りゅうこうして高値たかね取引とりひきされた。こうしたもの靴下くつした非常ひじょう高価こうか王侯おうこうへのおくものなどにされており、普通ふつうサージエスタメといったうす毛織物けおりもの仕立したてられた。16世紀せいきすえに、ウィリアム・リーというイギリスの牧師ぼくしがストッキング発明はつめい故郷こきょう迫害はくがいされルーアン亡命ぼうめいしたためリーとその子供こどもおとうと研究けんきゅうした研究けんきゅう成果せいかはフランスのものとなった。また、クレーヴス(スラッシュ)というみをれて衣服いふくかざ技法ぎほう流行りゅうこうし、りあげた状態じょうたいみがはいっている特殊とくしゅ織物おりもの流通りゅうつうしていた。あたらしい職人しょくにんとして、かざえりづく職人しょくにんやスカートをふくらませるヴェルチュガダンというわく職人しょくにん、コルセット職人しょくにん登場とうじょうした。かざえり職人しょくにん大半たいはん女性じょせいで、針金はりがねわくいたのようにかたくリンネル生地きじり、規則正きそくただしくひだってうつくしくえりつくることができる職人しょくにん貴重きちょうだった。エリザベス1せい自分じぶんかざえりつくらせるためにわざわざベルギーからうで女性じょせいまねいている。彼女かのじょたちがべいのり使つかって生地きじりをたせる技法ぎほう発見はっけんし、洗濯せんたくのり普及ふきゅうするようになった。ヴェルチュガダン職人しょくにんとコルセット職人しょくにん力仕事ちからしごとであったため、この作業さぎょう従事じゅうじするのはみな男性だんせいであった。ヴェルチュガダンはおもくてあつかいにくかったため、フランスではオース・キュという輪状りんじょうのパット、イギリスではフィール・ファージンゲールという軽量けいりょうしたわくがそれぞれ登場とうじょうする。

男性だんせい服装ふくそう

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ぜん世紀せいきつづいてプールポアン市民しみん以上いじょう階級かいきゅうひろけられた。これはぜん世紀せいきむねからはらふくらませるスタイルからより下腹かふくおおきくすようにあさくずなどでものがされており、こしについたれはなが分割ぶんかつされるようになっている。スペインの影響えいきょうで、えり部分ぶぶんたかまったものとなっていき、そこからのぞシュミーズえり独立どくりつしたカフスとなりフレーズ(ラフ)というかざえり着用ちゃくようされた。16世紀せいき後半こうはん時期じきくだるにつれてれはちいさくなってとうとう消滅しょうめつし、わりにぜん中央ちゅうおうしたとがるようになっている。そで肩口かたぐちおおきくふくらませたり、だんける、腸詰ちょうづめのようにいくつもふくらみをけるなど、豪華ごうか装飾そうしょくしたためプールポアンのかた直接ちょくせついつけることは不可能ふかのうだった。そのため、ひもでプールポアンとむすぶかホックでめるなどの方法ほうほうそでけたが、これをおおうためにエポーレットというかたおおいが考案こうあんされた。

16世紀せいきはじめは下半身かはんしんにはショースのみが着用ちゃくようされることがおおかった。16世紀せいきなかごろから、ショースのうえ半分はんぶんオー・ド・ショースというはんズボンとなり、した半分はんぶんがバ・ド・ショースというひざ程度ていどながさのある靴下くつしたになった。オー・ド・ショースはひざたけ程度ていどはんズボンで、おおくはものれてふくらませていた。内側うちがわからバ・ド・ショースをいつけ、プールポアンにホックやエギュイエットというリボンでるして着用ちゃくようした。

庶民しょみん

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庶民しょみん服装ふくそうかんする資料しりょうは、ドイツの版画はんがくわしい。

16世紀せいき初頭しょとうから末期まっきにわたって農民のうみん服装ふくそうにはおおきな差異さいはなく、ぜん世紀せいきともさしたるちがいはない。シュミーズに、コットやゴネルという単純たんじゅんひざたけ程度ていどチュニックに、ブラカエばれるゆったりしたちょうズボン、ショース、かわ短靴たんぐつかゆるやかな長靴ながぐつといった服装ふくそう中世ちゅうせいころとほぼわりのないちであった。ものをしないシンプルなプールポアンのるいであるジャクというみじか上着うわぎ農民のうみん姿すがたられる。髪型かみがた無造作むぞうさ短髪たんぱつで、日差ひざしよけのむぎわら帽子ぼうしなどがかぶられた。

市民しみんはシュミーズのうえにプールポアンとショースをけていた。16世紀せいきなかばごろから流行りゅうこうのオー・ド・ショースとバ・ド・ショースがけられている。おな職人しょくにんでもくつ染物そめものこうなど比較的ひかくてき重労働じゅうろうどうであったりからだよごれやすい職種しょくしゅでは、もののないすっきりとしたオー・ド・ショースに、シュミーズ姿すがた毛皮けがわ職人しょくにん羅紗らしゃなどの職種しょくしゅでは、かたふくらませるなど装飾そうしょくてきなプールポアンに生地きじをたっぷりとったオー・ド・ショース姿すがた全身ぜんしんにスリットかざりをいれた洒落しゃれ格好かっこうおおかったようだ。このようなはなやかな格好かっこう宣伝せんでんというめんもあっただろうが、おな工房こうぼうにはやはり質素しっそ服装ふくそう職人しょくにんもいて、美々びびしい服装ふくそう親方おやかたなどにかぎられていた。髪型かみがたはスペインふうみじかむものが人気にんきであったようだ。比較的ひかくてき余裕よゆうのある市民しみん青年せいねんなどは、1550ねんごろから流行りゅうこうしたまっすぐにげたかみをおかっぱあたまりそろえる髪型かみがたをしている。

ニュルンベルク詩人しじんハンス・ザックス同郷どうきょう画家がかヨースト・アマン様々さまざま職業しょくぎょうひとえがいた版画はんがせたはちぎょうに、当時とうじ職人しょくにん仕事しごとがうたわれている。いんむために言葉ことばえらんではあるものの、当時とうじ市民しみんにする服地ふくじについての貴重きちょう証言しょうげんかんがえられる。染物そめものかんしては、くろみどりねずみあおシュヴァーベン生地きじげるとあり、カスティリオーネのいうスペインふういた暗色あんしょくとはこのようないろであったのだろうか。羅紗らしゃでは、くろみどりあかあお布地ぬのじがあるとあり、やはりくろ人気にんきであったとおもわれる。あか当時とうじ大変たいへん人気にんきがあり、コジモ・デ・メディチは「あかぬのが2エレもあればひとうつくしくなれる」という言葉ことばのこしている。ランゲルザンツァでの農民のうみん反乱はんらんでは、農民のうみんたちからあか上着うわぎることができるよう許可きょかすよう要求ようきゅうがされた。当時とうじあざやかなあかせる染料せんりょう数少かずすくなく、おそらくここでのあかみなみヨーロッパの特産とくさんひんであるケルメスというむしめたものとおもわれる。これは西にしヨーロッパでは高価こうか輸入ゆにゅうひんであったため、ドイツの染物そめものではあつかわれず農民のうみんには着用ちゃくよう禁止きんしされていたのだろう。毛皮けがわ職人しょくにんかんしては、しろテンくろテン、リスヤマネコイタチおおかみキツネ山羊やぎ毛皮けがわあつかっているとある。上着うわぎ帽子ぼうし仕立したてるほかひもあつかうともあり、これはオー・ド・ショースをわえるエギュイエットではないかとおもわれる。ふくろかわぬのふくろ財布さいふほか手袋てぶくろあつかい、くつ火薬かやくなどをれるかわぶくろ革靴かわぐつあつかうが、フェルトくつ帽子ぼうし職掌しょくしょうであった。宝石ほうせき細工ざいくガーネットルビー(おそらくスピネルなどもふくむ)、ダイヤエメラルドサファイア、カルチドンせき真珠しんじゅをあつかったといい、これは王侯おうこうのための商品しょうひんおもわれる。

上流じょうりゅう市民しみん

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刺繍ししゅうほどこしたシュミーズにプールポアンとオー・ド・ショースとバ・ド・ショース、そして雌牛めうしくちびるとあだされた水掻みずかきのようにさきひらたくひろがった革靴かわぐつかざりのついた短靴たんぐつやスリップオンしきあさくついた。雌牛めうしくちびるがたは16世紀せいき後半こうはんにはすたれ、かもはしがたというさきまるみをびているタイプが人気にんきはくし、徐々じょじょ先端せんたんとがったオックスフォードがたちかいタイプが人気にんきてくる。上着うわぎとしてスペインふうのカペとばれるまる生地きじことわったマントが人気にんきがあった。これはこしとどかないほどみじかいもので、日本にっぽんにも宣教師せんきょうしからのおくものとして織田おだ信長のぶなが小早川こばやかわ秀秋ひであきけていた同型どうけい遺品いひんのこっている。

裁判官さいばんかん弁護士べんごし医師いし学者がくしゃなどの裕福ゆうふく知識ちしきじん一群いちぐん上着うわぎとして毛皮けがわもしくはぬのおおきなえりがついたそでみじかいかまったくないガウンていた。このガウンはフランスではセー、ドイツではシャウベとばれていた。ルター肖像しょうぞうえがかれたそでのないゆったりとしだれた上着うわぎがそれである。この上着うわぎおおくが高級こうきゅう毛織物けおりものかビロードで仕立したてられており、毛皮けがわうらけられるなど高価こうかなものであった。うしいちとう4グルデンの時代じだいに、アントン・トゥーハーというひと購入こうにゅうしたテンの毛皮けがわいた中古ちゅうこくろいシャウベは35グルデンした。医師いしのギルク・レームはあにからテンの毛皮けがわいたシャウベをプレゼントされたが、これは75グルデンもした。

ただし、人々ひとびと尊敬そんけいされるような職業しょくぎょうひとでも財力ざいりょくゆるかぎりなんでもけられるというわけでもなかった。1557ねんにアンドリュー・ブロード博士はかせとペーター・グリュツェがくかんが、それぞれ緋色ひいろあやという華美かびすぎるナイトキャップをけたつみ処刑しょけいされた。

スペインの暗色あんしょくこのみとはべつに、オランダやドイツでは宗教しゅうきょう改革かいかくによるまじめで質素しっそ服装ふくそうすすめから、くろ衣服いふく人気にんきがあった。フランスでは派手はで衣服いふくこのみであったアンリ3せい宮廷きゅうていから、しろんだあおんだみどりなどあかるいいろ流行りゅうこうした。イギリスでも褐色かっしょくがかったあかくらりょくあおなどはっきりとした色合いろあいが人気にんきがあった。

多色たしょくつかいのミ・パルティは16世紀せいきはじめはよくられたが、徐々じょじょ田舎いなか小役人こやくにん衣装いしょうとなった。わりにサラセンふう模様もようなどをれたしなのいいじま模様もよう市松いちまつ模様もよう流行りゅうこうしている。

上流じょうりゅう階級かいきゅう

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刺繍ししゅうほどこしたシュミーズにプールポアンとオー・ド・ショースとバ・ド・ショース、そして雌牛めうしくちびるとあだされた水掻みずかきのようにさきひらたくひろがった革靴かわぐつかざりのついた短靴たんぐつやスリップオンしきあさくついた。

上着うわぎとしてセーかシャマールをたのだが、セーがシャウベによくたものとしてシャマールはどのような衣服いふくなのかは不明ふめいである。シャマールにかざてるという意味いみがあり、ふんだんに装飾そうしょくをしたガウンの一種いっしゅではないかとおもわれる。帽子ぼうしとしてはビレッタというおおきなベレーぼうのような帽子ぼうし片方かたがたみみかくすようにかぶることがおおかった。

バ・ド・ショースのさい高級こうきゅうひんにはスペインさんきぬんだものがあり、非常ひじょう高価こうかなものでめったにはいらなかった。フランソワ1せいとの会談かいだんさいには二人ふたりとのおうとそのきの豪華ごうか衣装いしょうならんで金糸きんし野原のはらのようであるといわれたヘンリー8せいでさえ、きぬのバ・ド・ショースをれるとおどがるばかりによろこんだといわれている。むすめでやはり非常ひじょうるものに使つかったエリザベス1せいもモンタギュー夫人ふじんからくろきぬのストッキングをおくられて大変たいへんよろこび、以来いらい手放てばなさなかったと記録きろくされている。イギリスの資料しりょうでは、きぬ靴下くつしたいちぞろいで4ポンドから8ポンドしたといわれる。16世紀せいきまつ、5にん家族かぞくに8にん従業じゅうぎょういんかかえるパンの1週間しゅうかん生活せいかつ経費けいひすべてをふくめても6ポンドと10シリングという時代じだいに、破格はかくのぜいたくひんであった。

ドイツの記録きろくでは、王侯おうこう使つかうような綾織あやおりぶつ緞子どんす安価あんか部類ぶるいでも1エレあたり10グルデンから18グルデンが相場そうばであった。このころの一般いっぱんてき市民しみん月収げっしゅうは2グルデンである。だい貴族きぞくおうはそうしたただでさえ豪華ごうか高価こうか生地きじめつくさんばかりに刺繍ししゅうさせたり、こまかいみをれるなどして装飾そうしょくさせた。

ハンス・ホルバインのヘンリー8せい肖像しょうぞうには、宝石ほうせきのボタンがついた赤褐色せきかっしょくのビロードらしいプールポアンにこまかい金糸きんし刺繍ししゅうほどこし、しろ下着したぎ裏地うらじあなから斑点はんてんのようにしている姿すがたえがかれている。これほどこまかいみをハサミでれてかがる作業さぎょう不可能ふかのうちかいとおもわれるので、かれ上着うわぎのスリットはいた鉄棒てつぼうなどで生地きじあなけたもののようにえる。ヘンリー8せい肖像しょうぞう全体ぜんたいてき四角形しかっけいちかいシルエットで、ぜん世紀せいきおとこらしい体系たいけい誇張こちょうするファッションの系譜けいふいでいる。いっぽう、ジャン・クールエのアンリ2せいシャルル9せい親子おやこ肖像しょうぞうはどちらも金糸きんし刺繍ししゅうくろいプールポアンにしろかねまるふくらんだオー・ド・ショース、りこみかざりのはいったしろくつとバ・ド・ショース、くろいカペ、しろいダチョウのはねかざったくろいボネというスペインふうそのものの服装ふくそうである。一見いっけんよくているが、わかいシャルル9せい服装ふくそうのほうには十字架じゅうじかのペンダントやひだたたんだ肌着はだぎえり袖口そでぐちえがかれておりスペインの最新さいしん流行りゅうこうれていることがかる。 こちらのシルエットは砂時計すなどけいがたで、かね刺繍ししゅうによる華美かびさはあるものの全体ぜんたい印象いんしょう禁欲きんよくてきかたい。

王侯おうこう華麗かれいさの追求ついきゅうはストッキングや上着うわぎそでにとどまらず、肌着はだぎにもおよんだ。16世紀せいき前半ぜんはんプールポアンのネックラインはひく場合ばあいおおく、ぎゃくまった下着したぎえりにはこまかいいろいと刺繍ししゅう金銀きんぎんいと刺繍ししゅうほどこされ、ときにはスパングル(金属きんぞくへん)がかざられた。このような華麗かれい装飾そうしょく女性じょせいによるもので、むすめいもうとおおくの場合ばあい花嫁はなよめからのおくりものであった。マクシミリアン1せい皇女おうじょマルガレーテみずか刺繍ししゅうほどこした肌着はだぎちちおくよろこばれている。こうしたまったえりにはフリルがかざられたが、次第しだいえりのみが独立どくりつしてフレーズ(ラフ)というかざりになった。女性じょせいのものはまえひらいてうしろに扇状せんじょうがったものおおく(エリザベス女王じょおう肖像しょうぞうやディズニー映画えいが白雪姫しらゆきひめえりのタイプ)、男性だんせいは(女性じょせい使つかったが)円盤えんばんがたのタイプがおおかった(南蛮なんばん装束しょうぞくられるタイプ)。

ズボンのるい様々さまざまで、貴族きぞく階級かいきゅうのものはあらゆる種類しゅるいのズボンを複数ふくすうたくわえていなければならなかった。スペインにならってフランスやイギリスで人気にんきのあったトルースはものをしておおきくふくらませたタマネギがたで、イギリスでは世紀せいきまつにはカボチャのようなかたちにまでふくらんだため、着席ちゃくせきようのズボンをべつ用意よういする習慣しゅうかんまであった。イングランド議会ぎかい議場ぎじょうにはかべちいさないたしてあり、そこにトルースをせて着替きがえたという。フランスで女性じょせいにもスカートのしたられたカニオンは、左右さゆうつながったひざじょうたけもののないつぎ世紀せいきのキュロットにつながるようなズボンだった。イタリアに由来ゆらいするヴェネシャンは、膝下ひざもとでリボンめするゆるやかなもので貴族きぞく必需ひつじゅひんであった。グレーグはやはり膝下ひざもとたけのほっそりしたもので、わきせんほそいとりをいれた。ドイツではトランクホーズといって、帯状おびじょうぬの上部じょうぶ下部かぶのみをつなげたものが人気にんきであった。たいてい、れて裏地うらじきだして装飾そうしょくにしていたが、裏地うらじのほうが表地おもてじより高価こうかぬの面積めんせきおおきいことがよくあった。

女性じょせい服装ふくそう

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16世紀せいきにはいると、極端きょくたんたかかったウエストラインは自然しぜん位置いちもどる。スカートはゆかたけになり、まるみをびてひろひだをたっぷりとるようになった。男性だんせい同様どうよう肌着はだぎえりたかまって、刺繍ししゅうほどこすようになる。

えりまったシュミーズのうえあししんれたキャンバス蝶番ちょうつがいしきてつのコルセットをけた。そのうえにジュップ(ペチコート)をかさね、ネックラインのひくいガウンをうえかさねた。

16世紀せいき後半こうはんにはフランスしきガウンというドレスが流行りゅうこうする。した準備じゅんびとして丸襟まるえりのシュミーズをけ、ショースをき、コール・ピケとばれる鯨骨げいこつれた刺子さしこ仕立したてのコルセットをめあげた。ほそこしがもてはやされ、当時とうじ貴婦人きふじんであるカトリーヌ・ド・メディシスは40センチ、メアリ・スチュアートは37センチという細腰さいようだった。さらにオース・キュというたパッドを前下まえさがりにける(イギリスではファージンゲールもくわえる)。そしてジュップ(ペチコート)を1まいないし2まい、ブラウスをそでのないネックラインのひくいガウンをた。ガウンにはべつそでけるのだが、袖付そでつけにはエポーレットをかぶせてフレーズをくびいた。

庶民しょみん

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中世ちゅうせい以来いらいコットにアンダースカートをわせるものや、ジャケットの原型げんけいにあたるジャクというこしたけみじか上着うわぎにスカートとエプロンをわせるもの、ボディスのようなものをけた農村のうそん女性じょせい姿すがた版画はんがなどにのこる。男性だんせいくらべて服装ふくそう比較的ひかくてき近代きんだいてきえるが、貴婦人きふじんたちのおおきくひろがってゆかすれすれのスカートとちがってたけ足首あしくびよりうえみじかい。彼女かのじょたちはあたまをすっぽりとおお頭巾ずきんやスカーフでかみおおっている。

市民しみん女性じょせいえりえり部分ぶぶんこまかい刺繍ししゅうをしたシュミーズにガウンをかさねた。16世紀せいき初期しょきはほっそりとした長袖ながそでのワンピースしき衣装いしょうにエプロンと頭巾ずきんという服装ふくそうがよくられる。なかにはボディスをけているれいや、コラーというかたおおってむねまでれるおおきな襟飾えりかざりをつけた姿すがたられる。

上流じょうりゅう市民しみん

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上流じょうりゅう市民しみん女性じょせい衣服いふく貴婦人きふじんのものにほぼじゅんじる。スカートがふくらんだローブをて、夏場なつばはマルロット、ベルヌというやや簡素かんそものた(ローブとおおきなちがいはない)。タブリエというエプロンのようなものが流行りゅうこうし、スカートのまえにくくりつけてげた。これはけがれよけの前掛まえかけではあったが、刺繍ししゅうほどこしたりダマスク仕立したてられるなどしており、装飾そうしょくてき意味合いみあいがつよかった。

16世紀せいきなかばスペインからはフレーズとえり、コルセットとヴェルチュガダンというスカートをひろげるわくまれた。ローブはそでべつ仕立したてで、共布ともぎれだけでなくローブといろちがいであったり素材そざいちがいのそでからいつけてをエポーレットでおおった。16世紀せいきまつにはこし上下じょうげ部分ぶぶんがボディスとスカートとして独立どくりつし、胸元むなもとひらいていった。フランスの外交がいこうかんド・メッスはエリザベス1せいがへそのあたりまでひらいたドレスをっているとのこしている。胸元むなもとひらいたことでえるようになったコルセットをかくすためにピエース・デストマという装飾そうしょくほどこした三角形さんかっけい胸当むねあてをローブの内側うちがわからホックでけるようになった。一番いちばんじょうのスカートはボディスのすそ部分ぶぶん沿ってホックなどでけた。

コルセットははじめ王侯おうこう婦人ふじん鉄製てつせいよろいのようなものをちこんだ。これは蝶番ちょうつがい着用ちゃくようするぎゃく三角形さんかっけいちかかたちをしており、かしりがほどこされていた。よりひろ使つかわれたのはキャンバスのようなあつ麻布まふなんまいかさねてうらからステッチをほどこし、あしくきとおしてしんにしたもので、キルティングしたものという意味いみでコール・ピケとばれた。鯨骨げいこつあぶりながらげてかたにしたものをれるのはより高級こうきゅうなもので、ひもめあげて着用ちゃくようした。

ベルチュガダンはスカートを釣鐘つりがねがたひろげるための特殊とくしゅなペチコートといった様子ようすのもので、とうせいちいさいものからおおきいもののじゅん丈夫じょうぶ木綿もめん毛織けおりぬのんで着用ちゃくようした。フランスではオース・キュというのようなかたちのパッド、イギリスではフィール・ファージンゲールというえだ使つかったドラム缶どらむかんがたのベルチュガダンをこしいて、こしからゆか平行へいこうにスカートがよこひろがるスタイルが流行りゅうこうした。ペチコートのしたにはカルソンというズボンのようなものをいた。会計かいけいろく財産ざいさん名簿めいぼには散見さんけんされるもののあまりひょうだって名前なまえることはすくないが、カトリーヌ・メディシスはくろいタフタで仕立したてたカルソンを所有しょゆうしていたと記録きろくされている。イタリアせいのリネンでできたカルソンが当時とうじ貴婦人きふじん遺品いひんとしてのこされているが、これはドロワーズ原型げんけいとされている。

1548ねんにイタリアの修道しゅうどうあらわした『女性じょせいかんする対話たいわ』というほんなかで、ルネッサンスてき理想りそう美女びじょについてくわしい著述ちょじゅつがある。だいいちに、色白いろじろであること。だいゆたかに波打なみう金髪きんぱつであることがげられている。ここでは「黄金おうごんいろみついろ太陽たいよういろ」がいといわれているので、あかるいはっきりしたいろブロンドがもてはやされたようだ。がくひろたかく、まゆゆるやかにうえ湾曲わんきょくしてまゆしりちたかたちまるくておおきい栗色くりいろほそ鼻梁びりょうはなあたまはやや上向うわむきがよく、ちいさなくちながくほっそりとしたくび、ややゆたかなあごが美人びじんあかしだった。

化粧けしょうひんとしてなまりしろのお白粉おしろいがあったが、風刺ふうしには「ヴェニス白亜はくあ」などではだ様子ようすがうたわれているため、経済けいざい状況じょうきょう部位ぶいによって使つかけていたのかもしれない。頬紅ほおべにこのまれた様子ようすはエリザベスあさ小説しょうせつ不平ふへい』に「静脈じょうみゃくえがき、きとせ、かみめ、はだをすべすべにし、ほおあかめ、むねをふくらませ、しろにする達人たつじん」が登場とうじょうすることからもわかる。

エリザベスあさでは、かみはフィレンツォーラの黄金おうごんいろみついろ太陽たいよういろというより「えるかみ」と表現ひょうげんされるようなあかっぽいいろ人気にんきがあった。これは、エリザベス1せいがかなりあかっぽいいろ金髪きんぱつで、そのかみほこりにしていた影響えいきょうもある。スコットランド外交がいこうかんは、エリザベス女王じょおう毎日まいにち豪華ごうか衣装いしょう着替きがえては、スコットランドのメアリー女王じょおう自分じぶんのどちらがうつくしいかとめ、自分じぶんかみ賛美さんびさせたと自国じこくおくっている。

最初さいしょは、ボネ・シャプロンやボネ・ド・ヴーヴというかたいカチューシャでかみおさえる頭巾ずきんかぶられた。これは中世ちゅうせいのものよりは小型こがたになっており、やがてかみあらわれた。かみあらわすのが普通ふつうになると、男性だんせい同様どうよう羽毛うもう宝石ほうせきかざったビレッタやトークぼうちいさなつつがた帽子ぼうし)をこのんでこうむるようになった。こうしたかぶものも、イタリアふうやフランスふうやドイツふうちがいがあり、ラブレーはフランス女性じょせいぶしごとにかぶもの使つかけたといている。

くつ男性だんせいのものとほとんどわらず、雌牛めうしくちびるがたからオックスフォードがたゆるやかに変化へんかしていった。

上流じょうりゅう階級かいきゅう

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フランソワ1せい女性じょせい豪華ごうか布地ぬのじをプレゼントする趣味しゅみがあり、めいのマルグリットに金糸きんしりこんだ緞子どんすおくぎんはなかざったローブを仕立したてさせた。そのため11さい姫君ひめぎみうごくこともままならなかったというが、彼女かのじょのような高貴こうき女性じょせい豪華ごうか布地ぬのじにさらに貴金属ききんぞく宝石ほうせきおおくは真珠しんじゅ)をかざるのが当然とうぜんとされていた。オーストリア大公たいこうカタリーナは28ちゃく真珠しんじゅかざったローブをっていたことが財産ざいさん目録もくろくからわかる。エリザベス女王じょおう真珠しんじゅ銀糸ぎんしで「女王じょおうらしく」装飾そうしょくしたくろビロードの喪服もふく所有しょゆうしていた。

参考さんこう文献ぶんけん

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